「父ヤコブの苦悩と信仰」 創世記45章16節~46章4節
エジプト王ファラオの前でファラオが見た夢の解き明かしをしたヨセフは、夢の中にあった世界的な規模の飢饉に際し、食糧を貯えることをファラオに進言した。 それが、エジプトのみならず周辺諸国をも救うことになった。 そこにヨセフのイスラエルの兄たちが食糧を求めてカナンの地より、穀物管理のエジプトの宰相ヨセフのもとにやって来たのです。 ヨセフにしてみれば、銀貨20枚で売られてエジプトに追いやられたのです。 父ヤコブには野獣に食われたと嘘の報告をされ、家族から引き裂かれ、父ヤコブをひどく悲しませたのです。 すぐに兄たちであることが分かったヨセフは、「本当に正直な人間だと言うのなら、兄弟の内の一人だけを牢獄に監禁するから、他の者は飢えている家族のために穀物をもって帰り、末の息子をここに連れて来なさい。」と命じ、兄たちの袋に穀物を詰め支払った銀を受け取ることなく返し、帰る道のりまでの食糧をも与えたのです。 このヨセフの命令を受けた兄たちは、弟ヨセフのことで罰を受けているのではないかと恐れたと言います。 兄たちから説得を受けた父ヤコブは、「どうか、神がその人の前でお前たちを憐れみ、監禁されているシメオンとこの末の弟ベニヤミンを返してくださるように。」と祈ったのです。 カナンの地に残されていた父ヤコブと兄たちの葛藤の姿です。 以前の兄たちとは全く異なる、兄弟がひとつとなった姿になったことを見届けたヨセフは、ここに至ってついに、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 お父さんはまだ生きておられますか。」と告白し始め、「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 わたしをここへ遣わされたのは、あなたたちではなく、神です。」と語ったのです。 嫌がらせのようなヨセフの仕打ちこそ、ヤコブの息子12人がひとつとなって神の民イスラエル12部族として築き上げられるためではなかったか。 エジプトにいるヨセフとカナンの地に留まる兄弟たちがひとつにされたのは、ヨセフが先に異国の地エジプトに遣わされて、神とともにいて養われていたからではないかと思わされるのです。 もうひとつの感動の場面が、130歳になっていた父ヤコブと息子ヨセフの22年ぶりの再会です。 兄たちはヨセフの告白を聞いて、父ヤコブに「ヨセフがまだ生きています。 しかもエジプト全国を治める者になっています。」と報告する。 それを聞いた父ヤコブは「気が遠くなった」と言う。 ヤコブはこの時初めて、ヨセフをもうすでに諦めていたことに気づかされた瞬間ではなかったでしょうか。 忘れていたヤコブの祈りに対して、ずっと生きて働いておられた神の働きに対する畏れが生まれたのです。 神の約束が生き続けていた確信に立ったヤコブは、「元気を取り戻した」と言う。 心が新たにされて、「わたしは行こう。 死ぬ前にヨセフに会いたい。」と、神から約束されていたはずのカナンの地を離れることを決断するのです。 それが「ベエル・シェバ」という場所の礼拝でした。 アブラハムがここで井戸を掘り当て、約束の地を初めて得て、神のみ名を呼んで礼拝した場所です。 イサクが祭壇を築いて主の名を呼んで礼拝した場所です。 ヤコブ自身もかつて夢の中で神に出会った場所です。 ヨセフとの再会の喜びでもない、ヨセフのもとに身を寄せる生活の安定のためでもない、神の御心に委ねていく信仰がそこに表されたのです。 約束された土地、神の祝福にしがみつくのではなく、祝福を与えてくださったお方にしがみついたのです。 その時、約束の地カナンから離れて、また連れ戻されるという約束を、ヨセフはそこで得たのです。 「終わり」から「今」を、やがて訪れる「将来」から「現実」を見る。 聖霊によって、神の約束を信じることができるようになる。 隠された神のみ心を聖霊によって現実の中に見出し、やがて訪れる「終わり」の神の恵みの完成の希望に生かされるようになるのです。
[fblikesend]「ふたりはひとりにまさる」 コヘレトの言葉4章9~12節
「すべては空しい」という言葉で始まる「コヘレトの言葉」は、この世の不条理や矛盾あるいはこの世の「悪」にどのように対処すべきかという道徳的な視点を感じますが、むしろ、ひとりひとりに与えられた人生の目的は何か、生かされている意味はどこにあるのかという問いを探求している視点を強く感じます。 ルターは、コヘレトは「隠された神のもとで人生の大いなる謎の前に無力に立ちつくす人間である。 人生の意味への深いこの疑いは、コヘレトのような理性の立場からは答えられない。 しかし、このようなごく自然な人間の絶望は、福音の光に照らされる時、克服される。 『コヘレトの言葉』はキリストへの道を備える書である。」と、旧約聖書から新約聖書への橋渡しとして評価し「慰めの書」と呼ぶのです。 「改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。」と断じて、その説明のために「ひとりの男」の姿を持ち出します。 社会の中の孤独なひとりの存在を象徴します。 