「蒔かれた成長する種」 マルコによる福音書4章26~29節
マルコによる福音書4章では、三つの「種のたとえ」が語られています。 イエスは、このたとえを「神の国はこのようなものである」、「あなたがたに神の国の秘密が打ち明けられている」と言います。 主イエスは、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 そのみ言葉を聞いて受け入れる人は、たくさんの実を結ぶ。」 「どんなにその種が小さな存在であったとしても、蒔かれた種は大きく育ち、実を結ぶ存在となる。」と約束されました。 しかし、この箇所では、「種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は成長するけれども、どうしてそうなるのか、種を蒔く人には分からない。」と言います。 種が土に蒔かれて、先ず芽が出る。 茎ができる。 穂がなる。 その穂に実ができる。 その実が熟して収獲するまでになる。 「種を蒔く人」とは、種の中にある命が自ら成長していくことを知っている、蒔かれたその所が種を育むと期待している、そこに必ず実がなると信じて待つ者であるとイエスは言います。
私たちが気づいていようがいまいが、種はすでに蒔かれています。 父なる神はすでに、ご自身の業を進めるために、働き始めておられます。 命が託されている神の言葉は、私たちの工夫や能力を越えて、それ自身の生きる力によって成長します。 神が始められた業が終わりを迎え、収穫の時がやってくる。 神ご自身が鎌を入れる時がくる。 豊かに実った実が、ご自身の手で祝福のうちに集められる。 そのひとつひとつが神のもとに集められる。 イエスは、「神の国はそのようなものである」と、「神の国の秘密」を私たちに打ち明けられたのです。
イエスは、愛する弟子たちがイエスの語る福音の種を、蒔いても蒔いても実のならないところがあることをご存知でした。 しかし、イエスご自身の中には、父なる神に蒔かれた種がすでに息づいている。 約束された「神の国」が、イエスご自身のからだのなかに宿り、息づき、すでに始まっている。 イエスこそ、与えられた種を養い、育み、父なる神のみ心に委ねて、父なる神の収穫の時、ご自身の時をひたすら待っておられる。 一粒の種となって、地に落ちて死んで、そこから多くの命が回復される。 そこに多くの実がなり、刈り取られる。 イエスはこのことを感じ取って、この「成長する種のたとえ」を語られたのではないでしょうか。
福音という神の言葉、種が蒔かれるところに、神の国が現れ出てくる。 神の言葉を聞いて、主イエスを信じる者が起こされる。 なぜそうなるのか、私たちには分からない。 しかし、種を蒔く人がいるから、苗を整える人がいるから、水を注ぐ人がいるから種は成長するのです。 ですから、私たちはこの福音の種を託されたその場で、託されたわずかな生涯に、種を蒔き、信じて、希望をもって手入れするのです。 すべてをご存じの収穫の主が、「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した」と、私たちをそのみもとに集めてくださるまで、その務めを果たすのです。 主イエスこそ、私たちの中に蒔かれた福音の種です。 この種には命があります。 自ら生きて、働いて、成長します。 なぜなら、この種には神の深いみ心と力があるからです。 成長は、その当然の証しです。 私たちに、この種が託されています。 どのように働かれるのか、私たちには分かりません。 一切、左右することも、指示することもできません。 しかし、私たちは、種を蒔くことができます。 成長させることはできませんが、成長することを信じて、祈って、世話をすることができます。 その豊かな実りの収穫に立ち会うことができます。 その収穫を伝えることもできます。 その実りや収穫が見えないからと言って、種がないのではありません。 すでに種は蒔かれています。 それが、イエスのたとえにある、既に始まっている「神の国」なのではないでしょうか。
「世界の片隅に訪れたクリスマス」 ルカによる福音書2章1~7節
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。 イエスがお生まれになった頃とは、世界制覇を果たしたローマ帝国が益々その支配を高めようと、人口調査を行い全住民の戸籍や資産の登録を行わせ、それに基づいて税金を徴収していたのです。 「ローマの平和」と呼ばれる基礎を築いたのが、この皇帝アウグストゥスです。 だれにも相談することなく、自分一人で決めることのできる命令、「勅令」を発することのできる絶対的な権力を持っていた人物でした。 まさに、人間が神という絶対者になった時にできる命令です。 そのような頃に、聖書は誰の目にも留まらない若夫婦、ヨセフとマリアを登場させます。 彼らも同じように、宿屋を見つけることができないくらいに混雑しているヨセフの町ベツレヘムに、住民登録をするためにやって来ていたのです。
