秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「主を待ち望む人」 イザヤ書 30章15~18節

2016-12-04

 他国が攻め入ってきた時、「落ち着いて静かにしていなさい」と、預言者イザヤに戒められていたユダの国の人々は、エジプトの国の力に頼ってしまったのです。 主に信頼しないで、主のみ言葉に耳を貸さないで、エジプトの保護を求めてしまう。イザヤを通して語られた主のみ言葉を無視して、イザヤに隠して、使いをエジプトに送ってしまったのです。 エジプトこそ、かつて奴隷の身となり、ユダの人々が囚われて虐げられていた地のはずです。 たとえ貧しくとも、主のみ言葉に信頼して、自由を求め、民族を挙げてそこから脱出してきたはずです。 40年にもわたる荒野のさまよいを経て、やっと主が約束してくださった地に辿りついたのに、またそこへ戻って行こうとする。 主に信頼しないで、自らの知恵に頼り、逆の方向に向って財宝を乗せてまで、エジプトの王に助けを求めようとして使いをエジプトに送ってしまうのです。 そのようなユダの国の人々に語られた主の言葉が、「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。 しかし、わたしに立ち帰ることも、安らかに信頼することも望まなかった。 エジプトの軍備に頼って逃げようとした。 もっと大きな力に頼ろうとした。 しかし、その行き着く先は哀れな結果となる。」という厳しいみ言葉でした。 浮足立つ、このユダの国の人々の惨めな姿がここに映し出されています。 しかし、驚くべきことに、反逆の罪を厳しく裁かれるそのお方が同時に、罪そのものを裁き洗い流した後には「罪にまみれて虚ろう人々を救うために、恵みを与えようとして待っておられる。 憐れみを与えようと立ち上がっておられる。 なんと幸いなことか、主を待ち望む人は。」と告げるのです。 
 イザヤを通して語りかけるこの主なる神の姿と浮足立つユダの人々の姿に、最後の晩餐の時に示されたイエスの姿と弟子たちの姿が重なります。 私たちはユダの人々と同じです。 目に見えるものだけに目を奪われて、自分の求めに従います。 自分たちが求めている声だけに耳を傾けます。 何度も、この世の霊に誘われるままに、過ちを犯してしまいます。エジプトの力に頼る私たちの姿がそこにあります。 ひとりの例外もなく、私たちは主イエスを悲しませる者です。 ですからイエスは、十字架の死によって、過ちにまみれた私たちの足を一人ずつ洗ってくださるのです。 だれも手をつけないこの汚れた足に触れて、十字架で流してくださった血と涙によって洗い、腰にまいた手ぬぐいをもって拭きとってくださるのです。 一度や二度のことではありません。 罪による永遠の死の恐ろしさを、本当に知り尽くしておられる唯一のお方、その主イエスが、私たちのすべての過ちを一身に引き受けてくださったのです。 過ちにまみれたこの足を洗ってくださるお方がおられるからこそ、私たちは主に従う道を歩んで行くことができるのです。 「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。」と預言されました。 このイザヤの預言する「その日」こそ、救い主イエス・キリストの誕生によって成し遂げられたのです。 私たちは目に見える力、エジプトに頼る者です。 逆戻りして、もといたエジプトに戻ろうとする愚かな者です。 常識というものさしで浅はかに動いてしまう者です。 最初にクリスマスが訪れたマリアも、私たちと同じでした。 常識で判断すれば、神に告げられたことは不安と恐れのうちに逃げ出してしまいたい、そういう事柄でした。 しかし、そうした中でも、マリアは解決しないまま、その不安と恐れを担ったまま、「お言葉どおり、この身になりますように」と、主のみ言葉に生涯をかけて従ったのです。 私たちは主の誕生によって、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、主を信じることが、また主を待ち望むことが赦されるようになったのです。

