秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「パウロの祈り」 フィリピの信徒への手紙1章3~11節

2019-07-21

 パウロのフィリピでの滞在は、ほんの数日間であったと言います。 その地の「祈りの場」で語られたパウロの言葉によって、ひとりの女性がバプテスマに導かれた。 ところが、ある出来事によってパウロたちは捕らえられ、牢に投獄された。 その牢獄の中にあっても、賛美の歌をうたって神に祈るパウロたちの姿によって、人々は大きな影響を受けたと言います。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と、パウロはこのフィリピの地で語ったと言います。 フィリピの人々とのほんのわずかな交わりであったはずです。 それが脈々と今もなお続いて存在している有様がよく分かります。 今朝の聖書箇所は、そのフィリピの教会の人々へ牢獄の中から書き送られたパウロの手紙なのです。 そのような厳しい状況にあるパウロが、フィリピの教会の人々の存在によって支えられている。 「監禁されているときも、福音を弁明し、立証するときも」、その存在を神に感謝している。 その人々のために喜んで祈っていると言うのです。 逮捕され、投獄されているパウロが、フィリピの教会の人々の生きている姿によって支えられている。 わずか数人で始められたフィリピの群れが今もなお生きて、パウロによって語られた福音とともに、フィリピの地で生き続けていることに、パウロは神に感謝し、いつも喜んでいると言うのです。 このパウロとフィリピの教会の人々をつなげるものは一体何でしょうか。
 パウロはその理由を、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずっているからです。」と言います。 そして、「最初の日から今日まで、あなたがたの中で善い業を始められた方が、その業を最後の日までに成し遂げてくださると確信しているからです。 あなたがた一同を、共にその方の恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」と言うのです。 恵みに触れさせて、ここまで導いてくださったお方が最後まで事を成し遂げてくださる。 この自分自身の恵みのみならず、フィリピの教会の人々が今、「共に恵みにあずかる者」として存在していることが、わたしの喜び、わたしの神に対する感謝であるとパウロは訴えているのです。 
 とても恵まれた者とは言えないような、今は逮捕され、投獄されているパウロにも、また最初の時のわずかな群れであったフィリピの教会のあの人、この人にも、「最初の日から今日まで変わることなく、神は呼びかけ、招いてくださっている。 生きて働いておられる。 あの人も、この人も見捨ててはおられない。 神は最後の時まで、そのみ心を果たすまで働いてくださる。 そのことは、あなたがたの姿を見ていれば分かる。」とパウロは言うのです。 この確信を自らの体験だけでなく、この小さな群れであるフィリピの教会のひとりびとりの姿に、「共に恵みにあずかる者」の姿に、パウロは慰められ、励まされているのです。 ですから、私たちのこの小さな姿もまた、大きな務めがあるのです。 「共に恵みにあずかる者」を物語る存在なのです。 
 パウロがフィリピの教会の人々に見たように、「共に恵みにあずかる者」の存在が私たちにも必要なのです。 ですから、パウロはフィリピの教会の人々のために祈っています。 「知る力と見抜く力とを身に着けて、イエス・キリストの愛がますます豊かになって、本当に重要なことを見分けられるようになって、神に属する者となって、信仰の実をあふれるほどに受けて」、「神の栄光と誉をたたえることができるように」と祈っているのです。 私たちもまた、この祈りに支えられて、主イエス・キリストのとりなしの祈りに支えられて、精いっぱい教会の内でも、教会の外でも、ご家庭でも、主の恵みを共に喜び、賛美して参りたいと心から願います。

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「主と同じ姿に造りかえられる」 コリントの信徒への手紙二3章18節

