秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「パウロの語る信仰、希望、愛」 テサロニケの信徒への手紙一1章2~10節

2023-09-17

 パウロたちは、アジアからエーゲ海を渡ってフィリピ、テサロニケへと現在のギリシャに入って行きます。 ヨーロッパ宣教の始まりです。 テサロニケの信徒への手紙は福音書が書かれる前のパウロが書いた最も古い手紙だと言われています。 テサロニケでの宣教は、ユダヤ人の会堂で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 ユダヤ人もギリシャ人もない。 奴隷も自由な身分の者もない。 男も女もない。 イエス・キリストにおいて一つである。」と語り始めたものですから、大変な反発を招いたことは容易に想像がつきます。 ここから多くのユダヤ教からの改宗者が出たことから、ユダヤ人たちは妬み、暴動を起こしてパウロたちを追い出したのです。 しかし、生まれて間なしの教会は、ユダヤ人の会堂から個人の家の教会に移り、多くのギリシャ人、女性たちがパウロたちの伝えた福音に従ったと言います。 指導者たちを失ってしまった何も整っていない生まれたばかりの教会の群れが、蒔かれた種のごとく順調に育っている。 そのことを聞かされたパウロは、「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。 私たちは、神のみ前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。 この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」と言うのです。 この感謝の捧げものが、喜びと感謝にあふれたこのテサロニケの信徒への手紙なのです。 パウロの語った有名な「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。 その中で最も大いなるものは愛である。」(コリントⅠ13:13)という言葉の原形がこの手紙の3節に表されています。 「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めている。」と言います。 「信仰」に働きを、「愛」に労苦を、「希望」に忍耐を加えているのです。 「信仰によって働く」とは、神の側からの一方的な恵みに、私たち人間の側が応えるということでしょう。 神の恵みが注がれた者は内に働くものが溢れ出て、それに応えた生活、生き方を通して福音の恵みを伝えていく、分かち合うはずだと言います。 「愛のために労苦する」とは、愛の対象である人の重荷を一緒に担っていくということでしょう。 このような私の重荷を主イエスが背負ってくださったのだから、もう一人の私、隣人にも注がれている愛を分ち合っていくということです。 自分に注がれた「愛」をもって「愛する者」をもつことの喜びが語られているのです。 「希望をもって忍耐する」とは、「イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。 イエスを信じたばかりに誹謗中傷に遭っているテサロニケの教会の人たちが、目に見える現実の希望ではなく、終わりの日、イエスが再び現れ救いを完成してくださる時に必ず報われるという希望に生きている。 神ご自身がイエスを通してずっとご覧になっていてくださって、捉え続けてくださっている。 その「証し」が成し遂げられるまでの時の流れを歩むことを「忍耐」という言葉で表しているのではないでしょうか。 神と人との垂直の関係、人と人の水平の関係、私たちが歩んでいる歴史上の時の流れと神の秘められた計画のうちにある救いの時の流れの関係、この三つの座標軸に、福音を信じる者とそれを拒む者との違いがはっきりと見えてくる。 この三つの方向性は、同じ一つの力、聖霊の導きによって果たされるものです。 主イエス・キリストに結ばれているところからあふれ出てくる「信仰、希望、愛」が、この地上においても現れ出てくる。 この座標軸の源はイエス・キリストご自身であり、この地上と神の国は結ばれているのです。 そこに、主イエスに結ばれた「信仰、希望、愛」の姿が生まれ出てくるとパウロは語るのです。

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「パウロが語る信仰者の姿」 コロサイの信徒への手紙4章2~6節

