秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神の選び」 エレミヤ書1章4~10節 

2024-01-21

 エレミヤは「祭司ヒルキヤの子」と言います。 預言者の務めの難しさを身に染みて知っていただろうし、属国として生きて行かなければならない弱小国ゆえの悲観的な現実も味わったでしょう。 そのエレミヤに、「わたしはあなたを、諸国民の預言者として立てた」という主の言葉が不意に臨んだと言います。 この主の言葉にエレミヤはしり込みをし、「わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎません。」と即座に返答するのです。 自分には、命じられた務めを果たすのに、弱さや欠けを正直に申し出たのです。 エレミヤの心からの拒絶であったのです。 このエレミヤの抵抗に主は、「あなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、あなたを聖別した。」と呼びかけるのです。 エレミヤがどのような性格であるとか、これまで何をしてきたのかとか、今どのような思いで過ごしているのかに一切関係なく、主御自身のみ心を果たす為に用いられる器として定められていたという宣告です。 不意に、直接介入された神の宣言でした。 聖書はこれを「エレミヤの召命」と言います。 エレミヤは自分自身についてのことよりも、むしろ、異教の神々に偶像礼拝をしている民、神の呼びかけに聞こうともしない民を決して神は見捨ててはおられない。 その為には、だれかが預言者となって一国の王や指導者たちに意見を述べ伝える務めを果たさなければならないのではないかと気づかされたのではないでしょうか。 それほど大切な働きを果たしうる存在など、この世にはいない。 神ご自身が準備され、それにふさわしくない存在をもつくり変えて遣わす。 これから起こる出来事は神の働きによるもので、神が選び用いられる者こそがそれにふさわしい者になると悟ったのではないかと思わされるのです。 「神による召命」とは、絶望としか思えない厳しい現実の中で、嘆きもためらいも吹き飛ばすほどの主なる神の強い宣告によって、神の器にふさわしく新たに変えられていくということでしょう。 その「務め」とは、「行って、わたしが命じることをすべて語れ。」というものでした。 そのために、「主は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」と言われたのです。 「預言者」とは、神の言葉を直接預かる者ということです。 人間の限界の中で語られる言葉に、聖霊の働きによって神との出会い、主イエスとの出会いによる味わいを知って語るなら、神の言葉の出来事になる。 拙い人間の言葉が神のご愛に触れ味わった時に、導かれ語られるなら神の言葉になると信じます。 主なる神は、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と約束されます。 「恐れるな。 わたしが共にいる」という「インマヌエル」の約束こそ、旧約聖書、新約聖書すべてを貫く神の約束です。 もうひとつの約束は、「諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。」というものでした。 その理由は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊するために」と言います。 「北からの災いが襲いかかる」という神の働きのことです。 これは人々を罰し、裁くためではありません。 「建て、植えるために」と言い、悔い改めて、目覚めて、気づいて、新しい歩みをするためです。 神はすべての人々を、本来そのために授けられたはずの命を取り戻すために、イエスを十字架に架け、エルサレムとユダ王国を破壊せざるを得なかったのです。 エレミヤは、服従するしかない所に立たされたのです。 神への抵抗を砕かれたからです。 神が強いて服従させ、エレミヤに語りかけ、整えさせ、戸惑いやためらいを克服させられたからです。 神に服従する者にこそ、神の言葉が預けられ、神の働きを目の当たりにすることができるのです。 あらかじめ神に定められた存在とされているところに、人間の尊厳があるのです。

