「はっきり知ることになる神の愛」 コリントの信徒への手紙一13章1~13節
パウロはコリントの教会の人々に「愛」を語るにあたって、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と前置きします。 「そこで」とは、教会内に派閥争いがあったこと、「みだらな者、偶像を礼拝する者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」などがいることをパウロが叫ばざるを得なかった事情がコリントの教会内部にあったのです。 「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」と言い、「愛」について語り出すのです。 パウロは「愛」そのものを主語として語ります。 主イエスのお姿そのもの、主イエスの辿られた十字架への道、最後まで主なる神のみ心に貫いた救いの出来事そのものを、「愛」という言葉に託すのです。 4節から7節まで記されている「愛」の性質を主イエスに読み替えるなら、「主イエスは忍耐強い」から始まり「主イエスはすべてを望み、すべてに耐える」となります。 主イエスのお姿そのものをもって「愛」の性質と働きを語るのです。 「愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル」と言います。 異教の礼拝において、どらやシンバルは人を陶酔に導くための道具であったのでしょう。 盛んに賛美される歌もまた、自己陶酔に陥るような本末転倒にならないよう注意しなければならない。 様々な賜物も、あらゆる知識も、山を動かすほどの信仰も、熱心な証しも、燃えるような祈りや賛美や宣教も、父なる神に注がれる愛がなければその場限りの感動に終わり「無に等しい。」 頂いた賜物を十二分に用いて出来事を起こしたとしても、「愛」がなければ自己満足に終わり、「何の益にもならない」とパウロは言うのです。 「愛」の性質を7つの肯定の形と8つの否定の形で定義していますが、この否定の形には、コリントの教会の生々しい現実の姿が込められている。 ここに語られている「愛」は理想の愛を示しているのではなく、コリントの教会の現実が込められているのです。 鎖のようにつながれているこの「愛」の15の定義は、「忍耐強いから始まり、すべてを望み、すべてに耐える」で終わるのです。 パウロは最初期のキリスト教会に対する迫害者、キリスト者を牢獄に放り込んでいた張本人でした。 そのようなパウロを救いに至らせたのは、復活の主イエスご自身が忍耐してくださったから、パウロを見捨てることなく、裁くことなく、そのまま受け入れて立ち帰ってくることに希望をもち、待ち続けてくださり、救われるために忍耐してくださったからです。 パウロはこの実体験から「愛は忍耐強い」と語らざるを得なかった。 ここで語る「愛」とは感情ではなく「意思」です。 罪人の救いをどこまでも求め待ち続ける「神の強い意志」です。 パウロはこの主イエスが果たし終えた救いの業を通して「愛」を語り、コリントの教会の人々の救いを諦めることなく、追い求め、叫んでいるのです。 厳しく言えば、「愛のない信仰」、「愛のない希望」、「愛のない愛」が存在していると、自身の体験を通して神の前に晒し出して語っているのです。 地上のものにすぎないものは、いずれ神ご自身を直接見て、知るようになればいらなくなるものです。 「信仰」と「希望」と「愛」こそ、神との直接の関係にあるもので、いつまでも残ると言うのです。 「今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている」だけかもしれない。 一瞬であったかもしれないが、涙とともに、喜びとともに、感謝とともに神のご愛の一端を垣間見ることができたではありませんか。 「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と言うのです。 「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。」 しかし、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」 主イエスの血によって贖われた者のつながりは、その働きは神のもとから注がれた「愛」によるものであるからいつまでも残るとパウロは語るのです。
[fblikesend]「苦難が希望を産む驚き」 ローマの信徒への手紙5章1~11節
