「生き延びさせるための滅亡」 創世記6章9~22節
神さまが「すべてが良しとして創造された世界であるはずなのに、どうしてこのような世界になってしまったのかと後悔し、心を痛められた。」と言います。 「神の前に堕落し、不法に満ちていた。 すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。」と言わざるを得ないその現実に対し、神さまは「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と言われる。 神によって形づくられたはずの神の似姿から遠く離れ、神によって愛されている自分自身の尊厳も、祝福されるべき人生をも破壊していく。 神さまからみれば、もうすでに終わっている。 この「ノアの洪水物語」を記した当時の祭司たちこそ、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、エルサレム神殿を破壊され、望みを失ってしまった捕囚民として遠くバビロンの地に流された人たちです。 自分たちの誤った歩みから、こうした滅びの歩みを生み出したのだと自戒しつつも、神の憐れみに寄り縋っていこうと、この「ノアの洪水物語」を記したのではないでしょうか。 怒りに燃えた神が、ついにその怒りを爆発させて「地もろとも滅ぼす」と語られたのでしょうか。 恐ろしい神が激しい言葉を口にされたのでしょうか。 神の安息のうちに憩うはずであった祝福されるべき自分自身を破壊し続け、神との交わりを自ら断ち切って、自分のためだけに神の造られたものを利用しようとした。 そうした私たち人間の姿を神さまはご覧になって、心を痛め、苦しみ、忍耐し、自らに似せてつくられた人間を造ったことを後悔するほどまでに、嘆き悲しんで叫んだ言葉として、また、誰よりも深く私たち人間を憐れんで愛しておられる神さまが、すべてのものをご自身のもとに取り戻すために発した言葉として響いてきます。 神ご自身が「目を覚ますように」と裁き、その裁きの上に立つ「真の救いと解放」を与えようと決断されたみ言葉が「ノアの洪水物語」ではなかったでしょうか。 同時代に生きた人々が、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」のに、「ノアは神と共に歩んだ」、「神に従う無垢な人であった」と表現され、神の前に正しい人、神のみ心に従うという一点において非の打ちどころのない人でした。 そのノアに、神は「木の箱舟をつくりなさい」と事細かく指示されたのです。 ここで言う「箱舟」とは、帆もなければ舵もない、ただ水の上を漂い流されていくだけで、自分でその行き先を定めることも進めることもできない、命じられた神さまに委ねて漂うだけの舟なのです。 指示された長さ、幅、高さは破壊されたエルサレム神殿とほぼ同じ大きさです。 エルサレム神殿が完全に破壊され、エルサレムから遠くバビロンの地に捕囚として流された体験を味わった祭司たちが、再び「残された者」として息を吹き返し再び神殿が起こされるという約束を信じて辛うじて生きていた者たちによって記されたものです。 「造れ、入れ」と命じられた「箱舟」こそ、再建されるべき神の神殿のしるし、「ノア」こそ、神に命じられたとおりにみ手の中に委ねた「残りの者」の象徴です。 再び神の真の神殿が起こされる時がくるという「希望のしるし」を信仰告白として語ったのです。 箱舟に入れられたノアたちこそ、破滅的な現実を目の当たりにし、神の正しい裁きを味わい尽くすことを強いられた人物、神の約束に生きていくことを箱舟の中で待った人物です。 神が取らざるを得なくなった滅亡です。 神の悲しみと憐みと忍耐によって、もう一度新しい出発のために生き延びるようにという愛の裁きです。 それを受け取って、すべてを飲み尽くした水の上で解放の時を待ち続けたノアたちの姿こそ、捕囚の身となった祭司たちの希望の姿です。 主イエスを裁かれたのは神ご自身でした。 罪に縛られて身動きができないでいる私たちを見かねて、主イエスによって新しい神の神殿がつくられ、箱舟の中だけでなくすべての人々に今や主イエスの十字架と復活によって「真の救い」が解放されているのです。
[fblikesend]「叫び求める選ばれた者の祈り」 ルカによる福音書18章1~14節
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と、「やもめと裁判官」のたとえを語られたのでした。 イエスはこの直前にファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」と問われ、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、あなたがたの間にある。」と言われ、イエスご自身こそ神の憐れみと恵みを示すものであると宣言されたのです。 弟子たちには、「多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と、すべての人々の贖いのいけにえとなる決意をもって、その十字架と復活が待ち受けるエルサレムに向かう途上にあることを告げるのです。 その途上で、「再びご自身が現れる日がくる。 その日には、裁きと救いが同時に起こされるように、『残される者』と『集められる者』が取り分けられる。 