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「神の備えと人間の備え」 出エジプト記14章5~18節

2024-01-14

 主がモーセという人物を選び、用いて、「イスラエルの人々はエジプトから意気揚々と出て行った。 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。」と言いますから、この出来事は神の働きであったと記されているのです。 今朝の箇所もまた、「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので」とあります。 エジプト王ファラオは心変わりをして、労役から解放してエジプトから去らせてしまったイスラエルの人たちを取り戻すため、自らの軍勢、戦車をすべて動員し後を追い、海辺に宿営していたイスラエルの人たちに追いついたと言う。 海を前にし、背後に襲いかかろうとするエジプト軍に挟まれたイスラエルの人たちの姿です。 「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。 荒れ野で死なせるためですか。」とモーセに呟くのです。 モーセはこの抗議に動じず、「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見るから、主があなたたちのために戦われているから、恐れてはならない。 落ち着きなさい。 これから起こることをよく見なさい。 静かにしなさい。」と答えるのです。 主はモーセに、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と示し、「あなたがただけでなく、襲いかかるエジプト人が、わたしが主であることを知るようになる」と語るのです。 神の周到な備えと、全く無防備でその場限りの呟きと嘆きに終始する人間の姿が浮き彫りになります。 人間の備えや願いが一切合切吹き飛んだところでこそ、神が用意されている「恵み」に気づかされる。 神のご愛と憐みに満たされ、神の子としてもう一つの世界に生きる者として変えられていくのです。 イエスはマルコによる福音書(13:24-31)で、終末のしるしから「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わす。 戦争や騒ぎやうわさが流れる。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。 しかし、そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 あなたがたは惑わされてはいけない。 自分のことに気をつけなさい。  逃げなさい。 福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」と語られています。 イエスは、立派で美しいエルサレムの神殿を見て感動している弟子たちに、その神殿が崩壊することを預言し、涙を流されるのです。 「滅びる」とは、過ぎ去ることです。 喜びもつらいことも、幸いも悲しみも過ぎ去っていく。 「わたしの言葉、神の言葉」は過ぎ去らないと言われる。 私たちは神によって創られ生かされている存在であるから「尊厳」があるのです。 イエスによって表わされた神のご愛に満たされなければならないのです。 マザーテレサは、道端に倒れている人の姿に隠されたイエスの姿、込められた神のご愛を見たと語ります。 イスラエルの人たちは40年もの間、どのような思いで約束の地を目指して荒れ野を漂い歩いたのでしょうか。 エジプトを出た最初の一陣の大半は、亡くなったのではないか。 人々を導いてきたモーセでさえも、約束の地に入ることは叶わなかった。 約束の地に入ることが神の祝福、救いであるとするなら、この出来事は空しいことであったのだろうか。 救いの約束とは、今、神に用いられて生かされていること、現実の厳しさの中においても「神と共にいる、神が共に戦ってくださっている」ことを事実として味わい知ることではないでしょうか。 選ばれて用いられる、隠されたみ心に身を委ねる、示されたしるしに希望と確信を得、それに応えてみるところに、神の働きが必ず起こされるのです。

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「ありえないところに現れる神」 マルコによる福音書7章24~30節