第5章に至るまでパウロは、「信仰によって与えられる神の義」と「行いによってもたらされる神の義」を対比させて語ってきたのです。 ここからパウロは、「信仰によってすでに義とされている」という事実に力点を移して、ローマの人々に語りかけるのです。 パウロは「わたしたちは信仰によって義とされていたのだから」、「神との間に平和を得ている」と言います。 十字架に象徴される主イエスの執り成しによる「神との平和、平安、和解」という事実にパウロは立つのです。 その事実をあなたがたはまだ見えていない、気づいていないかもしれないが、それでもなお、私たちは主イエスによって主なる神との間に、「平和、平安、和解」を得ているという事実のうえに立ち、この確かな事実を携えて生きていくことになるとパウロは確信するのです。 今もって神のもとを離れたままとなっているこの世界に生きることにより、葛藤、苦難があるのは当然であるとパウロは言うのです。 十字架の死に至るまで徹底して真実を貫き通してくださった主イエスのご真実と、その主イエスを信じていくようにと私たちに注がれた信仰が、ほんの短い生涯の中で奇跡的に出会い、救いの出来事が起こされていると思わされるのです。 更にパウロは、「今の恵みに信仰によって導き入れられた」と言います。 「今の恵み」とは、神との間の平和、平安、和解です。 私たちは「この恵みの中に、すでに事実となっている出来事のうえに立っている」 しかし、それだけではない、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とまでパウロは言うのです。 パウロの語る「誇り」とは、私たちが語るプライドとは異なります。 「誇る者は主を誇れ」と言うまでに、パウロにとっては「喜び」ともいうべき「誇り」です。 「わたしたちは知っています」と言うように、私たちキリスト者皆に共有されるはずの「誇り」、具体的な事実として体験される「喜び」のはずだと確信するのです。 「苦難から忍耐、忍耐から練達、練達から希望」への一連の連鎖は、誰にでも通用する法則ではないでしょう。 パウロ個人がその生涯において神の憐れみによりつかみ取り味わった確信でしょう。 パウロが懸命に苦難を耐え忍ぶ中で、信じることができないような働きを感じ取ったのです。 「希望」こそ、未来から現在を見つめ直す視点でしょう。 私たちが語るような夢や希望ではありません。 その「未来」とは、神ご自身が約束によって果たされる現実の出来事であるはずです。 「希望はわたしたちを欺くことはありません」と断言し、神の約束にゆるぎない信頼を置くのです。 縛られた現在を過去から解放するその働きを、パウロは「聖霊によってわたしたちの心に注がれた神の愛」だと、奇跡としか言いようがない体験からパウロは結論付けるのです。 このパウロが確信した奇跡は、今や、私たちの傍らにもあるはずです。 この「神の愛」は「神のご計画によって定められた時に」起こった事実であると言う。 その時こそ、「わたしたちが弱かったころ」、「わたしたちが罪人であったとき」、「わたしたちが敵であったとき」です。 そのような時に神のご愛の働きは始まっていた。 パウロが心を入れ変えたからでも、強くなったからでも、神の敵となることをやめたからでもない。 パウロは気づいてもいなかった、正しい人でも善人でもなかった、罪に定められている人であった。 神に真っ向から敵対する人であった。 にもかかわらず、「それで今や」計り知れない神の愛がすでに始まっていたと気づかされた。 パウロはこの計り知れない愛を、何としてもローマの人々に伝えようとするのです。 この働きが苦難から希望への連鎖を産む。 この働きを、主イエスの死によって確約されたものとして将来の救いの約束として語るのです。 「わたしたちは神を誇りとしています」と言い、かつての誤った「誇り」から解放されて、神の前での「喜び」に変えられているのでしょう。
[fblikesend]「いつも父と一緒にいる息子」 ルカによる福音書15章25~32節
遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして困窮に至った「我に返った弟息子」こそ、「悔い改めるひとりの罪人」です。 元の父親のところに戻っていく「方向転換、悔い改め」です。 「もう息子と呼ばれる資格はありません」と、弟息子は今の「ありのままの自分」をさらけ出して、元々あった「自分」に立ち帰ろうとしたのです。 しかし、この場に及んで「雇い人の一人にしてください」と、条件をつけて父親との関係を取り戻そうとする。 せっかく見つめた「ありのままの自分」を、「雇い人のひとり」という「自分」を造り上げ覆い隠して、条件をつけて父親の憐れみを受け取ろうとするのです。 しかし、父親の姿は元の姿のままで、弟息子が条件付きの「自分」を差し出す前に、何ら条件もつけず赦し、自分と同じ家の者として装わせ、その喜びを全面に出して祝宴までも始めるのです。 弟息子はありのままの罪深さを覆い隠すために、もうひとつの「つくりものの自分」を作り直して「安心」を求めるのです。 「安心」とは自分のコントロール下にある一時的な心のゆとりでしょう。 聖書が語る「平安」は、すべてのことやものが神の支配のもとにあるという信頼、その父なる神と結ばれているという霊的なつながりの確信でしょう。 「ありのままの自分」をもって神の前に恐れず進み出るなら、思いもよらない無条件の愛に圧倒され、喜びの涙をもって一瞬のうちに心は砕けるのです。 主イエスは、弟息子の姿を通して「徴税人や罪人たち」に、父なる神から離れることがないようにと、見つけ出され元へ取り戻された失われた存在こそ、父なる神の大きな喜びであると語りかける。 この弟息子とは全く対照的な兄息子の姿を通して、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」にも同じように、神に従っているつもりでも実は神のみ心から離れてしまっていることに気づくようにと、一緒に失われた者の回復を喜ぶようにと語りかけるのです。 