秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「何をしているか知らないわたし」 ルカによる福音書23章32~38節 

2024-03-24

 十字架のもとには様々な人間模様があります。 イエスが背負う十字架を急きょ背負わされ、イエスの歩く後ろから運ばされるはめとなったキレネ人シモンがいます。 そのお陰で、目の当たりにイエスの十字架の姿を見ることができ、語られた数少ないイエスの祈りを聞く恵みが与えられたのです。 大勢の「立って見つめていた」ユダヤ人たちの傍観者の姿もあります。 わずかな間に手のひらを返すごとく、大歓迎から「十字架につけよ」という叫びに変わった彼らこそ、何も知らされず、祭司長や律法学者たちに操られていた人たちです。 その民衆を扇動していた議員は、「他人を救ったのだ。 もし、神からのメシアであるなら、自分を救うがよい。」とあざ笑ったと言います。 この議員たちの背後には、ヘロデ王、ローマ総督ピラトの姿が隠されています。 直接の刑の執行者であるローマ兵士たちも、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と侮辱したと言います。 一方で、イエスに従ってついてきた「嘆き悲しむ婦人たち」の姿もあります。 忘れてはならないのは、イエスと同時に十字架に架けられている二人の犯罪人がいることです。 こうした十字架のもとで繰り広げられている有様の中、イエスのお姿はイザヤ書53章に預言されているとおり、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、軽蔑され、無視され、苦役を課せられ、かがみ込み、口を開かなかった。」のです。 そのような中で、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られたと言います。 「知らない」とは、「見えていない、分かっていない」ということでしょう。 神の際限のない知恵とみ心の前に私たちが立つなら、変わらなければならないのは自分自身であることに気づかされるのです。 自分の正しさをもって自分の身だけを守っているファリサイ派の人たちに、イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。 しかし、『今、見える』とあなたたちは言っている。 だから、あなたたちの罪は残る。」と言われている。 イエスはここで「罪」と言わないで、「知らないでいる」と言っておられるのです。 十字架のもとを取り巻くすべての人、「わたしに与えてくださった人を一人も残さないで、終わりの日に復活させることである」という父なる神の御心を果たす為に、すべての人を「彼ら」と言い、その赦しを願って祈られたのです。 「知らないでいる」すべての人の有様が、イエスを直接「十字架」に架けたのです。 神にして人となられて遣わされてきたイエスが、犯したことのない「人の罪」を背負わされ、地上の生涯を終えようとしているその時に、十字架のうえで「彼らをお赦しください」と父なる神に執り成しておられるのです。 イエスは御自分を救えなかったのではなく、すべての人々を救うために、父なる神の裁きの前に進み出られたのです。 父なる神のご愛を、「赦し、救い」そのものをご自身の十字架の死の姿によって表されたのではないでしょうか。 十字架を取り巻く人たちは自分が「裁き人」の立場に立って、イエスを「人を救ったが、自分を救えなかった情けない人」と見ていた。 イエスは沈黙のうちに、「裁き人」に扮したすべての人々のために、「赦しと救い」を求めてとりなしの祈りをささげておられたのです。 人を救うことによって自分を救うことになるという、「人としての生き方」を示されたのです。 すべての人々の「永遠の救いの源」となるためでした。 イエスだけが、罪深さの本当の苦しみを知りながら、それに耐えてみ心に服従してくださったのです。 知らないで犯している「罪」は、このイエスの痛みと沈黙ととりなしの祈りを通してしか解決され得ないものであると、十字架の恵みが立てられているのです。

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「遣わされたところで委ねる」 ルカによる福音書22章39~46節

