「神の恵みによる成長」 ルカによる福音書2章39~52節
イエスの父と母は、「祭りの慣習に従って」、エルサレムの都に少年イエスを連れて上ったのです。 ところが、その祭りが終わって帰り始めた時、イエスがいないことにその両親が気づいたのです。 慌てて捜し始めたけれど見つからなかった。 その少年イエスは、両親がまさかそんなところにいるとは思いもしなかった所、神殿の境内にいたのです。 それだけではない。 そこで両親が見た光景は、学者たちと話をしたり、質問したりしているイエスの姿でした。 そのイエスの受け応えを聞いて、周りにいた学者たちが驚いているのです。 両親は、自分の子供はそばについてくる筈であると思ったから、神殿の境内に留まったイエスに驚いたのです。 学者たちは、イエスが子供であると思ったから、律法を知り聖書を解釈するイエスに驚いたのです。 しかし、イエスはすでに、両親や学者たちとは異なる世界に生きていたのです。 母マリアは、「なぜこんなことをしてくれたのです」とイエスを叱ります。 しかし、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます。 この答えに、イエスの言葉の意味が両親には分からなかった。 イエスが神の恵みに包まれてすでに真の父の家にいたことに、気がつかなかったのです。 これは、エルサレムでの過越しの祭りの時の出来事でした。 イエスの生涯の最後に味わったのも、過越しの祭りの時でした。 少年と言えども、イエスはすでに救いのご計画の新しい時を刻み始めています。 両親は、そのイエスに気づかず、なおも自分の子として見ていた。 ただユダヤの慣習に従って、イエスをエルサレムの祭りに連れて行った。 イエスは、決して、マリアが母であり、ヨセフが父であることを否定しません。 ヨセフとマリアの子でありながら、自分には「真の父がいる」と言っているのです。 イエスは、ガリラヤのナザレであろうと、エルサレムの神殿の中であろうと、「わたしの父の家にいるのは当たり前である」と言っているのです。 このイエスが、たくましく育ち、背丈も伸び、神を知る知恵に満ちて、「神の恵みに包まれて」、「神と人とに愛されて」成長されたのです。 一人の幼子となって、私たちと同じ有様で、同じ悩みを神のものとして味わってくださった。 神の恵みに包まれたイエスが、この世に降りて来てくださったのです。 私たちの所に、罪人の友として降りて来てくださったのです。 ともにいてくださるこのイエスの豊かな恵みの中に、私たちはあるのです。 時として、この両親のように、イエスを見失うことがないでしょうか。 私たちの都合のよいイエスに、ひょっとして閉じ込めてはいないでしょうか。 イエスがいないことが分かったなら、捜し回り、尋ねて行かねばなりません。 日々の慣習に流されて、祭りの騒ぎに惑わされてイエスを見失ってはなりません。 このお方に、私たちの救い、恵みの源があるのです。
[fblikesend]「パウロとアナニアの出会い」 使徒言行録22章6~16節
使徒パウロは、自分自身の生い立ちとイエスとの出会いを包み隠さず、「証し」として語ります。 自分の身に起きた「主の恵み」を語ろうとするのです。 イエスとの生き生きとした出会いを思い起こしながら、詳しく語っています。 その場所は、「旅を続けてダマスコに近づいたとき」だった。 その時は、「真昼ごろ」だった。 起こったことは、「突然、天から強い光がわたしの周りを照らした」不思議な出来事だった。 そのために「わたしは地面に倒れた」、「目が見えなくなってしまった」。 その時、「なぜ、わたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」という声を聞いた。 パウロは、この声は「わたしにしか分からなかった」と告白しています。 この体験は、パウロだけの特別な体験でしょうか。 今まで見えなかったものが見えるようになった。 聞こえなかった声が聞こえるようになった。 今まで考えてもみなかった方向を向いて、歩み出した。 パウロの体験は、今日、私たちが日常生活の中で主イエスの声を聞く体験と同じことなのです。 このパウロの体験に、ひとりの無名の人物アナニアが登場します。 アナニアは、このパウロに先だって救われた者、すでにイエスに召されたキリスト者でした。 アナニアは、このパウロを訪ねて行くようにイエスに命じられました。 パウロがどれだけ自分たちキリスト者を苦しめてきたかを、アナニアは十分知っています。 実際、パウロに合った瞬間に捕らえられ、命を奪われるかもしれない。 その恐れよりも、アナニアは、これだけ主イエスに従う者を徹底的に迫害してきたパウロを、なぜお赦しになるのか納得できないと主に疑問をぶつけます。 しかし、主は、アナニアを励ますのです。 「行け。 パウロは、わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と告げられたのです。 そのみ声を聞いて、アナニアは、人間の思いを捨てて、自分の理解を越えてパウロを受け入れたのです。 