兄息子は終始父親のそばにいて、「父の言いつけに背いたことは一度もありません。」と言い切るほど父親に一貫して忠実でした。 自分勝手に父の家を出て行って前触れもなく帰ってきた弟を父親が無条件に赦し、元のまま父の家の一人として迎え入れたことに兄は怒って、父の家に入ろうとしない。 父親は、弟に対し「見つけて憐れに思い、走り寄ってきた」と同じように、兄に対しても「家を出て行ってなだめた」と言います。 兄は、「お父さんに忠実に仕え長年我慢してきたことが、今や報われていない」と憤りを顕わにするのです。 息子と父親という関係ではなく、まるで主人と奴隷関係であるかのようです。 「従順な息子」という自分が造り上げた「偽りの自分」を演じてきたのでしょう。 ここに至って、父親の思いとの決定的な隔たりが生じ、父の家に入ることができなくなったのです。 父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」と、弟が帰ってきたからといって兄に対し態度を変えたわけではない。 むしろ、兄と父親の今までの関係の「ありのままの姿」が浮き彫りになったのではないでしょうか。 この爆発した「怒り」こそ、自分を絶対化する位置に一時的に置いてしまうのです。 「ファリサイ派の人々や律法学者たち」こそ、神を神とし、誰よりも真剣に考え行動し、その熱心さが嵩じて怒りへと沸騰し、自らを絶対者の立場に押し上げてきた人たちでしょう。 兄息子は、父の思いは二の次で、自分が貫いてきた自分の誇りが第一でしょう。 父親は悔い改めて戻ってきた弟にも、弟を家族として認めようとしない兄にも、共にいて二人を支え、見えていない二人の暗闇を照らす光なのではないでしょうか。 父親とは父なる神であり、主イエスです。 兄と弟は混在する私たちです。 待ち受ける神ではなく、憐れみ深く出向いて来られる神を示しておられるのです。 弟は放浪の末、父の憐みのもとにある自分を見つけ出したのです。 兄は自分が父のもとで失われた者となっていたことに、これから気づかされていくのでしょう。
[fblikesend]「本当の自分と偽りの自分」 ルカによる福音書15章11~24節
この第15章には、「見失った一匹の羊」、「無くした一枚の銀貨」、「一人の放蕩息子」のたとえが記されています。 どれも、失われた存在を見つけ出した喜びが記されています。 「たとえ」の締めくくりには、「見失ったものを見つけ出したので、一緒に喜んでください。」と語り、そのことを「悔い改める一人の罪人について、大きな喜びが天にある。」とイエスは語るのです。 「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」 これが、弟である息子の父親に対する要望です。 父親はこの求めに応じたのでしょう。 「何日もたたないうちに、下の息子は分け前として与えられたもの全部を金に換えて、遠い国に旅立った。」と言います。 「彼が向かった遠い国」とは、そうなるべき、そうあるべきと強く願う自分を実現しようとした場所であったのかもしれない。 あるいは、窮屈な父親の家の生活から自由と喜びを求めての旅立ちであったのかもしれない。 この弟息子は「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。」 それだけでなく飢饉という現象にも襲われ、放蕩の限りからついには困り始めた。 「その地方に住むある人のところへ身を寄せたところ、 その人は彼に豚の世話をさせた。」と言うのです。 ユダヤ人の彼がユダヤでは汚れた動物と律法で見做されていた豚の世話をするということは、ユダヤ人としてのアイデンティティを失ったということです。 「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった。 しかし、食べ物をくれる人は、だれもいなかった。」 そこで、「彼は我に返って言った」と言うのです。 「言った」という言葉には、「確信した、断言した」という意味が込められています。 その内面の独り言が「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください。」というものでした。 「我に返った」という「我」とは何でしょうか。 誤った出来事を起こした「自分」、自らの決断と振る舞いに赦しを求める「自分」、元の父の息子である関係に立ち戻りたい「自分」でしょう。 困惑と混乱の「ありのままの自分」を初めて見つめ、父のもとにその姿をさらけ出して、元の「自分」に立ち帰ろうとしたのです。 自らが描いていた「ふさわしい自分」からかけ離れ、雇い人の一人になれば父は家に入れてくれるかもしれないと思った。 かつても今も、父親の真の姿を見ようともしていない。 「雇い人の一人」という「本来の姿ではない偽りの姿」を再び作り直し、父親の憐れみを条件付きで受け取ろうとしたのです。 自ら過ちを犯したと内面で告白し、元の父のところへ戻っていく「方向転換、悔い改め」です。 放蕩息子とは私たちです。 父親とは神さまです。 自ら「偽りの自分」を造り上げ、「ありのままの自分」を覆い隠そうとする。 父なる神は、覆い隠すことなく「ありのままの自分」を差し出しなさい。 私の無条件の愛を受け取りなさいと迫るのです。 