「聖なる者」 ペトロの手紙一 1章13~26節
このペトロの手紙には、信仰を持ったがゆえに迫害され、離散して、慣れない異邦の地で息を潜ませ、肩身の狭い思いで暮らしていた寄留者たちの姿があります。 しかし、ペトロはその彼らに訴えます。 イエスの言う「隠された宝物」、「すべての持ち物をすっかり売り払っても惜しくないもの」を見出したではありませんか。 地上の生活では、失われて、貧しく、小さくなったけれども、枯れることのない、尽きることのない新しい命を得ることができたではありませんか。 「だから、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」 「あなたがたは召し出してくださったお方は聖なる方であるから、あなたがたもまた生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」と勧めます。 「聖なる者」とは、神によって神と同じものとして取り分けられる者という意味です。 父なる神が、そのもとから迷い出て、失われてしまった私たちを探し求めて、見つけ出して、ご自分の子どもとして取り分けてくださる。 ですから、この招きを受けた者たちの送るべき生活の姿をペトロは語るのです。 その姿は、いつでも心を引き締め、身を慎んでいる。 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となっていると言います。 いつでも素早く動けるように準備をする。 肝心な時に目を覚ましている。 みことばに耳を傾けることができるようになっている。 招いてくださったお方と同じ「聖なる者」になる用意がなされたから、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と、祝福と希望を語っているのです。
ペトロは、「あなたがたの信仰と希望とは、この神にかかっているのです。」 それも、金や銀のような朽ち果てるものによらず、「キリストの尊い血によって」、「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのです。」 「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」と言うのです。 私たちは、信仰のゆえに苦しみと悲しみを余儀なくされた先人の生活と同じ様を見る思いがあります。 信仰生活の喜びが失われる。 教会に仕えることに息苦しさを感じる時もあるでしょう。 どんなにすばらしい希望が約束されていたとしても、その確信があったとしても、背負い続けなければならない、また乗り越えなければならない今の現実が、私たちそれぞれにあります。 しかし、それが悲しくとも、苦しくとも、味わっていなければ、このはかない現実にしっかりと目を注いでいなければ、神のみこころも、神の裁きも、神の赦しも、神の愛も見えて来ないのです。 神が共におられ、私たちのうちに働きかけて、忘れかけていた大切な信仰を呼び起こす。 与えられている信仰、希望を見つめ直す。 この信仰の営みが、悲しみの中にある、苦しみを背負っている私たちにこそ求められているのです。 そのために、父なるお方がどのようなお方であるか、いつでも、それもひたすらに、生活のすべての面において知っておかなければならないとペトロは言うのです。 神の恵みに立ちなさい。 神のみことばに立つようにされなさい。 新たに生まれ変わらせていただきなさいと励ましています。 この神の愛を受けて、その愛のうちに生きるように、迫害、悲しみ、苦しみの中にありながら、神の恵みに立ち続ける、朽ちない生きたみ言葉に立ち続ける。 これが「聖なる者になりなさい」、「キリストに従う」ということなのではないでしょうか。 神に対してささげるものは、自分自身です。 十分の一ではありません。
「神の御心に適った悲しみ」 コリントの信徒への手紙二7章5~12節
この手紙の送り主であるパウロには、大変な出来事が起きていました。 パウロがいなくなった後のコリントの教会の中に、後から入ってきた人物が公然と「パウロには使徒としての資格がない」と批判し始めたのです。 パウロが熱心に進めているエルサレム教会への献金もまた、パウロ自身の私腹を肥やすものであると中傷したのです。 このことを伝え聞いたパウロは、『弁明の手紙』を書き送ります。 ところが、コリントの教会の実態は、パウロの予想以上に深刻でした。 自身が心血を注いだ教会から追放されたパウロは、深く傷つきます。 「わたしは悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(2:4)と証言しているように、『涙の手紙』を書き送ったのでした。 コリントの教会はパウロが設立した教会です。 その教会が、神のもとから離れてしまうことに危惧したのです。 『涙の手紙』は、パウロを侮辱し、深く傷つけた人物の処罰を強く求めるほどの厳しい手紙であったようです。 手紙だけでは不十分としたパウロは、信頼する同労者テトスを派遣します。 そのテトスに一刻も早く会ってコリントの教会の報告を聞こうと、すべてを残してマケドニア州にすでに渡り、テトスを待ちわびていたのがこの聖書箇所の場面です。