2024-03-17

 イエスが最後の晩餐の席を立って、「いつものように」、「いつもの場所に」向かわれたと言います。 イエスと弟子たちは、「日中はエルサレムの神殿で教え、夜は神殿を出て行ってオリーブ山で過ごされた。」と言います。 12弟子の一人であったユダも熟知していた場所です。 そのような場所に身を寄せることは、裏切ったユダがやってくることを待っていたかのようです。 そのような場所で、そのような時に、イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われる。 最後の時を、「いつものように」、「いつもの場所で」祈ることを選んでおられる。 そして、ご自身は「ひざまずいて祈られた」と言います。 「祈ること」は、人間の限界を背負わされたイエスにとって神に向かって進み出ること、神との交わりを保ち続けること、人間の限界を超える神のみ心を尋ね求めることでした。 この世の霊の「誘惑」は、決して避けて通れないものである。 「祈り」によって神との交わりを保ち続けていれば、「誘惑」に負けて不信や不安や絶望に引きずり込まれることはないと言われる。 ご自身も、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。」 イエスがこの地上で直面しなければならなかった生涯最後の最大の試練です。 死を目前にした苦しみのどん底での祈りが、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」という切実な「祈り、願い」でした。 私たち人間と同じ、神のみ心が分からない苦しみだと人は言うかもしれません。 イエスは預言者を通して語られた神の「御言葉」から、また、欠かすことのなかった「祈り」の交わりから父なる神のみ心は知っておられた。 むしろ、ご自身の使命も分かっておられたに違いないと思わされるのです。 父なる神との交わりだけに生きてこられたイエスご自身が、神の怒りと裁きに身を委ねなければならない魂の苦しみは、私たちの想像を絶するものです。 父なる神の審判の「苦い水」を「今、ここで」飲み干さなければならない苦しみです。 父なる神との断絶、永遠の死に定められる恐れと苦悩から出てきた祈りの言葉です。 罪を知らない神の子であるイエスが、私たち人間と同じ罪に定められ神の裁きと怒りに直面しているのです。 このイエスの「切実な祈り」に、父なる神は「杯」を取りのけられることなく突きつけたままです。 イエスの苦しみを取り除かれるのではなく、苦しみを通り抜けるために「力づけた」と言います。  イエスの「祈り」がここで、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」に変わります。 人間と同じ「切実な祈り」から、選ばれ遣わされ務めを与えられて神の子とされた者の「確信の祈り」へ変えられるのです。 イエスは、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:39)とはっきり語っておられます。 イエスは祈り終え弟子たちのところに戻ってみると、彼らは「悲しみの果てに眠り込んでいた」と言います。 イエスは避けることのできない「誘惑」の恐ろしさを十分知っておられ、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と繰り返されました。 「祈り」こそ、「誘惑」を克服する道であることを、「石を投げて届くほどの所で」祈る姿によって示されたのです。 十字架のうえでの「父よ、彼らをお赦しください。」という「とりなしの祈り」と、息を引き取られる直前の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」という「父に委ねる祈り」が最後の祈りでした。 「祈りの姿」を示して語っておられるのです。 イエスの十字架の贖いを通して、イエスの「とりなしの祈り」と「父に委ねる祈り」が、恵みとして私たちに与えられているのです。 死を超えた復活の主の名によって、「御心のままに」と委ねることが赦されているのです。

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「学んで確信したこと」 テモテへの手紙二3章10~17節 