2023-09-10

 パウロは、コロサイの教会が異質な福音の教えに惑わされ混乱していると、教会の創立者エパフロスから聞いて、「そのことを聞いたときから、わたしたちは絶えず、あなたがたのために祈り願っています。 人間の言い伝えに過ぎない哲学、世を支配する諸霊に気をつけなさい。」と概ね三つの祈りをもって語り始めます。 最初の「祈り」は、「霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟るように。」(1:9)と祈ります。 先ず、神の御心を知ること、神ご自身を悟ることだ。 神の起こされる事実から味わい知った最高の知恵と理解を知ることだ。 「主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(1:10)と言うのです。 二つ目の「祈り」は、「神の力に従い、強められ、どんなことにも根気強く耐え忍ぶように。」(1:11)と祈ります。 数々の重荷や十字架、試練に耐えるところに、神の業は鮮やかに働く。 神の知恵と力がどれほど素晴らしいものであるかを体全体をもって知ることになると言うのです。 三つ目の「祈り」は、「喜びをもって、あなたがたが恵みに与れるようにしてくださった御父に感謝するように」(1:12)と祈るのです。 御子イエス・キリストを通して成し遂げられた御父の救いの業、「世の初めから代々に渡って隠されていた秘められた計画」(1:26)が明らかになって、その救いの業を受け取って感謝するようにと言うのです。 この三つの「祈り」の根拠を、「あなたがたは神に選ばれ、神に愛されている」(3;12)からだ。 「あなたがたが、主イエス・キリストを受け入れた」(2:6)からだと言うのです。 神の側の働きと私たち人間の側の応答と決断が相俟って、隠されていた「秘められた計画」が明らかにされた。 だから、「キリストに結ばれて歩みなさい。 イエスによって父である神に感謝しなさい。」と祈り、この手紙の最後のまとめの「勧めの言葉」として集約しているのです。 先ず、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」と言います。 「目を覚まして」とは、キリストがはっきりと見えるように、見失わないように、見えるこの世の力に目を奪われることなく、霊の目と耳が開かれるようにということでしょう。 「ひたすら」とは、生活の節々で、どんなことでも祈り続けるということでしょう。 パウロは、「同時にわたしたちのためにも祈ってください。」と、互いの「祈り」の助けを求めるのです。 次に、「神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。」祈りなさいと言います。 御言葉を受け取るだけでなく、御言葉を語ることができるように。」「神が門を開いてくださるように」と祈りなさいと言うのです。 本来、神のみ言葉を語るということは、人間にとって神の働きがない限り不可能なことです。 「語る」ためには、「聞く者」に対する祈りが必要です。 神のみ言葉を最初に聴かなければ語ることができません。 一方で「語る者」に対する「聞く者」の「祈り」が必要です。 「祈り」が一体となって、礼拝が深められ、外に向かって「宣教」が動き始めるのではないでしょうか。 私たちは、神御自身をすべて理解し、すべて受け入れることができず、受け入れやすいものに置き換えてしまう未熟さや弱さや貧しさをもっています。 「語る者」の唇からそれらは取り除かれなければなりません。 しかし、そのような私たちを、神は忍んで語りかけ、私たちの応答を待っておられるのです。 決して、神は強制などされないし、断罪などなされない。 私たち人間に選び取る決断の自由を与えて、待っていてくださるのです。 パウロは、コロサイの教会の人々に、この世に生きる喜びと苦しみと死を超えた希望がすでに与えられていると、神への信頼の中に感謝と喜びをもって生きるようにと祈っているのです。

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「終わりから始まる新しい生」 マタイによる福音書27章57~66節 

