秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「満たされた油の壺」 列王記下4章1~7節

2025-06-22

 聖書箇所の預言者エリシャが行った奇跡は、マタイ福音書25章に記されている主イエスの語られた「10人のおとめのたとえ」の中に示された「油」と「壺」を思い起こします。 エリシャの行った奇跡の数々は、主イエスがなされた奇跡によって更に鮮明に、神のみ心を鋭く私たちに語りかけてくるのです。 預言者エリシャは、主なる神のみ言葉でなすべきことを知り、み言葉どおりに働いたがゆえにこの世で奇跡と思われるような神のみ業が示されたのです。 その奇跡が、何百年後にこの世に遣わされてきた主イエスによって、更に神のみ心が深められていった。 神の霊なるみ言葉と賜物を働かせるならば、今まで気づきもしなかった神のみ業を共に味わうことができると語りかけてくるように感じるのです。 主イエスの光によって、神のみ言葉とみ業を私たちははっきりと受け取ることができるようになるのです。 「預言者仲間の妻の一人」が、エリシャに助けを求めて叫んでいます。 「わたしの夫は、死んでしまいました。 あなたの僕でした。 主なる神を畏れ敬う人でした。」と言います。 その夫は、借金を残して死んだのでしょう。 預言者として仕えた夫の死による家族の窮乏の切実な訴えです。 しかし、妻は社会に向けて訴えるのではなく、預言者エリシャのもとにきて、神の憐れみと恵みに期待して神のみ言葉に聴こうとするのです。 彼女に対しエリシャは、「何をしてあげられるだろうか。 あなたの家に何があるのか言いなさい。」と尋ねるのです。 「油の壺一つのほか、家には何もありません。」という彼女の答えは諦めが漂っています。 エリシャは、今すでに神が彼女に与えておられる恵みの賜物に目を向けさせるのです。 そして、「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。 空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。」と、 彼女と交わりのある者、その手元にあるものにも目を向けさせるのです。 そして、「家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。 いっぱいになったものは脇に置くのです。」という不思議な命令を彼女に告げるのでした。 マタイによる福音書25章に出てくる主イエスの「10人のおとめのたとえ」では、「油」とは主なる神から注がれる賜物、神によって注がれるみ言葉と恵みでした。 「壺」とは、それらを受け入れ、蓄えるための器、私たちの祈りであり、信仰であり、礼拝する姿でした。 このたとえは、主イエスの十字架の直前に語られた「たとえ」です。 「その日、その時」は突然訪れる。 「目を覚ましていなさい。 油を受け取る用意をして待ちなさい、 油を入れる壺の中を空っぽにして、注がれるものを受け取る準備をして待ちなさい。」と言われているのです。 この世の煩いや、自分の築き上げたもの、自分が誇りとするものがあれば、主なる神からその時に必要な新しい賜物が入ってこないでしょう。 自分に都合のよいものにしか耳に入らないでしょう。 「戸の閉められた家」だけに「油」は注がれたのです。 一つずつの「壺」に今与えられている油を注ぎ始め、いっぱいになればすぐ脇に置いて目もくれず注ぎ続けた。 どれもこれも不思議といっぱいになった。 驚いた彼女は「もっと器を、持っておいで」と子どもに言ったけれども、「器はもうない」と子どもが答えたとたん、「油は止まった」と言うのです。 他の家の話ではない、彼女の家の中に今、その時に必要な油が注がれる恵みが訪れたのです。 信仰と祈りの応答のあるところに、集中的に行われた場所と働きのもとに救いと恵みが起こされたのです。 主なる神が注がれる「油」は無尽蔵です。 どれだけ自らの「壺」を空っぽにして受け取る備えができているのかどうかです。 小さな存在を用いて、大きな憐れみと恵みの業を果たしてくださる主なる神に期待することです。 神さまからの恵みは互いに分かち合うもので、そのための「油」、「壺」です。

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「生ける神の神殿、わたしの軛」 コリントの信徒への手紙二6章11~16節

