秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神のもとへ帰る者」 ヨハネによる福音書7章25~36節

2024-07-14

「仮庵祭」に、イエスは人目を避けるようにしてエルサレムに上って行かれました。 ユダヤの人々はイエスに大変関心があり、「良い人だ」と言う者もいれば、「群衆を惑わしている」と言う者がいた。 彼らは、メシアであることを証明する「しるし」をイエスに求めていたのです。 その出身地についても大いに関心をもっていました。 自分自身の知識、判断、理解によって、「果たしてイエスはメシアであろうか」と見極めようとするのです。 神殿の境内で、「わたしの教えは、自分の教えではない。 わたしをお遣わしになった方の教えである。 わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と教えていたイエスは、諸々の人々の声を聞いて大声で叫ばれたのです。 「あなたたちはわたしのことを知っている。 また、どこの出身かも知っている。」と十分承知のうえで、「わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとから来た者である。」と繰り返し、「あなたたちは、わたしをお遣わしになった方を知らない。 しかし、わたしはその方を知っている。」と、自分の築き上げたものに縛られている無知と頑なさを指摘されるのです。 「そんなことは知っている」と言う者に、「あなたがたは知らない」とイエスは言われるのです。 大切なことは、イエスご自身がメシアであるかどうかという見極めよりも、イエスご自身を遣わされたお方を知ることです。 そのお方が、この地上に人としてイエスご自身を遣わされたことを知ることです。 私たち人間は神のもとにある。 その象徴であるイエスご自身を、神が人として遣わされたことを知ることであるとイエスは一言で言い表されたのではないでしょうか。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスを捕らえようとします。 自分たちが今まで苦労して築き上げてきたものを破壊しようとする存在として、イエスを断じて受け入れることも納得することもできない。 放置しておいては、自分たちの身が危うくなると恐れを感じ取ったに違いありません。 「イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」とあります。 神殿警備の兵士たちのことです。 彼らは上司から命令を受けているのですが、ここではイエスを捕らえるまでに至っていない。 聖書は、「イエスの時はまだ来ていなかったのである」と一言で説明しています。 しかし、この後45節以下には、「祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻ってきたとき、どうして、あの男を連れてこなかったのか」と当然のように問い詰めます。 これに対し下役たちは一切言い訳を言わず、「今まで、あの人のように話した人はいません。」と、その威厳とも言うべき何かを感じたと答えるのです。 イエスの語る言葉の中に、ただならぬものを感じた下役たちの言葉と、「お前たちまでも惑わされたのか」と懸命に自分たちを守る「祭司長たちやファリサイ派の人々」の語る言葉の違いを見つめさせられるのです。 動機はどうであれ、経緯はどうであれ、イエスとの出会いは至るところで起こされているのです。 刷り込まれたもの、自分を縛るものに邪魔されて、その出会いを無駄にしてしまっている。 イエスは、「今、しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。 それから、自分をお遣わしになったお方のもとへ帰る。 わたしのいるところに、あなたがたは来ることができない。」と、私たちに与えられている時間は、「今、しばらく」だけだと言われる。 今、目の前に出会ってくださっているイエスが、それに気づいて受け取り味わうようにと招いておられるのです。 「どこから来たのか」から「どこへ行くのか」、人として神のもとへ帰っていく生き方を、ご自身の生き方を通して語っておられるのです。 その都度、新しい命のみ言葉となって、私たちの心に響き、そのみ言葉が原動力となって、私たちを突き動かすのです。 そこに、喜びと希望が起こされ、確信と感謝が与えられるのです