世の中は、神となった皇帝の絶対的な命令に動いているように見える。 人々の大移動が引き起こされているほど、大きな動きになっている。 しかし、今、小さな家族の中に一人の赤ん坊が生まれるという小さな変化が起きている。 しかも、ローマ帝国が支配する全世界の中では小さな国ユダヤ、それもベツレヘムという小さな町、その片隅にある家畜小屋の中で、世の中の大きな動きよりも重大な、神の働きによる絶対的な力が粛々と静かに動いている。 全住民に一斉に命令するような仕方ではなく、一人一人の小さな人生に働きかけて、決定的な変化をもたらすという仕方で神が働きかけていると聖書は語ります。 マリアの生涯は、神から託された息子を見つめ続ける生涯に変えられました。 そして、ついにイエスと名付けられた我が子が、自分たちすべてのために捧げられた「神の小羊」であることに気づかされ、余す生涯がそのことを証しするものになったのです。 ヨセフの生涯も、その長さこそ違え同じです。 居場所のなかった羊飼いたちも、異教の地にある東方の学者たちも、「布にくるまれた飼い葉桶に寝かされた赤ん坊」を見て拝み、もとの場所に戻って神の意志が働いていると伝えたのです。 そのために選ばれた一握りの人びとが、たた神の恵みだけによってその事実を知らされたのでした。 この時の宿屋の主人の姿を憶えます。 ひと組の家族だけにかまってはおれないほど、その夜は忙しかったのでしょう。 マリアとヨセフに泊まることを一度は断ったのでしょう。 しかし、身重のマリアに気づいた彼は「家畜小屋なら」と通したのです。 ところが、そのことで彼が予想もしなかったことが起きたのです。 人知れず、一人の赤ん坊が生まれた。 その生まれたての布にくるまれた赤ん坊を訪ねて、羊飼いたちが喜び勇んでやって来た。 東方の国からも学者たちが捧げものを携えてやって来て、その赤ん坊を拝んだ。 この不思議な家畜小屋の光景を、彼はどう受け止めたのでしょう。 それすらも気づかなかったのでしょうか。 ダビデの町、ベツレヘムに救い主がお生まれになるとは預言書ですでに語られ、先祖伝来伝えられていたことです。 ユダヤ人であるなら、ましてやベツレヘムの住人であるなら、彼はかねてより聞いていたはずです。 しかし、この世の権力者の引き起こすことに心を奪われてしまっていた。 語り継がれていたよき知らせの「しるし」に気づかなかった。 心に留めることもなかった。 彼の心のどこにも、救い主イエスを迎え入れる場所を用意していなかった。 無関心であった。 神に導かれたマリア、ヨセフ、羊飼い、学者の姿に、その「しるし」を見抜くことができなかったのです。 これこそ、私たちの姿です。 聖書は「彼らの泊まる場所はなかった」とは言いますが、「イエスのいる場所はなかった」とは言いません。 居場所のなかった彼らのいる場所こそ、そこにイエスは遣わされると最初のクリスマスは語っています。
「クリスマスの喜びと畏れ」 ルカによる福音書2章8~20節
福音書は、「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と言います。 私たちの救い主イエスの誕生は、家畜小屋であった。 家畜の餌を入れるための飼い葉桶の中に、イエスは布にくるまれて寝かされていた。 そして、そのイエスの誕生が主の使いによって最初に告げられたのが、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたち」であった。 主の使いが羊飼いたちに近づいたその時、「主の栄光が、周りを照らした」と語ります。クリスマスは、突然の主の業でありました。 主の存在が、羊の群れの番をしていたところに、また飼い葉桶に寝かされているところにくっきりと輝いたと言うのです。
パウロは「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(コリント二4:6)と回想しています。 羊飼いたちは、飼い葉桶に寝かされた、「神は我々と共におられる、インマヌエルの主イエス」の御顔に輝く光を感じ取ったのでしょう。 「羊飼いたちは非常に恐れた」と書かれています。 神がいつもおられる、神の前に隠すことも逃げることもできないところ、そこには私たちの畏れがあります。 非常に恐れた羊飼いたちに、主の使いは「恐れるな」と言います。 この知らせは、喜びのためである。 それも民全体に与えられる大きな喜びを告げるためである。 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ、主メシアである。」と、最初のクリスマスが告げられたのでした。 この福音が告げられた「今日」、神のみ心が成し遂げられた。 その救いの「しるし」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると言うのです。 この「神の小羊」という称号にふさわしい姿が、「家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた赤ん坊」であると告げられたのです。 羊飼いたちは、ユダヤ社会からは枠外にあった人たちでした。 この世に居場所のなかった人たちと言えるでしょう。 また、イエスがお生まれになったところは、ベツレヘムという町、それも家畜小屋で人知れないこの世の片隅であったのです。
