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「安息日の意義」 ルカによる福音書6章1~11節

2020-02-16

 創世記の2章に、「天地万物は完成された。 第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とあります。 モーセの十戒にも、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」とあります。 「安息日」は、神が創造したものをご覧になって良しと言って、造られたすべてのものがあることを喜び、祝福して憩われた日である。 私たち人間が、神によって造られた存在であること、神が造って良かったと喜んでいる存在であることを聖書ははっきりと語っているのです。 そのことを憶えさせるために、神は「安息日」を祝福して、私たちを招いてくださっている特別な日です。 だから、「安息日」には、あなたがたはその仕事の手を休めなさい。 神に造られたことを憶えて神と出会うために、神のみ前に進み出なさい。 神の祝福に、神の喜びに与るようにしなさいと聖書は語るのです。
 律法学者たちやファリサイ派の人々は、この神の契約のしるしである「安息日」を固く守ることによって、神の祝福を自ら確かに手に入れようとしたのです。 神のみ心がどこにあるのかを見ようともせず、「安息日」を守ることだけに専念したのです。 むしろ、守ることのできない人を裁いてしまったのです。 彼らは、イエスの弟子たちが空腹のあまり麦畑で手を伸ばし、麦の穂を摘み取って、手でもんで食べたことを問題とします。 「なぜ、安息日にしてはならないことを行ったのか」とイエスたちを批判するのです。 イエスはこの批判に対して、聖書に記されているダビデのとった振る舞いを持ち出して、律法の戒めに縛られていることから解放されることを願って、「安息日は、人のために定められたものである。 人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27-28)と主張されたのです。 「安息日」こそ、神が創造の完成を祝って喜ばれたものです。 神が喜ばれたその喜びを私たちが分かち合うために、あるいは、造られたものが造られた恵みを喜んで感謝し、賛美するために神が私たちのために賜ったものです。 この神のみ心を憶え、味わう日です。 「人のために安息日が造られたのである」と、当時としては世界をひっくり返すほど革新的な言葉をイエスは語られたのです。
 更に、律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエスが「安息日」に右手が萎えていた人を癒したことをも問題とします。 イエスは彼らが監視している中で敢えて、右手が萎えている人に目を注ぎ、「立って、真ん中に出なさい」と言うのです。 一同が見ているなかで、「あなたたちに尋ねたい。 安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。 命を救うことか、命を滅ぼすことか。」と問いかけ、右手が萎えていた人に「手を伸ばしなさい」と語りかけ、元どおりの手に癒されたのです。 イエスは、神が求めておられることは何かと一同に迫ったのです。 「善を行う、命を救う」とは、神のみ心を行うということです。 神のみ心に従うということです。 私たちは様々な人生の諸問題を抱えています。 その解決を心から願っています。 しかし、それらの諸問題が解決したとしても、果たして私たちの本当の病い、私たちが犯してしまった過ちが赦されていなければ、また同じ問題が起こってくれば後戻りとなるでしょう。 イエスがそのような私たちを憐れんで目を注いでくださって、「立って、真ん中に出なさい」と呼びかけてくださっているのです。 私たちはイエスのみ前に出てひとりで立って、病んだ手を差し出さなければならないのです。 「安息日」は病めるところが癒され、神の国に赦されて招かれていることを喜ぶ時です。 呼びかけるイエスに、私たちが出会う時なのです。



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