2023-09-03

 イエスが十字架上で息を引き取った後の週の初めの日の復活のわずかな間の、イエスが「葬られる」という埋葬とそれにともなう人間の姿が織りなす聖書箇所です。 イエスは人間として、この地上での働きの終わりを迎え、やがて迎えるはずであった将来が「葬られた」のです。 この箇所の主役は、無言のまま葬られたイエスです。 脇役に、金持ちで、ユダヤの最高法院の議員であったというアリマタヤ出身のヨセフが登場します。 イエスの遺体が納められていた「墓の方を向いて座っていた」ふたりのマリアも登場します。 このふたりの女性が、週の初めの日の早朝の復活の出来事の重要な生き証人となるのです。 また、イエスを邪魔者としてきた祭司長たちとファリサイ派の人たち、ローマ総督ピラトや番兵たちも登場します。 ここに一切登場しない、一言のセリフもない死者となって葬られたイエスが、すべての脇役たちを動かしている。 この地上の存在を失ってしまったイエスが、この世の人たちをそれぞれに用いているように思わされるのです。 
 アリマタヤのヨセフは、「神の国を待ち望んでいた」が「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していた」と言われています。 イエスの弟子として公然とイエスに従った多くの弟子たちが、十字架の処刑後には雲散霧消のごとく逃げ去ってしまってここに登場しない姿が浮かび上がってきます。 アリマタヤのヨセフは彼らとは真逆に、意を決して立ち上がるのです。 ユダヤの国からは異端者および神を冒涜する者として、ローマの国からは反逆罪による十字架刑による最も重い死刑判決を受けたイエスです。 そのイエスの遺体を引き取って、埋葬するために渡してくれるようにとローマ総督ピラトに申し出た。 自らが用意していた「新しい墓」にユダヤの慣習に従って丁寧に収めたと言うのです。 イエスの弟子であることをひた隠しにしてきたヨセフが変えられて、公然とイエスの弟子であることを表すまでになった出来事であった。 ただ悲しみに包まれて墓の方を向いて座っていただけのふたりのマリアもまた変えられて、イエスの遺体を納めた場所を見届け、更に「イエスの遺体が埋葬された墓」が「空の墓」となったことの最初の証言者となった。 思い通りの展開となって安堵感に浸っているはずの祭司長たちやファリサイ派の人たちは、イエスが復活するかもしれない、イエスの弟子たちが遺体を盗んでイエスが復活したと言いふらすかもしれないと、イエスの亡き後もイエスを恐れ、埋葬の警備を企み脅えていたと語るのです。 私たちの現実の姿は、意気消沈してバラバラに逃げ去った多くの弟子たちの姿、言い知れぬ悲しみと失望を乗り越えて埋葬を申し出たヨセフの姿、過去の方だけにしか目を向けられないふたりのマリアの姿、企みのうえに企みを重ねて不安と危惧に脅える祭司長たちの姿でしょう。 「復活」は死んで生きるということです。 自らの作り話で飾る者の隠されたものがすべて明らかにされる。 今までとは違った道を歩もうと一歩踏み出した者に変えられる。 逃げ去った者が再び取り戻されようと準備されていく。 失望が失望のままで終わらない。 人間の小賢しい企みはその思い通りには終わらない。 すべては、これから起こる復活の朝に明らかにされる。 そのためのイエスの葬りであったとマタイは「葬られた」事実と、隠された父なる神のご計画を記すのです。 ヨセフやふたりのマリアたちの悲しみも葬り去られなければならない。 敵対する者の墓の警備も、祭司長たちの不安も打ち砕かれなければならない。 すべての人びとの救い主となるために、この地上で葬られなければイエスは神の国に立ち戻ることができなかったのです。 その出来事の証言者として、ヨセフもふたりのマリアも祭司長たちやローマ総督や番兵も用いられたのです。

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「キリストに結ばれた神の子」 コロサイの信徒への手紙2章6~15節

2023-08-27

 コロサイの教会の問題は、教会の人たちの信仰の中味の問題であったようです。 信仰の核心部分と枝葉の部分、神さまの働きの部分と人間の働きの部分が混ざり合って、信仰の核心部分がぼやけてしまっている。 そのことに気づいていない、気づいていたとしても成り行きに任せてしまっているところにパウロの危機感があったようです。 パウロは、「人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と言います。 「哲学」と言いますから、洗練され、分かりやすく説明されていたのでしょう。 むしろ、人間の欲求に見事に応え、受け入れやすいものであったのでしょう。 「実態、本質」を、人間の造り出したもので飾って、装って、隠して、見えなくしてしまう。 見たくもない、聴きたくもない「実態、本質」に目や耳や心を閉ざし、受け入れやすいものだけを簡単に受け入れてしまうのです。 パウロは、「上にあるものを求め、心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 むなしいだまし事は、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」と言います。 キリストとそれ以外のものを一緒にしてはならないその理由を、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と言います。 この言葉には、様々な信仰告白が含まれています。 ナザレの人イエスを自分たちの「主」とした。 人間イエスを「キリスト、救い主」とした。 「キリスト」を通して、自分たちの救いを得た。 人間であり神に遣わされた独り子である「キリスト・イエス」を受け入れた。 このキリストの十字架の死と復活にあずかることによって、自分たちも神の子とされ、新しく生まれ変わり、地上の体が贖われる。 その神の約束を受け入れたと告白しているのです。 キリストの名の他には、自分たちの救いはない。 救いの核心は、このキリストご自身である。 自分たちのために果たされた救いの業を感謝し、喜んで、子どものように受け入れるだけであると語るのです。 この「受け入れた」という言葉には、私たち人間の側の「応答、決断」の意味合いが込められています。 すべては神が用意してくださった働きの結果です。 しかし、神が用意してくださったものを、私たちは決断し後押しされて受け取ったのです。 神の国に入り、神の子となるようにと願い、その道を選び取ったのだから「キリストに結ばれて歩むように、キリストという核心から逸れることのなく歩むように。 キリストに根を下ろし、造り上げられ、教えたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝しなさい。」とパウロは勧めるのです。 「キリストに根を下ろし、造り上げられ」とは、神の働きの結果です。 一方、「教えたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝する」とは、私たち人間の応答、決断の結果です。 私たちはこの地上で、神の働きと私たち人間の側の働きの真っ只中に生かされています。 パウロはこのことを、「バプテスマ」を受けるという出来事に結びつけます。 「過去」において、「わたしたちはキリストと共に葬られた。 死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた。」と言います。 「キリストの内には、満ちあふれる神性が、見える形をとって宿っている。」から、「現在」では、「あなたがたはこのキリストにおいて満たされている。 あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている。」と言うのです。 だから「将来」、隠されたものが現れ出る時がくる。 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどです。」と言われています。 このキリストに結ばれて生きることこそ、バプテスマという聖霊による神の子の誕生です。 神の働きと、私たちの応答、信仰がなせる業なのです。

