秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「成し遂げられたものは」 ヨハネによる福音書19章28~30節

2025-04-13

 ヨハネによる福音書は、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)と語ります。 イエスが十字架上で「頭を垂れて息を引き取られる」直前に語られた二つの言葉、「渇く」という言葉と「成し遂げられた」という言葉から、父なる神が主イエスを通して表された「恵みと真理」を味わいたいと願います。 この時のイエスの十字架上の姿はイザヤ書53章が語っているとおり、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、無視されていた。 苦役を課せられても、かがみ込み、口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった。」と言います。 このイエスが語られた二つの言葉には、惨めな敗北者のような姿には似つかない力強い確信めいた響きがあります。 この「渇く」という言葉は、絶望のどん底と思われるような「魂の渇き」を指し示します。 すぐ後で語られた「成し遂げられた」という言葉と相俟って、人間としての魂の渇きが、人間の肉体を背負われたイエスご自身の身に起こされた。 「神の言」そのものであられるイエスご自身に「今、ここに」実現したと、人間の死の直前に確信して発せられた魂の言葉として響きます。 ユダヤの「人々は、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプという植物に付け、イエスの口もとに差し出した」と言います。 マルコによる福音書では「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」と言い、ルカによる福音書では「兵士たちがイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突き付けながら侮辱した」とあります。 このヨハネによる福音書は、イエスは鎮痛剤としての没薬を混ぜ合わせたぶどう酒は拒まれたが、屈辱を加える嫌がらせの酸いぶどう酒はむしろ受け入れられたと語っているのでしょう。 イエスは、父なる神の民を取り戻す為に、その屈辱にまみれた杯を父なる神がお与えになった杯として受け入れられ、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたのでした。 この言葉には、人間の生涯の終わりは神のみ心の中の一つの目的の成就であり、終わりではない。 人間の可能性の一切が失われたその「終わり」から初めて始まるものがある。 その十字架上で主イエスが示してくださった「恵みと真理」を味わい知るようにと、息を引き取られる直前に心に留めるようにと導いておられるのです。 パウロが語る「あなたがたも罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」という、その順序を忘れてはならないのです。 終わりがあって初めて始まる、「死」から「命」へという始まりがあるのです。 「神との交わり」の復活です。 「恵みと真理」の大事な実体験です。 この段落の後には、主イエスのお姿によって表された「終わり」を体験した二人の変えられた姿が記されています。 「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて隠していた」アリマタヤの出身のヨセフと、「かつてある夜、人目を忍んでイエスのもとに来たことのある」ニコデモの、公然とイエスを埋葬する姿です。 ユダヤ人たちを恐れない、会堂から追放されることにも動じない、人の誉れを追い求めず、神の誉れを尋ね求める、新しく生まれ変わった「始まり」に生きるよう変えられた姿です。 主イエスが十字架上で宣言された「終わり」に、目と耳を傾けなければならない。 主イエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」(10:18)と言われていたのです。 そのために一切の侮辱も、一切の過ちや弱さもすべて背負われたのです。 主イエスの生涯の「終わり」が、私たちの救いの「始まり」となったのです。