2024-03-10

 「タラントンのたとえ」(マタイ25:14-30)があります。 ある主人が旅に出かけるとき、僕たちを呼んで自分の財産をそれぞれの力に応じて預けた。 すると、預かった財産を商売をして倍にした僕と、貴重な財産を減らしてはならないと土の中に隠した僕に分かれた。 主人が旅から帰ってきて、預かった財産の総決算をする時がきた。 財産を倍にした僕は、「忠実な僕だ」と主人に喜ばれ、一方、「ご主人様、あなたは厳しいお方だと知っていましたので、恐ろしくなり、あなたの財産を土の中に隠しておきました」と弁明する僕は、「怠け者の悪い僕だ」と主人に叱責されたと言う。 主人は、財産が増えたから喜んだのでしょうか。 旅に出る主人とは、十字架の死という受難の旅に出られたイエスのことでしょう。 主人に財産を預けられた僕たちとは、イエスの愛する弟子たちのことでしょう。 イエスと愛する弟子たちとは、しばしの間、別れることになる。 しかし、イエスが戻って来る時がやがてきて、弟子たちにとって精算の時となる。 イエスに託されたものを用いた者と用いなかった者とに分けられる。 人との比較ではなく、それぞれに託されたものに応じてその人自身がイエスの前で問われる時が必ずくるという、「終わりの日」の厳粛な風景でしょう。 十字架という苦難に自ら進んで行かれたイエスと、再三に亘るイエスの受難の予告にもかかわらず、イエスを見捨ててしまった弟子たちの姿があります。 この弟子たちが聖霊の導きにより、イエスの十字架のゆえに赦されて、イエスに託されたものが何であったのかを思い知らされ、喜びに満ち足りたのです。 イエスは弟子たちに何を残したのかという結果ではなく、何をなそうとしたのかというその思い、信仰をじっと見ておられるのです。 「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(ペトロ一4:10)と言われているとおりです。 イエスの留守の間、神の恵みによって託された大切なものを感謝して喜んで受け取るように、イエスを裁き主として恐れて、その戒めを守るためだけに、あるいは自分自身を守るだけに汲々とならないように、託されたものを用いて生き生きと生きるようにと願っておられるのです。 今朝の聖書箇所の前の段落に、「終わりの時の人々の有様」を19の人間の姿として記しています。 要約すると、「神を畏れない、神ならぬものを愛する自分本位の姿」でしょう。 パウロはこの手紙で、神のみ言葉を宣教する者、教会の群れの牧会者として奮闘する若いテモテに、「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。」(3:1)、19の人間の姿に象徴される「こういう人々を避けなさい。」(3:5)と言うのです。 パウロは自分自身の生き様、姿を示して、み言葉に立ってみ言葉から語る人、神を畏れ愛する人、み言葉に従って生きる人に聴きなさいと言います。 そして、「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」(3:14)と言うのです。 テモテは祖母と母親の信仰を通して、みことばを教えられ、その心の内に宿している。 パウロ自身が示してきたように、使徒として、宣教者として、牧会者としての姿、言葉、証しを通してでも培われてきたと言うのです。 み言葉は、神ご自身が様々な時代に、様々な人を用いて、様々な状況を踏まえて、伝えたい人々に向けてご自身のみ心を表したものです。 「たとえ」で示された主人より僕たちに預けられたものこそ、十字架の上で死んでくださったイエスご自身です。 「忠実な僕」と呼ばれた僕たちは、主人に託されたことを喜び、主人の思いに信頼と安心を寄せて生き生きと用いたのです。 イエスは、「聖書は、わたしについて証しするものだ」と宣言しておられます。 私たちは、この聖書のみ言葉の中に、イエスを「見つけ出そう、出会おう」という信仰をもって受け取っていかなければならないのではないでしょうか。

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「しかし今は、それでよい」 ルカによる福音書22章35~38節

2024-03-03

 イエスがガリラヤの町や村に宣教のため出向いて行かれる前に、72人の弟子たちを任命し、すべての町や村に弟子たちを二人ずつ先に遣わされた時です。 「行きなさい。 わたしはあなたがたを遣わす。 それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。」(12:3-4)と言われていたのです。 財布と袋と履物は、旅する者にとっては必需品です。 そうであるのに持って行くなとは、宣教のために遣わされていく者は神への信頼だけを置くように、心配することはないという恵みの派遣命令です。 必要なものはすべて備えられるという約束の宣言です。 そのことを覚えておられて、意気揚々と喜んで帰ってくる弟子たちの姿をご覧になって「何か不足したものがあるか」と尋ねられたのです。 弟子たちは、イエスに選ばれて力と権威を与えられて、この「世の終わり」は近いという緊迫感の中で自分たちは大事な使命を担わされているという高揚感に満たされていたのです。 「いいえ、何も不足するものはありませんでした」と弟子たちは胸を張ったのです。 そのような弟子たちが病気を癒し、悪霊を追い出し、神の国の恵みを語り、勇気づけられたガリラヤの人たちは泊まる部屋も食事も提供した。 弟子たちは何も持たないでも不自由することはなかったのです。 主イエスの御言葉に従った者だけが味わう、神の働きの実体験です。 主イエスから遣わされているという確信が、み言葉を聴くことを促すことにもなるし、どのような状態に晒されても心の平安を失うことはなかったのです。 その「派遣命令」を出されたイエスが、「しかし今は」と全く正反対の指示を出される。 その理由をイエスは、イザヤ書53章12節の「犯罪人の一人に数えられた」という預言は、この「わたしの身に必ず実現する」と説明するのです。 「今や」、イエスご自身に対する死罪判決が降ろうと迫っている。 殉教者としてではなく、この世の犯罪者として裁かれ処刑されることになっている。 イエスご自身に止まらず、イエスをメシアと仰ぐ人たちにも影響が及ぶ。 死罪判決が出れば、弟子たちの働きが一変する。 今まで喜んで家の戸口を開けて、弟子たちを迎え入れた住民は、家の戸口を閉ざしてしまう。 これまで喜んでもてなしてくれた住民が何もしてくれなくなる。 イエスは、「しかし今は、財布のある者は持って行きなさい。 袋も同じようにしなさい。 剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とまで言われる。 ガリラヤの人たちからの支援が全く期待できなくなる「今」は、自分たちで備えるようにというイエスの指示でしょうか。 イエスは弟子たちの弱さを十分知っておられます。 イエスに遣わされていることを見失うなら、自分の手で自分を守る誘惑に陥るだろう。 「イエスの身に必ず実現することになる」と言われたその直後に、「わたしにかかわることはあなたがた弟子たちにも同じことが実現する」と繰り返しておられるのです。 財布も袋も剣も弟子たちの命や存在を保証するものではないことを分かったうえで、イエスは弟子たちの弱さに対し赦しと憐れみの言葉をかけられているのではないでしょうか。 全く理解できない弟子たちは、「剣なら、このとおり二振りあります」と答えてしまう。 イエスは「今はそれでよい」と、弟子たちとの対話を打ち切って十字架の処刑に向けオリーブ山での祈りに向かわれたのです。 いずれ分かる時がくる。 「しかし、今はそれでよい」 苦境に立たされれば立たされるほど自らの力と正しさで釈明しようとする弟子たちの弱さを、イエスはそのまま受け入れ憐れんで担われたのです。 誤解されたまま、誤解している弟子たちを赦して受け入れてくださったのです。 人の弱さを指摘するのではなく、担っていく強さ、人の誤解を神に委ねていく強さを、愛する弟子たちに示してくださったのです

