「荒れ野と神の国」 マルコによる福音書1章16~20節
マルコはガリラヤのナザレ人イエスこそ私たちの救い主であると語り、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と福音書を書き出します。 その冒頭にイザヤ書(40:3)を引用し、「荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と預言していたとおりに、「バプテスマのヨハネが荒れ野に現われた。」 ユダヤ各地から人々を呼び集め、新しい神の業が始まったと語るのでした。 そこに、ガリラヤのナザレから来たイエスが現れ、バプテスマのヨハネからヨルダン川で水によるバプテスマを受けられた。 すると、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、イエスはご覧になった。」 同時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた。」 その霊がイエスを「荒れ野」に送り出した。 イエスは40日間その「荒れ野」に留まり、誘惑を受けられた。 バプテスマのヨハネがユダヤ領主ヘロデに捕えられた後は、イエスがガリラヤへ退き「イエスの宣教活動」が始まった。 そのイエスの宣教を「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と集約し、これが「神の子イエス・キリストの福音の初め」であると端的に一気に記すのです。 ガリラヤは様々な民族の支配が重ねられたところで、生粋のユダヤ人からは「ナザレから良いものが出るだろうか」と言われるほど、辺境の地、屈辱にまみれた地として蔑まれていたのでした。 イエスはそのような地を、ご自身の福音宣教の出発地点とされたのです。 ガリラヤ湖のほとりで、「シモン・ペトロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。」とあります。 漁師たちにとってはイエスとの突然の出会いですが、人生が決定的に変えられる神の時です。 イエスは新たな関係を造り出そうと、「わたしについて来なさい。」と彼らを招いています。 イエスの後からついて来なさいということです。 彼らは「網を捨てて、従った」と言います。 「網」とは、生活のすべてという意味でしょう。 イエスは彼らの今の生活を捨てて、「人間をとる」漁師にしようと招くのです。 魚に対する鋭敏な感覚を、同じように人間の魂に目を向けるようにということでしょう。 ゼベダイの子ヤコブとヨセフの場合も同様でした。 「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」と言います。 イエスのガリラヤでの宣教の最初の準備が、弟子たちを招き入れることから始められたとマルコは語るのです。 「荒れ野」とは私たちの現実の世界でしょう。 様々な呻きと、欲望や権力がうごめく闇のようなところでしょう。 そこに「福音の初め」という叫び声が起こされた。 暗闇にまみれたそのところに、切り刻むかのように「天が裂けて」聖霊が注がれた。 「わたしの心に適う者」という神のみ声が響いた。 これが旧約聖書に約束されていた新しい時代の夜明けであるとマルコは語るのです。 何も見えていない、何も聞こえていない私たちと共に、この「荒れ野」のようなところを神のもとから遣わされたイエスが共に生きてくださった。 神のご真実とご愛によって新しい道が備えられた。 私たちだけではどうすることもできない「荒れ野」に、「神の国」の恵みが映し出されるまでになった。 本来結びつくはずの無かった「荒れ野」と「神の国」が一本の道によって結び付けられ、重なり合うことが「今、ここに」明らかにされたとマルコは宣言しているのです。 神の民の群れが、「人間をとる漁師になるため、呼ばれて集められた存在」であるとするなら、呼ばれた時、今の自分を打ち砕く自己吟味の機会として、「網」を捨てることに迫られるかもしれません。 マルコはこのイエスとの出会いの感動を、自分一人のものとしないで分かち合う力が与えられると言います。 自分が理想とする自分を捨てて、神が御子を遣わしてまで愛してくださったありのままの自分を大切に、主イエスの後について参りたい。
[fblikesend]「いつもの場所の祈り」 ルカによる福音書22章39~46節
ルカは、「ゲッセマネ」という地名をつけず「オリーブ山」がイエスの「いつものように」、「いつもの場所」の祈りの場であったと言います。 イエスご自身の苦しまれる様子よりも、これから起こされる十字架の出来事に愛する弟子たちすべてを招き入れています。 「主イエスが祈り終って立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」と言います。 愛する弟子たちとイエスご自身との間の大きな断絶を感じながら、それでもこれから向かわれる十字架の出来事を覚え、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と繰り返し語られるのです。 主イエスは最後の晩餐の後、これから迎える最後の苦難に対し、「いつものように」、「いつもの場所」で最後の祈りをささげられたということです。 