秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「世界で最初のクリスマス」

2025-12-21

 神さまはこの世の中に隠すかのように、イエスの誕生の出来事をそっと起こしておられます。 当時のユダヤという小さな国の、それもありふれた存在であったヨセフとマリアだけに起こされたのでした。 男の赤ちゃんを「聖霊によって身ごもる」という不可解な理由で起こされる事実を無理やり信じるようにと、突然、天使を用いて神さまは二人に告げるのでした。 マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と戸惑う。 ヨセフは、当時の厳しい律法の戒めから婚約期間中に子どもができるとなると、「姦淫の罪」にマリアが問われ死罪になるかもしれない。 ヨセフはマリアをかばうために、「ひそかに縁を切ろうと決心した。」のです。 私たちの目には、マリアをかばうやさしいヨセフの姿に映ります。 しかし、天使は容赦なく語ります。 この出来事は何百年前から預言されていたことが、今や成し遂げられる。 ヨセフには、どのような時にも「神が共におられる」と固く約束し、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と迫り、マリアには、今過ごしている世界とはかけ離れた神さまの願いが語られ、「神にはできないことは何一つない」と一喝される。 ヨセフはこのままいけばどうなるのだろうかと思い悩んだ末、ひそかにマリアを離縁することを決心し、人々の非難を一人で身に受けたほうが少しでも気が楽になるのではないかと、浅はかな自分の決心でマリアとその胎の子を見捨てるしかない道を選ぼうとする。 天使はそのヨセフに、自分の姿を見つめさせるのです。 ひとり沈黙のうちに、この理不尽な出来事を懸命に身に引き受けていこうとしているマリアを本当に愛しているのは、この自分ではなく神さまなのではないか。 そのような自分本位の決心をしたこの私をも励まし支え、マリアと共に愛してくださっているのは神さまなのではないかと思わされた。 戸惑い、思いめぐらすマリアもまた、「お言葉どおり、この身になりますように」と唯一神さまの約束だけに委ねて立ち上がるのです。 ヨセフもまた、「天使が命じられたように、妻を迎え入れた」のです。 そして、その預言通りイエスが救い主として誕生し、それを知らされ駆け付け最初のクリスマスの礼拝をささげたのが羊飼いでした。 生活を維持するために、律法の戒めを守ることができず野原で野宿していたユダヤ人たちでした。 そして、遠い東方の国の異邦人、神の民ではないとみなされていた博士たちでした。 彼らが遠い国から危険な旅を厭わず馬小屋にまで足を運び、最初のクリスマス礼拝をささげたのです。 すべての人の救い主として、父なる神の願いを果たす働きがここに始まったと聖書は語るのです。 神さまからのプレゼントが赤ちゃんとしてマリアとヨセフに与えられたのです。 胎児は母体である母親に全面的に委ねるしかない弱い存在です。 神の子であるイエスが、私たちと同じように弱い存在としてその生涯を始められた。 そのイエスを受け入れたヨセフとマリアが、神さまの働きに用いられた。 二人は突然、古いものから新しいものへと変えられるよう神さまに強いられたのです。 この神さまの願いは、それを心の内に託された者でしか果たすことができないのです。 世界で最初のクリスマスが、一人ではなく二人の小さな交わりのうえに訪れたのです。 マリアは、ヨセフの支えが必要であった。 ヨセフは、マリアの懸命な姿に神さまのご愛を肌で感じたのです。 私たちの与えられている交わりが大切なのは、一人一人の命に神さまの願いが込められているからです。 各々が神さまの前に立ち、その願いに応えるための交わりであるからです。 その願いに気づかされた者が、はるかに思いを超えた神さまの働きを悟り知ることができるようになるのです。

[fblikesend]

