「祝福の逆説」 ルカによる福音書6章20~26節
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」 その祈りは、弟子たちの中から12人の使徒を選ぶための祈りであったと言います。 「山の上」で祈っておられたイエスとそこでイエスに選ばれた弟子たちの姿があります。 一方で、イエスたちが山から下りてくるのを待ち焦がれている病気の者、苦しんでいる者、汚れた霊に悩まされた者が渦巻く「山のふもと」の現実の世界があります。 イエスによって表された神の力に驚いて、からだの癒しを求めて押し寄せる群衆の姿です。 その真っ只中で、「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」のです。 その時の教えが「貧しい人々は、幸いである」から始まる「四つの幸い」と「四つの不幸」なのです。 神の子とされ、これからイエスと同じような道のりを辿って行こうとする弟子たちをじっと見つめて語られたイエスの呼びかけです。 イザヤ書61章の「貧しい者への福音」では、「貧しい人に良い知らせを伝えさせるため、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」とあります。 この聖句をイエスはナザレの会堂で安息日に引用し、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため」と聖書朗読し、その直後に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と言われたのです。 イエスは、「今飢えている人たち、今泣いている人たち、今イエスのために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人たち」と呼びかけます。 神の子であるがゆえに免れない状態を甘んじて受け入れ、神の恵みだけを待ち望む者には、神の国は訪れる、約束されていると宣言されておられるのです。 「貧しい人々が満たされる。 笑うようになる。 富める人々が飢える。 悲しみに泣くようになる。」と、すでにその大逆転が起こされる神の国がすでに訪れていると言うのです。 貧しいから「幸いである」、富めるから「不幸である」と言っているのではありません。 今は何も持っていない、自分ではどうすることもできない、ただ嘆き悲しむだけのものであるかもしれない。 であるからこそ、神の助けを求め願うようになる。 神の恵みに拠り頼むことができるようになる。 今ある状態が、神の憐れみによって全く正反対の状態に変えられるという大逆転が起こされる。 その来るべき世界がもうすでに、現実の世界にイエスご自身の姿と共に隠されて訪れているから「幸いである」と言うのです。 この世に浸り、地上の世界だけに目や耳を奪われて生きている人たちに向けて、「この世とともに消え去るものだけに目や耳を奪われてしまっている。 しばしのはかない豊かさに身を寄せていると嘆いておられるのです。 この世でしばしの間、満ち足りて、神の恵みを受け取ろうとしないから、この世の慰めをすでに受けてしまっているから「災いである」と警鐘を鳴らしているのです。 イエスの言われる「貧しい人々」とは、今の世界と来るべき世界、まったく正反対の二つの世界に気づいて、神の子として生かされている人たちです。 「富める人々」とは、今の世界にしか住んでいない人たちです。 イエスは、来るべき世界が、この現実の世界を揺り動かしつつあることにいち早く気づくようにと「貧しい人々」にも、「富める人々」にも招いておられるのです。 「神の国」とは、霊によって「神の子」たちが息づいているところです。 その状態がどのようなものであれ、そのままの姿で豊かに神の恵みに満たされているところです。 私たちは、この世と来るべき世、貧しさと豊かさ、弱さと強さを同時に味わうことができるのです。 この小さな世界、狭い世界がいくつも折り重なって、神の国は拡がっていくのでしょう。
[fblikesend]「待ち望むとは」 ローマの信徒への手紙8章18~25節
聖書では、この世のすべてのものを「被造物」と表現し、神によって創造されたものとして「神の栄光」を賛美しています。 しかし、私たち人間は、取り巻く環境を人間から切り離し、乱暴に支配し、思うが儘に人間の我儘と欲望に従属させてきてしまったのではないか。 その美しさだけでなく、調和が崩れた時に見せる圧倒的な恐ろしい力に、今、私たちは気づかされつつあるのではないでしょうか。 パウロは、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている。」と言い、私たち人間の悲劇と被造物の悲劇を結び付けます。 しかし、この世界が滅びに至る力に支配されるようになってしまったのは、「被造物自身の意志によるものではない。 すべてを支配しておられる方の意志によるものである。 そのお方の憐れみに与るためのものである。 いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く時がくる。 その希望をもたらされている。」と言うのです。 パウロは、「霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と言います。 「神の子とされる」とは、神に創造された本来の姿に立ち戻るということです。 「体が贖われる」とは、この世の滅びに堅く結ばれた支配から解放されて、新しい命、体に生き返る。 将来、神の子としての栄光に輝く姿に造り変えられるということです。 「霊の初穂」とは、神のもとを離れた私たちと同じ肉体を背負わされ、唯々神のみ心を果たす為だけに十字架の死という神の裁きを私たちに代わって引き受けてくださったイエス・キリストのことです。 神の救いの事実を、将来、神の子としての栄光に輝く姿に造り変えられる「霊の初穂」として示されたのだから、「神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とパウロは告白するのです。 虚無に支配されるようになったこの世界と私たち人間は一体である。 「被造物もまた、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」と、現在の苦しみのうえに立って叫ぶのです。 パウロの抱く「希望」とは、「産みの苦しみを味わっている」と言いますから未だ手にしていないものでしょう。 死に至ることが定められているこの古い体の中に隠されている。 しかし、やがて造り変えられ、新しい命を賜る時がくる。 神の子であることが現れ出る時がくる。 イエスご自身は痛みのあるところ、十字架のあるところにおられるのですから、「うめきの中に隠されている」希望に生きている。 「見ていないものを希望する」希望に生きている。 「気づいていないものを希望する」希望に生きているということなのです。 だから、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と断言するのです。 ここで言う「現在」とは、神ならぬ者が巧みに支配する現実の世界です。 その世界に馴染めない神に属する者は苦しみを憶えて当然です。 ここで言う「将来」とは、神の力によって救われ、神の輝きに照らされる世界です。 ですから、「待ち望む」とは、まだ確たる確信を経ないまま現実となっていないものを、神の約束されたものとして期待することです。 神は捉えどころがなく、見えないし、完全に理解も把握もできません。 神の果たされることを、神が語りかけてくださることを待ち望むしかないのです。 もし、希望と忍耐のうちに待ち望むなら、待ち望む者として神に捉えられる。 そうなるなら神から離れていたとしても、不信仰であったとしても信じる者へと変えられる希望に生きることができるのです。 「現在」においてすでに、聖霊の働きによって新しい「将来」に生きることができるのです。 今は完全に現わされるまで隠されているのです。
[fblikesend]「まして神は」 ルカによる福音書18章1~8節
この「やもめと裁判官のたとえ」は、「神の国はいつ来るのか。 復活したと言われるイエス・キリストはいつ再びくるのか」という人々の問いにイエスが答えた、その直後に語られたたとえです。 70年ごろまでは、復活されたキリストが再び来られるという差し迫った待望があったが、いつまで待っても訪れない。 エルサレム神殿が崩壊した70年を過ぎても何も起こらない。 キリストが再び現れるのが遅れていることへの人々の失望、落胆があったのです。 これに対しイエスは、「神の国は見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にある。」と言われ、「いつ、どのようにして」と私たちが言うような時間と空間の枠の中で起こる出来事ではない。 時間を測る尺度が神と人とでは異なる。 だから、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われたのです。 切実な絶え間ない願いが地上の不正な裁判官さえ動かすのであれば、まして公正な裁判官である神が、選びの民の絶え間ない祈りをほうっておくはずがない。 その神の時が訪れるなら、キリストの民を苦しめるこの世の支配者たちを速やかに裁いてくださる。 神の御心のままに果たされることになる。 だから、その時が到来することを信じ絶えず祈るようにと言われたのです。