動機はどうであれ、仲間との交わりを捨てひとりで生きていこうとしている姿、「富」のために飽くことのなく労苦している姿であると言います。 本来、生かされていくために備えられたに過ぎない「富」を、自身の人生の目的と化してしまった姿です。 この姿を「空しく、不幸なことだ。」と断じて、いったい「だれのために労苦するのか」と問いかけるのです。 「ひとりよりもふたりが良い」と、社会の中の仲間との交わり、主イエスにある交わりに生きるようにと勧めるのです。 主イエスは、神と人との交わりを取り戻すためにこの世に遣わされてきたのです。 この世を裁くためではなく、この世が救われるために遣わされてきたのです。 主イエスに結ばれた者どうしの間にある隔てを取り除くために、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と新しい戒めを与えてくださったのです。 私たちは創造の初めより、人を必要とする存在、主にある人と人との交わりの中に生かされる存在として創られたのです。 分かち合える者を必要としているのです。 人生を旅になぞらえ、旅をしながら労苦を共にする仲間との生活を念頭に、「共に労苦すればその報いは良い。」と言います。 天地創造の際の「耕す」という労働は「仕える」という意味の言葉が用いられており、本来の労働は神から与えられた地を耕すこと、その置かれた地に仕えるということなのです。 「善いサマリア人」のたとえでは、主イエスは「追いはぎに襲われ、半殺しの目にあった人の隣人にだれがなったと思うか」と尋ねられたのです。 隣人になったのは、触りたくないものに近づいて行ったサマリア人です。 主イエスは、私たち罪人の中に自ら飛び込んで来てくださったのです。 「真の仲間」とは、「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」、この変わらぬ愛を仲間に求めるのです。 残念ながら持ち合わせていないもので、主イエスを通して注がれるご愛によらなければならないのです。 「寒い夜に野宿するときも互いに暖まれる」存在でしょう。 諺にも「喜びは分ち合えば倍になり、悲しみは半分になる」と言うではありませんか。 旅の途中、襲って来る強盗たちにも、ふたりなら立ち向かえると言うのです。 そして、「三つよりの糸は切れにくい」とまで言われる。 これは「三本の矢」ということ、二人よりも三人ということでもなく、主に結ばれている者どうしの交わりに、「二人または三人、わたしの名によって集まるところにわたしはいる」と待っておられる主イエスに結ばれた三つよりの糸ということではないでしょうか。 救い主イエスの登場の前準備として響いてきます。 私たちの弱さも違いも越えて、救われる道がすでに開かれているのです。 弱さも、違いも、神の恵みに気づかせる出発点であるように思わされます。 パウロはそれを神の御前に曝け出して、その弱さを用いられて、「その弱さで十分である」と主イエスに言われたのです。
[fblikesend]「わたしの名によって集まるところ」 マタイによる福音書18章15~20節
マタイによる福音書第18章では、神と人との関係、主イエスに結ばれた人と人との関係を通して、「天の国、神の国」について語りかけています。 18章冒頭で主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と語り、「つまずきは避けられない。 だが、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は不幸だ。」とも言われます。 そのうえで、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。 これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と諭されたのでした。 そこで語られた「たとえ」の「迷い出た一匹の羊」とは、神との関係を失った存在です。 もともと神との関係、隣人との関係の中で生きていくようにと創られた存在であることを忘れてしまった存在です。 神の側からすれば、この失われた存在を取り戻すことが神の御心であった。 主イエスこそ、この迷い出た羊、滅びに向かっている存在を取り戻すために、人間として遣わされてきた存在であった。 父なる神が容認することのできない、人間を縛る「罪」を背負って代わりに裁かれるために、「贖罪のいけにえ」として遣わされてきた。 そうでなければ、失われた存在である私たちは「神の国」に入ることができない。 神のもとから引き離そうとするとてつもない力をもっている「罪」から、私たちが解放されなければならない。 神の御心が果たされるよう、神と人との関係が崩れないよう、神によって呼び集められた人と人との関係が崩れないようにと、主イエスはこの第18章で、一緒に神の国に入るようにと促すのです。 そこで、「兄弟があなたに対し罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」と言われる。 「兄弟」とは、主イエスによって呼び集められた神の民の群れの兄弟のことです。 