ご自身の十字架と復活によってもたらされる恵みと憐みが支配する世界がやってくると宣言された直後に語られた「たとえ」なのです。 当時の裁判官とは、賄賂を受け取り、裁きを曲げる者であったようです。 「一人のやもめ」とは、お金も援助者もいないので、何度も繰り返しひっきりなしに訴える存在として語られたのでしょう。 「失望せずに祈り続ける」という「ひたすらな祈り」が不正な裁判官さえも貫き通す。 まして公正な裁き人であるならほおっておかれることはないと、いずれ訪れる「終わりの日」、「イエスが再び来られる日」に救いの完成を受け取るために「失望せず、祈るように」と愛する弟子たちに語られたのです。 「祈り」は単なる願いではなく、自らの意志をもって直接神の前に出ていくことです。 しつように繰り返すなら、自らの意志が神の前に曝け出されていくのです。 不正な裁判官が祈りのひたむきさにせき立てられ仕方なく応じるようなものではなく、神ご自身がみ心を果たす為に,忍耐して待ち、選ばれた人に祈る心を迫り、「祈り」を生み出されるのです。 「祈り」は神さまからの賜物です。 「祈り」をもつこと、「祈り」が与えられることは、もうすでに神のみ心に動かされ、用いられ始めているということです。 主イエスが「今の時代の人たちから排斥されることになる」事態となっても、再び来られるという主イエスの約束に立って、「目を覚まして祈りなさい。 信仰に至るまでに待ち望みつつ祈りなさい。」と響いてきます。 「祈り」は呼吸をしているように、神の息を受け止めるような生活にまでならなければならないと言います。 主イエスは「祈り」と「信仰」をほぼ同義語のように用いておられます。 直前に「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人たちの祈りの姿と、徴税人の祈りの姿を主イエスは語ります。 ファリサイ派の人たちの祈りは、人々の前で堂々と人々に聞かせるように、心の中では「ほかの人たちのような者ではないことを感謝します。 週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、そうした思いを秘めながら祈る姿であると言います。 人と比較して自分自身を見つめ、神と人の前で自らを誇り本当の自分の姿を見つめようとしない姿です。 主イエスは、神の御前に進み出ることさえ憚るような「わたしを憐れんでください」と祈る徴税人の祈る姿を、「神に義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 「神に義とされる」とは、神の憐れみによって受け入れられるというただ一点だけであると言うのです。 やもめのひたすらな祈りと「憐れんでください」と叫ぶ徴税人の祈りが合わさって、「祈り」が「信仰」となって生活に息づいて、本当の自分の姿を知らされて、神の憐れみにすがる「祈りの姿」を愛する弟子たちに、これから起こる苦難と絶望と背信の誘惑を前にして、エルサレムへの途上に語られたのです。
[fblikesend]「主イエスと共にする食卓」 ヨハネによる福音書12章1~11節
「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」頃のことです。 「過越祭」とは、年一回、BC13世紀ころ、エジプト王ファラオの奴隷として苦役に従事させられていたイスラエルの民を、神はモーセという指導者を選び、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出させた。 そしてシナイ山で十戒を与えて彼らを神の民とし、信仰の祖アブラハムに対し「約束された地」カナンに導き帰してくださった、その救いの出来事を忘れないよう心に刻むために行っていた祭りです。 脱出の前夜、「小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗り、室内では種入れぬパンを苦菜と一緒に食べることを、神はご自身の民に命じられたのです。 鴨居に塗られた小羊の血がしるしとなって、「死の使い」がその家を通り過ぎる。 しかし、血が塗られていないエジプト人の家には、「死の使い」が入り込み、その家の初子が死んだと言う。 裁きと救いの両面があるように、新しい生に生きる者と古い生に死ぬ者を分かつ「小羊の血」がそこにある。 イエスご自身もまた、流される血を贖いのしるしとしてささげ、信仰によって生かされる人間を新たに創造するために遣わされてきたのです。 「過越祭」を前にして、世の罪と死に縛られているすべての人を解放し、神の子として新しく生かすために来られたご自身の姿をもって感じ取られていたのでしょう。 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と、初めてイエスを見た途端、バプテスマのヨハネが発した言葉はこのことを象徴させるのです。 「過越祭の六日前」、イエスがいよいよ十字架に磔にされ、殺されるその時が近づいている。 多くの人々は、イエスを大歓迎する。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、「イエスの居所が分かれば届け出よと命令を出していた。」 様々な思いが入り混じる中、「過越祭の六日前」、神の安息と祝福に与るようにとそれぞれの家庭で賛美し、礼拝し、神が与えてくださった食べ物を分ち合う光景があったのです。 