最初にこの喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、ただ聞くだけには留まりません。 彼らは、その知らせを最初に信じた人たちでもありました。 自分たちの救い主が、「家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた赤ん坊」である。 「これがあなたがたへのしるしである」と言われて、だれが信じることができるでしょうか。 多くの人びとが待ち望んでいた救い主の姿とは真逆の姿、泣くだけしかできない、しゃべることも立ち上がることもできない力のない姿です。 しかし、彼らは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という主の使いたちの賛美を聞くことができた。主の使いが言った通りの赤ん坊の御顔に、「神の小羊」の姿を見出したのでしょう。 父なる神の愛に満たされて委ね切っている姿を見出したのです。 彼らは「ベツレヘムへ行こう。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と、主の言葉を信じて動き出したのです。 住民登録でごった返すベツレヘムの家々の戸を叩きまわって、主の使いの言った通りの赤ん坊を見出したのです。 信仰の働きとしか言いようのない羊飼いたちの姿です。 最初に知らされて恐れた羊飼いたちは、最初に主の言葉を信じた人たちでもありました。 信じたから、捜し出して、見つけ出して、喜んだのです。 喜んだから神を賛美し、もとの自分たちの場に帰って行って、人々に最初に知らせたのです。 クリスマスの喜びは、こうして喜びに与かった人たちが用いられて、私たちのところにまで伝わったのです。 神は、このようなところにまでイエスを通して共にいてくださるのです。
「十字架から見るクリスマス」 ヨハネによる福音書12章36b~43節
マタイによる福音書によりますと、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書かれています。 ヘロデも、その両親もユダヤ人ではありませんでした。 それが、なぜこのユダヤの地で、「ユダヤ人の王」となっているのか不思議に思います。 ここに至るまで、両親とともに、次第に力を蓄えていったヘロデの努力もあったのでしょう。 時々の権力者とも巧みに結びついて、自らの地位を固めていったのでしょう。 ですから、イエスが生まれる頃には、「ユダヤ人の王」という称号がヘロデに与えられていました。 そこに、クリスマスの出来事が起こったのでした。 占星術の学者たちが、東方からエルサレムにはるばるやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と言ったのです。 この学者たちは、重大なことを述べています。 「ユダヤ人の王」が、今、お生まれになった。 そして、その「ユダヤ人の王」を礼拝するためにやって来たと告げたのです。 ヘロデはユダヤ人でもないのに苦労してのしあがって、「ユダヤ人の王」という称号を手に入れた人物です。 自分の地位を脅かす者に対しては、異常なまでに警戒心を抱いたのです。 事実、ヘロデは、自分の妻も母も、また息子までも犠牲にしています。 学者たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」という言葉を聞いたとたん、祭司長や律法学者たちを皆集めてその赤ちゃんがどこにいるのか問いただしたのです。 自分の地位を守ることに、執着心を燃やしたヘロデです。 企んで「ユダヤ人の王」と呼ばれる赤ちゃんを殺害することに失敗したヘロデは、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」と言うのです。 イエス様の誕生の陰に、一人の人物の醜い姿、そして多くの悲しみがもたらされたことが語られています。 ヘロデの姿は、「ユダヤ人の王」という自分を守るために、神のもとから遣わされた救い主を亡き者にしようとする姿です。 祭司長や律法学者たちの姿は、ベツレヘムから救い主がお生まれになると預言書にあることを知っていながら、その救い主を見つけ出して礼拝しようとしない姿です。 今日の聖書箇所には、多くのしるしが行われたにも拘わらずイエスを人々は信じなかったとあります。 人々が軽蔑し、見捨てるこの姿こそ、救い主の姿であると見て取ったイザヤの預言が引用されています。 ヨハネによる福音書は、すべてはこのイザヤの預言が成し遂げられるためであった。 イザヤが語ったこの「軽蔑され、見捨てられる姿」こそ、自分たちに告げ知らされた十字架の主イエス・キリストの姿であると信仰を告白しているのです。 すべての人の救い主が、私たちの醜い姿が溢れ出ているところに、また、悲惨な出来事に覆われているところに来てくださったと語っています。 イザヤは「彼は、苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった」と表現しています。 