「祈り」は、神さまと私たちとの人格的な交わりを主イエスの名によって赦され与えられるもの、私たちの神への信頼と応答によって恵みによりもたらされるものです。 「祈り」を受け取ってくださる神さまとの「今、ここで」果たされる生きた交わりが恵みにより築かれるものです。 最後に主イエスが愛する弟子たちに教えられたことが「祈ること」でした。 誘惑の恐ろしさは、それに私たちが気づいていないことです。 イエスはそれに気づいて、「目を開いて、心を砕いて祈りなさい」と言われている。 苦しみや悲しみの果てに祈りを失い、眠り込んでしまっている弟子たちと主イエスとの間の大きな断絶を感じざるを得ないのです。 主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈るのです。 イエスはご自身の地上の生涯において、神と異なる意志をもつ人間としての身を背負いながら、祈りによって父なる神との交わりを通してみ心との一致を求めているのです。 「この杯」とは、罪に対する神の裁きにこの身を委ねなければならない魂の苦しみです。 すでに父なる神が決定し、目の前に差し出されている「受けるべき杯」です。 人間としての罪に覚えの無いイエスが、神との交わりの永遠の断絶に立ち向かわなければならない苦しみです。 「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。 汗が血の滴るように地面に落ちた」と言います。 神の子でさえ、ご自身の意志を求めることができず、父なる神のみ心と一致されることを求めるのです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈り、自ら負わなければならない「受けるべき杯」を、眠り込んだままの愛する弟子たちの贖罪として悟られたのです。 私たち人間は、自らの過ちを自分で始末できないし、父なる神によって裁かれなければならないのです。 一方、父なる神にとっては、罪に覚えの無い我が子を自ら裁かなければならない痛みです。 この祈りの姿を愛する弟子たちに示すために、「石を投げて届くほどの距離」をもって祈られたのです。 イエスは、「祈り終って立ち上がり、弟子たちのところに戻ってきた」と言います。 「立ち上がる」とは、「起き上がる、新たにされる、よみがえる」ということでしょう。 これから果たされる十字架の主イエスの贖いの死によって、あなたがたは立ち上がることになる。 それだけではない、「信仰がなくならないように祈った」と言われるのです。 私たち、弟子たちを眠りから立ち直らせるのは、このイエスの「祈り」です。 贖罪と復活による、イエスの「いつもの場所、いつものように」祈られた「祈り」です。 イエスもまた私たち人間と同じように苦しんでおられたことを、聖書は隠さないのです。 この試練、誘惑こそ、人間としてこの地上に生かされたことの「証し」であるのかも知れません。 私たちもまた、祈り終えて「立ち上がる者」とさせていただきたいと願います。 「祈り」ができないのではなく、「祈り」がすでに与えられていることに気づいていないのです。 「祈り」が与えられていることが恵みなのです。
[fblikesend]「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節
「会堂長ヤイロの娘」と「イエスの服に触れる女」という小見出しがついています。 「会堂長」とは、イエスに対して批判的なユダヤ教指導者層の象徴的な存在です。 そうした会堂長ヤイロが、「イエスの足もとにひれ伏して、わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって娘に手を置いてやってください。 そうすれば娘は助かり、生きるでしょう。」とイエスに懇願するのです。 その事情を知ったイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行ったと言います。 そのような切迫した状況の中で起こされた「イエスの服に触れる女性」との出会いであったのです。 彼女は、「12年間も病いに悩まされ続けてきた女性」でした。 当時の社会では、「出血」は汚れとみなされ、そのような人に触れた人も、この人が触れたものもすべて汚れたものと見做されていたので、人々はこのような人に近づくことも、本人もまた他の人に近づくこともなかったのです。 「人との交わり」が断たれていた存在でした。 多くの医者にかかっても治らなかった、財産を使い果たしても何の役にも立たなかったと言います。 12年間の病いの苦しみ以上の痛みを伴ったものであったでしょう。 そうした彼女が、様々なところで病いを癒し続けていたイエスに一縷の望みを持ちながら、こっそりとしか人前に出ることができない自分を見つめながら、「何とかこのわたしを癒してほしい」とイエスの服に必死に触れようとしたのです。 すると、彼女は「出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた」と言うのです。 一方、イエスはご自分の服に触られただけなのに、「自分の内から力が出て行ったことに気づいた」と言います。 それに止まらず、「わたしの服に触れたのはだれか」と群衆の中で見回しておられたのです。 