そこには、復活のしるしとしてのラザロ、イエスによって新たな信仰へと導かれたマルタとマリア、神がこの世に遣わし死者の中から復活させることになっているイエスがおられるのです。 一方、イエスを銀貨30枚で裏切ったユダもいた。 ラザロもイエスも捕らえて殺そうとした祭司長たちもいた。 いずれイエスのもとを離れてしまう弟子たちもいたのです。 そこでマリアは、驚くべきふるまいを取るのです。 純粋で高価なナルドの香油をもってイエスの足に塗り、自分の髪の毛でイエスの足を拭ったと言います。 油を塗るというのは、客人をもてなすということもあったでしょう。 聖別のために油を注ぐことも不思議ではなかったでしょう。 しかし、イエスは「この人のするままにさせておきなさい。 わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われた。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 このことを信じるか。」とイエスにマルタは言われて、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子であると信じます」と信仰告白したように、マリアもまた無言のふるまいとして、すべての人間が支配されている罪と死を取り除くためにささげられる贖いの小羊として血を流すことになると、本当の意味でイエスをメシアであると信じる無言の信仰を告白したのではないでしょうか。 信仰をもって生きるとは、実は人間の罪の深さを知ることになるのです。 そうした只中にあって、マルタに給仕され、マリアに愛されているイエスがすべての人を客人として「共にする食卓」においてもてなしておられるのです。 「その家は香油の香りでいっぱいになった」と言います。 入り混じる只中で、神が喜んで受けてくださる香ばしい香りをささげているのです。 「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」とイエスに言われるほどの「香ばしい香り」をささげたいものです。
[fblikesend]「取り分けられる者の恵み」 ルカによる福音書17章20~37節
ファリサイ派の人々とイエスの、「神の国はいつ来るのか」という問答が記されています。 この問答が行われたのは、「イエスはエルサレムへ上る途中」であったと言います。 ルカによる福音書は再三にわたり、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」 あるいは「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた。」 「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。 人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」とまで、イエスは12人を呼び寄せて語るのです。 ルカによる福音書は、イエスはご自身の十字架の死とそれからの復活の出来事に立ち向かうため、エルサレムに向かっている。 エルサレムに上る旅をしている。 その途上、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」とまで言われ、三度目の「十字架の死と復活」の予告をするのでした。 しかしながら、12人の弟子たちは、「これらのことが何も分からなかった。 彼らには、この言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった。」と言うのです。 その旅の途中、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人がイエスを出迎えたと言います。 「重い皮膚病」とは、ユダヤの祭儀上不浄とされる病いでした。 社会から隔離された場所で暮らさなければならない。 一般の人が近づいた時には、「汚れた者」と叫んで、その存在を知らさなければならなかったのです。 自分ではどうすることもできない彼らは、すがる思いで「どうか、わたしたちを憐れんでください。」とイエスに叫ぶのです。 イエスはその姿をご覧になり憐れまれて、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と言われたと言う。 彼らはそのイエスの言葉に躊躇なく、何の疑いもせず言われたとおりに祭司のところに向かった。 その途中で体が癒され、清くされたと言う。 イエスは彼らの体を回復するだけでなく、祭司に癒されたことを認めてもらって、清められたと社会的に明らかにし、社会復帰の道までも開かれたのです。 問題は、その後のことです。 その癒された人たちのうちの1人だけが、「自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」 サマリア人であったと言うのです。 選びの民であるユダヤ人でもなければ、律法の戒めを固く守っていた自分の信仰の確かさでもない。 イエスという人物に出会い、触れて、その交わりを通して味わったイエスの確かさに思わず導かれていった。 