秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「イエスの祈り」   ルカによる福音書22章31~34節

2014-08-17

 時は、過越しの祭りという大きな祭りでにぎわい始めています。 場所は、イエスが前もって準備しておいた、愛する弟子たちと食事をともにした地上での「最後の晩餐」でした。 イエスは、シモン・ペトロにその席で呼びかけます。 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言います。 いったい、何のことでしょうか。 イエスはペトロに語りかける前に、同じこの席で「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。 わたしは定められたとおり去って行くが、わたしを裏切る者は不幸だ。」と言われていたのでした。 イエスは、サタンの試みの中にあったユダの心の動きをご存じであったのでしょう。 イエスは最後まで、ご自身を裏切ろうとしているこのユダに対して、神のもとから離れて行くことから立ち帰って、悔い改めることを心から望んでおられたのではないか。 ユダのはかりごとによって捕らえられようとしている、まさにこの地上の最後の時に、その本人に「わたしを裏切る者がいる」と呼びかけられたのではないか。 なぜなら、このユダのためにも、イエスはこれから十字架のうえに自ら進み出て、父なる神の怒りと悲しみの裁き、そしてその赦しと救いに身を委ねようとされたからです。 イエスの言われる「わたしを裏切る者」とは、罪を犯そうとしている者のことではない。 イエスがこれから身に受けようとする十字架の苦しみによって、与えようとされておられる「神の赦し」を拒む者である。 その赦しを拒む者は、私の悲しみであり、父なる神の痛みであると言っておられるのです。 残念ながら、ユダはこのイエスの招きを拒み、神を捨て、変えようとしない自分に頼って生きる道を選択したのです。 イエスの「赦し」の招きに背を向けたのでした。
 しかし、イエスは「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」とペトロに言われたのでした。 イエスと「ご一緒なら死んでもよい」とまで覚悟していた。 仕事も故郷も何もかも捨ててイエスに従って来たペトロでした。 他の弟子たちにはない勇敢さをもって、大祭司の屋敷の中庭にまで入って行って、なおもイエスに期待していた。 しかし、そこで見たイエスの姿は、人々に侮辱される惨めな姿でした。 いよいよペトロの期待が絶望に変わったその時に、「イエスに一緒にいた」と人々に告げられ、三度も「わたしはあの人を知らない」と、すべてを捨てて従ったそのイエスを、ペトロが裏切ったのです。 ペトロの挫折です。 「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったイエスの言葉を思い出して、ペトロは激しく泣いたとあります。
 イエスは、このペトロの犯すであろう挫折の姿を含めて、「わたしは、あなたのために信仰が無くならないように祈った」と言われたのです。 ペトロあなたには信仰があると言っておられる。 この世には、サタンの試みが必ずあり、それに動かされ失望し挫折する時がある。 しかし、この挫折こそが、十字架という「神の赦し」のもとにペトロを立ち帰らせる。 ですから、イエスは「あなたの信仰が無くならないように、わたしは祈った」、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。 イエスの祈りに支えられていた。 そこには「神の赦し」があった。 その喜びと驚きと感謝を、ペトロは十字架の後にイエスのもとへ立ち帰って見出したのです。 私たちの本当の罪は、過ちを犯したことではありません。 いつまでも自分を捨てきれず、悔い改めないで、イエスの「赦し」の招きと憐れみを拒むことです。 このペトロと同じ「赦しの喜び」、「救いの喜び」がある限り、必ず、福音は伝わっていきます。 主イエスは、隣人を力づけるために、私たちを赦し、救ってくださったのです。

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「神と私たちの間の扉」   ヨハネの黙示録3章14~22節

2014-08-10

 ヨハネ黙示録が語る七つの教会は、ローマの属州であったアジア州にありました。 そこでは、ローマの権力者から皇帝礼拝の強要もあったでしょう。 ユダヤの会堂から「イエスは主である」と飛び出してきたキリスト者は、ユダヤ人社会から異端者として排除されていたでしょう。 教会の中にあっても、偽りの教えによって揺れ動いていたこともあるでしょう。 そうした教会に、この世には終わりがある、イエス・キリストが再びこられることが差し迫っていると強くこのヨハネの黙示録は告げ知らせたのです。 再び来られるこのイエス・キリストを信じて、最後まで忠実であるようにと時代を越えて教会を励ましたのです。 そのなかのひとつラオディキアの教会に、主イエスはこのように言われました。 「わたしはあなたの行いを知っている。 あなたは、冷たくもなく熱くもない。 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 ラオディキアは、麻布、毛織物の産出で有名な経済的にとても繁栄した町でした。 そこにあるラオディキアの教会に、「あなたは、『わたしは金持ちだ。 満ち足りている。 何一つ必要な物はない。』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」と言われたのです。 本当に冷え切ってしまって、初めのころの信仰を全く失ったのであれば、まだ悔い改めて再び立ち上がることもあるでしょう。 ですから、「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」とまで、イエスは言われたのです。 ご自身が再び来られる「時が迫っている」ことを忘れてしまっている、熱くも冷たくもなくなまぬるい信仰である。 そうであるのに、自分に欠けているところがない、すべて満ち足りている。 神を求める祈りに欠けてしまったラオディキアの教会に、その本当の姿をイエスは突きつけたのでした。 イエスは、ラオディキアの教会に苦難と試練を経て与えられる信仰、「火で精錬された信仰」が欠けていると言います。 「熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい」ところからでは得ることのできない「火で精錬された信仰」をわたしから買いなさい。 あなたは、わたしにそれを求めることができる。 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。 だから、熱心に努めなさい。 悔い改めなさい。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」と言われたのです。 イエスは、扉の外に立って、私たちの心の扉をたたいてくださっています。 それでも、固く閉ざされた扉があります。 イエスがたたいている扉の音が聞こえているでしょうか。 聞こえているにもかかわらず、扉の外を見るのを恐れて閉じこもっているのでしょうか。 扉を開くなら、ただちにイエスは入って来られます。 イエスは「わたしは中に入ってその者と共に食事をする」と約束してくださいました。 その約束を受ける者は、イエスが扉をたたいて呼びかける声を聞いて、扉を開けた者すべての人です。 そこには何の資格も行いもありません。 ただ神の恵み、神の憐れみがあるだけです。 私たちは、扉をたたいておられるイエスが再び入って来られるという緊張感がなければ、熱くもなく冷たくもないなまぬるい信仰生活に陥ってしまいます。 盗人のように来るかもしれない終わりの日に備えて、希望の時、確信の時としてイエス・キリストを待つために、目を覚ましていることをこの黙示録は求めています。 戸口で立ってたたいておられる主の方に向き直して、悔い改めて、扉の取っ手を自ら引いて主を迎え入れる。 主は、扉をたたいて招いて、共に食事をすると約束してくださっています。  