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「神にすべて差し出す礼拝」 マルコによる福音書12章38~44節

2024-02-25

 「律法学者を非難する」という段落と「やもめの献金」という段落が続けて記されています。 いよいよ十字架に架けられる直前のイエスに、律法学者たちは様々な論争をしかけるのです。 そのような論争に終止符を打つかのようにイエスは、この何気ない二つの小さな段落をもって論争の根本的な問題を浮き彫りにして語り終え、もはや論争ではなく裁判、処刑、殺害の十字架の現実へ進むのです。 今まで群衆や律法学者たちに向けて語られていたところから一変して、イエスは愛する「弟子たちを呼び寄せて」、「律法学者たちの姿」と「一人のやもめの姿」を対比させて語るのです。 「律法学者たちの姿」とは、人に認められること、尊重されること、敬われることを目に見える形で受け取ることを望んでいる姿、立ち振る舞いです。 内側のものを覆い隠すかのように外側のものを取り繕うとする。 神との交わりが形だけに終始し、真の礼拝や賛美や祈りにつながらない。 そのことによって周りの神の民とのつながりさえも損なわれてしまう。 これこそ、私たちの現実の姿なのではないでしょうか。 人の心の内側と外側は密接につながっている。 心の中にあるものが外に向かって溢れ出てくる。 心の中にいったい何が宿って、その人の心を支配しているのかをイエスはじっとご覧になって鋭く見抜いておられるのです。 この賽銭箱を前にした「一人のやもめの姿、立ち振る舞い」から、その心の中から満ち溢れ出てきているものこそ、神への信頼と感謝である、真の礼拝であるとイエスは見て取ったのです。 これから父なる神の前に自らの命を差し出す決断をして、エルサレムに歩んで来られた「イエスご自身の姿」が、この「一人のやもめの姿」に折り重なって目に留まったのではないでしょうか。 
同じような光景をマルコによる福音書(14:3-9)は語っています。 イエスが多くの人々と一緒に夕食についていた時です。 一人の女性が、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもってきて、それをその場で壊し、その香油をイエスの頭に注ぎかけた」と言います。 「ナルドの香油」とは、当時の一年分の賃金に匹敵する価値があったと言われています。 「なぜ、こんなに高価な香油を無駄遣いしたのか」と叱責する席についていた人々にイエスは、「するままにさせておきなさい。 わたしに良いことをしてくれたのだ。 わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできる限りのことをした。 前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ。」と言われるのです。 イエス自ら進んでこれから受けられようとしている「十字架の痛み、死」に与る時がくる。 イエスはこの一人の女性が「この時、このところ」でしかできないことをこの私にしてくれたと、その苦しみを共に味わおうとする女性の姿をそのまま受け取っておられるのです。 イエスは、ご自身の存在を父なる神のみ心の前にすべて差し出そうとしておられる姿を、「一人の貧しいやもめの姿」の前に愛する弟子たちを呼び寄せ示しておられる。 神の前にすべてを差し出して、感謝と賛美と喜びの真の礼拝をささげるようにと招いておられるのです。 私たちがご一緒にささげている礼拝は、今日限りの唯一の礼拝であるはずです。 ずっとイエスが見つめておられる礼拝です。 これから十字架につこうと決心しておられるイエスに、できる限りのすべてのもの、「一人のやもめ」は持っているわずかな価値のレプトン銅貨二枚、一人の女性は石膏の壺に入った高価な香油をそれぞれにふさわしくすべてを真の礼拝としてささげたのです。 私たちに注いでくださる賜物、恵みこそ、神に感謝と賛美と喜びをささげるためのものです。 神の救いのご計画のために豊かに用いられるためのものです。 私たちは「一人の貧しいやもめ」のごとく、真の礼拝に招かれているのです。