触れた本人を責めるためではなく、神の働きが「今、ここに」起こされたことにイエスが気づいたからです。 彼女は「病いの回復」を願っただけなのに、イエスは彼女の望みを越えた神の恵みの働きを果たそうとされるのです。 弟子たちは、だれが触ったのか見つかるはずがないと言うが、彼女はそうではなかった。 自分の身に起こった大きな変化を感じ取って、「恐ろしくなった。 震えた。」と言います。 その場を逃げることなく、震えながらイエスのもとに進み出て、ひれ伏してすべてをありのままに話したのです。 会堂長のヤイロも、藁をもすがる思いで恥を顧みず、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです」と訴えたのです。 イエスは病気の治療を越えて、人格的な癒しの業、父なる神の救いの業を果たそうとされるのです。 大群衆に囲まれた中で、一対一で、彼女の小さな願いをそのままにされないのです。 「だれか」というイエスの問いに、自らの言葉をもって応えさせる。 心の中にあるものをすべて吐き出させ、ありのままを語らせ、神の力を働かせ大きな変化をもたらすのです。 彼女の小さな生まれたての信仰が、イエスのみ前に面と向かって立つまでの信仰に引き上げられていくのです。 イエスは、その信仰を「あなたの信仰」と呼んで、「あなたの信仰があなたを救った。」と言ってくださるのです。 「信仰」は、私たちの持ちものではありません。 恵みにより注がれてくるものです。 そのために備えられる「賜物」も、神より託されるものです。 私たちが鍛え上げたり、増し加えたりできるものではありません。 神のみ前に恐る恐る立つことです。 ありのままをさらけ出して、神の見ておられることを知ることです。 呼びかけられたみ言葉に聴いて理解することではなく、それに応えて従ってみて味わうことです。 神さまは、吹けば飛ぶような私たちの「願いや祈り」を探し出し、見つけ出し、取り出して大きく変えてくださるのです。 そして、「もう病気にかからず、元気に暮らしなさい。 安心して行きなさい。」と言われ、父なる神と御子なるイエスとの交わりに留まり生かされるようにと送り出してくださるのです。
[fblikesend]「自分の量る秤を越えて」 マルコによる福音書4章21~25節
「ともし火」と「秤」のたとえと、小見出しが付けられています。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。 燭台の上に置くためではないか。」とイエスは問います。 「升」とは、ともし火を消すために使われていたものであったようです。 この「ともし火を持って来る」という文章を直訳すると、「ともし火がやって来る」となります。 主語が「ともし火」なのです。 「ともし火」こそ、主イエスご自身のことです。 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)と語られているとおりです。 その光は「升の下」や「寝台の下」に置くためではなく、あたりを照らすためである。 たとえ一時的にも、その光が隠されるようなことがあったとしても、必ず自らの「光」によって輝き出す。 そうであるのに、押し寄せて来る大群衆は、「見るには見るが認めない、聞くには聞くが理解できない」という現実に直面していたのです。 だから主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と招き、「ともし火」は高く掲げられ自ずと光輝く、これこそ「わたしの務め」である。 その出来事は、私たちが気づいていないだけ、見ようともしていないだけで、そこかしこに神のみ業は働いていると主イエスは「たとえ」を用いて語るのです。 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われているとおりです。 神の恵みの働きは至る所に隠されており、いずれ燭台の上に置かれてその輝きによって闇を照らすことになる。 その灯りが誰の目にも無視できなくなる「終わりの日」に向けて、世界は神のみ心どおりに動いている。 絶望してはならない、必ず明らかにされる。 「聞く耳をもつように、見る目をもつように」と招いておられるのです。 「福音」は、私たちの真実の姿を顕わにします。 罪の姿とともに、そこまで愛してくださって「価高く、貴い」と言われ、神ご自身の独り子の命を代償にしてまでも、救い出したいと望まれるほどの存在価値がある。 そのために賜物がそれぞれふさわしく与えられていると言うのです。 自分の目で見ている自分が本当の自分ではなく、神が見てくださる自分こそが、本当の自分であることを知るようになるのです。 神の国の秘密を打ち明けられ、授けられた信仰を持ち、その「秤」に従って自分を見ることができるようになる者は、更に、豊かに神の恵みが増し加えられる。 神のみ心を聞き取ってほしい。 私たちは「自分が量る秤」でしか、量ることができないのです。 しかし、もし神の「秤」、神の見る視点が私たちに加えられるなら、自分の小さな「秤」は日々変えられ、豊かに回復されていく。 岩盤のような頑なな自分の「秤」が砕かれて、開かれて、神の恵みの世界に支えられて生かされるようになれば、新しい世界を見聞きできるようになるのです。 