そのままでは滅んでしまうから「兄弟」の罪は神のみ前に真剣に問われなければならない。 ひとりも滅んではならないという神の御心のゆえに、その兄弟に「罪」を見つめてもらわなければならない。 神の裁きは神の赦しに大きく覆われるのです。 「もしその兄弟が、あなたの言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」 失われた羊、自ら神と人との関係を閉じた者を取り戻したことになると言われるのです。 もし兄弟が聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。 それでも聴き入れなければ、教会に申し出なさい。 教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と言うのです。 わたしの名によって集まるところにおいては、本人が気づくようにと祈り合い、異邦人か徴税人のごとく神との交わりから最も遠いと思われた人々ですら、主イエスは救いと恵みを与えられたではないかと、主イエスの名による祈りに委ねるようにとマタイによる福音書は指し示しているのです。 この直後に主イエスは徹底的に赦すようにと、「仲間を赦さない家来」のたとえを語るのです。 自分自身がすでに主君から赦された恵みのうちにあることを忘れて、仲間を断罪する家来の姿です。 主イエスの十字架に象徴されるご愛の分かち合いから離れることのないよう、自ら主イエスに結ばれた関係を絶ち切らないよう、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われるのです。 神の民の群れ、主イエスのからだとなるように、本来神ご自身しか持ち得ない権能「天の国の鍵」が授けられているとまで言われる。 他人の過ちを告発するだけのひとりよがりの義人とならないよう、主イエスの名による交わりと祈りに委ねていくように、私たちに授けられている権能こそ主イエス・キリストの権威のみであることを決して忘れてはならないのです。
[fblikesend]「神の畑、神の建物」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節
「神に用いられる器」とは、神に必要とされている人ということでしょう。 私たちは、主イエスに出会って、主イエスに結ばせていただいた者です。 「キリストのからだ」であるからこそ、果たすべき役割は大なり小なりそれぞれにふさわしくあるはずです。 与えられた役割が果たされなければ「キリストのからだ」全体、キリストを通しての神のみ心が果たし得ないことになるのです。 「神に用いられる」とは、自らが「キリストのからだ」の一部であることに気づかされ、自分に備えられた恵みを受け取って従順に用いて、感謝してその御心に委ねて従っていくということではないでしょうか。 パウロがコリントの教会の人々に、「兄弟たち、キリストとの関係においては乳飲み子である人々」と呼びかけています。 パウロは2年足らずでコリントの教会を立ち上げ、その後を弟子のアポロに託して、エフェソに移ったのです。 アポロは雄弁で、聖書に精通し、説教で多くの人々を魅了し、外見も立派であったと言います。 一方、パウロは朴訥で、説教は分かりづらく、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と表現されています。 アポロに惹きつけられた人々は、アポロを指導者として新しい歩みを望んだ。 一方、創設者であるパウロから直々に教えを受け導かれた人々は、新しいアポロの動きに反発をしたと言います。 これが、コリントの教会内部の争いです。 パウロは、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる。」と言います。 パウロの言う「肉の人、ただの人」とは、キリストの十字架の贖いのみ業に立つことなく、いつまで経っても自分という存在に囚われている人のことです。 一方、「霊の人」とは、キリストの十字架に贖われ、自分という存在が神のものとなっている人、自らの拠り所をキリストの十字架の贖いに置いて、その恵みに生かされている人のことです。 パウロは終始、「十字架に架けられたキリスト」(2:2)だけを宣べ伝えてきたと言います。 神のみ言葉の方に違いがあるのではなく、聴く側の状態によって「乳を飲むようなもの」になったり、「固い食物を噛み砕くようなもの」になる。 この十字架の救いを受け止めるには、どうしても霊の働きが必要になるのです。 「わたしたちはキリストのからだであり、アポロも、パウロも、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 パウロは植え、アポロは水を注いだ。 しかし、成長してくださったのは、神なのです。」 パウロは、私たちは「神の畑」であると言います。 蒔かれる種はみ言葉です。 それが実り、育っていく畑が私たちだと言うのです。 実を結んでいくのは、蒔かれた神のみ言葉です。 あくまでも大切なものは神の働きです。 