2019-07-14

 「キリスト教保育」という小冊子に、「ことばは人そのもの、まさに命なのです。 穏やかな性格だから穏やかなことばづかいをするのではありません。 穏やかなことばが穏やかな性格をつくっているのです。」と書かれていました。 なぜ言葉が変われば、性格が変わると言っているのでしょうか。 言葉は、聞く者があって初めて語られるものです。 相手の人格に対する呼びかけ、働きかけです。 相手に言葉が語られる時、その働きかけによって生まれる相手の応答があるはずです。 その応答に今度は、言葉を語った者が働きかけられるのです。 その響き合いの中で互いに人格が影響され、造り上げられていく。 言葉はそうした力をもつ、「人そのもの、まさに命なのです。」 聖書は、神の言葉こそ、人間の人格に対する神の働きかけです。 神のご真実、ご愛の言葉の語りかけです。 神の言葉による霊の働きかけです。 人間の本性と在り方そのものを変えていく力であると言っているのです。 「造りかえられるのは、神の働き、霊の働きです。 これは主の霊の働きによることです。」とパウロははっきりとこの手紙で語っているのです。
 私たちがどのような姿に造りかえられるのかをパウロは、「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる。」と表現しています。 「覆いを除かれた鏡」とは、鏡に「覆い」がかけられているなら、神の働きによって照らされた光を、「覆い」が邪魔をして遮ってしまう。 鏡は、もともと神を現す「栄光」の輝きをもっているわけではない。 この「覆い」こそ、私たちの固定観念や自分のものさしや常識でしょう。 狭い自分の経験でしょう。 そのような「覆い」が取り払われて、解放されて、神が注ぎかけてくださっている光を映し出すことができる鏡へと造りかえられていく。 そして、「主と同じ姿」になっていくとパウロは言うのです。 パウロが語るその意味は、十字架に架かるその直前に、父なる神にささげておられる主イエスの祈りに示されています。 主はこの地上に遺していくことになる弟子たちに向けてこう祈っています。 「真理によって、彼らを聖なるものとしてください。 あなたのみ言葉は真理です。 父なる神がわたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。 彼らも、真理によってささげられたものとなるためです。」ととりなして祈ってその直後に、十字架のうえにご自身をささげられたのです。 主イエスの生涯は、神のご用のためだけに歩まれた生涯でした。 聖なるものとなるということは、イエスと同じように父なる神のご用のために「用いられる、ささげられる」ということでしょう。 人間イエスの姿こそ、その象徴です。 私たちの過去の姿がどうであったとか、今の姿がどのようなものであるのかに関わりなく、神は私たちを用いてくださるのです。 神の霊の働きによって、このようなはかない存在であっても神は選び出して、用いて、ご用のためにささげてくださるのです。 そのことを信じ、望みをもつ者には、主と同じように「霊に仕える務め」が与えられるというのです。 これをパウロは、「主と同じ姿に造りかえられる」と言っているのではないでしょうか。 「造りかえられる」のは、一回限りのことではありません。 日々新たです。 ひとりひとりに与えられたその生涯を閉じるまでの神の働きかけの体験の連続です。 パウロは、造りかえられることに身を委ね続けなさい。 その希望をもって身を委ねていく途上の旅人として、「過ぎ去りゆくものに目を奪われないで、見えないものに目を注ぎなさい。 神は必ず用いてくださるという希望をもって、この神のご真実とご愛に身を委ねなさい。」とパウロは語っているのです。

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「赦されることの少ない者」 ルカによる福音書7章36~50節