2024-01-07

 「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。」とあります。 「そこ」とは、イスラエルのガリラヤ地方です。 「イエスは、ガリラヤ地方を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と記されているように、イエスの宣教の中心はガリラヤ地方でした。 イエスはガリラヤを立ち去って、異邦人の町へ出て行かれたということです。 イエスの宣教の外にあった異邦人の町に出向いたのは、イエスにとって特別な時であったのでしょう。 イエスは12人の弟子たちを派遣するにあたり、「異邦人の道に行ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と言われるぐらい、イエスの宣教はイスラエルの人々向けでした。 イエスの語る福音を受け入れることのなかったユダヤ教の会堂、からだの癒しは求めるがそれが叶うとイエスのもとを離れていく群衆、 奇跡の力を見る為ならついてくるが神の御心を尋ね求めようとせず、形だけの律法を守るイスラエルの人々の姿を目の当たりにして、ご自身の宣教の難しさに直面し、主なる神との交わりを回復するため、その御心を尋ね求め祈るため、宣教の主戦場から一旦身を引かれたのです。 その宣教の枠外にあったところで、イエスは一人の女性と思いがけず出会うのです。 この女性は、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘をもつ人、最初からイエスの足もとにひれ伏している人、ギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの人」と紹介されています。 その人物がいきなり、「娘から悪霊を追い出してください」とイエスに祈り願うのです。 憐れな幼い娘の姿に耐えかねて訴える悲痛な母親の叫びです。 この素朴な「祈り」から、主イエスの前に進み出た女性の内面の戦い、そして主イエスとの対話が始まります。 この叫びに、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。 子供のパンを取って、小犬にやってはいけない。」とイエスは答えるのです。 「子供たち」とはイスラエルの人たちのことです。 「子犬」とは異邦人たちのことです。 イスラエルの人たちは、異邦人を「犬」と称し「汚れたもの」として忌み嫌っていたのです。 「パン」とは、主なる神から注がれる恵みです。 イエスは母親の訴えを避けているかのように聞こえますが、イエスは異邦人に対し恵みを拒んでいるのではなく、その恵みの注がれる順序について語られているのではないでしょうか。 「まず」と語り始め、「犬」ではなく、家の飼い犬のように「子犬」と語っています。 母親は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬でも、子供のパン屑はいただきます。」と言います。 「主よ」とは、「あなたこそ、イスラエルの民の救いのために主なる神に遣わされてきたお方です。 まず、イスラエルの民に恵みが注がれるのは、あなたの言われる通りです。」という信仰告白でしょう。 「しかし、その恵みはこぼれ落ちるほどまでに満たされるはず、こぼれ落ちる恵みを私たち親子もまたいただくことを赦していただきたい。」と訴えるのです。 今までの「ただ娘を助けてください」から「娘とともに、この私をも助けてください」という祈りに変えられた瞬間です。 これから注がれる神の恵みがどれほど大きいものであるかを、異邦の地でイエスは思いがけず聞いたのです。 イエスはこの信仰を受けて、「それほど言うなら、よろしい。 家に帰りなさい。」と言われたのです。 神ご自身が果たされる救いのご計画のために引き起こされた、祈りと信仰の出会いでした。 恵みに与った者が果たすべき「祈り」があります。 恵みの外と思われるようなところにこそ、恵みなど関係ないと思っている人たちに替わって祈りによって執り成すことができる。 「祈る人」と「祈られる人」が一緒に恵みに与ることが、思いがけない所にこそできるのです。

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「来年、実がなるかも」 ルカによる福音書13章6~9節

2023-12-31

 何人かのガリラヤ人たちが、「ガリラヤからエルサレム神殿に訪れた巡礼団をピラトの兵士たちが殺し、彼らが贖いとして献げようとした犠牲の動物の血に彼らの流した血が混ぜられた。」と言い、「殺されたガリラヤ人たちが災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからか。」とイエスに訴えるのです。 同様に、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」と、災難や事故についてもイエスに訴えるのです。 エルサレムにある水道工事のために立てられた「シロアムの塔」とは、ピラトがその工事費用に充てるためにエルサレム神殿のお金を流用した塔のことです。 ローマに対して協力したから天罰が下ったのではないかと、彼らは問いかけるのです。 イエスはこれらの問いかけに「決してそうではない。」と、そのような因果応報の思いを強く否定します。 「悔い改めなければ」ということばを用いて、神に対する向き合い方、神の前に立って生きる生き方を一新するようにとガリラヤ人たちに強く求め、今朝の箇所の「実のならないいちじくの木」のたとえを語られたのでした。 「いちじくの木」とは特別の使命を与えられた神の民、「ぶどう園の主人」とは神さまで、「ぶどう園の世話をしていた園丁」とは主イエスであると思われます。 「ぶどう園の主人」は、「もう三年もの間、このいちじくの木に実っている実を探しに来ていた」、大いに期待し楽しみに何度も足を運んだ。 ところが一度も実が成らず、「切り倒せ」と言います。 バプテスマのヨハネが、「蝮の子ら、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 斧はすでに木の根元に置かれている。」と激しくこの「悔い改め」を迫ったことを思い起こします。 「悔い改めなければ滅びる」とは、「悔い改めれば滅びない」ということです。 「悔い改め」とは、この世においては「神なる存在」を唯一指し示される主イエスに出会い、受け入れること。 主イエスの執り成しと祈りによって、神のものへと変えられていくこと。 この再生のための猶予と機会が与えられること。 この証しを、それぞれに与えられた生涯の中で味わうということではないでしょうか。 その「ぶどう園の世話をしていた園丁」である主イエスが、「今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥しをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」と父なる神に執り成してくださっているのです。 切り倒される猶予が与えられ、神のもとから注がれる新しい肥料が与えられる機会を得る。 今まで縛られていた向きを変え、再生の機会が与えられ、神の裁きの彼方にある神の恵みに生きる新しい力、命が与えられると言うのです。 主イエスは、エルサレム神殿の崩壊を予告し、泣いておられます。 最後の晩餐でもペトロに、「あなたは今日、三度わたしを知らないと言うだろう。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう祈った。」と言われています。 主イエスはエルサレムの都が滅ぶことも、ペトロや弟子たちがご自身を裏切って逃げてしまうことも望んではおられない、耐えられない、「実のならないいちじくの木」を前にして困っておられるのです。 私たちはこの「裁き」と「赦し」の只中に命を与えられ、生かされています。 自らの罪深さを受け入れて、ありのままの姿を神の前に差し出して神の憐れみにすがり、恵みと執り成しを受け入れ、新しい道を歩んでいくよう園丁なる主イエスが促してくださっているのです。 この裁きと赦しの中に、私たちは揺れ動きますが、この両方を併せ持つ群れでありたい、神なるものを追い求めながら、神の憐れみに安らぐ群れでありたいと願います。