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「確信する信仰」 ヘブライ人への手紙10章19~25節 

2024-07-07

 主イエスは、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(1:3)とあります。 私たちはこの主イエスなしに父なる神を知ることはできません。 自分の力だけでは、神のもとに近づくことができないのです。 主イエスの恵みの働きによって開かれた、神のみ前に近づくことが赦された「礼拝」をささげ続けることです。 み言葉に聴き、祈り、交わりによって、生活の中で、人生の歩みの中で味わうことです。 そのみ言葉に立って生きることです。 神の働きに用いられるなら、主イエスを味わい、父なる神を知ることができるのです。 この手紙は、ひるみ始めた教会、信仰を守ることに疲れた教会に対して送られた「慰めの言葉、励ましの言葉、勧めの言葉」なのです。 先ず、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と言います。 その理由を、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」からだと言うのです。 ここで言う「聖所」とは、エルサレム神殿の奥の大祭司しか入れないところ、入り口には「聖なるもの」と「俗なるもの」を分け隔てる「垂れ幕」がある。 そこに主イエスの血が注がれ、体が裂かれ、今や招きの「垂れ幕」となり、そこを通って入るよう備えられている。 この言葉に、手紙を書き送られた教会の人々はどんなに励まされたことでしょうか。 「神の家を支配しておられる偉大な大祭司がおられるのですから」、このお方の憐れみとご愛に満たされて、神のもとに立ち帰って生きる道が備えられていることを「確信しています」と言うのです。 私たちは自分自身の中に確信の根拠を求めてはならない。 すべては、主イエスの働きによって確信させられるのです。 もうひとつの勧めの言葉は、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 互いに愛と善行に励むように心がけ、励まし合いましょう。」とあります。 「公に言い表した希望」とは、神さまによって与えていただいた、言い表された信仰ということでしょう。 「互いに愛と善行に励むよう」とは、心を揺り動かされてそうせざるをえないようにされてということでしょう。 一人に対する主イエスの働きが、「神の家」全体の働きへと伝播していく。 当時の「集まる」という意味合いがとても重要だったのです。 「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあるように、主イエスがこの地上に来てくださったことを思い起こす大事な場所が「集まるところ」であったのです。 私たちが集まり、礼拝するところこそ、大祭司イエス・キリストの招きのあるところ、生きて働いておられる主イエスとの交わりのあるところなのです。 この聖書箇所の後の35節から38節にかけて、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。 この確信には大きな報いがあります。 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」とその理由が力強く語られています。 そのうえで、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)と言います。 この言葉も、信仰を持ち続けることに疲れている教会に対して語られた「慰めの言葉、励ましの言葉、勧めの言葉」であることを決して忘れてはならないのです。 この「確信する」という言葉は自分の信念のような主観的なものではありません。 信仰によって、見えていない事実について確かな証拠を与えて頂く。 神によって約束され、備えられている「望まれた事柄」が、私たちに希望の力を生み出してくれるのです。 私たちが尋ね求めているものではなく、神が「望まれている事柄」によって私たちが確信させられるのです。

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「選ばれ任命された者」 ヨハネによる福音書15章11~17節 

2024-06-30

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ。」とあります。 私たちが神を尋ね求め見つけ出すのではない。 神の方が選ぶ目的と理由があると言うのです。 「選ばれた者が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしが任命したのである。」と言うのです。 だれが見ても恵まれた人生を送っている人にも、また、不運としか言いようのない経験の連続の人生を歩んでおられる人にも、衝撃的なみ言葉ではないでしょうか。 私たちが耳にし、目にする人生の苦悩のほとんどが、理由のない理不尽なものです。 その理由が分からないので納得がいかないのです。 しかし、よく考えてみれば、もうひとつの不条理があることに気づかされます。 神の前に何ら誇ることのできない、過ちだらけの私たちが、理由もなく無条件に赦される道がある。 ありのまま、泥だらけの身のままで神のもとへ迎え入れられる道があると言うのです。 このもう一方の不条理に真っ向から立ち向かい、自分たちの築き上げた基準に合っていないとイエスに襲いかかったのが律法学者たちでした。 旧約聖書の時代には、ある日突然、神の前に選び出され、任命された預言者たちが多々ありました。 彼らは例外なくしり込みをします。 しかし、神の呼びかけに応えることを繰り返すことによって、神とその人との交わりがつくり上げられ、次第に神によって生かされていることを知るようになり、神のご計画があることを知らされます。 その計画を果たすために、自分が用いられようとしている、つくり変えられようとしていること、自分一人のためではなく神の民を築き上げるための務めであることに気づかされるのです。 それ以降は神との特別な関係に入れられ、その都度、神の助けを必要とする者になるのです。 事の大小は異なりますが、私たちと神との出会いもまた、同じであるように思わされます。 続いて、神の選び、任命という働きは、「神さまの愛によって」行うと宣言がなされます。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である、命令である。」と言います。 イエスはご自身に注がれたご愛を無条件のまま、自らに襲いかかる者に対しても注がれたのです。 イエスは、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 そうすれば、イエスの喜びが、私たちの内にとどまり、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。 イエスに連なる歩みに生きる者に与えられる喜びがあると言います。 イエスの言われる「喜び」とは、外側から訪れる喜びではなく、内からわき出てくる喜びです。 イエスはもうひとつ、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」と重大なことを伝えています。 イエスは、これから果たされていくご自身の十字架の死を語るのです。 このために私たちを選び、実がなるように任命される。 その実は、互いに愛し合う実である。 「互いに愛し合う」という掟が守られることを、イエスご自身が十字架を通して約束してくださっているのです。 愛と喜びの完成を約束されたイエスが、その友たちによってご自身の掟が守られる道を備えてくださるのです。 「自分の命を捨てる」とは、イエス・キリストとの交わりに生きることです。 父のもとで聞いたことすべてを知らせたから、「僕」ではなく「友」だと言うのです。 神の僕として選ばれ、替えがたい務めを与えられ任命される者である。 神のご愛を注がれ、喜びに満たされる者である。 神のみ心を知っている僕、愛されている僕、イエス・キリストとの交わりに生かされ、そのとりなしに支えられている僕。 その僕が、父なる神によって注ぎ出されたご愛をイエス・キリストを通して味わい、その解放と自由に生かされてイエスの友となるのです。