そのイエスを主であると信じようとした信仰に、このサマリア人は導かれたのではないでしょうか。 重い皮膚病が癒されただけの9人と、イエスのもとにひれ伏して感謝した1人が取り分けられている事実が示されているのです。 イエスはそのことを、「あなたの信仰があなたのからだを癒した」と言うのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。 イエスは、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実にあなたがたの間にある。」と言われているのです。 すでに訪れている神の国に気づかず、隠されてしまっているものを、イエスに出会い、触れて、交わって、「今、ここに」神の国が訪れていることに気づかされて、神に感謝しイエスにひざまずく者が取り分けられる。 「ひとりは連れて行かれ、他の一人は残される。」、その取り分けられる「真の信仰」とは何かを、イエスはエルサレムに向かう途上で、十字架の死と復活がこの身に起こされるという固い覚悟をもって愛する弟子たちに語っておられるのです。 見える形で現れることだけを期待するなら、9人の重い皮膚病を患っている人たちと同じです。 イエスに触れることによって、すでに置かれ与えられている賜物に気づき見えるようになるのです。
[fblikesend]「神の安息という祝福に与る」 コリントの信徒への手紙二4章14~18節
「天地創造の由来」には、第一の日から第六の日までの六日間で、人が生きる「時」と「場所」、人の生きる舞台が神によって創造され、神はお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と言われ、この第七の日に、「神はご自分の仕事を完成され、安息なさった」ので、第七の日を「神は祝福し、聖別された。」と言います。 神は六日間ですべてを完成され、この七日目の日を、再び迎えることのない日として、第一の日から第六の日までとは全く違う一日として分離され、安息という形で完成された。 神によって創造されたみ業を憶え、神の安息に私たちも預かり、神の祝福を感謝して喜んで受け取る日とされたのです。 神のなさったすべての業は第七の日に向けてなされたものではなかったか。 神のこの祝福に覆われた命、神の国へと向かって私たち人間が憩うことができるようにと、神は第七の日を設けられたのではないだろうか。 そうであるのに、私たち人間が神から与えられたもので生きていこうとせず、神によって与えられている場所を、自ら所有するものであるかのように支配することで、神のもとから離れてしまった。 そこで、私たちを代表してノアでありアブラハムに象徴される「信仰」を注いでくださった。 それでも揺れ動く私たち人間を憐れんで、主イエスを私たちのもとにお遣わしになって、「信仰」によって神のもとに立ち帰る唯一の道を切り開いてくださったイエス・キリストと共に、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、第七の日の神の安息という祝福に与るようにと、忍耐しつつ招き入れてくださる。 このことに気づかされた最初期のキリスト者が、主イエスの十字架の死から復活された日として、週の初めの日に主なる神に賛美し礼拝をささげて「神の安息」に与る日としたのです。 パウロは、「地上の住みか」と人の手で造られたものではない「天にある永遠の住みか」があることは知っています。 「天にある永遠の住みか」をこよなく願って、「地上の住みか」で苦しみ悶えていますと言います。 死ぬはずのものが新しい命が授けられるようにと、父なる神が御子を地上にお遣わしになって「永遠の住みか」に至る道を切り開いてくださったことを知っている。 だからこそ、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいくことができるようになった。」 「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 だから落胆しません。」と言うのです。 その理由の一つは、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると知っているからだ。」 もう一つの理由は「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためだ」と言うのです。 神の子として裁かれるためではなく赦されて御前に立たせてくださる「約束と希望」、私という小さな存在の上に神の働きが現れ出ることになるまでに主イエスに結ばれること。 だから「落胆しない」と言うのです。 「たとえ外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていきます。」 イエス・キリストと共に、イエス・キリストのゆえに、常に新しく創造してくださる、日々新たにされていく。 神のもとから注がれる新しい命を、信仰によって砕けた魂によって受け取っていく。 衰えていく「外なる人」を支えながら、日々新しくされている「内なる人」をも宿しながら、主イエスに従ってみて味わっていく。 そこに恵みと希望があると言うのです。 「一時の軽い艱難が、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらす。」と断言するのです。 私たちは、神によって日々新しくされていく「信仰」に生きる者です。 主イエスと共に神の子として一緒に神の御前に立つ者です。 「神の安息」という、消えてなくならない「祝福」に憩うために立ち帰る者なのです。 そのために主イエスは近づき招いてくださっているのです。
