「隣人になったと思うか」 ルカによる福音書10章25節~37節
今の世も、当時のユダヤの世界も同じでした。 律法の専門家である律法学者が、人びとの生活そのものを牛耳っていました。 専門家だけが分かっていればよいという世界です。 その律法学者が、イエスを試そうとして質問しました。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 この質問にイエスは、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねたのです。 さすがに、この律法学者は的確に答えたのです。 するとイエスは、「正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば永遠の命が得られる。」と言われたのです。 イエスは、的確に答えた律法学者をほめたのでしょうか。 神を愛する、隣人を愛するという行いを実行するようにと道徳の教えを説いたのでしょうか。 問題は、この後の律法学者の質問にあります。 「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねて、自分を正当化しようとしたとあります。 イエスの言うような隣人には、私は愛をささげてきていると主張したかったのでしょう。 その際に語られたイエスのみ言葉が「善いサマリア人の譬え」でした。 「わたしの隣人とは、いったいだれのことですか」という律法学者の問いに、逆に、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と律法学者に問うたのです。
「追いはぎに襲われた一人の旅人」が出てきます。 服をはぎ取られて、殴りつけられ、半殺しの目にあって、放置されたままになった人物です。 予測もしなかった出来事に遭って、すべてを失い、からだも痛めつけられ、だれも見向きもしない、助けを求めても答える者がいないところに放置された人物です。 イエスは、そこに「祭司」、「レビ人」、「サマリア人」の三人を登場させます。 「祭司」や「レビ人」とは、人目には、立派に神や神殿に仕える人たちを指すのでしょう。 しかし、彼らは、だれも見ていないところでは、苦しみ、痛み、嘆きの中にある同じユダヤ人を見ても、「道の向こう側を通って行った」と言うのです。 しかし、同じようにそこを旅していたサマリア人は、「そばに来ると、その人を憐れに思い、近寄って来て傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろば乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」 翌日には、その宿屋の主人に銀貨を渡して、「この人を介抱してください。 費用がかかったら、帰りがけに払います。」とまで言ったと言います。 「サマリア人」とは、ユダヤ人たちからは、異教徒たちの風習や宗教に馴染んでしまったがゆえに、交われば汚れるとまで言われ、交わりを拒まれていた人たちでした。 ユダヤ人たちから嫌われ、見下されていた人を、イエスは登場させたのです。 このサマリア人こそが、苦しんでいる、傷ついている、嘆いているユダヤ人の本当の隣人になったと語っているのです。 イエスは、この譬えを語り終えて、この律法学者を、愛を施す側から、愛を受ける側に立たせようとします。 イエスは、自分を変えようとしないで、隣人という相手を選ぼうとした律法学者に、「だれが本当の隣人になったと思うか」と尋ねたのです。 イエスは、サマリア人の姿を通して、隣人を見つめて「憐れに思う」心に揺り動かされた人の姿を語ったのです。 自分を中心に隣人を見るのではなく、助けを求める隣人を見つめる目と、それによって変えられていく人の姿を、イエスは語られたのです。 このサマリア人の姿こそ、十字架の主イエスです。 傷ついているあなたは、わたしの受けた傷によって癒される。 その癒された者が、同じ傷をもつ隣人を癒すことができる。 この十字架の主を仰いで愛する者が、同じように隣人を愛するようになる。 この恵みの世界に、私たちは置かれています。 この神の恵みに突き動かされて、私たちは互いに隣人となる。 この新しい隣人こそ、神の憐れみの担い手であるとこの譬えは語っています。
「キリストの出来事」 ローマの信徒への手紙8章12節~17節
ヘブライ人への手紙1章1節に「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と書かれています。 御子であるイエス・キリストは、終わりの時代に語られた神の御言葉であると言っています。 ナザレの人イエスは確かに、人間として誕生し、家族をもち、死を迎え、墓に葬られました。 しかし、そのイエスの死は、私たちの罪のためでした。 そのイエスの復活は、父なる神がお与えになる人を一人も失わないで、終わりの日に復活させるという父なる神の御心のためでした。 そして、その御心の通りに従順に子なるイエスが歩まれたから、このイエスの出来事が私たちの救い、希望、キリストの出来事となったのです。 イエスの誕生からその死に至るまで、そして死んだ後、よみがえられて霊なる体をもってこの地上で働かれる、これらすべてのことが父なる神の御心、神の救いのご計画でした。
