秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「まして神は」 ルカによる福音書18章1~8節

2023-08-06

 この「やもめと裁判官のたとえ」は、「神の国はいつ来るのか。 復活したと言われるイエス・キリストはいつ再びくるのか」という人々の問いにイエスが答えた、その直後に語られたたとえです。 70年ごろまでは、復活されたキリストが再び来られるという差し迫った待望があったが、いつまで待っても訪れない。 エルサレム神殿が崩壊した70年を過ぎても何も起こらない。 キリストが再び現れるのが遅れていることへの人々の失望、落胆があったのです。 これに対しイエスは、「神の国は見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にある。」と言われ、「いつ、どのようにして」と私たちが言うような時間と空間の枠の中で起こる出来事ではない。 時間を測る尺度が神と人とでは異なる。 だから、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われたのです。 切実な絶え間ない願いが地上の不正な裁判官さえ動かすのであれば、まして公正な裁判官である神が、選びの民の絶え間ない祈りをほうっておくはずがない。 その神の時が訪れるなら、キリストの民を苦しめるこの世の支配者たちを速やかに裁いてくださる。 神の御心のままに果たされることになる。 だから、その時が到来することを信じ絶えず祈るようにと言われたのです。 
 「祈り」と「信仰」は相互につながっており生きた関係にあります。 私たちは、どう祈ればよいのか分からない「祈り」に貧しい存在です。 祈らなくても自力でこの世に生きていくことができると思う傲慢からでしょうか。 どうせ祈ってもだめだと思い込んでいる諦めからでしょうか。 祈らなくとも、神は知っていてくださるはずだという甘えからでしょうか。 イエスの弟子たちは、数多くの権威ある教え、数々の奇跡を目の当たりにしました。 その力の源泉は、静まってひとりで祈るイエスの姿の中にあると見ていたのです。 ですから、「わたしたちにも祈ることを教えてください」と、イエスに直訴したのです。 イエスがそうであったように、私たちは神の恵みの水路のほとりに植えられた木であるかもしれません。 「時が巡り来れば実を結ぶ。 葉もしおれることはない。」(詩編1:3)と言うのです。 「祈り」は神との交わりです。 この神との結びつき、交わりがなければ「祈り」も起こされないし、生きた「信仰」の証しも備えられないのです。 私たちは追い詰められれば追い詰められるほど神に向かい叫び始め、「祈り」へと駆り立てられていくのです。 神はその差し迫った「祈り」に対する回答ではなく、先ずその人にしか語り得ない「祈り」そのものを与えられるのです。 神は、その霊をもって私たちの心の奥底に沈んでいた「祈り」を呼び起こすのです。 神は人に迫り、神を求める祈る心を生み出されるのです。 そこからです。 この「祈り」において、神と格闘しなければならない。 なぜなら、捉えどころのない神の御心を受け入れるために労苦し、神はどのようなお方であるのか神ご自身を味わうことになるのです。 私たちの側からみれば、「祈り」は「重荷」とさえ思わされることがあります。 しかし、神の側からみれば「祈り」は祝福なのです。 なぜなら、私たちの「祈り」に先立って神の「祈り」が果たされているのです。 イエス・キリストこそ神の「祈り」、神の御心そのものです。 これに従って神に働いていただくだけなのです。 神の「祈り」が私たちの「祈り」を起こし、ご自身のみ心を果たす為に神が働かれるのです。 神のもとから注がれた恵みが、今度は神に向かって喜びと感謝の「祈り」となって逆流していく。 枯れていくべき人生が神の「祈り」に満たされるなら、その人の「祈り」がその人生を変えるのです。 私たちの「祈り」は、神の「祈り」への応答なのではないでしょうか。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元