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「神に向っての旅」  フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節

2016-02-21

 パウロは、「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです」と告白しています。 このパウロは、今、牢獄に捕らえられています。 そして、涙ながらにこの手紙で訴えています。 その理由は、牢獄の中に閉じ込められている不自由な自分の身を嘆いているのではありません。 「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」から悲しんでいます。 パウロにとっては、キリストの十字架に生きているのか、それともキリストの十字架に敵対しているのかだけが問題なのです。 十字架の救いなど、自分にとって何のかかわりもない。 十字架を意味のないものと思っている。 十字架に目を向ける必要もないし、また価値をも見出すことができない。 そういう人たちが多いと嘆いているのです。 パウロは当時の社会の中で確固たる地位を得ていた人物です。 しかし、衝撃的なよみがえられたイエスとの出会いによって、この世でもてるすべてのものを失いました。 挙句の果てに、牢獄に閉じ込められ、イエスの故にその自由まで失いました。 しかし、パウロは言います。 たったひとつ、イエス・キリストを知った。 イエス・キリストの復活の力を知った。 よみがえられたイエス・キリストの命だけを得ることができたと言うのです。 「万物を支配下に置くことさえできる力によって」、「わたしのこの卑しい体を、イエス・キリストと同じ栄光ある体に変えてくださる」 その復活の力を知ることができた。 死者からの復活という希望を願い求めるようになったと告白しているのです。 本当の救いは、もはや、苦しみや悲しみがなくなるようなものではない。 苦しみや悲しみの中にあっても、このイエス・キリストの復活の命に結びつけられている。 支えられている。 死に向って、この世の救いを求めているのではない。 生きるために、イエスの命に与かって、イエスがおられる国、約束された故郷を目指している。 その確信に生きることができるようになったその喜びの叫び声が、「わたしたちの本国は天にある」という言葉です。 私たちは地上のどこかに属していながらも、神の国に属する者であるとパウロは言うのです。 
 誰が見ても不運としか思えない自身の姿をもってパウロは、フィリピの教会の人たちを励まします。 私の弱々しい姿を見てほしい。 この弱さの中にこそ、イエス・キリストの十字架の恵みを喜んでいる姿を見てほしい。 「皆一緒にわたしに倣う者になりなさい。 わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と言います。 神のもとに向って歩んでいる旅人の集まり、「皆一緒に」です。 赦された喜び、愛された喜びを知った者どうしです。 絶望しかないと思われたこの世に、よみがえられたイエス・キリストがともにおられるところがある、神の国が始まっている。 神と私たちの間にかけられた「イエス・キリストの十字架の道」 「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われた、このイエス・キリストの十字架の道。 これ以外に、神の国に入ることができない。 私たちは一緒に、このお方を待ち続けて同じ道を辿る旅人であると言っています。 「キリストと共に、旅人と共に」、そしてもうひとつ、パウロは「キリストによって」と言います。  「自分で」ではない、「行い」によってでもない。 「キリストによって」しっかりと立ちなさいとパウロは励ましているのです。 この旅の交わりにお誘いする。 呼びかける。 その喜びを証しする。 これが、私たちに求められている宣教です。  



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