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「私たちのうちに宿る言葉」 エレミヤ書 15章16節

2016-11-27

 預言者エレミヤは、主の言葉が直接臨んで召された預言者でした。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と、主なる神に告げられたエレミヤはしり込みをします。 「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎませんから。」と逃げ出そうとするエレミヤに、更に主の言葉が及びます。 「若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。 見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。 見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。」と、エレミヤを送り出したのです。 これが、エレミヤの預言者として召し出された時の「み言葉体験」でした。 
 主なる神に託されたみ言葉は、神を捨て、神に背き、踏み外したその道から悔い改めしようとしないユダヤ、エルサレムに向いました。 厳しい裁きの言葉を告げられたのでした。 エレミヤはこのユダヤの国を愛するがゆえに、主なる神から託された厳しい言葉によって、その滅びを嘆き悲しみました。 預言者として、この国そしてその民のために執り成そうとしたけれども、主なる神に拒まれてしまった。 主の憤りの言葉を語れば語るほど、社会を混乱に陥れる無用な人物と排斥され、反発を受けた。 エレミヤは、人々からも、また主なる神からも退けられるという孤独な道を歩まなければならなかったのです。 「わたしは災いだ。 わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。 国中でだれもがわたしを呪っている。」と嘆いたのです。 それだけではない。 「わたしは独りで座っていました。 あなたはわたしを憤りで満たされました。 なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、癒えないのですか。 あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。」と、ついに不信仰な訴えを口にするまでになったのでした。 エレミヤは悩み、嘆き、悲しむ中においても、民のために執り成しを訴え続けます。 主なる神との深刻な対話を繰り返し、その格闘の末のエレミヤの言葉が、「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。 あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」という告白でした。 エレミヤは何度も何度も神の御言葉を求めました。 召し出されたその時から、神の呼びかけと語りかけを決して聞き流しませんでした。 エレミヤは、その御言葉をむさぼり食べたと言うのです。 食べ物が、食べた人の体の一部となっていくように、み言葉を体の一部になるまでに食べた。 そのような体験をしたとエレミヤは言うのです。 神のみ言葉が、私の言葉になる。 私のからだに刻まれたみ言葉になる。これは、大げさな表現なのでしょうか。 エレミヤは、「むさぼり食べたその御言葉が、わたしのものとなった。 そのわたしのものとなった御言葉が、わたしのうちで喜び踊る心を産んだ。」と告白しています。 エレミヤは、み言葉によって新たに生きる者とされました。 むさぼり食べたそのみ言葉を語り続ける者とされました。 人がどのような言葉を見つけ出して、それをからだに刻みつけて支えられているかによって、その人のあり方や生き方が定まります。 その人のうちに宿った主なる神のみ言葉は、その人のところに留まりません。 霊が働いて、新しい命を産み出します。 それが躍動して、人から人へと語りかける言葉となって伝わります。 そこには、み言葉によって生まれた新しい「私」が生まれます。 み言葉は、私たちのうちに宿るのです。 それが喜びとなって、霊によって躍動して伝わるのです。 私たちはどのような言葉を内に宿すのでしょうか。 

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「神に結ばれるという実」 コリントの信徒への手紙二 9章6~15節

2016-11-20

 パウロは、なぜ異邦人の地から遥かに遠いエルサレムのユダヤ人教会を、献金をもって支えようとしたのでしょうか。 同胞の民であるユダヤ人たちに裏切り者だと憎まれ、疎まれていたにもかかわらず、このユダヤ人たちのために、なぜ献金をささげようとしたのでしょうか。 ユダヤ人の教会に献金をするなど関心の薄い異邦人の教会の人たち、むしろパウロが自分の私腹を肥やすために献金を集めているのではないかと中傷誹謗していた人たちを説得してまで、なぜ献金の業に拘ったのでしょうか。 それは、ユダヤ人であったパウロが、いつまで経ってもイエス・キリストの福音を受け入れようとしない同胞のユダヤ人たちを愛していたからです。 彼らを真の福音のもとに救うために、諦めていなかったからです。 生活の窮乏に陥っていたユダヤ人の教会を現実に助けるためです。 信仰の形や香りの違いによって亀裂が生じていた、異邦人の教会とユダヤ人の教会との間の交わりを造り上げるためです。 ともに協力して、更にキリストの福音を拡げていくためでした。 パウロは、「喜んで与える人を、神は愛してくださるから」、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに」献金をささげなさいと勧めます。 パウロにとって、献金をささげるということは、神に対する感謝です。 祈りや賛美、信仰の告白と同じことです。 神に向って行われる感謝の応答です。 神に仕える奉仕の業です。 祈りも、賛美も、信仰の告白も、献金も神に対する信仰の行いです。 イエス・キリストの贖いの恵みによって解放され、これからキリストを主として生きていく、キリストに仕えて生きていくという「献身」を表す信仰の表明であるとパウロは言っているのです。 ですから、私たちもまた、礼拝の中で、神に向ってささげます。 献身の表れとして、自分自身をささげます。 パウロは、「献金をささげる」とは、「種を蒔く」ことであるとたとえます。 気がつくにしても、気がつかないにしても、私たちは神のみ業によって多くの恵みをいただいています。 その恵みに対する感謝の応答が、神を礼拝する者の奉仕です。 しかし、考えてみてください。 私たちが受け取っている恵みは、気がつかないほど無尽蔵です。 私たちが精いっぱいささげても、たかが知れています。 神の側からみれば実に不十分なものです。 しかし、主はそれを決して不十分なものとは思われず、憐れみをもって受け取ってくださっています。 私たちの精いっぱいのささげものを、主は憐れみと慈しみをもって、そのささげているそのままの私たちを受け取ってくださって、その信仰を喜んでくださっているのです。 私たちは、受け取ってくださっているこの神の憐れみと慈しみを決して忘れてはなりません。 神の憐れみと慈しみを信じて、信頼と謙遜をもってささげます。 主の犠牲によってどれほどの豊かさを与えられたのかをわきまえ知って、祈りや賛美とともに礼拝で献身の表明として、神に向って自分自身をささげます。 「神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになるお方です。」 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになるお方です。」 「あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださるお方です。」とパウロは言います。 祝福が感謝をつくり出す。 その感謝が、神への信頼と謙遜によってささげられるところに、神が働いて更に用いてくださる。 その感謝が、更に必要としている隣人との交わりを産み出していく。 「ささげる」ということは、この神の働きに用いられてしっかりと「神に結ばれる実を結ぶ」ということではないでしょうか。 「ささげる」ところには、必ず主の祝福が起こされます。 「蒔く者が刈り取る神の報いは、慈しみが結ぶ実である」と言います。 