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「わたしを強くしてくださる方」 テモテへの手紙一1章12~17節 

2024-02-18

 エフェソの教会の様々な課題に悩みつつ取り組む若き指導者テモテに対し、パウロはこの励ましの牧会書簡で、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」と、自分自身の強い思いを語ります。 旧約聖書に記されているアブラハムやモーセに対する神の召命、預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルに対する神の召命の出来事を考えてみてください。 神に選ばれ、不意に呼びかけられ、自らの弱さを突きつけられ迫られる。 神の求める務めを与えられ、神が遣わされるところに遣わされる。 恐れ戸惑うところに、神の約束と保証の言葉が告げられる。 神が共におられることをその生涯において実感させられる。 見た目には決して恵まれた生涯とは思えないけれども、主なる神と共に歩んだという喜びと感謝に満ち足りた地上の生涯を彼らは満ち足りて終えているのです。 ペトロに代表される使徒たちの生涯もまた同じように、イエス・キリストに選ばれ、呼びかけられ、迫られ、新しくつくり変えられてイエスによって授けられた使命を感謝と喜びをもって歩み通したのです。 パウロもまた同じように、主イエスに「忠実な者と見なして務めに就かせてくださったこと」、以前のパウロが犯した過ちが赦されて「憐れみを受けたこと」、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられたこと」を感謝するのです。 以前のパウロは、「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」と自戒しているように、律法をないがしろにするキリスト者を徹底的に迫害したのです。 「わたしは、その罪人の中で最たる者です」とまでパウロは吐露しています。 そのパウロがイエスに選ばれ、呼びかけられ、自らの罪深さを迫られ、霊の目が開かれ、イエス・キリストに仕える使徒とされた。 お陰で、ユダヤ人たちからは裏切者呼ばわりされ、キリスト者からは恐れられる生涯を送ることになったのです。 自らの過ちに気づかされたことだけでなく、憐れみを受けてそれを赦されたこと、赦されただけでなく忠実な者と見なされイエス・キリストに仕える務めに就かせていただいたことを、「わたしを強くしてくださった」と表現するのです。 パウロが熱心に求めたからでも、涙を流して悔い改めたからでもなく、自分で自分を強くしたのではなく、イエス・キリストによって呼びかけられ、憐れみを受け、無条件のご愛によって呼び寄せられたからです。 ここにパウロの喜びの感謝と喜びの源があるのです。 主イエスが強くしてくださっているのに、逆らって自分をつまらない者、弱い者と扱ってはならない。 むしろ、自分の弱さを知り尽くすように、そのうえでイエス・キリストによって強くされた自分を大切にするようにと願っておられるのです。 そのような者がイエス・キリストによって強くされたという自覚のうえに立って、イエス・キリストに仕える者として生かされるようにと招いておられるのです。 16節に、「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」とあります。 パウロを強くしてくださった同じ主イエスが、テモテをも強くしてくださる。 それは、大事な神の務めを果たすためである。 神とのつながりを保つようにと、礼拝を感謝と喜びをもってささげている私たちすべてを強くしてくださるためなのです。 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(2:4)とパウロは言います。 あふれるほど与えられている恵みを伝えていくこと、そのために与えられている信仰、注がれている神のご愛、憐れみなのです。 私たちの地上の歩みは、この信仰とご愛と憐みに支えられて、神の務めのために生かされているのです。