イエスは「耳が聞こえず、舌の回らない人」だけを、群衆から連れ出し、一対一の癒しの業を始めるのです。 指を両耳に差し入れ、唾をかけてその舌に触れて、深く息をして、その人に向け「開け」と言われるのです。 自分で自分を解放できないところから、主イエスの呻きとともにご自身を重ねて解放してくださるのです。 私たちはみ言葉を聴くことによって、自分の真の姿、イエスのご真実、神のご愛の一端を知らされます。 何が聞こえているのか。 何を聞いているのかと問われるのです。 「秤」とは、私たちそれぞれに日々の変化のうちに変わり続けている「信仰」であるのかも知れません。 信仰をもって耳を傾ける者に、神さまは豊かにご自身を示してくださいます。 自分に与えられているものに気づいているのかどうか。 そして、それをどのようなものとして受け取っているのか。 自分の「秤」を越えて、神によって授けられる日々新たにされる「秤」によって生かされて参りたいと願います。
[fblikesend]「絶望を切り拓く希望」 ヨシュア記2章1~14節
今朝の聖書箇所を表面的に見ますと、追跡され逮捕される危機に瀕した二人の斥侯の危機脱出に、二人の斥侯を忍ばせた国がこれから攻め入ろうとしている町のひとりの遊女がかかわったという出来事に見えるでしょう。 当時としては、頻繁に訪れる領土にまつわる争いの只中で起こりうる危機脱出のエピソードです。 しかし、この斥候の派遣については、主なる神の備えが伝わってきます。 主なる神は、「わたしの僕モーセは死んだ。 今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。 強く、雄々しくあれ。」とヨシュアを励まし踏み出させているのです。 ヨシュアは周到な準備をして参りますが、その中のひとつが、堅固に要塞化されていたエリコの町に二人の斥候を密かに送り出し、町の状況を調べさせることであったのです。 その偵察隊であった二人の斥侯はなぜか、「エリコの地で、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった」と言うのです。 エリコの王に感づかれ追い詰められて辿り着いたところが遊女ラハブの家であったのかもしれません。 ラハブは彼らをかくまうのです。 敵対する異国の二人をかくまうということは、この地を支配するエリコの王に対する反逆です。 ラハブの命をかけた危険な行為です。 危機に瀕した二人の斥候をかくまうその代償に、後日、イスラエルの民がエリコに侵攻する際には、ラハブとその一族の身の安全を得ようとする打算の姿であるかのように見えます。 しかし、ラハブが二人の斥候に、「イスラエルの神が、この土地をあなたがたに与えられたこと、あなたがたの背後におられる神をわたしたちが非常に恐れていること、あなたがたがエジプトから解放されたとき、あなたがたを救うために不思議にも紅海の水を分けられたこと」などすべて、「わたしは知っています。聞いています。 ゆえに、あなたたちの神こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」と告白したと言うのです。 天地を司る神が、二人の斥候およびイスラエルの人たちと共におられることを見聞きしたからだとラハブは告白するのです。 彼らの背後にある神の約束のみ言葉の確かさ、それが異国の地エリコの町にまで響き、遊女ラハブの心に確信となって育まれていたのではないでしょうか。 ラハブは自分自身にとどまることなく、「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。 今、主の前でわたしたちに誓ってください。」と祈り、迫るのです。 「主が語られたことを聞いていた。 この地にある人々が、その神がなさることに震えおののいていたし、かつてあなたがたになされたこと、あなたがたを用いて神がなされたことを知っています、聞いています。」と語るのです。 神の前で、「わたしに誓ってください」と迫る「隠された信仰者」の切実な願いに、二人の斥侯はこう答えるのです。 「主がこの土地を我々に与えられるとき、家の窓に真っ赤な赤いひもを結びつけておきなさい。 また、あなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。」 これにラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう。」と答え、「真っ赤な赤いひも」を掲げるのです。 エリコの町の目出たない、しかもその町の状況がよく分かるラハブの家が用意され、「隠された信仰者ラハブ」を立て、その地を支配する権力の只中にイスラエルの神ご自身を約束の象徴として、「ラハブの祈りの結晶」として、「真っ赤な赤いひも」を掲げたのです。 絶望を切り拓くものは、神のもとから語られる言葉に耳を傾け、聞き留め、それに精一杯応えることによって、考えつきもしない「歴史や人生を一変させる希望」が授けられるのではないでしょうか。
[fblikesend]「主の家に帰る生涯」 詩篇23編1~6節