2019-07-07

 シモンと呼ばれる「ファリサイ派の人」と、町の人々に「罪深い女」と呼ばれているひとりの女性が登場しています。 「ファリサイ派の人」とルカによる福音書が語る人とは、自分たちこそ律法を遵守し、神の前に正しい者であると誇り、律法を守ることのできない者を罪人と称して軽蔑していた人のことです。 イエスが、このシモンの家に食事に招かれた時のことです。 この女性が突然入ってきた。 客人であるイエスの足元に近寄って、涙を流したと言います。 その涙にぬれた足を、自らほどいた自分の髪の毛で拭い始め、拭われた足に何度も接吻し、そこに自ら持ち込んだ石膏の壺から香油を惜しげもなく注いだと言うのです。 シモンの側からすると、罪人と一緒にいることも、食事をすることも、そのからだに触れることも禁じられていたユダヤ社会でした。 女性がひとり男性の中に入ってくることなど論外でした。 周囲の人々からどのように見られようが全くおかまいなく取った女性の行動なのです。 
 彼女はこの出来事の直前に、イエスがこの町の会堂で語られた教えを耳にしていたのかもしれない。 その教えに感激し、何もかも忘れて、その感謝と喜びに涙があふれ出たのかもしれない。 そのままの勢いでこのふるまいに及んだのかもしれない。 ただ分かっていることは、この女性をだれも相手にしていなかったということです。 シモンが心の中で、「罪深い女なのに」とつぶやいていたほどに、社会から切り捨てられていた存在であったということです。 その彼女が、このお方は町の人々とは違っていた。 こんな私にも語りかけてくださった。 「罪深い女」と言われても仕方のないこの私を受け入れてくれた。 その罪を責めることもなかった。 彼女は今まで泣きたくても、泣くことができなかったのでしょう。 泣いて訴える人が、この町にはいなかったのでしょう。 今なら素直に泣くことができる。 安心して泣くことができる。 その喜びに、彼女はあふれたのでしょう。 このお方ならこのわたしを受け入れて、赦してくださるのではないかと直感した。 その彼女の精いっぱいの感謝が、このふるまいとなってイエスの前であふれ出たのでしょう。 彼女の現状は何も変わってはいなかったでしょう。状況には何の変化もなく、何の解決もなかったでしょう。 周囲の目は依然として、「罪深い女なのに」と彼女を取り囲んでいたのでしょう。 しかし、彼女自身が変えられたのです。 本当に裁くことができ、本当に赦すことのできるお方に出会ったことに気づいて、彼女は涙が喜びで止まらなくなったのです。 無我夢中で喜んで感謝している姿に、彼女は造りかえられたのです。 イエスはこの女性の姿をご覧になって、シモンに譬えを用いて言われたのです。 「あなたは足を洗う水もくれなかった。 接吻の挨拶もなかった。 頭にオリーブの油を塗ってくれなかった。 しかし、この女性は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛で拭ってくれた。 わたしの足に接吻をしてやまなかった。 足に香油を塗ってくれた。 この女性が多くの罪を赦されたことは、わたしにしたこの愛の大きさで分かる。 赦されることの少ない者は愛することも少ない。」と言われたのです。 たくさん感謝したから、この女性は赦されたのではありません。 「彼女が多く赦された結果、このわたしに仕えて多くの感謝を表したではないか。 神の憐れみがなければ生きていくことのできない人、赦しを必要とする人と、律法を守っているから赦されると自ら誇る人、神の赦しを必要としない人がいる。」と、「罪深い女」の姿を通して「シモン」にイエスは語られたのです。 シモンにも、この「罪深い女」と同じように、「赦されることの少ない者」から、「赦される喜びに生きる者」へと造りかえられるようにと、イエスは招いてくださっているのではないでしょうか。

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「主イエスの十字架で叫ぶ姿」 マタイによる福音書27章45~56節

2019-06-30

 イエスが十字架の上で最後に見せた人間の姿の受け止め方は、福音書によって異なっています。 このマタイによる福音書では、「イエスは、大声で叫ばれた。 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかと叫ばれた。 そして、再び大声で叫び、息を引き取られた。 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった。』と言った。」とあります。 マルコも概ね同じように記されています。 ところが、ルカによる福音書によると、「イエスは大声で叫ばれた。 『父よ、わたしの霊を御手に委ねます。』 こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」とあります。 ヨハネによる福音書によると、「イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。 『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」とあります。 私たちが望む人間の最後の姿は、「静かに動揺することなく心穏やかに死を迎える姿」なのではないでしょうか。 また、死者を天に送る遺された者にとっても、「死」に至って平静に動じることなく、感謝して「死」を迎える姿であってほしいと心から願うでしょう。 ましてや、私たちが信じて従ってきたイエスの最後の姿は、ルカが語るように、父なる神にすべて委ねる姿であってほしい。 ヨハネが語るように、地上の生涯を終えて、晴れ晴れと父なる神のもとへ戻って行かれた姿であってほしい。 マタイやマルコが語るような、神を恨む言葉にとられかねない言葉を聞きたくない。 どのような状態に置かれたとしても動じない、強くて立派な正しい人であってほしい。 これが私たちの思いではないでしょうか。 
 イエスにとって、肉体の痛みや苦しみなど問題ではないでしょう。 人々から、弟子たちからでさえも見捨てられるということなど、大した問題ではなかったでしょう。 イエスが痛み、苦しんでおられるのは、父なる神から捨てられるという孤独な立ち位置に立たされている現実です。 神のもとから引き離そうとする罪の力は、神によって裁かれなければならない。 神が曖昧にしておくことのできない、毅然として立ち向かわなければならないものです。 イエスが、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われたように、この世の虜となって、罪に縛られているこの私たちを救うために、何度も招き続けてくださっているのです。 その招きを受け取ろうとしない私たちの罪を見逃すことのできない、裁かなければならない神としての痛みがあるのです。 この神と人との交わりを破壊するものを一身に引き受けて、私たちを赦してくださったこの「裁きと赦し」が、神の憐れみであった、恵みであった、愛であったと私たちは知らされたのでした。 マタイ、マルコは、この神ご自身の叫びを、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに凝縮したのではないでしょうか。 十字架に架けられたイエスの姿こそ、私たちが受けなければならない人間の行き着く先の姿です。 見物人の立場で傍観しているだけなら、このイエスの十字架の姿は何も語らないでしょう。 「わが神」と叫んでいるイエスの中に、この「わたし」がいなければならないはずです。 神の前に裁きを受けているこの「わたし」がいなければならないはずです。 神のもとから遣わされた者を受け取ることなく、十字架に架けてしまった「わたし」の姿があるはずです。 最後の最後まで父なる神に信頼し、詩篇22編の冒頭の言葉を叫び、呼びかけておられるイエスの姿は、絶望してうなだれて、弱さをさらけ出して、それでもすがって再び立ち上がる人間の姿をからだをもってイエスご自身が示しておられるのです。