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「おびただしい証人の群れ」 ヘブライ人の手紙12章1~3節

2016-11-06

 この手紙は、相次ぐ試練に直面した一世紀ころのキリスト者たち、特にユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者たちに書き送られた励ましと慰めの手紙です。 度重なるローマ皇帝による弾圧、言われなき中傷誹謗によって、気力を失い、疲れ果ててしまい、もとの生活に逆戻りしてしまう危うさをもつ人たちに向けて語っています。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちはこの信仰のゆえに神に認められました。」と、「おびただしい証人の群れ」の名前を数多く挙げて、この世に流されないように、神への信頼と希望を最後まで持ち続けるようにと訴えています。 この「おびただしい証人の群れ」のひとりひとりの「証し」は、実にユニークで一つとして同じものがありません。 神の導きは、それぞれの人生に沿って本当に自由奔放です。 「このおびただしい証人の群れに取り囲まれている。 見守られている。 応援されている。」と、この手紙の送り主は自覚しています。 そして、大事なことは、「かつて信仰によって認められた彼らを導き支えられた神は、今も同じように私たちの人生に関わってくださっている。」という確信に立って生きているということです。 ですから、信仰は失望に終わらない。 信仰は希望であると訴えるのです。 
 この手紙では、私たちが走っている道を「自分に定められている競争」と言います。 人と同じ道を走っているのではない。 人と比べられるような道でもない。 定められた道を、終着点を目指して旅する生涯のことを「競争」と言います。「走る」とは、その生涯に生きるということ、その「走る」ために必要な力を「信仰」と言っているのではないでしょうか。 そのために、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と言います。 走るのに「重荷となっているもの、絡みつく罪」とはいったい何でしょうか。 走ることを止めさせようとする力、 もう「生きる」のはいいではないですかとささやく力です。 この世の抵抗や誘惑といったところでしょう。 重荷にもいろいろあるでしょう。 思い煩いこそ、最大の重荷かもしれません。 「自分に定められている競争」とは、自分の前に置かれている生涯ということでしょう。 自分にしか生きることができない道のことです。 だれかと比較しようのない人生の道です。 自分に与えられた使命に生きる。 神が望んでおられる自分にしか与えられていない道に生きるということです。 その生きる力、走る抜く力を与えるのが「信仰」です。 その走り抜く力を阻もうとするのが「絡みつく罪」です。 「重荷」です。 神の思いに従うことを妨げるもの、そのささやきをかなぐり捨てて、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と言うのです。 忍耐強くとは、ただ何もせず我慢することではありません。 何もかも諦めて受け入れるだけのことでもありません。 神の約束に従って生きる生涯には、神の大きな報いが用意されています。 それまで「待つこと」が忍耐です。歯を食いしばって私たちが我慢することではありません。 神が愛し、守り、支えてくださるから可能となる神の忍耐、神の時を待つことです。 気力を失わないように、疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された主イエスを仰ぎみれば立ち止まらないで走り抜くことができます。 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、走り抜こうではありませんか」と言います。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われた主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われたのです。 このお方とともに最後まで、神の時を「待ちながら」走り抜こうではありませんか。

