秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「キリストとの結びつき」   ヨハネによる福音書16章4b~15節

2013-05-19

 イエスの十字架の死によってイエスを失ってしまった弟子たちが、ひとつの部屋に集まっています。 イエスが天に昇られる別れの際に語ってくださった言葉にすがるように、弟子たちはひたすら祈っています。 その弟子たちに、イエスの約束の言葉通りに聖霊が降った日が、今日のペンテコステです。 しかし、イエスが地上の生活をしておられた時に、「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせて下さる」と約束されていました。 しかし、弟子たちは目の前にイエスの姿がいつもあったから、また、尋ねればいつでも応えて下さるイエスが一緒にいてくださったから、気にとめていませんでした。 イエスは、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と、弟子たちに直に別れを告げます。 告げられた弟子たちは、不意に訪れた悲しい別れの知らせに、弟子たちはこれからどうなるのか考えることもできなくなってしまった。 しかし、イエスは、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言います。 それは、今、あなたがたは理解することができないが、すべてが分かるようになるためである。 もっと大きな業を、あなたがたが行うようになるためであると言います。 「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」、「わたしが父のもとに行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」ことになると、イエスは言ってくださっているのです。 このイエスの別れは、単なる旅立ちではありません。 十字架の死と復活によって果たされた「神の愛」、私たちの醜さと弱さをすべて担ってくださった「十字架の愛」を経て、初めて成し遂げられた「別れ」です。 この救いの出来事を通して、別れの悲しみを越えて十字架の愛と慰めが私たちに注がれているのです。 イエスが去って行かなければ、与えられないものです。 だから、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われたのです。 イエスがいなくなるのではありません。 イエスの言われる「今」は、イエスとの「新しい愛の結びつきの始まり」なのです。 離れる、別れることによって、イエスとの「新しい愛の結びつき」の中に私たちが生かされていく。 別れの悲しみや苦しみを越えさせるものは、このイエスにある「結びつき」以外にはないのです。 イエスの地上での姿やイエスの肉声で語られたみことばだけでは、分からなかった。 その弟子たちが、「イエスの十字架の死と復活」、そして「イエスとの悲しい別れ」を通して、イエスのもっておられるものを語る弁護者(聖霊)が降って、すべてが分かるようになった。 イエスが語られたみことばを思い起こすようになったのです。 私たちは、この聖霊が働くように願い求めることです。 神の恵みの支配はすでに始まっているのです。 

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「約束の実を結ぶ」   ヨハネによる福音書15章1~10節  

2013-05-12

 イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 あなたがたはその枝である。」と言います。 枝は、木の幹につながっていなければ存在することさえできないのに、イエスは、枝であるあなたがたは「わたしにつながっていなさい」と敢えて言います。 今、揺れ動いている愛する弟子たちに対して語られた、イエスの渾身の譬えなのです。 愛する弟子たちは、十字架の後、これからイエスを見失うことになる。 その弟子たちが信仰生活を続けていくために、イエスご自身を通して父なる神につながるようにと渾身の愛を込めて励ましたイエスの譬えなのです。 
 イエスは、「わたしにつながっているなら、実を結ぶ」と言います。 枝に向って「実を結べ」とは言っておられないのです。 枝である私たちが、イエスにつながっていれば、「あなたがたは、豊かに実を結ぶようになる」と約束してくださっているのです。 イエスのうちに留まり続けるならば、そのイエスがそのみことばによって私たちの内に生きて働いてくださって実をもたらしてくださる。 その約束の中にあなたがたは生かされているのだと、イエスは語るのです。
 この「ぶどうの木とその枝」のつながりを眺めておられる農夫の姿を覚えます。 イエスは、あなたがたはすでに実を結ぶという約束のなかにある枝である。 農夫は、その枝を時として手入れをなさると言います。 もし、木の幹につながっていながら実を結ぼうとしないなら、もし、木の幹につながっている枝が自分の思い通りの実をつけようとしているなら、農夫は手入れをなさるのです。 根元から送られてくる父なる神の命に根付いた豊かな実に、結び変えてくださるのです。 私たちは、その約束の実を結ぶために、選ばれて召された枝なのです。 感謝すべきことに、イエスは「わたしもあなたがたにつながっている」、「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言ってくれています。 イエスは、私たちという無数の枝を持っていてくださるのです。 イエスは、そのすべての枝の集まりのかしらなのです。 この枝の集まりは、イエスのみことばによってひとつにつながっているのです。 イエスは、この小さな一つの枝もまた「わたしの一部である」と言ってくださっています。 イエスははっきり言われました。 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 これが、地上にある「まことのぶどうの木」の姿です。 私たちすべての枝を包み込んで、ひとつの体にしてくださっている「まことのぶどうの木」なのです。 その「まことのぶどうの木」のもとに集められた新しい群れに、イエスは「望むものを願い求めなさい」と、祈りを求めておられます。 祈り求めれば「わたしの話した言葉によって」実を結ぶことになると言われているのです。 そのことを私たちは、信じているでしょうか。