「ヨセフの決心と神の決断」 マタイによる福音書1章18~25節

2025-12-14

 マタイは「マリアはヨセフと婚約していたが,二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と言います。 「婚約」は法律上の夫婦となる結婚とほぼ同一視され、手続きをとらない婚約破棄は認められていなかったのです。 「聖霊によって」とは、神の介入によって、神が人となってマリアの胎に宿られたということでしょう。 婚約者マリアの妊娠を知らされたヨセフの苦悶がこの時から始まります。 マリアはヨセフに懸命に事の次第を説明したでしょう。 「正しい人」であったと記されているように律法の戒めに忠実であったヨセフは、マリアが不可解な理由で身ごもったことが人々に知られるなら、マリアは「姦淫の罪」によって死罪となるかもしれないと直感した。 律法の戒めとマリアを死に追いやることはできないという二律背反に苛まれながら、ヨセフはひとり苦闘し、解決策を捻出し、自身が犠牲になったとしても「ひそかに縁を切ろうと決心した」と言います。 私たちの目には、さらし者にしたくなかったマリアに対する愛あるヨセフの姿に映るでしょう。 しかし、この人間の「正しさ」には限界があり、自らその限界を乗り越えることは至難の業で、いずれ崩れ去っていくのです。 そのような決心をしたヨセフに「主の天使」が、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と恐れるヨセフを一喝するのです。 「聖霊によって宿った神の子である」と言われても信じることができないし、生まれてくる子は父親の分からない子として悲惨な人生を歩まざるを得ないと思ったでしょう。 自分がかかわってもいない子どもとその母となるマリアを受け入れる恐れ、あるいはその子の成長を素直に喜ぶことができるだろうかという恐れもあったでしょう。 いっそのこと密かにマリアを離縁し、人々の非難をひとりで身に受けた方が気が楽なのではないか。 この自分の「正しさ」の陰に潜むヨセフに、天使は問い質すのです。 ひたすら沈黙のうちに耐え忍び、その生まれた子を、ひとり支えていかなければならないマリアはどうなるのか。 人間の造り出す「正しさ」の危うさを映し出し、み言葉をもって打ち砕くのです。 「その子は単なる子供ではない。 マリアの胎の子は、救う者となるという名のイエスと名付けられる。 自分の民を罪から救うからである。 神のもとを離れてしまっているご自身の民を立ち帰らせる者となる。」 だから「恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。」と告げるのです。 戸惑いと悲しみのマリア、絶望と苦悶のヨセフです。 神はこの二人を選んで、その小さな「交わり」の只中に、主イエスを送り込まれたのです。 そのイエスが父なる神から託された「主の僕」を務めとして受け取って、私たちを父なる神のもとへ立ち帰らせる一本の道を切り開いてくださったのです。 その新たに救われた最初の「ご自分の民」こそ、このマリアとヨセフではなかったでしょうか。 ひたすら沈黙を守り、戸惑いの中に苦闘し、神のみ言葉に身も心も投げ出そうとしているマリア、神へ静かに服従しようとするマリアを本当に愛しているのは、自分ではなく呼びかけてくださっている神さまなのではないか。 自分が考える「正しさ」の陰に隠れて、マリアと胎児を見捨てる道を選ぶヨセフ自身の姿を見つめさせられたのです。 そうしたヨセフをも見捨てることなく、マリアと共に愛してくださっている神のご愛に触れることができたと、マタイは「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 その名はインマヌエルと呼ばれる。 これは、神共におられるという意味である。」と説明するのです。 自分の描く正しさではなく、神の決断に委ね神の前に立ってみ言葉に従って行く時に、そこに神の霊、神の力が注がれる。 「正しさ」を振り回す自分からも解放されると言うのです。

[fblikesend]