その救い主が、すべてのものに先だってすでに父と共におられたという逆転の栄光の姿をイザヤは見たと語っているのです。 「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」ヘロデ、祭司長や律法学者たちでした。 私たちは、人の誉れ、その背後にある人からの誹りや嘲りを恐れる者です。 しかし、この不信仰も、救い主イエス・キリストの十字架によって贖われていると、ヨハネによる福音書は語っています。 不信仰とは、このように用意された十字架の恵みを前にして、亡きものにしよう、見ようとしないことにあります。 イエスの誕生を知って、自分の思いに振り回されたヘロデ、ユダヤの議員たちの姿は、私たちの姿なのではないでしょうか。
[fblikesend]「なんと幸いなこと」 ルカによる福音書11章27節~28節
預言者はマラキの後、長い間、途絶えていました。 その頃、イエスのことが次第に世に知られるようになり、「この人は預言者だ。 メシアだ。」、「いや、群衆を惑わしている人だ。」と、イエスのことで群衆の間に対立が生じたと聖書に記されています。 ユダヤの指導者たちを恐れて公には出ていなかったけれども、群衆のイエスを賞賛する声は絶えなかったのです。 この箇所でもひとりの女性から声が挙がります。 「なんと幸いなことでしょう。 あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」という驚きと賞賛の声が挙がりました。 今、耳にしている、目にしているこのイエスというお方を産んだ母親は偉大である。 産んで、育てた女性はなんと幸いなことでしょうと、ひとりの女性が勇気を振り絞って叫んだのです。 この女性が褒めているイエスの母マリアは、どのような人物であったのでしょうか。 エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方のナザレという町にいた変哲のない女性でした。 なぜ選ばれたのか理由もわからないマリアに、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。 恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子となる。」と告げられたのです。 当時でも、子どもが与えられるということは最大の恵みでした。 喜ばしい知らせであったのです。 しかし、ヨセフという人のいいなずけのおとめであったマリアにとって、悲惨な知らせでした。 つまり、この神の知らせは婚約者ヨセフの知らないうちに、マリアが妊娠をするという知らせであったのです。 「どうしてそんなことがありえましょう」と驚き、不安になっても当然のマリアであるのに、「わたしは主のはしためです。 お言葉通り、この身に成りますように。」と言っている。 そして、このマリアの短い言葉を確かに聞いて、神の使いはマリアのもとを去って行ったと聖書は短く語っています。 これから大きな変化が自分の身にもたらされる。 いったいどのようにしたらよいのか、何ら解決策も与えられないままのマリアが、「お言葉通り、この身に成りますように」と、神の言葉に応えたと聖書は言っているのです。 群衆の中から、イエスを産んで育てたこの母マリアに賞賛の声を挙げたその女性に向ってイエスは言います。 「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 産んで育てたことが幸いなのではない。 神の言葉に聞いて、それに従ったから幸いであると言われたのでした。 イエスは、この母マリアの信仰を語っているのです。 子を産み、育てるという女性の幸いを越えて、神の言葉に出会い、それを聞き、従って生きることが幸いであると言っているのです。 イエスは、「神のみ言葉を聞いてこれを行う者が、わたしの兄弟であり、わたしの母なのである。」と言われました。 これからいったいどうなるのか分からない状態の中でも、神の言葉に身をゆだねて、自分の体の中に宿っていく神の子の誕生を担っていこうとするマリアの覚悟を幸いであると言います。 人であるイエス、復活された霊なるキリスト、このイエス・キリストが自分の胎内に宿されたという体験、これこそがクリスマスの体験であると聖書は言います。 母マリアは、イエス・キリストを自らの体の中に宿した最初の人物です。 この霊なるイエス・キリストを宿した私たちもまた、マリアと同じです。 人である私たちの中に、神の子である霊なるイエス・キリストを宿している。 この相反するものが私たちの中にあるからこそ、葛藤があります。 戦いがあります。 だからこそ、マリアが覚悟したように「主よ、お言葉通り、この身に成りますように。」という祈りが必要なのです。 この道を最初に歩まれた主イエスに従い、歩み通したマリアと同じ道を私たちは歩みます。
[fblikesend]「だれでも与えられる賜物」 ルカによる福音書11章9節~13節