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「父のもとに至る道」   ヨハネによる福音書14章4~14節  

2013-05-05

 この時代のユダヤの生活の中心に「会堂」という場所がありました。 ところが、このユダヤの「会堂」の中に「イエスが主である」と告白する者たちが増えてきた。 そこで、教えが混乱しないように、イエスに従う者たちをこの「会堂」から追放する命令がくだったのです。 まさに、このユダヤの社会から追放される迫害のなかで、弟子たちの体にしっかりと刻みつけられたイエスのみことばが、今朝の聖書箇所です。 この困難な状況の中でも、「イエスを通して、唯一の父なる神を仰いで歩んで行く」道を選び取る決断をした弟子たちの姿を思い起こします。 イエスが「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言うと、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」と問います。 イエスが、「わたしこそがその道である。 わたしを知るなら、わたしの父をも知ることになる。 わたしの道を歩んでいるなら、あなたがたは父をすでに見ている。」とまで言います。 すると今度は、フィリポが、「主よ、父なる神をお示しください。」とイエスに問いかけます。 このトマスとフィリポの問いは軽はずみな質問でしょうか。 「会堂」から、この弟子たちは締め出されようとした。 言葉にならないような惨めな仕打ちを、イエスの弟子たちは受けていた。 まともな生活すら送れないような所に追い込まれた。 「なぜこのような苦しみに会うのか知りたい。」と願う切実な弟子たちの思いを、代表する叫びです。 しかし、イエスは、「わたしが道である。」 「父のもとに至る唯一の道である。」 この道を歩んでいなければ父なる神のもとに辿りつくことができない。 私を知っているなら、父を知ることになる。 私を見ているなら、父を見ていることである。 イエスが語られていることは、ただ一つです。 「信じる」ことだけです。 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」 そして、「わたしをも信じなさい」。 そのために「わたしが言う言葉を信じなさい」、「もし、それを信じないならば、わたしが行う業そのものによって信じなさい」と、動揺する弟子たちを「信じること」によって励ましておられるのです。 イエスは愛する弟子たちにこのことを語り、これから向う十字架への道を、父なる神が定められた道であると選び取ったのです。 この道が、父なる神から遣わされて地上の生涯を終えて再び父のもとに戻って行く道であると確信したのです。 このイエスの「道」が、私たちのために開かれた父なる神に通ずる「道」となったのです。 この「道」をイエスは、「わたしを知る、わたしを信じる」ことによって、「父を知る、父を信じる」道であると言います。 だから、「この道にとどまり続けなさい」「わたしの言う言葉を信じなさい」と言われるのです。 イエスご自身がともに歩んでくださる、父のもとでとりなしの祈りをささげてくださっている道です。 この備えられた「道」を見失わないように、私たちは、週の初めに、み前に召し集められ礼拝をささげているのです。

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「イエスの祈りと共に生きる」   ヨハネによる福音書17章20~26節  

