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「土の器から溢れるもの」  コリントの信徒への手紙二4章7~15節

2016-02-14

 パウロはよみがえられたイエスに出会い、そのみ声に従い、その福音を伝える務めを直接いただきました。 そして、あらゆる困難を乗り越えて異邦人伝道に奔走し、この手紙の送り先のコリントの教会も含め数々の教会を立ち上げました。 パウロにとってみれば、自分の子どもたちのような群れであったのでしょう。 こうしたパウロの働きを喜ばないエルサレムの教会が、コリントに巡回伝道者を遣わして、「パウロは自分たちの推薦状をもった使徒ではない。 パウロの語る福音は、承認を得られていない」と動揺を与えたのです。 コリントの教会の人たちは、パウロに疑いを抱き始め、パウロから離反し始めたのです。 しかし、パウロは決して落胆しません。 「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」と反論します。 パウロは、エルサレムの教会が言うように、話がつまらない、知識も見劣りがする、弱々しいなど、いろいろなことを言われたのでしょう。 実際にそうであったのかもしれません。 しかし、パウロは怯みません。 「私は、自分について語っているのではありません。 よみがえられたイエスについて語っているのです。 ですから、四方から苦しめられても行き詰りません。 途方に暮れても失望しません。 虐げられても見捨てられません。 打ち倒されても滅ぼされません。」と訴えます。 パウロの苦難には、投獄されたこと、鞭で打たれたこと、石を投げつけられたこと、飢えや渇きなど肉体に関することだけでなく、「日々わたしに迫るやっかいなこと、あらゆる教会についての心配ごと」も含まれています。 このコリントの教会の心配ごとも、そのうちのひとつでした。
 パウロの使徒としての務めは、エルサレムの教会の推薦状によって与えられているのではない。 よみがえられたイエスから直接いただいたものであると訴えているのです。 その務めをパウロはここで「このような宝」と表現します。 この「宝」のことを、「並外れた偉大な力」と言っています。 この「宝」が、神の福音のために選び出され、召されたこの「土の器」に納められていると言います。 確かに、パウロは持病があり、弱さやもろさをもった人間です。 そのような偉大な力を受けるにふさわしくない、どこにでもある土くれから造られる存在であるのかもしれない。 しかし、それでも神が造られたものである。 その弱い、ふさわしくないこの私に預けられているのは、神のもとからくる「宝」、「並外れた偉大な力」である。 それが、その「土の器」の穴や綻びや傷口からこぼれ出る。 大事なものは器ではない、その中に入っているものである。 「土の器」から溢れ出てくるものが大事であると、パウロは言います。 私たちは、「土の器」であることを嘆き、悲観します。 しかし、パウロはそこによみがえられたイエスの福音、「宝」があるなら、「土の器」は「土の器」でありながらも用いられる。 「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」この「土の器」は、イエスの命が現れるためである。 自分が今、死にさらされているのは、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためである。 苦難に見えるこの「土の器」の生涯の中で、イエスの命を表す務めが果たされることになる。 私はそのために選び出され、召された者である。 それによって、イエスの福音を信じる者が、イエスの命に生きるようになる。 それが、「土の器」の歩みであるとパウロは言います。 「主イエスを復活させた神が、イエスとともにわたしたちを復活させる。 そして、あなたがと一緒に御前に立たせてくださると、わたしは知っています。」という希望に、パウロは立っています。 「だから、わたしは落胆しません。 たとえわたしの外なる人は衰えていくとしても、わたしの内なる人は日々新たにされていく」と、パウロは確信しています。



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