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「クリスマスまでとクリスマスから」 ルカによる福音書2章22~35節

2023-12-24

 イエス・キリストの誕生が、「紀元前」と「紀元後」に西暦を分けています。 古い神の契約である旧約聖書の時代と、新しい神の契約である新約聖書の時代に二分しています。 この古い時代と新しい時代を結ぶ結び目に、イエス・キリストの誕生の事実の証人として登場する年老いた預言者シメオンの生涯に目に留めたい。 イエスの両親は「モーセの律法に定められたとおり」、幼子イエスを献げるためにエルサレム神殿に連れて行きます。 「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。」と、「正しい人。 待ち望んでいた人。 聖霊がとどまっていた人。」として紹介されています。 律法を落ち度なく守って生活した人、終わりの日に到来すると言われていたメシアを信仰によって待ち望んでいた人、生きている間に救い主メシアに出会うと聖霊によって約束されていた人ということでしょう。 「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」とは、「生きている間に主が遣わすメシアに会うことになっている」ということでしょう。 思い巡らし悩みながらも、神の呼びかけに従って歩み始めたイエスの両親と、死ぬまでには必ず主が遣わされるメシアに会うと聖霊によって約束された年老いた預言者との出会いです。 シメオンはマリアが抱いている幼子を一目見るや否や、「その子を腕に抱き、神をたたえた。」と言います。 生きている間に救い主に出会うことのできた喜び、 神が聖霊を通して約束してくださったことを、御言葉どおり成し遂げてくださった神への信頼の賛美しているのでしょうか、私のような所にまで届けてくださった神の憐れみによる救いの現実に対する感謝しているのでしょうか。 シメオンは思わず、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言うのです。 長い間の祈りが、今、ここに聞き入れられた。 神が語られていた約束が、今、ここから始まった。 長い間託されていた預言者の務めを果たし終えた平安に満たされ、慰められたのではないでしょうか。 自分の腕の中の幼子に触れて、実感して、約束を確かに果たしてくださったと、安堵と神の安息に満たされて神に賛美して、遠大な神の力と変わることのない神の御心の確かさの恵みを感じ取って「この目であなたの救いを見た。」と証言しているのです。 イスラエルの枠に留まらず「万民のために整えてくださった救い」を「呼びかけるしるし」であると宣言するのです。 シメオンが語ったこのことにイエスの両親は驚きますが、シメオンはお構いなく「この子は、イスラエルの多くの人々を倒したり、立ち上がらせたりするために定められている。 反対を受けるしるしとして定められている。」と、人を倒すものにもなるし、立ち上がらせるものにもなる「躓きのしるし」となる、イエスの十字架の預言として「反対のしるし」ともなると語るのです。 いかなる苦しみ、悲しみも、このイエスと共に生涯を送ること、神にも仕え、人にも仕え、神によって選ばれ用いられた者であるなら神の恵みであると、イエスの両親にも希望をもって見届けるようにと遺言のようにマリアに語るのです。 「クリスマスまで」は、神ご自身が計画され、準備され、成し遂げられた「神の恵み」が先行する。 私たちはただ感謝して受け入れるだけでした。 「クリスマスから」後は、与えられたイエス・キリストにどのように応えて従っていくのか。 「先行する神の恵み」を十分味わった私たちが、今度は「信仰による応答」を果たしていくのです。 クリスマスの今日こそ、その第一歩なのではないでしょうか。 シメオンは若いイエスの両親に、最後の渾身の宣教と祈りを、感謝と喜びに満たされて「クリスマスから」後のシメオンとして賛美の歌を語り伝えたのです。