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「とうてい信じられない事」 使徒言行録13章26~41節

2024-02-11

 使徒パウロが異邦人宣教の出発点でもあった、記録されている最初の説教として、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」と語り始めます。 「神を畏れる方々」とは、ユダヤ教に改宗した異邦人たちのことです。 最初の段16節から25節で、イスラエルの民のうえに起こされた歴史的な出来事はすべて神のご計画に基づくもの、イエス・キリストの出現のための準備であったと先ず語ります。 神がイスラエルの民を選び出し、エジプトから解放し、約束の地と統一国家を与えたように、今や、このイエス・キリストによってローマ帝国から解放されることに止まらず、イエス・キリストによってすべての人たちが今まで縛られていた地上の力から解放されるために、「この救いの言葉はわたしたちに送られました。」と26節から37節にかけてパウロは宣教の核心へと展開するのです。 「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、命の導き手であるはずのイエスを拒み死刑に定めたのです。 死に当たる理由は何も見いだせないイエスを十字架に架け、殺したのです。」 「しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させてくださったのです。 幾日にもわたって復活させられたイエスの姿を、一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に現わされました。 彼らこそが今や、その復活されたイエスの証人となっています。」 そのために、「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせているのです。 神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」と力強く語ります。 「だから、兄弟たち、知っていただきたい」と、パウロの宣教の核心、信仰の神髄に38節から41節において迫ります。 「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、イエスの名と教えと業を信じる者は皆、義とされる、罪の赦しが宣言される。」と言うのです。 「義とされる」とは、解放される、赦される、神の前に正しい者とされるという意味です。 パウロがこれから生涯掲げ続ける「信仰による義」、行いや儀式や理解による義ではなく、ただ受け入れ、信頼して共にイエス・キリストに結ばれて歩んで行こうとする者に与えられる「救いの言葉」、これが福音の本質であると語ります。 パウロ自身がいかに熱心であっても、律法を全うすることはできませんでした。 自ら感じる罪の重さは増し加わるばかりでした。 しかし、イエスと出会い、その呼びかけに応え、受け入れざるを得なくされたとき初めて、罪の赦しというものを味わったのです。 今まで守ることばかりに熱心であった律法から、パウロは解放されたのです。 神の前に義と認められるのは、律法を守ることではなく、解放者、救い主としてのイエスを信じることであったと悟ったのでした。 イスラエルの民のような歴史的出来事を持たない私たちですが、自分自身の短い生涯で味わった神の恵み、救いの恵みを味わっているので絶望する必要はありません。 私たちは信じながら疑っており、疑いながら信じています。 疑いに取り囲まれても、私たちは自分の閉じられた狭い世界の枠の中に閉じこもる必要もないのです。 イエス・キリストの十字架と復活が私たちの信仰の対象となるには、どうしてもこの「救われた、赦された」という自分自身の人生における実体験を必要とします。 そういう意味では、聖書の言う「復活」とは、この地上の世界で神によって生かされるという生き方を自ら引き受けるという決断を指し示しているのかもしれません。 預言者ハバククの言う「とうてい信じられない事」とは、地上の死で終わらない、「イエスによって義とされること」を神の救いの約束として語っているのかもしれません。

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「捨てた命から得る新しい命」 マタイによる福音書16章21~28節