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「主なる神の正しさと人の正しさ」 創世記4章1~16節

2025-04-06

 主なる神は人間を土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れ生きる者とされた。 「地に満ちて地を従わせよ。 生き物すべてを支配せよ。」と命じ、エデンの園を設けそこに人を置かれ、「そこを耕し、守るようにされた。」 更に、「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。 食べると必ず死んでしまう。」と命じられたと言います。 「これを食べると、神のように善と悪を知るようになる」という蛇の誘惑により、最初の女と男は神の命令に反し食べてしまった。 すると、自分たちが裸であることに気づき、神の呼びかけに隠れ言い訳を言い始めた。 それをご覧になった主なる神は、彼らをエデンの園から追放されたのです。 追放された二人が最初になした出来事が、今朝の聖書箇所です。 「新しい命を産んだ」という命の創造の業を、エバは「わたしは主によって男子を得た」と言います。 蛇の誘惑に乗って禁断の実を食べ、その過ちを神に赦しを乞うことなく、身を隠した人の言葉とすれば、新たな命を生み出すという神のような力を持ち得たのではないかと、その業に自分が用いられた自負と喜びが含まれているのかもしれません。 その子どもの「兄カインは土を耕す者となった。 弟アベルは羊を飼う者となった。」 どちらも、自分たちの働きを守り、祝福してくださった神に感謝の献げ物をささげるのです。 兄カインは土の実りをささげた。 弟アベルは羊の群れから肥えた初子をささげた。 問題は、主が弟アベルの献げ物には目を留められたが、兄カインの献げ物には目を留められなかったことです。 その理由はここに語られていません。 この神の選択をあれこれと私たちは詮索します。 人間的にみれば、不公平、不平等、不条理と思われる現実を多々目にします。 しかし主は、その違いの理由を探ることよりも、人が納得できないような現実があることを踏まえ、それをどう受け止めていくのか神のみ心を尋ね求めるようにと、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。」と迫り、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せてお前を求めている。」と、カインの応答を待ったのです。 「もし、自分の正しさに拘り続けるなら、戸口で待ち伏せているものに縛られてしまう」と、み前に進み出てくることを促しておられるのです。 兄カインは神の語りかけを無視し、弟アベルに屈折した怒りをぶつけます。 一方、理由なく殺されてしまった弟アベルの叫びを神が、「弟の血が土の中から叫んでいる」と代弁します。 その理由に対し、神は沈黙です。 「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスの十字架上での叫びを思い起こします。 私たちは、理由の分からない神のみ心、神の正しさがあることも、それを知り尽くすことなどできないことも知らなければならない。 むしろ、そうした厳然たる事実をどのように受け止めていくのかを、その事実を起こしておられる主なる神に尋ね求めなければならない。 顔を伏せず、呼びかけを無視せず、応えなければならない。 神のみ心、正しさ、ご愛は、イエスの十字架のご愛を味わうことによってしか知り得ないものなのです。 十字架を避けて、顔を上げず、応えず歩むところでは、主イエスに出会うことも交わることもできない。 十字架の主イエスのみ前に立たなければ、主なる神のご愛、正しさ、御心を知ることはできないのです。 主なる神は、いつでも手に取って食べることのできるところに、食べてはならない木を置いて、食べてはならない理由を告げず、それを食べてはならないと命じられる。 神さまはご自身のご愛、正しさ、み心をそれぞれにふさわしく示すために、ご自身との交わりを強く求めておられるのです。 「地上をさまよい、さすらう者となる」と言われたカインにも諦めず、神は「しるし」を着けて守られているのです。

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「主イエスを通して入る神の門、神の家」 創世記11章1~9節