[fblikesend]「信仰による新たな生命の誕生」 ヨハネによる福音書11章28~44節
復活という出来事は理性では受け入れにくい、人から説明を受けて納得しようとすることではなく、自分のありのままの姿を通して見つけ出していくものであるのかもしれません。 「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。」と言います。 「村の中」には、「多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」、「本人であるラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」と言うのです。 そうした中、「イエスが来られたと聞いた」マルタは真っ先に、悲しみに包まれている「村の中」から「村の外」ヘ、イエスのもとへ、「迎えに行った」と言います。 悲しみに包まれている「村の中」を決然と去って、声にならない望みを抱いてイエスのもとに駆け込むこよなくイエスを愛する姿をマルタは見せるのです。 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と思わず語るのです。 なぜ早く来てくれなかったのかという恨み言を言っているのではなく、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とマルタは語り、イエスもまた「あなたの兄弟は復活する」と即答するのです。 「終わりの日に復活することは存じております」と反応したマルタが、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」というイエスのみ言葉を引き出したのです。 マルタは、「今、ここに」共にいてくださるイエスを仰いで、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」という信仰告白に導かれたのです。 そのマルタは間髪を入れず、「村の中」に佇むマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と耳打ちし、マリアは「これを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」と言います。 「イエスを見るなり足もとにひれ伏し」、マルタと全く同じく「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と発し、イエスのおられるところには「死」は存在しないという信仰に導かれるのです。 この復活の出来事の主役は、むしろラザロ本人ではなく、キリスト者の象徴として招かれたマルタとマリアであるのではないでしょうか。 イエスが見られたものは、墓の中に葬られているラザロ、「死」の現実の前に諦めと途方に暮れて泣いている人間の姿です。 人間をここまで悲しみに叩き落す「死」の現実に対し、また、「今、ここに」復活であり、命であるわたしが訪れているのに、頼るべき神の力に依り頼もうとしないで諦める人間の姿に対し、イエスは「心に憤りを憶え、興奮され」、「涙を流された」のです。 「死」の現実の前に絶望し泣き叫ぶしかない私たち人間を憐れまれて、「ラザロが葬られているところ」に立ち向かおうと、「村の外」から「村の中」へ、死が支配しているところへ分け入って行こうとされる。 「ラザロを死なないようにはできなかったのか」とつぶやくユダヤ人たちと、イエスによって整えられた信仰の目によって見つめるマルタとマリアを前にイエスは祈ります。 神の栄光がここに現れ出る。 それは周りにいる群衆のため、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じさせるため、そのことを確信し「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と祈りを終え、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。 ラザロの復活だけではなく、イエスが復活であり、命であることを信じることができたマルタとマリアが変えられたことを語るのです。 「ラザロが葬られたところ」こそ、愛するラザロのために自らの命を差し出されたイエスの体を横たえるところ、神の働き、神の栄光の業が果たされるところであったのです。 イエスは布や覆いに包まれた「死んでいた人」を「ほどいてやって、行かせなさい」と、「村の中」から「村の外」へ、イエスのもとへと後押しをしてくださっているのです。
[fblikesend]「つまずきの後に遣わされる者」 マタイによる福音書11章2~19節