「どうして、そのようなことが」 ルカによる福音書1章26~38節

2025-12-07

 ルカによる福音書は、世界で最初のクリスマスを「ユダヤの王ヘロデの時代である。 ローマ皇帝アウグストゥスの時代である。」と、神が私たちの歴史の出来事の只中に働いていると記すと同時に、名も知れぬ庶民の生活の中にも神は救いの働きを果たしておられると語るのです。 現在のクリスマスとは全然違う、「神の裁きの業」と「神の救いの業」の狭間に、「神のもとに立ち帰らせようとする強引な神の力」と、今まで通り神のもとから引き離そうとする「滅びに至らせるこの世の大きな力」の狭間に突然飛び込んできた出来事、闇が支配している世界に突然「光」が射し込んできたような出来事なのです。 婚約をしていてもまだ結婚していない乙女であった、ごくありふれた存在であったマリアでした。 そこに、ガブリエルという天使が登場します。 「天使」は、英語で「エンジェル」、ギリシャ語で「アンゲロス」、「告げる者、使者、伝令、神の使い」といったところでしょうか。 神は用意周到です。 その天使はマリアと親戚であったザカリアとエリサベト夫妻にも、また「いいなずけ」であったヨセフにも現れています。 この「天使」とは、「告げる者、使者」と言うよりは神のもとから私たちの世界に突入してくる神の働きとしての言葉そのものであるように感じます。 告げられた彼らはすべて「正しい人」であった。 当時の律法という戒めに忠実で、普段の生活の中で神の言葉を受け取る備えがなされていた人であったと言います。 天使ガブリエルはマリアに、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」と言います。 マリアはこれを挨拶と受け取り、戸惑い考え込んだと言います。 更に天使は言葉を重ね、「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言うのです。 自分が妊娠することになる、それだけではなく、名前まで決められている。 その子は偉大な人となり、神の子と言われる。 イエスというみどりごは、祝福の源としてのアブラハムの子孫として、真の王ダビデの子として生まれる。 思い描いている世界とは全くかけ離れた世界を告げられたマリアは思わず、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えるのです。 これは、天使のみ言葉を否定するマリアの言葉でしょうか。 天使はマリアに、「聖霊があなたに降り、神の力があなたを包む。 だから、生まれる子は、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。 不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。 神にできないことは何ひとつない。」と説明するのです。 もしマリアが、庶民の現実の生活に突然切り込んできた「神の言葉」として聞いたのなら、いったいどのようにしてこの神の言葉がこの身に成し遂げられるのでしょうかと食い下がって訴えている言葉に響いてこないでしょうか。 マリアは懸命にこの天使の告げる神の言葉を、受け入れようと戸惑っているのではないか。 乙女の心と体に言われのない小さな命を宿すことを、神の語られた言葉で神にできないことはないと受け入れようとしているのではないか。 マリアの今までの革袋が引き裂かれ、新しい革袋へとつくり変えられていく。 新しいマリアの芽生え、誕生ではないかと思わされるのです。 「そこに聖霊が降る。 神の力が包む。 神の子と呼ばれる霊を宿すことになる。 もうすでにあなたは神から恵みをいただいた。」とマリアは告げられているのです。 この新しい革袋をもたらされたマリアこそ、神の子として贖われた私たちの姿なのではないでしょうか。 母体である母親にその命を委ねるしかない存在として主イエスは生まれたということです。 委ねられた神の言葉を内に宿した、神に委ねられた者によってしか成し遂げられないのです。 マリアの応答は、「お言葉どおり、この身になりますように。」であったと言います。

[fblikesend]

「将来の救いの輪郭」 イザヤ書51章1~11節

2025-11-30

 三度「わたしに聞け」と主なる神は呼びかけています。 呼びかけられているのは、「正しさを求める人、主を尋ね求める人」です。 当時としては、ほんのわずかな人ということでしょう。 イスラエルのルーツであるアブラハムを思い起こし、目を注げと言います。 たったひとりであったアブラハムを選び、祝福して子孫を増やし、神の民が造り上げられてきたではないか。 アブラハムが特別な人であったからでもなく失敗も繰り返したが、注がれた信仰に支えられて辛うじて主なる神のもとへ戻っていった。 それと同じように、神の裁きによって打ちのめされたすべての廃墟はこれから慰められる。 破壊された荒れ野はエデンの園のようになり、「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」場へと再創造されていく。 「教えはわたしのもとから出る。 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。」と預言されるのです。 ここで主なる神が言われる「裁き」、「正義」とは「救い」とまったく同じ意味合いで語られています。 父なる神のみ子がこの世に遣わされるとは、神の裁きのためです。 ご自身のもとに間違いだらけの私たちを引き戻すためです。 新しい神の国の民を起こすためです。 主イエスの肉体の死を、「みずからを償いの献げ物とした」(53:10)と表現するのです。 主イエスの償いの死を通してしか、神のもとに立ち帰るという新たな神の約束に与ることができないと、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛み、彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのため、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(54:4-5)、そのための主イエスの誕生であったと言うのです。 私たちは喜びにあふれたクリスマスの背後にある、壮絶な旧約聖書時代の歴史的な戦いを決して忘れてはならないのです。 「わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業は絶えることはない。」と預言しています。 イザヤは「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:8)と言い、主イエスご自身も「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:34)と語るのです。 従って、今の世に生きていったい何を恐れる必要があるのかとみ言葉が響いてきます。 この神の約束に対する信仰者の群れの祈りが9節から11節に歌われています。 「奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。」と、強く救いを求める歌です。 この世にはびこる「滅びの力」と主ご自身が戦われることを求める祈りです。 天地創造の際にはエデンの園が設けられこと、アブラハムからイスラエルの12部族が築き上げられたこと、出エジプトの際には不思議にも助けられたことなどの古の出来事を思い起こさせ、今真っ只中にあるバビロンからの脱出についても、この救いが成し遂げられるまで、祈り続けなければならないと叫ぶのです。 ついに、救われる言われのない私たちひとりひとりが、ひとりのみどりごの命という「大きな贖いの献げ物」によって再び買い戻され、神のもとへ立ち戻ることが赦されるという「救いの約束の原型」がここに示されているのです。 この「救いの約束」はどこまで行っても私たちにとって未知なるものです。 主なる神の前に、この世の「滅びの力」を浴びながら忍耐をもって立ち続け、その約束である将来の「救い」を待ち望んで、「贖われた人々を、深い海の底に道を開いて通らせたのは あなたではなかったか」とまで確信をもって祈り求めるなら、イエス・キリストによる人間の誕生を通して始められた壮大な神の救いの偉大さを豊かに味わい知ることができるようになるのです。 主イエスの誕生が示してくださった父なる神のご愛、救いの恵みは絶えることはないと、このアドベントの時期に思わされるのです。 