2024-02-04

 「このときから、イエスは」とあります。 イエスと弟子たちが、宣教活動に邁進していたガリラヤ地方を一旦離れて、北の異邦の地であるフィリポ・カイサリア地方に退いたときでした。 イエスはしみじみと、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と尋ね、弟子たちが「人々は、様々に言っている」と答えると、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられたと言います。 弟子たちを代表してペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたと言う。 イエスは休息のためでも、監視を免れるためでもなく、エルサレムに向かう旅を歩み始める決意をされた「とき」、弟子たちが曲がりなりにも、イエスに対する信仰告白を語り始めた「ころ」、「御自分がエルサレムで、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」と初めて打ち明け始められたのです。 この受難の予告は、三度繰り返されたと言います。 いよいよ、父なる神の御心に従う決意をされたイエスが、エルサレムに向けて歩み始められた際に語られた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というみ言葉を味わい直したいと願います。 ペトロの描くメシアは、イスラエルの国を守る「解放者としての栄光のメシア」でした。 イエスご自身の描くメシアは、神のご計画で必ず起こることになっていると父なる神に委ね切るメシア、黙して耐え忍ぶ「苦難の僕としてのメシア」であったのです。 「わたしは、エルサレムに行って多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」と、初めて弟子たちに打ち明け始められたのです。 ペトロは、「とんでもないことです。 そんなことがあってはなりません。」と耳を疑った。 もしそうであるなら、そのような危険なところにイエスを行かせてはならないとペトロは強く意思表明をするのです。 人間として最善のふるまいであると思わされていることが、実は神のご計画を妨げてしまうことが多々あるのです。 「あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のこと、自分のことを思っている。」 だから、私の後ろに引き下がって、私がそうしているように父なる神の思いに目と心を向けよと、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と、愛するペトロを招いて諭しておられるのです。 「自分を捨てる」とは、自分にとって「あってはならないことだ」と、こよなくイエスを愛する人間的な愛に振り回されているペトロに向けて、振り回されている「自分」を捨てなさい。 自分を第一義に捉えようとする、神とのつながりを失っている「自分」を捨てなさい。 主なる神との命の源とつながる本来の自分を取り戻し、そこから「わたしに従ってついてきなさい。」と言われているのです。 命の源につながる「自分」を失って、自分自身のためだけに目を奪われる者はその命を失う。 しかし、神に支えられて生かされていることに気づく者は、その命を得ると言われるのです。 「自分の十字架を背負って」とは、犠牲や忍耐や重荷を言うのではなく、イエスに従っていこうとする者に対する招きの言葉です。 この世の力が大手をふって支配している受け入れ難い世界において、神の命の源に連なる神の民の命に組み合わせられ、授けられている地上の命を生かされていく。 イエスの十字架に与って、赦され、解放され、地上の命の終わりに縛られることなく、神の邪魔をする力に取り囲まれながらも歩んでいくことができるようになる。 その「復活への道」が備えられているとイエスは招いてくださっているのです。 「自分の十字架」とは、この地上で味わう、イエス・キリストの十字架の恵みに共に満たされて生かされている「証し」そのものなのではないでしょうか。

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「神の選び」 エレミヤ書1章4~10節 

2024-01-21

 エレミヤは「祭司ヒルキヤの子」と言います。 預言者の務めの難しさを身に染みて知っていただろうし、属国として生きて行かなければならない弱小国ゆえの悲観的な現実も味わったでしょう。 そのエレミヤに、「わたしはあなたを、諸国民の預言者として立てた」という主の言葉が不意に臨んだと言います。 この主の言葉にエレミヤはしり込みをし、「わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎません。」と即座に返答するのです。 自分には、命じられた務めを果たすのに、弱さや欠けを正直に申し出たのです。 エレミヤの心からの拒絶であったのです。 このエレミヤの抵抗に主は、「あなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、あなたを聖別した。」と呼びかけるのです。 エレミヤがどのような性格であるとか、これまで何をしてきたのかとか、今どのような思いで過ごしているのかに一切関係なく、主御自身のみ心を果たす為に用いられる器として定められていたという宣告です。 不意に、直接介入された神の宣言でした。 聖書はこれを「エレミヤの召命」と言います。 エレミヤは自分自身についてのことよりも、むしろ、異教の神々に偶像礼拝をしている民、神の呼びかけに聞こうともしない民を決して神は見捨ててはおられない。 その為には、だれかが預言者となって一国の王や指導者たちに意見を述べ伝える務めを果たさなければならないのではないかと気づかされたのではないでしょうか。 それほど大切な働きを果たしうる存在など、この世にはいない。 神ご自身が準備され、それにふさわしくない存在をもつくり変えて遣わす。 これから起こる出来事は神の働きによるもので、神が選び用いられる者こそがそれにふさわしい者になると悟ったのではないかと思わされるのです。 「神による召命」とは、絶望としか思えない厳しい現実の中で、嘆きもためらいも吹き飛ばすほどの主なる神の強い宣告によって、神の器にふさわしく新たに変えられていくということでしょう。 その「務め」とは、「行って、わたしが命じることをすべて語れ。」というものでした。 そのために、「主は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」と言われたのです。 「預言者」とは、神の言葉を直接預かる者ということです。 人間の限界の中で語られる言葉に、聖霊の働きによって神との出会い、主イエスとの出会いによる味わいを知って語るなら、神の言葉の出来事になる。 拙い人間の言葉が神のご愛に触れ味わった時に、導かれ語られるなら神の言葉になると信じます。 主なる神は、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と約束されます。 「恐れるな。 わたしが共にいる」という「インマヌエル」の約束こそ、旧約聖書、新約聖書すべてを貫く神の約束です。 もうひとつの約束は、「諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。」というものでした。 その理由は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊するために」と言います。 「北からの災いが襲いかかる」という神の働きのことです。 これは人々を罰し、裁くためではありません。 「建て、植えるために」と言い、悔い改めて、目覚めて、気づいて、新しい歩みをするためです。 神はすべての人々を、本来そのために授けられたはずの命を取り戻すために、イエスを十字架に架け、エルサレムとユダ王国を破壊せざるを得なかったのです。 エレミヤは、服従するしかない所に立たされたのです。 神への抵抗を砕かれたからです。 神が強いて服従させ、エレミヤに語りかけ、整えさせ、戸惑いやためらいを克服させられたからです。 神に服従する者にこそ、神の言葉が預けられ、神の働きを目の当たりにすることができるのです。 あらかじめ神に定められた存在とされているところに、人間の尊厳があるのです。

