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「格闘する祈り」  創世記32章23~33節

2016-02-07

 ヤコブは、族長イサクの双子の兄弟の弟として生まれました。 ヤコブは、父イサクの目がかすんできたことをいいことに、兄エサウの家督の権利と父からの祝福をだまし取ったやましい過去を持っていたのです。 そのことを知った兄エサウは、「必ず弟のヤコブを殺してやる。」と怒りをもっていました。 この争いに、なんと20年もの月日が経っていたというのです。 そのヤコブに「あなたはあなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。 わたしはあなたと共にいる。」という神の言葉が臨んだのです。 ヤコブは、かつて激しい兄の怒りを避けるために伯父のところに20年間も耐えて身を置いていたのです。 この神の約束の言葉を受けながらも、兄の激しい怒りをかわすことに自らの知恵と持ち物の限りを尽くして、ヤコブは手立てを講じたのです。 
 神は、一時的な繕いに奔走する私たちの動きを敢えてとどめ、根本的な解決のために立ちはだかってくださいます。 私たちの妨げとなり、現状にしがみつく私たちを徹底的に砕くまで辛抱強くかかわってくださいます。 その時に初めて、もう神にすがるしかないという「祈り」に私たちはやっと到達するのではないでしょうか。 いつまで経っても人への恐れに苛まれるヤコブは、「あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。 ただ、兄が恐ろしいのです。 兄は攻めて来て、わたしを始め母も子どもも殺すかもしれません。 どうか、兄エサウの手から救ってください。」と祈ります。 そして、ついに、すべての人事を尽くして、恐ろしい川の渡し場を無事に、妻や子どもたち、持ち物すべてを渡らせたことを確認して、なぜかヤコブだけがその川の渡し場に残っていたのが今日の聖書箇所です。 
 「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。 兄エサウの怒りに直接向き合わなければならない所に、導き出されたヤコブでした。 人事を尽くしても何かが足らないと、そこにひとりで留まったヤコブがどうしても通らなければならない最後の備えを、神が用意されたのです。 この「何者か」は、神ご自身です。 今から迎えるであろう兄の怒りを前にして、どうしても受けなければならなかった神の挑戦、神が始められた闘いです。 ヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません」とその神にしがみつきます。 このヤコブが願った祝福は、自分勝手なものであったかもしれない。 しかし、この闘いは神によって始められた、神が備えて挑んでくださった格闘です。 夜明けまで続いた徹底した闘いでした。ヤコブは、神の名前を聞いて神を自分の手の中に納めようとしたが、それは叶わなかった。 逆に、ヤコブは自分が歩くために大切な「ももの関節」を砕かれた。 ヤコブがこの闘いから得られたものは、ただ「イスラエル」という新しい名前だけでした。 ヤコブという「押しのける者、乗っ取る者」という古い名前から、「神が支配される、神が守られる」という新しい名前「イスラエル」が与えられ、祝福された。 この体験をしたヤコブに、夜が明けて太陽が彼の上に登ったと書かれています。 ヤコブが願っていたものではなかったけれども、新しい名をもって神の赦しが与えられた。 ももの関節を砕かれ、自分勝手に歩き回ることもできなくなり、兄エサウと戦うことも逃げ出すこともできなくなったけれども、自分の才覚と冨の限りを尽くして備えるヤコブがついに、神以外に頼るものがなくなるまで変えられた。 これが、神の働き、神の備えでした。 かつての自分が砕かれて、新しいイスラエルとして歩み出した「よみがえりの朝」をヤコブは迎えたのです。 私たちもまた、イエス・キリストの十字架によって、新しいイスラエルの名を与えられました。 主イエスは祈ってしがみついて、私たちに替わって神との格闘を成し遂げてくださって、私たちに祝福が与えられたのではないでしょうか。



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