[fblikesend]

「第三の苦難の僕の歌」 イザヤ書50章4~9節

2025-11-23

 イザヤ書には、『主の僕の歌』と小見出しがついている歌が四つあります。 最初は、「主の僕の召命」(42:1-4)です。 「彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。 イスラエルの民に対する厳しい務めをもって主の僕は招かれますが、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」とあり、厳しい裁きの後には細心の備えがなされていくと言うのです。 そして、二つ目は「主の僕の使命」(49:1-6)です。 口を鋭い剣とし、尖らせた矢として、主の僕は遣わされていくとあり、この主の僕によって「主ご自身の輝きは現れる。 イスラエルの民を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。」と言い、裁きの後に「わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」と明確に宣言するのです。 そして、三つ目が「主の僕の忍耐」(50:4-9)です。 主の僕は、何も見えていないイスラエルの民を忍耐強く導くことになると言うのです。 そして、最後が「主の僕の苦難と死」(52:13-53:12)です。 主イエスご自身のお姿を表わすかのような「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 彼は自らを償いの献げ物とした。 罪人のひとりに数えられたからだ。」と結ぶのです。 今朝の第三の「主の僕の歌」は、最終的な十字架の死と復活に至る前に、主イエスの苦難の僕としての「忍耐」が歌われているのです。 イスラエルの民のこれまでの不信仰、不従順、背きを単刀直入に伝え自らの罪の自覚を促すことを、苦難の僕の大事な務めとして課せられていたのです。 そのうえで、主なる神は「疲れた人を励ますように 弟子としての舌を与え、言葉を呼び覚ましてくださる。」 それゆえ、「自分を打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしの正しさを認める方は近くにいます。 だから、わたしが辱められることはないと知っている。」と語るのです。 人間として、私たちと同じように父なる神に対する従順を、この主の僕の苦難に対する「忍耐」の歌から、主イエスご自身が味わい知って十字架のもとに進んで行かれたのでした。 捕囚の民として拘束されていたバビロンから脱出するまでも、またバビロンを旅立って故郷に帰る出発を果たしてからも、その指導者である「主の僕」に対する同胞の民の迫害、中傷、屈辱は絶えることがなかったのでしょう。 しかし、主の僕は、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」包み込もうとするのです。 その理由は、「主なる神が助けてくださるから」、「決して辱められないことを知っている」からだと語るのです。 その迫害、中傷、辱めの中においても、「嘲りとは思わない。 辱められることはない。」 「誰がわたしを訴えるのか。 誰がわたしを罪に定めえよう。」と、真正面から苦難と迫害を受け止めるのです。 私たちの咎のために一緒に傷つけられ、私たちの不義のために一緒に砕かれるほどの「近さ」をもって、「インマヌエル」共にいてくださるからだと言うのです。 自ら懲らしめを受け、打たれ、砕かれることによって、私たちを雪よりも白い正しさに引き上げてくださるという「近さ」にある。 それが裁きの場に、裁かれる場に自ら裁かれようと主の僕が語っている言葉が、「われわれは共に立とう」という言葉に凝縮されているのではないでしょうか。 「共に神の裁きの場に立とう」という、自らが裁かれることを厭わない人間としての信仰を主なる神は「苦難の僕」、主イエスに求めておられるのです。   

[fblikesend]