「祈り」と「信仰」は相互につながっており生きた関係にあります。 私たちは、どう祈ればよいのか分からない「祈り」に貧しい存在です。 祈らなくても自力でこの世に生きていくことができると思う傲慢からでしょうか。 どうせ祈ってもだめだと思い込んでいる諦めからでしょうか。 祈らなくとも、神は知っていてくださるはずだという甘えからでしょうか。 イエスの弟子たちは、数多くの権威ある教え、数々の奇跡を目の当たりにしました。 その力の源泉は、静まってひとりで祈るイエスの姿の中にあると見ていたのです。 ですから、「わたしたちにも祈ることを教えてください」と、イエスに直訴したのです。 イエスがそうであったように、私たちは神の恵みの水路のほとりに植えられた木であるかもしれません。 「時が巡り来れば実を結ぶ。 葉もしおれることはない。」(詩編1:3)と言うのです。 「祈り」は神との交わりです。 この神との結びつき、交わりがなければ「祈り」も起こされないし、生きた「信仰」の証しも備えられないのです。 私たちは追い詰められれば追い詰められるほど神に向かい叫び始め、「祈り」へと駆り立てられていくのです。 神はその差し迫った「祈り」に対する回答ではなく、先ずその人にしか語り得ない「祈り」そのものを与えられるのです。 神は、その霊をもって私たちの心の奥底に沈んでいた「祈り」を呼び起こすのです。 神は人に迫り、神を求める祈る心を生み出されるのです。 そこからです。 この「祈り」において、神と格闘しなければならない。 なぜなら、捉えどころのない神の御心を受け入れるために労苦し、神はどのようなお方であるのか神ご自身を味わうことになるのです。 私たちの側からみれば、「祈り」は「重荷」とさえ思わされることがあります。 しかし、神の側からみれば「祈り」は祝福なのです。 なぜなら、私たちの「祈り」に先立って神の「祈り」が果たされているのです。 イエス・キリストこそ神の「祈り」、神の御心そのものです。 これに従って神に働いていただくだけなのです。 神の「祈り」が私たちの「祈り」を起こし、ご自身のみ心を果たす為に神が働かれるのです。 神のもとから注がれた恵みが、今度は神に向かって喜びと感謝の「祈り」となって逆流していく。 枯れていくべき人生が神の「祈り」に満たされるなら、その人の「祈り」がその人生を変えるのです。 私たちの「祈り」は、神の「祈り」への応答なのではないでしょうか。
「生かされた枯れた骨」 エゼキエル書37章10~14節
聖書箇所の当時のイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂をしていました。 このイスラエルはバビロニア帝国に征服され、国を失い、民の神を崇める神殿も失い、「焼野原、荒野原」とも言うべき状態に陥ってしまった。 イスラエルの民は帰るべきところを失ってしまったのです。 主なる神はその民の中からエゼキエルに目を留め、呼び出されるのです。 エゼキエルは、南ユダの国の王とともに、イスラエルからバビロニア帝国の首都バビロンの地まで、敗戦国の囚人として強制的に移住させられたイスラエルの祭司でした。 主なる神はエゼキエルに、「自分の足で立て。 わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。 口を開いて、わたしが与えるみ言葉を食べ満たされなさい。」と呼びかけるのです。 異民族、異文化の中で自由を奪われ、捕らわれの身で希望を失っているイスラエルの民は、「我々の骨は枯れた。 我々の望みは失せ、我々は滅びる。」と嘆いていたと言います。 「骨が枯れる」とは、望みを失い、神の霊が失せ、神なき世界に虚ろう人間の姿を象徴的に表現しています。 自分たちを守ってくれなかった神に対する疑いの念、自分たちの故郷が「焼野原、荒野原」と化してしまった現実に沈み込んでいた民に向けて「主なる神の言葉を語れ。あなたは恐れてはならない。 たじろいでもならない。 そのイスラエルの民と同じようにわたしに背いてはならない。」とエゼキエルに迫るのです。 そして、エゼキエルは主なる神の霊に連れ出され、「枯れた骨の谷」の幻を示されるのです。 その有様は、戦いに敗れた多くの人々の骨の山であったかもしれない。 長い捕囚生活に耐えかねて望みを捨ててしまったイスラエルの民の絶望の姿であったかもしれない。 あるいは、この世の権力に身を委ね、神なき世界に安住してしまった諦めの姿の象徴であったかもしれない。 神はエゼキエルにこの幻をもって目を開かせ、見せて、示すのです。 「これらの骨は生き返ることができるか」と神は問い、エゼキエルは「あなたのみがご存じです。」と答えるのです。 自分自身も妻を亡くし、失望も落胆もしていたエゼキエルですから、すぐさま神に「あなたの言われる通りです。 あなたなら多くの枯れた骨を生き返らせることができます。」とは、とても言うことができない。 精一杯のエゼキエルの答えが、「あなたのみがご存じです。」という答えではなかったかと思うのです。 このエゼキエルの信仰告白を通して、神は、「これらの骨に向かって、枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 その中に霊を吹き込む。 霊よ、四方から吹き来たれ。 すると、生き返る。 わたしが主であることを知るようになる。」と言われたのです。 神は、「墓を開く。 主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。」と約束されたのでした。 神はエゼキエルに「死」が支配している実相、神なき世界の憂いに満ちた姿に目をそらさず、今まで見えていなかった姿を見抜かせる。 