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「出て来なさい」 ヨハネによる福音書11章38~44節

2024-06-23

 ベタニヤ村にいる「マルタとマリア、そしてラザロ」をイエスは愛しておられたと言います。 そのラザロが深刻な病気にかかり、マルタとマリアはイエスのもとに使いをやって、一刻も早く来てほしいと伝えるのです。 しかし、イエスは直ちに駆けつけようとはしない。 「この病気は死で終わるものではない。」と癒そうとはされない。 その二日後です。 イエスは前言を翻し、「わたしの友ラザロが眠っている。 彼を起こしに行こう。」と言われる。 この言葉を聞いた弟子たちは、「眠っているのであれば、助かるでしょう。」と言う。 それを聞いたイエスは、「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。 あなたがたが信じるようになるためである。」と言います。 この噛み合わない対話のまま、ラザロが墓に葬られて四日後にイエスはベタニヤを訪れるのでした。 そこには、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と涙を流すマルタとマリアがいます。 愛する者を失い、どうすることもできない無力からくる悲しみを滲ませています。 周りにいたユダヤ人たちも涙に暮れていたと言います。 彼らは「どんなにイエスがラザロを愛しておられたことか」と言う一方で、「盲人の目を開けることのできた人でも、ラザロが死なないようにはできなかったのか。」とも言うのです。 ここに至るまでのイエスの言動を振り返れば、「心に憤りを覚えて」、人間の悲惨さに対する嘆きを滲ませ、意識的に死後四日後の「墓場」に立たれたように思わされます。 人を圧倒し封じ込めてしまう「死」の力に抗うかのように、また、人が諦め、無力感と力の限界を思い知らされる「死」に対して、そのような支配に対抗しうる唯一の存在として「墓場」の前に立たれたのです。 「死者の世界」と「生きている者の世界」を隔てる「墓石」を「取りのけなさい」と言われるのです。 この直前にイエスはマルタに、「あなたの兄弟は復活する。 わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 このことを信じるか。」と言われていたのです。 「墓石を取りのけなさい」とは、「生」と「死」と分けているものを心の中から取りのけなさい。 「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。」ということです。 私たちはこの地上を「生きている者の世界」、あの世を「死んだ者の世界」と捉えているかもしれません。 神の働きが注がれるなら、死んでも生きる存在に変えられる。 そのことを信じるかとイエスは問われているのです。 「墓石」が取り除かれると、イエスは「天を仰いで」、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と感謝の祈りをささげ、すでに起こされた事実として確信し、果たしてくださる父なる神に賛美をささげるのです。 イエスが事前に言われていた通りのことが、今ここで見ることになる。 これは、「周りにいる群衆のため、あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです。」と言われるのでした。 四日間の空白は必要な時でした。 大事なことは、ラザロが生き返ったことではありません。 マルタとマリア、ラザロ、そして群衆が、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と言われるお方に出会うことができたことです。 イエスは、「出て来なさい」と大声で叫びさえすればよかったのです。 「死」は地上の「生」を終えた後に、神が与えてくださる憩いの場への招き、新しい歩みの始まりです。 手と足を布で巻かれたままのラザロに、イエスは「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われ、死の力に包み込まれている姿から解放されて、「普段の生活に戻るように」と新しく生きる姿に招いておられるのです。 この「死」に立ち向かわれたイエスの地上の最後の場所が、十字架の処刑場であったのです。