2025-06-15

 パウロはキリストの福音を宣べ伝える務めを書き綴り、その締めくくりとして「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と語るのです。 パウロほど、福音を宣べ伝える恵みを味わった人はいないし、福音を宣べ伝えるがゆえに苦痛極まりない惨めさを味わった人はいないのではないでしょうか。 その体験を、「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」といった言葉で表現しています。 パウロも、自身の愛と労苦によって生まれたコリントの教会の人々から言われなき非難、中傷を浴び、傷つきもしていたのです。 筆舌に尽くしがたい出来事を経て、その関係の修復にあたり「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と呼びかけるのです。 パウロは、自分自身の生き様を通して注がれた神さまの恵みを最終ゴールとしていません。 その結果が重要ではなく、その過程において味わった主イエスとの出会いと交わり、主イエスご自身が心の内に宿り引き起こされた変化こそ、神さまの恵み、祝福だと言うのです。 私たちに起こる出来事が、その受け取り方によって「幸い」にもなるし、「災い」にもなるということです。 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも、真理の言葉と神の力によって、義の武器を左右の手にもって、自身の大いなる忍耐をもって主イエスによって与えられた務めを果たしてきたと、ありのままの姿でその弱さも含めてさらけ出して主イエスの恵みを証しするのです。 パウロ自身も攻撃を受け、傷つけられ、自己の弁明もしたくなるでしょう。 しかし、パウロは「コリントの人たち」となおも諦めずに呼びかけ、「あなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」と言うのです。 かつての自分と同じコリントの教会の人々の姿を受け入れ、自分に注がれた同じものが芽生え、呼び起こされるようにと祈るのです。 自分自身と同じように、コリントの教会の人たちの贖いのためにも主イエスは死んでくださったはずであると、願いを込めて「子供たちに語るように、率直に語り、心を開く」のでした。 二つ目の勧告としてパウロは、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と言います。 「軛」とは、牛やろばなどの首につける横木のことです。 性質の異なる動物を一緒に組み合わせて「軛」に付けると、うまく耕すことができません。 当時の「コリント人」とは、「みだらな人」というレッテルまで張られていた道徳的にも、宗教的にも退廃していた町にパウロは足を踏み入れ、キリストの福音を宣べ伝え、ヨーロッパの有力な教会の礎を築いたのです。 この勧告は、この世との関係を一切断ち切って、この世との分離を促しているのではありません。 キリスト者とは、イエス・キリストを救い主と受け入れ、信じて生かされていく者でしょう。 イエス・キリストを知らず、受け入れず、神のもとから離れてしまっているこの世において、その証し人となる務めを与えられた者です。 むしろ、誤りだらけの、闇の真っ只中と言わざるを得ないこの世においてこそ、しっかりと証し人として生きるべきです。 神によって用いられる存在として生かされるべきです。 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)と言われているのです。 「正義と不法、光と闇、信仰と不信仰とは、何のつながりがありますか。」と迫ります。 最後に「神の神殿と偶像」を対比して、信仰と不信仰に直結する「礼拝」の姿を迫っているのです。 キリスト者こそ、主なる神が住まう神殿である。 神と出会って、神と共に歩む、この世と一線を画した生活、それが私たちのささげる「礼拝の姿」なのではないでしょうか。

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「高い天から注がれる神の霊」 イザヤ書32章15~20節