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「世から選び出された恵み」 ヨハネによる福音書15章18~25節

2019-06-23

 「世がわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」とあります。 この「憎んでいた」という言葉は、「拒んでいた」と訳してもいいかもしれません。 弟子たちの足を一人ずつ洗って、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と言われるほど、わたしとあなたがたは一体である。 だから、この世がわたしを拒むように、あなたがたをもこの世は拒むのである。 わたしを迫害するように、あなたがたをも迫害するのである。 それは、「わたしがあなたがたをこの世から選び出したからである。」とイエスは言われたのです。 この私があなたがたを選び出して、この世から連れ出したからである。 あなたがたはこの世にあって、もはやこの世に属していないのであると言われたのです。 イエスが告白しているように、「もし、わたしが来てこの世に向けて言葉を語らなければ、この世の過ちは見えなかったであろう。 もし、わたしがこの世においてだれも見なかった業を行わなかったならば、この世の過ちに気づかなかったであろう。」 イエスの言葉と業という「光」がこの「暗闇」を照らしたから、この世の「暗闇」が見えてきた。 イエスの「光」とこの世の「暗闇」がはっきりと分かれた。 イエスに結びついている弟子たちとこの世がはっきりと分かれたとイエスは言うのです。
 この「この世のもの」と「神に属するもの」との違いはいったい何でしょうか。 イエスは、「わたしをお遣わしになった方を知らないことだ」とはっきり言います。 私をお遣わしになった父なる神を知らないから、私を拒んでいる。 私を拒んでいる者は、私の父をも拒んでいることさえ分からない。 父なる神にこの私が遣わされなかったなら、この世は「暗闇」のままであった。 しかし、そこに私が遣わされたことによって、「光」が灯された。 その光の輝きによって、「暗闇」自らその「暗闇」を知ることになった。 この「暗闇」の中で、この私の光を見た者、それが「わたしがこの世から選び出した、この世から取り分けた」あなたがたである。 この「光」を見ようとも、知ろうともしない「暗闇」とはまったく異なるものである。 「あなたがたはこの世に属していない」のである。 そうであるけれども、この世の憎しみにさらされながら、それでもなおイエスの憐れみをもって立ち向かわなければならない「神に属する者」なのであるとイエスは言われているのです。 
 私たちは、イエスご自身が「この世から選び出した」存在です。 イエスがこの世から取り出して、集めてくださった存在なのです。 「この世に属していない」とイエスが宣言してくださっている存在なのです。 この世から、イエスと同じような扱いを受ける存在でもあるのです。 この世は、主人にするように僕にも同じようにすると言います。 この世は、父なる神、主人を知らないから、その主人に遣わされた者を受け取らないのです。 しかしイエスは言います。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。 大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。」(マタイ5:11)と言われているのです。 この世は、父なる神を知らないから、イエスにするようにわたしたちにもするのです。 しかし、父なる神は、イエスに与えられたように私たちにも天の報いでもって報いてくださるのです。 私たちが、この世で体験する悲しみや苦しみや痛みは、このイエスの恵み、選びを知るためです。 この「暗闇」にいるからこそ気づく悲しみや苦しみや痛みです。 愛の反対は気づかないことです。 気づかないこと、知ろうとしないことです。 恵みに気づいて感謝すること、これが私たちの喜びです。

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「満ちあふれる神の恵み」 エフェソの信徒への手紙1章3~14節

