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「神の備えと人間の備え」 出エジプト記14章5~18節

2024-01-14

 主がモーセという人物を選び、用いて、「イスラエルの人々はエジプトから意気揚々と出て行った。 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。」と言いますから、この出来事は神の働きであったと記されているのです。 今朝の箇所もまた、「主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので」とあります。 エジプト王ファラオは心変わりをして、労役から解放してエジプトから去らせてしまったイスラエルの人たちを取り戻すため、自らの軍勢、戦車をすべて動員し後を追い、海辺に宿営していたイスラエルの人たちに追いついたと言う。 海を前にし、背後に襲いかかろうとするエジプト軍に挟まれたイスラエルの人たちの姿です。 「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。 荒れ野で死なせるためですか。」とモーセに呟くのです。 モーセはこの抗議に動じず、「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見るから、主があなたたちのために戦われているから、恐れてはならない。 落ち着きなさい。 これから起こることをよく見なさい。 静かにしなさい。」と答えるのです。 主はモーセに、「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べよ」と示し、「あなたがただけでなく、襲いかかるエジプト人が、わたしが主であることを知るようになる」と語るのです。 神の周到な備えと、全く無防備でその場限りの呟きと嘆きに終始する人間の姿が浮き彫りになります。 人間の備えや願いが一切合切吹き飛んだところでこそ、神が用意されている「恵み」に気づかされる。 神のご愛と憐みに満たされ、神の子としてもう一つの世界に生きる者として変えられていくのです。 イエスはマルコによる福音書(13:24-31)で、終末のしるしから「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わす。 戦争や騒ぎやうわさが流れる。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。 しかし、そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 あなたがたは惑わされてはいけない。 自分のことに気をつけなさい。  逃げなさい。 福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」と語られています。 イエスは、立派で美しいエルサレムの神殿を見て感動している弟子たちに、その神殿が崩壊することを預言し、涙を流されるのです。 「滅びる」とは、過ぎ去ることです。 喜びもつらいことも、幸いも悲しみも過ぎ去っていく。 「わたしの言葉、神の言葉」は過ぎ去らないと言われる。 私たちは神によって創られ生かされている存在であるから「尊厳」があるのです。 イエスによって表わされた神のご愛に満たされなければならないのです。 マザーテレサは、道端に倒れている人の姿に隠されたイエスの姿、込められた神のご愛を見たと語ります。 イスラエルの人たちは40年もの間、どのような思いで約束の地を目指して荒れ野を漂い歩いたのでしょうか。 エジプトを出た最初の一陣の大半は、亡くなったのではないか。 人々を導いてきたモーセでさえも、約束の地に入ることは叶わなかった。 約束の地に入ることが神の祝福、救いであるとするなら、この出来事は空しいことであったのだろうか。 救いの約束とは、今、神に用いられて生かされていること、現実の厳しさの中においても「神と共にいる、神が共に戦ってくださっている」ことを事実として味わい知ることではないでしょうか。 選ばれて用いられる、隠されたみ心に身を委ねる、示されたしるしに希望と確信を得、それに応えてみるところに、神の働きが必ず起こされるのです。



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