2025-06-08

 イザヤ書の28章から35章までに「災いだ」という言葉で語られている「六つの災いの宣告」が語られています。 六つもの災いがあるがゆえに、「ついに」、今までの裁きを終えた後に起こされる主なる神の「救い」と「変革」をイザヤは語り始めるのです。 第32章の冒頭の1節から8節に少し目を留めます。 「一人の王が正義によって統治する。」 「高官たちは公平をもって支配する。」と言います。 ここで言う「一人の王」とは、正義の裁きと憐れみと恵みを兼ね備えたメシア、イエス・キリストでしょう。 旧約聖書によって延々と書き記し、伝え続けられてきたみ言葉が、イエス・キリストによって成し遂げられ、「神のものとなった民、イエス・キリストのからだとなった民」、新しい神の民が生まれると信仰告白をするのです。 ひとりのメシアが統治する。 そのメシアの贖いを受けた者たちが統治するようになる。 「ついに、今や、そのとき」が訪れたと賛美し、礼拝をささげているのです。 「風を遮り、雨を避ける所のように」、「水のない地を流れる水路のように」、「乾ききった地の大きな岩陰のように」なるという外的な変化に留まらず、内面的、霊的な変化が人間の心の中に訪れる。 「見る者の目は曇らされず 聞く者の耳は良く聞き分ける。 軽率な心も知ることを学び どもる舌も速やかに語る。」ようになる。 愚かな者が愚かなことを語っていても、神を無視して、主について迷わすことを語っていても、ならず者が謀り事をめぐらし災いをもたらしても、見極めることができなかった。 それらを見事に見極めることができるようになる。 この世における評価がまったく覆される。 そのメシアによる変革と逆転は、救いの実現に向かっているときではなく、むしろ破滅へと裁きの実現へと向かっている厳しい現実の中にこそ訪れると語るのです。 15節に「ついに、我々の上に霊が注がれる。」と言います。 「恵みを与えようと待っていた主なる神が、ついに憐れみを与えようと立ち上がられる。」 神の霊によって、神ご自身の意図をもってご自身のみ心を果たすために事を起こされる。 そのことを、「高い天から注がれる」と言うのです。 その変革は、私たちがうごめく世界の中からではなく、この世の私たちの思惑や計画によって起こされるものではない。 神の側から私たちのところへ下ってくる神の霊による力、意志によって果たされることである。 今、イスラエルの民が味わっている荒廃と滅亡の惨憺たる現実、自己解決の道が全く閉ざされてしまっている状態。 そこに救いと恵みの時が訪れる。 これは、私たち神の民の群れの中から、神の民の決意と決断によってもたらされるものではなく、神ご自身がご自身の民を用いて、天からの裁きとして、また、憐れみと恵みとしてご自身の民に与えてくださるものであると言うのです。 「高い天から神の霊が注がれるなら、すべてが変わる。」と言います。 「荒れ野は園となり 園は森となる。」という外的な変化、「荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。」霊的な変化が起こされる。 聖書の言う「義」とは、神との関係、交わりの事です。 「正義」とは、神との正しい関係、交わりということです。 神とのあるべき関係、神に対する信頼を取り戻すということです。 この世のものさしに縛られ、見失っていた神のものさしを取り戻すことです。 神の言う「災いだ」と言われる姿を直視しなければ、真の神の憐れみと恵みを味わい知ることが 残念ながらできないのです。 その「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」と、主イエスが遣わされる何百年も前に主なる神が約束されているのです。 「安らかな信頼」とは、厳しい体験を通して味わった神への信頼と確信です。 そこで、主イエスは「平和の住みか」、「安らかな宿」、「憂いなき休息の場所」を読み取って、エルサレムの十字架の場所に自ら進んで行かれたのです。

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「主がいない間に預けられたもの」 ルカによる福音書19章11~27節

2025-06-01

 「ある立派な家柄の人のたとえ」と「ムナのたとえ」のふたつの「たとえ」が語られています。 「たとえ」が語られた理由をルカは、イエスたちのガリラヤからの長い旅がついに終わりの段階となり、「エルサレムに近づいておられるからである。」 そして、「人々が神の国はすぐに現れるものと思っていたからである。」と言うのです。 延々とイエスたちの長旅が綴られ、最後のエルサレムでのイエスの十字架の出来事を迎えようとしている緊迫した中に語られた「たとえ」であるとルカは言うのです。 マルコは、「時は満ち、神の国は近づいた。」と神の国の接近を告げます。 しかしルカは、「神の国は見える形では来ない。」と言い、使徒言行録において「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と言います。 神の国の時期の近さではなく、神の国そのものを語り、むしろその神の国の現れる時までの間の備えを訴えるのです。 「ある立派な家柄の人」のたとえには、ユダヤの人々の心に刻まれた一つの出来事が背景にあります。 ヨセフとマリアと幼子イエスは、ユダヤのヘロデ王の殺意を避けてエジプトに非難していた。 そのヘロデ王の死後、ユダヤに戻ろうとしたが、ヘロデ王の息子アルケラオがユダヤを支配していることを知って、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレの町に行って住んだとマタイによる福音書に記されています。 このヘロデ王の息子アルケラオは、ローマ皇帝より父ヘロデ王から引き継いでユダヤを治める王位を認めてもらうためにローマに旅立った。 これに反旗を翻し立ち上がったユダヤ人代表者50名がローマを訪れ、アルケラオの王位の継承と任命を妨げようとローマに陳情に行った。 ところが、ローマより王位の継承を勝ち取ったアルケラオはユダヤに帰り、自分に敵意を抱いたその50人を殺害したと言うのです。 このユダヤの人々の心の傷として刻まれた出来事を用いてこの「たとえ」に、その激しい表現を用いたのではないでしょうか。 主イエスもまた、遠いところに旅立っていく。 十字架の死をエルサレムにおいて成し遂げ、その三日後によみがえり天の父なる神のもとへ戻られる。 私たち人間が唯一神のもとへ辿り着く道を切り開いて、そこで一度失われた神の王位を再び受ける、取り戻す。 そのために主イエスは愛する弟子たちのもとを一旦離れるが、再び帰って来られる時がある。 その日まで、愛する弟子たちにはその間の時が与えられている。 神の賜物を求める者には聖霊が与えられると約束されたのです。 「ムナのたとえ」では、「あなたの一ムナで十ムナをもうけました。 五ムナを稼ぎました。」と、預けられた一ムナが新しいムナを生み出したと僕たちは喜んでいるのです。 ルカの言う賜物はすべて「一ムナ」ずつです。 「一ムナ」とは100デナリオン、1デナリオンは一日の賃金であったと言いますから、小さな単位を等しく僕たちに預けられたとルカは言います。 イエスが「神の国はからし種に似ている。 パン種に似ている。」 神のみ言葉、聖霊の働きは、この世では目にもとまらない小さな存在であるかもしれないが、「やがて成長する、膨れてくる」と言うのです。 人によって違いのあるこの世のものではない、本来持ち得ないものでしょう。 託されていること自体が喜びです。 用いることの恵みも与えられているはずです。 そこに神の恵みだけが支配する町が起こされると言うのです。 自分のためだけに自分を固く守っている人は、この世の死と共にその生涯が終わります。 しかし、主イエスが切り開いてくださった神のもとへ辿り着く道を歩む者は肉体の死をもって終わらない。 託されている賜物を、わずかな生涯のうちに用いる時、無上の喜びに囲まれるのです。 生きることは呼吸することではありません。 神に委ねてみて、神に用いられて与えられた生涯を味わうことです。