イエスご自身が選んだ器として、パウロを受け入れることができたのです。 主イエスの名を伝える主の業のために、アナニアは従ったのです。 このアナニアが運んできた主イエスの言葉によって、パウロは「神が選んでくださった」、「元通り見えるようになることを望んでおられる」ことを初めて知りました。 そして、「立ち上がってダマスコへ行け。 そこでしなければならないことは、すべて知らされる」と語ってくださった。「今、何をためらっているのです」と立ち上がらせてくださった。 主の名を伝える者として新しく踏み出して行く、新しいパウロの誕生の瞬間です。 このために、ダマスコに住む一人の無名の、先に救われたキリスト者が用いられたのです。 アナニアもパウロもイエスの声にただ従っただけです。 主のみ声に従った者どうしの出会いであったのです。 私たちには、アナニアと同じように、先に救われた者としての務めがあるのです。 「そこでしなければならないことは、すべて知らされる」 そこには、すでに「主の恵み」が用意されています。 この信仰に立って主の恵みを仰いで参りたい。 「主の恵み」は、いつも驚きです。
[fblikesend]「神の霊のとりなし」 マルコによる福音書7章31~37節
イエスの目に「耳が聞こえず、舌の回らないひとりの人」の姿がとまります。 突然、目の前に運び込まれたこの人を見て、イエスがされたことは、「この人だけを群衆の前から連れ出した」ことです。 「両耳に、口の舌に触れられた」ことです。 「エッファタ、開け」と叫ばれたことです。 イエスは、後に、いつまでたっても分からない愛する弟子たちに「まだ分からないのか。 目があっても見えないのか。 耳があっても聞こえないのか。」と叱責されています。 この異邦の地で、突然現れた体の病を負ったこの人を通して、心の耳が聞こえない、舌の回らない弟子たちにも語り続けておられるのです。 イエスは、群衆の中からこの人を引き離して、一対一で向き合おうとされます。 イエスの姿を見上げざるを得ない。 イエスのみ声を聞かざるを得ない。 そのために、イエスは群衆から連れ出してくださるのです。 群衆は、イエスにこの人の体のうえに手を置くことだけを望みました。 しかし、イエスは、この人の苦しみが凝縮している、聞くことのできなくなってしまった両耳に、指に力を込めて耳の穴をくりぬくように触れてくださった。 話すことのできなくなった口の中の舌に触れてくださった。 この人が抱える痛みを、イエスは触れて味わい、共に痛みを引き受けてくださった。 イエスは、体の上だけでなくこの人の嘆きと痛みの上にも手を置いてくださったのです。 そして、「天を仰いで深く息をつき、エッファタ、開け」と叫ばれたのです。 深く息をついて、呻いて、天を仰いで父なる神の「力と憐れみ」をいただこうとされたのです。 「天を仰ぐ」とは、イエスの祈りの姿です。 イエスは、呻きにも似た祈りによって、父なる神からの「力と憐れみ」をいただいたのです。 この人はたった一人で、呻いてご自身の苦しみにされようと祈るイエスの姿のみ前に立たされたのです。 イエスが最初に行ったことは、この人の耳の穴を開けることでした。 私たちは、みことばを聞くことが最初です。 イエスは、先ず私たちの耳を癒し、みことばが聞こえるように「エッファタ、開け」と叫んでくださったのです。 イザヤ書に預言されています。 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」 新しい耳や口が与えられただけではない。 新しい湧き水と新しい川が流れるようになるのです。 この「神の力と憐れみ」を信じて歩んで参りたいと願います。
[fblikesend]「キリストに従う家」 エフェソの信徒への手紙6章1~4節
十戒の第五番目の戒め、「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。 そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」という戒めは、特別な役目を果たしています。 神が、私たち人間の生活に最初に望んでおられる戒めです。 「そうすれば幸いを得る」という神の約束が付け加えられている戒めです。 神に向っての戒めに従って初めて、私たち人間の生活に対する戒めが始まるという、最初の重要な場所に置かれている戒めです。 エフェソの信徒へ差し出されたこの手紙では、この戒めの役目を、十戒に示されている通りに書かれています。 そのうえで、子供たちには「主に結ばれている者として両親に従いなさい」 父親たちには「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と言い換えています。 この手紙では、当時の信仰者の日常生活の中で、「妻と夫」、「親と子」、「奴隷と主人」という人間のありのままの関係を通して一体として語っています。 その語る中心は、「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 それと同時に「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」というみことばです。 