「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。 外には戦い、内には恐れがあったのです。」と正直に、その心境を語っています。 からだ全体が弱り果てたパウロが、ついに「テトスの到着によって」コリントの教会で起きた大きな変化が伝えられ、パウロは慰められました。 加えて、テトス自身が、コリントの教会の人たちから慰めを受けたことからもパウロは慰められました。 コリントの教会の変化の詳しい理由は分かりません。 パウロの書き送った『涙の手紙』の厳しさが、コリントの教会の人たちに衝撃を与え悲しませたのでしょう。 パウロが慰められたのは、自分が書き送った手紙を読んで彼らが変わったからではありません。 コリントの教会の人たちが犯した過ちに気づかされ、そのことに本当に悲しんで、悔い改めるまでにされたことでした。 そして、そのことをともに喜んで語り伝えているテトスの姿によって、パウロは慰められたのでした。 パウロは、「悲しみ」には、死に至る「世の悲しみ」と、人に悔い改めを生じさせる「御心に適った悲しみ」があると言います。 この世の悲しみには、自分の犯した過ちを悔いることも、気づいて責めることもあるでしょう。 しかし、そこには向きを変えるという新しい出発がありません。 裁きだけがあり、赦されることも、赦す存在もありません。 神の「御心に適った悲しみ」はそうではない。 過ちが過ちとして神によって裁かれ、そのことを本当に悲しむところに十字架の救いによる「赦しと祝福」が神によってもたらされます。 神の「御心に適った悲しみ」は、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる、神の賜物なのです。 パウロは、コリントの教会の人たちの「悲しんで悔い改めた姿」のなかに、「神の慰め」を見つめることができました。 彼らの「悲しんで悔い改めた姿」に、その教会を心配したテトス自身が慰められている姿にパウロは慰められたのでした。 パウロは、コリントの教会の姿にも、テトスの姿にも、「気落ちした者を力づけてくださる神」、「慰められる神」が働かれるのを見ることができたのです。 私たちの存在があるということだけで、どれほどそこに「神の慰め」、「神の力」が働いているかということです。 私たちの存在に力があるのではありません。 そこに、「慰められる神」が働かれるからです。 「神の力」が、私たちの存在を通して働かれるからです。 ですから、「神の慰め」、「神の力」を受け入れるため、私たちの存在を大切にしたいと思います。
「平和を創り出す者」 マタイによる福音書5章9節
新共同訳聖書では、「平和を実現する人々は、幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」 口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。 彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 新改訳聖書では、「平和をつくる者は幸いです。 その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とあります。 いずれも、「平和を実現する、平和をつくり出す、平和をつくる」人々は幸いである、と語られています。 14年前に、同時多発テロが発生し、アメリカの軍事力の象徴とも思える建物がテロの標的になりました。 もはや世界には、安全な場所などどこにもない。 この地上にどこにも、平和で覆い尽くされるところはない。 平和を創り出す方法など、この地上に存在しないのではないかと思わされました。 イエスは、平和を受けている人たち、平和の中にある人たちが幸いであるとは言っておられません。 今、どのような状態にあろうとも、「平和を実現する人たち、平和をつくり出す人たち、あなたがたは幸いである」と言っておられるのです。 イエスが語るこの「平和」とは、いったい何でしょうか。