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「言をもって語りかける神」 ヨハネによる福音書1章9~18節 

2023-12-17

 ヨハネによる福音書は、クリスマスの意味を端的に、「言(イエス・キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 言(イエス・キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と言います。 この信仰告白は、ユダヤ教会から追放される、ローマ帝国の庇護からも除外される厳しい迫害に見舞われていたヨハネの共同体の群れの間で歌われていた賛歌であると言われています。 キリストの福音が告げ知らされた新約聖書の時代に入って間もないキリスト者たちの信仰の告白を、このような表現でもって重なり合わせていたのでしょう。 ヘブライ人の手紙が語るように、「旧約聖書の時代の人々は信仰によって、神の選び、神の呼びかけ、神の招きに応えて、そのみ言葉に従って動き出した。 この地上での不安定な生活を迫られても、また本当にみ言葉どおりになるのかどうかも皆目分からない状態であっても、信仰によって耐えることができた。 考えもつかない様々な力を与えられて数え切れないほどの恵みが与えられ、神によって守られた存在であった。」と言うのです。 いったい彼らの目指した約束の地とは、地上のカナンという名の土地のことでしょうか。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた。」と言いますから、そうは思えないのです。 彼らの待ち望んでいた「約束の地」とは、神が設計し建設された堅固な土台をもつ都、彼らに備えられていた「神の都」のことでしょう。 この長い間の旧約聖書の時代に育まれてきた備えがあって、新約聖書の時代を迎えているのです。 「神はこの終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:3)と言っています。 このヨハネによる福音書は、イエス・キリストを「言」と表現し、「イエス・キリストは、初めから神と共にあった。 万物はイエス・キリストによって成った。 イエス・キリストの内にある命が、人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いているが、暗闇は光を理解しなかった。」と言います。 ここで、イエス・キリストは父なる神と同じ神のご性質をもつ者である。 同時に、私たちの歴史の事実として人間のご性質をも担ってくださったと宣言しているのです。 神が人となって私たちのところに遣わされたことが、クリスマスの本質です。 暗闇の中においても、光として神が共におられるという喜びが語られているのに、暗闇がその光を理解しなかったというヨハネの共同体の群れの悲痛な叫びです。 父なる神によって注がれた「光」を受け入れるのか拒むのかによって、二分されると言う。 このイエス・キリストという「光」を受け入れた者は神の子となる資格が与えられる、このことが神の創造の目的であり、イエス・キリストを遣わした目的であると語るのです。 最後に、ヨハネの共同体の群れは、「わたしたちは皆、イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 この恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストが父なる神を示されたのである。」と信仰告白しています。 最初のクリスマスから、12使徒から、ヨハネの共同体の群れから、キリストの福音は告げ知らされてきました。 神に選ばれ、招かれた者の人格を通して福音は宣教されていくのです。 私たちが見る、聞く、触れる、味わうことのできる存在、「言」が肉となって、「光」となってくださったことが神の恵みです。 

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「神の言葉に身を委ねる」 ルカによる福音書1章26~38節