詩編150編の中でも、最も愛唱されてきた「賛歌、ダビデの詩」です。 幸いにも主なる神に出会うことのできた実体験を味わった人間の驚きと喜びの告白です。 人間として大きな失敗もし、悩みもがき波乱万丈のダビデの生涯の集約とも言える詩編23編です。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と言います。 羊飼い無くして生きていけない羊と同じように、一人では生きていくことのできない迷いやすい存在であることを歌います。 この詩を、牧歌的な穏やかさをもって、表面的に受け取ってはならないように思います。 ダビデの激しい格闘と葛藤のゆえに、心の叫びとして導き出された歌であるように感じるのです。 羊飼いとしての主なる神は、「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」と歌います。 神のもとから発せられる一つ一つのみ言葉によって、自ら得ることのできない「糧」を与えられる。 涸れた谷に鹿が水を求めるように渇いているわたしの魂の渇きを癒してくださる。 もはや飢えることも渇くこともなく、彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。 み名のために正しい道に導き、魂を生き返らせてくださる。 羊飼いが失われた羊を連れ戻し、傷ついた羊を癒し、病める羊を力づけるように、主なる神が私たちを養い、憩わせる「恵みと慈しみの世界」がこの世に開かれていると言うのです。 主なる神を羊飼いとして、ご自身を一人では生きていくことのできない「一匹の羊」として、私たちと同じ人間の生涯を歩んでくださった主イエス。 父なる神のみ心を果たす私たち人間の「羊飼い」として、悪しき者、病める者、希望を失っている者たちを救うためにこの世に遣わされてきた主イエスのお姿を憶えます。 それは順風万端の時だけではない。 「死の陰の谷」、神のみ業が到底及ばないと思われるところにおいても、主なる神のもとから最も離れていると思わされるところにおいてでも、ダビデは「恐れない。 なぜなら、主なる神が共にいてくださるからだ」と言うのです。 養い、魂を生き返らせてくださると同時に、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」と言います。 人となられたみ子イエスは、究極の敵である「死」を前にして、弟子たちを愛し抜かれて、最後の晩餐の「命のパンと新しい契約の杯」の食卓を整えられたのです。 ダビデはそれを、「わたしの頭に注がれる香油」、あなたが「溢れさせてくださるわたしの杯」と表現します。 新約聖書の時代を歩む私たちは、主イエスの十字架の贖いを通して、「あなたとわたし」というこの一対一の交わりの実体験、「かえがえのない交わり」が、全く無条件の恵みの世界があることを、私たちに告げ知らせるのです。 過去の私も、現在の私も、将来の私も、無条件にそのままの姿をもって赦され、招かれているのです。 それは、「わたし」そのものが無条件で根底から贖い取られているからです。 人間として歩んでくださって、父なる神によってよみがえらされた復活の主によって、父なる神の賜物である聖霊が注がれて、私たちのうちに宿るようになる。 私たち自身が「神の神殿」とならせていただくようになる。 この一対一の交わりが与える「聖霊」が繋ぎ合わされて、神の民が築き上げられる。 そこに神の業が起こされ、それぞれの違いを越えて、聖霊という一つのものに突き動かされて、それぞれにダビデのごとく「わたしの賛美」が起こされるのです。 私たちは整えられた食卓に招かれ、豊かな恵みと慈しみが与えられているのです。 「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」と言います。 私たちはこの恵みと慈しみに突き動かされていくのです。 私たちの生涯は、「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまる。」までの途上の歩みを、恵みと慈しみに支えられて生かされているのです。 この「神の恵みと慈しみ」をしっかりと受け止めて参りたいものです。
[fblikesend]「今や芽生えている新しいこと」 イザヤ書43章16~25節
イザヤ書は、人間の織りなす謀り事は挫折する、その目的は所期のとおり実現することはない、空しく消えてなくなると言います。 イザヤは、「わたしは主を待ち望む。 主は御顔を隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」(8:17) なぜなら、「神が我らと共におられるのだから。」(8:10)と、インマヌエルの信仰を公に言い表したのです。 イザヤが主なる神に招かれ、彼に託されたみ言葉が何百年後に、人間としてすべてを背負ってくださったナザレ人イエスの心に刺さり、神の救いのみ業がその言葉とおりナザレ人イエスを通して果たされていったのです。 イザヤが伝えようとした神の救いのみ業は、自分たちの国、故郷が破壊され、遠く離れた異国の地バビロンに捕縛され、連れ去られ50年以上もの年月が過ぎていたイスラエルの民、過去を引きずって希望を失っていたイスラエルの民に向かって発せられたものです。 イザヤは「目があっても見えぬ民、耳があっても聞えぬ民」と呼びかけています。 何も分からない、見ようともしない、聞こうともしない人たちということです。 