しかし、パウロは、十二弟子のように、このイエスの出来事を共にしたわけでも、直接見聞きしたわけでもありません。むしろ、このイエスを信じる者たちを告発し、捕らえていた中心人物でした。 パウロは、自分がもっとも大切にしていた律法をないがしろにするキリスト者たちに、我慢がならなかったのでした。 そのパウロに呼びかけたのが、すでによみがえられて霊なる体となられたイエス・キリストでした。 ご自分を迫害するそのパウロを用いて、ご自分を救い主として宣教する者へと立ち上がらせたのです。 ですから、パウロの伝えるイエスは、自分の中にいて生きておられる霊なるお方なのです。 パウロは、「わたしは、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言います。 自分が体験した霊なるお方、自分の中に生きて働いておられる復活されたイエス・キリストを宣べ伝えたのでした。 パウロにとって、自分のうちにイエスがおられることと、神の霊が自分のうちに宿っていることとは同じことであったのです。 パウロは、私たち直接イエスの姿を見ていない者の代表として、霊なるイエス・キリスト、十字架につけられたままのイエス・キリストを語ったのでした。 この「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」「あなたがたは、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によって、わたしたちは父よと呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」と、パウロは言います。 神の子とする霊を受けた者は、イエス・キリストというよみがえられた霊との交わりに入るようになる。 「父よ」と呼びかけることが赦される特別な関係になる。 この約束のみ言葉によって、イエス・キリストだけに用いられた「神の子」という称号が、イエス・キリストにあって私たち信じる者にも与えられたのです。 パウロは、「あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」と言っています。 ナザレのイエスは、キリストです。 ナザレのイエスの誕生も、生涯も、そしてその死もすべて、神のご計画の中にあるキリストの出来事です。 初めに言葉によって世界を造られた神が、終わりの時代にキリストの出来事によって私たちに救いのみ言葉を語られたのです。 そして、キリストのゆえに、キリストによって神の子となった私たちが、神の相続人、しかもキリストとの共同相続人になると言います。 キリストとともに、死んでよみがえる。 このキリストに結ばれた者、ひとつにされた者、新しい人間として創造された者が、神の相続人、朽ちない霊なる命をもつ者となるとパウロは語っています。
「御言葉を食べる」 エレミヤ書 15章10~16節
紀元前600年頃、エレミヤという一人の預言者がイスラエルの民に与えられました。 自分たちの国が崩壊するという時代に直面した人物でした。 イスラエルにとって最悪の時代に、エレミヤは神の御言葉を語ることを託されたのでした。 「わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎませんから」としり込みをするエレミヤに、神の御言葉が臨みます。 「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、わたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」 この神の御言葉が語られた後、エレミヤはこの御言葉との格闘の連続でした。 エレミヤに託された神の御言葉とは、「背きを重ね、その背信がはなはだしい」イスラエルの民の犯した罪により、「剣と飢饉と疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」とまで、神は告げられたのでした。 このエレミヤが生きた時代、そのような神の怒りに、また攻め込んでくる外国の恐怖に脅えて、様々な王たちが懸命に努力し、自分たちの国を守ろうとします。 しかし、エレミヤは、「むなしい言葉により頼んではならない」、エルサレム神殿が破壊され、イスラエルは滅びると真っ向から神の御言葉を語ったのでした。 ですから、エレミヤは、イスラエルの民から嘲られ、孤独を余儀なくされていたのです。 その時のエレミヤの心境が今日の聖書箇所です。 「私の生涯も、わたしの存在も災いだ」とつぶやきます。 「わが母よ、どうしてわたしを生んだのか」とまで嘆きます。 「イスラエルの国中で、わたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされてしまっている。 だれもが、わたしを呪っている。」 「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と言われた神に、わたしはイスラエルの人々のために「とりなしの祈りをささげたではありませんか。」 なぜ、応えてくださらないのです。 なぜ、黙っておられるのですか。 「わたしは、人々のあざ笑いにも耐えています。 孤独にも耐えています。 これは、あなたの御言葉を語ったからです。 わたしはあなたのために苦しめられているのです。」と叫んでいます。