2025-03-30

 わずか9節に過ぎない聖書箇所ですが、「バベルの塔」として広く語り継がれています。 一般的には、人間が勝ち取ってきた力と知恵を支えに、神の域に達しようとする人間の驕りの象徴のように語られています。 天まで届くような塔をつくろうとしている人間の姿をご覧になった神さまが、人間の言葉を混乱させ、人間をそこから全地に散らされた。 人間が、その力と知恵によって全地を支配しようとした結果が、人間相互の交わりを壊す結果をもたらしたと受け取られてきたのではないかと思わされます。 ノアの洪水の後、ノアの三人の息子たちの子孫が、祝福のうちに各地に広がっていった。 それぞれのところで異なる「氏族、言語、地域、民族」となったと、10章では描かれている。 しかし、この11章では、逆に神の怒りの結果のように「全地に散らされた」と言う。 ある牧師は、10章で「言語」と訳されている言葉と、11章で「言葉」と訳されている言葉は、明らかに異なる言葉が使われている。 10章の「言語」は、いわゆる母国語で、11章の「言葉」は、異なる「言語」の民をまとめ支配するための公用語を意味するものではないかと言います。 「シンアルの地に住み着いた人々」とは、この創世記が編纂された頃のバビロニア帝国の地に住み着いた、集められた人々ではないかと言われています。 当時のバビロニア帝国は、武力により、様々な文化により栄えた国です。 帝国の諸都市にはそれぞれの都市の神を祀る神殿があり、その脇にはそびえる塔が立った。 高い塔は、現在で言えば30階建ての高層ビルに相当するものもあったと言います。 それほど高い建物を造る技術がすでにあったということです。 「さあ、天まで届く塔の町を建てよう。 有名になろう。 全地に散らされることのないようにしよう。」とは、人々の自信の現れでしょう。 「バベル」とは、バビロンのヘブライ語読みです。 バビロニア帝国が、領土を拡大し、その土地の資源を収奪し、その土地の人々を捕囚として集め、支配し、奴隷化する。 その帝国の支配を確かなものとするために、自らに都合の良い公用語を制定し、その土地の人々に押し付ける。 その有様を「主は降って来て、人間が建てた塔のある町を見て」、「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われたのです。 人のつくる権力や権威を無意味なものとされた。 すでに神との交わりを自ら断ち、神ならぬものを創り出し、それを神殿に納め、この塔を通ってその神殿に入るようにと強制する「人間の支配」を無きものにしようとされた。 神との間に成り立たなくなった「交わり」のように、人と人との間でもその「交わり」が成り立たなくさせたということです。 かつて神さまは、この私たち人間の有様をご覧になって憐れんで、内なる罪に縛られてしまった人間どうしの交わりを破綻させたのです。 神が必要な措置として果たされた「言葉」の混乱であったのでしょう。 人間はそのような内なる誘惑に苛まれるところから散らされました。 神はそのようなところから、アブラハムを起こし、ご自身に交わる信仰を与え養われました。 ついには、神さまは私たち人間の救いのため、イエス・キリストの十字架と復活によって、臆病で弱々しかった弟子たちに聖霊を注ぎ込んで、与えられた信仰に応えて神のみ言葉、福音を自分の言葉で語る新しい「言葉」を授けられたのでした。 主なる神との交わりを回復する唯一の道を切り開いてくださったのです。 このペンテコステの事実にこそ、語る言葉が新しく回復され、神との交わりに止まらず、主イエスと結ばれた者どうしの交わりをも回復されたのです。 神の与える混乱と妨げは、神の救いと恵みの始まりです。 人間の造り上げるような塔から入るのではなく、人間が造り上げた神を祀るような神殿ではなく、「父なる神が準備されている」(ヘブライ1:16)新しい都と神殿があると言うのです。

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「生き延びさせるための滅亡」 創世記6章9~22節

2025-03-23

 神さまが「すべてが良しとして創造された世界であるはずなのに、どうしてこのような世界になってしまったのかと後悔し、心を痛められた。」と言います。 「神の前に堕落し、不法に満ちていた。 すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。」と言わざるを得ないその現実に対し、神さまは「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と言われる。 神によって形づくられたはずの神の似姿から遠く離れ、神によって愛されている自分自身の尊厳も、祝福されるべき人生をも破壊していく。 神さまからみれば、もうすでに終わっている。 この「ノアの洪水物語」を記した当時の祭司たちこそ、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、エルサレム神殿を破壊され、望みを失ってしまった捕囚民として遠くバビロンの地に流された人たちです。 自分たちの誤った歩みから、こうした滅びの歩みを生み出したのだと自戒しつつも、神の憐れみに寄り縋っていこうと、この「ノアの洪水物語」を記したのではないでしょうか。 怒りに燃えた神が、ついにその怒りを爆発させて「地もろとも滅ぼす」と語られたのでしょうか。 恐ろしい神が激しい言葉を口にされたのでしょうか。 神の安息のうちに憩うはずであった祝福されるべき自分自身を破壊し続け、神との交わりを自ら断ち切って、自分のためだけに神の造られたものを利用しようとした。 そうした私たち人間の姿を神さまはご覧になって、心を痛め、苦しみ、忍耐し、自らに似せてつくられた人間を造ったことを後悔するほどまでに、嘆き悲しんで叫んだ言葉として、また、誰よりも深く私たち人間を憐れんで愛しておられる神さまが、すべてのものをご自身のもとに取り戻すために発した言葉として響いてきます。 神ご自身が「目を覚ますように」と裁き、その裁きの上に立つ「真の救いと解放」を与えようと決断されたみ言葉が「ノアの洪水物語」ではなかったでしょうか。 同時代に生きた人々が、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」のに、「ノアは神と共に歩んだ」、「神に従う無垢な人であった」と表現され、神の前に正しい人、神のみ心に従うという一点において非の打ちどころのない人でした。 そのノアに、神は「木の箱舟をつくりなさい」と事細かく指示されたのです。 ここで言う「箱舟」とは、帆もなければ舵もない、ただ水の上を漂い流されていくだけで、自分でその行き先を定めることも進めることもできない、命じられた神さまに委ねて漂うだけの舟なのです。 指示された長さ、幅、高さは破壊されたエルサレム神殿とほぼ同じ大きさです。 エルサレム神殿が完全に破壊され、エルサレムから遠くバビロンの地に捕囚として流された体験を味わった祭司たちが、再び「残された者」として息を吹き返し再び神殿が起こされるという約束を信じて辛うじて生きていた者たちによって記されたものです。 「造れ、入れ」と命じられた「箱舟」こそ、再建されるべき神の神殿のしるし、「ノア」こそ、神に命じられたとおりにみ手の中に委ねた「残りの者」の象徴です。 再び神の真の神殿が起こされる時がくるという「希望のしるし」を信仰告白として語ったのです。 箱舟に入れられたノアたちこそ、破滅的な現実を目の当たりにし、神の正しい裁きを味わい尽くすことを強いられた人物、神の約束に生きていくことを箱舟の中で待った人物です。 神が取らざるを得なくなった滅亡です。 神の悲しみと憐みと忍耐によって、もう一度新しい出発のために生き延びるようにという愛の裁きです。 それを受け取って、すべてを飲み尽くした水の上で解放の時を待ち続けたノアたちの姿こそ、捕囚の身となった祭司たちの希望の姿です。 主イエスを裁かれたのは神ご自身でした。 罪に縛られて身動きができないでいる私たちを見かねて、主イエスによって新しい神の神殿がつくられ、箱舟の中だけでなくすべての人々に今や主イエスの十字架と復活によって「真の救い」が解放されているのです。