私たちが用いられて、神の恵みの業が映し出されることなのです。 もうひとつパウロは、私たちが「神の建物」だと言います。 私たちは「キリストのからだ」の一部分です。 一人一人が立派になり、建物全体が成長するのではない。 一つ一つの結びつき、交わりを壊してはならないのです。 主によって集められた群れ全体の益を目指しているのです。 この全体を築き上げるのは、神ご自身です。 私たちは神が蒔いてくださる畑、神が築いてくださっている建物に組み込まれた部分です。 十字架を背負ってくださったキリストを指し示すこと、蒔かれた福音の種を受け止め聴き続けること、自分を顧みるのではなく十字架の上で罪を贖ってくださっているキリストを仰ぎ見ることです。 これらのことを邪魔するのが「自我」、「肉の思い」です。 自分自身から解放されること、神のみ前に進み出て砕いていただくことです。 神は用いられるのは、この「砕かれた魂」(詩編51:19)なのです。 「わたしの神」から「神のためのわたし」へと変えて頂きましょう。
[fblikesend]「置かれたところで常に励みなさい」 コリントの信徒への手紙一15章50~58節
パウロは、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。 朽ちる者が朽ちないものを受け継ぐことはできません。」と言います。 「肉と血」とは、私たちの「からだ」のことを言うのでしょう。 これをもってしては、神の国を受け継ぐことができないとパウロは言い、そこで「わたしはあなたがたに神秘を告げます。」と語るのです。 この「神秘」と訳されているギリシャ語は「ミステリオン」という言葉で「奥義」とも訳され、旧約聖書の時代には明らかにされなかった事柄、神の御心が、今ここに明らかにされ成し遂げられてきた。 そして十字架に死んで、よみがえらされ、天に上られたイエスが再び現れ出る時、世の終わりがある。 コリントの信徒の人々が心の底では疑問に思っていた「死者はどんなふうに復活するのか、どんなからだになるのか。」ということに、パウロは真正面から応えていこうとするのです。 パウロは、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(15:42-44)と言い、これが「神秘」だと言うのです。 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも活かしてくださるだろう。」(ローマ8:11)とパウロが語っているとおりです。 この世にあっても霊を与えられることによって、「よみがえり、復活」はすでに始まっている。 この私たちの「肉と血」がそのまま蘇生することが復活することではない。 そのような人間が、神の国を受け継ぐこと自体が「神秘」だと言うのです。 しかし、この起こされた「よみがえり、復活」は、「終わりの日」において完成されると言います。 パウロは、「からだ」を取り替えるのではなく、「古いからだの上から新しいからだを着る」と表現します。 神が良きものとして創造したものがいつしか罪の狡猾な働きに縛られ、本来意図されたものとは程遠いものとなった。 それを主イエスの十字架と復活によって取り戻すということ、主イエスという贖いによって買い戻すということ、「古いからだの上から新しいからだを着る」ということです。 これは「神の国を受け継ぐため」なのです。 今、倒されるべきは、「死」そのものです。 人間が「死」に脅かされているのは、「死」のとげである「罪」に縛られているからです。 「死」が滅ぼされれば、朽ちる「からだ」から劇的に変化することになる。 それは神の国を引き継ぐため、いつまでも主イエスと共にいるためなのです。 朽ちるべきものの上に朽ちないものを着せられない限り、今とは異なる新しいからだにはなれない。 しかし、神の恵みの業がすでに起こされている。 私たちはこの復活の約束を受けて、希望が果たされることを待ち望んでいるのです。 58節に、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。 主イエス・キリストに結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄になることはありません。」と断言するのです。 イエスは、聖霊が下されたことで、この苦しむことのできる「からだ」を担ってくださったのです。 敵意を向ける人たちの救いのため、その「からだ」をもって生きてくださったのです。 「肉と血」は苦しみを避けようとし、死を恐れて見ないよう、考えないようとします。 「からだ」は、聖霊という神の約束の賜物が注がれることによって苦しみを背負ってでも、悲しみを引き受けてでも、生きることができるようになるのです。 私たちの今味わっている苦しみや悲しみや喜び、思い煩いや期待こそ、私たちの中に聖霊が宿っている証しなのではないでしょうか。
[fblikesend]「神の前と人の前」 コリントの信徒への手紙二5章11~17節