2019-06-16

 神が私たちを「天のあらゆる霊的な祝福」で満たしてくださいました。 神が「輝かしい恵み」を私たちに与えてくださいました。 神が「豊かな恵み」を私たちに注いでくださいましたと、パウロは言います。 この「霊的な祝福、輝かしい恵み、豊かな恵み」とは何のことでしょうか。 私たちが考える「神の恵み」と、福音の使者としてこの時鎖に繋がれていたパウロが念頭に憶えて語る「神の恵み」とは、異質のものであるかもしれません。 誰が見ても不遇の人、苦難の連続の人としか私たちの目には映らないでしょう。 パウロが語る「この世にない天のあらゆる霊的な祝福」とは、神がこのような私を愛してくださったことだ。 この私を、この世のものではない神の国のものにしようとしてくださったことだ。 よりによってこのような私をわざわざ、この世から選び出してくれたことだ。 それもそのことが、前もって定められていたことだ。 この秘められた計画を、この私に知らせてくださったことだとパウロは語っているのです。 それがこの箇所で言う「聖なるもの、汚れのない者、神の子にしようと前もって定めてくださっていた。 そのために、選び出してくださっていた。 その秘められた計画を、すべての知恵と理解を与えて知らせてくれていた。」という言葉にあることです。
 そのことがすべて、「キリストにおいて、その十字架の血によって」と語られているのです。 この父なる神のもとから遣わされてきたイエス・キリストによって、父なる神の愛と真実によって用意された十字架の救いの業によって、この私の過ちがすべて赦されて、イエス・キリストの十字架の血という代価を払って買い取られたこと。 これがパウロの言う「霊的な祝福、輝かしい恵み、豊かな恵み」なのです。 この祝福、恵みのゆえに、そこが牢獄であろうが、からだの自由が奪われていようが、からだにとげや弱さが与えられていようが、不遇だとさげすまれようが、その喜びと確信はまったく揺るがないのです。 神が、前もってお定めになったことは、私たちには秘められたことです。 ですから、私たちにはいつも驚くべきことばかりです。 神がお定めになっているから、それが当たり前のようにみ心のままに実現されていくのです。 私たちが、その「秘められた計画」を知らされるその時です。 その信じることができないような「秘められた計画」を、私たちが受け取っていくことができるかどうかなのです。 すべての人々を諦めきれないイエスの憐れみが、最後の最後まであるのです。 その「秘められた計画」が明らかになる時が私たちのもとに必ずくるのです。 「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて受け取るなら、そこに約束された聖霊で証印を押される。」とあります。 このからだに刻まれる証印とは、とげによってできた痛みの傷跡でしょう。 生きて働く復活のイエスに出会う時の癒された傷でしょう。 キリストの十字架の傷によって、悲しみが喜びに変わった、古い自分が新しい自分につくり変えられた傷でしょう。 それは、私たちが神をたたえるためです。 神の栄光をたたえるためです。 神のものとなり、神の国を受け継ぐためです。 神が約束されたものを受け継ぐためです。 私たちはそのために召し集められたのです。 そのために、神の祝福、神の恵みによって理由もなく選び出され、この世から連れ出されたのです。 連れ出された私たちこそ、むしろ、罪深さを知らされていくのでしょう。 不信仰であることを、一層、自覚していくのでしょう。 その行き着く先には、イエス・キリストの十字架の赦ししか残されていない。 「神さま、あなたしかいない。 憐れんでください。」と祈りすがるしかなくなるのでしょう。 この憐れみと赦しに結ばれるということが、「頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」ということなのです。

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「みなしごにはしておかないイエス」 ヨハネによる福音書14章15~31節

