秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

牧師館より      2014. 6. 15

2014-06-20

♯ 幼い子どもが放置され命を失った。 何年もだれにも気づかれないで、神さまから与えられた命を失われたという痛ましい事件を耳にしました。 全国には、なおも705名の居所不明の子どもがいると報じられました。 死体遺棄事件そのものの痛ましさも憶えますが、何にもまして何も叫ぶすべをもたない、何もすることがゆるされない立場に放置されたひとりの人格の痛ましさを憶えます。 幼い子どもだけではない、家族を失い、社会的なつながりを失ってさまよう「交わりを失った人々」の姿も、現実の姿として報道されています。 その弱い立場は、自分が原因なのではない。 親のところから連鎖してきている厳しい現実も知りました。 やるせなさの思いで満たされるのです。
先週の聖書の学び・祈り会でのみことばです。 イエスは、「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、ペトロたちにもまた私たちにも語っておられます。 人の罪を贖うというイエスの十字架を背負うことなど、人間の私たちにはできません。 しかし、親が子どもの重荷を背負うように、他者の重荷を背負っていくということであるなら私たちにもできるかもしれない。 ひょっとしたら、そこではその他者のために、自分は隠れてしまっているかもしれない。 気がついてみたら、それがイエスの十字架の道を、イエスとともに歩ませていただいているのかもしれない。 すぐ身近にいる他者の重荷なら、喜んで感謝して背負っていくことができるかもしれない。 そう思わされたのです。 (牧師 村上悦二)♯

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牧師館より      2014. 6. 8

2014-06-08

♯ 今朝、私たちは特別な主の日を迎えています。 主イエスが死者の中から復活されて五十日目(ペンテコステ)に、よみがえりの霊が私たちに与えられました。 その霊の賜物として「キリストのからだ」である、「宣教する教会」が誕生した日です。 ペトロは二か月前とは別人のように、神の言葉を大胆に語り、証しをし、癒しの業を復活の主の名によって進め始めました。 ペトロに代表される弟子たちは八方ふさがりの中から、死んでよみがえる新しい命、新しい言葉、新しい道が与えられました。 ひとりの牧師の数々の言葉が心に響きます。 『本当に行きづまった時にしか、道は開けません。』 『よみがえるためには、死ぬことが先決です。』 『生きづまることは幸いなことです。 順調であったなら工夫はわいてきません。』 『竹は節だらけです。 だから、風にも雪にも耐えられます。 私のひと節の行きづまりは、私をつくってくれました。』 『主の導きに従うことが第一条件なのです。』(パンくず牧師の行状記より) ひとりの生きる姿が、神の言葉を語っています。   (牧師 村上悦二)  ♯

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牧師館より      

2014-05-11

# 教会の前の藤棚に、素晴らしい藤色の花が豊かに咲いています。 思わず目を奪われるような見事さです。 私たちの目だけではありませんでした。 この素晴らしさに吸い込まれるように、熊蜂がいっぱい寄ってきました。 昨年まではそんなに気にならなかったのですが、今年は大変多いように思います。 ちょうど幼稚園の子どもたちが登園してくる朝に、もっとも盛んになるわけです。 藤の花に群がるハチの傍らに、一匹のハチの働きがあることに気が付きました。 仲間のハチたちが安心して花の蜜を蓄えるために、同じところに数時間もずっと飛び続けているハチがいることに気がつきました。 飛び続けているだけではない、よそ者のハチが来た時には寄せ付けないようにしているのです。 ハチだけではない、その他の虫が来てもからだを張って、去っていくまで仲間たちを守っているのです。 一難が去れば、量ったようにもとの場所に戻って、また飛び続け、警戒しているのです。 その姿に、疲れてしまわないのかと、なぜかいじらしさを感じてしまうのです。 自分に与えられている隠れた働きのために、一途に飛び続け、ハチの群れに仕えている。 この隠れた働きをしているハチの心を知りたいほどです。 主イエスは、「わたしに従いなさい」と言われました。 過去に、いっぱい失敗した人に向けて、それでも「あなたは、わたしに従いなさい」と言われる主に、一途に従いたいと願います。(牧師 村上悦二)#

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「祈りによって満たされています」 

2014-05-04

 ふとしたことから、一昨年4月に不信仰なこの私が祈り会に参加し、祈る事ができる様になりました。 それまで祈ったことがなかった訳ではありませんが、今思うと黙祷していたに過ぎなかったように思います。 当初は、共に祈っている時、私には霊的な面が非常に薄かったように感じていましたので、次第に神様に率直に「神様どうか僕(しもべ)に霊を下さい」と何回か祈った事を覚えています。 また、新しく牧師ご夫妻を迎えて、教会の将来について考えた時に、「祈る事」が大切だと強調されていた事に大変共感を覚えておりましたので、当時私の考えていた課題を毎日、祈り続けました。 
 程なく、私の頭の中は神様の事で一杯になりました。 仕事中も、休んでいる時もそうでした。 私のような者にも、祈る事が許され、神様が本当に身近に感じられる様になった事に多少戸惑いも感じられましたが、それを払拭(ふっしょく)する事件が起きました。 それは、聖書の学びと祈り会に新しい方が加わったことで、祈りの課題が叶えられた時でした。 その時の喜びと感謝は言葉では、正確には表現ができませんでした。 この様な信仰上の体験をしますと、祈らずにはいられない衝動にかられます。 ましてや、祈りの課題が一つずつ叶えられていくと、もう自分の責任感とか熱心さを超えて、教会の兄弟姉妹が待っている祈り会に、行かずにはいられなくなります。 それは言い換えますと、「神様が待っている」と表現したほうが正解かもしれません。 それと同時に、不思議と心が満たされ、幸せな気持ちになります。 この信仰を生涯続けたい、それが私の一番の願いです。 