主イエスは、「求めなさい。 そうすれば与えられる。 捜しなさい。 そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。 そうすれば、開かれる。」と言われます。 一生懸命に依り頼むところには、道が開かれる。 必死に求めるなら、報いられる。 最後まで諦めないで門をたたくなら、その門は開かれる。 そのような困難に打ち勝つ励ましを、主イエスは語られたのでしょうか。 私たちは、むしろ厳しい現実を知っています。 現実は、イエスの宣言の真逆であるように思います。 9節のこのみ言葉と、10節のみ言葉をつなぐ小さな「言葉」があるのです。 「~だからである」という理由を示す小さな言葉が、この二つの節をつないでいるのです。 イエスが9節で、「求めなさい。 そうすれば、与えられる。 捜しなさい。 そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。 そうすれば、開かれる。」と語られたのは、10節の「だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」からだと言っておられるのです。 「だれでも」です。 このような「だれでも」求める者には与えられるという世界があることを、イエスは語っておられるのです。 イエスの生涯の姿を思い起こしてみてください。 押し寄せてくる病人たちを、「だれでも」区別なくお癒しになられました。 イエスは、そのような「だれでも」与えられる神の恵みの世界があるからこそ、あなたがたは執拗に「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」と言っておられるのです。 「求めるなら与えてあげよう」と言っておられるのではありません。 すでに、あなたがたに用意されているものがあるのだから、失望しないで祈り求めなさいと言っておられるのです。
イエスはそう語られた後に、「求める者だれにでも」与えるお方のことを、「天の父」と呼んでいます。 魚を欲しがる子供に「良い物」を与える父親、卵を欲しがる子供に「良い物」を与える父親と表現しています。 自分の子供であるなら、父は子供にとって何が一番良い物であるのかをすべて知っている。 いつも変わらず、どのような所でも自分の子供をじっと見守っている。 そして、必要な所で、最もふさわしく与えるはずである。 子供は魚を欲しがるのです。 卵を欲しがるのです。 しかし、子供たちにとって本当に「良い物」が何であるのかを分かっておられる「天の父」は、願い求める子供の姿を喜んでくださるのです。 そうであるのに、この待っておられる「天の父」に本当に期待し祈り求めているでしょうか。 「天の父」には不可能なことは何もありません。 すべて分かっておられるお方です。 求めた通りでなくても、私たちにとって一番良い物を与えてくださいます。 イエスは13節に、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言います。 復活されたイエスは、「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられました。 また「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」とも約束されました。 「天の父」から与えられる「良い物」とは、聖霊のことであると言っています。 この聖霊を私たちに与えてくださることが、神の約束であり、神のみ心であるとはっきりと聖書は語ります。 この聖霊の働きによって、祈りが与えられる。 信仰が与えられる。 堂々と証しの働きをするようになる。 何が神のみ心であるかを知るようになる。 神のみ心を行うことができるようになる。 これが、ペンテコステの日から始まった復活の主イエスの聖霊のバプテスマです。 「だれでも」例外なく、聖霊を与えることが神の約束であり、神のみ心なのです。 神が私たちの願いを聞き届けてくださったのは、私たちが願い求めたからではありません。 ただ神の恵み、神からの賜物です。 聖霊は、私たちのそば近くあって、私たちを助けてくださる神、助け主、慰め主です。
「からし種一粒の信仰」 ルカによる福音書17章5節~10節
「からし種」とは、パレスチナ地方で自生していた、栽培されていた「くろがらし」の種のことです。 ふっと吹いたら飛んで行ってしまうほどのほこりのような小さなものです。 ところが、その蒔かれたその種が大きく成長すると、茎の高さが3~4メートルにもなり、そこに鳥がとまるほどになるそうです。 身近にあったこの「からし種」を用いて、「からし種一粒のほどの信仰」とイエスが語られた意味を共に味わいたいと思います。