「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、イスラエルの創造者、あなたたちの王」がこう言われると、神とイスラエルの民との関係を示してその呼びかけに目と耳を傾けるようにと促すのです。 そこでイザヤは、今まで栄華を極めたバビロニア帝国から、急激に勢力を増してきたペルシア帝国を用いて、イスラエルの民を捕囚の地バビロンから解放すると預言するのです。 「見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。」と迫ります。 嘆きをもって過去にしがみつくことを止め、今まさに起ころうとしている新しい業に、自らの目と耳を開き、今まで考えもしなかった、芽生えている新しいことを悟りなさい。 そのために、「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。 それは、わたしの選んだ民に水を飲ませるため」だと言うのです。 その理由は、「あなたたちはわたしを知り、信じ、わたしこそ主であることを、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを、わたしが主であることを、わたしのほかに救い主がないことを理解するであろう。」 そのために「あらかじめ告げ、そして救いを与え、ほかに神はいないことを知らせた。 あなたたちこそがわたしの証人である。 わたしが選んだ僕だ。」と言い、イスラエルの民が神ご自身について証言し、宣べ伝えることになると言われるのです。 今まで叱責され続けてきたイスラエルの民が、すべての民の前で、主なる神ご自身の証人となるように促されていることは本当に驚きです。 「わたしはこの民をわたしのために造った。 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」と、そのためにあなたがたはこの世に生を受けているのだと言われるのです。 そしてついに驚くべき主なる神の告白、「このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい あなたの罪を思い出さないことにする。」と語られるのです。 イスラエルの民の悔い改めの有無に関係なく、主なる神は、「あなたがたを贖う方、イスラエルの創始者、あなたがたの王」として、この救いの業をご自身の一方的な恵みとして語るのです。 人間としてこの世に生を背負わされたナザレ人イエスは、神の呼びかけに応え、ご自身のこの世での使命をこのイザヤの預言からはっきりと確信されたのではないか。 主イエスが「誰が罪を犯したからでも、だれが悔い改めたからでもない。 神の業がこの人の上に現われるためである。」と言われたのは、このことではなかったかと思わされるのです。 悔い改めなければ救われないのではない。 神のご愛の一方的な恵みと祝福が私たちを悔い改めさせるのです。 神のご愛に愛されるほど、神の前に立たされ、自らの罪深さを知らされるのです。 この神の一方的な恵みと霊の賜物という祝福こそ新しい始まりです。
[fblikesend]「天の故郷をめざして」 ヘブライ人への手紙11章13~16節
「ヘブライ人への手紙」の第11章では、旧約聖書の時代の人物たちの名を次々と挙げ、「信仰によって」という言葉が22回、「信仰のゆえに」という言葉が2回用いられ、彼らは信仰に支えられて生かされたと、まるですぐ近くで見ていたかのような親しさをもって語ります。 その「信仰」を、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であると定義し、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と言うのです。 個々の振る舞いに見え隠れする「人間としての迷いや弱さ、何かしらの身勝手さや不信仰」ではなく、彼らの人生全体の歩みのうちに大きく働いた神のご計画とみ心を捉え、この世を駆け巡って死んでいった「おびただしい証人の群れに囲まれている。」(12:1)と言うのです。 決して死者について語るのではなく、その生き様と死に様を通して死者が語っていることを聞こうではないか。 一緒に同じ方向に歩んでいこうではないか。 死者たちと共にこの世の生涯を生かされていこうと迫るのです。 アブラハムは、「故郷カルデアのウルからカナン地方に向けて出発し、一時留まっていたハランを出発したとき75歳であった」と言います。 約束の地がどのようなものであるのかよく分からないのに、「神の約束のゆえに」まだ見えていない最終点としての神の国を望み見てアブラハムは踏み出したのです。 部族社会であった当時を鑑みれば、アブラハムのとった行動は無謀であり、危険なものであったのです。 これから先いったいどうなるのだろうか分からない不安の中に、唯一神のみ言葉だけに立って従ったということです。 自分の知識や経験によって築き上げられた「常識」という吹けば飛ぶような空虚なものではなく、いつまでも変わることのない確かな神の約束に立って生かされていく姿を「信仰によって」と表現するのです。 