聖書の言う「平和」とは、ヘブライ語で「シャローム」です。 イエスは、弟子たちを町や村に派遣するにあたって、この言葉をもって送り出しました。 「シャローム、平和があるように」と、町や村の人々に「神による平安」を祈ってあげなさいと、弟子たちを遣わしたのです。 旧約聖書のモーセの時代、モーセに従うアロンたちに、神の祝祷が与えられました。 「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24-26)とあります。 神によって祝福されている、守られている、豊かに恵みが与えられている。 この神との交わりの中にいる。 この信仰生活そのものの祝福を、「シャローム、平和」と聖書は語っています。 この時のことだけではありませんでした。 弟子たちが、イエスが十字架にかけられ意気消沈し、恐怖に脅え部屋に閉じこもっていた時です。 家の戸に鍵をかけて周囲を恐れていた弟子たちの真ん中に立って、傷ついた手とわき腹をお見せになってこう言われたのです。 「あなたがたに平和があるように」 このイエスの短い言葉によって、弟子たちは霊を注がれ、悲しむべきことを深く悲しむ力が与えられて、悲しみが喜びに変えられたのでした。 このよみがえられた「キリストの平和」を自分たちの体に刻みつけて、今度はこの祝福の証人として、「キリストの平和」をつくり出す者として、再び送り出されたのでした。 イエスは人の心の外にある見えるものを問題にしないで、人の心の中にある「敵意、憎しみ、恨み」を問題とされました。 これによって「真の平和」は破壊されます。 人の隠れた罪によって破壊されます。 きれいな装いに仕立てられた「偽の平和」によって、阻まれます。 「偽の平和」は、平和を主張する者どうしのぶつかりによって長続きしません。 そこでは、自分たちの罪に目が届かないのです。 「真の平和」は、イエス・キリストの十字架による救いによってしかもたらされません。 パウロは、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に和解を得ている。」(ローマ5:1)と言います。 この神との和解を得ている者が、神の子と呼ばれるのです。 「キリストの平和」をもたらす使者となるのです。 「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3:18)と言います。 「真の平和」は、キリストの十字架の愛に出会った人たち、神の愛に触れた人たちによって蒔かれる、創り出されると語っています。 私たちは、この恵みと、希望と、務めを神の賜物としていただいているのです。
「キリストを体験する」 ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と、パウロは短く語ります。 私たちは皆、神の子である。 「信仰」によって、私たちは「神の子」となる。 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17) キリストの言葉を聞くことによって、キリストに結ばれたから神の子になると、パウロは言っているのです。
ヨハネによる福音書のイエスの最初の弟子たちの姿を見ますと、彼らは「メシアに出会った。 来て、見なさい。 来てみれば分かる。」と、イエスに出会った喜びを語りました。 そして、隣人をイエスのもとに連れて行くのです。 イエスの語るみことば、イエスの生きている姿こそ、「神の言葉、神の姿」そのものであるという体験の喜びが、「メシアに出会った。 来て、見なさい。 来てみれば分かる。」という信仰告白になったのでしょう。 弟子たちが、イエスの「教え」が分かったからではありませんでした。 イエスに出会い、そのもとに連れて来られて、イエスとともにそこに留まって、イエスとともに生きる体験をしたから、信じることができるようになった。 これが、彼らの喜びではなかったかと思います。 彼らの側に何か特別なものがあったわけではありません。 また、呼び寄せられる特別な理由があったわけでもありません。 弟子たちと同じように私たちもまた、「イエスと共に生きる」、「信仰により、このキリスト・イエスに結ばれる」ことによって、神の子とされる恵みのもとに招かれたのです。 私たちのあやふやな信仰のうえに、キリスト・イエスに結ばれているのではありません。 私たちの心構えや信仰の深さによって結ばれているのでもありません。 パウロは、このことを「神の子とする霊を受けたのです」(ローマ8:15)と表現しています。 キリストを信じて従う者には、神の側から必ず霊が与えられる。 霊が私たちの中に宿る時、私たちは神の子となる、キリストのものになる。 私たちの体験がどのようなものであれ、霊によってキリストに結ばれ、神との交わりに生きる者となる。 その理由を、パウロは「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と言います。 パウロの言う「信仰」とは、私たちの努力ではなく、神の側からの約束の霊を受け取って、キリストに結ばれることである。 キリストと共に生きる、従うことである。 この霊的な体験の事実を、「キリストを着る者」とされると表現しているのです。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と、パウロは言いました。 