イエスの弟子たちは、あちらこちらで病人や子どもを癒し、力強く働いておられるイエスの姿を見て、「なぜ、わたしたちは悪の霊を追い出すことができなかったのでしょうか。」 「わたしどもの信仰を増してください。」と、イエスに訴えます。 信仰があればこそ、主イエスに信頼し従っていくことができる。 自分にはその信仰が足りないと思うからこそ、私たちは自分の信仰を増し加えてくださいと祈り願うのです。 その時に語られたイエスの言葉が、この「からし種一粒のほどの信仰があれば」と言うのです。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」 別のマタイによる福音書では、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って、『ここからあそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。 あなたがたにはできないことは何もない。」と、主イエスは言っておられるのです。 使徒たちは、自分たちの信仰が増し加わっていくことを望みました。 しかし、イエスは、信仰は増えたり、減ったりするような「量」で量れるものではない。 その大きさや小ささではないと言っておられるのです。 また、使徒たちは「自分たちの信仰が増し加わるように」と、もっとしっかりとした信仰を持ちたいと願いました。 しかし、イエスは信仰をそのような「持つもの」ではない。 自分たちが積み上げていくような持ちものでもない。 能力や資格や力のような所有物でも、獲得していくものでもない、その都度ふさわしく与えられるものであると言います。
なぜなら、父なる神は言葉をもってこの地上を創造されました。 私たちを、この神の言葉に応える者として造られました。 この神の言葉は、主イエスを通して私たちの歴史に響きわたっています。 だれが何と言っても、この聖書の言葉の背後には、このみ言葉を成し遂げないではおられない神の力強い愛と真実と意志があります。 そのご自身のご計画を成し遂げるために、私たちを用いられる。 私たちに祈りを起こして、信仰を与える。 信仰は、この神のみ業を果たすために与えられるものです。 神の言葉は、この地上を造り、再び造り変えることのできるほどの大きな神の力、約束です。 そのために「からし種一粒ほどの信仰」が用いられるのです。 ですから、「からし種一粒ほどの信仰」が、もし私たちに与えられるなら、不可能なことはないと言われるのです。 信仰は、私たちの中にある力でも、資格でもありません。 神のみ言葉を果たすようにと、最もふさわしく与えられる神の力と希望です。 神にできないことは何もありません。 イエスは、この神と人との関係にある信仰を、「主人と僕の譬え」を用いて語っておられます。 僕が、主人より先に、食事の席につくであろうか。 命じられたことを僕が果たしたからと言って、主人に感謝を求めるだろうか。 主人に仕えることが、私たちに与えられた「仕事」です。 私たちの主人は、私たちの足をひざまずいて洗って僕に仕えてくださるお方です。 そのお方の命じられたことを果たすことが「信仰」です。 そこに、本当の「喜び」があります。 この神の業に用いられるところに、本当の「感謝」があります。 そのために、祈り、聖霊、信仰が与えられると言っています。
「今日、来ている神の国」 ルカによる福音書23章32節~43節
イエスの十字架の犯罪名は、ローマ帝国への反乱を扇動したという罪でした。 従って、イエスの十字架のもとには、厳重に警戒し粛々と刑を執行するローマ兵たちがいました。 死刑囚の着ていた衣服を、くじを引いて分け合う人たちでした。 彼らは、イエスの頭の上に「これはユダヤ人の王」と罪状書きを掲げて、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエスを侮辱したのです。 また、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」とあれほど歓喜の声を挙げて、イエスをエルサレムに迎え入れた群衆もいます。 今では、手の平を返すように「十字架につけよ」と叫び、まさに十字架につけられようとするイエスをただ立って眺めていた群衆でした。 ユダヤの指導者である議員たちもまた、「他人を救ったのだ。 もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑っています。 十字架にかけられたイエスの最も近くには、イエスと同じ十字架による「死」をともにした二人の人物がいます。 一人はイエスの右に、もう一人はイエスの左に十字架につけられている犯罪人でした。 そこには、「三本の十字架」が立っていたのです。 これらの様々な人たちの姿が入り混じる中で、六時間にもわたるイエスの苦痛の姿がここに語られています。