墓場のようなところから、私たちを立上がらせ、生き返らせる。 息を吹き返しただけでなく、新しい創造とも言うべき回復と復興のために用いられるのです。 「焼野原、荒野原」と化し、望みを失った「枯れた骨、残された者」こそ、主なる神は生き返らせ、立ち上がらせ、ご自身のご用のために用いられるのです。 「枯れた骨、残された者」とは、絶望と落胆と悔い改めという神の前での霊的な「死」を体験した人たちのことを言うのでしょう。 「枯れた骨」がカタカタと音を立てて重なり合って、繋がり合って、そこに筋や肉が皮で覆われ、新しい大きな群れとなっていく。 南北に分裂していたイスラエルが再統一される。 イエス・キリストという一人の王、一人の牧者によって一つの民となっていくのです
[fblikesend]「信仰はどこにあるのか」 ルカによる福音書8章22~25節
新約聖書のみ言葉は、私たち人間による説明でも解釈でも、歴史書でもイエスの伝記でもありません。 イエスとともに歩んだ弟子たちのイエス・キリストに対する信仰による証言です。 人間の知性や経験や能力によって自然の脅威を克服していこうとする人間の姿と、その自然をも支配しうる神のみ業がイエス・キリストという人間の中に隠され、秘められている。 そのことを、弟子たちが自らの情けない姿と言動を敢えて書き記し、遺し、伝えているのです。 マルコによる福音書によれば、大群衆の前で多くの神の国の教えを語られ、弟子たちには神の国の秘密を打ち明けその疲れたままの状態でイエスは「その日の夕方、湖の向こう岸に渡ろう」と言われたのです。 弟子たちはイエスに従って船に乗り込み、その船旅の途上で「突風、荒波」に見舞われたのです。 ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネもガリラヤ湖の漁師でした。 この湖には、山から吹き下ろしてくる突風が起こることも熟知していたはずです。 熟知した漁師たちが慌てふためくほどの猛威により、小さな船は波をかぶって水浸しになり沈みかけた。 思ったように船を操ることができなくなった状態、嵐を恐れて振り回されている弟子たちの姿が記されています。 そこで、困り果てた弟子たちが、船の艫の方で眠り込んでいたイエスを捜し、「先生、先生、おぼれそうです。」 マルコによれば、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか。」とまで激しい憤りをぶつけるのです。 イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸に向けて船出して、安心されたのか疲れ果てておられたのか「眠っておられた」と言います。 イエスもまた疲労もし、休息を必要ともし、睡魔に襲われるひとりの人間でした。 しかし、親の懐で信頼し切って幼子のように眠っておられ、父なる神に信頼する「安らぎと憩い」に包まれた父なる神との「固い結びつき」を憶えるのです。 弟子たちの叫びと訴えに起こされたイエスは「起き上がって、風と荒波をお叱りになると、湖は静まって凪になった」と言います。 その直後に語られたイエスの言葉が「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」であったと言います。 同時に、「命じれば風も波も従うこのお方はどなたなのだろう。」と弟子たちは恐れ驚いたと言います。
この出来事は、次の宣教地「向こう岸」に向かう途上の船の中の出来事です。 イエスの穏やかに寝ておられた姿と、弟子たちの慌てふためく姿が対比されています。 ガリラヤ湖に慣れ親しんだ弟子たちでさえも自分たちの手に負えないものだと分かり始めた時、イエスに対する乱暴な叫びに至ります。 しかし、イエスの宣教の働きのために従って行こうとした弟子たちでした。 イエスに従わなければ出会うことのなかった嵐でした。 そこで初めて、弟子たちの叫びに応えて起き上がり、嵐に向かって「静まれ」とお叱りになったイエスの姿に、次第に弟子たちの心の目が開かれるのです。 イエスがお叱りになった相手は、愛する弟子たちを不安と恐れに陥れ、自由に操ろうとするこの世のすべての力です。 そのうえで、「あなたがたの信仰はどこにあるのか。 なぜ怖がるのか。 まだ、信じないのか。」と言われたのです。 イエスと共にイエスが目指すところに進む船の中にいる者たち、群衆と同じように聞いていただけで相も変わらない状態から一歩踏み出した者たち、自分の知恵や経験や能力だけでは抗うことのできないものに出くわした体験を味わった者たちです。 突風や波風はそのきっかけに過ぎません。 弟子たちは「このお方はどなただろう」と悟り知り言い表そうとした信仰の始まりを、自分たちの恥ずかしい姿、聴くに堪えない乱暴な叫びを通して証言しているのです。 イエスの中に神の力が秘められていることに気づかされ、埋もれてかすんでしまっていた弟子たちの信仰が呼び覚まされたのです。
「永遠の命という賜物」 詩編90編3~12節