しかし、エレミヤはなぜ、そこまでして神の御言葉を語り続けることができたのでしょうか。 いくらでも安全な場所に逃げ出すこともできたでしょう。 しかし、エレミヤはその孤独の悲しみ、嘲りに耐える苦しみの中にも、「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。 あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました。」と告白しています。 エレミヤは若い頃、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」という神の御言葉を見出すことができた。 この神の御言葉を食べることができた。 このエレミヤと同じように私たちにも、どうしてか分からない神の呼びかけがありました。 その呼びかけに一歩踏み出したという、私たちの小さな生涯の体験があります。 エレミヤは、この主の語りかけの御言葉を「むさぼり食べました。 喜び踊りました。」と言います。 イエスは最後の晩餐の席で、「取って食べなさい。 これはわたしの体である。」 そうすれば、その神の御言葉があなたのものとなる。 その時、あなたはその神の御言葉に生きるようにされると言っています。 私たちには、エレミヤとは違った務めがそれぞれに与えられています。 しかし、神の呼びかけ、神の霊なる御言葉が響いた体験を与えられていることは同じです。 エレミヤが感じて、つぶやいて、破れたように空しく感じることもあるでしょう。 しかし、エレミヤはその生涯をかけて、この神の御言葉をむさぼり食べて生き抜きました。 この過ぎ去ることのない神の御言葉が存在していること。 私たちが霊の助けによって、これこそ神の語りかけであると分かること。 これがわたしたちの救い、本当の希望です。
「キリスト者と呼ばれる者の教会」 使徒言行録 11章19~30節
「ステファノの事件をきっかけに、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで、ギリシャ語を話すユダヤ人たちが散らされて行った」と聖書は言います。 フェニキアとは、今のレバノンあたりでしょうか。 キプロスとは地中海に浮かぶ島です。 アンティオキアとは、エルサレムから四百キロから五百キロ離れたところです。 そこまで、ステファノの事件がきっかけとなってエルサレムから追放された彼らが、散らされたその所々で神の言葉、福音を告げ知らせながら廻り歩いたと言います。 アンティオキアは、ローマ帝国のロ-マ、アレクサンドリアに次ぐ、第三番目の都市、人口百万人の国際都市であったと言われています。 そこには、キプロスや、アフリカのキレネからも人が入って来て、この地にある人々に「主イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。 イエスの十字架の死後、数年後のことです。 最初の異邦人信徒の教会の始まりでした。 イエスのみ言葉が語る通り、全世界に向けての宣教の夜明けでした。 その群れが、アンティオキアの教会でした。 聖書は、「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち返った者の数は多かった」、「主を礼拝し、断食して、よく祈る教会」、「聖霊の声を聞くことに熱心な教会」と証言しています。
当時としては、この異邦人信徒だけの教会がとても珍しいものであったのでしょう。 そのアンティオキアの教会のうわさが、遠く離れたエルサレムの教会にも聞こえてきたのです。 そこで、エルサレムの教会はバルナバを遣わしました。 果たして、指導者もなく、異邦人の信徒だけで逞しく成長しているアンティオキアの教会が、いったいどのような状態であるのか不安を覚えながら足を踏み入れたバルナバでした。 しかし、バルナバはそこで驚いたのです。 彼は、その信徒の数に驚いたのではありません。 教会の信徒たちの姿の中に、「神の恵みが与えられた有様」を見て驚いて、喜んだのです。 そして、「固い決意をもって主から離れることのないように」と励まし、勧めたのでした。 この慰めの人、励ましの人、バルナバが遣わされたのは、神の配慮でした。 「聖霊と信仰に満ちた」バルナバによって、多くの人が主へと導かれたと証言されています。 このバルナバによって、サウロ、後のパウロがアンティオキアの教会に指導者として導かれたのもまた、神の配慮でした。 アンティオキアの教会の宣教ビジョンと、サウロ、後のパウロとの出会いでした。 神の業は、神の時を得て、神の備えた器によって成し遂げられていきます。