2013-04-28

 この章全体が、イエスの祈りとなっています。 弟子たちに最後の別れの説教を語り終えた後に、イエスが父なる神を仰いでなされた祈りです。 この祈りを終えた後に、イエスは、定められたご自身の十字架への最後の道を突き進んで行かれたのです。 そのイエスの祈りの最後の部分が、今朝の聖書箇所、将来の弟子たちである私たち教会のためにささげられた「執り成しの祈り」です。 イエスは、「父よ」と呼びかけ、「すべての人をひとつにしてください」と願い出ています。 すべての人が、一つになる。 完全に一つになる。 そのようなことができるのでしょうか。 そうなるように、イエスは私たちに努力しなさいと言っているのでしょうか。 この祈りには、「父なる神がイエスの内にあるように、イエスが父なる神の内にあるように」という言葉が添えられています。 そして、祈られている私たちもまた、イエスの内にあるように、イエスが父なる神に願い求めてくださっているのです。 私たちは、個性も、賜物も、生い立ちも、経験もすべて異なる者です。 この違いを越えて一つにするには、イエスを通してしかできないことです。 このことをイエスは、父なる神に願い求めてやまないのです。 私たちは、このイエスの祈りの内にあるのです。 更に、イエスは「わたしのいる所に、共におらせてください」と祈ってくださっています。 イエスが父なる神のもとから遣わされていることを知ることができる所、父と子が一つになっていることが見える所、そこがイエスの言う「わたしのいる所」です。 そこに、イエスは招いてくださっています。 私たちの現実を見る時に、完全に一つになんかなっていない。 ため息をつきたくなるような状況に圧倒されます。 しかし、私たちこそが、そこに選ばれて遣わされている神の民です。 私たちの目には、一つとなる神の国が見えていないかもしれない。 しかし、そこには、このイエスの執り成しの祈りが、すべての人々を支えているのです。 イエスがこの祈りをささげたのは、愛する私たちを通して、この世が「神が愛しておられることを知る」ためです。 イエスご自身が「愛なる神から遣わされた」ことを、この世が信じるためです。 そのために、私たち教会が一つにされて存在するようになるのです。 主イエスによって教会が一つにされる。 主によってつくりあげられるのです。 そのために、お一人お一人が主イエスに結ばれること以外に道はありません。 私たちにはできないと思われることだからこそ、主イエスの祈りがささげられているのです。 そして私たちには、この祈りに支えられて父なる神にささげる祈りが与えられるのです。 イエスは、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言います。 この務めを果たし、「イエスの祈りと共に生きる」人々との出会いを待ち望んで参りたいと願います。 

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「私たちの感謝と献身」   マルコによる福音書12章13~17節  

2013-04-21

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエスは言います。 いつしか、後ろの部分が忘れ去られて、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という言葉だけが一人歩きします。 道徳的な戒めに変質してしまっているかもしれません。 このイエスの問いかけの言葉に聴きたいと思います。 当時のユダヤ社会では、支配されている民族としてローマ帝国によって税金が課せられていました。 それを、ユダヤの通貨ではなく、ローマの通貨で納めさせられていたのです。 ユダヤ民族にとっては屈辱です。 この税金の問題を通して、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとした人たちが現れました。 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。 適っていないでしょうか。 納めるべきでしょうか。」と尋ねます。 どちらにころんでも、彼らはイエスを陥れる手はずでありました。 イエスは、そのまともでない質問に、冒頭の言葉をもって答えられました。 イエスの生涯は、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」と訴え続けた歩みでした。 イエスが答えられたことは、「神のものは、神に返しなさい」ということです。 聖書は、「初めに、神は天地を創造された」。 そして、「神は、ご自分にかたどって人を創造された」と告白します。 それを神はご覧になって「見よ、それは極めてよかった」と受け入れてくださったのです。 イエスは、あなたがたは神に造られた者である。 悔い改めて神のもとに立ち帰りなさいと言っておられるのです。 すべては、神のものです。 皇帝は、神ではありません。 皇帝が支配していると思われるのは、この世の僅かな時にすぎません。 もはや、まったく新しい神の国が始まっている。 その中にあなたがたは生かされているのです。 だから、皇帝の姿と銘分が刻みつけられているこの世の通貨は、この世に返しなさい。 神のかたちに刻まれたあなたがた自身を、神のもとに返しなさい。 神のものであるあなたがた自身を、神のもとに立ち帰らせなさいとイエスは、答えているのです。 イエスが求めておられることは、自らを神のものとして、神にささげるということでした。 私たちは、神の刻印を押された神のものです。 自分のものではありません。 パウロも言っています。 「あなたがたは自分自身のものではない。 代価を払って買い取られたのです。 だから、自分の体で、神の栄光を表しなさい」と勧めています。 自分自身をささげる。 礼拝のために、お祈りのために私たちに与えられた時間をささげる。 与えられた賜物を精いっぱいささげる。 神の恵みによって豊かに与えられたものから、お返しする。 これこそ、私たちがささげる真の礼拝です。 「神のものは、神に返しなさい。」とは、すべての人に、イエスがその生涯をかけて語り続けられた招きの言葉です。