「親と子」の関係にあっても、先ず子供たちに「主に結ばれている者として両親に従いなさい。 それは正しいことです。」と迫ります。 父親たちにも、「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と言います。 主イエス・キリストが私たちにしてくださったように、あなたがたもしなさいと言っているのです。 子であれ、親であれ、主イエス・キリストに結ばれるようにと、私たちは問い直されているのではないでしょうか。 主イエス・キリストに従うという生活の中で、もう一度、親を親として受け止め直す。 自分がこの子の親であることを受け止め直すということです。 自分自身こそが、この当たり前と思われている関係に主イエス・キリストに結ばれる者として新しく生きるということです。 この戒めが、私たちに、主イエス・キリストの名によって、約束された祝福の伴う新しい生き方を選び取るよう迫ります。 父と母、子という務めを通して、親も子も神に仕えなさいと語ります。 私たちは、「主に結ばれている者として両親に従いなさい」 こう言える親であり、そう聴ける子でありたいと願います。 主イエス・キリストに従うために、神の恵みとして与えられたかけがえのない神の家、神の家族、兄弟姉妹であります。
[fblikesend]「キリストとの結びつき」 ヨハネによる福音書16章4b~15節
イエスの十字架の死によってイエスを失ってしまった弟子たちが、ひとつの部屋に集まっています。 イエスが天に昇られる別れの際に語ってくださった言葉にすがるように、弟子たちはひたすら祈っています。 その弟子たちに、イエスの約束の言葉通りに聖霊が降った日が、今日のペンテコステです。 しかし、イエスが地上の生活をしておられた時に、「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせて下さる」と約束されていました。 しかし、弟子たちは目の前にイエスの姿がいつもあったから、また、尋ねればいつでも応えて下さるイエスが一緒にいてくださったから、気にとめていませんでした。 イエスは、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と、弟子たちに直に別れを告げます。 告げられた弟子たちは、不意に訪れた悲しい別れの知らせに、弟子たちはこれからどうなるのか考えることもできなくなってしまった。 しかし、イエスは、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言います。 それは、今、あなたがたは理解することができないが、すべてが分かるようになるためである。 もっと大きな業を、あなたがたが行うようになるためであると言います。 「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」、「わたしが父のもとに行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」ことになると、イエスは言ってくださっているのです。 このイエスの別れは、単なる旅立ちではありません。 十字架の死と復活によって果たされた「神の愛」、私たちの醜さと弱さをすべて担ってくださった「十字架の愛」を経て、初めて成し遂げられた「別れ」です。 この救いの出来事を通して、別れの悲しみを越えて十字架の愛と慰めが私たちに注がれているのです。 イエスが去って行かなければ、与えられないものです。 だから、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われたのです。 イエスがいなくなるのではありません。 イエスの言われる「今」は、イエスとの「新しい愛の結びつきの始まり」なのです。 離れる、別れることによって、イエスとの「新しい愛の結びつき」の中に私たちが生かされていく。 別れの悲しみや苦しみを越えさせるものは、このイエスにある「結びつき」以外にはないのです。 イエスの地上での姿やイエスの肉声で語られたみことばだけでは、分からなかった。 その弟子たちが、「イエスの十字架の死と復活」、そして「イエスとの悲しい別れ」を通して、イエスのもっておられるものを語る弁護者(聖霊)が降って、すべてが分かるようになった。 イエスが語られたみことばを思い起こすようになったのです。 私たちは、この聖霊が働くように願い求めることです。 神の恵みの支配はすでに始まっているのです。
[fblikesend]「約束の実を結ぶ」 ヨハネによる福音書15章1~10節
イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 あなたがたはその枝である。」と言います。 枝は、木の幹につながっていなければ存在することさえできないのに、イエスは、枝であるあなたがたは「わたしにつながっていなさい」と敢えて言います。 今、揺れ動いている愛する弟子たちに対して語られた、イエスの渾身の譬えなのです。 愛する弟子たちは、十字架の後、これからイエスを見失うことになる。 その弟子たちが信仰生活を続けていくために、イエスご自身を通して父なる神につながるようにと渾身の愛を込めて励ましたイエスの譬えなのです。
イエスは、「わたしにつながっているなら、実を結ぶ」と言います。 枝に向って「実を結べ」とは言っておられないのです。 枝である私たちが、イエスにつながっていれば、「あなたがたは、豊かに実を結ぶようになる」と約束してくださっているのです。 イエスのうちに留まり続けるならば、そのイエスがそのみことばによって私たちの内に生きて働いてくださって実をもたらしてくださる。 その約束の中にあなたがたは生かされているのだと、イエスは語るのです。
この「ぶどうの木とその枝」のつながりを眺めておられる農夫の姿を覚えます。 イエスは、あなたがたはすでに実を結ぶという約束のなかにある枝である。 農夫は、その枝を時として手入れをなさると言います。 もし、木の幹につながっていながら実を結ぼうとしないなら、もし、木の幹につながっている枝が自分の思い通りの実をつけようとしているなら、農夫は手入れをなさるのです。 根元から送られてくる父なる神の命に根付いた豊かな実に、結び変えてくださるのです。 私たちは、その約束の実を結ぶために、選ばれて召された枝なのです。 感謝すべきことに、イエスは「わたしもあなたがたにつながっている」、「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言ってくれています。 イエスは、私たちという無数の枝を持っていてくださるのです。 イエスは、そのすべての枝の集まりのかしらなのです。 この枝の集まりは、イエスのみことばによってひとつにつながっているのです。 イエスは、この小さな一つの枝もまた「わたしの一部である」と言ってくださっています。 イエスははっきり言われました。 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 これが、地上にある「まことのぶどうの木」の姿です。 私たちすべての枝を包み込んで、ひとつの体にしてくださっている「まことのぶどうの木」なのです。 その「まことのぶどうの木」のもとに集められた新しい群れに、イエスは「望むものを願い求めなさい」と、祈りを求めておられます。 祈り求めれば「わたしの話した言葉によって」実を結ぶことになると言われているのです。 そのことを私たちは、信じているでしょうか。
「父のもとに至る道」 ヨハネによる福音書14章4~14節
この時代のユダヤの生活の中心に「会堂」という場所がありました。 ところが、このユダヤの「会堂」の中に「イエスが主である」と告白する者たちが増えてきた。 そこで、教えが混乱しないように、イエスに従う者たちをこの「会堂」から追放する命令がくだったのです。 まさに、このユダヤの社会から追放される迫害のなかで、弟子たちの体にしっかりと刻みつけられたイエスのみことばが、今朝の聖書箇所です。 この困難な状況の中でも、「イエスを通して、唯一の父なる神を仰いで歩んで行く」道を選び取る決断をした弟子たちの姿を思い起こします。 イエスが「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言うと、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」と問います。 イエスが、「わたしこそがその道である。 わたしを知るなら、わたしの父をも知ることになる。 わたしの道を歩んでいるなら、あなたがたは父をすでに見ている。」とまで言います。 すると今度は、フィリポが、「主よ、父なる神をお示しください。」とイエスに問いかけます。 このトマスとフィリポの問いは軽はずみな質問でしょうか。 「会堂」から、この弟子たちは締め出されようとした。 言葉にならないような惨めな仕打ちを、イエスの弟子たちは受けていた。 まともな生活すら送れないような所に追い込まれた。 「なぜこのような苦しみに会うのか知りたい。」と願う切実な弟子たちの思いを、代表する叫びです。 しかし、イエスは、「わたしが道である。」 「父のもとに至る唯一の道である。」 この道を歩んでいなければ父なる神のもとに辿りつくことができない。 私を知っているなら、父を知ることになる。 私を見ているなら、父を見ていることである。 イエスが語られていることは、ただ一つです。 「信じる」ことだけです。 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」 そして、「わたしをも信じなさい」。 そのために「わたしが言う言葉を信じなさい」、「もし、それを信じないならば、わたしが行う業そのものによって信じなさい」と、動揺する弟子たちを「信じること」によって励ましておられるのです。 