イエスがまさに生きる力を失いかけている、その時です。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。 イエスの十字架のもとで、またそのそば近くで繰り広げられている様々な人たちの姿、そのすべてをひっくるめて「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」と「とりなしの祈り」をイエスはささげられたのです。 これが、「三本の十字架」の処刑の場面です。 イエスをはさんで十字架にかけられている二人の犯罪人は、イエスと同じように手と足を釘づけにされて、ここから逃げ出すことも、隠れることもできません。 もはや、イエスとともに死を待つばかりの最後の時に直面している当事者です。 この力尽きかけているイエスのかすかな「とりなしの祈り」が、二人の犯罪人に別々の反応を引き起こします。 一人の犯罪人は、あのあざ笑った議員たちやローマ兵たちと全く同じように、「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ。」と言います。 彼にとって、自分を救うことができない者は、他のだれも救えない愚かな者でした。 彼にとっての救いは、今あるこの苦しみ、束縛から解放されることだけでした。 しかし、もうひとりの犯罪人は、その彼をたしなめています。 この違いはいったい何でしょうか。 法のもとに裁かれていることも、イエスとともに死にゆくことも、イエスが「彼らをお赦しください」という祈りを聞いたことも同じはずです。 一人は、自分すら救えない哀れな人の空しい言葉と聞いた。 しかし、もう一人は、自分に向けられた「とりなしの祈り」と聞いた。 そして、十字架のもとで繰り広げられている姿と同じ「あざ笑い、ののしる自分の姿」を捨てることができた。 この今にも死んでいこうとするイエスに、「私を憐れんでください。 イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と、イエスとともにいることだけを願うことができたのです。 その時語られたイエスの言葉が、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉であったのです。 将来ではありません、「今日」という神の時に、「わたしと一緒にいる」と言われました。 彼は、自分と一緒に罪人と共に死ぬ神の子を、目の前で見ることができました。 最後まで「父よお赦しください」ととりなしながら、神の前にも、私たちの前にも無力であり続けてくださった十字架の主を見ることができました。 楽園とは、この十字架につけられたままの主イエスとともにいるところです。
「隣人になったと思うか」 ルカによる福音書10章25節~37節
今の世も、当時のユダヤの世界も同じでした。 律法の専門家である律法学者が、人びとの生活そのものを牛耳っていました。 専門家だけが分かっていればよいという世界です。 その律法学者が、イエスを試そうとして質問しました。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 この質問にイエスは、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねたのです。 さすがに、この律法学者は的確に答えたのです。 するとイエスは、「正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば永遠の命が得られる。」と言われたのです。 イエスは、的確に答えた律法学者をほめたのでしょうか。 神を愛する、隣人を愛するという行いを実行するようにと道徳の教えを説いたのでしょうか。 問題は、この後の律法学者の質問にあります。 「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねて、自分を正当化しようとしたとあります。 イエスの言うような隣人には、私は愛をささげてきていると主張したかったのでしょう。 その際に語られたイエスのみ言葉が「善いサマリア人の譬え」でした。 「わたしの隣人とは、いったいだれのことですか」という律法学者の問いに、逆に、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と律法学者に問うたのです。
「追いはぎに襲われた一人の旅人」が出てきます。 服をはぎ取られて、殴りつけられ、半殺しの目にあって、放置されたままになった人物です。 予測もしなかった出来事に遭って、すべてを失い、からだも痛めつけられ、だれも見向きもしない、助けを求めても答える者がいないところに放置された人物です。 イエスは、そこに「祭司」、「レビ人」、「サマリア人」の三人を登場させます。 「祭司」や「レビ人」とは、人目には、立派に神や神殿に仕える人たちを指すのでしょう。 しかし、彼らは、だれも見ていないところでは、苦しみ、痛み、嘆きの中にある同じユダヤ人を見ても、「道の向こう側を通って行った」と言うのです。 しかし、同じようにそこを旅していたサマリア人は、「そばに来ると、その人を憐れに思い、近寄って来て傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろば乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」 翌日には、その宿屋の主人に銀貨を渡して、「この人を介抱してください。 費用がかかったら、帰りがけに払います。」とまで言ったと言います。 「サマリア人」とは、ユダヤ人たちからは、異教徒たちの風習や宗教に馴染んでしまったがゆえに、交われば汚れるとまで言われ、交わりを拒まれていた人たちでした。 ユダヤ人たちから嫌われ、見下されていた人を、イエスは登場させたのです。 