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牧師館より    2014. 4. 27

2014-04-27

# 「キリスト教保育」という冊子の中に、こんな記事がありました。 子どもたちがプランターに植え、一生懸命に育てた「いちご」の収穫の時期を、いよいよ迎えました。 自分たちが育てたいちごが食べられるという楽しみに胸をふくらませていました。 ところが、3つしか「いちご」の実がならなかった。 27人の子どもたちと3つの「いちご」の実、どうしようとみんなが考え始めました。 なかなか答えがでませんでした。 翌日、やっと「いちごジャムにしたら、みんなが食べられるかもしれない」という意見が出てきました。 一人分は、ほんの少しのものですが、それでも子どもたちは大喜びで何とも幸せそうだったという記事でした。 私たちの幼稚園でも、同じように3~4個の「いちご」を20人で、少しずつスライスして分け合ったことがあったというのです。 それぞれが薄く、ほんのわずかでも、「いちご」の香りがして、とてもおいしく喜び合ったというのです。 ある方が、アフリカの小さな村で出会った子どもたちの姿をお話ししてくださったことを、ふと思い起こしました。 ひとつの飴をあげると、それを村中の子どもたちが少しずつなめては、次のこどもに飴を渡していく光景に出くわしたと言います。 それ以来、この方はこの村への支援をライフワークとされておられます。 限られた実りを、分かち合っていく。 その実りがわずかでも、分かち合うことによって更においしくもなる。 みんなで分かち合う喜びがある。 その姿を、子どもたちに教えられたように思います。       (牧師 村上悦二)#

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牧師館より    2014. 4. 6

2014-04-06

# この間、幼稚園の年長組のクラスの部屋から子どもたちの大きな歓声が聞こえてきました。 いったい何が起きたのだろうかと、急いでそのお部屋に行って見て驚きました。 カプラという積木で立派な「教会」を建て上げていたのでした。 思わず感動して写真に納めておこうと思い、みんなでその「積木の教会」を囲んで写真を撮ったのです。 写真には、年長組、年中組、年少組さんが入り混じり合って写っていました。 子どもたちの心には、十字架や教会が刻まれていると確かに思いました。 急いで、この写真を「バプテスト誌」に投稿いたしました。 この子どもたちに、今、イースターになぜ「卵さがし」をするのか説明しようとしています。 私たちの目と耳と頭に隠されていた「卵」。 その小さな存在であるにもかかわらず、殻を破って大きくなる力をもっている「命」。 それを見つけ出す喜びを味わってほしい。 これが、子どもたちと「隠されている命」との出会いです。 私たちに「隠されている命」こそ、よみがえられたイエス・キリストです。 園児たちにこの生きたイエス・キリストに出会ってほしい。 その喜びを味わってほしい。 そして、一緒に賛美したいと願っています。 私たちは、この「畑に隠された宝」に出会わせていただいたのです。 「見つけ出した宝」は、人の死によっても左右されない高価なものだったのです。                     (牧師 村上悦二)#

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私の証し

2014-03-09

# 新生讃美歌が皆様の願い、祈り、献金によって与えられましたこと感謝いたします。 赤ちゃんの時から教会に通っていた私にとって、讃美歌の思い出はクリスマスの時、幼稚科で「おほしがひかる」を踊りを付けて歌ったことと、教会で歌う讃美歌が大好きで、家に帰ってからも「こどもさんびか」のはじめから終わりまで知っている歌を何度もよく歌っていたことです。 小学校一年生の頃、オルガン教室に通っていたのですが、ある時、母に「今日ピアノが届くよ」と言われ、まもなくピアノの先生について習い始めました。 それは、後に知ったのですが、姉と私に、奏楽奉仕をしてほしいという母の願いからでした。 数年後、中学科礼拝での奏楽から始まり、教会学校そして礼拝奏楽をさせて頂き、今に至っていますこと神様に感謝いたします。 愛唱讃美歌は何曲かありますが、その中に550番「ひとたびは死にし身も」があります。 クリスチャンホームで育った私が、社会人になった一年目、社会との異和感と厳しさに直面し、自分の未熟さと無力さを痛感し、打ちのめされた時、また、ある問題の中、イエス様に「十字架につけろ」と叫んだ群衆は、まさにこの私であったと自分の罪を示された時、
『ひとたびは死にし身も 主によりていま生きぬ・・・昼となく夜となく 主の愛にまもられて』
 この讃美歌に慰め励まされ、新しく生きる者とされ、また歩き出す力をいただいた曲です。 これからも皆様と共に賛美し、神様への感謝と喜びを賛美する毎に深く味わいたいと思います。 # 