口で、心で、全身で、キリストに結ばれることが信仰でした。 更に、パウロは「あなたがたは皆、キリストを着ているから、キリスト・イエスにおいて一つとなる」恵みを加えます。 キリストに結ばれるという平安を一人一人に与えて、そこにキリストの体、教会の群れを起こすと宣言しているのです。 この手紙が書き送られたガラテヤの教会は、様々なことで混乱をもたらされていた教会でした。 パウロはそのような現状の痛み、悲しみを超えて「あなたがたは皆、キリストを着ているから、キリスト・イエスにおいて一つとなる。」 現状はどうであれ、「キリストにおいて一つとなる」という希望を語ったのです。 自分の位置が分からなくなったガラテヤの教会、神のもとから離れてしまった私たちに「わたしのもとに帰りなさい」と言われる。 神に捨てられるという一切の罪を担ってくださった、そのキリストが「死んではならない、私と結ばれて生きなさい」と、新しい生涯をそれぞれに与えてくださっているのです。
「幸いである貧しい人々」 ルカによる福音書6章20~26節
イエス様は祈るために山に登られました。 とても大事な祈り、十二人の弟子を選ぶための夜通しの祈りでした。 父なる神のみこころを尋ね求め、ついに祈り終えて、翌朝、その十二人の弟子たちを呼び集められたのです。 彼らと共に山から降りて来て、平らな所にお立ちになった時、イエスは弟子たちを見て「貧しい人々は幸いである」と言われたのでした。 病気を癒していただくために、汚れた霊に悩まされ不安や苦しみから解放されるために訪れた人々で埋め尽くされたところでした。 聖書は、そこを「平らな所」と言います。 病いや痛み、不安や苦しみが渦巻いているこの世の現実の場で、選ばれた弟子たちを呼び寄せ、イエスは「貧しい人々は幸いである」と語られたのです。 この厳しい現実を、私たちがどのようにして生きていくのか、またイエスの名のゆえにこれから虐げられたとしても、どのような希望をもって私たちは歩んでいくのか。 イエスは、ひと言で語られたのです。 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人はきれいになり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 この良き知らせと癒しはすでに訪れている。 最も「祝福」から遠い存在と思われた人たちにこそ、「祝福」を与えるために、私は訪れている。 そのことを、選ばれた弟子たちの前でイエスは語られたのです。
イエスの言う「貧しい人々」とは、預言者イザヤが語っていた「抑圧されて、自らどうすることもできない、希望を取り上げられた人たち、起こりようがない奇跡が実現する以外には立ち直ることができない人たち」であったのでしょう。 その「貧しい人々、今、飢えている人々、泣いている人々、主イエスのために憎まれている人々は幸いである。 しかし、富んでいる人々、今、満腹している人々、笑っている人々、すべてにおいて褒められている人々はわざわいである」と言うのです。 この世の尺度で言えば正反対です。 しかし、イエスは、当時の社会の状態を憐れんで、今の状態と将来の状態は逆転する。 自分には何ひとつ頼るべきものがない、この状態が逆転する以外に救われるすべがないとする人たち、そのような人たちが幸いであると言っているのです。 私たちには、自分で自分を救う力などありません。 神の憐れみとそのみこころによって生きているだけです。 そのことに気づかされた者こそ、自分の「貧しさ」を知った者ではないでしょうか。 今の私たちの社会ではどうでしょうか。 むしろ、自分を頼り、人の評価に頼り、身につけているものにしがみつき、「貧しい人」になることができない者なのではないでしょうか。 自分の本当の貧しさに気づいていないのでしょう。そのために十字架の姿が見えていないのです。 イエスは、すべての罪のために、徹底的にご自身を打ち砕かれたお方でした。 すべてのものを奪われたお方でした。 枕するところさえもなかったお方でした。 その極限の貧しさのうえに、父なる神はイエスを聖霊で満たし、よみがえりの命を与え、私たちが生き返る新しい道を切り開いてくださったのです。 イエスは、その「貧しさ」を自ら進んで受け取った祝福として、「逆転」と「よみがえり」が与えられました。 そのお方に結ばれようとしている人たち、「あなたがたは幸いである。 神の国がすでに与えられている。 逆転とよみがえりの命はあなたがたのものである。」 そのように聞こえてはこないでしょうか。 イエスは、「神の国があなたがたのものである」から幸いである。 その貧しさも飢えも、神の豊かさによって満たされるから幸いであると言っておられるのです。 私たちは、神の前に豊かになるために招かれています。 偽りの「豊かさ」から本当の「貧しさ」に立ち帰りなさい、主イエスの十字架と復活の豊かさで満たすと約束しておられるのです。