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「何も入っていない油の壺」 列王記下4章1~7節

2016-10-30

 預言者の仲間のひとつの家庭に起きた悲しい出来事です。 ひとつの家族に訪れた、愛する者との別れでした。 失われた夫の妻が、預言者のリーダーであったエリシャに訴えています。 「あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。 ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。 ところが債権者が来てわたしの子ども二人を連れ去り、奴隷にしようとしています。」 夫の死により、家族がバラバラになってしまうという悲痛な「妻として、母親としての叫び」でした。 債権者には、債権者としての言い分があり、その返済のために子どもを奴隷にするということは、当時としては認められていたのでしょう。 自分が孤独になる、二人の子を奪われるという、そのつらさを彼女は嘆いているのでしょうか。 貧しい預言者の家庭であった、その不遇の人生を嘆いているのでしょうか。 債権者への懲らしめを、主に願い出ているのでしょうか。 そうではないように思います。 彼女の叫びには、「私の夫は主を畏れ敬う人でした」 それなのに、神はどうしてこのような扱いをするのですかという響きがあります。 その理由がわからないから苦しい、主のみ心を知りたい。 その一心で叫んだのではないでしょうか。 この女性の叫びに、預言者エリシャはこう答えます。 「何をしてあげられるだろうか」 バルティマイという道端に座っていた物乞いの盲人が「わたしを憐れんでください」と、イエスに叫び続けた時のことです。 イエスはすべてをご存じのうえで「何をしてほしいのか」と、盲人の心の中にある本当の彼の祈りを引き出そうとしました。 エリシャもまた、この悲しみと理由の分からない苦しみの中にある彼女に、主のみ業の備えをなさせようとします。 「何をしてあげられるだろうか」 そして「あなたの家に何があるのか言いなさい」と言います。 彼女は「私の家には、油の壺ひとつのほか何もありません」と言います。 彼女はもうどうすることもできないと、望みを失っているのです。 何もないと思っているからこそ、主に祈っているのです。 その彼女は、「油の壺ひとつしかない」と言うほどまでに、何もないと訴えているのです。 エリシャは、その一つしかない油の壺の油を用いようとします。 そして、「近所からできるだけたくさんの空の器を借りて来なさい。 集まったら、家の戸を閉めて、子どもたちと一緒に家に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。 いっぱいになったものは脇に置くのです。」と彼女に促したのです。 彼女は、その理由がわかりません。 イエスは祈りの姿について、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。 エリシャは、隣人との交わりの中で助けてもらいなさい。 空の器を貸してもらいなさい。 空の器が集まったら、その家の家族だけで、戸を閉めて、子どもたちと一緒に祈りなさいと言われたのです。 そのエリシャの言葉に、彼女は理由が分からないままに、神の言葉として聞き従うのです。 その通りにするなら、注ぎ溜まった油を売ることによって、いっさいの負債を払い終えることができる。 そして、払い終えた以上に残された油によって、家族がともに暮らしていくことができるという神の約束として受け取り、聴き従ったのです。 預言者仲間の交わりがそこにあったから、彼女のもとに空の器が集まりました。 家族を挙げての祈りがあって忠実に聴き従ったから、子どもたちが集めて来た器が油で満たされました。 私たちは、主の恵みを受け取るためには、借りて来てまでも用意するのです。 そこにいっぱいに満たされるまでに、家族と一緒に祈り、聴き従うのです。 主の恵みが注がれるためには、その器は空でなければならないのです。

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「皆さん、元気を出しなさい」 使徒言行録27章21~26節