この時、放蕩息子の目に飛び込んできたものは全速力で遠くから駆け寄ってくる父親の姿でした。 悔い改めて帰ってきた息子の思いをはるかに越えた父親の無条件の愛が、前もって準備してきた息子の「雇い人の一人にしてください」という言葉を言わせなかったのです。 人は罪を知るだけでは、心の底まで砕かれないでしょう。 しかし、神さまの思いを超える愛に触れたなら、心は砕けていくのです。 条件付きの悔い改めから、神の無条件のご愛に照らされた悔い改めへと導かれたのです。 息子が謝罪する前に父親は赦し、「ありのままの息子」を受け入れたのです。 息子が悔い改めたから赦したのではありません。 一人の魂の救いこそ、神によって託された喜びの出来事です。 私たちは「偽りの自分」を造り上げようとせず、「神によって造られた本当の自分」を取り戻すために、今の「ありのままの自分」をもって神の前に進み出ることです。
[fblikesend]「イエスによって示された神の愛」 ローマの信徒への手紙8章31~39節
ローマの信徒への手紙は大変難しい書簡ですが、教会に大きな変革をもたらした書簡です。 その中でもこの第8章は書簡の最高峰に位置しているとまで言われています。 パウロは正直に、「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」と言いながら、そのパウロの口から出てきた言葉が「神がわたしたちの味方である。」、「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」という表現でした。 この「味方である」という言葉は、「傍らに、側におられる」という意味合いの言葉です。 このパウロの信仰表現は、パウロの信仰体験からくるもので、「投獄されたこと、鞭打たれたこと、死ぬような目に遭ったことも度々あった。 石を投げつけられたこと、難船し昼夜海上を漂ったこと、・・・・様々な難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と告白しています。 これら人間がもたらす苦難があったとしても、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」 人間の能力をはるかに越える大きな力が働いたとしても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と断言します。 パウロの信仰体験は、復活の主イエス・キリストとの劇的な出会いによる救いの喜びであり、ご愛に触れることのできた恵みです。 その主イエスのみ言葉とご愛に突き動かされて、それを伝える者とされた喜びです。 自分のためにも、すべての者のためにも十字架を背負い死んでくださった、そのお方が今も生きて脈々と働いておられるという驚きです。 この一連の働きこそ、神のもとから注がれるご愛であることをパウロは確信したのです。 パウロの言う「これらのことについて」というのは、前段落の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということ」でしょう。 これはパウロ個人だけでなく、「すべてのために、すべてのものを、すべてのことにおいて」と三度にもわたって「すべて」という言葉を用いるのです。 これら「すべて」を貫いているのは、「神のご愛である。 一貫して変わらないみ心である。」と言う、「神の摂理」とでも言うべき告白です。 このパウロの確信は、今を生きる私たちの日々の足元にも届いているはずです。 御子イエスをさえ惜しまない、ゆるぎない神のご愛の輝きは、私たちキリスト者の日常にも輝いているはずです。 しっかりとその神のご愛の働きを見なさいと叫び、一貫して主イエスの十字架と復活の出来事のお姿に眼差しを注ぎ続けています。 自分自身の罪の赦しや救い、心の平安に留まらない。 「わたしたちすべては、すべてを賜っているので、すべてのことにおいて勝利を収める、この世のすべてを変える。」と言うのです。 「神がすべてにおいて、すべてとなられるためです。」(コリント一15:28)と断言し、現実の生活の中に究極の救いを求めているように聞こえます。 パウロはそのことを、「キリスト・イエスによって示された神の愛」と表現しているのです。 そこまでの神のご愛が、パウロを献身の働きへと駆り立てるのです。 「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1)と言うのです。 このパウロの「すべてを備えてくださっている」という神の摂理の眼差しは、私たちにも備えてくださっているはずです。 パウロはこのことを「輝かしい勝利」と表現するのです。 私たちは苦難や悲しみを克服した者としてではなく、そうした中においても神のご愛に引き離されることがないという約束に生かされているのです。 私たち人間の側の在り方に左右されるのではなく、神から遣わされたイエス・キリストのご真実によって、変わることのない神のご愛と御手の働きによるのです。
[fblikesend]「神の愛をもってつながる友」 ヨハネによる福音書15章9~17節