バプテスマのヨハネと主イエスとの、ヨハネの弟子たちを通しての「対話」が記されています。 バプテスマのヨハネの宣教の働きと主イエスの宣教の働きを結びつけるかのように記しています。 そこには連続性があるようで、一方、古いものが寸断されて、新しいものが起こされた非連続性をも感じさせます。 バプテスマのヨハネの宣教の働きは、激しいものでした。 「悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けた。」 そのヨハネの働きを耳にして、「イエスが、故郷ガリラヤから出て来て、ヨハネからバプテスマを受けるためにヨルダン川のヨハネのところに来られた。」と言うのです。 そのヨハネが今では、「牢の中にいる」と言う。 ヘロデ大王の子の妻ヘロディアの不倫を厳しく咎めたヨハネは、ヘロディアの策謀によって死海の東岸のマケロスの要塞に幽閉され、ついには首をはねられることになるのです。 ヨハネの弟子たちが、ヨハネの遺体を引き取り、葬り、イエスのところに行って報告したと言うのです。 そのことを聞いたイエスは、ガリラヤに退き、ヨハネと同じように、「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのです。
ヨハネは牢の中で、自分がここから救い出されることを哀願するのではなく、「来るべき方は、あなたでしょうか。」という問いを、牢の中から自分の弟子たちを送ってイエスに尋ねるのです。 もはや牢の中から出ることができないと悟ったからなのか、かつてイエスに抱いていた思いが揺らいでいることに気づいたのか。 「来るべき方」とは、終わりの日にくると期待されていたメシアのことです。 宣教の言葉は同じであるにしても、宣教の根本的方向の違いを感じ始めたのでしょう。 イエスは、このヨハネの問いに直接答えることなく、事実だけを伝えようとするのです。 イエスは尋ね求める者に、本人が期待しているものを与えるのではなく、福音の事実だけを示してご自身を信じるのかどうか、質問者の決断を迫るのです。 イエスは、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と、人の言葉に先立つ、神の起こされた出来事の前に、空虚な飾られた言葉を沈黙させられるのです。 今度は、イエスが尋ね求めてきた者を遣わすのです。 ヨハネは、迫りくる「神の怒り、裁き」を目の前にして、悔い改めを迫る預言者でした。 自分が期待したメシアとしてのイエスにつまずいたのです。 イエスは福音の事実を伝え、この神の働きを自分のこととして受け取る以外に、メシアとしてのイエスに出会うことができないと言われているのです。 つまずく者とならないで、それらを乗り越えてイエスの到来によって福音の事実が実現していることを、イザヤの預言にはなかった「死者の生き返り」を新しく加えて告げるのでした。 「神の怒り、さばき」とは、神のもとを離れてしまった世界を取り戻そうとする忍耐のともなった決断なのです。 「災いだ、幸いだ」と言うのは、神の嘆きであり、喜びなのです。 そのうえで、「わたしにつまずかないものは幸いである」と言われているのです。 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 新しい神の恵みの世界が始まる宣言が、イエスの十字架と復活の事実によってこれから果たされる。 つまずかないでその変化をしっかり受け取るようにと言われるのです。 荒野で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えていたヨハネを「悪霊にとりつかれている」と揶揄し、社会からはみ出した人たちと食卓を囲むイエスを、「大食漢だ、大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」とからかい、非難する人たちの時代は終わった。 福音の事実をしっかりと受け取り、喜び、感謝して、与えられている恵みに生かされる時代が始まったとイエスは言われるのです。
「もしここにいてくださいましたら」 ヨハネによる福音書11章17~27節
「ラザロの復活」は、イエスが起こされた七つの「しるし」の最後の「しるし」です。 ここまでの「しるし」によって人々の示した「見て信じる信仰」を越えて、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受ける。」ものであることを、ご自身の時を待って起こされた「しるし」なのです。 これらの「しるし」の働きの目的は、その働きに与った者、その働きを目撃した者が、その働きを通して変えられて、「イエスを神の子である。 神のもとから遣わされた救い主である。」と信じること、変えられて新しい命に生きることにあったのです。 ヨハネによる福音書の冒頭のみ言葉は、「言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と始まって、最後にこの福音書が書かれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:31)とはっきりと締めくくるのです。 この「しるし」を引き起こしたイエスに出会うその時、私たちはイエスに対する信仰を告白せざる得なくなる。 変えられて新しい命に生かされる者となるために、イエスはその時を待って、その集大成として「ラザロの復活」という「しるし」を果たされたのです。 ラザロの死体が横たわる墓にイエスが向かうことこそ、イエスが十字架に向かうこと、復活の命に与ること、そして父なる神のもとへ帰ることを指し示しているのではないでしょうか。
イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていたと言います。 ラザロは死んでいたということです。 イエスは、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われた。 この「行く」という言葉には、イエスの強い意志が刻まれた言葉が使われています。 14章に出てくる「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と言われた時に使われた「行く」という言葉と同じ強い意志の言葉が使われているのです。 死ぬことを決断して選び取った言葉です。 このイエスの死は、死で終わるのではなく、復活を通して父なる神のもとに行くための死である。 イエスのご愛の中に死んだ者、眠っている者を、父なる神のもとで起こすための死であるのです。 マルタはイエスに会うや否や、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 すぐにイエスがここに来なかったからラザロは死んでしまったとは言っていない。 「もしイエスが傍近く、共にいる」ならと、絶望的な悲しみの真っ只中においても、イエスに対するわずかな期待の表明に響きませんか。 イエスに出会い心情の変化を感じさせるマルタは、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と語ります。 そのマルタにイエスは、「あなたの兄弟は復活する」と断言した。 そして、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と迫ったのです。 これにマルタは、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」という信仰告白に導かれたのです。 肉体が生きているだけの存在が横たわる墓場に、命の息を吹き入れるためにイエスは時を待って、ふさわしい時に来てくださった。 十字架の死と復活と昇天を通して、神のもとへの道を切り開いてくださったのです。 罪と死に縛られない新しい命を与えてくださった「しるし」が、ラザロの復活ではなかったでしょうか。
「ある病人に対するイエスの呼びかけ」 ヨハネによる福音書11章1~16節
「ある病人がいた。」と、無名の人が登場します。 最初は「病人」として身体的な病いから、ついには肉体的な死に至った人、2000年前に生きて病気にかかって死んで、イエスによってよみがえらされた人として登場するのです。 その人はマリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロという名前であったと言います。 このラザロという名前は、ありふれた名前であると言われています、 「神が助けをもたらした」という意味をもつ言葉のギリシャ語読みです。 ラザロという実名の方ではなく、むしろ実名に込められた意味の方に思いが込められているように思います。 この「ある病人」とは、神の助けによって生かされる人、イエスが愛しておられる人、その代表として登場しているのではないかと思わされます。 死んだ後も、復活させられた後もイエスに愛されているキリスト者の一人であったと、「ある病人」は登場しているのです。 イエスご自身が、父なる神のもとから遣わされた神の子であることを示すために、七つの奇跡が起こされました。 その最後の「しるし」として引き起こされた出来事が、この「ラザロの復活」の出来事でした。 単純な「死から生へのよみがえり」ということだけでなく、「墓の中から出て来る」ということが、「神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受けることなのである。」ということとつながっていく。 ラザロの姉妹マルタとマリアたちとイエスの対話の中に、「信じる」ということが密接につながっていく。 この出来事でイエスの公の活動は終わり、一気にイエスの十字架と復活へと突き進む、ヨハネによる福音書全体の分岐点となっている。 その中心に位置している大事な「しるし」であるように思わされるのです。
み言葉は、一対一で神の側から語られた、その人にしか分からない人生のストーリーに呼びかけられた体験を味わうものです。 だれにでも通用する普遍的な教えを語っているのはない。 病気や死という肉体的なものから、イエスご自身のご愛、新しい復活の命に生かされるという霊的なものを辿って語られているのです。 ラザロは、「わたしは彼を起こしに行く。」とイエスに呼びかけられる一人の人物として描かれています。 イエスに愛されている人として登場しているのです。 マリアは、「主イエスに香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」、「行動でその信仰を表すキリスト者である」と紹介されています。 マルタは、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」とイエスに尋ねられ、「はい、主よ、わたしは信じています。」という「信じる信仰」に導かれたキリスト者として紹介されています。 