パウロは、「内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供している。」と言います。 「外面を誇っている人々」に対して、「内面を誇っているわたしたち」のもとに呼び戻そうとパウロはするのです。 「神の並外れて偉大な力、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光、このような宝物を土の器に納めている。」(4:6-7)と言います。 その「宝」の中味を説明や教えや解釈によってではなく、コリントの教会の人々に対するパウロ自身の在り方、生き方によって、もっと突き詰めれば、そのパウロを突き動かしているキリストのご愛について語るのです。 最初に、「主に対する畏れに生きること」だと言います。 この「畏れ」とは、恐れおののくことではありません。 旧約聖書の時代では、「神を畏れる」ことは信仰の中心、知恵の初めでした。 パウロは、「わたしたちは、神にはありのままに知られています。」と言い、私たちを熟知しておられる神のみ前に立つこと。 その神が遣わした主イエスがすべて引き受け、背負ってくださった神の裁き、主イエスの十字架の前に立つこと。 そこまでしてくださった神の恵みのみ前に立ち味わうこと。 この「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ:21) パウロはかつての自分自身の姿を思い浮かべながら、この神への畏れを失った者が、罪と死に縛られている存在であると言うのです。 更に、「外面を誇っている人々に応じられるように」と「内面に生きる」ことを求めます。 私たちはどうしても外面的なものに左右されます。 主イエスは、「ファリサイ派の人の祈り」と「徴税人の祈り」を示して、神の目に留まったのは「徴税人の祈り」だと言います。 「ファリサイ派の人」とは、社会的に申し分のない立派な人、自分は正しいと豪語し他人を見下している人のことでしょう。 「徴税人」とは、内面までもありのまま曝け出して、「神の前に立つ人」のことでしょう。 真の誇りを偽りの誇りに替えて、心の中に宿すように。 「土の器」を誇るのではなく、土の器に納められた「宝」を誇るように。 その「宝」を自分のためではなく、「土の器」を通して神の民をつくり上げるため、キリストのからだを築くために用いるようにと言うのです。 人々も、愛する弟子たちも、「肉に従ってキリストを知ろう」とし、目に見える結果に失望し離散したのです。 パウロも同じでしたが、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という、目に見えるところによれば処刑されたはずのイエスが復活して生きて呼びかけている。 この声を聴いたパウロは地面に倒れ、目が見えなくなって、キリスト教徒のアナニアに助けられるのです。 コリントの教会の人々に対し説明することのできないこのパウロの体験を、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」だと言い、「わたしはありのままに知られたいと思います。」と、自分自身の生き方、在り方によって、復活の主イエスと共に知られたい、この「キリストの愛から、だれがわたしたちを引き離すことができましょう。」と、キリストのために生きる、愛する人のために生きる、もっと多くの人のために生きる、そして神から「宝」を授けられた自分自身のためにも生かされるよう、この一筋の道を歩み通す為にも人と神とに仕えていくことを勧めるのです。 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」、キリストを通して注がれてくる「新しい命」を受け取って味わっている人である。 滅びに向かっていた人が滅びに向かっている人に呼びかけ、それぞれの人に合わせて復活の主と共に神のもとへ帰るようにと促す人に変えられていくのです。 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」のです。 神とキリストとの関係がまったく変えられる時、この地上の生活を共に送っていく人との関係もまた、必ず根底から変えられていくのです。
[fblikesend]「主のもとへ帰るという礼拝の姿」 フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」とパウロは言います。 なぜそのようなことを語らなければならないかと言いますと、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」からだと言うのです。 本来フィリピの教会の人たちに向けての手紙であるはずです。 主イエスの十字架を信じていない人たちに対してではなく、実際の信仰の生活において、主イエスの十字架に支えられて生かされているかどうか。 主イエスを通して表された神の恵みと赦しを受け取ることなく、自分たちにはかかわりのないこととする者が多いと涙ながらにパウロは語るのです。 このパウロの言葉は、自分自身を誇っているのではありません。 主イエスによって与えられた自分の中にある恵みを、同じように宿すことを願うパウロの祈りです。 パウロが指し示しているのは、パウロ自身のことでも、人間の模範の姿でもない。 