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「憐れみと裁きの神」 イザヤ書30章18~26節

2025-05-25

 主なる神が預言者イザヤに託されたイスラエルの民に対する言葉は、辛辣なものでした。 イザヤはこれにたじろぐことなく託された務めに歩み始めると、主なる神はその荒廃した中から、「それでも切株が残る。 聖なる種子が残る。 ひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊が留まる。」と、「神が我らと共におられる」というインマヌエルの預言、十字架の福音の恵みの種を蒔かれたのでした。 そして、「わたしが計ることは必ずなり、わたしが定めることは必ず実現する。」(14:24)と約束されたのでした。 イザヤによって語られたみ言葉に耳を貸そうとせず、自分たちにとって耳に心地よいことだけを聞こうとするイスラエルの民の姿に語る主なる神の辛辣な預言の真の目的は、ご自身の民が立ち帰ること、そのためにイザヤが遣わされること、人々の不信仰、頑なな心は、神の憐れみだけによってしか変えられないこと、この救われていく事実を示すために、壮絶な出来事を起こされたのです。 主イエスご自身もこのイザヤの語った言葉、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ7:8)と「ファリサイ派の人々と律法学者たち」に向けて引用し、主なる神のみ心を私たちに伝えておられるのです。 私たちは、聖書のみ言葉を自分自身に語られた言葉として聞かなければなりません。 決して、「ファリサイ派の人々と律法学者たち」を非難する立場に立ってはならないのです。 主イエスと主なる神のみ言葉は、私たちを神ご自身のみ前に立たせてくださるためです。 このつらい経験を、「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」とイザヤは語ります。 「立ち帰って、静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。」と言われているのに、それを望まず自らの判断でその現実を解決しようと動いてしまっている。 結果はその逆になっているではないかとイザヤは語るのです。 主なる神は、「ご自身のもとに立ち帰ること、ご自身の計らいを信じて静かに待ち、願うこと」を求めています。 そして、「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待っている。 主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。」 それが、「正義の神」であると語られるのです。 「正義の神」とは、裁きの神、公平な神に留まらず、「恵みと憐れみを与えようと待って、立ち上がる神である」と言うのです。 そのための「災いのパンと苦しみの水」であった。 その道を歩んでいる私たちを導き 待っておられるお方は 隠れることなく、目に見るお方となる。 その語られる言葉を耳に聞くことになる。 言い換えれば、既に目の前におられて、共に働いてくださっているお姿を私たちはやっと目の当たりに見るようになる。 今まで決して聞こうともしなかった「これが行くべき道だ。 ここを歩け、右に行け、左に行け」と背後から語られるみ言葉に気づくようになると言うのです。 イザヤは、語るべき相手方である南ユダの人々の姿に、自らの姿を見て取って、つらい体験として味わった「災いのパンと苦しみの水」を通して、主なる神の生きたみ言葉が自らの生きる力によって、叫び求めるご自身の民を支え、助け、救い出し、教え、気づかせ、導かれる。 そのみ言葉の命の力、その確かさが立ち帰ってくる神の民に対し恵みを与える。 それは、今考えつくようなものではなく、とてつもない考えようもないほどの神の恵みであることが、いずれ成し遂げられる。 そのための一連の神の働きであることを、今は実現していないけれども、はっきりと知らされていたのでしょう。 「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。 主はこの地を圧倒される。 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕きあがめられる。」(詩編46:9-11)と歌う確信にイザヤは至っていたのでしょう。