第15章の冒頭に「わたしはまことのぶどうの木」というみ言葉が出てきます。 「わたしは~~である」という表現は、主イエスは至るところで「わたしは、命のパンである。 世の光である。 道であり、真理であり、命である。」と自己表現されています。 もともと「ぶどうの木」とは、イスラエルの民は自分たちのことと理解していました。 約束の地でぶどう栽培ができること自体が、神の民に注がれた神の祝福そのものであったのです。 しかし、イエスご自身は「わたしがまことのぶどうの木」であると言われるのです。 そして、「あなたがたはその枝である。 わたしの父は農夫である。」と言われる。 父なる神がぶどうの木を植え、その枝が豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 ここに父なる神とイエスとの関係、イエスと弟子たちとの関係、父なる神と弟子たちとの関係を集約するのです。 「枝」はぶどうの実を豊かに実らせる務めを役割としてもっている。 「農夫」によって期待されている。 「ぶどうの木」は、「農夫」によって植えられ、育てられた。 そのイエスはご自身の「ぶどうの木」の幹に次々と「枝」を結びつけて、ご自身の務めをこの地上において引き継ぐように、「わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。 わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とそのつながりを示されたのです。 「つながる」の反対は「離れる」です。 イエスはご自身を見捨て、切り捨てていこうとする人に、「わたしから離れていこうとしている枝がある。 樹液の流れを失った枝は枯れるしかない。 取り除かれ、剪定されてしまう。」と訴えるのです。 それでは、イエスという「まことのぶどうの木」の幹に、何をもってつながるのでしょうか。 イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」 つながっているにふさわしい「枝」となっていると言うのです。 イエスのみ言葉をもって使命を帯びて、父なる神の手入れをもって整えられ、父なる神のみ心を果たしていくのです。 その結果、「わたしの父は栄光をお受けになる。」 大事なことは、私たちの実のなり方ではなく父なる神の輝きが現れ出ることであると言うのです。 そのために、ひとりひとりに神の期待にふさわしい賜物が与えられているはずなのです。 そして、この「ぶどうの木」のたとえに、9節で突然、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。」と言われる。 父なる神のイエスへの愛、イエスにつながれた人々へのイエスの愛が語られているのです。 イエスにつながるということは、父なる神によって注がれる愛を受け、その愛にとどまるということ、そこから神の愛を伝え、その愛を与えるという「愛する」ということに動かされていく。 イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)と言われるのです。 父なる神の愛、イエスの愛のほかに、イエスにつながれた者どうしの愛が語られているのです。 み言葉が、「愛する、つながる」という一連の動きを「ぶどうの木」の樹液のように起こしていると言うのです。 イエスを通して注がれた「み言葉、ご愛」によって、神さまとイエスとの交わりに、イエスと私たちとの交わりに、イエスに結ばれることによって「わたしの友」と呼ばれる交わりに加えられる。 その父なる神の恵みを私たちは受けているだけ、与るだけなのです。 神以外のものに寄り縋ろうとする人々のために、父なる神はイエスという「まことのぶどうの木」をこの世に植えられたのです。 それに結ばれた枝が新しい神の民になると宣言されたのです。 「わたしの喜びがあなたがたの喜びを満たす。 わたしがあなたがたを選び、任命したと言うのです。
[fblikesend]「憐れみと赦しをもたらすみ言葉」 イザヤ書55章6~11節
主イエスの誕生を待ちわびる「アドベント(待降節)」の際に灯される、4本のろうそくには意味が込められています。 1本目の灯には「赦し」が、2本目の灯には「平和、平安」が、3本目の灯には「喜び」が、そして最後の灯には「神の愛」が示されていると言います。 第一イザヤによって示された不従順による「神の裁き」が語られた後、第二イザヤは「赦しの宣言」から告げ始めるのです。 屈辱の中に沈んできたイスラエルの民に、「神を知るようになるために、あなたがたは選ばれた。 真の神の民となるために、試練として国の滅びと異国への捕囚が与えられた。」 しかし、「わたしの霊を与える。 傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともなく、暗くなることも傷つき果てることもない。」と、屈辱の地においても神が共におられたことを知らされた。 そればかりでなく、エルサレムへの帰還への希望をも与えられた。 第一の灯である「赦し」と第二の灯である「平安」と第三の灯である「喜び」が与えられた。 ついに、この世の力に優る「苦難の僕、救い主」が遣わされる。 その「苦難の僕」を通して与えられる「憐れみと愛」の約束が宣言されたのでした。 この第四の灯こそ、イザヤ書の第40章から第55章まで記したと言われる預言者、第二イザヤの記す第55章の締めくくりのみ言葉なのです。 