「嵐の中でイエスは」 マルコによる福音書4章35~41節
イエスは、ガリラヤ湖に船を出して、その船に腰を降ろして、大群衆に向けて大きな声で話始められました。 有名な四つのたとえを語り、「あなたがたに神の国の秘密が打ち明けられている」と言われたのでした。 その直後、「向こう岸に渡ろう」と自ら言われて、漕ぎ出した際に起きた出来事が今日の聖書箇所です。 向こう岸に渡るその途上で、「突風を静める」という奇跡を、また向こう岸である異邦の地に渡って、「ゲラサ人をいやす」奇跡、「イエスの服に触れた女性をいやす」奇跡、「ヤイロの娘をいやす」奇跡を次々と起こされたその最初の奇跡が、今日の聖書箇所です。
イエスは、大群衆に向けて大声で語り、大変お疲れになったのでしょう。 船の艫の方で枕をしてぐっすりと眠っておられたと書かれています。 自ら、向こう岸に渡ろうと船を出して、後は弟子たちに託して穏やかに眠っておられるのです。ガリラヤ湖に手慣れた弟子たちでさえも、目の前に突風が吹き、波が襲いかかり、なすすべがない。 この嵐は手に負えないと分かり始めた時のことです。 順風の航海中には、その存在すら眼中になかったイエスを思い起こします。 この船出は、イエス自ら渡ろうと言われたことではないか。 そのイエスが、船の艫の方で枕をして眠っているではないか。 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」 弟子たちは嵐の中で、「何もしないイエス」、「眠っておられるイエス」に鉾先を向けます。 目の前の恐れからだけではなく、イエスに対する憤りすら感じさせながら叫んで、穏やかに眠っておられるイエスを突然起こしたのです。 この弟子たちの乱暴な叫びに、イエスはそれに応えて起き上がられたのです。そして、先ず、「風と湖と波」に向って、まるで人に語るように叱ったと書かれています。 イエスは、弟子たちを「恐れと憤りと不安」に陥れているものに向って、「黙れ、静まれ」と叱ったのでした。 それと同時に、弟子たちに「なぜ怖がるのか。 まだ信じないのか。」と言われたのでした。 たった今、あなたがたは、神の国はこのようなものであるとその福音を、すぐそばで聴いていたはずではないかと叱られたのです。
しかし、弟子たちは慌てていたとはいえ、イエスが一緒にこの船に乗っておられることを思い出したのです。 そして、眠っておられるイエスを呼び起こしたのです。 そして、この嵐をイエスとともに体験したのです。 イエスに対し信頼を置いていたと思っていた。 ひと度、事が起きてしまえば消えてしまうような、自分の信仰の足りなさを思い切り知らされたのです。 その弟子たちの叫び声を、イエスは聞いて起きてくださった。 一緒に、嵐の中を、向こう岸に向けて導いてくださった。 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」 この恥ずかしい叫びを、弟子たちがわざわざここに書き遺しているのは、この出来事によって神への信頼を求めることを心の底から知った。 弟子たちの本当の向こう岸への旅がここから始まったからなのではないでしょうか。 「イエスの沈黙」、「イエスの眠り」は、私たちの信仰を揺り動かすためです。 たとえ、周囲の状況が何も変わらなくとも、このイエスと共にあるという平安があります。 私たちの信仰が揺らいだ時に、イエスは起き上がられます。 「黙れ、静まれ」と、私たちの心の奥であやつるこの世の霊を静めてくださいます。 そして、「まだ信じないのか」と私たちを叱ってくださいます。 これこそ、本当の恵みなのではないでしょうか。 私たちの口に、新しい賛美の歌を授けるためです。 私たちの耳を開かせるためです。 「眠っているイエス」が、私たちを揺り動かして、私たちの信仰を目覚めさせておられるのです。
「見えないもの」 コリントの信徒への手紙二4章16~18節
肝心なことは目に見えない、そこに重要なものが隠されている。 世間一般でもよく言われることです。 見えるものばかりを見ていると、見えないものを失っていく。 パウロは、そういう意味で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」と言っているのでしょうか。 パウロは、「わたしたちは、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。 喜ばしくない苦しみの中においても、神を信じて生きていける。 喜ばしくない見えるものに取り囲まれても、そこに神が働いてくださると信じることができる。 私たちの見える世界こそ、神ご自身の果たすべきみこころを成し遂げるために、黙って忍耐して働いておられる。 私たちが、その神のもとに立ち帰って神との正しい交わりを回復するなら、今まで見ることのできなかった神のみこころが見えるようになる、分かるようになる。 私たちの苦しみ、痛みこそ、この隠された神のみこころを知らせるものである。 そこに私たちの希望がある。 「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」とパウロは言うのです。