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「自分を神としてはならない」 ヨブ記2章1~10節

2024-06-16

 ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言います。 10人もの子どもに恵まれ、家畜もおびただしい数を有し、使用人も非常に多かったという富豪でした。 そこにサタンという存在が登場し、ヨブが手にしているすべての「財産、家族」などに対する挑戦を受けるのです。 ここではサタンを、「神のもとから私たちを引き離そうとするこの世のすべての力、この世においてのみその存在を許されているもの」と捉えておきましょう。 次々と財産を奪われ、家族をも失われ、その苦しみと悲しみの只中にあるヨブの言葉です。 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」(1:21) ヨブ記は、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」(1:22)と言うのです。 神の祝福とも思えるヨブの財産、家族一切を取り上げるサタンの挑戦に微動だにしなかったヨブの姿を見て、神はサタンに向けて「わたしの僕ヨブに気づいたか。 地上に彼ほどの者はいまい。 彼はどこまでも「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」と言います。 すると、サタンは、「人は命のためには全財産を差し出すものです。 彼の命が奪われる恐れがあるなら、たちまち神に向かってヨブは呪うに違いない。」と迫ります。 サタンは神の赦しを得てヨブに手を下し、「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。」と言います。 誰が見ても哀れな姿です。 ここに至って愛する妻からも、「どこまで無垢でいるのですか。 神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」とまで言い放されるのです。 それでもヨブは、「お前まで愚かなことを言うのか。 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と答え、ヨブ記は「このようになっても、ヨブは唇をもって罪を犯すことはなかった。」と言います。 ここまで語るヨブの真意を受け取ることなく、親しい友人はまるで因果応報かのように「自らの過ちを認めて神のもとに立ち帰るように」と諫める。 ヨブは災いとも思える出来事が度重なっても、決して揺れ動くことなく神との交わりを求めたのです。 なぜ、この身の苦しみが与えられているのか、その理由を知りたかった。 そう祈り求めたのに、神ご自身が一向に応えてくださらない。 この神の沈黙にヨブは耐えきれなくなり、落胆し、破れてしまうのでした。 神は前もって「わたしの僕」としてヨブを選び出したのです。 人間に支配できない存在を用いて、ご自身を深く知らせ、「わたしの僕」にふさわしく整えてくださるのです。 神は一対一で「わたしに答えてみよ」と突然語り始めます。 ヨブが弁え知ることなどほんの一部であることを厳粛に示し、問うヨブが逆に神に問われる者となるのです。 ヨブが、神の選びに応える信仰の深みに至るためでした。 真剣に問いかける者は、神に一対一で問われる者となるのです。 これこそ、神に愛されているということでしょう。 ヨブは、神が与える苦しみの解決を願っていたのではない。 苦しみの意味を求め、神との直接の交わりを願っていたのです。 ヨブは自身の無知と思い違いを知らされ、神を知ること、全能者の恵みの世界を味わうことが真の安らぎへの招きであることを知らされるのでした。 ヨブが神に問われる者となって沈黙し耳を傾ける時、新しい道が開かれていくのでした。 神の御心には、人間が測り知ることのできない大きさ、広さ、深さ、高さが横たわるのです。 ヨブは自らの貧しさ、弱さ、乏しさを知らされ、神を深く知るため、神の僕にふさわしく整えられていくのでした。 神は私たちに、神のもの、永遠なるものを与えようと、時には過ぎ去っていくものを失わせ、私たちの目を開かせようとするのです。 このお方の力と知恵と憐れみが私たちにも注がれていることを喜び感謝し、身を委ねて参りたいと願います。

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「イエスが与える安らぎ」 マタイによる福音書11章25~30節

