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「祝福の逆説」 ルカによる福音書6章20~26節

2023-08-20

 「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」 その祈りは、弟子たちの中から12人の使徒を選ぶための祈りであったと言います。 「山の上」で祈っておられたイエスとそこでイエスに選ばれた弟子たちの姿があります。 一方で、イエスたちが山から下りてくるのを待ち焦がれている病気の者、苦しんでいる者、汚れた霊に悩まされた者が渦巻く「山のふもと」の現実の世界があります。 イエスによって表された神の力に驚いて、からだの癒しを求めて押し寄せる群衆の姿です。 その真っ只中で、「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」のです。 その時の教えが「貧しい人々は、幸いである」から始まる「四つの幸い」と「四つの不幸」なのです。 神の子とされ、これからイエスと同じような道のりを辿って行こうとする弟子たちをじっと見つめて語られたイエスの呼びかけです。 イザヤ書61章の「貧しい者への福音」では、「貧しい人に良い知らせを伝えさせるため、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」とあります。 この聖句をイエスはナザレの会堂で安息日に引用し、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」と聖書朗読し、その直後に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言われたのです。 イエスは、「今飢えている人たち、今泣いている人たち、今イエスのために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人たち」と呼びかけます。 神の子であるがゆえに免れない状態を甘んじて受け入れ、神の恵みだけを待ち望む者には、神の国は訪れる、約束されていると宣言されておられるのです。 「貧しい人々が満たされる。 笑うようになる。 富める人々が飢える。 悲しみに泣くようになる。」と、すでにその大逆転が起こされる神の国がすでに訪れていると言うのです。 貧しいから「幸いである」、富めるから「不幸である」と言っているのではありません。 今は何も持っていない、自分ではどうすることもできない、ただ嘆き悲しむだけのものであるかもしれない。 であるからこそ、神の助けを求め願うようになる。 神の恵みに拠り頼むことができるようになる。 今ある状態が、神の憐れみによって全く正反対の状態に変えられるという大逆転が起こされる。 その来るべき世界がもうすでに、現実の世界にイエスご自身の姿と共に隠されて訪れているから「幸いである」と言うのです。 この世に浸り、地上の世界だけに目や耳を奪われて生きている人たちに向けて、「この世とともに消え去るものだけに目や耳を奪われてしまっている。 しばしのはかない豊かさに身を寄せていると嘆いておられるのです。 この世でしばしの間、満ち足りて、神の恵みを受け取ろうとしないから、この世の慰めをすでに受けてしまっているから「災いである」と警鐘を鳴らしているのです。 イエスの言われる「貧しい人々」とは、今の世界と来るべき世界、まったく正反対の二つの世界に気づいて、神の子として生かされている人たちです。 「富める人々」とは、今の世界にしか住んでいない人たちです。 イエスは、来るべき世界が、この現実の世界を揺り動かしつつあることにいち早く気づくようにと「貧しい人々」にも、「富める人々」にも招いておられるのです。 「神の国」とは、霊によって「神の子」たちが息づいているところです。 その状態がどのようなものであれ、そのままの姿で豊かに神の恵みに満たされているところです。 私たちは、この世と来るべき世、貧しさと豊かさ、弱さと強さを同時に味わうことができるのです。 この小さな世界、狭い世界がいくつも折り重なって、神の国は拡がっていくのでしょう。 



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