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「正しいことを行う人」 使徒言行録10章34~48節

2020-01-19

 当時のユダヤ人は、社会的にも政治的にも支配されている者でした。 強大な力をもつローマの支配にただ従うだけの存在であったのです。屈辱と無力に苛まれた存在であったでしょう。 しかし、神によって授けられた律法を弁える者として、選ばれた民である「誇り」をもっていたのです。 ローマ人も含め異邦人とは異なるという独善に至って、決して交わろうとしない排斥の殻に閉じこもっていたのです。 一方、ローマ人は、支配する者として文化も武力ももつ優越感をもった存在でした。 神を知ろうとしない、自分の力だけを頼りに生きる無知なる存在であったのでしょう。 ユダヤ人とローマ人が互いに訪問し、交わることなど考えられない当時の社会であったのです。 神は、「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であったローマ人コルネリウスと、ガリラヤの漁師であったユダヤ人で、イエスに出会い従ってきたペトロを選び出します。 このコルネリウスが福音を受け取るために、次第に整えられていくのです。 「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、憶えられている。 だから安心して、これから告げるペトロというユダヤ人をあなたのもとに呼び寄せなさい。」という神の導きがあったのです。 コルネリウスのささげる祈りと賛美はもうすでに神に届いている。 届いているだけでなく、神ご自身に覚えられていると言うのです。 だから、安心して神の導き通りに委ねなさいと言われるのです。 そのコルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて、「今、わたしたちは皆、神が語らせる言葉を聞き逃すことのないようにと、神のみ前に進み出ている。」と語るまでに整えられていったのです。
 一方、すでに聖霊が降り、別人のようにつくり変えられていたペトロでしたが、未だにユダヤ教の教えに縛られ、社会常識によって神のみ心を知り尽くすことがなかったのです。 ローマ人のところに出かけて行くことなどできないとしり込みするペトロに、神は何度も何度も「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない。 ためらわないで、コルネリウスのもとに出かけて行きなさい。」とペトロを戒め、導かれるのです。 ペトロは次第に異邦人であるコルネリウスに福音を告げるにふさわしく砕かれていきます。 次第に整えられていったコルネリウスと、繰り返し戒められ砕かれていったペトロが、神の導きによって引き寄せられた出会いであったのです。 そこに、異邦人のうえにも、ユダヤ人と同じように聖霊が降り、神への喜びと賛美が生まれたと言うのです。 「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。」というペトロの告白が生まれ出ます。 この神に導かれた二人の出会いによって、分け隔てなさらない神が支配からも、従属からも、また独善からも、無知からも二人を解放してくださったのです。 そこから、人種もなく、国や文化の違いも乗り越えて、すべての人に神の賜物、聖霊が注がれることを悟って、イエスキリストを主と信じる「キリスト者」の群れが湧き立ったのです。 ペトロは、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる。 十字架に架けられ、復活させられたナザレの人イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが与えられる。」と語るのです。 「神に受け入れられる」とは、神との交わりが赦されるということです。 私たちの過ち、罪によって閉ざされていた神との交わりの門が開かれるということです。 神との交わりを妨げている罪の存在さえ気づかない、罪に落ちて罪に踊らされていることさえ分からない私たちを、罪の恐ろしさを本当に知っておられる神が、事前に赦しを与えて解放してくださっているのです。 「正しいこと」とは、神から注がれるその賜物、聖霊を喜んで受け入れて感謝し、賛美しその導きに従うことです。



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