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「叫び求める選ばれた者の祈り」 ルカによる福音書18章1~14節

2025-03-16

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と、「やもめと裁判官」のたとえを語られたのでした。 イエスはこの直前にファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」と問われ、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、あなたがたの間にある。」と言われ、イエスご自身こそ神の憐れみと恵みを示すものであると宣言されたのです。 弟子たちには、「多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と、すべての人々の贖いのいけにえとなる決意をもって、その十字架と復活が待ち受けるエルサレムに向かう途上にあることを告げるのです。 その途上で、「再びご自身が現れる日がくる。 その日には、裁きと救いが同時に起こされるように、『残される者』と『集められる者』が取り分けられる。 ご自身の十字架と復活によってもたらされる恵みと憐みが支配する世界がやってくると宣言された直後に語られた「たとえ」なのです。 当時の裁判官とは、賄賂を受け取り、裁きを曲げる者であったようです。 「一人のやもめ」とは、お金も援助者もいないので、何度も繰り返しひっきりなしに訴える存在として語られたのでしょう。 「失望せずに祈り続ける」という「ひたすらな祈り」が不正な裁判官さえも貫き通す。 まして公正な裁き人であるならほおっておかれることはないと、いずれ訪れる「終わりの日」、「イエスが再び来られる日」に救いの完成を受け取るために「失望せず、祈るように」と愛する弟子たちに語られたのです。 「祈り」は単なる願いではなく、自らの意志をもって直接神の前に出ていくことです。 しつように繰り返すなら、自らの意志が神の前に曝け出されていくのです。 不正な裁判官が祈りのひたむきさにせき立てられ仕方なく応じるようなものではなく、神ご自身がみ心を果たす為に,忍耐して待ち、選ばれた人に祈る心を迫り、「祈り」を生み出されるのです。 「祈り」は神さまからの賜物です。 「祈り」をもつこと、「祈り」が与えられることは、もうすでに神のみ心に動かされ、用いられ始めているということです。 主イエスが「今の時代の人たちから排斥されることになる」事態となっても、再び来られるという主イエスの約束に立って、「目を覚まして祈りなさい。 信仰に至るまでに待ち望みつつ祈りなさい。」と響いてきます。 「祈り」は呼吸をしているように、神の息を受け止めるような生活にまでならなければならないと言います。 主イエスは「祈り」と「信仰」をほぼ同義語のように用いておられます。 直前に「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人たちの祈りの姿と、徴税人の祈りの姿を主イエスは語ります。 ファリサイ派の人たちの祈りは、人々の前で堂々と人々に聞かせるように、心の中では「ほかの人たちのような者ではないことを感謝します。 週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、そうした思いを秘めながら祈る姿であると言います。 人と比較して自分自身を見つめ、神と人の前で自らを誇り本当の自分の姿を見つめようとしない姿です。 主イエスは、神の御前に進み出ることさえ憚るような「わたしを憐れんでください」と祈る徴税人の祈る姿を、「神に義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 「神に義とされる」とは、神の憐れみによって受け入れられるというただ一点だけであると言うのです。 やもめのひたすらな祈りと「憐れんでください」と叫ぶ徴税人の祈りが合わさって、「祈り」が「信仰」となって生活に息づいて、本当の自分の姿を知らされて、神の憐れみにすがる「祈りの姿」を愛する弟子たちに、これから起こる苦難と絶望と背信の誘惑を前にして、エルサレムへの途上に語られたのです。