2019-06-09

 イエスが十字架に架けられて、失意のうちに家に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちでした。 40日の間、その死んで復活されたイエスがこの弟子たちの前に数々の証拠をもって現れ、励まし、力づけたにもかかわらず、大した変化もなく過ごしていた弟子たちでした。 その弟子たちの上に「・・・ようなもの」としか表現できない、神の息とでも言える力、「聖霊」が突然降ると、その霊に満たされ、霊が語らせるままに話し出したと言うのです。 明らかに分かることは、弟子たちの姿がまるで別人のように姿を変えたという事実です。 ナザレの人イエスが、自分たちが願うような国を作り直してくれる。 自分たちをこの苦しみから解放し、すべての人々から賞賛されるような王となるに違いない。 そう思っていたイエスに、弟子たちは失望した。 自分たちが描いていたような人物ではなかったことが分かった。 その弟子たちに、突然、異変が起こったのです。 使徒言行録は、今までの弟子たちの歩みにこの瞬間から断絶し、まったく新しい歩みを弟子たちが喜びと確信をもって歩み始めたと言うのです。 
 イエスはこのときのために、事が起こる前に、「わたしとは別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださるよう、父にお願いしよう」と約束してくださっていたのです。 これこそ、神のもとから来る「真理の霊、聖霊、私たちの傍らに呼ばれる者」です。 これが私たちに、「すべてのことを教え、イエスが話されたことをことごとく思い起こさせてくれる力、神がイエスの名によってお遣わしになる聖霊」です。 これからイエスを裏切ることになるであろう、失意と絶望のうちに落とし込まれるであろう愛する弟子たちに対するイエスの深い憐れみです。 父なる神の恵みです。 弟子たちはこの聖霊の確かさによって、大声を張り上げて語り出したのです。 イエスは、「この世はこの霊を見ようとも、知ろうともしないので受け入れることができない。 しかし、あなたがたは、この霊を知っている。 この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる。 だから、心を騒がせるな、おびえるな。」と言っておられるのです。 私たちの傍らに、イエスの名によって遣わされる「聖霊」がともにあり、内に住んでくださらなければ、私たちはイエスに触れることも、味わうこともできません。 このイエスの憐れみと神の恵みにすがらなければ、イエスに出会うことはできません。 聖霊が降るという出来事は、このイエスの憐れみと神の恵みに生かされて生きるようになる、つくり変えられるということなのです。 
 イエスはこの箇所で「みなしご」という言葉を使っています。 この傍らに呼ばれる、神のもとから遣わされる聖霊がともなっていない状態、神を知る力を持ち合わせていない状態、これをイエスは「みなしご」と言っています。 イエスは、「弁護者、わたしの名による聖霊を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と、事が起こる前にもうすでに約束してくださっていたのです。 「わたしは去って行くが、またあなたがたのところに戻ってくる。 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたたちはわたしを見る。 準備が終ったなら、あなたがたを父のもとへ迎えるために戻ってくる。 傍らに遣わされる聖霊こそ、この戻ってきてあなたがたを迎えるこのわたしである。 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」と約束されたのです。 イエスが私たちに出会ってくださるのは、私たちが順風満帆の時でしょうか。 弟子たちがそうであったように、砕かれて、自分の貧しさを知って、うなだれている絶望の時ではないでしょうか。 私たちが、新しくつくり変えられる時ではないでしょうか。 

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「戻って来て迎えるイエス」 ヨハネによる福音書14章1~14節

2019-06-02

 私たちは先が見えない、今、起きている出来事の意味が分からない、そうした時に「不安」や「戸惑い」を憶えます。 イエスは不安にうろたえる弟子たちを憐れんで、「心を騒がせるな。 おびえるな。」と言います。 不安に陥れるものは、人間の側にあるものである。 神のもとから離れさせようとする力から出てくるものである。 その力から解放させ、立ち上がらせるには、神のもとからくる力によってしかできない。 そのことを、イエスは十分ご存知のうえで言われるのです。 「神を信じなさい。 わたしを信じなさい。」 私たちが確かめることができるものなら、私たちが目で見て、自分の頭で納得し、常識で判断できるものであるなら信じることができるでしょう。 しかしイエスは、目を疑うような出来事、まったく期待に反する出来事にこれから直面し、不安と恐れと絶望の中に落とされていくであろう弟子たちに、「信じることができないようなことに出会っても、受け入れることができないようなものであったとしても、神を信じなさい。 このわたしを信じなさい。」と言われるのです。 その根拠は、「このわたしが、戻って来て、あなたがたをわたしのもとへ迎えるからだ。」と言われる。 「今は、あなたがたの目にわたしの姿は見えなくなるが、ふたたび戻って来る。 戻って来るだけでなく、あなたがたを迎えに来る。」と言われているのです。 イエスが行かれるところは、「父の家」です。 そこには、私たちが住むところがたくさんある。 イエスはそこへ行って、私たちの住む場所を用意するために、今しばらく見えなくなる。 しかし、用意が整ったなら、また私たちのところに戻って来る。 そして、私たちをその父の家に迎える。 だから今は、「このわたしが戻って来ることを信じなさい。 戻って来て、わたしの父の家に迎えることを信じなさい。」とイエスは言われているのです。
 そこでイエスはご自身を、「道」であると宣言されました。 「父である神のもとに戻ることができる唯一の道である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない道である。 今から十字架という道を通って、わたし自身が歩んで行く道である。 歩いた後、再びこの道を通って戻って来る道である。 それは、あなたがたを招いて、父の家に迎えるためである。 その準備を終えたなら必ず戻って来る。 この道をわたしと一緒に歩んで行かなければ、父なる神のもとに行くことはできない。 父なる神と一緒に住むという恵みにたどり着くことはできない。 そのために、わたしの名によって父なる神がこの地上に備えた唯一の道、それがわたしの道である。」と宣言されたのです。 「戻って来て迎えるイエス」こそ、聖書の言う「聖霊」です。 イエスのみ言葉通り、不安と恐れと絶望の中にあった弟子たちの上に「聖霊」が注がれた瞬間、それがペンテコステの出来事です。 神を知る「感性と力と言葉」を与えられた弟子たちに「激変」が起こされた。 すべてが一新された。 今まで見ていたもの、触れていたものがまったく別のもののように受け取ることができるようになった。 十字架に架けられたイエス、父のもとへ行って、再び新しい姿となってこの地上に戻って来たイエスとともに生きるようになった。 「エクレシア」と記されている群れが誕生した。 これがペンテコステの出来事です。 二千年前の弟子たちだけに起こされた「激変」ではありません。 繰り返しそれぞれの時代に、ひとつずつの人生に起こされている「奇跡」です。 歴史の中に歩んでくださった人間イエスとは異なる、「聖霊」という時代の時を超えて、新しい命に生きるイエスとともに、この地上で生きることができるようになったのです。 地上のからだを着たまま、新しい復活のからだを着たイエスとともに歩んで行くことができるようになったのです。