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「祝福の逆説」 ルカによる福音書6章20~26節

2023-08-20

 「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」 その祈りは、弟子たちの中から12人の使徒を選ぶための祈りであったと言います。 「山の上」で祈っておられたイエスとそこでイエスに選ばれた弟子たちの姿があります。 一方で、イエスたちが山から下りてくるのを待ち焦がれている病気の者、苦しんでいる者、汚れた霊に悩まされた者が渦巻く「山のふもと」の現実の世界があります。 イエスによって表された神の力に驚いて、からだの癒しを求めて押し寄せる群衆の姿です。 その真っ只中で、「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」のです。 その時の教えが「貧しい人々は、幸いである」から始まる「四つの幸い」と「四つの不幸」なのです。 神の子とされ、これからイエスと同じような道のりを辿って行こうとする弟子たちをじっと見つめて語られたイエスの呼びかけです。 イザヤ書61章の「貧しい者への福音」では、「貧しい人に良い知らせを伝えさせるため、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」とあります。 この聖句をイエスはナザレの会堂で安息日に引用し、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」と聖書朗読し、その直後に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言われたのです。 イエスは、「今飢えている人たち、今泣いている人たち、今イエスのために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人たち」と呼びかけます。 神の子であるがゆえに免れない状態を甘んじて受け入れ、神の恵みだけを待ち望む者には、神の国は訪れる、約束されていると宣言されておられるのです。 「貧しい人々が満たされる。 笑うようになる。 富める人々が飢える。 悲しみに泣くようになる。」と、すでにその大逆転が起こされる神の国がすでに訪れていると言うのです。 貧しいから「幸いである」、富めるから「不幸である」と言っているのではありません。 今は何も持っていない、自分ではどうすることもできない、ただ嘆き悲しむだけのものであるかもしれない。 であるからこそ、神の助けを求め願うようになる。 神の恵みに拠り頼むことができるようになる。 今ある状態が、神の憐れみによって全く正反対の状態に変えられるという大逆転が起こされる。 その来るべき世界がもうすでに、現実の世界にイエスご自身の姿と共に隠されて訪れているから「幸いである」と言うのです。 この世に浸り、地上の世界だけに目や耳を奪われて生きている人たちに向けて、「この世とともに消え去るものだけに目や耳を奪われてしまっている。 しばしのはかない豊かさに身を寄せていると嘆いておられるのです。 この世でしばしの間、満ち足りて、神の恵みを受け取ろうとしないから、この世の慰めをすでに受けてしまっているから「災いである」と警鐘を鳴らしているのです。 イエスの言われる「貧しい人々」とは、今の世界と来るべき世界、まったく正反対の二つの世界に気づいて、神の子として生かされている人たちです。 「富める人々」とは、今の世界にしか住んでいない人たちです。 イエスは、来るべき世界が、この現実の世界を揺り動かしつつあることにいち早く気づくようにと「貧しい人々」にも、「富める人々」にも招いておられるのです。 「神の国」とは、霊によって「神の子」たちが息づいているところです。 その状態がどのようなものであれ、そのままの姿で豊かに神の恵みに満たされているところです。 私たちは、この世と来るべき世、貧しさと豊かさ、弱さと強さを同時に味わうことができるのです。 この小さな世界、狭い世界がいくつも折り重なって、神の国は拡がっていくのでしょう。 