このバルナバとサウロによって指導された多くの信徒たちが用いられて、このアンティオキアの教会が造り上げられていったのです。 その信徒たちの姿、有様を、聖書は「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と言います。 今まで、「イエス派、キリスト党員」などと、あだ名されていた彼らがついに「キリスト者」、「キリストに属する者」と周囲からも認めざるを得ないほどの姿になったのです。 現在の私たちの教会の原点です。 偶然にでき上がった教会ではありませんでした。 ステファノの殉死から始まりました。 信徒による宣教によって逞しく成長しました。 その群れにバルナバ、サウロが指導者として招かれたのでした。 神の深い知恵とご計画によって立ち上げられたアンティオキアの教会でした。 この教会の信徒たちの「証し」の姿が、周囲にも、「キリスト者」の群れと映ったのです。 宣教は、神の深い知恵とご計画によって、心を開いて「神の言葉を聞こうとしておられる人」に、私たちの器が用いられるということではないでしょうか。 聖霊は、この働かれる器を求めておられるのです。
「争いも宣教のために」 使徒言行録 6章1~7節
弟子たち一同のうえに聖霊が降った後、その霊に満たされて弟子たちがそれぞれ自分の言葉で語り出した頃、「弟子の数が増えてきた」と書かれています。 その順調に成長してきた弟子たちの群れに、ひとつの亀裂が生まれました。 「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た」と言うのです。 その苦情の中味は、「自分たちの仲間のやもめたちが軽んじられている」という「日々の分配」のことでした。 弟子たちのうえに聖霊が降るという出来事を境目にして、一か所に集まり、心を合わせて祈り合うことができなくなる。 十二人の使徒たちの指導力だけでは秩序を保つことができなくなるほど弟子たちの数が増えました。 そのような状況に加えて、異邦人の世界で生活してきたユダヤ人も増え、言葉も、習慣も、文化も、そしてユダヤの律法や神殿に対する姿勢にも違いがくっきりと生まれてくる。そのために、互いの共同生活において、行き届いた配慮ができなくなることも起こったのでしょう。 使徒たちは、このもめごとを問題にしたのではありません。 このことによって、神の言葉に対する奉仕が後回しになっている。 教会の中に働く教会を打ち壊す、悪の霊の働きを問題としたのです。 使徒たちは、これをどのように信仰的に対処していったのでしょうか。 先ず、群れの指導者である使徒たちによって、すべての弟子たちが「呼び集められて」います。 理由とともに、ひとつの提案がされています。 「わたしたちの群れの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選び、彼らに食事の世話をする仕事を任せる」という提案です。 その提案に、集められたすべての弟子たちが意思表示をしています。 そして、提案された業を果たすために必要な弟子たちが、その弟子たちの中から選ばれています。 そして、選ばれた弟子たちのうえに手を置いて、選んだ弟子たちを代表して使徒たちが祈っています。これが、その頃の教会の群れのもめごとに対する姿でした。 そして、聖書は、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」と証言しています。
食卓の世話をすることも、み言葉に仕えることも、教会の群れを造り上げるために大事な働きです。 このために選ばれた七人全員が、ギリシア語を話すユダヤ人であったのです。 名前が記されている最初の人物がステファノでした。 このグループの牽引者ステファノは、堂々とイスラエルの民の罪を語り、ユダヤの律法とは別の救いがあることを明確に主張した人物です。 それゆえに捕らえられて、非合法に石打ちによって虫けらのように殺された人物です。 この殺害をきっかけに、このギリシア語を話すグループがエルサレムから追放され、散らされて行きます。 しかし、彼らはその散らされた場所、場所で、神の言葉を告げながら、廻り歩いたというのです。 この無駄に思われるようなたった一人の死から、神の言葉は果てしなく拡がり始めたのです。 この「食事の世話をする者」として選ばれ、託された彼らこそが、「祈りと御言葉の奉仕」を強力に推進して行く力となったのでした。 このステファノの殺害に立ち会ったのが、後のパウロです。 ここから、パウロの大転換が起こります。 彼こそ、異邦人に向けて宣教するステファノの後継者となっていきます。 聖書は、エルサレム神殿の大勢の祭司たちが改宗するほどに、エルサレムに新しい群れが逞しく成長したことを伝えています。しかし、それ以上に、全世界へと神の言葉が拡がるきっかけとなった「日々の配給」のもめごとを隠さず述べています。 神の言葉は、人間の挫折や対立などもろともしません。 自ら、何ものにも妨げられることなく前進していきます。 この神の言葉がおろそかにされることのないようにと、この神の言葉に対する信頼がここで語られています。
