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「迎えた新しい時」 ルカによる福音書5章33~39節

2016-01-10

 イエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。 イエスがこの地上に来られた理由は、病人をいやすためである。 罪人の過ちを赦して、神の国に招くためである。 救いを得させ、生きる力と希望を与えるためである。 そのために、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のでした。 イエスは、そういう新しい国がすでに訪れている。 新しい時代がすでに到来したと言っておられるのです。 そのような時が訪れるとは予想もしないファリサイ派の人びとや律法学者たちは、イエスやイエスの弟子たちのその姿につぶやきます。 「私たちは度々断食し、祈りをしている。 なのに、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしている。」 戒めに縛られない自由奔放な姿に我慢ならないファリサイ派の人びとや律法学者たちに、イエスは答えます。 「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることができようか」 「婚礼」は、町や村を挙げての「喜びの時」でした。 断食の定めからも、その時だけは解放されたと言われています。 今は、花婿が訪れた新しい時である。 婚礼の客にとっては、花婿が一緒にいるということが「喜び」である。 神の国とは、「婚礼」の花婿とともにいる、喜びに満たされる時である。 その喜びを、分かち合う時である。 この新しい時代に、新しい国に、今、私の弟子たちは生きている。 その喜びに満たされて、私と共に食卓についていると、イエスは告げられたのです。 
 加えてイエスは、この新しい時代が到来したのだから、もう古い生き方では生きていくことはできない。 「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。」 新しい時代には、新しい生き方がある。 「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。 そんなことをすれば、新しいぶどう酒は古い革袋を突き破って流れ出し、その革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と言われました。 イエスは、断食や祈りを否定されたのではありません。 神のみ前にひざまずいて、食を忘れて祈る大切さはあるでしょう。 しかし、断食し、祈り、その果てに新しい「神の国」があるのではない。 もうすでに、神の恵みと憐れみだけによってこの地上に到来している。 そこでは、過去のしがらみから解放されて、一切の罪が赦されて、喜びと希望と感謝のうちに生きる者とされる。 ですから、イエスは「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と言われたのです。
 このたとえの直前に、三人の人物の「いやし」の事実が語られています。 「重い皮膚病を患っていた人」と「中風を患っている人」と「レビという徴税人」のことです。 御心ならばとイエスのみ前にひざまずき、自分を捨てて委ねたひとりの病人に、恵みの時が到来しました。 なんとかしてイエスに遭わせようとした友人たちの信仰がイエスの目に留まった時に、その病人とその友人が喜びを分かち合う時が到来しました。 イエスのみ言葉を受け容れて、「何もかも捨てて立ち上がって従った」時に、徴税人であった過去を赦される新しい時が到来しました。 それぞれに新しい時が、ふさわしく到来しました。 私たちの姿は何ら変わらなくても、この新しい恵みの世界に入ることによって、神との交わりの中に自分の身を置き続けていることによって、新しい時がそれぞれに訪れる。 ですから、イエスは自分で自分を変えようと努力する必要はない、すでに「あなたがたは地の塩である。 あなたがたは、世の光である。」 「塩」という味も、「光」という輝きも、すべて神の恵みの世界にたたずむ者に与えられる。 ですから、あなたがたは「地の塩に、世の光に変えられる。 あなたがたは地の塩、世の光になっている。」とイエスは言われているのです。



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