2023-12-10

 「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神に遣わされた。」とありま
す。 この天使が祭司ザカリアのもとに現れてから「六か月目」と言いますが、年老いたザカ
リアと妻エリサベトとの間には子どもがいなかったと言う。 そのザカリアに告げられた神のみ
言葉が、「恐れることはない。 ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。 あなたの妻エリ
サベトは男の子を産む。 その子をヨハネと名付けなさい。 既に母の胎にいるときから聖霊
に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」と告げ
られたのです。 ザカリアは不安に襲われて、「何によって、わたしはそれを知ることができる
のでしょうか。」と、その言葉が目に見える事実となる保証を神に求めたのです。 天使は、「わ
たしは、神の前に立つ者。 あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされ
たのである。 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。
時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げられたのです。 最後の
預言者、イエスの最初の証言者であるバプテスマのヨハネの誕生の次第です。 その「六か月目」
に、エリサベトの親類であったマリアにも同じように告げられるのです。 「おめでとう、恵ま
れた方。」 神の恵みによって選ばれて、神の救いのみ業の大きな務めを果たすことになる恵み
を喜びなさいということです。 当然ながらマリアは、「戸惑い、いったいこの挨拶は何のこと
かと考え込んだ」と言います。 「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただ
いた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大
な人になり、いと高き方の子と言われる。」とザカリアと同じように告げられるのです。 マリ
アは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と、夫がなく子を産むという不可解さ
に戸惑うのです。 この問いに天使は、神の権威をもって語ります。 「聖霊があなたに降り、
いと高き方の力があなたを包む。」 人による誕生ではない、聖霊による誕生である。 神の御
心のままに、神の方法で、神の時をもって働かれる神の御業である。 私たちが測り知ることの
できない神の御業である。 「マリアよ、あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男
の子を身ごもっているではないか。 神にできないことは何一つない。」と言われたのでした。
ザカリアもマリアも神の言葉だけで信じることはできなかった。 ところが、天使はザカリアに、
「あなたはこの事の起こる日まで話すことができなくなる。 時が来れば実現するわたしの言葉
を信じなかったからである。」と告げられた。 ザカリアだけが天使の言葉を信じなかった罰で
あるとは到底思えない。 妻エリサベトが男の子を産んだその後、命じられたように名前をつけ
た時、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたと言うのです。 過去だけ
に囚われているところからこれから起ころうとするところへ押し出された時、ザカリアやマリア
のように不安にかられ思い巡らすでしょう。 しかし、神は不思議な業を起こし、それを私たち
が味わうことによって信じる者へと変えようとされる。 神は出来事を起こし、沈黙の時を与え、
「神にできないことは何一つない」ことを味わせてくださるのです。 私たちは、「信じるから
救われるのではなく、救われたから信じる」その過程にあるのかもしれません。 マリアは思い
巡らし、不安の中からひとりで産む覚悟に生きる決断をし、「お言葉どおり、この身に成ります
ように」という祈りになったのです。 ザカリアは自らの子が生まれるまでの間でしたが、マリ
アはイエスの十字架と復活までの一生涯を通して証言をしたのです。

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「最初のクリスマスを迎えるヨセフ」 マタイによる福音書1章18~25節