「神の備え」 使徒言行録 1章6~11節
過越しの祭りを終えて、エルサレムから戻っていたガリラヤで、弟子たちはそれぞれに40日にわたって復活されたイエスに出会いました。 「お前もあの男の弟子のひとりではないのか」と問われて、「違う、わたしはあの人を知らない」と三度否定したペトロにも。 「あの方の手に釘の跡を見なければ、わたしは信じない。 この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と疑ったトマスにも。 また、自分の身にふりかかってくる恐れから、十字架のもとから離れてしまったすべての弟子たちにも、よみがえられたイエスは再び出会ってくださいました。 そして、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束のものを待ちなさい。」と、イエスは命じられたのです。 「エルサレム」とは、彼らにとってイエスと同じように捕らえられてもおかしくない危険な場所です。 そこに、イエスは「戻りなさい。 あなたがたは間もなく聖霊を受けることになるから、待ちなさい。」と命じられたのです。
いよいよ、自分たちのイスラエルの国が再び回復される時が来る。 そう期待したから、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」とイエスに尋ねたのです。 しかし、イエスは「父が権威をもってお定めになった時は、あなたがたの知るところではない」と諌めます。 そして、「あなたがたのうえに聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と告げ、イエスは天に上げられました。 雲に覆われて、弟子たちには見えなくなりました。 呆然としている弟子たちに、「いつまで、天を見上げているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、同じ有様で、またおいでになる。」と、神のみことばが伝えられたのでした。 これは、いったいどういうことでしょうか。 弟子たちは地上に取り残されてもよいように、40日にもわたって復活の主イエスに養われました。 そして、直々に「エルサレムにとどまりなさい。 父がお約束になった賜物、聖霊が降るまで待ちなさい。」という『イエスの命令』をいただきました。 そして、「あなたがたは聖霊という力を受ける。 地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という確かな『イエスの約束』が与えられました。 イエスのいないこの地上を、父なる神から与えられる『聖霊』と、復活の主イエスの語られた『命令と約束』をもって、あなたがたは生きることになる。 そのために、神が準備されたのであると弟子たちは知らされたのでした。
イエスが天に上げられる、再び降りて来られる、この間を私たちは生きる。 イエスが語り残された『命令と約束』を握りしめて、『聖霊』に導かれて私たちは生きる。 その始まりが、ここに記されているのです。 最初の弟子たちの群れは、先ず、「集められること」から出発しました。 次に「待つこと」を求められました。 そして、「祈ること」を求められました。 そこに、父なる神の賜物、『聖霊』が降ったのです。 よみがえりの主イエス・キリストのからだである群れがつくり上げられたのです。 イスラエルの国を立て直すという形ではなく、イエスを裏切った、イエスを疑った、イエスを信じることのできなかった私たちを「イエスの生きた証人」とする形で、神の国をつくり上げると言われたのです。 神の宣教の業の力の根源は、このよみがえりの主に生かされているという「イエスの証人」となることです。 父なる神によって与えられる「聖霊」に満たされて、礼拝と祈りと賛美をささげることです。 見た目に囚われず、この最初の教会の群れの姿に私たちは立ちたいと願います。
「信仰がなくならないように」 ルカによる福音書 22章31~34節
時は、イエスが十字架にかけられる前日の夜の食事の時でした。 愛する弟子たちのために、イエスが周到に準備された「明日、十字架に架けられる」という「最後の晩餐」でした。 「シモン、シモン」と、この三年間、寝食を共にしてきたペトロに親しみを込めて呼びかけられます。 ここまで従って来た弟子たちの代表であるペトロに向って、イエスは「サタンが小麦のようにふるいにかける。 そのことを父なる神が聞き入れられた。」と告げたのでした。 聖書は、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と証言しています。 イエスはペトロに向って、「サタンが働きかけるのは、あなたがたである」と忠告されておられるのです。 小麦の収穫の時に、倉に納めるべき小麦であるのか、火で焼き尽くされ捨てられる小麦の殻であるのか。 この収穫の際に、神の働きを妨げようとするサタンが、霊的な力をもって弟子たちをイエスのもとから離れさせようとする。 あなたがたは、今、その危機の中にある。 