「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、パウロの中に宿っている主イエスご自身を指し示すのです。 十字架によって生かされる、神の恵みのみによって生かされるという恵みから離れてしまって、自分の力や努力、自分の理解や行いを少しでも混ぜて十字架の救いの恵みを薄めていく。 神の力や知恵は、人間の力や知恵をはるかに凌ぐ。 「万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」と言うのです。 私たちは自分を誇っている限り、どうしても十字架がその人の躓きとなり、必要としなくなる。 しかし、十字架に示された真の神の恵みとご愛を受け入れるためには、この十字架を受け入れる必要があるのです。 十字架には、神の裁きと共に、神のご愛が凝縮されているのです。 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリント一1:31)と語っているとおりです。 パウロは「彼らの行き着くところは滅びです。」とまで言います。 十字架による救いがないとするなら、他に救いの道はない。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と言うのです。 私たちは残念ながら、最後の詰まるところのことではなく、今どうなるのかということだけに終始してしまう。 パウロはその「行き着くところ」に、フィリピの教会の人たちの目を向けさせるのです。 「彼らは人間の欲望とでも言うべき腹を神とし、恥ずべきもの、神ならぬものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」 だから、神との正しい関係を取り戻すこと、神のみ前での生活を最後まで続け通すことを勧めるのです。 「わたしたちの本国は天にあります。」と、「あなたがたはキリストと共に復活させられた」という違いがあると語るのです。 自分を、あるいは自分の造り上げたものを愛してしまっていては、神を知ることはいつまで経ってもできない。 主イエスとの交わりを回復していただき、主イエスと共にある人々との交わりに加えていただかなければ分からないのです。 実際の信仰生活において、パウロは「主イエスが救い主として来られるのを待っています。」 主ご自身が救いの完成として神の恵みに満たされて生活を送れるよう自ら来られる。 その結果、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」と言います。 やがて朽ち行く人間に、朽ちない生活ができる道を与えてくださった。 このことを、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼びかけ、「主によってしっかりと立ちなさい。」と、キリストと共に、キリストによって生かされなさいとパウロは、この世と一線を画した「礼拝の姿」を求めているのではないでしょうか。
[fblikesend]「満たされた油の壺」 列王記下4章1~7節
聖書箇所の預言者エリシャが行った奇跡は、マタイ福音書25章に記されている主イエスの語られた「10人のおとめのたとえ」の中に示された「油」と「壺」を思い起こします。 エリシャの行った奇跡の数々は、主イエスがなされた奇跡によって更に鮮明に、神のみ心を鋭く私たちに語りかけてくるのです。 預言者エリシャは、主なる神のみ言葉でなすべきことを知り、み言葉どおりに働いたがゆえにこの世で奇跡と思われるような神のみ業が示されたのです。 その奇跡が、何百年後にこの世に遣わされてきた主イエスによって、更に神のみ心が深められていった。 神の霊なるみ言葉と賜物を働かせるならば、今まで気づきもしなかった神のみ業を共に味わうことができると語りかけてくるように感じるのです。 主イエスの光によって、神のみ言葉とみ業を私たちははっきりと受け取ることができるようになるのです。 「預言者仲間の妻の一人」が、エリシャに助けを求めて叫んでいます。 「わたしの夫は、死んでしまいました。 あなたの僕でした。 主なる神を畏れ敬う人でした。」と言います。 その夫は、借金を残して死んだのでしょう。 預言者として仕えた夫の死による家族の窮乏の切実な訴えです。 しかし、妻は社会に向けて訴えるのではなく、預言者エリシャのもとにきて、神の憐れみと恵みに期待して神のみ言葉に聴こうとするのです。 彼女に対しエリシャは、「何をしてあげられるだろうか。 あなたの家に何があるのか言いなさい。」と尋ねるのです。 「油の壺一つのほか、家には何もありません。」という彼女の答えは諦めが漂っています。 エリシャは、今すでに神が彼女に与えておられる恵みの賜物に目を向けさせるのです。 そして、「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。 空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。」と、 彼女と交わりのある者、その手元にあるものにも目を向けさせるのです。 