秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「赦しの言葉」 マタイによる福音書6章9~15節

2020-01-26

「主の祈り」は、先ず神への呼びかけから始まります。 「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて、次に、神に向けて三つの祈りがささげられています。 「み名が崇められますように、み国が来ますように、み心が行われますように」と、神への祈りで始まるのです。 その後で、私たち人間の営みについての祈りが三つ続きます。 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦してください。 わたしたちを悪より救ってください。」と祈るようにイエスは言われたのです。 私たち人間の些細な生活の中にある迷い、苦しみ、悲しみに、具体的に答えてくださるようにと祈る願いがあればあるほど、先ず神に向かって祈らなければならない。 神のみ前に立たずして、ただ私たち人間の側からだけの祈りであるならば、神との交わりのない空虚な祈りとなりかねないのです。 「主の祈り」は、神との交わりの」中で祈られる「祈り」であるとイエスは語っているのです。 本当に簡潔明瞭にして短い「祈り」です。 
 ここで忘れてはならないことは、「わたしたち」という言葉で祈る「祈り」であるということです。 わたしたち教会の群れがともに祈る「祈り」です。 それとともに群れに連なるひとりひとりの「祈り」、神のみ前に一人立って祈る「祈り」でもあるということです。 この六つの祈りに順番があると言うならば、なぜ、「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りが五番目の祈りに位置付けられているのだろうかと思います。 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りの後に、「わたしたちの負い目、わたしたちの罪を赦してください」と祈りなさいと言うのです。 イエスは荒れ野で、「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われたではありませんか。 順番が逆ではないでしょうかと言いたくなります。 イエスはこの「主の祈り」を教えた後に、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」というみ言葉をつけ加えています。 このみ言葉をどのように受け止められるでしょうか。
 私たちは、自分の犯してきた過ちは、神の憐れみによって一方的に赦されることを知っています。 「主の祈り」こそ、イエスご自身によって愛する弟子たちに教えられた「祈り」です。 イエス・キリストの名によって罪が赦されている者の「祈り」であるはずです。 そうであるなら、罪の赦しを願う「祈り」はすべての祈りに先立つ「祈り」であるはずです。 イエスは、私たちが生活の日常の糧を日々祈り求めると同じように、私たちの罪深さに敏感に気づき、イエスの名によって赦され続けなければならない存在であることを忘れてはならないと愛する弟子たちに教えられたのではないでしょうか。 ここに語られた「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」とは、人の過ちを赦すことを条件に、神が私たちの過ちを赦すと言っているのではないでしょう。 「主の祈り」は、イエス・キリストの十字架の生涯によって、イエス・キリストの名によって祈る「祈り」です。 イエスは十字架の上で、すべての人の過ちを担って、執り成して死んでくださったのです。 それが、父なる神のみ心だったからです。 「天の父があなたがたの過ちをお赦しになる」という赦しの約束の言葉が聞かされなければ、私たち一人一人の過ちの赦しなどないのです。 イエスが教えられた「主の祈り」は、この過ちが赦された者が祈る「祈り」です。 イエス・キリストの名によってすでに成し遂げられた「神の赦しの言葉」を受け取った者が祈る、赦された者どうしが祈る「祈り」です。 父なる神の赦しの言葉に聴いて、これを携えて、神のみ心を行わせる聖霊を身に受けてこの世に遣わされて行く者の「祈り」なのです。



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