「渇きを覚える者、銀を持たない者も、皆来るがよい。」 「価を払うことなく、水、穀物を求め、ぶどう酒と乳を得よ。」 もうすでにその「対価」は支払われている。 主なる神のこの恵みを受けよと言われているのです。 囚人としての屈辱の日々は、人々の心を満たすことはなかった。 神は、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払うのか。 飢えを満たさぬもののために労するのか。」 あなたたちは神の赦しを聞いたのだ。 そのことで心の平安は与えられ、解放され、喜びに満たされたではないか。 物質的な祝福のみならず、この魂の霊的な祝福をも受け取りなさい。 「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。 聞き従って、魂に命を得よ。」とまで言われるのです。 そして、「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。 呼び求めよ、近くにいますうちに。」と叫ぶのです。 「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かにしてくださる。」と言い、第四の灯が今や灯されたではないかと主なる神は迫るのです。 私たちの日常生活に、人と人との交わりに、その小さな出来事のうえに、主にお会いできるのです。 そこかしこにあふれ出ている神さまの働きに気づくのです。 「わたしの思い、わたしの道」は、「あなたたちの思い、あなたたちの道」とは異なる。 高く超えていると言われる。 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。」と言われる。 天と地の区別、創造者と被造物との間にある峻厳なる断絶さえ想起させます。 雨や雪のように、「わたしの口から出るわたしの言葉は、むなしくはわたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ、 わたしが与えた使命を必ず果たす。」と言うのです。 神の口から発せられたみ言葉は、出来事として必ず起こされる。 神の一方的な恵み、神の憐れみとご愛と贖いによる救いが、赦しを与え、平安で覆い、喜びに満たしていく。 それらの一連の働きを突き動かしているのは、「神さまの憐れみと真実なるご愛」です。 私たちが悔い改めたからでも、分かったからでもなく、神の憐れみとご愛に触れたから、新しく立ち上がることが赦されたからです。 神のもとへ立ち帰る道は、この人間としての生涯を歩んで示してくださったイエスを通して注がれる信仰、ご愛による以外には辿りつくことができないのです。
[fblikesend]「イエスが起こされる出来事」 マルコによる福音書6章30~44節
マルコによる福音書の第6章には、主イエスが弟子たち12人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして事細かに指示し村々に遣わしたと言います。 「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやした。」と言いますから、弟子たちの働きは顕著なものであったのでしょう。 その弟子たちがイエスのところに戻ってきて、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」と言います。 村々では弟子たちの周りに大勢の人々が集まり、「食事をする暇もなかった。」と言います。 弟子たちにとっては初めての経験であり、主イエスに喜びの報告をしたのです。 しかし、そうしたイエスと弟子たちの働きの最中にも、バプテスマのヨハネが「犬死に」のように処刑されたこと、大勢の群衆は途方に暮れて、病気の癒しのみならず心の癒しを求めて集まってきたことをマルコは伝え、「闇」の世界に一筋の「光」が差し込み始めたと伝えるのです。 この状況下、喜び勇んで戻ってきた弟子たちに、「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」とイエスは言われた。 弟子たちには、体を休めるようにという語りかけに聞こえたのでしょう。 しかし、多くの人々が弟子たちの動きを察知して先回りをして追いかけて来たと言う。 その直後に、この「五千人にパンと魚を配る」という働きを命じられたのです。 群衆に取り囲まれ夢中で奔走していた弟子たちを取り戻すかのように、「しばらく休むがよい」と、むしろ主イエスのもとに抱きしめられているように映るのです。 遣わされたところですり減ってしまった弟子たちの霊的な回復のために、イエスの心の鼓動に触れそのみ心を取り戻すようにと言われたのではないかと思わされるのです。 このイエスの呼びかけを聞いた弟子たちは、もうひとつのイエスの姿を見たのです。 弟子たちの後を追いかけてくる「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」と言います。 この「深く憐れむ」とは、内臓(はらわた)が揺り動かされるほどの痛みを伴う言葉です。 「同情」を越えて共に苦しむという「共苦」に至る激しい憐れみです。 イエスご自身にのみ用いられている言葉です。 