「最も重要な掟」 マタイによる福音書22章34~40節

2025-11-16

 「律法」の中には、人の口を通して語られている戒めも含め、専門家としての律法学者が必要となるほど多くの戒めがありました。 あまりにも細かい規則に混乱もあったようです。 律法の本質を見失い、枝葉末節に陥ってしまい、律法の専門家でさえも「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という質問をイエスにしてくるまでになっていたのです。 その律法の専門家に対する主イエスの答えは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。 これが最も重要な第一の掟である。」というものでした。 この掟は、ユダヤ人にとっては朝夕2回の信仰告白をする義務を負っていたように、だれしも耳にしている掟であったのです。 しかし、主イエスはこの戒めだけに留まらず、「第二も、これと同じように重要である。 隣人を自分のように愛しなさい。」と付け加えるのです。 この第二の掟は一般的には馴染んでおらず、レビ記(19:18)に記されている一節を主イエスは取り上げて、第二の掟として第一の掟と結び付けて、旧約聖書全体が「この二つの掟に基づいている。」とまで高められたのです。 「神を愛する」という言葉と、「隣人を愛する」という言葉の表現を用いて、この二つの掟はその一方の掟が欠けてはならず、これらが共に一つとなって聖書全体を支えるとまで主イエスは言い切ったのでした。 当時としては、これはまったく新しい教えです。 主イエスは、第一の掟と第二の掟に順番をつけられました。 律法の「十戒」も、イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」もこの順番です。 「神への愛」は「隣人への愛」の源となる。 「隣人への愛」はその人の「神への愛」を示し拡がっていくものであるし、決して切り離すことのできないと主イエスは語るのです。 さて、それでは「愛する」ということはどういうことでしょうか。 一般的には、「愛する」ということを強制することはできないし、外から強制されて発せられるものではなく、内から溢れ出てくるものでしょう。 また自然発生的に生じてくるものでもなく、愛された経験、味わった体験から呼び起こされ、その注がれた愛に対する応答として生まれ出てくるものでしょう。 しかし、「神を愛する」ということを、イエスはこの地上の生涯でのご自身の姿を通して示されました。 そのイエスのお姿は行きつくところ、人によって裁かれ、嘲けられ、蔑ろにされた十字架にまで歩み続け、父なる神に従いつくした姿、神への献身のお姿でした。 そして、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)と主イエスは、ご自身が父なる神に愛し従ったように、あなたがたも神を愛し従いなさいと勧め、新しい掟を授けられたのです。 律法のすべての戒めを、神のご愛によって愛するというこの一点において捉えるようにと、「律法の専門家」に求められたのです。 ところが、「隣人を愛しなさい」に、「自分のように」と言います。 自己と隣人を分けるような「自己愛」でもない。 隣人への愛は神への愛によって基礎づけられ、神への愛は隣人への愛において具体的に示される。 このふたつの愛の相互関係を失う時に、それぞれの愛は空虚なものとなる。 「神を愛する、隣人を愛する」ということの中に、自分の心を満足させているにすぎない自己陶酔は、もう一人の相対峙する隣人には通用しないのです。 「隣人」を私たちは選ぶことができず、「隣人」もまた「自分自身」と同じように神のもとにあり、価無いにもかかわらず一方的に神に愛される存在として接することが求められるのです。 神さまが愛してくださっている「ありのままの自分」を愛するように、「隣人を愛しなさい」と言われているのかもしれません。

[fblikesend]