2016-10-23

 パウロはエルサレムでの騒ぎに巻き込まれ、ローマの役人に捕らえられていました。 しかし、ローマの市民権をもっていたパウロはローマ皇帝に直訴することを願い出たために、ローマに護送され、裁判にかけられることになっていました。パウロの長年の祈りは、世界の中心地ローマの信徒たちと会い、彼らに送り出されて地の果てイスパニアまで福音を語ることでした。 神もまた、「勇気を出せ。 エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)とパウロを導いていたのでした。 神の深いみ心によって、パウロは囚人としてローマに運ばれようとしていたのです。 パウロが乗せられていた船は、貿易のための積荷がいっぱい載せられていた船でした。 276人もの人々を乗せていた大きな船でした。 そこには、百人隊長が指揮するローマの兵士たち、パウロなどの囚人たち、貿易商人たち、ユダヤ人、ギリシャ人、イタリア人、エジプト人など様々な人々が乗っていたと言われています。 その船が「エウラキオン」と呼ばれる暴風に行く手を遮られ、積荷を海に捨てなければ、また船の道具までも犠牲にしなければ沈没してしまうほどの危機にさらされたのです。 「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」と聖書に書かれています。 神を信じたからといって、暴風や災難から免れることはありません。 キリスト者も嵐に出会い、逆風を受ける時があります。 パウロは望んでもいなかったところに連れて来られました。 「助かる望みは全く消え失せる」絶望の淵に追い込まれた時に一緒に船に乗っていたのは、パウロの忠告に全く耳を貸さなかった船員や船長や船主です。 貿易をしようとその一心で、積荷をいっぱい載せて目的地に向っている貿易商たちです。 囚人たちを捕らえて護送している百人隊長であり兵士たちです。 そのような人たちとともにいた暴風の真っ只中の船の中で、「ローマでも証しをしなければならない」とパウロに迫った神のみ声が再び響いたのです。 「パウロ、恐れるな。 あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」という神の使いの声がしたのです。 パウロはこの嵐の中でも、神の声に耳を澄ましているのです。聞くだけでなくそのみ言葉に立とうとします。 パウロは神のみ声を信じているから、失望が失望に終わらず希望に替わります。 そして、新しい道へと目を向けているから、同じように恐れを抱いている人々に希望を語りかけることができるのです。 「皆さん、元気を出しなさい。 わたしは神を信じています。 わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」と、「わたしが仕え、礼拝している神がわたしのそばに立ってそう告げた」と叫びます。 暴風を受けているその船の中に、このパウロの言葉が響きました。 「皇帝の前に出頭しなければならない。 それまで、船そのものが失われたとしても命は失われることはない。 わたしたちは、必ず、どこかの島に打ち上げられるはずです。」とパウロは確信していたのでした。 パウロの確信は、神に仕え、祈り、賛美し、礼拝して、神との交わりの中にいたからです。 その交わりによって、神にパウロ自身が捕らえられていたからです。 ですから、「助かる望みが全く消え失せようとしていた」状態にあっても、パウロは繰り返し神のみ言葉を聞くことができた。 信じることができた。 自分を神のみ心に委ねることができたのです。 もはや船の導き手は、船長から神のみ言葉に固く立つ囚人パウロに移りました。 すべてのものを失った船に乗っていた人々は、ありのままの裸の姿でパウロと一緒に救われたのです。 沈没しそうな状況にある時こそ、救われた一人のキリスト者の存在は大きいのです。