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「祈りによる交わりの回復」 フィリピの信徒への手紙1章3~11節

2025-05-18

 フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中から直に書いた書簡だと言います。 自由が奪われ命の危険がある、そのような状況の中で、パウロからフィリピの人たちへ送られた手紙です。 フィリピでのパウロの滞在は、わずか数日間であったと言います。 教会という立派な建物があったわけでもなく、川岸にある「祈り場」にパウロたちが赴き福音を語ったのでしょう。 紫布を商う神を崇めるリディアという婦人が心を開き、パウロの語る話を注意深く聞いた。 そこから、彼女もその家族もバプテスマを受けたと言います。 とある出来事から牢獄の中に捕えられたパウロたちが、そこでも賛美の歌を歌い神に祈る姿が、フィリピの人たちに大きな影響を与えたのでした。 そこからヨーロッパで最初の教会が誕生し、今に至るまでパウロとフィリピの人たちとの「交わり」が脈々と続いているのです。 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝している。」 「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」とパウロは言います。 今朝の聖書箇所の「パウロの祈り」は、牢獄の中で祈る「たったひとりの祈り」です。 フィリピの人たちが、「最初の日から今日まで、福音にあずかっていること」への「感謝の祈り」です。 「フィリピの人たちの中で善い業を始められた方」が、今もってそこにおられる。 今日に至るまで、変わらず守り導いてくださっている。 その神の働き、神の恵みに対する「感謝の祈り」です。 ほんのわずかな「交わり」に端を発し、今日に至るまで、その信仰を保ち、支え導いてくださっていることへの「神への賛美」です。 その「善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」という確信を表明している「祈り」です。 キリストが再びおいでになるその日まで、フィリピの地において神の業が続けられる。 その日を目指して、フィリピの人たちとの「交わり」は続けられる。 パウロたちも、フィリピの人たちも、「キリスト・イエス」に結ばれている。 監禁されているときも、自由を奪われているときも、社会から断絶されているときも、命の危険さえあるときもです。 「福音を弁明し、立証するときも」と付け加えられているのもまた、広く他の人たちに伝えるときもと積極的な意味です。 み心のままに「終わりの日」には、必ず成し遂げられるとパウロは断言しているのです。 「共に恵みにあずかる」という意味は、自分一人ではなく共に恵みに触れて、共に交わるということです。 「キリストの福音に与る」とは、キリストにそれぞれがふさわしく結ばれ、それぞれ異なる恵みを味わい、それを持ち寄って交わるということなのです。 ご一緒にそれぞれにふさわしい福音の恵みを味わい、それらが一つとなって大きな神の働きへと結び合わされていく。 それが成し遂げられるまで、終わることなく続けられるということです。 パウロはこのことを願い求める「とりなしの祈り」を、たった一人で牢獄の中から喜びと感謝とともにささげているのです。 祈ることは、たったひとりでもできます。 神のみ前に自ら進み出てそこで初めて、神と交わることができる。 むしろ、ありのままの姿が、神によって引き出されていくのです。 私たちはどうしても、自分に依り頼もうするのです。 自分が無力であることを、どうしても認めたくないのです。 パウロはありとあらゆる苦難を体験したと、自己表現しています。 それは、パウロに対する神のご愛に裏打ちされた厳しい神の裁きであったのかもしれない。 しかし、それはパウロが「祈り人」へと変えられる神の「招き」ではなかったでしょうか。 自分たちもフィリピの人たちも、神ご自身の恵みによって守られ、支えられてきた。 これからも神の計らいに導かれていく「確信と事実」を、今まで味わってきた「キリスト・イエスの愛の心で」賛美とともに、「とりなしの祈り」をささげているのです。

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「すべてを支配される共にいる主」 創世記41章1~16節