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「待ち望むとは」 ローマの信徒への手紙8章18~25節

2023-08-13

 聖書では、この世のすべてのものを「被造物」と表現し、神によって創造されたものとして「神の栄光」を賛美しています。 しかし、私たち人間は、取り巻く環境を人間から切り離し、乱暴に支配し、思うが儘に人間の我儘と欲望に従属させてきてしまったのではないか。 その美しさだけでなく、調和が崩れた時に見せる圧倒的な恐ろしい力に、今、私たちは気づかされつつあるのではないでしょうか。 パウロは、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている。」と言い、私たち人間の悲劇と被造物の悲劇を結び付けます。 しかし、この世界が滅びに至る力に支配されるようになってしまったのは、「被造物自身の意志によるものではない。 すべてを支配しておられる方の意志によるものである。 そのお方の憐れみに与るためのものである。 いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く時がくる。 その希望をもたらされている。」と言うのです。 パウロは、「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と言います。 「神の子とされる」とは、神に創造された本来の姿に立ち戻るということです。 「体が贖われる」とは、この世の滅びに堅く結ばれた支配から解放されて、新しい命、体に生き返る。 将来、神の子としての栄光に輝く姿に造り変えられるということです。 「霊の初穂」とは、神のもとを離れた私たちと同じ肉体を背負わされ、唯々神のみ心を果たす為だけに十字架の死という神の裁きを私たちに代わって引き受けてくださったイエス・キリストのことです。 神の救いの事実を、将来、神の子としての栄光に輝く姿に造り変えられる「霊の初穂」として示されたのだから、「神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とパウロは告白するのです。 虚無に支配されるようになったこの世界と私たち人間は一体である。 「被造物もまた、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」と、現在の苦しみのうえに立って叫ぶのです。 パウロの抱く「希望」とは、「産みの苦しみを味わっている」と言いますから未だ手にしていないものでしょう。 死に至ることが定められているこの古い体の中に隠されている。 しかし、やがて造り変えられ、新しい命を賜る時がくる。 神の子であることが現れ出る時がくる。 イエスご自身は痛みのあるところ、十字架のあるところにおられるのですから、「うめきの中に隠されている」希望に生きている。 「見ていないものを希望する」希望に生きている。 「気づいていないものを希望する」希望に生きているということなのです。 だから、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と断言するのです。 ここで言う「現在」とは、神ならぬ者が巧みに支配する現実の世界です。 その世界に馴染めない神に属する者は苦しみを憶えて当然です。 ここで言う「将来」とは、神の力によって救われ、神の輝きに照らされる世界です。 ですから、「待ち望む」とは、まだ確たる確信を経ないまま現実となっていないものを、神の約束されたものとして期待することです。 神は捉えどころがなく、見えないし、完全に理解も把握もできません。 神の果たされることを、神が語りかけてくださることを待ち望むしかないのです。 もし、希望と忍耐のうちに待ち望むなら、待ち望む者として神に捉えられる。 そうなるなら神から離れていたとしても、不信仰であったとしても信じる者へと変えられる希望に生きることができるのです。 「現在」においてすでに、聖霊の働きによって新しい「将来」に生きることができるのです。 今は完全に現わされるまで隠されているのです。