このサマリア人こそが、苦しんでいる、傷ついている、嘆いているユダヤ人の本当の隣人になったと語っているのです。 イエスは、この譬えを語り終えて、この律法学者を、愛を施す側から、愛を受ける側に立たせようとします。 イエスは、自分を変えようとしないで、隣人という相手を選ぼうとした律法学者に、「だれが本当の隣人になったと思うか」と尋ねたのです。 イエスは、サマリア人の姿を通して、隣人を見つめて「憐れに思う」心に揺り動かされた人の姿を語ったのです。 自分を中心に隣人を見るのではなく、助けを求める隣人を見つめる目と、それによって変えられていく人の姿を、イエスは語られたのです。 このサマリア人の姿こそ、十字架の主イエスです。 傷ついているあなたは、わたしの受けた傷によって癒される。 その癒された者が、同じ傷をもつ隣人を癒すことができる。 この十字架の主を仰いで愛する者が、同じように隣人を愛するようになる。 この恵みの世界に、私たちは置かれています。 この神の恵みに突き動かされて、私たちは互いに隣人となる。 この新しい隣人こそ、神の憐れみの担い手であるとこの譬えは語っています。
「キリストの出来事」 ローマの信徒への手紙8章12節~17節
ヘブライ人への手紙1章1節に「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と書かれています。 御子であるイエス・キリストは、終わりの時代に語られた神の御言葉であると言っています。 ナザレの人イエスは確かに、人間として誕生し、家族をもち、死を迎え、墓に葬られました。 しかし、そのイエスの死は、私たちの罪のためでした。 そのイエスの復活は、父なる神がお与えになる人を一人も失わないで、終わりの日に復活させるという父なる神の御心のためでした。 そして、その御心の通りに従順に子なるイエスが歩まれたから、このイエスの出来事が私たちの救い、希望、キリストの出来事となったのです。 イエスの誕生からその死に至るまで、そして死んだ後、よみがえられて霊なる体をもってこの地上で働かれる、これらすべてのことが父なる神の御心、神の救いのご計画でした。
しかし、パウロは、十二弟子のように、このイエスの出来事を共にしたわけでも、直接見聞きしたわけでもありません。むしろ、このイエスを信じる者たちを告発し、捕らえていた中心人物でした。 パウロは、自分がもっとも大切にしていた律法をないがしろにするキリスト者たちに、我慢がならなかったのでした。 そのパウロに呼びかけたのが、すでによみがえられて霊なる体となられたイエス・キリストでした。 ご自分を迫害するそのパウロを用いて、ご自分を救い主として宣教する者へと立ち上がらせたのです。 ですから、パウロの伝えるイエスは、自分の中にいて生きておられる霊なるお方なのです。 パウロは、「わたしは、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言います。 自分が体験した霊なるお方、自分の中に生きて働いておられる復活されたイエス・キリストを宣べ伝えたのでした。 パウロにとって、自分のうちにイエスがおられることと、神の霊が自分のうちに宿っていることとは同じことであったのです。 パウロは、私たち直接イエスの姿を見ていない者の代表として、霊なるイエス・キリスト、十字架につけられたままのイエス・キリストを語ったのでした。 この「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」「あなたがたは、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によって、わたしたちは父よと呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」と、パウロは言います。 神の子とする霊を受けた者は、イエス・キリストというよみがえられた霊との交わりに入るようになる。 「父よ」と呼びかけることが赦される特別な関係になる。 この約束のみ言葉によって、イエス・キリストだけに用いられた「神の子」という称号が、イエス・キリストにあって私たち信じる者にも与えられたのです。 パウロは、「あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」と言っています。 ナザレのイエスは、キリストです。 ナザレのイエスの誕生も、生涯も、そしてその死もすべて、神のご計画の中にあるキリストの出来事です。 初めに言葉によって世界を造られた神が、終わりの時代にキリストの出来事によって私たちに救いのみ言葉を語られたのです。 そして、キリストのゆえに、キリストによって神の子となった私たちが、神の相続人、しかもキリストとの共同相続人になると言います。 キリストとともに、死んでよみがえる。 このキリストに結ばれた者、ひとつにされた者、新しい人間として創造された者が、神の相続人、朽ちない霊なる命をもつ者となるとパウロは語っています。
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