「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」がどのような所であるのか知らずに出発したと同時に、「他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束を受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」と言います。 約束の地を所有するどころか、定住することさえ叶わない、天幕を張って居を転々としていく生活を共にしたと言うのです。 このアブラハムの最初の動き出しは、父テラの存在による下準備があったからです。 もし父テラが部族から出ていくことを躊躇していたなら、成し遂げられなかったのです。 「信仰によって」何を成し遂げたのかではなく、「更にまさった故郷、天の故郷」を熱望し捜し求めていたかどうかが大切なのです。 その途中で終わる人生に見えたとしても、「神はそれらの人たちの神と呼ばれることを恥となさいません。 神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(11:16)と断言するのです。 それぞれの生涯に垣間見た「躓きや欠けや弱さ」にこそ働いてくださる「神の恵み」の働きとその背後にある神のみ心を、走り通した「死者」と共に見出し、「死者」と共に生きることが大切なのではないでしょうか。 「信仰によって」生かされた者は、「信仰」において死んであるべき故郷に立ち戻るのです。 この手紙に記されている「証人たち」こそ、「天の故郷」を前方に見ながら道の途中でこの世の歩みを終えた旅人であり続けたのです。 祝福の連鎖の中にある存在として、繋いでいく務めを私たちは与えられているのです。 神は誰一人として、その生涯を歩み通した者を恥とはなさらない。 すべての人に「永遠の住まい」を用意してくださっているのです。 この世の生涯を走り終えた人を通して語りかけてくださっている神のみ心を聞き取ることです。 それぞれの生涯の結果に縛られず、主イエスに結ばれて神が準備してくださっている故郷に辿り着くよう、召された者も遺された者も共に招かれているのです。 「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(13:5)のです。
[fblikesend]「受け入れ、伝えるもの」 コリントの信徒への手紙一15章1~11節
パウロは、「わたしが最も大切なこととしてあなたがたに伝えた福音を、ここでもう一度知らせます。」と、コリントの教会の人たちにこの手紙の最後の部分で記すのです。 パウロが語り続けた「福音」こそ、パウロ自身も「受け継がれてきたもの、告げ知らされたものである」と言います。 「福音」とは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと」であると、神ご自身が起こされた出来事を事実として告げるのです。 私たちがこの出来事をどう受け止めているのかとは先ず関係なく、神さまの決断によって私たちのために起こしてくださった事実であると言うのです。 私たちの信仰こそ、この神が起こしてくださった出来事を告げるみ言葉に聴き、それを受け入れ、その事実の背景にある神のみ心を神の働きによって悟り、そこに立ち続けることではないでしょうか。 パウロは、「あなたがたはこの福音によって救われます。」と言います。 不確かな自分を土台とするのではなく、神がなさってくださった揺らぎようのない事実とみ心に立ち続けることだと迫ります。 この「福音」の事実の証人こそ、聖書のみ言葉だと言うのです。 もうひとつは、復活の証言者の存在です。 ケファ(ペトロ)を筆頭に多くの兄弟たち、イエスのすぐ下の弟ヤコブといったように、すべての使徒たちに現われた。 「月足らずで生まれてきた、神の教会を迫害してきたこのわたし」にも現れてくださったとパウロ自身が証言するのです。 死んで葬られたキリストが復活して生きて「出会って」くださった。 それに止まらず「共に生きる交わり」が与えられた。 その赦しと解放の恵みから「新しい務め」が与えられたと証言するのです。 「福音」は知識や学問でも、倫理や道徳のようなこの世を生きるすべを告げる教えでもありません。 人間として父なる神への祈りと信仰によって、み心に従って歩まれ、神の国に生きる新しい命を私たちの初穂として与えられ、神のもとに辿りつく道を切り開いてくださったキリスト、復活させられて今も生きて働いておられるお方として、私たちの生活や生涯に現れ、地上での重荷を共に背負って私たちの内に宿ってくださったキリスト、この地上の生涯の終わりが終わりではなく新しい始まりであることを告げ知らせたキリスト、これこそ、パウロが「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。 わたしと共にある神の恵みがずっと働きました。」と告白する「福音」の凝縮、核心なのではないでしょうか。 このキリストは、人間として生まれてくださったのです。 生きるために大工の働きもし、人間としての罪深さも身をもって味わうというナザレの人イエスの十字架での死は、33年間の人間としての歩み、神のみ心を慕い求めて祈り惑った歩みでもあったのです。 祈りと交わりをもってしか、父なる神のみ心を計り知ることのできない人間としての制約を私たちと同じように味わってくださった。 