2023-12-03

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と言います。 当時のユダヤでは、「婚約」とは法律上の夫婦となることで、その婚約を解消する場合には正式な離婚手続きが必要でした。 「婚約」していたマリアがすでに妊娠していた事実を、ヨセフは唐突に突き付けられたのです。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 ヨセフの「苦しみや困惑」を容易に推し量ることができます。 しかし、不思議にも、ヨセフの「怒りや悲しみ」はあまり伝わってきません。 マリアは「姦淫の罪」により法廷で裁かれ「石打ちの刑」に晒される。 ヨセフは受け入れ難い事実に直面させられ、「苦しみと困惑」に苛まれていたのですが、マリアに対する「疑いや嫉妬」ではなく、愛するマリアに対する思いやりが全面に出ています。 マリアを晒し者にしたくない。 むしろ耐えているのはマリア自身ではないか。 だから、二人の証人の前で離縁状を出し、しかるべき手続きをひそかに行うことが自分にできる最大の思いやりではないかと思い悩んだ。 律法や社会常識に照らした「正しさ」、マリアに対する「人間愛」との二律背反の中で出した「正しい人ヨセフ」の決断が、「ひそかに縁を切ろう」というものであったのでしょう。 ヨセフが困惑と苦しみの中で自分の「正しさ」を絞り出していた時です。 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。 その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである。」と神に呼びかけられます。 「ヨセフよ」ではなく「ダビデの子ヨセフよ」という呼びかけに、イエス・キリストに至るまでの系図の重みを感じたのでしょう。 「恐れるな」という最初の言葉に、「恐れている」自分自身が砕かれ、新しい神の国の世界が開かれる呼びかけに聞えたのでしょう。 頑なな「正しさ」が砕かれ、神の祝福の約束の言葉への神の招きに聞えてきたのでしょう。 今までの困惑と苦しみからヨセフが解放された瞬間です。 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」とは、神ご自身の直接の介入によって起こされた出来事で、マリアやヨセフの側の問題ではない。 「神は救いである」という名前も付けられ、すでに預言者によって語られたことが実現するためであったと知らされたのです。 新しい救いの歴史が始まる、自分たちも含め神のもとを離れてしまったすべての人びとを取り戻すためのしるしが、自分たち二人に託されたのだと聞き届けたのです。 「ヨセフは眠りから覚めると」、妻マリアを迎え入れ、その胎の子をイエスと名付け、夢で命じられたことを決して拒まなかった。 しかし、ヨセフは操り人形のように動いたのではなく、自ら決断して立ち上がったのです。 眠りから覚めたのです。 世間的には、イエスはヨセフの子と思われていたと記されているように、後ろ指をさされるような、またイエスの誕生の時だけに用いられた短い生涯であったかもしれません。 ヨセフなくして最初のクリスマスはなかったのです。 困惑し苦しむヨセフの姿こそ、今の私たちの姿なのではないでしょうか。 困惑と苦しみの中で、神の呼びかけ、神の約束に託して生きていく、思い巡らしながら小さな決断をもって神に応えていく。 困惑と苦しみが祝福に変えられる時が必ずくる、神が共にいてくださるというインマヌエルの福音を味わう時がくる。 この「神の招き」を軽んじることなく、神が用意してくださったものを自らの決断をもって選び取って身に引き受けていく。 私たちの信仰の土台であるイエス・キリストを受け容れていくクリスマスの喜びを身に宿しましょう。 

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「期待して豊かに蒔く」 コリントの信徒への手紙二9章6~15節

2023-11-26

 パウロは、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」と言います。 大自然での常識、ごくごく当たり前のことを語っているように聞こえます。 しかし、この「たとえ」が教会相互の助け合いの中で、「支援のための献金」の働きの中で語られていることに気づかされます。 「惜しまず、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに」と言いますから、この「たとえ」は「豊かにささげる人は豊かに祝福される。 わずかしかささげない人は祝福が小さい。」ということでしょうか。 また、献金は神さまから与えられた恵みのお返しだ、多く蒔けば多くの祝福が返ってくると、パウロは熱弁をふるっているのでしょうか。 パウロのエルサレム教会に対して献金を集めるという働きに、「自分の利益のため、自分の名誉のためではないか」という批判を受けながらもパウロは邁進するのです。 ユダヤ人と異邦人の間に、根深い人種的な偏見、文化と生活習慣の違いからくる深い溝、大きな対立を産んでいたのでした。 このパウロの働きの根底には、「教会は一つの体である」という信仰があります。 人からどのように批判されようとも、「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 わたしたちはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントⅠ12:13, 26,27)という確信があるのです。 献金を通して、教会間の一致、つながりを語り、その結果得られる神の栄光、神の輝きをこの地上においても目の当たりにすることができる。 対立によって引き裂かれたキリストの体が、それぞれの教会の働きにおいて再び一つとなる。 その時には、神の栄光の姿が対立と争いに終始したそのところに現れ出る。 そのために、「神は種を蒔く人に祈りによって種を与えてくださる。 それを養い育て、豊かに実らせてくださる。 収穫させ糧として与えてくださる。 満ち足りて、惜しまず施すようになる。 その施しが神に対する感謝と喜びになる。 神への賛美、礼拝となる。 神の栄光が余すところなく、すべての者に表されるようになる。」 「この働きが不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通して、福音の恵みが豊かになる。 神をほめたたえることになる。 神のこの上なくすばらしい恵みを見て、互いに慕い、祈り合うことになる。」と言うのです。 パウロには、「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることができます。」という確信があります。 そのための「種蒔き」であり、「刈り入れ」です。 「豊かに」とは、この神の祝福に満たされてということです。 イザヤ書55章にも、「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、私のもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。 埋めることのできなかった溝があり、対立と不信の中にあったユダヤ人教会と異邦人教会相互の深い交わりが起こされる。 神への感謝と賛美が起こされる。 そこに神の栄光が輝くことになる。 そのことを、「言葉では言い尽くせない贈り物について感謝します。」とパウロは言い、神の応答に期待して豊かに蒔くのです。