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「主イエスと共にする食卓」 ヨハネによる福音書12章1~11節

2025-03-09

 「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」頃のことです。 「過越祭」とは、年一回、BC13世紀ころ、エジプト王ファラオの奴隷として苦役に従事させられていたイスラエルの民を、神はモーセという指導者を選び、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出させた。 そしてシナイ山で十戒を与えて彼らを神の民とし、信仰の祖アブラハムに対し「約束された地」カナンに導き帰してくださった、その救いの出来事を忘れないよう心に刻むために行っていた祭りです。 脱出の前夜、「小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗り、室内では種入れぬパンを苦菜と一緒に食べることを、神はご自身の民に命じられたのです。 鴨居に塗られた小羊の血がしるしとなって、「死の使い」がその家を通り過ぎる。 しかし、血が塗られていないエジプト人の家には、「死の使い」が入り込み、その家の初子が死んだと言う。 裁きと救いの両面があるように、新しい生に生きる者と古い生に死ぬ者を分かつ「小羊の血」がそこにある。 イエスご自身もまた、流される血を贖いのしるしとしてささげ、信仰によって生かされる人間を新たに創造するために遣わされてきたのです。 「過越祭」を前にして、世の罪と死に縛られているすべての人を解放し、神の子として新しく生かすために来られたご自身の姿をもって感じ取られていたのでしょう。 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と、初めてイエスを見た途端、バプテスマのヨハネが発した言葉はこのことを象徴させるのです。 「過越祭の六日前」、イエスがいよいよ十字架に磔にされ、殺されるその時が近づいている。 多くの人々は、イエスを大歓迎する。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、「イエスの居所が分かれば届け出よと命令を出していた。」 様々な思いが入り混じる中、「過越祭の六日前」、神の安息と祝福に与るようにとそれぞれの家庭で賛美し、礼拝し、神が与えてくださった食べ物を分ち合う光景があったのです。 そこには、復活のしるしとしてのラザロ、イエスによって新たな信仰へと導かれたマルタとマリア、神がこの世に遣わし死者の中から復活させることになっているイエスがおられるのです。 一方、イエスを銀貨30枚で裏切ったユダもいた。 ラザロもイエスも捕らえて殺そうとした祭司長たちもいた。 いずれイエスのもとを離れてしまう弟子たちもいたのです。 そこでマリアは、驚くべきふるまいを取るのです。 純粋で高価なナルドの香油をもってイエスの足に塗り、自分の髪の毛でイエスの足を拭ったと言います。 油を塗るというのは、客人をもてなすということもあったでしょう。 聖別のために油を注ぐことも不思議ではなかったでしょう。 しかし、イエスは「この人のするままにさせておきなさい。 わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われた。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 このことを信じるか。」とイエスにマルタは言われて、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子であると信じます」と信仰告白したように、マリアもまた無言のふるまいとして、すべての人間が支配されている罪と死を取り除くためにささげられる贖いの小羊として血を流すことになると、本当の意味でイエスをメシアであると信じる無言の信仰を告白したのではないでしょうか。 信仰をもって生きるとは、実は人間の罪の深さを知ることになるのです。 そうした只中にあって、マルタに給仕され、マリアに愛されているイエスがすべての人を客人として「共にする食卓」においてもてなしておられるのです。 「その家は香油の香りでいっぱいになった」と言います。 入り混じる只中で、神が喜んで受けてくださる香ばしい香りをささげているのです。 「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」とイエスに言われるほどの「香ばしい香り」をささげたいものです。

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「取り分けられる者の恵み」 ルカによる福音書17章20~37節