このイエスの姿を目の当たりにした弟子たちは、神の激しい真実なるご愛が自分たちにも注がれていると気づかされたのではないでしょうか。 自分たちがやってきたことを喜び勇んでイエスに報告していた弟子たちに、しばしの間忘れかけていたことを思い出させるために、この驚くべき出来事を起こすのです。 「時もだいぶ経っていた」、「人里離れたところであった」、「男だけで五千人がいた」その現実の只中で、弟子たちはイエスに進言するのです。 「人々を解散させてください」 これにイエスは「あなたがたが群衆に食べ物を与えなさい。」と応じます。 「200デナリオンもののパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。 そのようなお金もパンもここにはない。 自分たちにはできない。」と弟子たちは破れるのです。 はらわたに痛みを覚えたイエスが、目の前の「羊飼いのいない羊」のような大勢の群衆、「そんなことはできない」としゃがみこんでいる弟子たちを前にしてこの出来事を起こされたのです。 弟子たちを遣わして出来事を起こしたのはイエスです。 まるで詩編23編の歌のように、まるで「主の晩餐式」のように、祝福された「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」、イエスの眼差しが愛する弟子たちを通してこの大群衆を包み込んだ出来事です。 もとから弟子たちができないことを百も承知で神の業を起こしておられるのです。 ご自身のみ心を果たすために、私たちがその働きを担うために整えられるのを待っておられるのです。 新しい神の民となった私たちは、この主イエスの痛みを伴う憐れみに気づき、補い合い、支え合い、主イエスの真実なるご愛を私たちの内にも宿して参りたいと願うのです。
[fblikesend]「出来事となった神の言葉」 ルカによる福音書2章8~20節
イエスの誕生の出来事が起きた地方で「野宿しながら、夜通し羊の番をしていた」羊飼いたちは、雇われ労働者として過酷な労働に従事していた存在、定住する家も家族もいない存在であったと言います。 ローマ帝国からすれば、住民登録をする必要もない住民の数にも数えられない存在であったのでしょう。 厳しいユダヤの律法に定める社会生活習慣を守ることさえできなかった、汚れた存在であったのです。 そのような羊飼いたちに、「主の天使が近づいてきた」と言います。 天使は驚く彼らに「恐れるな」と呼びかけ、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言うのです。 ローマ皇帝がローマの全領民に住民登録を命じたときに、そのローマの枠を超えて「民全体」に、住民登録ではなく「大きな喜び」を告げるのです。 「あなたがたのために救い主がお生まれになった、この方こそ主メシアである、この出来事があなたがたへのしるしである」と告げられたのです。 神にも、人々にも見捨てられているかのような人々、自分たちも諦め見捨てられていると思わざるを得ない人々に対し、民全体に与えられる大きな喜びが最初に与えられたのです。 「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が救い主、メシア」、「あなたがたへのしるし」であると言われたのです。 汚れた飼い葉桶の中に寝かされた救い主、いずれローマに対する反逆罪で十字架に磔にされ殺される救い主、汚れたままそれを身に引き受けて、ついにその汚れをご自身の血によって洗い清める救い主となる。 その誕生の時から十字架の死を目指したものが、神の救いの業であったのです。 その救い主と告げられた乳飲み子は弱い存在です。 身を寄せる場所も失っているような現実の中に、神ご自身が入って來られた。 それらの弱さ、貧しさ、汚れすべてをご自身のものとして担い、自ら贖うために徹底してご自身を低くされその生涯を歩み通されたのです。 すると、突然、天の大軍が加わり、「神には栄光、地には平和.御心に適う人にあれ。」と賛美したと言う。 これから起こされるであろう一連の出来事に神の栄光が現れることになる。 そのことをこの地上で信じ受け取る者、み心に適う人には、永遠の平和が与えられると言う。 神のみ言葉を愛し、昼も夜も口ずさむ人は実を結び、しおれることがないのです。 この神の真実な約束の言葉に出会うということは、神の言葉そのものであるイエスに出会う喜びです。 人間のつくった名言や名句を借りて座右の銘とする喜びとは異なり、神の真実な言葉を心の中から語る方と、神の真実な言葉を心の中に宿している方と出会う喜びです。 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と、初めて聞いた神の言葉に衝き動かされ話し会うのです。 彼らは命じられたのではなく、神の言葉が出来事となったことを確かめて、神が知らせてくださった出来事を自分の言葉で伝えたのです。 マリアも、羊飼いたちが語った言葉、天使を通して神が語った言葉を聞いて、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」と言います。 激しく心のうちで葛藤したのです。 これらは神と、神の言葉に生き始める人との「交わりの始まり」です。 人と人との交わりもまた、互いに交わされる心の中から発せられる言葉が、真実であるかどうかによって交わりが続くし、深まっていくもする。 神の言葉を口ずさむ者は、神の愛により発せられる言葉を語る人に造り変えられるのです。 その出来事を知らされた人は、神の選びにより主イエスの証人として遣わされていくのです。 羊飼いたちは、「神をあがめ、賛美しながら」外からは気づかない全く別人となって過酷な現場に「帰って行った。」 人々の蔑みの目に晒される羊飼いであり続けたと言うのです。 私たちもまた、出来事となる約束の言葉に出会い、聞いて、心の中から互いに語り合いたい、喜び合いたいのです。