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「祝福の源」   ヨハネによる福音書20章19~29節  

2013-04-14

 週の始めの日つまり日曜日に、弟子たちはびくびくしながら家の中に閉じこもっています。 何もかも捨てて、自分の生涯をかけてついて行ったイエスが殺されてしまったからです。 ユダヤの人々からもローマ軍からも、追及の手はきっとやってくるだろう。 弟子たちは集まって、家の中に潜んでいたのです。 身の危険からくる恐れです。 これからどうしてよいのか分からない不安です。 理解をはるかに越えた事態に対する心細さです。 そのような状態の弟子たちのところへ、処刑された筈のイエスが現れてくださった。 弟子たちの真ん中に立ってくださった。 そして「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださった。 そう言って、イエスは手とわき腹とをお見せになったのです。 十字架によって死んだ筈のイエスの方から、手とわき腹の傷跡を見せて復活の事実を伝えたのです。 失ったとばかり思っていたイエスに出会うことができ、喜んだ弟子たちにイエスは言います。 「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言って、弟子たちに聖霊の力を与える為に息を吹きかけたのです。 そこで初めて、弟子たちはイエスの手とわき腹の傷跡の本当の意味を知った。 本当の平安と確信が弟子たちに与えられたのです。 その源は、イエスの息吹と共に与えられた「イエスの傷跡」でした。 その傷跡が、イエスの十字架と復活の事実を神の言葉として弟子たちに語ったのです。 その場に居合わせなかったトマスだけは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、そのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張っていた。 そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われたのです。 そのイエスの言葉がトマスに与えたものは、「わたしの主、わたしの神よ」という告白でした。 「見ないで信じる者となる」幸いでした。 見れば信じる、分かれば信じるというトマスの「ひとりよがりの信仰」が、イエスの傷跡を源とする聖霊の力によって崩されたのです。 イエスは、見ないで信じる者に現れてくださいます。 そして、出会った者に、ご自身を告げる務めを託し、遣わすのです。 弟子たちと同じように、「不安」のうちにある私たちを集めてくださることも、その私たちを「平安」のうちに送り出して下さることも、復活の主イエスの恵みの業です。 自由自在に、私たちを集め、用いて、送り出してくださいます。 「祝福を与える。 これを持ってわたしの派遣する場所へ行きなさい」と、聖書に言われている通りです。 神の祝福をもって、この世を赦す力を与えられて、聖霊に導かれ、この世に送り出されるのです。 私たちの生活と礼拝は、この神の祝福によって、しっかりと結びつけられているのです。

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「途中で 早く 和解しなさい」マタイによる福音書 5章21~26節   エフェソの信徒への手紙2章14~18節

2013-04-07

 たった一人で神の前に立つことを覚悟して、自らの血と体をささげてくださった主イエス。 神との関係がまったく断ち切れていた私たちを、十字架によってふたたび神と結びつけてくださった主イエス。 その神との一方的な仲直りをしてくださった、神との和解をもたらしてくださった主イエスが、隣人との仲直りを求めておられます。 イエスは、だれにでも分かる「あなたは殺してはならない」という戒めを持ち出して語られます。 この戒めには、前文がちゃんとついています。 「わたしがあなたを導き出した神である。」 だから、そのようなことをあなたがするはずがないと断言されているのです。 私たちには、導き出され救われた喜びが先にある。 その恵みのうえに私たちは立っている。 このような神との関係は、また隣人との間の関係においても切っても切れない関係にあると、イエスはみもとに集められた弟子たちに迫ります。 「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を献げなさい」と言います。 そことは、神のみ前に立って、礼拝をささげるところです。 赦されて、救い出されて、神と和解させていただくところです。 しかし、それだけではない。 神から与えられた一方的な仲直りは、必ず、兄弟との仲直りに向かって行く。 神から与えられた平和は、兄弟との平和を造り出して行くと、イエスは言っているのです。 なぜなら、そこには、真の供え物としてイエスがすでに献げられている。 真の祭司として、イエスが執り成しの祈りをささげてくださっている。 その場所こそ、真の神殿、真の礼拝の場なのです。 神の平和、神との和解、そして兄弟との和解が実現されるところが、神のみ前に立つところです。 聖書に書かれています。 「キリストは、私たちの平和であります。」 「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、・・・敵意を滅ぼされました。」 「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 イエスを通して、父よと呼ぶ時にはじめて、私たちは兄弟姉妹として交わることができるのです。 誰ひとり、神の前に立つ資格のない者です。 私たちの間の仲直りは、神のみ前にもっていかなければ実現することができません。 私たちは、その神のみ前に立つ「礼拝」をささげることを大切にしたい。 そして、イエス・キリストの十字架のみもとで、「赦され合いたい」と願います。 