そして、「家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。 いっぱいになったものは脇に置くのです。」という不思議な命令を彼女に告げるのでした。 マタイによる福音書25章に出てくる主イエスの「10人のおとめのたとえ」では、「油」とは主なる神から注がれる賜物、神によって注がれるみ言葉と恵みでした。 「壺」とは、それらを受け入れ、蓄えるための器、私たちの祈りであり、信仰であり、礼拝する姿でした。 このたとえは、主イエスの十字架の直前に語られた「たとえ」です。 「その日、その時」は突然訪れる。 「目を覚ましていなさい。 油を受け取る用意をして待ちなさい、 油を入れる壺の中を空っぽにして、注がれるものを受け取る準備をして待ちなさい。」と言われているのです。 この世の煩いや、自分の築き上げたもの、自分が誇りとするものがあれば、主なる神からその時に必要な新しい賜物が入ってこないでしょう。 自分に都合のよいものにしか耳に入らないでしょう。 「戸の閉められた家」だけに「油」は注がれたのです。 一つずつの「壺」に今与えられている油を注ぎ始め、いっぱいになればすぐ脇に置いて目もくれず注ぎ続けた。 どれもこれも不思議といっぱいになった。 驚いた彼女は「もっと器を、持っておいで」と子どもに言ったけれども、「器はもうない」と子どもが答えたとたん、「油は止まった」と言うのです。 他の家の話ではない、彼女の家の中に今、その時に必要な油が注がれる恵みが訪れたのです。 信仰と祈りの応答のあるところに、集中的に行われた場所と働きのもとに救いと恵みが起こされたのです。 主なる神が注がれる「油」は無尽蔵です。 どれだけ自らの「壺」を空っぽにして受け取る備えができているのかどうかです。 小さな存在を用いて、大きな憐れみと恵みの業を果たしてくださる主なる神に期待することです。 神さまからの恵みは互いに分かち合うもので、そのための「油」、「壺」です。
[fblikesend]「生ける神の神殿、わたしの軛」 コリントの信徒への手紙二6章11~16節
パウロはキリストの福音を宣べ伝える務めを書き綴り、その締めくくりとして「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と語るのです。 パウロほど、福音を宣べ伝える恵みを味わった人はいないし、福音を宣べ伝えるがゆえに苦痛極まりない惨めさを味わった人はいないのではないでしょうか。 その体験を、「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」といった言葉で表現しています。 パウロも、自身の愛と労苦によって生まれたコリントの教会の人々から言われなき非難、中傷を浴び、傷つきもしていたのです。 筆舌に尽くしがたい出来事を経て、その関係の修復にあたり「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と呼びかけるのです。 パウロは、自分自身の生き様を通して注がれた神さまの恵みを最終ゴールとしていません。 その結果が重要ではなく、その過程において味わった主イエスとの出会いと交わり、主イエスご自身が心の内に宿り引き起こされた変化こそ、神さまの恵み、祝福だと言うのです。 私たちに起こる出来事が、その受け取り方によって「幸い」にもなるし、「災い」にもなるということです。 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも、真理の言葉と神の力によって、義の武器を左右の手にもって、自身の大いなる忍耐をもって主イエスによって与えられた務めを果たしてきたと、ありのままの姿でその弱さも含めてさらけ出して主イエスの恵みを証しするのです。 パウロ自身も攻撃を受け、傷つけられ、自己の弁明もしたくなるでしょう。 しかし、パウロは「コリントの人たち」となおも諦めずに呼びかけ、「あなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」と言うのです。 かつての自分と同じコリントの教会の人々の姿を受け入れ、自分に注がれた同じものが芽生え、呼び起こされるようにと祈るのです。 自分自身と同じように、コリントの教会の人たちの贖いのためにも主イエスは死んでくださったはずであると、願いを込めて「子供たちに語るように、率直に語り、心を開く」のでした。 二つ目の勧告としてパウロは、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と言います。 「軛」とは、牛やろばなどの首につける横木のことです。 性質の異なる動物を一緒に組み合わせて「軛」に付けると、うまく耕すことができません。 当時の「コリント人」とは、「みだらな人」というレッテルまで張られていた道徳的にも、宗教的にも退廃していた町にパウロは足を踏み入れ、キリストの福音を宣べ伝え、ヨーロッパの有力な教会の礎を築いたのです。 この勧告は、この世との関係を一切断ち切って、この世との分離を促しているのではありません。 