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『神の深みさえ究める霊』 コリントの信徒への手紙一2章6~13節

2023-11-19

 「信仰に成熟した人たちの間では、神の知恵を語ります。」 「信仰に成熟した人たち」ではない人たちにとっては、「神の知恵」は「隠されていた、神秘としか言いようのないもの」として受け取られる。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」知恵であると言うのです。 「この世の滅びゆく支配者たちは、だれ一人、この知恵を理解しませんでした。」と言いますから、祈るような思いで、いずれ消え去っていく知恵ではなく「神の知恵」を知る者となってほしいとパウロは語るのです。 「この世の知恵」については、ユダヤ人として最高の地位につくことが自他ともに認めるほどの存在であったパウロには、その鋭さ、強さ、逞しさ、深さを知り尽くしてもいたのです。 ましてや「律法」の素養については横にならぶ者はいなかったのです。 コリントの町においても、哲学、法学、文学なども盛んであったと言う。 パウロは、「この世の知恵」を十二分に踏まえたうえで、「人の知恵」を比べ合い、争い、自分の立場や正しさを誇示し、相手を支配し従わせようとする「信仰の幼子たち」がいずれ神の知恵を知る者となるようにと、コリントの教会の人たちに宛てて語るのです。 「神の知恵」と「この世の知恵」とは、いったい何が異なるのでしょうか。 「神の知恵」は神が明らかに示してくださる知恵である。 神が明らかに示してくださらない限り、私たちは受け取ることのできない知恵である。 自ら隠すことも、明らかにされることも神の御心に委ねられる。 「この世の滅びゆく支配者たち」は、その傲慢さと不遜のゆえにこの「神の知恵」を必要とせず、神ご自身が唯一見える姿をもって示された「イエス・キリストという人間の十字架の死とその後の復活」の事実を受け取ることができなかったのです。 「もし、神の知恵であることを理解していたら、イエス・キリストを十字架につけることはしなかった。」とパウロは言うのです。 「神の知恵」は隠されつつ、顕わにされる。 受け取る側の状態による。 「信仰に成熟した者」には、神の深みとして届く。 そうではない者には、謎と愚かさに留まる。 神は私たちの備えが整わない限り、沈黙の中に留まり、私たちの信仰が起こされるまで準備して待つのです。 絶え間ない神の呼びかけに、ある時には喜びとして、ある時には悲しみや苦しみとして受け止めながら、ついに「神の知恵」の一端を味わい知る時が訪れるのではないでしょうか。 「神の知恵」は、「神がわたしたちに栄光を与えるため、神のご計画のために神が定めておられたもの、受け取ることを神が命じておられるもの」とパウロは言います。 「神の知恵」に与るのは、神のご計画のため、神の約束が果たされるため、神のご計画に組み込まれて神の救いに与る希望に生き得る者として私たちが選ばれ整えられたからである。 愚かに見える十字架に架けられたこの世での恥を、神自らが注がれる栄光として私たちが受け取っていくことになると言います。 「神の知恵」をどのようにして受け取っていくのでしょうか。 パウロは、「神が霊によって明らかに示してくださいました。 この霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」と言います。 ペンテコステの出来事を考えてみてください。 何の準備もなく、神のもとから降ってきた聖霊を弟子たちは受け取ったのです。 すると、人の言葉を越えて、神の言葉を語り出した。 十字架に架けられたキリストの姿を、神によって備えられた「神の知恵」として従順に受け取った「栄光の姿」に見て取ることができるようになった。 神の働きである恵みを、神によって起こされた信仰と神の選びによって弟子たちは受け取ったのです。 「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(2:5)と言うのです。

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