2025-03-02

 ファリサイ派の人々とイエスの、「神の国はいつ来るのか」という問答が記されています。 この問答が行われたのは、「イエスはエルサレムへ上る途中」であったと言います。 ルカによる福音書は再三にわたり、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」 あるいは「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた。」 「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。 人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」とまで、イエスは12人を呼び寄せて語るのです。 ルカによる福音書は、イエスはご自身の十字架の死とそれからの復活の出来事に立ち向かうため、エルサレムに向かっている。 エルサレムに上る旅をしている。 その途上、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」とまで言われ、三度目の「十字架の死と復活」の予告をするのでした。 しかしながら、12人の弟子たちは、「これらのことが何も分からなかった。 彼らには、この言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった。」と言うのです。 その旅の途中、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人がイエスを出迎えたと言います。 「重い皮膚病」とは、ユダヤの祭儀上不浄とされる病いでした。 社会から隔離された場所で暮らさなければならない。 一般の人が近づいた時には、「汚れた者」と叫んで、その存在を知らさなければならなかったのです。 自分ではどうすることもできない彼らは、すがる思いで「どうか、わたしたちを憐れんでください。」とイエスに叫ぶのです。 イエスはその姿をご覧になり憐れまれて、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と言われたと言う。 彼らはそのイエスの言葉に躊躇なく、何の疑いもせず言われたとおりに祭司のところに向かった。 その途中で体が癒され、清くされたと言う。 イエスは彼らの体を回復するだけでなく、祭司に癒されたことを認めてもらって、清められたと社会的に明らかにし、社会復帰の道までも開かれたのです。 問題は、その後のことです。 その癒された人たちのうちの1人だけが、「自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」 サマリア人であったと言うのです。 選びの民であるユダヤ人でもなければ、律法の戒めを固く守っていた自分の信仰の確かさでもない。 イエスという人物に出会い、触れて、その交わりを通して味わったイエスの確かさに思わず導かれていった。 そのイエスを主であると信じようとした信仰に、このサマリア人は導かれたのではないでしょうか。 重い皮膚病が癒されただけの9人と、イエスのもとにひれ伏して感謝した1人が取り分けられている事実が示されているのです。 イエスはそのことを、「あなたの信仰があなたのからだを癒した」と言うのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。 イエスは、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実にあなたがたの間にある。」と言われているのです。 すでに訪れている神の国に気づかず、隠されてしまっているものを、イエスに出会い、触れて、交わって、「今、ここに」神の国が訪れていることに気づかされて、神に感謝しイエスにひざまずく者が取り分けられる。 「ひとりは連れて行かれ、他の一人は残される。」、その取り分けられる「真の信仰」とは何かを、イエスはエルサレムに向かう途上で、十字架の死と復活がこの身に起こされるという固い覚悟をもって愛する弟子たちに語っておられるのです。 見える形で現れることだけを期待するなら、9人の重い皮膚病を患っている人たちと同じです。 イエスに触れることによって、すでに置かれ与えられている賜物に気づき見えるようになるのです。

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「神の安息という祝福に与る」 コリントの信徒への手紙二4章14~18節