詩編90編の詩は、「祈り」、「神の人モーセの詩」です。 イスラエルの民の偉大な指導者であったモーセの生涯そのものが祈り、賛美し、歌うのです。 モーセの波乱万丈の生涯を思い起こしてみてください。 イスラエルの民として生まれたモーセは生まれてすぐ、ナイル川に流される。 これ以上イスラエル人が増えないように、生まれたイスラエル人の男の子をナイル川に流すようエジプトの王が命じたのです。 この悲しい出来事に出会うひとりの赤ちゃんを、神はよりによってエジプトの王女に拾わせる。 イスラエル人でありながらエジプトの王宮で大事に育てられ成長していく。 成長したモーセは、同胞であるイスラエルの人々の苦しい奴隷の姿を見て憤り、エジプト人を殺してしまう。 ついには、イスラエル人の解放に立ち上がるが失敗し、落胆のうちに荒れ野に逃れ羊を飼う生活へとその身を寄せるのです。 ところが、神は一度選び出したモーセに、再び荒れ野からエジプトへ戻るようにと迫るのです。 イスラエルの民の救いのご計画の担い手としてモーセを立たせる。 悪戦苦闘の末、神の壮大なご計画を果たす者として先頭に立たせ、イスラエルの大群衆をエジプトの国から導き出すのです。 その後、エジプトの反撃、自然の脅威に悩まされながら、また、エジプトから連れ出してきた多くのイスラエルの民の反抗や不信に悩まされながら、40年もの間荒れ野をさまようのです。 苦労のうえに苦労を重ね、ついに約束の地カナンを目の前にするところにまでやってきた。 すると、ネボ山という山に登れとモーセは神に告げられる。 「あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。 イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。 それゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこには入ることはできない。」(申命記32:49-52)と告げられるのです。 体力、気力とも満ちあふれていたにもかかわらず、40年もの間目指してきたその地に一歩も足を踏み入れることが許されず、労苦を共にした人々に別れ一人モーセはその生涯を終えるのです。 人の目には波乱万丈の悲劇的ななんと痛ましい生涯となったそのモーセが、自身の生涯を振り返り、祈り、賛美する歌が詩編90編の詩です。 私たち造られた者の存在の限界を「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」と塵に返ることへの憂いとともに、自らの弱さや貧しさにより犯してしまった過ちのゆえに、消え失せる者であると告白するのです。 しかしモーセは、「わたしのもとへ帰れ」と言われる主なる神の声を慰めとして聞きます。 自らの生涯が肉体の死のもとにあるのではなく、神の永遠のみ腕の中にあると告白するのです。 同じように、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。」 同時に、「人は草のように移ろいます。」と、神の永遠と人間のはかなさを歌うのです。 私たちでは究め難い「時の流れ」に「神の時」が入り込む。 モーセは、その波乱万丈の生涯の中で何度も体験した「永遠の今」が、目の前を過ぎ去っていく「時の流れ」の中に隠されている。 労苦と災いに過ぎないと思える「人の今」の中に、「神の時」が結びつくならば、力と知恵と励ましと慰めが与えられる。 悲劇的な生涯の中に見る無限の意義をもつ「永遠の時」としてくださる。 「生涯の日を正しく数えるように、知恵ある心を得ることができるように、あなたの憤りをも知ることができますように。」と祈るのです。 イエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエスご自身を知ること」と語り、モーセは、「肉体の死は、神のもとへ帰る喜びの日であると、はかない「人の今」は「永遠の今」と結びつき新しく造り変えられると喜ぶのです。 「永遠の今」は「人の今」に起こり、「永遠の命」は「今の賜物」なのです。
[fblikesend]「キリストの言われる軛」 マタイによる福音書11章25~30節
冒頭に「そのとき」とありますが、並行記事であるルカによる福音書によりますと、福音宣教のためにイエスが送り出した72人の弟子たちが喜んで帰って来た時(ルカ10:21-22)とあります。 弟子たちが口々に、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と喜びの声を挙げている一方で、「数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めなかったので、イエスが叱り始められた。」とも記されています。 この宣教活動は失敗であったのかもしれませんが、イエスは父なる神に「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と感謝と喜びの祈りをささげるのです。 