明日、十字架の刑によって死を迎えるこの私の姿によって、サタンが私のもとからあなたがたを離れさせる。 あなたがたはすべてこの悪の霊の試みの中にある。 ですから、「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」と、弟子たちを代表してペトロにイエスは語ったのでした。 そのようなイエスのとりなしの祈り、切羽詰まった思い、懸命な姿があるにも拘わらず、弟子たちはこの食事の意味が分かりません。 弟子たちの内で、一番偉いのはだれかと話し合っていたと言うのです。 全幅の信頼を置いて従って来たそのイエスが、十字架にかけられて死んでしまうと言われても信じることができなかったのです。 だから、ペトロは「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と、サタンの試みの中にも、「私はあなたに従います」と宣言したのです。 そのペトロに、イエスは「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 そのうえで、「ペトロ、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われたのです。 イエスはもうすでに、ペトロの三度のつまづきを知って、赦しておられます。 イエスが、ゲッセマネの祈りを夜通し祈っている中でも、イエスのとりなしの祈りがあることさえ知らないで寝てしまったことも、ペトロはすでに赦されています。 イエスは、祈るべき時に祈ることのできない私たちに「信仰がなくならないように」と祈ってくださる。 従うべき時に従うことのできない私たちを赦して、立ち直ったら隣人を励ますようにと言ってくださる。 ペトロがイエスの様子を伺うために、目立たぬよう大祭司の家の庭で身を潜めていた時でした。 予測もしなかった女中のひと言で、イエスが予告した通り三度の過ちを犯した、その時でした。 ペトロは、振り向かれて見つめられたイエスの眼差しに出会いました。 そして、イエスの「三度私を知らないと言うであろう」、「信仰がなくならないようにと祈った」、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というみ言葉がよみがえってきたのです。 どうしても受け入れることのできなかった「惨めな、哀れなイエスの姿」を、「僕の姿、赦しと愛の姿」として、弟子たちの足を洗う姿とともに初めて受け取ることができたのです。 ペトロは、「信仰がなくならないように」というイエスの祈りに支えられて立ち上がりました。 大祭司の家の女中のひと言に脅えたペトロが、今度は、その大祭司の前で「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」とまで告白する者に生まれ変わりました。 イエスはそのままの私たちを赦し、つまずきから再び新しく創り変えてくださる、私たちを捨てておかれないお方なのです。
[fblikesend]「御心が行われますように」 マタイによる福音書 6章9~10節
イエスは愛する弟子たちに、「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。 御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と祈るように、教えられました。 「祈り」は、与えられる神の賜物です。 主イエスを通して、祈ることが赦されたものです。 この恵みのなかに、私たちはあります。 「わたしたちの父よ」と呼びかける私たちとは、誰のことでしょうか。 正しい者も正しくない者も、イエスを信じる者も信じない者も、そして私たちを迫害する者をも含む「わたしたち」です。 イエスが祈っておられるそのそば近くに呼び寄せられて、一緒にその祈りに導かれて祈る「わたしたち」です。
イエスは、先ず、「御名が崇められるように」、「御国が来るように」、「御心が行われるように」と祈りなさいと言われました。 私たちの生活のなかで起きてくる願いや悩みや悲しみがあるからこそ、その前に神に向けて祈りなさいと言うのです。 「主の祈り」の最初の三つの祈りは、後の三つの祈りがあるからこそ、先ず、祈るのです。 「御名を崇める」とは、主なる神以外に何ものも神としないという「信仰」の告白です。 「御国が来るように」とは、すでに始まっている神の国が成し遂げられるようにと強く待ち望む「希望」です。 「御心が行われるように」とは、天において成し遂げられている神の御心でもある「愛」が、この地の上にも同じように満ちあふれますようにという願いです。