2025-02-23

 「天地創造の由来」には、第一の日から第六の日までの六日間で、人が生きる「時」と「場所」、人の生きる舞台が神によって創造され、神はお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と言われ、この第七の日に、「神はご自分の仕事を完成され、安息なさった」ので、第七の日を「神は祝福し、聖別された。」と言います。 神は六日間ですべてを完成され、この七日目の日を、再び迎えることのない日として、第一の日から第六の日までとは全く違う一日として分離され、安息という形で完成された。 神によって創造されたみ業を憶え、神の安息に私たちも預かり、神の祝福を感謝して喜んで受け取る日とされたのです。 神のなさったすべての業は第七の日に向けてなされたものではなかったか。 神のこの祝福に覆われた命、神の国へと向かって私たち人間が憩うことができるようにと、神は第七の日を設けられたのではないだろうか。 そうであるのに、私たち人間が神から与えられたもので生きていこうとせず、神によって与えられている場所を、自ら所有するものであるかのように支配することで、神のもとから離れてしまった。 そこで、私たちを代表してノアでありアブラハムに象徴される「信仰」を注いでくださった。 それでも揺れ動く私たち人間を憐れんで、主イエスを私たちのもとにお遣わしになって、「信仰」によって神のもとに立ち帰る唯一の道を切り開いてくださったイエス・キリストと共に、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、第七の日の神の安息という祝福に与るようにと、忍耐しつつ招き入れてくださる。 このことに気づかされた最初期のキリスト者が、主イエスの十字架の死から復活された日として、週の初めの日に主なる神に賛美し礼拝をささげて「神の安息」に与る日としたのです。 パウロは、「地上の住みか」と人の手で造られたものではない「天にある永遠の住みか」があることは知っています。 「天にある永遠の住みか」をこよなく願って、「地上の住みか」で苦しみ悶えていますと言います。 死ぬはずのものが新しい命が授けられるようにと、父なる神が御子を地上にお遣わしになって「永遠の住みか」に至る道を切り開いてくださったことを知っている。 だからこそ、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいくことができるようになった。」 「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 だから落胆しません。」と言うのです。 その理由の一つは、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると知っているからだ。」 もう一つの理由は「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためだ」と言うのです。 神の子として裁かれるためではなく赦されて御前に立たせてくださる「約束と希望」、私という小さな存在の上に神の働きが現れ出ることになるまでに主イエスに結ばれること。 だから「落胆しない」と言うのです。 「たとえ外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていきます。」 イエス・キリストと共に、イエス・キリストのゆえに、常に新しく創造してくださる、日々新たにされていく。 神のもとから注がれる新しい命を、信仰によって砕けた魂によって受け取っていく。 衰えていく「外なる人」を支えながら、日々新しくされている「内なる人」をも宿しながら、主イエスに従ってみて味わっていく。 そこに恵みと希望があると言うのです。 「一時の軽い艱難が、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらす。」と断言するのです。 私たちは、神によって日々新しくされていく「信仰」に生きる者です。 主イエスと共に神の子として一緒に神の御前に立つ者です。 「神の安息」という、消えてなくならない「祝福」に憩うために立ち帰る者なのです。 そのために主イエスは近づき招いてくださっているのです。

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「信仰による新たな生命の誕生」 ヨハネによる福音書11章28~44節

2025-02-16

 復活という出来事は理性では受け入れにくい、人から説明を受けて納得しようとすることではなく、自分のありのままの姿を通して見つけ出していくものであるのかもしれません。 「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。」と言います。 「村の中」には、「多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」、「本人であるラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」と言うのです。 そうした中、「イエスが来られたと聞いた」マルタは真っ先に、悲しみに包まれている「村の中」から「村の外」ヘ、イエスのもとへ、「迎えに行った」と言います。 悲しみに包まれている「村の中」を決然と去って、声にならない望みを抱いてイエスのもとに駆け込むこよなくイエスを愛する姿をマルタは見せるのです。 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と思わず語るのです。 なぜ早く来てくれなかったのかという恨み言を言っているのではなく、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とマルタは語り、イエスもまた「あなたの兄弟は復活する」と即答するのです。 「終わりの日に復活することは存じております」と反応したマルタが、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」というイエスのみ言葉を引き出したのです。 マルタは、「今、ここに」共にいてくださるイエスを仰いで、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」という信仰告白に導かれたのです。 そのマルタは間髪を入れず、「村の中」に佇むマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と耳打ちし、マリアは「これを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」と言います。 「イエスを見るなり足もとにひれ伏し」、マルタと全く同じく「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と発し、イエスのおられるところには「死」は存在しないという信仰に導かれるのです。 この復活の出来事の主役は、むしろラザロ本人ではなく、キリスト者の象徴として招かれたマルタとマリアであるのではないでしょうか。 イエスが見られたものは、墓の中に葬られているラザロ、「死」の現実の前に諦めと途方に暮れて泣いている人間の姿です。 人間をここまで悲しみに叩き落す「死」の現実に対し、また、「今、ここに」復活であり、命であるわたしが訪れているのに、頼るべき神の力に依り頼もうとしないで諦める人間の姿に対し、イエスは「心に憤りを憶え、興奮され」、「涙を流された」のです。 「死」の現実の前に絶望し泣き叫ぶしかない私たち人間を憐れまれて、「ラザロが葬られているところ」に立ち向かおうと、「村の外」から「村の中」へ、死が支配しているところへ分け入って行こうとされる。 「ラザロを死なないようにはできなかったのか」とつぶやくユダヤ人たちと、イエスによって整えられた信仰の目によって見つめるマルタとマリアを前にイエスは祈ります。  神の栄光がここに現れ出る。 それは周りにいる群衆のため、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じさせるため、そのことを確信し「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と祈りを終え、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。 ラザロの復活だけではなく、イエスが復活であり、命であることを信じることができたマルタとマリアが変えられたことを語るのです。 「ラザロが葬られたところ」こそ、愛するラザロのために自らの命を差し出されたイエスの体を横たえるところ、神の働き、神の栄光の業が果たされるところであったのです。 イエスは布や覆いに包まれた「死んでいた人」を「ほどいてやって、行かせなさい」と、「村の中」から「村の外」へ、イエスのもとへと後押しをしてくださっているのです。 