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「復活の主に目が開かれる」   ルカによる福音書 24章13~35節  

2013-03-31

 冒頭に書かれている「ちょうどその日」とは、仲間の女性たちから「墓が空になっている」と伝えられた日、イエスが復活された日曜日、まさに2000年前の今朝のイースターの日の出来事でした。 二人のイエスの弟子は、先生と仰いできたイエスが殺されて、悲しみに暮れている。 失望の中にある。 動揺している。 イエスは、そのような人に近づいて、一緒に歩いて、語りかけてくださるのです。 イエスとともに生活をしていた二人の弟子は、不思議なことにイエスが分からない。 イエスご自身が、もう一度、説き明かしてくださったのに分からない。 彼らはむしろ、その本人であるイエスに向かってつぶやくのです。 「イエスは、行いにも言葉にも力のあるお方であった。 このイエスに望みをかけていた。 このお方こそと期待してついて行った。 それなのに、十字架につけられて殺されてしまった。 今や、遺体さえどこに行ったのか分からなくなってしまった。」と、過去に嘆くのです。 彼らは、過去に囚われて、過去に生きているのです。 今、歩み寄って来てくださっているイエスに、目を遮られて気がつかないのです。 残念ながら、目が開かれていない時には、そのイエスの姿が見えないのです。 そのような「物分かりが悪く、心が鈍い」二人の弟子に、イエスは彼らが目指す村にまでついて行ってくださったのです。 目指す村に着いた時に、彼らに変化が起こります。 二人の弟子に変化が起きたのは、そのイエスを強引に引き止めた時です。 イエスと一緒に泊った家の食事の席についた時です。 イエスを、招き入れて、その食事の主人にイエスを置いた時です。 ユダヤの食事では、家の主人がパンを手に取って、神に感謝の祈りをささげ、パンを裂いて一人一人に手渡します。 イエスが、食事の主人となってパンを彼らにお与えになったその時です。 二人の目が開かれたのです。 イエスを主人とする食卓を囲む交わりの中で初めて、彼らはイエスを見出したのです。 その彼らは、イエスが「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、心が燃えたではないか」と思い起こします。 過去に囚われ、過去に生きていた時のイエスの出会いのことが、あざやかに新しくよみがえっているのです。 イエスを主人としてともに歩んで行く、新しい生き方へと踏み出して行った時です。 彼らは「時を移さず出発して」もとのエルサレムに戻って、喜んで起こった出来事を語ったのです。 私たち教会の過去の歩みもまた、無駄な事は何ひとつありません。 イエスが近づいてきて、祈りの種をいっぱい蒔いて、祈りの芽を育ててくださったからです。 私たちの教会が、新しい歩みを始める為です。 よみがえりの新しい命をいただいて、「時を移さず出発して」喜びを、この地で伝える為です。 私たちの目指す村ではなく、先を急いでおられたイエスの後に従って行くのです。

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「ユダヤ人の王」   ヨハネによる福音書 18章38b~19章16a節  