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「暗闇に戻って行く者」 ヨハネによる福音書13章21~30節

2019-05-26

 小さなイエスの群れにとって、その中から一人でも脱落するということは大きな痛手です。 それもイエスが選ばれた十二弟子の中から、そのイエスを裏切るという出来事が起こったことは深刻な重大事です。 イエスご自身にとってもつらい出来事であったでしょう。 「心騒がせた」とあります。 しかし、イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と、弟子たちの前で断言したのでした。 このイエスの言葉に弟子たちはうろたえます。 「いったいだれについて言っておられるのか察しかねて、弟子たちは顔を見合わせた」とあります。 「いったいだれのことですか」と尋ねられたイエスは、「わたしがこれからパン切れを浸して与えるのがその人だ。」と言われて、イスカリオテのシモンの子ユダにそのパン切れを渡したのです。 そして、ユダがそれを受け取るのを確認してから、イエスはユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたというのです。 ユダは、この群れの金入れまで託されるほど信頼の厚かった人物です。 弟子たちもまた、「この祭りに必要なものを買いなさい。 貧しい人に何か施すように。」とイエスがユダに言われたぐらいにしか受け取ることができなかったのです。 イエスからパン切れを渡されたユダが、「そのパン切れを受け取るとすぐ出て行った。 夜であった。」とこの段落が締めくくられています。 
 再び、夜の暗闇の中に消えて行ったユダの後ろ姿を、イエスはどのようにご覧になったのでしょうか。 この時のユダの中には、「サタンが入った」と書かれています。 ご自分の群れから出て行ったユダの後ろ姿を見届けてからイエスは、「わたしの時が始まった。 神の栄光が示される時が始まった。 わたしが行くところにあなたたちは来ることができない。 しかし、後でついてくることになる。」と言われたのです。 ご自身のもとを離れて、再び暗闇の中に戻って行ったユダ、悪の霊の働きに支配されてしまったユダを再び取り戻すために立ち上がる時が始まった。 父なる神によって用意された十字架という苦難を通ることによって、わたしが栄光を受けるときが来た。 父なる神の栄光が現されるときが来た。」とイエスは言われたのです。 その時を確信したのが、「暗闇の中に戻って行く者、ユダ」の後ろ姿を見届けたその時ではなかったでしょうか。
 イエスはユダに確かに、パン切れを浸して与えておられるのです。 五千人に五つのパンと二匹の魚によって養われたように、「今、しようと思っていることをしようとしているユダ」に渡しておられるのです。 暗闇に戻って行こうとしているユダに、これから始まる「わたしの時」にささげられる命のパンを受けなさいと渡しておられるのです。 ユダはそれを味わうことなく、もう一度イエスを仰いで寄りすがり、助けを求めることをしなかったのです。 イエスは、私たちが「今、しようとしていること」を、ご自身のみ心に沿うようにつくり変えてくださろうとしているのです。 悪の霊が付け入るすきを与えない人などひとりもいないことは、十分ご存知です。 イエスは人が起こす裏切りを背負って、担ぎ上げて、十字架に架け上がってくださっているのです。 「暗闇の中に戻って行った者」も、「暗闇の中に留まる者」も、イエスは取り戻すために、その裏切りの姿をつくり変えて、神の栄光をその後ろ姿に現してくださるのです。 ご自身とは真逆にある「暗闇の世界」にある者をも救い出そうとする、敵をも愛する神の愛の現れです。 イエスの十字架の姿は、暗闇の中に死ぬことに定められている私たちが裁かれている姿そのものです。 そのために献げられたイエスの十字架の死の姿です。 そこまでして私たちを救い出そうとしてくださるのは、新しい命を与え、新しいご自身の務めを与えるためです。 そのために暗闇を照らす光が、暗闇を背負い導く十字架のイエスの姿です

