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「教会の務め」  エフェソの信徒への手紙 1章3~14節

2016-02-28

 「わたしは福音の使者として鎖につながれています」と、この手紙で自己紹介しているパウロは牢獄の中にありました。 神を呪ってもおかしくない、また教会の人びとに助けを求めてもおかしくないそのパウロが、神に向っては「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と、神への賛美を訴えています。 そして、教会の人びとに向っては、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、「神の祝福」をこの手紙の書き出しで述べています。 「神の祝福」は、自分たちだけで発見したり、見つけ出したりできるものではありません。 パウロは、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」ものであると言います。 どうしようもない傷のある者、汚れたままの者、死ぬべきはずの者が神が前もって定められた通りに、そのままの姿をもって選ばれて受け入れられる。 そして、その傷が癒され、汚れが拭い取られ、死ぬことのない者へとよみがえらされる。 御心のままに、神の子の身分を授けられるとパウロは言います。 私たちは、父なる神のご計画によって、その意志によって、イエス・キリストを通してあらかじめ選ばれ、集められ、この世から取り分けられた者です。 この一方的な神の恵みのうちに召し集められた者の群れこそが、教会です。 その集められた理由が、この「与えてくださった神の恵みをたたえるため」なのです。 父なる神の栄光をたたえる務め、神を賛美する務めが、私たち教会の群れに託されているのです。
 教会は、エクレシアという言葉で言い表されています。 「呼ぶ」という言葉と、「外へ」という言葉が合わさった言葉です。 「呼び出された者の集まり、召し出された者の集まり」という意味です。 その召し出された者たちは、神に向ってはその栄光を賛美するため、礼拝し、仕え、ささげ、祈るために選ばれて集められたのです。 一方、すべての人びとに向っては、神の御心、神の業を伝えるためにイエス・キリストのもとに集められたのです。 このイエス・キリストを運ぶために召し出されたのです。 私たちの言う「礼拝と宣教」とは、まったく一体となったものなのです。 ですから、私たちが本当に神のみ前に出て、恵みに満たされ、感謝と喜びに溢れ、心から礼拝をささげていることこそ本当の宣教なのです。 そのために、「神は恵みをわたしたちのうえにあふれさせて」くださった。 「すべての知恵と理解とを与えて」くださった。 「秘められた計画をわたしたちに知らせて」くださったとパウロは言います。 パウロの言う「秘められた計画」とは、頭であるイエス・キリストのもとに一つにまとめられることです。 それは「神の栄光をたたえるため」である。 そのために選ばれて、聖霊という「神の国を受け継ぐための保証」の印鑑まで押されて、神の恵みを待ち望んでいる人々の所に遣わされていくことである。 自分たちと同じように、イエス・キリストとのつながりに生きるようにと、イエス・キリストを運んでいくことである。 自分たちの姿がたとえどのようなものであったとしても、神によってそのままの姿でもって用いられることであると、パウロははっきりと語っています。 ザアカイの救いが、ザアカイの家族の救いの始まりとなったように、神の恵みに対する私たちの感謝と喜びが家族に、またその周りの人たちに届き、ともにこの神の恵みに与かるようになるのです。 そのために、私たちは召し出されて集められたのです。 ですから、私たちのささげる礼拝には、まだ神をたたえることを知らない人々に対する「とりなしの務め」があります。 そうした人々を代表して、私たちは礼拝をささげているのです。 ですから、救われた喜び、祝福の恵みにつき動かされてささげる賛美と祈り、その礼拝こそ遣わされていく宣教となっていくのです。



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