ラザロは癒される者、救い出される者、「死で終わらない者」として登場し、イエスはラザロの墓の前に立ち、心に憤りを憶え、涙を流し、「墓石をとりのけなさい。 ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれたのです。 ラザロの復活の根拠は、ラザロがイエスに愛されていたことでした。 イエスの決断と呼びかけがあったことです。 神の側の働きが先にあるのです。 その時の弟子たちの様子が記されていますが、何とも情けない有様です。 しかし、イエスはそのようなキリスト者たちを憐れんで、「信じる信仰」に至らせてくださるのです。 私たち人間が信じて勝ち取るようなものではなく、イエスの霊なる働きに支えられて、信じさせられたとしか言いようがありません。 信じることによってしか、人は新たな命を得ることができない。 キリスト者らしい姿になったとかという倫理的な状態を言うのではなく、新しい命を得た者、生き返っている、生かされている者に変えられているかどうかです。 そのために、イエスは「神のご愛を信じる信仰」、「復活であり、命である主イエスを信じる信仰」を注ごうとされるのです。
「新たに生まれさせるもの」 ヨハネによる福音書3章1~8節
イエスはその当時、様々な奇跡を起こして誰の目にも「奇跡」としか言いようがない「しるし」を通して、ご自身が父なる神のもとから遣わされてきた神の子であることを示されました。 この「イエスのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」と言います。 一方で、そのイエスを、奇跡を起こし秩序を乱す者、人々を扇動する危険人物として、ユダヤ教当局は問題視するのです。 「ファリサイ派に属する。 ユダヤ人たちの議員である。」というニコデモという人物が登場します。 律法の教師であり、最高法院の議員であり、社会的にも恵まれた存在であったニコデモが、問題視されているイエスのもとに公然と昼間に訪れることはできなかった。 しかし、イエスが起こしている奇跡を目の当たりにして、神の力のようなものを身に着けたいと心躍らせて、人目を忍んで夜にイエスのもとを訪れたのでしょう。 ニコデモは、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。 神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言います。 ニコデモの精いっぱいの信仰告白、「しるしを見て信じる信仰」です。 イエスは人間のもつ限界を十分知り尽くしたうえで、新しい目が開かれるよう更なる信仰を求めるのです。 今の恵まれた自分を保ったまま、いつでも引き返すことのできる道をもったまま、イエスが起こすしるしを示す力を求めたニコデモです。 それを見て取ったイエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われた。 「しるし」の背後にある隠された神のみ心を見抜く信仰へ、神が共にいて生きて働いてくださるということがどういうことであるのかを知ろうとする信仰へ、更に、「見ないで信じる信仰」へと招くのです。 イエスは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。 霊から生まれたものは霊である。 新たに生まれることによって、神の国を見ることができる。」と言われたのです。 「肉」と表現されているものが自分自身に頼る生き方であるとするなら、「霊」と表現されているものは隠された神の働き、神のみ心に頼る生き方でしょう。 神の子でありながら、私たちと同じ肉体を背負ってくださったイエスは、どちらも併せ持つ「肉」の存在として、「肉」からでは切り開くことのできない道が、「霊」の呼びかけによって切り開かれていくと言います。 創世記には、私たち人間は神の息吹、神の霊を受けて初めて生きる者とされたと言います。 人は自らの意志と力で生きる存在ではなく、神の働きと神のみ心によって生かされる存在として形づくられたのです。 「新たに生まれる」とは、神によって新しくされるということです。 神によって生かされていることに気づかされると、先行きが見通せない中にあっても、神が私たちを生かし続けてくださっているという信仰へと変えられるのです。 この後、ニコデモは最高法院の議会の中で、イエスを弁護するために立ち上がったと言う。 しかし、わずかな抵抗によって、身の危険を感じ再び黙り込んでしまう。 ついには、議員という地位、律法の教師という名誉を剥奪されてもおかしくはない危険性を顧みず、公然と十字架刑によって命を奪われたイエスを手厚く埋葬するのです。 最初は人目を忍んでイエスを尋ねたニコデモが、劇的な変化を遂げるのです。 最初のイエスとの出会い、そこで蒔かれた小さな種がニコデモの心の中に宿り、芽を出し、育まれ、信仰の実がなっていったのです。 「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と、バプテスマの象徴である水から引き上げられ、新しい霊なる命に生きる者となる。 イエスの十字架こそ、神のもとを離れてしまった私たちをイエスご自身と共に神の国に引き上げるためのものであったと語るのです。
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