イエスはその地上での生涯を「父なる神の子」として、親子の交わりの中に終始生きられたお方でした。 イエスは、「わたしを見たものは、父を見たのだ。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」(ヨハネ14:7,8)とまで、父なる神との一体感を証言されています。 何をほめたたえているのかと言えば、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 父よ、これは御心に適うことでした。」と確信をもって祈るのです。 「知恵ある者や賢い者」とは、イスラエルの社会を牛耳っているユダヤ教の指導者たちのことです。 「幼子のような者」とは、今、イエスによって宣教の業に遣わされ、その計り知れない力と知恵に驚き、イエスの前で喜んでいる愛する弟子たちのことです。 片田舎の漁師であった人たち、取税人や安息日に礼拝を守れない社会的に疎まれていた人たち、小さな存在、無きに等しい人たちのことです。 「これらのこと」とは、イエスが盛んに語ってこられた隠された神の国の奥義、福音の恵みという父なる神のみ心のことです。 イエスはこの恵みの奥義が、「知恵ある者や賢い者」には隠されて、この「幼子のような者」に示された。 社会的に疎また力の弱い人たち、無きに等しい人たちという存在を通して、神の救いの業が起こされた。 この驚くべきことを感謝し、賛美の祈りをイエスはささげているのです。 「父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。 父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」と祈りを続けます。 父を他にしてだれもその子を知る者はいない。 み子によらないでは、だれも父なる神を知ることはできない。 すべてのことは、この世において父から子に委ねられていると親子の姿を語りつつ、神の子であるイエスを通して、神のご愛、神のご真実を受け取っていっている。 そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」と呼びかけるのです。 イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学びなさい。」(9:12-13)と言われていることを忘れてはなりません。 「知恵ある者、賢い者」に象徴される「正しい人」、「丈夫な人」ではなく、「罪人と呼ばれている人」、「病人」を招くために、律法の戒めによる「いけにえ」ではなく「憐れみ」を求めるのであるとイエスは言うのです。 「律法の軛、人間の正しさの軛」を捨てて、イエスと共に歩む労苦と不安と重荷を背負わされたすべての人のために、憐れみをもって「わたしの軛」を負いなさいと招いておられるのではないでしょうか。 「幼子のような者たち」が喜んで感謝しているように、「恵みの軛」を受け取りなさい、「柔和で謙遜な者」という神の平安のうちに憩う存在となるようにと願うイエスの祈りなのです。
[fblikesend]「今を生かされる」 フィリピの信徒への手紙3章1~11節
「あの犬ども、よこしまな働き手たち、切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」に、「注意しなさい、気をつけなさい、警戒しなさい」と、パウロはフィリピの教会の人たちに語りかけます。 罵声を浴びせ強く非難しているかのような激しい言葉から、緊迫した教会の事態を感じます。 パウロの対決姿勢は激しく鮮明です。 直接の相手はユダヤ人キリスト者たちでしょう。 最初の頃のキリスト者は、「キリストの復活」の事実によってユダヤ教徒の中から立ち上がって生まれてきたのです。 ユダヤ教の安息日を、キリストの復活を喜び賛美するために週の初めの日曜日に変えて礼拝する群れとして生まれてきたのです。 このキリストの十字架と復活の恵みを薄めて、慣れ親しんだユダヤ教の色合いを滲ませる「しるし」や「行い」を重んじようとするユダヤ人キリスト者たちに、異邦人伝道者であるパウロは「かつて」の自分の姿に決別し、過去を辿ってきて気づかされた新しい「今」の姿を明らかに示すのです。 罪の赦しや救いは、罪人自身の体に直接刻まれる切り傷である「割礼」によって果たされるのでも、罪人自身の生活に求められる行いによって果たされるのでもない。 自ら聖なる者になることのできない存在であり、自分のしるしや行いによって自ら聖なる者となることができると思うことこそ自分を誇りとするものである。 キリストがこの地上で果たしてくださった働き、恵みを空しくするものである。 このことをユダヤ人キリスト者たちに向けて、そして「かつて」のパウロ自身に向けても激しく語るのです。 「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人である。 律法に関しても著名な律法学者のもとで学んだ者で、その行いの熱心さにおいては非のうちどころのない者である。」