そのお方がついに、聖書のみ言葉から、祈りと交わりによる父なる神の呼びかけによって確信し、十字架のもとに架け上がってくださった主イエスの十字架の死は、この世の生涯の延長線上にあるのです。 主イエスの死と復活は、私たちの死と復活につながっている。 「葬られた」とは、人間としての罪の結果として父なる神によって「贖い」として裁かれた。 「復活した」とは、ナザレの人イエスに起こされた事実を私たちもまた体験させていただき、復活させていただくことになるということです。 復活させられたキリストが「出会って」くださって、その「交わり」のうちに注がれる神の恵みの働きによって、神のもとに辿り着くまでこの世の終わりの死を越えて、新しい命に生きる道を備えてくださったということです。 復活させられて今もなお生きて働いておられるキリストとの「出会い」と「交わり」なしに、「福音」は福音とならず「信仰」は信仰にならないのです。
[fblikesend]「分からせてくださる主」 マルコによる福音書7章14~23節
「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち」と主イエスの間に、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と論争が起こっています。 手を洗わないで食事をする人たちこそ、律法によって「汚れた人」と彼らは決めつけるのです。 そこで主イエスはイザヤの預言を引用して、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 人間の戒めを教えとして教え、むなしく神を崇めている。 「人々の前で天の国を閉ざしている。 自分がそこに入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタイ23:13)とまでイエスは言います。 神の掟を守ることに込められた神のみ心を知り、そのみ心に従うことが大切である。 「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と言われたのです。 この主イエスの言葉は当時としては、大胆な律法の言い伝えに対する全面否定であったのです。 それから、主イエスは再び群衆を呼び寄せて、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」と言われ、イエスご自身を通して語られたみ言葉に聞きなさい。 神のみ心を霊なる力によって分からせていただき、「悟りなさい」と言われたのです。 主イエスご自身に従うとは、その口から語られるみ言葉に聴いて、父なる神のみ心を悟り従ってみることです。 その時初めて、主イエスの恵みにより自分が変えられていくことになる。 そのことを感謝して、喜んで受け入れることになると主イエスは語られたのです。 その際、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と、謎めいた言葉を発しておられます。 今、ここで論争となっている「食べ物」のことです。 「食べ物」は人の心の中に入っていくのではなく、腹の中に入り、やがて消化されて外に出されていき、すべての食べ物は清められると言います。 「清い食べ物」と「汚れた食べ物」を区別することは無意味であるし、手を洗うかどうかでその区別の決定的な要因とはならない。 「食べ物」が人を汚すのではなく、「人の心の中から出てくるものこそ、人を汚す。 人間の心の中から、人間の悪い思いから出てくるものが人を汚す。」と、12の「悪い思い」の例が列挙されています。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」(ルカ6:45)と言われているのです。 主イエスは愛する弟子たちはそうであってはならない。 人間の言い伝えに従うことが、必ずしも神の掟、神のみ心を果たすことにはならない。 言い伝え通りに形だけ整えていても、神のみ心を果たしていることにはならない。 そう言われて、「清くされた者」と「汚れた者」を区別し、一つのものさしに当てはめ、それにそぐわないものを排除しようとする姿であることを主イエスは示し、そうであってはならないと愛する弟子たちに語りかけておられるのです。 イエスの言われる「心の中」とは、人を人たらしめる、様々な思いを生み出す源泉のことです。 その「心」は、主イエスご自身から離れていてはならない。 そこは、神との交わりの場、出会いの場、復活の主が宿られる場です。 神によって備えられた「人の心」をもって、神ご自身を愛するように互いに愛し合いなさいと言われているのです。 神がその独り子をもって贖ってくださったほどに、この私を愛してくださっていることを示されたのなら、この神の恵みの中で自分自身と他の人々を見つめる目が変えられていく。 心の中から出てくる賜物を、誤った向きに用いてはならない。 神との出会い、交わりの場をしっかり保っているなら、授けられている賜物が用いられて、その人を立ち上がらせることができることを、愛する弟子たち、私たちに主イエスは語っておられるのでしょう。
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