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「まして神は」 ルカによる福音書18章1~8節

2023-08-06

 この「やもめと裁判官のたとえ」は、「神の国はいつ来るのか。 復活したと言われるイエス・キリストはいつ再びくるのか」という人々の問いにイエスが答えた、その直後に語られたたとえです。 70年ごろまでは、復活されたキリストが再び来られるという差し迫った待望があったが、いつまで待っても訪れない。 エルサレム神殿が崩壊した70年を過ぎても何も起こらない。 キリストが再び現れるのが遅れていることへの人々の失望、落胆があったのです。 これに対しイエスは、「神の国は見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にある。」と言われ、「いつ、どのようにして」と私たちが言うような時間と空間の枠の中で起こる出来事ではない。 時間を測る尺度が神と人とでは異なる。 だから、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われたのです。 切実な絶え間ない願いが地上の不正な裁判官さえ動かすのであれば、まして公正な裁判官である神が、選びの民の絶え間ない祈りをほうっておくはずがない。 その神の時が訪れるなら、キリストの民を苦しめるこの世の支配者たちを速やかに裁いてくださる。 神の御心のままに果たされることになる。 だから、その時が到来することを信じ絶えず祈るようにと言われたのです。 
 「祈り」と「信仰」は相互につながっており生きた関係にあります。 私たちは、どう祈ればよいのか分からない「祈り」に貧しい存在です。 祈らなくても自力でこの世に生きていくことができると思う傲慢からでしょうか。 どうせ祈ってもだめだと思い込んでいる諦めからでしょうか。 祈らなくとも、神は知っていてくださるはずだという甘えからでしょうか。 イエスの弟子たちは、数多くの権威ある教え、数々の奇跡を目の当たりにしました。 その力の源泉は、静まってひとりで祈るイエスの姿の中にあると見ていたのです。 ですから、「わたしたちにも祈ることを教えてください」と、イエスに直訴したのです。 イエスがそうであったように、私たちは神の恵みの水路のほとりに植えられた木であるかもしれません。 「時が巡り来れば実を結ぶ。 葉もしおれることはない。」(詩編1:3)と言うのです。 「祈り」は神との交わりです。 この神との結びつき、交わりがなければ「祈り」も起こされないし、生きた「信仰」の証しも備えられないのです。 私たちは追い詰められれば追い詰められるほど神に向かい叫び始め、「祈り」へと駆り立てられていくのです。 神はその差し迫った「祈り」に対する回答ではなく、先ずその人にしか語り得ない「祈り」そのものを与えられるのです。 神は、その霊をもって私たちの心の奥底に沈んでいた「祈り」を呼び起こすのです。 神は人に迫り、神を求める祈る心を生み出されるのです。 そこからです。 この「祈り」において、神と格闘しなければならない。 なぜなら、捉えどころのない神の御心を受け入れるために労苦し、神はどのようなお方であるのか神ご自身を味わうことになるのです。 私たちの側からみれば、「祈り」は「重荷」とさえ思わされることがあります。 しかし、神の側からみれば「祈り」は祝福なのです。 なぜなら、私たちの「祈り」に先立って神の「祈り」が果たされているのです。 イエス・キリストこそ神の「祈り」、神の御心そのものです。 これに従って神に働いていただくだけなのです。 神の「祈り」が私たちの「祈り」を起こし、ご自身のみ心を果たす為に神が働かれるのです。 神のもとから注がれた恵みが、今度は神に向かって喜びと感謝の「祈り」となって逆流していく。 枯れていくべき人生が神の「祈り」に満たされるなら、その人の「祈り」がその人生を変えるのです。 私たちの「祈り」は、神の「祈り」への応答なのではないでしょうか。

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「生かされた枯れた骨」 エゼキエル書37章10~14節

2023-07-30

 聖書箇所の当時のイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂をしていました。 このイスラエルはバビロニア帝国に征服され、国を失い、民の神を崇める神殿も失い、「焼野原、荒野原」とも言うべき状態に陥ってしまった。 イスラエルの民は帰るべきところを失ってしまったのです。 主なる神はその民の中からエゼキエルに目を留め、呼び出されるのです。 エゼキエルは、南ユダの国の王とともに、イスラエルからバビロニア帝国の首都バビロンの地まで、敗戦国の囚人として強制的に移住させられたイスラエルの祭司でした。 主なる神はエゼキエルに、「自分の足で立て。 わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。 口を開いて、わたしが与えるみ言葉を食べ満たされなさい。」と呼びかけるのです。 異民族、異文化の中で自由を奪われ、捕らわれの身で希望を失っているイスラエルの民は、「我々の骨は枯れた。 我々の望みは失せ、我々は滅びる。」と嘆いていたと言います。 「骨が枯れる」とは、望みを失い、神の霊が失せ、神なき世界に虚ろう人間の姿を象徴的に表現しています。 自分たちを守ってくれなかった神に対する疑いの念、自分たちの故郷が「焼野原、荒野原」と化してしまった現実に沈み込んでいた民に向けて「主なる神の言葉を語れ。あなたは恐れてはならない。 たじろいでもならない。 そのイスラエルの民と同じようにわたしに背いてはならない。」とエゼキエルに迫るのです。 そして、エゼキエルは主なる神の霊に連れ出され、「枯れた骨の谷」の幻を示されるのです。 その有様は、戦いに敗れた多くの人々の骨の山であったかもしれない。 長い捕囚生活に耐えかねて望みを捨ててしまったイスラエルの民の絶望の姿であったかもしれない。 あるいは、この世の権力に身を委ね、神なき世界に安住してしまった諦めの姿の象徴であったかもしれない。 神はエゼキエルにこの幻をもって目を開かせ、見せて、示すのです。 「これらの骨は生き返ることができるか」と神は問い、エゼキエルは「あなたのみがご存じです。」と答えるのです。 自分自身も妻を亡くし、失望も落胆もしていたエゼキエルですから、すぐさま神に「あなたの言われる通りです。 あなたなら多くの枯れた骨を生き返らせることができます。」とは、とても言うことができない。 精一杯のエゼキエルの答えが、「あなたのみがご存じです。」という答えではなかったかと思うのです。 このエゼキエルの信仰告白を通して、神は、「これらの骨に向かって、枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 その中に霊を吹き込む。 霊よ、四方から吹き来たれ。 すると、生き返る。 わたしが主であることを知るようになる。」と言われたのです。 神は、「墓を開く。 主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。」と約束されたのでした。 神はエゼキエルに「死」が支配している実相、神なき世界の憂いに満ちた姿に目をそらさず、今まで見えていなかった姿を見抜かせる。 墓場のようなところから、私たちを立上がらせ、生き返らせる。 息を吹き返しただけでなく、新しい創造とも言うべき回復と復興のために用いられるのです。 「焼野原、荒野原」と化し、望みを失った「枯れた骨、残された者」こそ、主なる神は生き返らせ、立ち上がらせ、ご自身のご用のために用いられるのです。 「枯れた骨、残された者」とは、絶望と落胆と悔い改めという神の前での霊的な「死」を体験した人たちのことを言うのでしょう。 「枯れた骨」がカタカタと音を立てて重なり合って、繋がり合って、そこに筋や肉が皮で覆われ、新しい大きな群れとなっていく。 南北に分裂していたイスラエルが再統一される。 イエス・キリストという一人の王、一人の牧者によって一つの民となっていくのです