キリスト者とは、イエス・キリストを救い主と受け入れ、信じて生かされていく者でしょう。 イエス・キリストを知らず、受け入れず、神のもとから離れてしまっているこの世において、その証し人となる務めを与えられた者です。 むしろ、誤りだらけの、闇の真っ只中と言わざるを得ないこの世においてこそ、しっかりと証し人として生きるべきです。 神によって用いられる存在として生かされるべきです。 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)と言われているのです。 「正義と不法、光と闇、信仰と不信仰とは、何のつながりがありますか。」と迫ります。 最後に「神の神殿と偶像」を対比して、信仰と不信仰に直結する「礼拝」の姿を迫っているのです。 キリスト者こそ、主なる神が住まう神殿である。 神と出会って、神と共に歩む、この世と一線を画した生活、それが私たちのささげる「礼拝の姿」なのではないでしょうか。
[fblikesend]「高い天から注がれる神の霊」 イザヤ書32章15~20節
イザヤ書の28章から35章までに「災いだ」という言葉で語られている「六つの災いの宣告」が語られています。 六つもの災いがあるがゆえに、「ついに」、今までの裁きを終えた後に起こされる主なる神の「救い」と「変革」をイザヤは語り始めるのです。 第32章の冒頭の1節から8節に少し目を留めます。 「一人の王が正義によって統治する。」 「高官たちは公平をもって支配する。」と言います。 ここで言う「一人の王」とは、正義の裁きと憐れみと恵みを兼ね備えたメシア、イエス・キリストでしょう。 旧約聖書によって延々と書き記し、伝え続けられてきたみ言葉が、イエス・キリストによって成し遂げられ、「神のものとなった民、イエス・キリストのからだとなった民」、新しい神の民が生まれると信仰告白をするのです。 ひとりのメシアが統治する。 そのメシアの贖いを受けた者たちが統治するようになる。 「ついに、今や、そのとき」が訪れたと賛美し、礼拝をささげているのです。 「風を遮り、雨を避ける所のように」、「水のない地を流れる水路のように」、「乾ききった地の大きな岩陰のように」なるという外的な変化に留まらず、内面的、霊的な変化が人間の心の中に訪れる。 「見る者の目は曇らされず 聞く者の耳は良く聞き分ける。 軽率な心も知ることを学び どもる舌も速やかに語る。」ようになる。 愚かな者が愚かなことを語っていても、神を無視して、主について迷わすことを語っていても、ならず者が謀り事をめぐらし災いをもたらしても、見極めることができなかった。 それらを見事に見極めることができるようになる。 この世における評価がまったく覆される。 そのメシアによる変革と逆転は、救いの実現に向かっているときではなく、むしろ破滅へと裁きの実現へと向かっている厳しい現実の中にこそ訪れると語るのです。 15節に「ついに、我々の上に霊が注がれる。」と言います。 「恵みを与えようと待っていた主なる神が、ついに憐れみを与えようと立ち上がられる。」 神の霊によって、神ご自身の意図をもってご自身のみ心を果たすために事を起こされる。 そのことを、「高い天から注がれる」と言うのです。 その変革は、私たちがうごめく世界の中からではなく、この世の私たちの思惑や計画によって起こされるものではない。 神の側から私たちのところへ下ってくる神の霊による力、意志によって果たされることである。 今、イスラエルの民が味わっている荒廃と滅亡の惨憺たる現実、自己解決の道が全く閉ざされてしまっている状態。 そこに救いと恵みの時が訪れる。 これは、私たち神の民の群れの中から、神の民の決意と決断によってもたらされるものではなく、神ご自身がご自身の民を用いて、天からの裁きとして、また、憐れみと恵みとしてご自身の民に与えてくださるものであると言うのです。 「高い天から神の霊が注がれるなら、すべてが変わる。」と言います。 「荒れ野は園となり 園は森となる。」という外的な変化、「荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。」霊的な変化が起こされる。 聖書の言う「義」とは、神との関係、交わりの事です。 「正義」とは、神との正しい関係、交わりということです。 神とのあるべき関係、神に対する信頼を取り戻すということです。 この世のものさしに縛られ、見失っていた神のものさしを取り戻すことです。 神の言う「災いだ」と言われる姿を直視しなければ、真の神の憐れみと恵みを味わい知ることが 残念ながらできないのです。 その「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」と、主イエスが遣わされる何百年も前に主なる神が約束されているのです。 「安らかな信頼」とは、厳しい体験を通して味わった神への信頼と確信です。 そこで、主イエスは「平和の住みか」、「安らかな宿」、「憂いなき休息の場所」を読み取って、エルサレムの十字架の場所に自ら進んで行かれたのです。
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