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「信仰はどこにあるのか」 ルカによる福音書8章22~25節 

2023-07-23

 新約聖書のみ言葉は、私たち人間による説明でも解釈でも、歴史書でもイエスの伝記でもありません。 イエスとともに歩んだ弟子たちのイエス・キリストに対する信仰による証言です。 人間の知性や経験や能力によって自然の脅威を克服していこうとする人間の姿と、その自然をも支配しうる神のみ業がイエス・キリストという人間の中に隠され、秘められている。 そのことを、弟子たちが自らの情けない姿と言動を敢えて書き記し、遺し、伝えているのです。 マルコによる福音書によれば、大群衆の前で多くの神の国の教えを語られ、弟子たちには神の国の秘密を打ち明けその疲れたままの状態でイエスは「その日の夕方、湖の向こう岸に渡ろう」と言われたのです。 弟子たちはイエスに従って船に乗り込み、その船旅の途上で「突風、荒波」に見舞われたのです。 ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネもガリラヤ湖の漁師でした。 この湖には、山から吹き下ろしてくる突風が起こることも熟知していたはずです。 熟知した漁師たちが慌てふためくほどの猛威により、小さな船は波をかぶって水浸しになり沈みかけた。 思ったように船を操ることができなくなった状態、嵐を恐れて振り回されている弟子たちの姿が記されています。 そこで、困り果てた弟子たちが、船の艫の方で眠り込んでいたイエスを捜し、「先生、先生、おぼれそうです。」 マルコによれば、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか。」とまで激しい憤りをぶつけるのです。 イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸に向けて船出して、安心されたのか疲れ果てておられたのか「眠っておられた」と言います。 イエスもまた疲労もし、休息を必要ともし、睡魔に襲われるひとりの人間でした。 しかし、親の懐で信頼し切って幼子のように眠っておられ、父なる神に信頼する「安らぎと憩い」に包まれた父なる神との「固い結びつき」を憶えるのです。 弟子たちの叫びと訴えに起こされたイエスは「起き上がって、風と荒波をお叱りになると、湖は静まって凪になった」と言います。 その直後に語られたイエスの言葉が「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」であったと言います。 同時に、「命じれば風も波も従うこのお方はどなたなのだろう。」と弟子たちは恐れ驚いたと言います。 
 この出来事は、次の宣教地「向こう岸」に向かう途上の船の中の出来事です。 イエスの穏やかに寝ておられた姿と、弟子たちの慌てふためく姿が対比されています。 ガリラヤ湖に慣れ親しんだ弟子たちでさえも自分たちの手に負えないものだと分かり始めた時、イエスに対する乱暴な叫びに至ります。 しかし、イエスの宣教の働きのために従って行こうとした弟子たちでした。 イエスに従わなければ出会うことのなかった嵐でした。 そこで初めて、弟子たちの叫びに応えて起き上がり、嵐に向かって「静まれ」とお叱りになったイエスの姿に、次第に弟子たちの心の目が開かれるのです。 イエスがお叱りになった相手は、愛する弟子たちを不安と恐れに陥れ、自由に操ろうとするこの世のすべての力です。 そのうえで、「あなたがたの信仰はどこにあるのか。 なぜ怖がるのか。 まだ、信じないのか。」と言われたのです。 イエスと共にイエスが目指すところに進む船の中にいる者たち、群衆と同じように聞いていただけで相も変わらない状態から一歩踏み出した者たち、自分の知恵や経験や能力だけでは抗うことのできないものに出くわした体験を味わった者たちです。 突風や波風はそのきっかけに過ぎません。 弟子たちは「このお方はどなただろう」と悟り知り言い表そうとした信仰の始まりを、自分たちの恥ずかしい姿、聴くに堪えない乱暴な叫びを通して証言しているのです。 イエスの中に神の力が秘められていることに気づかされ、埋もれてかすんでしまっていた弟子たちの信仰が呼び覚まされたのです。



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