「荒れ野と神の国」 マルコによる福音書1章16~20節

2025-11-09

 マルコはガリラヤのナザレ人イエスこそ私たちの救い主であると語り、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と福音書を書き出します。 その冒頭にイザヤ書(40:3)を引用し、「荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と預言していたとおりに、「バプテスマのヨハネが荒れ野に現われた。」 ユダヤ各地から人々を呼び集め、新しい神の業が始まったと語るのでした。 そこに、ガリラヤのナザレから来たイエスが現れ、バプテスマのヨハネからヨルダン川で水によるバプテスマを受けられた。 すると、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、イエスはご覧になった。」 同時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた。」 その霊がイエスを「荒れ野」に送り出した。 イエスは40日間その「荒れ野」に留まり、誘惑を受けられた。 バプテスマのヨハネがユダヤ領主ヘロデに捕えられた後は、イエスがガリラヤへ退き「イエスの宣教活動」が始まった。 そのイエスの宣教を「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と集約し、これが「神の子イエス・キリストの福音の初め」であると端的に一気に記すのです。 ガリラヤは様々な民族の支配が重ねられたところで、生粋のユダヤ人からは「ナザレから良いものが出るだろうか」と言われるほど、辺境の地、屈辱にまみれた地として蔑まれていたのでした。 イエスはそのような地を、ご自身の福音宣教の出発地点とされたのです。 ガリラヤ湖のほとりで、「シモン・ペトロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。」とあります。 漁師たちにとってはイエスとの突然の出会いですが、人生が決定的に変えられる神の時です。 イエスは新たな関係を造り出そうと、「わたしについて来なさい。」と彼らを招いています。 イエスの後からついて来なさいということです。 彼らは「網を捨てて、従った」と言います。 「網」とは、生活のすべてという意味でしょう。 イエスは彼らの今の生活を捨てて、「人間をとる」漁師にしようと招くのです。 魚に対する鋭敏な感覚を、同じように人間の魂に目を向けるようにということでしょう。 ゼベダイの子ヤコブとヨセフの場合も同様でした。 「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」と言います。 イエスのガリラヤでの宣教の最初の準備が、弟子たちを招き入れることから始められたとマルコは語るのです。 「荒れ野」とは私たちの現実の世界でしょう。 様々な呻きと、欲望や権力がうごめく闇のようなところでしょう。 そこに「福音の初め」という叫び声が起こされた。 暗闇にまみれたそのところに、切り刻むかのように「天が裂けて」聖霊が注がれた。 「わたしの心に適う者」という神のみ声が響いた。 これが旧約聖書に約束されていた新しい時代の夜明けであるとマルコは語るのです。 何も見えていない、何も聞こえていない私たちと共に、この「荒れ野」のようなところを神のもとから遣わされたイエスが共に生きてくださった。 神のご真実とご愛によって新しい道が備えられた。 私たちだけではどうすることもできない「荒れ野」に、「神の国」の恵みが映し出されるまでになった。 本来結びつくはずの無かった「荒れ野」と「神の国」が一本の道によって結び付けられ、重なり合うことが「今、ここに」明らかにされたとマルコは宣言しているのです。 神の民の群れが、「人間をとる漁師になるため、呼ばれて集められた存在」であるとするなら、呼ばれた時、今の自分を打ち砕く自己吟味の機会として、「網」を捨てることに迫られるかもしれません。 マルコはこのイエスとの出会いの感動を、自分一人のものとしないで分かち合う力が与えられると言います。 自分が理想とする自分を捨てて、神が御子を遣わしてまで愛してくださったありのままの自分を大切に、主イエスの後について参りたい。

[fblikesend]

「いつもの場所の祈り」 ルカによる福音書22章39~46節

2025-11-02

 ルカは、「ゲッセマネ」という地名をつけず「オリーブ山」がイエスの「いつものように」、「いつもの場所」の祈りの場であったと言います。 イエスご自身の苦しまれる様子よりも、これから起こされる十字架の出来事に愛する弟子たちすべてを招き入れています。 「主イエスが祈り終って立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」と言います。 愛する弟子たちとイエスご自身との間の大きな断絶を感じながら、それでもこれから向かわれる十字架の出来事を覚え、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と繰り返し語られるのです。 主イエスは最後の晩餐の後、これから迎える最後の苦難に対し、「いつものように」、「いつもの場所」で最後の祈りをささげられたということです。 「祈り」は、神さまと私たちとの人格的な交わりを主イエスの名によって赦され与えられるもの、私たちの神への信頼と応答によって恵みによりもたらされるものです。 「祈り」を受け取ってくださる神さまとの「今、ここで」果たされる生きた交わりが恵みにより築かれるものです。 最後に主イエスが愛する弟子たちに教えられたことが「祈ること」でした。 誘惑の恐ろしさは、それに私たちが気づいていないことです。 イエスはそれに気づいて、「目を開いて、心を砕いて祈りなさい」と言われている。 苦しみや悲しみの果てに祈りを失い、眠り込んでしまっている弟子たちと主イエスとの間の大きな断絶を感じざるを得ないのです。 主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈るのです。 イエスはご自身の地上の生涯において、神と異なる意志をもつ人間としての身を背負いながら、祈りによって父なる神との交わりを通してみ心との一致を求めているのです。 「この杯」とは、罪に対する神の裁きにこの身を委ねなければならない魂の苦しみです。 すでに父なる神が決定し、目の前に差し出されている「受けるべき杯」です。 人間としての罪に覚えの無いイエスが、神との交わりの永遠の断絶に立ち向かわなければならない苦しみです。 「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。 汗が血の滴るように地面に落ちた」と言います。 神の子でさえ、ご自身の意志を求めることができず、父なる神のみ心と一致されることを求めるのです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈り、自ら負わなければならない「受けるべき杯」を、眠り込んだままの愛する弟子たちの贖罪として悟られたのです。 私たち人間は、自らの過ちを自分で始末できないし、父なる神によって裁かれなければならないのです。 一方、父なる神にとっては、罪に覚えの無い我が子を自ら裁かなければならない痛みです。 この祈りの姿を愛する弟子たちに示すために、「石を投げて届くほどの距離」をもって祈られたのです。 イエスは、「祈り終って立ち上がり、弟子たちのところに戻ってきた」と言います。 「立ち上がる」とは、「起き上がる、新たにされる、よみがえる」ということでしょう。 これから果たされる十字架の主イエスの贖いの死によって、あなたがたは立ち上がることになる。 それだけではない、「信仰がなくならないように祈った」と言われるのです。 私たち、弟子たちを眠りから立ち直らせるのは、このイエスの「祈り」です。 贖罪と復活による、イエスの「いつもの場所、いつものように」祈られた「祈り」です。 イエスもまた私たち人間と同じように苦しんでおられたことを、聖書は隠さないのです。 この試練、誘惑こそ、人間としてこの地上に生かされたことの「証し」であるのかも知れません。 私たちもまた、祈り終えて「立ち上がる者」とさせていただきたいと願います。 「祈り」ができないのではなく、「祈り」がすでに与えられていることに気づいていないのです。 「祈り」が与えられていることが恵みなのです。