2013-03-24

 地方総督は、ローマ帝国から派遣されているその地方の最高の支配者でした。 なるべく争いや問題が起きないようにすることが仕事でした。 祭司長たちに操られたユダヤ人たちに訴えられたイエスに、地方総督ピラトはどうしても死刑にするまでの罪を認めることができません。 ローマの兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、ユダヤ人の王、万歳と言って、平手で打つのです。 総督ピラトは、痛めつけられ、嘲り笑われて、辱めを受けているこのような力のない者が、ユダヤの国を救い出すようなローマに対する罪を犯す筈がない、その哀れな姿を人々の前にさらそうとしたのです。 ローマ兵がかぶせた茨の冠と紫の服をつけたままのイエスをユダヤの人々にさらして、あなたがたが訴えた者は、「見よ、このような男だ」と見せしめたのです。 「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、人々に見捨てられる」と預言された通りです。 ピラトは、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限もわたしにあることを知らないのか」と、イエスに迫ります。 しかし、イエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と応じます。 イエスは、ピラトに「自分が持っていると思っている権限は、人間によって与えられたものである。 消えてなくなるものである。 私があなたに従っているのは、あなたの権威ではない。 神のみこころに従っている。 神のご計画が実現するために、あなたが持っていると思っている権限を用いようとしているだけである。」と語っているのです。 イエスは、ユダヤの人々の怒りが自分の方に向かってくることを恐れたピラトのように、「自分を守る者たち」、「自分を王とする者たち」によって裁かれました。 ユダヤの人々も、祭司長たちも、イエスを亡き者とするためにローマの権威にすがりました。 イエスは、自分たちを守るために「皇帝を王とする者たち」、「皇帝を友とする者たち」によって裁かれました。 私たちは、この平手で打たれ、鞭うたれ、嘲られたイエスの姿に、それでも私たちを「赦している神の愛」を思い起こしたい。 それでもなお、私たちに期待し「招いておられる神のご真実」を思い起こしたいのです。 神は、この哀れな「ユダヤ人の王」を、すべての人類の救い主、真の王とされたのです。 「この男を見ろ」と蔑んだピラトの言葉を、「この救い主を見よ」という信仰の言葉に、復活の事実によって変えてくださったのです。 イエスは、ピラトに引きずり出されたのではありません。 進んで自らを差し出して、私たちの前に「茨の冠をかぶり、紫の服をつけて」現れてくださったのです。 父なる神のみ前に立って、私たちを救い出すためです。 この「ユダヤ人の王」が受けた懲らしめと傷によって、私たちに平和と癒しが与えられたのです。 私たちは、この救い主とともに歩んでいるのです。

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「大祭司の屋敷の中庭」   ヨハネによる福音書 18章15~27節  

2013-03-17

 ペトロは、捕らえられたイエスの動向が気になって仕方がなかった。 あれだけイエスが逃げなさいと言われたのに、ペトロはのこのこと、捕らえられたイエスのもとに近寄って行きます。 大祭司の知り合いであったもう一人の弟子を利用して、やっと入った「大祭司の屋敷の中庭の門の中」でした。 イエスの後を追ってやっと入った所でペトロが行ったことは、大祭司の下役や僕たちと一緒になって、炭火の火にあたっていたことです。 黙って彼らの一員として炭火にあたり、イエスの成り行きを見に行った傍観者です。 ところが、黙っていたら分からないと思っていたペトロに、不意に声がかかります。 「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」という門番の女中のひと言です。 更に、一緒に炭火にあたっていた僕や下役からも声がかかります。 「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」 ペトロは、更に窮地に追い込まれます。 そこに、ペトロが片方の耳を切り落とした人の身内がいたのです。 「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と迫られたのです。 ペトロは、イエスを完全に否定する以外に生きる道はありません。 ペトロは、炭火にあたって気をゆるしている所で、「イエスを知らない」と三度否定し、自分の本当の姿をさらしてしまったのです。 
一方、イエスは、時の権力者である大祭司の前で縛られ、尋問を受け、その下役の一人に、平手で打たれ、蔑まれています。 この世の権威の前では、イエスの姿は無力です。 まさに、イエスが、この世の権威に裁かれているのです。 しかし、イエスは、毅然として揺るぎません。 祈りによって「自ら飲むべき杯」として、選び取っていたからです。 ご自身の身に何が起こるのか、すでに知っておられたからです。 ペトロは、三度「違う」と打ち消して、イエスを見捨て自分をささげることができなかった。 しかし、イエスは、この世の権威の裁きの前に、自らを進んでささげられたのです。 イエスは、復活の後、大失敗をしたこのペトロに現れてくださった。 三度「違う」と打ち消したペトロの傷を癒すかのように、三度「わたしを愛しているか」と尋ねてくださった。 ペトロはこの時、完全にこの傷が癒され、「わたしが愛していることを、イエスが知っていてくださっている」と確信を得たのです。 このイエスの愛に支えられて、ペトロは新しい宣教の務めが与えられたのです。 このペトロの愚かさと弱さが用いられている。 そこに、イエスの赦しがある。 新しく命を与え、変えて生かすよみがえりの力がある。 イエスのみことばが、ペトロの愚かさと弱さのうえに実現しているのです。 「大祭司の屋敷の中庭で恐れていた者」こそが赦されて、イエスに招かれて、新しくイエスの「後について来る者」と変えられていくのです。 私たちは、この恵みの中にあるのです。

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