2024-06-09

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」 何とも言えない安らぎが響きます。 イエスは、「律法学者たちは、言うだけで、実行しない。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:3-4)と批判しています。 私たちが生きていくことに伴う疲れや重荷というよりは、「律法の重荷」についてイエスは語るのです。 本来、律法は神と人、隣人どうしの人格的な関係に基づいています。 その律法に記されている文字だけが独り歩きし、正しさを測るものさしに貶められ、自分を誇り他者を裁く「律法主義」がまかり通っているのです。 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」とイエスは言います。 「これらのこと」とは、イエスが今まで語って来られた福音の奥義です。 福音の奥義は、人間の知恵によって受け入れられるものではなく、与えられた信仰によって示されるものである。 律法の重荷によって覆われていたその只中に、この福音の奥義が明らかにされた。 「これは御心に適うことでした。」とイエスは言います。 この世の知恵ある人たちからみれば、「幼子のような者」とは、未熟な者、無知な者、力の弱い者ということになるでしょう。 なぜそのような人たちが選ばれたのかと言いますと、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためである。」と言います。 神はこの世の知恵を愚かにし、宣教という愚かな手段によって信じる者を起こされるのです。 イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのである。」と言われるほど、神を示す務めがご自身には与えられている。 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他には、父を知る者はいません。」と言われているように、「父なる神と子なるわたし」という関係にあり、「すべてのことがわたしに任されている。」と言うのです。 父なる神と子なるイエスの関係のように、イエスに結ばれる者は神の子とする霊を受け、神の子となる。」(ローマ8:15)のです。 この父なる神の一方的な恵みのゆえに、神の子として引き上げられる。 イエスを信仰により受け入れた「幼子のような者」は「もう二度と、奴隷の軛につながれてはならない。」と、律法の重荷を負っている人たちにイエスは語るのです。 本来、律法の重荷は取り去られるものではなく、神のご愛に支えられて負うべき重荷です。 私たちが正しく負っていないと言われるのです。 そこでイエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と言われます。 イザヤ書53章が預言した「苦難の僕」のとおり、イエスご自身が父なる神の御心という重荷を黙って負ってくださって、父なる神との交わりが保たれたから、イエスに従う者もまた御心に適う重荷を負うことによってイエスご自身との交わりが保たれるのです。 そのイエスが、「わたしの軛は負いやすい。 わたしの荷は軽い。」と言われているのです。 自分を縛り付ける重荷を降ろし、イエスの軛に取り換えるようにと言われる。 「軛」とは、二頭の牛が一つの軛でつながれて共に重荷を負い合うものです。 律法の軛というその重荷を取り換えて、イエスの言う軛を一緒に負うようにと言われているのです。 重荷が与えられていることが神に愛されているということです。 神は耐えきれない重荷を負わせられるはずがありません。 このイエスの軛、神の御心に適う重荷を負うことが、イエスを知ること、学ぶことになると言われる。 イエスが父なる神との交わりを持たれたように、私たちもまたイエスに結ばれ交わりを保ち、イエスがこの地上の道のりを歩まれた道を一緒に辿っていくと、神の恵みにより神のもとへ引き寄せられ、神の子となるのです。 「イエスが与える安らぎ」とは、神が備えられた道をイエスと共にイエスの軛を負って歩んでいくことではないでしょうか。

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「自分がする」から「受け入れる」へ マルコによる福音書10章17~27節