主の祈りの第三の祈りを思い起こしてみてください。 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」 この祈りが、私たちに赦されています。 イエスもまた、十字架の直前に、ゲッセマネでこの祈りを悲しみ悶えささげました。 「わたしの願いどおりではなく、みこころのままに」でした。 そして、神のみこころによって与えられた十字架の道を、自ら進んで歩まれたのです。 神のみこころが現れ出るところには、信じ、委ね、従う者の姿があります。 そこには必ず、神と人との祈りと交わりが存在します。 神のみこころに委ね、信じて歩む者の祈りと、それに応える神との交わりがある。 そこに、神のみこころが働かれるということです。 そして、実に、その祈りこそ、神が霊をもって導いて、創り出しておられるということです。 「あなたがたの内に働いて、みこころのままに望ませ、行わせておられるのは神である」とみことばは語ります。 私たちが与えられている祈りは、「天になるごとく」です。 天において約束されているみこころが、この地においても果たされる。 この神のみこころは、神との交わりによって、私たちというこの小さな存在を通して果たされるのです。 信じ、委ね、従う私たちの姿に、神のみこころは天から降って来て果たされる。 この務めと希望が、私たちに託されていると言うのです。 パウロは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、落胆しません。」 「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていくからです」と言っています。 神はひたすら、私たち一人一人に神のもとへ立ち帰ってくるようにと願っています。 失われた羊を探すように、見つけ出し、捜し出して、恵みと祝福を与えようとされています。 これが、天になるごとくなされる神のみこころです。 ですから、苦しみに耐えられる十分な助けが与えられます。 信じる力、祈り求める力、従う力も添えて与えられます。 落胆しないで神のみこころだけを求めて歩むのです。 そこには、「一時の艱難とは比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」がある。 「過ぎ去っていくもの」ではなく、「永遠に存続するもの」が与えられる。 五感で感じたり、体験することのできない、朽ちることのない霊の体によみがえるという希望が与えられる。 パウロは、見えるものと見えないものという道徳を語っているのではありません。 自然の体が朽ちない霊の体によみがえり、みこころのままに約束された新しい天の国に招き入れられる。 その「よみがえり」を、パウロは「見えないもの」と言っているのです。
「パウロの手紙の結び」 ローマの信徒への手紙15章13~21節
今日、取り上げさせていただいた15章13節こそ、有名な「ローマの信徒への手紙」の最後の締めくくりの言葉ではないかと強く思わされます。 「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」という言葉です。 どう読んでも、この手紙の結びはパウロの祈りです。 「希望の源である神が、希望に満ちあふれさせてくださるように。」というパウロの希望の祈りです。 パウロはその生涯を通して、確信して、この祈りによって手紙を結んでいます。
神の言葉である聖書を読み進めていきますと、不思議なことに気づかされます。 神は、いろいろな人を通してあらかじめ準備しておられることです。 その準備を、「このようにする、このようになる」と約束を告げておられることです。 そして、神は、その約束をご自身が果たすという形で、ご自身の働きを現わしておられることです。 聖書のなかで物語られていることは、この約束を告げるということ、その約束は必ず果たされるということです。 そこに、神の働きがあります。 取るに足りないひとりの人が用いられていきます。 神の約束が与えられているが、未だ果たされていないところに、「約束を信じる」という「信仰」が私たちに与えられます。 その「約束は果たされる」という「希望」が私たちに与えられます。 ですから、私たちはとても信じることができないようなことでも信じることができます。 神の約束があるからこそ、希望を持ち続けることができます。 そこには、神のもとに立ち帰って生きることを望んでおられる「神の愛」が注がれて、支えているからです。 このことこそ、パウロが語った「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」という言葉の意味ではないかと思うのです。