2025-05-11

 「夢」は神のみ心を私たちに告げる重要なものであったのでしょう。 この「夢を解き明かす者」としてヨセフが描かれています。 最初にヨセフが見た「夢」は、「兄たちも、両親も皆ヨセフにひれ伏す」というとんでもない夢でした。 ただでさえヨセフは、父ヤコブから寵愛され腹立たしく思っている兄たちにとって、そのような「夢の解き明かし」を言えばどう思われるのか一目瞭然です。 父ヤコブはヨセフをたしなめ、兄たちはヨセフを殺そうと思うまでになったと言います。 ヨセフは一命をとりとめたものの、兄たちの謀り事によってエジプトに奴隷として売られてしまった。 連れて行かれたエジプトで宮廷の侍従長に仕え、その家の財産すべてを管理するまでになった。 ところが、その侍従長の妻の企みにより今度は、ヨセフが監獄に入れられることになった。 そこでも、ヨセフは監獄の看守長の目に叶い、囚人をすべて任されるまでになったと言います。 そこで、囚われていたエジプト王の給仕役の長と料理役の長の夢を説き明かしたのです。 ヨセフが語った通り給仕役の長は、宮廷に復帰することになった。 「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られたからである」と記されています。 「解き明かしは、神がなさることではありませんか」と屈託なく語るヨセフです。 神が指し示すことを語り、神が必ずその通りに果たすとためらうことなく語るヨセフです。 このヨセフの姿に、主に信頼して生きる人間の原型を感じます。 それから二年後、エジプト王ファラオが七頭のよく肥えた雌牛とやせ細った七頭の雌牛の夢を見た。 再び、良く実った七つの穂と干からびた七つの穂の夢を見たと言う。 その夢は、エジプトの牧畜と農業の豊かさに対する不安を引き起こすものでした。 「ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めた」と言います。 ファラオにとって耳障りな悪い予感を進言する者はいなかったのでしょう。 そこで宮廷の給仕役の長は、監獄で夢を説き明かしたヨセフを思い出したのです。 神が用いられるすべてのものがじっと待たされ、隠され、一気に神の働きが噴き出るその時を満を持して待っている、これが「神の時、神の働き」ということでしょう。 一歩間違えれば、首をはねられるかもしれない危険な立場に立たされたヨセフは堂々と、「七年の豊作と七年の飢饉」という夢そのものの内容ではなく、神がなされることに照準を置いてファラオを前にして語り始めるのです。 これから起こるであろう激しい飢饉に備え、エジプトの人々を飢饉から救おうとする神のみ心をヨセフは受け取った。 そのために何をなすべきかをファラオに伝え、神のみ心に懸命に応えていこうとした。 自分には分からない神の大きな、深いみ心によるものであると受け止め、今与えられている現実を自分のものさしで計らず、そのみ心に精いっぱい従おうとした姿に映るのです。 ヨセフが兄たちの嫉妬によってエジプトに奴隷として売られてしまったことも、人の謀り事によって牢の中に閉じ込められたことも、人の記憶の中から忘れ去られたことも、すべて神のみ心のうちにある。 ヨセフには隠されていたが、神だけは忘れることなく共におられ計らってくださっていた。 神と共に歩む所には、私たちの想定外のことが必ず起こります。 それが引き起こす現実が良いか悪いかではない、幸いか災いかでもない。 神の意志が強く働いているその現実に圧倒されることなく、すべてを支配しておられる神を仰いで、祈りつつ、共にいてくださる神とご一緒にその現実に立ち上がることです。 その時に味わう「苦難、思い煩い、痛み、悲しみ」は決して悪いことではない。 それらを通して、神のみ心をしっかりと受け止めることができるように整えられるのです。 詩編は、「万軍の主はわたしたちと共にいます。 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。 主はこの地を圧倒される。」(46:8-9)と賛美しています。 

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「神の国を受け入れる人」 ルカによる福音書18章15~23節

