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「待ち望むとは」 ローマの信徒への手紙8章18~25節

2023-08-13

 聖書では、この世のすべてのものを「被造物」と表現し、神によって創造されたものとして「神の栄光」を賛美しています。 しかし、私たち人間は、取り巻く環境を人間から切り離し、乱暴に支配し、思うが儘に人間の我儘と欲望に従属させてきてしまったのではないか。 その美しさだけでなく、調和が崩れた時に見せる圧倒的な恐ろしい力に、今、私たちは気づかされつつあるのではないでしょうか。 パウロは、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている。」と言い、私たち人間の悲劇と被造物の悲劇を結び付けます。 しかし、この世界が滅びに至る力に支配されるようになってしまったのは、「被造物自身の意志によるものではない。 すべてを支配しておられる方の意志によるものである。 そのお方の憐れみに与るためのものである。 いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く時がくる。 その希望をもたらされている。」と言うのです。 パウロは、「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と言います。 「神の子とされる」とは、神に創造された本来の姿に立ち戻るということです。 「体が贖われる」とは、この世の滅びに堅く結ばれた支配から解放されて、新しい命、体に生き返る。 将来、神の子としての栄光に輝く姿に造り変えられるということです。 「霊の初穂」とは、神のもとを離れた私たちと同じ肉体を背負わされ、唯々神のみ心を果たす為だけに十字架の死という神の裁きを私たちに代わって引き受けてくださったイエス・キリストのことです。 神の救いの事実を、将来、神の子としての栄光に輝く姿に造り変えられる「霊の初穂」として示されたのだから、「神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とパウロは告白するのです。 虚無に支配されるようになったこの世界と私たち人間は一体である。 「被造物もまた、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」と、現在の苦しみのうえに立って叫ぶのです。 パウロの抱く「希望」とは、「産みの苦しみを味わっている」と言いますから未だ手にしていないものでしょう。 死に至ることが定められているこの古い体の中に隠されている。 しかし、やがて造り変えられ、新しい命を賜る時がくる。 神の子であることが現れ出る時がくる。 イエスご自身は痛みのあるところ、十字架のあるところにおられるのですから、「うめきの中に隠されている」希望に生きている。 「見ていないものを希望する」希望に生きている。 「気づいていないものを希望する」希望に生きているということなのです。 だから、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と断言するのです。 ここで言う「現在」とは、神ならぬ者が巧みに支配する現実の世界です。 その世界に馴染めない神に属する者は苦しみを憶えて当然です。 ここで言う「将来」とは、神の力によって救われ、神の輝きに照らされる世界です。 ですから、「待ち望む」とは、まだ確たる確信を経ないまま現実となっていないものを、神の約束されたものとして期待することです。 神は捉えどころがなく、見えないし、完全に理解も把握もできません。 神の果たされることを、神が語りかけてくださることを待ち望むしかないのです。 もし、希望と忍耐のうちに待ち望むなら、待ち望む者として神に捉えられる。 そうなるなら神から離れていたとしても、不信仰であったとしても信じる者へと変えられる希望に生きることができるのです。 「現在」においてすでに、聖霊の働きによって新しい「将来」に生きることができるのです。 今は完全に現わされるまで隠されているのです。



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