[fblikesend]

「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節

2025-10-26

「会堂長ヤイロの娘」と「イエスの服に触れる女」という小見出しがついています。 「会堂長」とは、イエスに対して批判的なユダヤ教指導者層の象徴的な存在です。 そうした会堂長ヤイロが、「イエスの足もとにひれ伏して、わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって娘に手を置いてやってください。 そうすれば娘は助かり、生きるでしょう。」とイエスに懇願するのです。 その事情を知ったイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行ったと言います。 そのような切迫した状況の中で起こされた「イエスの服に触れる女性」との出会いであったのです。 彼女は、「12年間も病いに悩まされ続けてきた女性」でした。 当時の社会では、「出血」は汚れとみなされ、そのような人に触れた人も、この人が触れたものもすべて汚れたものと見做されていたので、人々はこのような人に近づくことも、本人もまた他の人に近づくこともなかったのです。 「人との交わり」が断たれていた存在でした。 多くの医者にかかっても治らなかった、財産を使い果たしても何の役にも立たなかったと言います。 12年間の病いの苦しみ以上の痛みを伴ったものであったでしょう。 そうした彼女が、様々なところで病いを癒し続けていたイエスに一縷の望みを持ちながら、こっそりとしか人前に出ることができない自分を見つめながら、「何とかこのわたしを癒してほしい」とイエスの服に必死に触れようとしたのです。 すると、彼女は「出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた」と言うのです。 一方、イエスはご自分の服に触られただけなのに、「自分の内から力が出て行ったことに気づいた」と言います。 それに止まらず、「わたしの服に触れたのはだれか」と群衆の中で見回しておられたのです。 触れた本人を責めるためではなく、神の働きが「今、ここに」起こされたことにイエスが気づいたからです。 彼女は「病いの回復」を願っただけなのに、イエスは彼女の望みを越えた神の恵みの働きを果たそうとされるのです。 弟子たちは、だれが触ったのか見つかるはずがないと言うが、彼女はそうではなかった。 自分の身に起こった大きな変化を感じ取って、「恐ろしくなった。 震えた。」と言います。 その場を逃げることなく、震えながらイエスのもとに進み出て、ひれ伏してすべてをありのままに話したのです。 会堂長のヤイロも、藁をもすがる思いで恥を顧みず、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです」と訴えたのです。 イエスは病気の治療を越えて、人格的な癒しの業、父なる神の救いの業を果たそうとされるのです。 大群衆に囲まれた中で、一対一で、彼女の小さな願いをそのままにされないのです。 「だれか」というイエスの問いに、自らの言葉をもって応えさせる。 心の中にあるものをすべて吐き出させ、ありのままを語らせ、神の力を働かせ大きな変化をもたらすのです。 彼女の小さな生まれたての信仰が、イエスのみ前に面と向かって立つまでの信仰に引き上げられていくのです。 イエスは、その信仰を「あなたの信仰」と呼んで、「あなたの信仰があなたを救った。」と言ってくださるのです。 「信仰」は、私たちの持ちものではありません。 恵みにより注がれてくるものです。 そのために備えられる「賜物」も、神より託されるものです。 私たちが鍛え上げたり、増し加えたりできるものではありません。 神のみ前に恐る恐る立つことです。 ありのままをさらけ出して、神の見ておられることを知ることです。 呼びかけられたみ言葉に聴いて理解することではなく、それに応えて従ってみて味わうことです。 神さまは、吹けば飛ぶような私たちの「願いや祈り」を探し出し、見つけ出し、取り出して大きく変えてくださるのです。 そして、「もう病気にかからず、元気に暮らしなさい。 安心して行きなさい。」と言われ、父なる神と御子なるイエスとの交わりに留まり生かされるようにと送り出してくださるのです。