2024-06-02

 イエスが弟子たちを引き連れて、エルサレムでの十字架に向かう途上です。 イエスの十字架の受難の予告がいったいどういうことなのか理解できず、不安と恐れに苛まれている弟子たちの姿があります。 そのような時に、「ある人がイエスのもとに走り寄って来て、ひざまずいて尋ねた。」と言います。 たくさんの財産を持っていた社会的には成功を収めている人物です。 「自分がもっと善い者となるには、より正しい者となるためには」と、自分を高める強い願いをもって、「善い先生、永遠の命を継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」と真剣に求めるのです。 この男の問いに対しイエスは、「わたしを善いと言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 モーセの十戒の後半部分の戒めをあなたは知っているはずだ。」とイエスは言われ、父なる神のみ前にこの男を招いて立たせたのではないでしょうか。 この男はがっかりして、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と胸を張るのです。 この聖書箇所の前後において、この「永遠の命を得る」ということを「神の国に入る」と言い替えています。 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない。」ともイエスは言われているのに、金持ちの男は「そんなことは子供でも知っている、子供でも守ることができることだ。」と主張するのです。 この男をイエスはじっと見つめて、慈しんで「あなたに欠けているものが一つある。」と、彼の心の根底に欠けているものがあることをイエスは鋭く指摘するのです。 自分を豊かにしていこう、より善い姿にしていこうとする道は、富が富を求めるように常に足りなさや欠けを生み出すことになる。 そうした自分をひとまず神のみ前に差し出しなさい、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。 彼にとってみれば、子供の時から守ってきた、身に着けてきたと誇りに思っていたことが打ち砕かれた瞬間です。 イエスはこの男を裁かれたのではなく慈しんで言われたのです。 より良い自分へと熱心に求め続ける彼に、神を愛することにも、隣人を愛することにも、また神がこれだけ愛しておられる自分自身を愛することにも欠けていたことに気づかせ、そのご愛によってイエスご自身に身を委ねるようにと招いておられるのです。 イエスが招いておられる道は、エルサレムの十字架に向かう道、悲しみと苦しみに向かうけれども救いの喜びとともに戻ってくる道です。 金持の男は気を落とし、イエスのもとから悲しみながら立ち去りました。 そこでイエスはこの男の姿を通して、「弟子たちを見回して言われた」のです。 財産が神ならぬものとして支配してしまっていることを、金持ちの男も、弟子たちも気づいていない。 神以外のものに目を奪われるなら、神の恵みによって生かされていることに気づかされない。 弟子たちもまた金持ちの男と同じように、自分で救いを勝ち取ろうとすることから離れられない。 イエスは、「人間にできることではない。 しかし、神にはできる。」と、神の国に入ることも、救いの赦しが与えられて再び生かされることも人間の問題ではなく、神の問題であると断言するのです。 自分たちこそイエスに最も近いと自負していた弟子たちにとっては、「子供たちのように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」というイエスの言葉は衝撃的です。 自分の子供の幸いだけを願う親の姿も、金持ちの男の姿も、弟子たちの姿もすべて私たちの姿です。 何とか自分の力で自分を高めようとし右往左往する私たちを、イエスは愛の眼差しをもって見つめ、父のみ前に出てくるようにと招くのです。 備えてくださった神の国に呼び寄せてくださった主イエスを受け入れることです。 そして、ここまで主に愛されて一番近い者として立たせていただいている自分自身をも受け入れることです。

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「背後で備えておられた神」 ルツ記2章1~13節 

2024-05-26

 ルツ記の冒頭には「士師が世を治めていたころ」とあります。 「イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいことを行っていた」時代です。 イスラエルの民が主なる神のもとを離れ、勝手気ままに自らの正しいとするままに動いていた世界です。 口に出して語ることが憚れるほど退廃した有様です。 そのような激動の最中に、神の壮大な働きが動き出すのです。 わずか4章のルツ記が、美しい人間模様と素朴な主なる神への信頼が絡み合った小さな家庭に繰り広げられる現実に大きな励ましを得るのです。 飢饉が起きたので、夫婦二人と二人の息子の四人家族がユダの地からモアブの野に移り住んだ。 その小さな家族に夫が死別するという予期せぬことが起きたと言う。 残された妻が「ナオミ」です。 この異教の地で、二人の息子はモアブの女性と結婚したと言う。 その二人の女性のひとりが「ルツ」です。 ところが、今度はその二人の息子が相次いで亡くなり、「ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された」と言います。 ここでナオミは決断します。 「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」と聞いて、住み慣れた場所を後にして故郷に戻る決心をしたのです。 ナオミは二人の息子の嫁に「自分の里に戻りなさい。 あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。 どうか主がそれに報い、どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」と労い、彼女たちを解放させようとするのです。 イスラエルにとって、モアブ人は「よそ者」です。 ましてや「未亡人」となると、戻ったユダでの生活では過酷な日々を送ることになる。 「自分の里に帰りなさい。 あなたたちよりもわたしのほうがはるかに辛いのです。」と吐露して、「主の御手がわたしに下された」と言います。 これは、ただ食糧を求めて約束の地を離れてしまった夫と共にしたことを悔やんだのかもしれません。 ナオミにとって、姑としての嫁に対する愛情であり、主のもとへ再び立ち帰るために立ち上がった精一杯の信仰であったのです。 このナオミの決断を聞いた二人の嫁は声を上げて泣いて、「あなたとともにあなたの民のもとへ帰ります。」と答えたと言います。 繰り返し説得するナオミに対し、ついに一人の嫁は別れの口づけをしたが、ルツはナオミにすがりついて離れなかったと言います。 ここで、ルツが決断します。 「あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。 あなたの亡くなるところでわたしも死に そこに葬られたいのです。」と言うのです。 ナオミに対する愛情が高じてのことでしょうが、姑を一人にしてはならないという務めと生きがいを見出したのかもしれません。 ナオミに生涯仕えていく思いが、ナオミが仰ぐイスラエルの神に対する信仰へと導くのです。 ルツの決意が固いのを見て、ナオミは二人で故郷への道を歩みます。 時は大麦の刈り入れの始まるころ、場所はナオミが死別した夫の一族の有力な親戚であるボアズが所有する畑です。 立ち上がった人は、故郷へ立ち帰ることを決断したナオミと、ナオミの生涯の面倒をみると決断したルツです。 そのルツが自分の夫を失った後も姑に尽くし、自分の両親と生まれ故郷を捨てて見知らぬ国に来たことを知ったうえで、懸命に朝からずっと働いている姿を知ったうえでボアズはルツと出会うのです。 神が背後で予め整え待っておられたからです。 ルツの言葉には、姑に対する労わりと責任を感じ、ボアズの言葉には、自分自身と同じ「人に対する思い」と同時に、「主なる神への思い」を感じています。 ナオミの言葉には、主の隠された働きを的確に見て取って感謝の祈りをささげられています。 これまでの歩みは無駄ではなかった。 備えられていた永遠の旅に必要な旅であった。 そのために今、この時、この場所、隣り人が与えられている。 祝福の結果を喜ぶのではなく、これほどまでに準備し、招き、決断を起こした主を喜びましょう。