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牧師館より    2014. 3. 2

2014-03-02

# 秋田に参りまして、水がおいしい。 お米がおいしい。 野菜が瑞々しい。 食事が楽しいのです。 企業戦士であった時にはほとんど食事に時間をかけない、いわゆる早食いでありました。 食事に、あまり興味がなかったのかもしれません。 変われば変るもので、おかげで少し体重が増えてきました。 聖書を読んでいますと、食事が特別の意味をもっている箇所が多々あります。 主なる神からいただいた食べ物を、神に感謝しながら賛美と共に家族を挙げて食べています。 主なる神に対する忠実な礼拝であります。 ともに分かち合って食べる。 その時と場所を一緒に分かち合って味わう。 目を合わしながら、言葉を交わしながら、喜びを味わう。 からだ全身で味わいながら、主とともにある交わりを思うのです。 この世にも確かに似たような交わりが多くあります。 その背後には、打算や思惑や自分がある。 自分が痛まない範囲での分かち合いがあります。 
私たちの教会に新しい讃美歌をと願いが起こされました。 そこで、自由献金を始めようと開始してからわずか半年です。 教会員全員に新しい讃美歌が届きました。 具体的なものを分かち合う喜びです。 礼拝後の交わり、聖書の学び・祈りの会の後の交わりにも食べ物が、そして証しが分かち合われています。 すべてのものが主イエスにあって分かち合われる。 そのような群れでありたいと、心から願います。               (牧師 村上悦二)#

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牧師館より    2014. 2. 23

2014-02-23

# 2月24日(月)の朝9時ごろ、幼稚園の子どもたちが登園してくるその上の遥か高い空を北へ向かう白鳥のV字編隊を、今年はじめて見ることが出来ました。 互いに声を掛け合いながら、目指すべき所に向って行きました。 これから幼稚園を巣立って行く30名の子どもたちの姿が重なってくるのです。 その子どもたちが、きらきらと輝いて見えるのが不思議です。 
白鳥たちは目に見えない何かをからだで察知しながら、判断して、それぞれ覚悟を決めてその小さな命をかけて飛んでいったのでしょう。 だれが取りまとめ、だれが先頭を切って、どんな相談をしたのでしょうか。 ひょっとすると残された者がいるかもしれない。 初めて飛行する者がいるかもしれない。 悲喜こもごもの別れがあるのかもしれない。 新たな希望を携えていくのかもしれない。 
 それぞれの辿って来た道は異なるけれども、こうして主イエス・キリストを通して新しい命に生かされた私たちが集められ、励まし合って歩む幸いを覚えます。 V字になっていないかもしれませんが、その先頭にイエス・キリストを抱いて歩む一緒の旅であります。 途中どのようなことがあったとしても、主イエスの愛から切り離すことのできるものはありません。 その喜びも苦しみも一緒に背負い、歩んでくださっている旅を、感謝し、賛美します。  (牧師 村上悦二)#

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「祈りと私」  

2014-02-09

# 今年の七草を過ぎた頃、息子が突然泣き出しました。 冬休みの宿題ができていないと言うのです。 計画的にやっていればこんなことにならないはずなのに。 「自分は、子供の頃どうだったかな?」 最初に頭に浮かんだのは、宿題ができないまま長期休みを終えてしまった自分の姿でした。 休みが明け、先生のところに行き、恥ずかしさと怒られる恐怖で「できませんでした」と言った時の場面が、今でもはっきりと思い出すことができます。 言っても無駄だと思ったのか、そんなことは気にしないのんびりしたいい時代だったのかは分かりませんが、先生は何もおっしゃいませんでした。 後に残ったのは、恥ずかしさと後悔がごちゃまぜになった苦い思い出だけでした。 宿題をやらずに漫然と時を過ごしていた私からすれば、目の前で泣いている息子は、私よりはるかにまともな人間のように思えました。 私の苦い経験は、息子の今の苦しさを理解することにとても役に立ったように思いました。 宿題はきちんとできた方がいいに決まっています。 でも、例えつらいいやな思い出であっても、人生にはプラスになるのです。 聖書を読むことも、教会で宣教を聞くことも一つの経験です。 それが、いつどこでどんな時にどんな風に人生の役に立つのかは分かりません。 ただ言えることは、経験したことは自分の中で生き続け、何かの時に役に立つのではないかと思います。 教会で神様に、息子の宿題ができますように」とお祈りしようかとも思いました。 でもやめました。 宿題はできてもできなくても、この経験は、息子を育ててくれることに間違いはないと思ったからです。 母として私ができることは、息子を見守っていくことだと思いました。 ただ、「できることなら、冬休み中に宿題ができますように」 そして、「次回の長期休みには、計画的に宿題をやりますように」と祈らずにはいられませんでした。                      

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牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元