イエスは十字架を直前にして、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われました。 そして、うつ伏せになって祈られたのです。 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 これがイエスの地上での生涯の締めくくりの祈りとなりました。 イエスはご自分の意志を行うためではなく、ご自身をお遣わしになった方の御心を行うために天から降って来たと、自覚されておられました。 そのことを、イエスは見失われた一匹の羊を用いて語られました。 父なる神は、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る。 そこに神の愛がある。 神の御心がある。 父なる神のもとに立ち帰る姿こそ、大きな神の喜びである。 神は喜んで迎え入れてくださると言われたのです。 「天におけるように、地の上にも」なのです。 御名が軽んじられている、踏みつぶされているからこそ、また自分を神とする者たちによって神などいないかのように支配されているからこそ、この地上を歩むキリスト者の姿を、主の祈りは求めているのです。 周囲の雑音に遮られることなく、御名を崇めて、父なる神の限りないご愛と真実に身をゆだねていくキリスト者の「信仰の姿」を祈り求めています。 天において実現している神の国が、今、この地上の世界にももたらされると待ち望むキリスト者の「希望の姿」を祈り求めています。 そして、自分を迫害する者のために祈ることができるようになる神の愛を果たそうとするキリスト者の「愛の姿」を祈り求めています。 神の霊が私たちにもたらす、この「信仰と希望と愛」がひとつの祈りとなって語られています。 イエスの大きなひとつの祈りが、三つの祈りの形となって祈られています。 この地上で、「御名が崇められる」、「御国が来る」、「御心が行われる」のは、このイエスの祈りに支えられた私たちの服従を通して成し遂げられます。 なぜなら、その願いを起こさせ、御心を果たされるのは、神ご自身だからです。 パウロは、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」(フィリピ2:13)と言っています。 私たちは、与えられた信仰によって、すでに「神の国」の喜びを持っています。 やがて完成した「神の国」を見ることを待っています。 ですから、私たちに与えられている務めは大きいのです。
「エレミヤの祈り」 エレミヤ書 32章16~25節
エルサレムの都はバビロンの軍隊によって襲撃を受け、ユダ王国の滅亡は決定的です。 「この都エルサレムをバビロンの王の手に渡す。 彼はこの都を占領する。 ユダの王ゼデキヤはバビロンの国の民、カルデヤ人の手から逃げることはできない。 ゼデキヤ王はバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう。」と、預言者エレミヤは主なる神から伝えられていたのです。 ですから、この預言の通りに語っていたエレミヤは、ユダ王国の王の宮殿の中にある獄舎に拘留されていたのです。 そのような状態の中にあったエレミヤに臨んだ主の言葉が、「エルサレムの北に位置するアナトトという先祖伝来の畑を銀で買い取り、その購入証書を封印し、器に納めて長く保管せよ。」という、不思議なみことばでした。 エルサレムが包囲され、今にも陥落し、自分たちの領地が敵であるバビロンに占領されようとする時です。 アナトトの地とは、バビロンの軍隊が進撃する通り道です。 いったい何のために、そのような愚かな、常識はずれなことをするのかと問いたくなるものでした。 しかし、エレミヤは真剣です。 創世記のノアと同じです。 主が、「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」と言われたからです。 今は分からないが、主のみこころ、意志がそこにあると感じ取ったからです。 エレミヤは、自分の目の前にある絶望的な状態と、主が伝えるこの不思議な約束の希望のはざまに立たされました。 バビロンの軍隊を遣わしてユダ王国を滅ぼし、壊し、砕こうとされる神と、アナトトの土地を購入させて、再び立て直し、回復させようとする希望の神に出会ったのでした。 ですから、エレミヤは真剣に祈ります。 それが、今日の箇所の「エレミヤの祈り」です。
エレミヤは、天と地を創り出した主なる神は、災いをもって壊し、砕き、戒められる神であると同時に、恵みをもって再び造り直される神であると祈ります。 エレミヤの信頼する神は、恵みを与え、信頼する者を祝福される赦しの神であると同時に、「その謀は偉大であり、御業は力強い。 あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。」という裁きの神であるとも祈ります。 このユダ王国の滅びも、エルサレム神殿の崩壊も、神のみこころである。 すべてを見通され、罪に妥協しない神は、再び、私たちを赦して回復させてくださる創造の神であると、エレミヤは希望をもって祈っています。 16節に、「購入証書をネリヤの子バルクに渡したうえで、主にこの祈りをささげた」と書かれています。 エレミヤの祈りは、不平や不満の祈り、主に対する願いでもありませんでした。 まさに、絶望のただ中にあるこの時に私に命じられたご命令を果たしましたと叫んでいます。 すべてをゆだねて、その約束の希望にかけて待ち望む覚悟を叫んで、祈っています。 