2025-05-04

 主イエスの最後の死出の旅とも言うべきエルサレムへの旅の終盤、ご自身の死と復活の三度目の予告の直前の二つの出会いがルカによる福音書に記されています。 当時のユダヤ社会では、様々な「しるし」を引き起こす人物には霊的な力がある、その人物に触れると霊的な祝福が注がれると人々に信じられていたのでしょう。 ありとあらゆる病いや患いをことごとく癒していたイエスの評判を聞いて、多くの人々がイエスのもとに集まったのです。 「イエスに触れていただくために、乳飲み子までも連れて来た。」と言います。 しかし、弟子たちはイエスの祝福を求めよる人々の姿を見て叱ったと言います。 エルサレムへの途中でイエスの手を煩わせてはならないと、思わずそのような言葉を発したのでしょう。 別の福音書によりますと、「イエスはこの弟子たちの姿を見て憤り、子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。 「神の国」とは具体的な場所を言うのではなく、神の恵みが覆いつくす状態を言うのでしょう。 イエスは「神の国は乳飲み子たちのものである」とは言われていない。 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」と言うのです。 「乳飲み子たち」とは、ひとりでイエスのもとに来ることのできない、ただ世話を受けるだけの存在です。 ましてや、この世の戒めはおろか、律法の戒めを知らず、弁えず、守ることのできない存在です。 そうした存在を「来させなさい。 妨げてはならない。」と弟子たちに言われたのです。 弟子たちに対するイエスの「憤り」は、神の国にふさわしい存在であるのかどうかの判断を、自ら下していることに対する「憤り」でしょう。 神の国に入る資格について、私たち人間の介入を断じて赦さない、神の側に属する事柄であるというイエスの「宣言」でしょう。 自分が勝ち取った、築き上げた立派な姿で取り繕うこともせず、ありのままの姿を差し出して、イエスの説く神の恵みを受け入れなさいということでしょう。 これが神の国に入る「条件」だと言われているように響きます。 預言者イザヤは、「造られた者が造った者に言いうるのか。 陶器が陶器士に言いうるのか。」と迫ります。 使徒パウロもまた、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子です。 神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、父よと呼ぶのです。」と語り、神の賜物である霊を神の恵みとして受け取る必要を迫ります。 そこに、「大変な金持ちだった」と言う「ある議員」が登場します。 彼はイエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねるのです。 「永遠の命を受け継ぐ」とは、「神の国に入ること」と同義語でしょう。 この議員の「善い先生」という呼びかけに、自身の評価が込められています。 質問をしている自身もまた「善い人間」として、これまで生きてきた自負を感じます。 イエスの言われた様々な戒めは、「子供の時から守ってきました」と胸を張り、そのうえで「何をすれば神の国に入れるでしょうか」と尋ねるのです。 何かをすることによって、自分が目指している姿に到達することによって神の国に入ろうとするのです。 その議員にイエスは、「あなたに欠けているものがまだひとつある」と言います。 神の国に入る資格は、私たち人間の側にあるのではない。 神の側の憐れみと恵みにあるということ、神の国に入る困難さを示すとともに、「人間にはできないことも、神にはできる。」と、イエスご自身に従うという一点に絞り語られたのではないでしょうか。 イエスは、私たちの努力やつくり上げるものを期待しておられるのではありません。 父なる神が期待して収穫すべきものを用意してくださって受け取ることを待っておられる。 神にしかできない救いの出来事が備えられていること、それを恵みとして受け取るようにと語っておられるのです。

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「聖霊を受けなさいと言う復活の主」 ヨハネによる福音書20章19~23節

2025-04-27

 場面は、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」ところです。 自分たちが「メシア、救い主」として慕って、人生をささげて従ってきたイエスが、処刑されるという予想外の事態に直面した、その三日後のことです。 イエスはユダヤの国から「神を冒瀆する死罪判決」を、ローマ帝国から「反逆罪」で死刑を執行されたのです。 そのイエスの弟子たちに、身の危険が及ぶと判断してもおかしくはないでしょう。 自らが描いて来た希望が崩れ、生きる目的を失ってしまった状態でしょう。 一方で、命をかけ従ってきたイエスに対する背信の後悔もあったでしょう。 そこで、「イエスの遺体が墓から取り去られた。 どこに置かれているのか分からない」という驚くべき知らせを、マグダラのマリアより受けたのです。 弟子たちは急いで墓に行き、イエスの遺体がなくなっことを確認するも、「イエスは死者の中から復活されることになっている」という聖書のみ言葉を理解することはなかったのです。 墓の外に立って泣いていたマリアに、復活の主が呼びかけるのです。 そこで初めて、それがイエスであることに気づいたマリアに、復活の主イエスは「わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」 父なる神のもとへ至る唯一の道であると言われたイエスは、「わたしの兄弟たちのところへ行って、伝えなさい」とマリアに言うのでした。 しかし、イエスから「わたしの兄弟たち」と言われた弟子たちの心は閉じられたまま、復活の主の存在を信じないままです。 イエスは、愛する弟子たちの混乱状態をご覧になって、想像を超えて強引に入って来られるお方です。 途方に暮れて佇んでいる彼らの「真ん中に立って」、十字架の肉体の傷と死、「手とわき腹をお見せになって」古いものから新しいものへ向かうようにと、赦しの宣言を伴って「今、ここに」共にいてくださることを示すために入り込んで来てくださったのです。 「弟子たちは、主を見て喜んだ」と言います。 自分自身を閉じ込めている一切の束縛から解放されて、新しい命に生きるように、備えられた「父なる神のもとへ至る道」を見つけ出すようにと、呼びかけてくださっているのです。 十字架の傷跡が刻まれた主イエスが、変わらずいつも通り呼びかけ、自分たちの深い心の傷を癒してくださった「悲しみから喜びに変えられる体験」が、新たに主イエスの赦しと解放、平和と安息を再び呼び起こし、弟子たちの深い傷と痛みを癒したのではないでしょうか。 ヨハネによる福音書は、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)と言います。 復活の主としてイエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われ、息を弟子たちに吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と言われたのです。 小さな群れに聖霊が吹きかけられるペンテコステの出来事の先取りです。 更にイエスは、「わたしが父のうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしもあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かる。」(14:2) 「わたしと父とはひとつである。」(10:30)と言われ、十字架の主、復活の主に出会うというこの体験の事実が、神との交わりの回復、イエスご自身を通しての人と人との新しい交わりを創造することをつけ加えておられるのです。 この聖霊の働きによって、父なる神のもとにあったキリスト、生前のキリスト、十字架のキリスト、復活のキリスト、そして私たちのうちに宿るキリストが、違いを越えて「全体としてひとつなるキリスト」が、「今、ここに」現れ出て、それがひとつの体となっていく。 それぞれに宿る内なるキリストが折り重なって、一つの体と紡ぎ合わせられていくことになる。 「違いがありつつ、ひとつ」のイエスの体が、小さな群れに築き上げられていくのです。