[fblikesend]

「自分の量る秤を越えて」 マルコによる福音書4章21~25節

2025-10-19

 「ともし火」と「秤」のたとえと、小見出しが付けられています。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。 燭台の上に置くためではないか。」とイエスは問います。 「升」とは、ともし火を消すために使われていたものであったようです。 この「ともし火を持って来る」という文章を直訳すると、「ともし火がやって来る」となります。 主語が「ともし火」なのです。 「ともし火」こそ、主イエスご自身のことです。 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)と語られているとおりです。 その光は「升の下」や「寝台の下」に置くためではなく、あたりを照らすためである。 たとえ一時的にも、その光が隠されるようなことがあったとしても、必ず自らの「光」によって輝き出す。 そうであるのに、押し寄せて来る大群衆は、「見るには見るが認めない、聞くには聞くが理解できない」という現実に直面していたのです。 だから主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と招き、「ともし火」は高く掲げられ自ずと光輝く、これこそ「わたしの務め」である。 その出来事は、私たちが気づいていないだけ、見ようともしていないだけで、そこかしこに神のみ業は働いていると主イエスは「たとえ」を用いて語るのです。 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われているとおりです。 神の恵みの働きは至る所に隠されており、いずれ燭台の上に置かれてその輝きによって闇を照らすことになる。 その灯りが誰の目にも無視できなくなる「終わりの日」に向けて、世界は神のみ心どおりに動いている。 絶望してはならない、必ず明らかにされる。 「聞く耳をもつように、見る目をもつように」と招いておられるのです。 「福音」は、私たちの真実の姿を顕わにします。 罪の姿とともに、そこまで愛してくださって「価高く、貴い」と言われ、神ご自身の独り子の命を代償にしてまでも、救い出したいと望まれるほどの存在価値がある。 そのために賜物がそれぞれふさわしく与えられていると言うのです。 自分の目で見ている自分が本当の自分ではなく、神が見てくださる自分こそが、本当の自分であることを知るようになるのです。 神の国の秘密を打ち明けられ、授けられた信仰を持ち、その「秤」に従って自分を見ることができるようになる者は、更に、豊かに神の恵みが増し加えられる。 神のみ心を聞き取ってほしい。 私たちは「自分が量る秤」でしか、量ることができないのです。 しかし、もし神の「秤」、神の見る視点が私たちに加えられるなら、自分の小さな「秤」は日々変えられ、豊かに回復されていく。 岩盤のような頑なな自分の「秤」が砕かれて、開かれて、神の恵みの世界に支えられて生かされるようになれば、新しい世界を見聞きできるようになるのです。 イエスは「耳が聞こえず、舌の回らない人」だけを、群衆から連れ出し、一対一の癒しの業を始めるのです。 指を両耳に差し入れ、唾をかけてその舌に触れて、深く息をして、その人に向け「開け」と言われるのです。 自分で自分を解放できないところから、主イエスの呻きとともにご自身を重ねて解放してくださるのです。 私たちはみ言葉を聴くことによって、自分の真の姿、イエスのご真実、神のご愛の一端を知らされます。 何が聞こえているのか。 何を聞いているのかと問われるのです。 「秤」とは、私たちそれぞれに日々の変化のうちに変わり続けている「信仰」であるのかも知れません。 信仰をもって耳を傾ける者に、神さまは豊かにご自身を示してくださいます。 自分に与えられているものに気づいているのかどうか。 そして、それをどのようなものとして受け取っているのか。 自分の「秤」を越えて、神によって授けられる日々新たにされる「秤」によって生かされて参りたいと願います。 

[fblikesend]

« Older Entries
バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元