イエスは愛する弟子たちにこのことを語り、これから向う十字架への道を、父なる神が定められた道であると選び取ったのです。 この道が、父なる神から遣わされて地上の生涯を終えて再び父のもとに戻って行く道であると確信したのです。 このイエスの「道」が、私たちのために開かれた父なる神に通ずる「道」となったのです。 この「道」をイエスは、「わたしを知る、わたしを信じる」ことによって、「父を知る、父を信じる」道であると言います。 だから、「この道にとどまり続けなさい」「わたしの言う言葉を信じなさい」と言われるのです。 イエスご自身がともに歩んでくださる、父のもとでとりなしの祈りをささげてくださっている道です。 この備えられた「道」を見失わないように、私たちは、週の初めに、み前に召し集められ礼拝をささげているのです。
[fblikesend]「イエスの祈りと共に生きる」 ヨハネによる福音書17章20~26節
この章全体が、イエスの祈りとなっています。 弟子たちに最後の別れの説教を語り終えた後に、イエスが父なる神を仰いでなされた祈りです。 この祈りを終えた後に、イエスは、定められたご自身の十字架への最後の道を突き進んで行かれたのです。 そのイエスの祈りの最後の部分が、今朝の聖書箇所、将来の弟子たちである私たち教会のためにささげられた「執り成しの祈り」です。 イエスは、「父よ」と呼びかけ、「すべての人をひとつにしてください」と願い出ています。 すべての人が、一つになる。 完全に一つになる。 そのようなことができるのでしょうか。 そうなるように、イエスは私たちに努力しなさいと言っているのでしょうか。 この祈りには、「父なる神がイエスの内にあるように、イエスが父なる神の内にあるように」という言葉が添えられています。 そして、祈られている私たちもまた、イエスの内にあるように、イエスが父なる神に願い求めてくださっているのです。 私たちは、個性も、賜物も、生い立ちも、経験もすべて異なる者です。 この違いを越えて一つにするには、イエスを通してしかできないことです。 このことをイエスは、父なる神に願い求めてやまないのです。 私たちは、このイエスの祈りの内にあるのです。 更に、イエスは「わたしのいる所に、共におらせてください」と祈ってくださっています。 イエスが父なる神のもとから遣わされていることを知ることができる所、父と子が一つになっていることが見える所、そこがイエスの言う「わたしのいる所」です。 そこに、イエスは招いてくださっています。 私たちの現実を見る時に、完全に一つになんかなっていない。 ため息をつきたくなるような状況に圧倒されます。 しかし、私たちこそが、そこに選ばれて遣わされている神の民です。 私たちの目には、一つとなる神の国が見えていないかもしれない。 しかし、そこには、このイエスの執り成しの祈りが、すべての人々を支えているのです。 イエスがこの祈りをささげたのは、愛する私たちを通して、この世が「神が愛しておられることを知る」ためです。 イエスご自身が「愛なる神から遣わされた」ことを、この世が信じるためです。 そのために、私たち教会が一つにされて存在するようになるのです。 主イエスによって教会が一つにされる。 主によってつくりあげられるのです。 そのために、お一人お一人が主イエスに結ばれること以外に道はありません。 私たちにはできないと思われることだからこそ、主イエスの祈りがささげられているのです。 そして私たちには、この祈りに支えられて父なる神にささげる祈りが与えられるのです。 イエスは、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言います。 この務めを果たし、「イエスの祈りと共に生きる」人々との出会いを待ち望んで参りたいと願います。
[fblikesend]「私たちの感謝と献身」 マルコによる福音書12章13~17節
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエスは言います。 いつしか、後ろの部分が忘れ去られて、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉だけが一人歩きします。 道徳的な戒めに変質してしまっているかもしれません。 このイエスの問いかけの言葉に聴きたいと思います。 当時のユダヤ社会では、支配されている民族としてローマ帝国によって税金が課せられていました。 それを、ユダヤの通貨ではなく、ローマの通貨で納めさせられていたのです。 ユダヤ民族にとっては屈辱です。 この税金の問題を通して、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとした人たちが現れました。 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。 適っていないでしょうか。 納めるべきでしょうか。」と尋ねます。 どちらにころんでも、彼らはイエスを陥れる手はずでありました。 イエスは、そのまともでない質問に、冒頭の言葉をもって答えられました。 