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「私たちを導くイエスの霊」 使徒言行録16章6~15節 

2016-10-16

 アジアから海を越えてヨーロッパ大陸に初めて福音の宣教が伝わった、その時の聖霊の働きが生き生きと語られています。 エルサレム会議において「救われる為には割礼は必要でないこと」が激論のすえ確認され、パウロたちは意気揚々とアジア州各地を巡り、その中心地エフェソに向かう計画でした。 ところが、「パウロたちがそのアジア州でみ言葉を語ることが禁じられた」と書かれています。 パウロはこのアジア州で宣教するために、シラスと評判の良い弟子テモテを連れていく準備をしたのです。 「救われる為には割礼は必要でないこと」を自ら出張したパウロは、父がギリシャ人であったこのテモテに割礼を受けさせてまで、行く先々のユダヤ人伝道のために周到な準備をしていたのです。 ところが目に見えない聖霊が、アジア州ではみ言葉を語ることを「禁じた」とまで強い言葉で書かれています。 み言葉を語ることだけでなく、彼らの計画通りに進むことが閉ざされたのです。 アジア州での宣教を一旦は断念せざるを得なかったパウロたちは、今度は北上しようとします。 そこでも、「イエスの霊がそれを許さなかった」とあります。 仕方なくパウロ、シラス、テモテ、そしてルカの宣教チームは進路を西に取らざるを得なくなったのです。 自分たちの宣教計画が途中でとん挫し、理由が分からないままに留まらざるを得ない苦しい状況にパウロたちはあったのです。 
 私たちにとって一歩後退、全面撤退と思われるようなことがあります。 じっと我慢しなければならない時があります。そのようなところにこそ、新しい道が開かれます。 むしろ、「そうしてはならない」という聖霊の導きがあることを私たちは知らされます。 パウロは「そこでみ言葉を語ってはならない」という神の声を聞いたのです。 そこに行こうとしたにもかかわらず「そこに行ってはならない」という神の声を「聞く人」であったのです。 重要なことは、自分が思いとどめられた時に神の声を聞くことができるかどうかです。 パウロは二度にもわたって神の声に聞いて従っています。 その時、パウロは一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州にわたって来て、わたしたちを助けてください」としきりに願う「幻」を与えられているのです。 パウロは「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったから」、新しい道へと大胆に進んで行くことができたのです。 もうひとつ重要なことは、パウロが見たこの「幻」がこの宣教チームの中で分かち合われているということです。 ひとりの人に示された「幻」が語られ、それを聞いて互いに祈り、吟味して共通の「幻」として確信したから行動を起こしたのでしょう。 そこに、「すでに心が開かれていた」一人の女性が準備されていました。 「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 彼女も家族の者もバプテスマを受けた。 彼女が自分の家を提供して、教会が立ち上がっていった。」と書かれています。 この女性がヨーロッパ最初の信徒です。 この女性の家がヨーロッパ最初のフィリピの教会へと発展して行ったのです。 この宣教の業を推し進めたのは、幻を与え、心を開いてくださったイエスの霊の働きです。 パウロもシラスもテモテもルカも、その働きに用いられたのです。 パウロたちは北に向ってさまよい、西に向ってさまよいました。 私たちの目には、どう見てもパウロの宣教は妨げられたのです。 しかし、このさまよいも挫折もすべて、神のみ手の中にあります。 神が心を開き、扉を開けない限り、私たちの業は進みません。 私たちの計画がどうなるのかが問題なのではありません。 成功においても、失敗においても、神のみ心のために用いられた、神の業であった、すべてはイエスの霊によって導かれていることだと悟り、私たちはそれに委ねるということが大切なのではないでしょうか。

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「賛美と祈りから起こること」 使徒言行録16章25~34節

2016-10-09

 順調に始まったと思われたパウロたちのフィリピでの宣教に、突然、異変が起こります。 パウロとシラスが訴えられ、捕らえられ、牢に投げ込まれたというのです。 その理由は、占いの霊にとりつかれた女奴隷をパウロがその汚れた霊から解放させたことからでした。 当時、人々が自分の将来について何かしらの教えをこの占い師である女性たちから受けていたのでしょう。 その際の礼金が、その女性たちの主人の財産になっていたのでしょう。 ところが霊的な力をもっていた一人の女性占い師は、パウロたちの語り出すキリストの福音の霊的な力を肌身に感じ、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と、幾日も繰り返し語りパウロたちにまとわりついたのです。 パウロがたまりかねて、彼女にとりつく霊に向かって「イエス・キリストの名によって命じる。 この女から出て行け。」と言い、彼女をこの霊から解放させたのが事の発端です。 金儲けの手段を取り上げられた主人たちは、その腹いせにパウロとシラスを捕らえ、「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させています。 ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」と訴えたのです。 理不尽な言いがかりでした。 パウロとシラスは、衣服をはぎ取られ何度も鞭で打たれました。 厳重に見張るために看守をつけられ、一番奥の牢に入れられました。 逃亡を防ぐために、足には木の足かせまではめられました。 だれも救い出すことのできない状況に、救い出す人がだれもいないという状況に、パウロとシラスが閉じ込められたのでした。 パウロとシラスの体には、その時の鞭打ちの傷があったでしょう。 傷の痛みが続いていたでしょう。 奥の牢にあって、暗闇の中に閉じ込められて何も見えていなかったのでしょう。 そのパウロとシラスが鞭打ちの傷の痛みを負い、自由をまったく奪われた状態を背負い、何の希望も見出せない牢の中にあってつぶやきもせず、自己弁護もせず、それどころか「真夜中に賛美の歌をうたって神に祈っている」のです。 この「賛美と祈り」がその牢獄の中に響き、「ほかの囚人たちは聞き入っていた」と言います。 呟きと呪いと諦めの声だけがこだましていたこの暗闇の牢獄が、「神を賛美し、礼拝の場」となっている。 この「賛美と祈り」には、状況を一変させる力があるのです。 そこに突然の大地震が起こり、「牢の戸が開き、すべての囚人の鎖が外れてしまった」のです。 この突然の出来事は、パウロたちを救い出すためだけのものではなく、看守とその家族の救いのためでもありました。 てっきり囚人たちは逃げ出したに違いないと思い込んだその看守が「剣を抜いて自殺しようとした。」 しかし、すでに喜びと賛美の場となっていた牢の中の囚人たちは、だれ一人として動かなかった。 看守の耳に、「自害してはいけない。 わたしたちは皆ここにいる」というパウロの声が響いたのです。 ここから、看守と囚人の立場が逆転します。 看守はパウロとシラスを牢の外へ連れ出し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねるのです。 限界まで追いつめられた看守の最後の叫びです。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたも家族も救われる。」というみ言葉が響きました。 神のもとを離れてさ迷っている者を救い出す「救い主」イエスを信じなさい。 そのお方のうえに、身を置きなさい、お任せしなさい、委ねなさいと言われたのです。 本当に信じるなら、私たちも私たちの家族も救われるのです。 そのために、主イエスが不可能と思うその心を開いてくださるのです。 ですから、賛美と祈りのある礼拝の場所には、どのような場所であろうとも考えられない神の奇跡の業が起こるのです。 看守とその家族はその喜びを分かち合ったと記されています。