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「信仰はどこにあるのか」 ルカによる福音書8章22~25節 

2023-07-23

 新約聖書のみ言葉は、私たち人間による説明でも解釈でも、歴史書でもイエスの伝記でもありません。 イエスとともに歩んだ弟子たちのイエス・キリストに対する信仰による証言です。 人間の知性や経験や能力によって自然の脅威を克服していこうとする人間の姿と、その自然をも支配しうる神のみ業がイエス・キリストという人間の中に隠され、秘められている。 そのことを、弟子たちが自らの情けない姿と言動を敢えて書き記し、遺し、伝えているのです。 マルコによる福音書によれば、大群衆の前で多くの神の国の教えを語られ、弟子たちには神の国の秘密を打ち明けその疲れたままの状態でイエスは「その日の夕方、湖の向こう岸に渡ろう」と言われたのです。 弟子たちはイエスに従って船に乗り込み、その船旅の途上で「突風、荒波」に見舞われたのです。 ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネもガリラヤ湖の漁師でした。 この湖には、山から吹き下ろしてくる突風が起こることも熟知していたはずです。 熟知した漁師たちが慌てふためくほどの猛威により、小さな船は波をかぶって水浸しになり沈みかけた。 思ったように船を操ることができなくなった状態、嵐を恐れて振り回されている弟子たちの姿が記されています。 そこで、困り果てた弟子たちが、船の艫の方で眠り込んでいたイエスを捜し、「先生、先生、おぼれそうです。」 マルコによれば、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか。」とまで激しい憤りをぶつけるのです。 イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸に向けて船出して、安心されたのか疲れ果てておられたのか「眠っておられた」と言います。 イエスもまた疲労もし、休息を必要ともし、睡魔に襲われるひとりの人間でした。 しかし、親の懐で信頼し切って幼子のように眠っておられ、父なる神に信頼する「安らぎと憩い」に包まれた父なる神との「固い結びつき」を憶えるのです。 弟子たちの叫びと訴えに起こされたイエスは「起き上がって、風と荒波をお叱りになると、湖は静まって凪になった」と言います。 その直後に語られたイエスの言葉が「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」であったと言います。 同時に、「命じれば風も波も従うこのお方はどなたなのだろう。」と弟子たちは恐れ驚いたと言います。 
 この出来事は、次の宣教地「向こう岸」に向かう途上の船の中の出来事です。 イエスの穏やかに寝ておられた姿と、弟子たちの慌てふためく姿が対比されています。 ガリラヤ湖に慣れ親しんだ弟子たちでさえも自分たちの手に負えないものだと分かり始めた時、イエスに対する乱暴な叫びに至ります。 しかし、イエスの宣教の働きのために従って行こうとした弟子たちでした。 イエスに従わなければ出会うことのなかった嵐でした。 そこで初めて、弟子たちの叫びに応えて起き上がり、嵐に向かって「静まれ」とお叱りになったイエスの姿に、次第に弟子たちの心の目が開かれるのです。 イエスがお叱りになった相手は、愛する弟子たちを不安と恐れに陥れ、自由に操ろうとするこの世のすべての力です。 そのうえで、「あなたがたの信仰はどこにあるのか。 なぜ怖がるのか。 まだ、信じないのか。」と言われたのです。 イエスと共にイエスが目指すところに進む船の中にいる者たち、群衆と同じように聞いていただけで相も変わらない状態から一歩踏み出した者たち、自分の知恵や経験や能力だけでは抗うことのできないものに出くわした体験を味わった者たちです。 突風や波風はそのきっかけに過ぎません。 弟子たちは「このお方はどなただろう」と悟り知り言い表そうとした信仰の始まりを、自分たちの恥ずかしい姿、聴くに堪えない乱暴な叫びを通して証言しているのです。 イエスの中に神の力が秘められていることに気づかされ、埋もれてかすんでしまっていた弟子たちの信仰が呼び覚まされたのです。