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「つまずきの後に遣わされる者」 マタイによる福音書11章2~19節

2025-02-09

 バプテスマのヨハネと主イエスとの、ヨハネの弟子たちを通しての「対話」が記されています。 バプテスマのヨハネの宣教の働きと主イエスの宣教の働きを結びつけるかのように記しています。 そこには連続性があるようで、一方、古いものが寸断されて、新しいものが起こされた非連続性をも感じさせます。 バプテスマのヨハネの宣教の働きは、激しいものでした。 「悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けた。」  そのヨハネの働きを耳にして、「イエスが、故郷ガリラヤから出て来て、ヨハネからバプテスマを受けるためにヨルダン川のヨハネのところに来られた。」と言うのです。 そのヨハネが今では、「牢の中にいる」と言う。 ヘロデ大王の子の妻ヘロディアの不倫を厳しく咎めたヨハネは、ヘロディアの策謀によって死海の東岸のマケロスの要塞に幽閉され、ついには首をはねられることになるのです。 ヨハネの弟子たちが、ヨハネの遺体を引き取り、葬り、イエスのところに行って報告したと言うのです。 そのことを聞いたイエスは、ガリラヤに退き、ヨハネと同じように、「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのです。 
 ヨハネは牢の中で、自分がここから救い出されることを哀願するのではなく、「来るべき方は、あなたでしょうか。」という問いを、牢の中から自分の弟子たちを送ってイエスに尋ねるのです。 もはや牢の中から出ることができないと悟ったからなのか、かつてイエスに抱いていた思いが揺らいでいることに気づいたのか。 「来るべき方」とは、終わりの日にくると期待されていたメシアのことです。 宣教の言葉は同じであるにしても、宣教の根本的方向の違いを感じ始めたのでしょう。 イエスは、このヨハネの問いに直接答えることなく、事実だけを伝えようとするのです。 イエスは尋ね求める者に、本人が期待しているものを与えるのではなく、福音の事実だけを示してご自身を信じるのかどうか、質問者の決断を迫るのです。 イエスは、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と、人の言葉に先立つ、神の起こされた出来事の前に、空虚な飾られた言葉を沈黙させられるのです。 今度は、イエスが尋ね求めてきた者を遣わすのです。 ヨハネは、迫りくる「神の怒り、裁き」を目の前にして、悔い改めを迫る預言者でした。 自分が期待したメシアとしてのイエスにつまずいたのです。 イエスは福音の事実を伝え、この神の働きを自分のこととして受け取る以外に、メシアとしてのイエスに出会うことができないと言われているのです。 つまずく者とならないで、それらを乗り越えてイエスの到来によって福音の事実が実現していることを、イザヤの預言にはなかった「死者の生き返り」を新しく加えて告げるのでした。 「神の怒り、さばき」とは、神のもとを離れてしまった世界を取り戻そうとする忍耐のともなった決断なのです。 「災いだ、幸いだ」と言うのは、神の嘆きであり、喜びなのです。 そのうえで、「わたしにつまずかないものは幸いである」と言われているのです。 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 新しい神の恵みの世界が始まる宣言が、イエスの十字架と復活の事実によってこれから果たされる。 つまずかないでその変化をしっかり受け取るようにと言われるのです。 荒野で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えていたヨハネを「悪霊にとりつかれている」と揶揄し、社会からはみ出した人たちと食卓を囲むイエスを、「大食漢だ、大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」とからかい、非難する人たちの時代は終わった。 福音の事実をしっかりと受け取り、喜び、感謝して、与えられている恵みに生かされる時代が始まったとイエスは言われるのです。

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