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「教会の力」 使徒言行録18章1~11節 

2016-10-02

 パウロは、フィリピ、テサロニケ、アテネなどギリシャの多くの都市を転々と宣教していました。 アテネでは、後から駆けつけてくるシラスとテモテを待っていたのです。 しかし、パウロは彼らの到着を待ち切れず、宣教計画になかったアテネでひとり宣教を始めたのです。 そこには三千にも及ぶ宗教施設があり、おびただしい数の偶像が置かれ、人々が拝んでいたのでしょう。 パウロは、それらに「憤慨した、心に憤りを感じた」とあります。 自分が語る神は、「世界とその中の万物とを造られた神」である。 人間の手で造られたこれらの神殿などに住むような神ではない。 ひとりの人間からすべての民族を創り出し、地上の至るところに住まわせ、彼らの住むべき場所をお決めになるほどに世界を支配しておられるお方である。 「わたしたちはその神の中に生き、動き、存在する」とまで大胆に説教をしたのです。 「わたしの語る神は死者の中から復活させたお方によって、この世を正しく裁かれる。 この十字架と復活によって与えられるこの福音の恵みを受け取らなければならない。」と語り出したものですから、アテネの聴衆はパウロを嘲笑い、パウロの言葉を受け入れる人は幾人しかいなかったとあります。 パウロはこのアテネからコリントに入る時の心境を、「わたしは衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と振り返っています。 
 ところが、コリントでは、アキラとプリスキラというひと組の夫婦がパウロを待っていたのです。 ローマ皇帝のユダヤ人退去命令により、ローマから逃れて来た人でした。 仕事がアキラの家の仕事(テント造り)と同じであったパウロは、その家に住み込んで働いたと言います。 アテネの時とは異なり、コリントでは同労者が与えられ住居も生活基盤も与えられたのでした。 そこに、シラスとテモテがパウロのもとに到着したのです。 そのお蔭で、パウロは「み言葉を語ることに専念することができるようになった。 ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」と言われるまでに回復したのです。 ユダヤ人の抵抗にあって、別の家に移ることになりましたが、それが幸いし会堂長が一家を挙げて主を信じるようになり、多くの人々がパウロの言葉を聞いて信じバプテスマを受けるようになったと言うのです。 コリントの教会は、アキラとプリスキラという同労者が与えられ、シラスとテモテが遣わされて立ち上がったのです。 そこに神の言葉が届き、「恐れるな。 語り告げよ。 黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。 だから、あなたを襲って危害を加える者はない。 この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 口語訳聖書では、「あなたには、わたしがついている」と言います。 イエスは「世の終りまで、いつもあなたがたとともにいる。」と言われました。 私たちはこの確かな約束のうちにあります。 だから、「恐れるな。 語り告げよ。 黙っているな。」 「この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と言うのです。 宣教とは、この隠された神の民を見出すことではないでしょうか。 アテネでの宣教がおもわしくなく不安と恐れに留まっていたパウロでした。 そのパウロが同労者によって励まされ、支えられ、伝道者として造り上げられました。 再び力を与えられたパウロの宣教によって、隠された神の民が見出され、多くの信徒となって群れが造り上げられました。 これこそ、「教会の力」ではないでしょうか。 宣教は伝道者ひとりで、また信徒ひとりで進められるものではありません。 主イエス・キリストの働きに加えられて、進められていく神の業です。 その働きで傷ついた一人一人が、この群れの「神の愛にあふれた交わり」によって癒され、励まされていく。 伝道者として、信徒として造り上げられていく。 そのような群れでありたいと心より願います。