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「神の備えと人間の備え」 出エジプト記14章5~18節

2024-01-14

 主がモーセという人物を選び、用いて、「イスラエルの人々はエジプトから意気揚々と出て行った。 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。」と言いますから、この出来事は神の働きであったと記されているのです。 今朝の箇所もまた、「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので」とあります。 エジプト王ファラオは心変わりをして、労役から解放してエジプトから去らせてしまったイスラエルの人たちを取り戻すため、自らの軍勢、戦車をすべて動員し後を追い、海辺に宿営していたイスラエルの人たちに追いついたと言う。 海を前にし、背後に襲いかかろうとするエジプト軍に挟まれたイスラエルの人たちの姿です。 「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。 荒れ野で死なせるためですか。」とモーセに呟くのです。 モーセはこの抗議に動じず、「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見るから、主があなたたちのために戦われているから、恐れてはならない。 落ち着きなさい。 これから起こることをよく見なさい。 静かにしなさい。」と答えるのです。 主はモーセに、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と示し、「あなたがただけでなく、襲いかかるエジプト人が、わたしが主であることを知るようになる」と語るのです。 神の周到な備えと、全く無防備でその場限りの呟きと嘆きに終始する人間の姿が浮き彫りになります。 人間の備えや願いが一切合切吹き飛んだところでこそ、神が用意されている「恵み」に気づかされる。 神のご愛と憐みに満たされ、神の子としてもう一つの世界に生きる者として変えられていくのです。 イエスはマルコによる福音書(13:24-31)で、終末のしるしから「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わす。 戦争や騒ぎやうわさが流れる。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。 しかし、そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 あなたがたは惑わされてはいけない。 自分のことに気をつけなさい。  逃げなさい。 福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」と語られています。 イエスは、立派で美しいエルサレムの神殿を見て感動している弟子たちに、その神殿が崩壊することを預言し、涙を流されるのです。 「滅びる」とは、過ぎ去ることです。 喜びもつらいことも、幸いも悲しみも過ぎ去っていく。 「わたしの言葉、神の言葉」は過ぎ去らないと言われる。 私たちは神によって創られ生かされている存在であるから「尊厳」があるのです。 イエスによって表わされた神のご愛に満たされなければならないのです。 マザーテレサは、道端に倒れている人の姿に隠されたイエスの姿、込められた神のご愛を見たと語ります。 イスラエルの人たちは40年もの間、どのような思いで約束の地を目指して荒れ野を漂い歩いたのでしょうか。 エジプトを出た最初の一陣の大半は、亡くなったのではないか。 人々を導いてきたモーセでさえも、約束の地に入ることは叶わなかった。 約束の地に入ることが神の祝福、救いであるとするなら、この出来事は空しいことであったのだろうか。 救いの約束とは、今、神に用いられて生かされていること、現実の厳しさの中においても「神と共にいる、神が共に戦ってくださっている」ことを事実として味わい知ることではないでしょうか。 選ばれて用いられる、隠されたみ心に身を委ねる、示されたしるしに希望と確信を得、それに応えてみるところに、神の働きが必ず起こされるのです。

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