イエスの生涯は、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」と訴え続けた歩みでした。 イエスが答えられたことは、「神のものは、神に返しなさい」ということです。 聖書は、「初めに、神は天地を創造された」。 そして、「神は、ご自分にかたどって人を創造された」と告白します。 それを神はご覧になって「見よ、それは極めてよかった」と受け入れてくださったのです。 イエスは、あなたがたは神に造られた者である。 悔い改めて神のもとに立ち帰りなさいと言っておられるのです。 すべては、神のものです。 皇帝は、神ではありません。 皇帝が支配していると思われるのは、この世の僅かな時にすぎません。 もはや、まったく新しい神の国が始まっている。 その中にあなたがたは生かされているのです。 だから、皇帝の姿と銘分が刻みつけられているこの世の通貨は、この世に返しなさい。 神のかたちに刻まれたあなたがた自身を、神のもとに返しなさい。 神のものであるあなたがた自身を、神のもとに立ち帰らせなさいとイエスは、答えているのです。 イエスが求めておられることは、自らを神のものとして、神にささげるということでした。 私たちは、神の刻印を押された神のものです。 自分のものではありません。 パウロも言っています。 「あなたがたは自分自身のものではない。 代価を払って買い取られたのです。 だから、自分の体で、神の栄光を表しなさい」と勧めています。 自分自身をささげる。 礼拝のために、お祈りのために私たちに与えられた時間をささげる。 与えられた賜物を精いっぱいささげる。 神の恵みによって豊かに与えられたものから、お返しする。 これこそ、私たちがささげる真の礼拝です。 「神のものは、神に返しなさい。」とは、すべての人に、イエスがその生涯をかけて語り続けられた招きの言葉です。
[fblikesend]「祝福の源」 ヨハネによる福音書20章19~29節
週の始めの日つまり日曜日に、弟子たちはびくびくしながら家の中に閉じこもっています。 何もかも捨てて、自分の生涯をかけてついて行ったイエスが殺されてしまったからです。 ユダヤの人々からもローマ軍からも、追及の手はきっとやってくるだろう。 弟子たちは集まって、家の中に潜んでいたのです。 身の危険からくる恐れです。 これからどうしてよいのか分からない不安です。 理解をはるかに越えた事態に対する心細さです。 そのような状態の弟子たちのところへ、処刑された筈のイエスが現れてくださった。 弟子たちの真ん中に立ってくださった。 そして「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださった。 そう言って、イエスは手とわき腹とをお見せになったのです。 十字架によって死んだ筈のイエスの方から、手とわき腹の傷跡を見せて復活の事実を伝えたのです。 失ったとばかり思っていたイエスに出会うことができ、喜んだ弟子たちにイエスは言います。 「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言って、弟子たちに聖霊の力を与える為に息を吹きかけたのです。 そこで初めて、弟子たちはイエスの手とわき腹の傷跡の本当の意味を知った。 本当の平安と確信が弟子たちに与えられたのです。 その源は、イエスの息吹と共に与えられた「イエスの傷跡」でした。 その傷跡が、イエスの十字架と復活の事実を神の言葉として弟子たちに語ったのです。 その場に居合わせなかったトマスだけは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、そのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張っていた。 そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われたのです。 そのイエスの言葉がトマスに与えたものは、「わたしの主、わたしの神よ」という告白でした。 「見ないで信じる者となる」幸いでした。 見れば信じる、分かれば信じるというトマスの「ひとりよがりの信仰」が、イエスの傷跡を源とする聖霊の力によって崩されたのです。 イエスは、見ないで信じる者に現れてくださいます。 そして、出会った者に、ご自身を告げる務めを託し、遣わすのです。 弟子たちと同じように、「不安」のうちにある私たちを集めてくださることも、その私たちを「平安」のうちに送り出して下さることも、復活の主イエスの恵みの業です。 自由自在に、私たちを集め、用いて、送り出してくださいます。 「祝福を与える。 これを持ってわたしの派遣する場所へ行きなさい」と、聖書に言われている通りです。 神の祝福をもって、この世を赦す力を与えられて、聖霊に導かれ、この世に送り出されるのです。 私たちの生活と礼拝は、この神の祝福によって、しっかりと結びつけられているのです。
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