と、生い立ち、家柄、学識、履歴、指導者、模範者として自らを誇っていたと自ら告発するのです。 そのうえでパウロは7節で、「しかし」、「かつて、自分にとって有利であったと思っていたこれらのことを、ある時から損失と見なすように、キリストのゆえになった。」と過去形で語ります。 8節以降においては、「キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と現在形で語るのです。 自らを厳しく律するパウロは、神の求められる要求がどれほど凄まじいものであるかを知らされていたのでしょう。 神の求める聖なる者とは程遠い者であると気づかされていたのでしょう。 そのパウロがダマスコへの途上で死んでよみがえられたキリストに出会った。 今までプラスと思っていたものがすべてマイナスと思うまでに逆転が起こされた。 「かつて」の自分との決別がキリストによって起こされた。 サウロという「かつて」の自分が「今」のパウロに造り変えられて生かされていると語るのです。 私たちは、この地上の旅の途上にあります。 途上にありながらも、キリストの死と復活に与かりキリストの体の一部として結ばれるのです。 肉体の死を越えて、このキリストとの結びつきは続くのです。 キリストが再びこの世に現れる時には、キリストと共に新しい体となって新しい神の国に現れ出ることになるのです。 パウロは、「キリストとその復活の力とを知り、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と語っています。 「かつて」の自分を見つめ、そこから断絶し、「今」の自分はキリストに絶えず捉え続けられている。 同時に、この自分もまたキリストを捉え続けようとしている。」と語り、「キリストに憶えられる、捉えられている、知られている」という恵みと同時に、「自らがキリストを憶える、捉える、知る」ことの大切さを「キリストと共に生きる喜び」の中に見出しているのです.
[fblikesend]「光と暗闇の関係」 マタイによる福音書2章13~23節
星の輝きだけを頼りに、はるばるエルサレムにまで尋ね求めやってきた「占星術の学者たち」が、やはりその通りであったと確かめることができた、その幼子を直に拝することができたという二重の喜びをもって自分たちの国へ帰って行った直後のことです。 喜びの時、良い知らせを受けた直後のことです。 主の天使がヨセフに現れ、「起きて、その子供とその母親を連れて、エジプトに逃げなさい。 そこで、私が告げるまで、そこに留まっていなさい。」と告げられたとマタイは言います。 その理由は、「ユダヤの領主であったヘロデが、この子を捜し出して殺そうとしている」からだと言うのです。 自分に取って替わる「新しいユダヤ人の王がお生まれになった」と「占星術の学者たち」が捜し始めていることを聞きつけ心穏やかでなかったヘロデが、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」と言うのです。 そのヘロデが死ぬと、今度もまた同じように「イスラエルの地に戻りなさい。」と言われた。 イスラエルに戻ったものの、ヘロデの後を継いだアルケラオが悪政をもって支配していたので、夢でのお告げに従い「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に身を隠して目立たぬよう移り住んだ」と、右往左往させられるヨセフとマリアと幼子イエスの小さな家族の姿を、マタイはわざわざ書き加えているのです。 そして、これらの出来事はすべて、聖書の預言通りの出来事であったとその都度付け加えているのです。 人間の世界の片隅で起こった小さな歴史に、これから始まる神の大きな救いの歴史が始まった、その明と暗の二つの歴史の絡み合った出来事であったとマタイは告白するのです。 権力欲に富み、「新しいユダヤの王」という存在が現れると聞いて、直ちにその幼子を捜し出し殺そうとするヘロデの姿。 ヘロデの自分勝手な都合により故郷を捨てなくてはならなくなったヨセフとマリアの姿。 どちらも私たち人間の姿を映し出しているのでしょう。 そのような小さな家族の上に神のみ言葉が臨んだのです。 「エジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。」 ヘロデの死後には、「イスラエルに戻りなさい。」 この時のイスラエルの厳しい状況から、「ガリラヤ地方に移り住みなさい。」と神のみ言葉に翻弄されたのです。 しかし、それらの出来事はすべて、神のみ心を果たすためであったと言うのです。 世界の歴史を塗り替えるほどの出来事がその身に起こされるイエスは、その使命を果たす為に幼子の時から守られている。 世界の片隅で起こされている小さな家族の歴史に、神の救いの大きな歴史の始まりが絡み合って始まっている。 ヨセフもマリアも幼子イエスも、またその周辺においても神の歴史が始まっている。 この一連の小さな家族の逃亡の歩みこそ、神の導きと神の約束のみ言葉に守られて歩む体験を人間として味わうものであったのです。 