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「さあ、立て。 ここから出かけよう。」 ヨハネによる福音書14章25~31節

2024-05-19

 「最後の晩餐」の際に語られたイエスの言葉には、深い備えを感じます。 場所は、危険が迫っていた「とある家の二階座敷の部屋」です。 イエス御自身がこの「晩餐」の真の意味を告げようと、用意周到に準備し弟子たちを招いた最後の食事の場です。 弟子たちにとってみれば、自らの存在、生涯を賭けてすべてささげて従ってきたそのイエスが、これからいなくなってしまう。 その理由が理解できない。 それが現実となり追い詰められ、エルサレムの片隅にある部屋に閉じこもっていた弟子たちです。 だれ一人として弁護する者がいないという絶望の淵に追いやられ孤立した弟子たちです。 部屋から出て行くことすら勇気のない弟子たちに、聖霊が降ったと言う。 ある日突然、部屋から出ただけに止まらず、霊が語らせるままに語り始めたと言うのです。 三度もイエスを知らないと裏切ったペトロが、今では多くの聴衆を前にして声を張り上げ、イエスの語られた福音を語り始めた。 ここまで彼を一変させ、有無を言わせず神ご自身のために用いらせたこの「聖霊」とは何者でしょうか。 この聖書箇所では、「弁護者、真理の霊」と表現します。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言います。 イエスがいなくなったその代わりに、イエスの名によって働かれる存在です。 言うなれば、イエス・キリストは父なる神のもとへ行く「道筋」、聖霊はその「道案内」ということでしょうか。 この「聖霊の働き」の第一に、「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言うのです。 しかるべき時に必ず、イエス・キリストの言葉に遡らせてくださる、思い起こさせてくださる。 み言葉を思い巡らし味わうのなら、神の御心を悟り知る時が必ずくるのです。 「聖霊の働き」の第二に、「すべてのことを教える」と言います。 聖霊ご自身がそうであるように、「聞いたことを悟って、これから起こることをあなたがたに告げる。」と、その時に適って、それぞれにふさわしくいつも新しい教えとなって迫り、私たちの魂に新しく跳ね返ってくる。 「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」とイエスは言われているのです。 私たちが気づいていようがいまいが、事前にイエス・キリストの名によって聖霊を通して、事前に用意周到に準備されているのです。 私たちは招かれて、この「強いられた恵み」にあずかることができるのです。 神ご自身が働かれて、イエス・キリストの語られた言葉を思い起こさせ、かつて味わった神の恵みの意味がここにきて初めてよみがえってくる。 今悟るべきこと、今果たすべきことに迫られる。 今、それが新しい教えとなって目が開かれ、耳が開かれる。 ありとあらゆるものが用いられて、あらゆるつながりや交わりが生かされ、目に見える形として現れ出るのです。 「事の起こる前に」、イエスは私たちに語りかけ、すでに備えは果たされているのです。 私たちはそれに委ねていくばかりです。 「わたしは去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る。」 「わたしは、平和をあなたがたに残し、世が与えるようにではなく、わたしの平和を与える。」と言います。 去って行かれたイエスの替わりに、残された「聖霊による賜物」として与えられる「イエスの平和」です。 これを最後の晩餐の時に、愛する弟子たちに「事が起こる前に、わたしの平和を残す。 わたしが平和を与える。」 私たちは備えられたその「強いられた恵み」、残された「聖霊による賜物」である「イエスの平和」に招かれているのです。 この「残された平和」を味わう者が、イエスの平和を造り出し持ち運ぶのです。 「心を騒がせるな。 おびえるな。 さあ、立て。 ここから出かけよう。」というみ言葉が蘇って、足取りの重い弟子たちを奮い立たせたのです。 私たちにも降る「残された賜物」をしっかりと受け取りましょう。 失望してはならないのです。