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「すべての人に宣べ伝えよ」 使徒言行録10章9~16節

2016-09-25

 新たな出会いは、新たな喜びをつくり出します。 キリスト者の出会いは、特別なものです。 大切な人との関係が引き裂かれる時、私たちは痛みを憶えます。 その痛みの根本には、神との引き裂かれた関係があります。 私たちは互いに、痛みを憶えることになります。 しかし、私たちだけでは、この傷の痛みを癒すことはできません。 神さまは、この罪によって引き裂かれた関係を修復してくださるのです。 「救い」という言葉には、薬の軟膏という語源にあるように、傷に塗って癒すという意味合いがあります。 「救い」は、罪によって生じた人生の傷を癒すものです。 ユダヤ人ペトロと異邦人コルネリウスという二人の人物が、神さまによって引き合わされることによって初めて、異邦人のキリスト者が誕生したことが語られています。 コルネリウスは、「イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と紹介されています。 当時のれっきとしたユダヤ教の信者ではなかったけれども、神を畏れ、民に愛の行いを為し、絶えず神に祈っていた異邦人でした。 真の神を知らないで、神を求めていたコルネリウスです。 その祈りが神のみ前にすでに届いていたのです。 その祈りに神さまは応えて、救いを求める者に福音を告げてくださるのです。 「ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい」と神のみ声がコルネリウスに響いたのです。 ペトロは、イエスにもっとも傍近くにあり愛されていたユダヤ人でした。 時を同じくして、ペトロもまた屋上に上がって祈りをささげていたというのです。 そのペトロに、「清くない物、汚れた物と思われる物を屠って食べなさい」と、神は告げます。 このみ声の意味はいったい何だろうと不思議がっているペトロに、コルネリウスの招きが届いたのです。 そして思い悩むペトロに、コルネリウスのもとに「ためらわないで一緒に出発しなさい」と再び告げられたのです。 コルネリウスに告げられた神のみ声と、自らに語られた神のみ声をペトロは聞いて、神の導きであることをその時悟ったのです。 しかし、異邦人のコルネリウスとユダヤ人のペトロです。 当初の教会は、異邦人には伝道をしていなかった時代でしょう。 互いに大きな決断と勇気が必要であったように思います。 コルネリウスがユダヤ人であるペトロを迎え入れて、福音の言葉を受け入れたのです。 異邦人に福音を伝えることが神のみ心であると告げられ、悟ったから、ペトロは異邦人の家に出かけて行ったのです。 互いの決断と勇気が神の業を進めたのです。 そこには、彼らの絶えない祈りがありました。 彼らの祈りが聞き届けられて、よみがえりの主が先立って働いていてくださいました。 何よりも主イエスキリストの先立つとりなしの祈りがささげられていました。 この主イエス・キリストの先立つ祈りが、ばらばらとなってしまった関係を結びつけてくださったのです。 結びつけてくださるその源には、主イエス・キリストがおられます。 主イエス・キリストの十字架によって、父なる神につないでくださったのです。 ペトロにとっても、コルネリウスにとって、また私たちにとっても不思議としか言いようのない神の業です。 私たちには常識があります。 正しいと思い込んでいることがあります。 しかし、神はそれを覆して、「清くない物、汚れた物」と思われることでも、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言い、準備万端整えて私たちを導いてくださいます。 それが新しいキリスト者の誕生のために用いられたのです。 ひとりの異邦人のキリスト者の誕生に、ユダヤ人であるペトロがその違いを越えて用いられたのでした。 私たちはこの務めのために「キリストのからだ」である教会に招かれ、導かれ、救われ、用いられるのです。

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