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)と記されています。 人間の歴史の虚しさ、底浅さを知れば知るほど、神の歴史の広さ、深さ、高さ、大きさを知ることになる。 自分の罪深さを知れば知るほど、神のご愛の赦しと救いの尊さと恵みを見出すことになる。 マタイも、人間の歴史の暗の現実に目を閉ざさずあるがままに見て、同時に、人間の歴史を越えて変わらず働いている生きた神の救いの明の歴史があることを見つけ出したのです。 小さな出来事にこそ、神の歴史は静かに始まるのです。 その呼びかけが、小さな存在を用いてみ心を果たしてくださるのです。 イエスは、暗闇に負ける姿を取られ、暗闇をも赦し、解放しようと、暗闇を越えた父なる神にすべて委ねられたのです。 光は今もって暗闇の中で輝き続けている。 暗闇は光に勝たなかった、暗闇は光を理解しなかったのです。
[fblikesend]「時代を背負われる神」 イザヤ書46章3~13節
第二イザヤと呼ばれる人物が記したイザヤ書40章から55章までの聖書箇所こそ、「唯一の神」であると指し示すことにおいて、旧約聖書の中で最高峰の箇所であると言われています。 バビロニアによって滅ぼされたイスラエルの民が、遠いバビロニアの都バビロンにまで移送され、苦しめられていたそのような時に、「ペルシャ王キュロスにより、今度はバビロニアが滅亡することになる。 その結果、イスラエルの民は解放され、救い出されることになる。」 今まで苦しんできたイスラエルの民にとって、大きな慰めに満ちた神の救いの約束の言葉、解放の希望の言葉が力強く呼びかけられたのです。 イザヤは「残りの者よ」、「背く者よ」、「心のかたくなな者よ」、「恵みの業から遠く離れている者よ」と呼びかけます。 栄光に栄光を重ね、人の目には成功を収めているかのような人たちではなく、自分たちの国土も神殿も失って打ちのめされて、異国の地に敗残兵、囚人として移送された人たちに呼びかけられているのです。 これから良い方向へと変化していくような事実もなければ、期待をもたらす見通しすらない、暗闇の中をさまよい続けている人たちに神は呼びかけているのです。
「わたしをおいて神はいない。 救いを与える神は、わたしのほかにはない。 わたしは自分にかけて誓う。 わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は取り消されない。 恵みの御業と力はわたしにある。」と言われ、今バビロンにある偶像の神々と比較させるのです。 ペルシャにバビロンが征服されたなら、動くことのできない置物である偶像は担いで運ばなければならない重荷となる「人に担がれる神」である。 しかし、私たち人間を造った神は、人間を造りかえることもできる神である。 イスラエルの民を「担い、背負い、持ち運び、救い出す神である。」 生まれた時から老いる日まで、全責任を負って「人を担ぐ神」である。 イザヤは、「天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方。」(45:18)であるとはっきり語るのです。 創世記1章2章の「天地創造」の信仰告白は、このバビロン捕囚の民によって、バビロン捕囚の時代に起こされたと言われるゆえんです。 自分たちを創造した神を忘れ、見失ってしまった私たち人間に、「唯一の神、天地創造の神、人を担ぐ神」として呼びかけるのです。 「背く者よ」、神の支配のもとに初めからあったこと、私たち人間の歴史が神の支配のもとに置かれていたことを思い起こせ。 「わたしが神であり、わたしのような者はいない。」 「心のかたくなな者よ」、「恵みの業から遠く離れている者よ」と、心を頑なに閉ざし、無理解のまま、独りよがりのままの私たち人間を、それでも立ち帰る者につくり変えようと招いておられるのです。 「わたしの計画に従う者」を遠い国から呼ぶ。 「わたしの望むことをすべて実行する者」を起こす。 そして、必ず実現させ、完成させる。 それも、「近く成し遂げる。 もはや遠くない。 遅れることなく、救いをもたらす。」と言っておられるのです。 この呼び起こされる者を、「残りの者、呼びかけに応えて来る者」とイザヤは言います。 これまでの自分の愚かさ、弱さに気づかされた者、自分のいた世界こそが暗闇であったと初めて気づかされた者ということでしょう。 私たちがしがみつき握り締めようとするのではなく、逆に、「背く者、心のかたくなな者、恵みの業から遠く離れている者」である私たち人間を、じっと背負われて捉えておられるお方がいるという喜びを心より賛美したい。 その喜びの根拠は、神の方が私たちを捉えて離さないというその「確かさ」にあるのです。 偶像礼拝から、バビロン捕囚から、古い自分から解放されて新しく造り変えられていくのです。 この救いの恵みに身を委ねてみることです。
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