パウロの生涯を思い起こしてみましょう。 彼はユダヤ人でした。 ユダヤ教徒の指導者でその中心にいた人でした。 自分が生きてきた世界こそ、正しいと信じてきた。 これが絶対と信じて、苦労して築き上げてきた。 それが、ある日突然、イエス・キリストの呼びかけによって、根底から覆されました。 今まで見えていなかったもの、見ようともしなかったものに、パウロの目が開かれたのです。 今までのユダヤ教の世界から出て、「異邦人のために」、迫害の対象にしてきた「キリスト・イエスに仕える者」になったのです。 パウロは、すでにこの時、ユダヤ人も異邦人もない、奴隷も自由人もない、男も女もない。 この地上での多少の違いなど、「終わりの日」には問題でなくなる。 その「終わりの日」が来ることが、今、約束されている。 私たちのそのままの姿で神に赦され、迎え入れられている世界がパウロには見えていたのです。 このことが、「信仰によって」、知らされる。 喜びと平和で満たされる。 「聖霊の力によって」、知らされる。 希望に満ちあふれさせてくださる。 ですから、パウロは手紙の結びに、信じることができないことを信じて生きる。 その奇跡とも思える約束を待ち望んで生きる。 新しい命に創り変えられるという希望を持ちながら生きる。 この「希望の祈り」を、最後に語ったのです。 パウロは「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(コリント一15章42-44節)と言っています。 自然の命が与えられるのも、死んで霊の体に復活させられるのも、神の創造の働きです。 「神は何でもできる」と信じる信仰こそ、死者をも復活させると信じる信仰によって完成されるという「希望の信仰」です。 パウロは、この手紙の最後にこの「希望」を祈っています。
「愛の借りを返す」 ローマの信徒への手紙13章8~10節
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」 原文では、真っ先に「だれにも何も借りてはならない」、その後で「ただし、お互いを愛することだけは別である」という意味合いです。 聖書の学び・祈り会で、一章一節たりとも飛ばさずに読み続けてきたローマの信徒への手紙の大きな流れのなかで、このみことばが与えられていました。 パウロはこの手紙の12章で、教会の中の信仰生活について語ります。 その後の13章の前半で、教会の外、社会の一員としてのふるまいについて語ります。 教会の中において、また教会の外においてとるべきふるまいを語り終えて、もう一度、そのふるまいをまとめて語っているのが今日の短い箇所なのです。 自分の義務を果たす、自分が背負っている借りを返す。 パウロは、「借りを返す」という人としての価値観を用いて、当然のふるまいをすべきであると説きます。 主イエスが語った「皇帝のものは皇帝に返しなさい」というみことば通りです。 しかし、「互いに愛し合うこと」だけは別であると言います。 「愛する」ということは、隣人に与える贈り物ではありません。 神に対して、隣人を通して返すものです。 それも、生涯を通して返し切ることのできないほどの大きな借りである。 生涯これを背負って生きる、神から恵みとして与えられた借りである。 神がそうするように求めておられる借りであると、パウロは語っているのです。 これが、主イエスが語られた「神のものは神に返しなさい」というみことばの意味です。 主イエスが、かつてたとえを用いて語られました。 主君から一万タラントンという莫大な借金をしている家来が、自分にわずか百デナリオンの借金をしている仲間に「借金を返せ」と言っているたとえでした。 そのたとえの中で家来に語られた主君の言葉、「お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」 主イエスは、このたとえを心を痛めながら語っています。 愛は、神から出てくるものです。 ですから、互いに愛し合って、神に返しましょうと聖書は語っています。