主なる神への揺るがない信頼に立った、真剣な訴えの祈りに聞こえます。 主は預言された通りにすべてを破壊されました。 「それにもかかわらず」、残された者を、この地に連れ戻し、回復させる。 人が戻り、回復される時が必ず来ると言います。 残された者とは、この神の裁きを受けて赦された者です。 神の裁きに遭って、悔い改め、心砕かれた者です。 神の裁きを通って赦された者が、その回復の恵みに与かると言うのです。「幸い」も「災い」も、すべて神のもとから出てくるものです。 神は、「幸い」も「災い」からも、恵みを与えてやまないお方です。 私たちを打ち砕き、壊すお方でもありますが、放蕩息子を迎える父親のように、再び赦して、帰らせ、住まわせてくださるお方でもあります。 エレミヤの祈りは、絶望の今をしっかりと見つめて、将来に向けて祈っています。 私たちもまた、この厳しい現実の中において、将来に向けてこの揺るがない希望を祈って参りたいと願います。
「生き方が変えられる」 ヨハネによる福音書 3章1~15節
ひとりの金持ちの男が、これから旅に出ようとしたイエスをわざわざ引き止めて走り寄ってきました。 そしてひざまずいて尋ねたのです。 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 彼は親から教え諭されたように、幼いころから律法が求めるすべての戒めを守ってきました。 そのお蔭で、今の生活は祝福されたものであったのでしょう。 しかし、これで本当に、これから迎える来たるべき時に、神から祝福を受け取ることができるのだろうかと、その確信をもつことができなかったのでしょう。 彼は、イエスのなさなった多くの不思議な業に驚かされました。 権威をもって語られるそのみことばに心動かされました。 このような業を起こすお方は、このような教えを語るお方はきっと、神に遣わされたお方だろうと確信をしたのでしょう。 ですから、走り寄って来て、ひざまずいて訴えたのです。 イエスは彼を見つめて慈しんで答えられたのです。 「あなたに欠けているものがひとつある。」 今、あなたがもっている、あなたがしがみついている「自分」から離れなさい。 「そうすれば、天に富を積むことになる。 それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。
今日の箇所でも、同じようにニコデモという人物がイエスのもとを、人目を忍んで訪れています。 「あなたが、神のもとから来られた教師であることを知っています。 神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言うほどまでに、イエスに心酔しています。 そのニコデモに、イエスは、「はっきり言っておく。 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 二人とも、イエスの行ったしるし、奇跡に感動しました。 しかし、同時に、自分のもっているもの、自分の立っている場所に、囚われる者でありました。 まさに、古い今の中に安住する「自分」と、この新しい教師に従って行こうとする「自分」の間で思い悩む人物の象徴でした。 イエスは、生まれながらの命とは別の新しい命を、神のもとからいただかなければ、神の国を見ることも、入ることもできない。 「自分」を離れず「自分」に頼る限り、永遠の命に至ることはない。 「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と告げられたのでした。
水によるバプテスマは、今まで頼みにしてきた「自分」を葬り去ることでした。 キリストのよみがえりの新しい命に与かることへの「新しい旅立ち」でした。 私たちは、何かが分かったから踏み出したのでしょうか。 霊に導かれて、押し出されて、主イエスのふところに無心に飛び込んだのではないでしょうか。 この霊の働きを、私たちは見ることも説明することもできません。 しかし分かっていることは、今までの私たちを神が無条件に赦して、受け入れてくださったから新しい出発をすることができたことです。 金持ちの男が手放すことのできなかった「自分の持ちもの」、ニコデモが離れることのできなかった「自分の立場」、これらから解放されて、自分が空っぽにされて、貧しくされて、この「霊」を受け入れ、身をゆだねていく。 これこそ、自分が葬り去られて、「霊」の風に吹かれて、ただ神の憐れみと恵みだけに委ねて歩む人生ではないでしょうか。 私たちの小さな生涯に、神は突然入って来られました。 この新しい出発は、神の呼びかけに促されて、神のみこころに沿って向かって行く旅です。 そのために、新しい命と神の国を用意してくださったのです。 私たちのためではありません。 神ご自身のためです。 この神の国に入る者、新しく生まれ変えられた永遠の命を与えられた者とは、この神の「霊」によって生まれた者、神の「霊」と共にある者、神の「霊」に持ち運ばれる者、この幸いに導かれた者です。
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