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「神に向かって献げる」 マタイによる福音書25章31~40節

2019-05-19

 これからご自身の最後になるだろうその時、罪を犯した者として処罰され、殺されようとしておられる時、イエスは弟子たちに、「わたしは、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける。」と言われたのです。 羊飼いは、羊も山羊もそれぞれの違いについて知り尽くしています。 だからこそ、連れて帰る時にはより分けてまとめて連れ帰ったのでしょう。 普段のありふれた生活の光景を用いて、終わりの日にそれぞれにふさわしく連れ帰るご自身の姿を、羊飼いの姿に譬えられたのではないでしょうか。 その違いが何であったのかというよりは、より分けるその理由が普段のありふれた生活の場にあるということを示しています。 
 より分けられた右側に置かれた人々にイエスは言います。 「わたしが飢えていたときに食べさせてくれた。 わたしがのどが渇いていたときに飲ませてくれた。 わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた。・・・・」 イエスの言われる理由のどれもこれも、私たちの日常に起こっている些細な出来事ばかりです。 しかし、その重大な違いは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのです。」と言われていることです。 あなたがたは、このありふれた生活の中で最も小さい者の一人の姿に注がれる「イエスの愛」を見出した者である。 この小さな日常生活の繰り返しの中にも、イエスの愛が働いている、語りかけられている、注がれ続けている、そのことに気づいたからだとイエスは言っておられるのです。 ここに譬えられているような小さな行いをしなさいと言っておられるのではない。 自分たちの謙遜や博愛のためでもない。 イエスによって現された神の愛に気づいて、それに応えたからだ。 このイエスによって現された神の愛に応える「生活の中にある私たちの信仰と祈り」が、そのより分けられる理由であると譬えておられるのです。 イエスは、「わたしにしてくれたからだ」と言います。 もし、私たちがイエスの姿を見出したなら、あるいはイエスの愛が注がれていることに気づいたなら、その愛に喜んで感謝して応えていくでしょう。 イエスの姿を仰いでしたことであるから、その人に対してしたことではないので、「自分がそのようなことをしたでしょうか」と尋ねるぐらいに覚えていないでしょう。 しかし、イエスを仰がず、人を見て人に対して行ったことであるなら、ささいなことでも覚えているでしょう。 ひょっとしたら、「恩を徒で返すのですか」と却って見返りを求めるかもしれない。 イエスは、「自分に命じられたことをみな果たしたなら、しなければならないことを神に向かってしただけですと言いなさい。」(ルカ17:10)と言われています。 イエスがこの譬えで言われていることは、信仰によって神のみ心に応えていくこと、これはたとえわずかな小さなことであっても、神に向かって献げた「あなたの信仰と祈り」であると言われているのでしょう。 イエスはこの神に向かって「信仰と祈り」を献げた人々を、「わたしを受け入れる人」(10:40)と言っています。 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ず報いを受ける。」(10:42)と言われたのです。 「天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい。 神の国を受け継ぎなさい。」と、とてつもない大きな報いがあるとイエスは語るのです。 私たちの姿がどのようなものであるかに関係なく、ただ「最も小さい者の一人」にイエスの愛が注がれていることに気づいて、イエスが愛しておられる人を愛する「信仰と祈り」をイエスは喜んでくださるのです。 

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