主イエスは六百を超える律法のすべての戒めを、ふたつに集約されました。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を、自分のように愛しなさい。」というみことばでした。 すべては、この神のもとから出てくる「愛するということ」に集約されると言われたのです。 ですから、もし、どうしても隣人を愛することができないなら、もう一度、私たちは神の前に立ちましょう。 どれほど、私たちが神に愛されてきたかを思い起こしましょう。 神から与えられたそのひとつずつを数えて、そのひとつだけでも隣人を通して神に返しましょう。 神からいただいただけで、返さないということは、神のみこころではありません。 パウロが語る「隣人」とは、受け入れやすい人だけのことではありません。 この手紙の中で表現されているように、「わたしたちを迫害する者、飢えている敵、渇いている敵」のことです。 私たちが愛することができないと言っているその貧しさを、神はそのもとから注がれる神の愛によって満たし、愛することができるようになる。 愛することこそ、神が求めておられることである。 愛はすべての戒めを全うすることになると言っているのです。 愛するということは、霊によって与えられる神様からのプレゼントです。 神を愛することができる人は、隣人に向けてどんな戒めでも守ることができるようになる。 神のみこころを成し遂げることになるとパウロは語っています。
「神の物語を生きる」 マタイによる福音書24章32~35節
イエスの弟子たちが、通りすがりに「生まれつき目の見えない人」を見かけて、イエスに尋ねました。 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。 それとも、両親ですか。」 心の痛む、弟子たちの質問です。 この質問に、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」と答えられました。 この意味を、これから起こる神の業が教えてくれる。 これから現れ出る将来の神の業に委ねるべきである。 今、この人の身の上に起きているこの出来事の意味は、これからこの人の上に現れる神の業が教えてくれると、イエスは言うのです。
この神の業が現れることについて、「いちじくの木から教えを学びなさい」と、今日の箇所でイエスは言います。 「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」 未だ夏の気配がない時であったとしても、いちじくの木のわずかな変化で、夏の収穫の刈り入れの近いことが分かる「しるし」が与えられる。 この地上の世界には、必ず、収穫の刈り入れという「終わりの日」がいずれ来る。 神の国が完成する「終わりの日」が来る。 イエスは、このことを弟子たちに「いちじくの木のたとえ」を用いて告げられたのでした。 ですから、いちじくの木の「しるし」を見つめながら、この「終わりの日」を待ち望みながら生きることを、イエスは「目を覚ましていなさい」と表現されておられるのです。 イエスは、「終わりの日」を知り、見つめることを求めておられます。 イエスが十字架に架けられて、死んでよみがえられたのは、「終わりの日」の前触れです。 この復活こそ、「終わりの日」に起こる出来事の先取りであり、「終わりの日」の始まりです。 「終わりの日」は滅びではない、神の国が完成される祝福である。 「終わりの日」を見つめながら、今を生きることを求めておられるのです。
これらイエスの預言されたすべてのことが起こるまで、この時代は終わらない。 私が預言することを見たなら、私はすでに戸口に近づいている。 終わりの日、最後の刈り入れの時が戸口に近づいていると悟りなさいと言います。 見えるものに惑わされて、神の業を見失ってはならない。 答えが与えられないままでも、神の業を問い続ける。 このことに耐えられず、今、自分が持ち合わせている知識や常識に逃げて、安易に答えを出してはならないのです。 外見ではまったく同じ生活をしているように見えても、この「終わりの日」を見つめて生きる者は違う。 この「終わりの日」を、この世の滅びとしてではなく、神の祝福として受け取ることのできる者は違うのです。 あなたがたは、十字架と復活の救いの事実から、再び主が来られる日、神の国が完成される「終わりの日」までの間を生きることになる。 「終わりの日」を、希望として待ち望んで生きる。 今は、「終わりの日」の始まりをあなたがたは生きている。 ですから、「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」と、イエスは約束してくださったのです。 私たちの中には、滅びないものなど何も持ち合わせていません。 「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と語る主イエスが宿ってくださいます。 このお方の「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない」という約束を、「終わりの日」の始まりを生きる私たちの土台としたい。 聖書は、私たちの小さな生涯、物語を超えて、壮大な神ご自身の計画、物語を語ってくださっています。 この朽ちないみことばに聴きながら、信じて、希望をもって歩んでゆきたい。
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