秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「方向転換の呼びかけ」  ルカによる福音書13章1~9節

2016-01-31

 イエスが群衆といろいろなお話をしている「ちょうどそのとき」です。 何人かの人が来て、イエスにふたつの出来事を知らせます。 ひとつは、ローマの総督ピラトがガリラヤ人を殺したということでした。 ガリラヤには熱心党という、ローマからの独立を掲げていた激しい集団がありました。 ピラトがローマ兵を用いて、ガリラヤからエルサレムの神殿に訪れている巡礼団に危害を加えるということがあったとしても、決しておかしいことではありません。 ガリラヤの人たちがそのような目に遭ったのは、何か罪を犯したからではないかと人々は批判していたのでしょう。 もうひとつの出来事とは、シロアムの塔が倒れて18人の人が犠牲になったということでした。 ピラトは、ユダヤで新しい用水路をつくろうとして、シロアムの池から水を引こうとした。 その工事の費用を、神殿にささげられた献金から捻出させようとしたと言われています。 そのようなローマの工事に協力したから、犠牲となった者たちは「神の罰」に遭ったのだろうと思ったのでしょう。 それに応えたイエスの言葉が、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。」 「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。」というものでした。 イエスは、人ごとのように語っているあなたがたも、この災難にあった人たちと同じである。 あなたがたが「罪を犯したからだ」と言っている人たちと同じであると言い、自らの姿に目を向けさせます。 「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語り、「実のならないいちじくの木」の譬えを語られたのです。 私たちは、正しい行いをしていれば滅びることはないという自分自身の正しさにしがみついています。 神の前で、自分の本当の姿を立たせることを恐れることがあります。 躊躇することがあります。 自分が神の前にどのような存在であるのか、そのことを棚に上げて、「あのガリラヤ人たちは」、あるいは「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は」と見ている自分があるのです。 イエスは、そのままでは、人は等しく神の前には、主のもとを離れた滅ぶべき存在である。 神の恵みなしには救われないと、イエスは言います。 
 三年もの間、「実のならないいちじくの木」をイエスは譬えで語ります。 そのいちじくの木は切り倒されることもなく、そこに植えられたまま赦されていた。 いちじくは、ユダヤの象徴です。 実を結ぶようにと、三年間も時間が与えられた。 まさに、イエスの公の生涯、十字架にかけられるまでの時が与えられたのに、実を結ばない。 「切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と語るいちじくの木を植えた主人に、園丁が頼みます。 「今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」と執り成します。 この園丁こそ、イエスご自身です。 そして、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と、自ら、その責任すべてを担って三年の公の生涯を終えて、十字架にかかってくださいました。 このイエスの復活後、弟子たちの新しい出発によって多くの実がなったのでした。 「決してそうではない」と責任や原因を求めない主イエスが、私たちの将来に向けて呼びかけます。 ただ父なる神の憐れみにすがるよう、神への信頼をもって、恐れないで神の審判の前に進み出るよう、そこには私がいると呼びかけておられます。 その声がする方に向きを直すこと、そのことを「悔い改める」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。 方向を向き直す「決断」を、ふさわしい時と場所で、主イエスは今日もなお私たちに呼びかけておられます。



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