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「成し遂げられたものは」 ヨハネによる福音書19章28~30節

2025-04-13

 ヨハネによる福音書は、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)と語ります。 イエスが十字架上で「頭を垂れて息を引き取られる」直前に語られた二つの言葉、「渇く」という言葉と「成し遂げられた」という言葉から、父なる神が主イエスを通して表された「恵みと真理」を味わいたいと願います。 この時のイエスの十字架上の姿はイザヤ書53章が語っているとおり、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、無視されていた。 苦役を課せられても、かがみ込み、口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった。」と言います。 このイエスが語られた二つの言葉には、惨めな敗北者のような姿には似つかない力強い確信めいた響きがあります。 この「渇く」という言葉は、絶望のどん底と思われるような「魂の渇き」を指し示します。 すぐ後で語られた「成し遂げられた」という言葉と相俟って、人間としての魂の渇きが、人間の肉体を背負われたイエスご自身の身に起こされた。 「神の言」そのものであられるイエスご自身に「今、ここに」実現したと、人間の死の直前に確信して発せられた魂の言葉として響きます。 ユダヤの「人々は、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプという植物に付け、イエスの口もとに差し出した」と言います。 マルコによる福音書では「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」と言い、ルカによる福音書では「兵士たちがイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突き付けながら侮辱した」とあります。 このヨハネによる福音書は、イエスは鎮痛剤としての没薬を混ぜ合わせたぶどう酒は拒まれたが、屈辱を加える嫌がらせの酸いぶどう酒はむしろ受け入れられたと語っているのでしょう。 イエスは、父なる神の民を取り戻す為に、その屈辱にまみれた杯を父なる神がお与えになった杯として受け入れられ、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたのでした。 この言葉には、人間の生涯の終わりは神のみ心の中の一つの目的の成就であり、終わりではない。 人間の可能性の一切が失われたその「終わり」から初めて始まるものがある。 その十字架上で主イエスが示してくださった「恵みと真理」を味わい知るようにと、息を引き取られる直前に心に留めるようにと導いておられるのです。 パウロが語る「あなたがたも罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」という、その順序を忘れてはならないのです。 終わりがあって初めて始まる、「死」から「命」へという始まりがあるのです。 「神との交わり」の復活です。 「恵みと真理」の大事な実体験です。 この段落の後には、主イエスのお姿によって表された「終わり」を体験した二人の変えられた姿が記されています。 「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて隠していた」アリマタヤの出身のヨセフと、「かつてある夜、人目を忍んでイエスのもとに来たことのある」ニコデモの、公然とイエスを埋葬する姿です。 ユダヤ人たちを恐れない、会堂から追放されることにも動じない、人の誉れを追い求めず、神の誉れを尋ね求める、新しく生まれ変わった「始まり」に生きるよう変えられた姿です。 主イエスが十字架上で宣言された「終わり」に、目と耳を傾けなければならない。 主イエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」(10:18)と言われていたのです。 そのために一切の侮辱も、一切の過ちや弱さもすべて背負われたのです。 主イエスの生涯の「終わり」が、私たちの救いの「始まり」となったのです。

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