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「遣わされたところで委ねる」 ルカによる福音書22章39~46節

2024-03-17

 イエスが最後の晩餐の席を立って、「いつものように」、「いつもの場所に」向かわれたと言います。 イエスと弟子たちは、「日中はエルサレムの神殿で教え、夜は神殿を出て行ってオリーブ山で過ごされた。」と言います。 12弟子の一人であったユダも熟知していた場所です。 そのような場所に身を寄せることは、裏切ったユダがやってくることを待っていたかのようです。 そのような場所で、そのような時に、イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われる。 最後の時を、「いつものように」、「いつもの場所で」祈ることを選んでおられる。 そして、ご自身は「ひざまずいて祈られた」と言います。 「祈ること」は、人間の限界を背負わされたイエスにとって神に向かって進み出ること、神との交わりを保ち続けること、人間の限界を超える神のみ心を尋ね求めることでした。 この世の霊の「誘惑」は、決して避けて通れないものである。 「祈り」によって神との交わりを保ち続けていれば、「誘惑」に負けて不信や不安や絶望に引きずり込まれることはないと言われる。 ご自身も、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。」 イエスがこの地上で直面しなければならなかった生涯最後の最大の試練です。 死を目前にした苦しみのどん底での祈りが、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」という切実な「祈り、願い」でした。 私たち人間と同じ、神のみ心が分からない苦しみだと人は言うかもしれません。 イエスは預言者を通して語られた神の「御言葉」から、また、欠かすことのなかった「祈り」の交わりから父なる神のみ心は知っておられた。 むしろ、ご自身の使命も分かっておられたに違いないと思わされるのです。 父なる神との交わりだけに生きてこられたイエスご自身が、神の怒りと裁きに身を委ねなければならない魂の苦しみは、私たちの想像を絶するものです。 父なる神の審判の「苦い水」を「今、ここで」飲み干さなければならない苦しみです。 父なる神との断絶、永遠の死に定められる恐れと苦悩から出てきた祈りの言葉です。 罪を知らない神の子であるイエスが、私たち人間と同じ罪に定められ神の裁きと怒りに直面しているのです。 このイエスの「切実な祈り」に、父なる神は「杯」を取りのけられることなく突きつけたままです。 イエスの苦しみを取り除かれるのではなく、苦しみを通り抜けるために「力づけた」と言います。  イエスの「祈り」がここで、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」に変わります。 人間と同じ「切実な祈り」から、選ばれ遣わされ務めを与えられて神の子とされた者の「確信の祈り」へ変えられるのです。 イエスは、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:39)とはっきり語っておられます。 イエスは祈り終え弟子たちのところに戻ってみると、彼らは「悲しみの果てに眠り込んでいた」と言います。 イエスは避けることのできない「誘惑」の恐ろしさを十分知っておられ、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と繰り返されました。 「祈り」こそ、「誘惑」を克服する道であることを、「石を投げて届くほどの所で」祈る姿によって示されたのです。 十字架のうえでの「父よ、彼らをお赦しください。」という「とりなしの祈り」と、息を引き取られる直前の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」という「父に委ねる祈り」が最後の祈りでした。 「祈りの姿」を示して語っておられるのです。 イエスの十字架の贖いを通して、イエスの「とりなしの祈り」と「父に委ねる祈り」が、恵みとして私たちに与えられているのです。 死を超えた復活の主の名によって、「御心のままに」と委ねることが赦されているのです。



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