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「永遠の命という賜物」 詩編90編3~12節

2023-07-16

 詩編90編の詩は、「祈り」、「神の人モーセの詩」です。 イスラエルの民の偉大な指導者であったモーセの生涯そのものが祈り、賛美し、歌うのです。 モーセの波乱万丈の生涯を思い起こしてみてください。 イスラエルの民として生まれたモーセは生まれてすぐ、ナイル川に流される。 これ以上イスラエル人が増えないように、生まれたイスラエル人の男の子をナイル川に流すようエジプトの王が命じたのです。 この悲しい出来事に出会うひとりの赤ちゃんを、神はよりによってエジプトの王女に拾わせる。 イスラエル人でありながらエジプトの王宮で大事に育てられ成長していく。 成長したモーセは、同胞であるイスラエルの人々の苦しい奴隷の姿を見て憤り、エジプト人を殺してしまう。 ついには、イスラエル人の解放に立ち上がるが失敗し、落胆のうちに荒れ野に逃れ羊を飼う生活へとその身を寄せるのです。 ところが、神は一度選び出したモーセに、再び荒れ野からエジプトへ戻るようにと迫るのです。 イスラエルの民の救いのご計画の担い手としてモーセを立たせる。 悪戦苦闘の末、神の壮大なご計画を果たす者として先頭に立たせ、イスラエルの大群衆をエジプトの国から導き出すのです。 その後、エジプトの反撃、自然の脅威に悩まされながら、また、エジプトから連れ出してきた多くのイスラエルの民の反抗や不信に悩まされながら、40年もの間荒れ野をさまようのです。 苦労のうえに苦労を重ね、ついに約束の地カナンを目の前にするところにまでやってきた。 すると、ネボ山という山に登れとモーセは神に告げられる。 「あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。 イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。 それゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこには入ることはできない。」(申命記32:49-52)と告げられるのです。 体力、気力とも満ちあふれていたにもかかわらず、40年もの間目指してきたその地に一歩も足を踏み入れることが許されず、労苦を共にした人々に別れ一人モーセはその生涯を終えるのです。 人の目には波乱万丈の悲劇的ななんと痛ましい生涯となったそのモーセが、自身の生涯を振り返り、祈り、賛美する歌が詩編90編の詩です。 私たち造られた者の存在の限界を「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」と塵に返ることへの憂いとともに、自らの弱さや貧しさにより犯してしまった過ちのゆえに、消え失せる者であると告白するのです。 しかしモーセは、「わたしのもとへ帰れ」と言われる主なる神の声を慰めとして聞きます。 自らの生涯が肉体の死のもとにあるのではなく、神の永遠のみ腕の中にあると告白するのです。 同じように、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。」 同時に、「人は草のように移ろいます。」と、神の永遠と人間のはかなさを歌うのです。 私たちでは究め難い「時の流れ」に「神の時」が入り込む。 モーセは、その波乱万丈の生涯の中で何度も体験した「永遠の今」が、目の前を過ぎ去っていく「時の流れ」の中に隠されている。 労苦と災いに過ぎないと思える「人の今」の中に、「神の時」が結びつくならば、力と知恵と励ましと慰めが与えられる。 悲劇的な生涯の中に見る無限の意義をもつ「永遠の時」としてくださる。 「生涯の日を正しく数えるように、知恵ある心を得ることができるように、あなたの憤りをも知ることができますように。」と祈るのです。 イエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエスご自身を知ること」と語り、モーセは、「肉体の死は、神のもとへ帰る喜びの日であると、はかない「人の今」は「永遠の今」と結びつき新しく造り変えられると喜ぶのです。 「永遠の今」は「人の今」に起こり、「永遠の命」は「今の賜物」なのです。

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