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「約束された神の安息」 ヘブライ人への手紙4章1~11節

2024-05-12

 この手紙が記された時は、ローマ帝国の激しい迫害が現実のものとしてイスラエルの民に迫ってきていた。 主なる神に替わって「ローマ皇帝」への崇拝を強要されていた。 教会の中では、慣れ親しんだユダヤ教の世界へと逆戻りしようかという誘惑に耐え切れなくなってきていた。 新しい福音のみ言葉に対する誤解などが相俟って確信がもてなくなっていたことが背景にあります。 外的な迫害や内的な動揺が広がり、初期のキリスト者たちの救われた喜びが薄れ、信仰の力が弱まってきて、この手紙の言う神の民への勧めの言葉が必要となってきていたのです。 ダビデは、詩篇95編で主に向かって救いの喜びの叫びを挙げています。 主なる神は大いなる神である、すべてのものを創りすべてを支配しておられると神への信頼と賛美を歌っています。 そのうえで、「わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」と言うのです。 かつてのように、「心を頑にしてはならない」、先祖たちのように「神を試してはならない」、神の道を知ろうとしなかった信仰のゆえに「彼らは神の安息の地に入ることができなかった」と歌っています。 この手紙の著者はこのダビデの詩を引用して、イスラエルの民の過ちをもう二度と繰り返してはならない。 約束の地カナンに入ることのできなかったことに目を向けさせ、「神の安息にあずかることができなかった者がいる。 取り残されてしまったと思われる者がいる。」 かつて語られた「神の安息にあずかる約束が、今もってまだ続いている。」 だから、「そうならないよう、告げ知らされた神の約束の言葉に信仰をもって結び付くように。」、「生ける神から離れてしまう者がいないように」、「誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように」、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるように」、「注意しなさい」、「今日という日のうちに、日々励まし合いなさい」、「イエス・キリストに連なる者となりなさい」と強く勧めるのです。 そして、「信じたわたしたちは、この神の安息にあずかることができるのです。」と確信をもって宣言するのです。 約束の地カナンにおける安息と、天地創造の七日目の神ご自身の安息をもって、私たち「神の民の安息」の約束を語るのです。 「神の業は天地創造の時以来出来上がっている。」 神の民の一時的な不信仰があったとしても、未完成のままの安息に止まったとしても、神ご自身が休まれた安息は今もって残っている。 失われることはない。 神の言う創造には、働きと休みが必要である。 その休みこそ、すべてよしとして神が造られたものに対して祝福された大事な時である。 その創造主である神ご自身の安息と、被造物である私たちに対する祝福が注がれなければ、神ご自身が望まれるこの世にないものへとはなっていかない。 始めの時にすでに神によって「神ご自身の安息」の約束は始まっている。 受ける側の私たちの状況によって、私たちの信仰の状態によって左右されるようなものではない。 それは変わることがない。 失われることなく残されている。 天地創造の際にも、モーセやヨシュアの時代にも、また詩編95編を歌ったダビデの時代にも、そして今、私たちが生かされ、イエス・キリストを通して福音が告げられ、神ご自身がイエスによって直に表された後にも、この「神の安息」の約束は生き続け、私たちの信仰の応答によって時々刻々深められ、神の前に進み出る神の民に備えられている。 私たちはこの地上において、すでにこの真の「神の安息」のもとで時々刻々引き寄せられているのです。 この「神の安息」こそ、新しい創造の場への変わらない一貫した神の招きではないでしょうか。 「今日」という日のうちに、この残されたものを受け取り損ねないようにということでしょう。 私たちもまた、神の祝福を豊かに浴びるために自分の業を止め、今日という時をもちなさいと勧めるのです。 

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