[fblikesend]「東方の学者たちの礼拝」 マタイによる福音書2章1~12節
「あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。 闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。 しかし、あなたの上には、主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。 国々はあなたを照らす光に向かい その輝きに向かって歩む。 みな集い、あなたのもとに来る。 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き おののきつつも心は晴れやかになる。 人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。 こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。」(イザヤ60:1-6)と預言しているように、マタイによる福音書はユダヤから遠い国の占星術の学者たちが駆けつけた光景を、「異邦人による最初の礼拝」として受け止めた出来事であると言うのです。 エルサレムに到着した学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と人々に尋ねるのです。 その噂を聞いたユダヤの国の王ヘロデは不安を抱いたと言う。 ヘロデは直ちに、エルサレムの祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、「そのメシアはいったいどこに生まれることになっているのか」と問い質すのです。 尋ねられた宗教指導者たちは、「ベツレヘムからダビデの再来に匹敵するメシアが生まれ出る」(ミカ5:1)と聖書に書かれていると的確に告げ、ヘロデは自らの地位を保つためにユダヤ人の王として生まれたメシアの抹殺を企てるのです。 ヘロデは「見つかったら知らせるように」と学者たちに戻ってくるように告げ、宗教指導者たちは自分たちの地位や身分が危うくなる恐れからヘロデのメシア抹殺に手助けをするのです。 学者たちはヘロデたちの言葉を聞いて出かけると、「星」が今までと同じように彼らを導き、ついに幼子のいる馬小屋の上に止まったのを見て喜びにあふれたと言います。 彼らは自分たちのなすべきことを故郷に残し、長旅の様々な危険を顧みず「星」だけを頼りに、また、エルサレムで聞いたみ言葉を頼りに知らされた幼子を「ひれ伏して拝みにきた」のです。 彼らの喜びは、「星」に導かれエルサレムにおいて知らされたみ言葉を「暗闇を照らす光、輝き」として成し遂げられたことを確信した喜びでしょう。 クリスマスはヘロデにも、祭司長や律法学者にも、ヨセフとマリアにも、学者たちにも訪れたのです。 クリスマスの出来事を見て、聞いて、知ったのに、本当に人間の姿はまちまちです。 「星」を通して導かれ、エルサレムにおいて「み言葉」に触れ、イエスのもとを尋ねて行った学者たちでした。 聞き伝えではなくみ言葉が出来事となったそのところに身を置いて、異邦人でありながら「礼拝する者」に変えられた学者たちでした。 マタイによる福音書は、イエス・キリストの誕生の事実とともに、そのイエスのみ前に進み出て礼拝する者に変えられた新しい神の民の姿を映し出すのです。 長い間待ち望んでいたことが、今や現実となって礼拝することができるまでになった喜びです。 学者たちは、そのところで布にくるまれた何もできない幼子に出会うのです。 しかし学者たちは、自分たちが大切にしているものをささげてでも礼拝すべきお方として、自らをありのままに差し出して礼拝をささげたのです。 そのしるしが「黄金、乳香、没薬」でしょう。 遠い東方の国から命がけの長旅をして待ち望んでいたメシアに出会い、それがイエス・キリストという赤ちゃんであることを知らされ、そのお方を自らの内に宿して、唆かされたヘロデ王のもとに立ち戻るのではなく、「別の道を通ってもとの自分たちのところに戻って行った」のです。 今までとは違った道を辿るように、「新しい自分」となってもとのところに帰って行ったのです。 彼らの人生の分岐点となった出来事でした。 クリスマスとは、遣わされてきたイエス・キリストを「救い主」として受け取って礼拝するとき、すでにこの世に神の国が到来していること、み言葉が出来事となっていることを証しするために用いられていくときではないでしょうか。
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