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「成し遂げられた十字架の主」   ヨハネによる福音書19章23~30節

2014-08-03

 ヨハネが語る地上の最後のイエスの姿は、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、「渇く」、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたお姿でした。 十字架のうえで語られたこの「成し遂げられた」という言葉には、「終わりが来た」、「目的を達した、成就した」という二つの意味合いが込められています。 この者は「ユダヤ人の王」と自称したと全世界の人たちに向けてさらし者にした罪状書きを添えて、イエスをののしったユダヤの人々。 おのれの立場を守るためだけに人々を恐れ、罪なきイエスを十字架に渡した総督ピラト。十字架という死刑を執行するのに慣れて、イエスの服をくじ引きまでして分け合っているローマの兵士たち。 そして、イエスに従って来たはずであるのに、イエスを見捨ててしまった弟子たち。 イエスの十字架のもとには、これらの罪がとぐろを巻いています。 そうであるにも関わらず、これらのご自分の敵となったすべての者が再び神との関係を回復される道を、イエスはこの十字架という場所でお拓きになったのです。 それだけではありません。 最後の最後までこの世に留まって、母に向ってまた弟子たちに向って配慮をしようと、神の世界と人間の世界を結び合わせようとするイエスの姿をヨハネは描いています。 
 人間の側から見ると、イエスの十字架の死は人間の「終わり」です。 そこに、イエスは立ってくださった。 しかし、イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る。 裁かれることなく、死から命へと移っている。」とはっきり約束してくださっているのです。 死は、人間の終りであっても、終わりではない。 人間の終りから始まる命の始まり、神の世界の始まりである。 終わりから始まるという神の恵みが、そこにはあると言われるのです。 この「終わり」から新しい歩みを始めた二人の人物がいます。 ひとりは、アリマタヤのヨセフと言います。 聖書は、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と、彼を紹介しています。 もうひとりは、かつてある夜人目を忍んでイエスのもとにやって来たニコデモでした。 彼もまた、イエスを「神がともにおられるお方である」と告白しながらも、夜そっとイエスに会いにくる人物でした。 イエスを公然とメシアである、救い主であると言い表すと、ユダヤ社会から追放される。 そのことに脅えた二人でした。 この二人が、イエスの十字架の死を境に新しい歩みを始めるのです。 総督ピラトの前に進み出て、イエスの遺体を葬るために、十字架から取り降ろしたいと願い出るのです。 ユダヤ人の人々の前に現れて、香料を添えて亜麻布で包みイエスを丁重に葬るのです。 かつては、イエスの弟子であることをひた隠し、真の願いを押し殺して歩む二重生活に埋もれていた人物でした。 この世の祝福を片方でしっかりと握りしめて、一方で神の祝福を隠れて願った者でした。 これが、私たちの姿です。 二人は、その二重生活の中から飛び出してきたのです。 その出発の場所が、イエスの人間の終りの死、これから始まる神の世界の始まりの命であったのです。 彼らはこの時、人間の終りを知らされ、神の始まりを体で知ったのではないでしょうか。 イエスご自身が、「人間の世界が終わった、神のご計画が成し遂げられた、神の世界の始まりが始まった」と宣言された言葉が、「渇く、成し遂げられた」という十字架の言葉ではないでしょうか。  私たちは、この十字架の終りの宣言と始まりの宣言を隠したり、自分の都合のよいように飾ってはなりません。 人間の望みが断ち切られているところに立っておられる十字架の主から、目をそらしてはなりません。 そこに留まり続けるようにと、死から命へ移っているという約束に私たちは招かれています。 

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「主の前に忠実であること」   コリントの信徒への手紙一4章1~5節

2014-07-27

 信仰の世界にも時として、目に見えない神の働きが分からずいらいらする時があります。 神の働きが目に見えないからこそ、満足することができなくなることがあります。 自分の願いどおりにならないことに不満を持ち始めます。 それどころか、自分の方が変わらなければならないと神に強く迫られ、その神の働きに耐えられなくなる時があります。 その時が私たちと神との交わりが危うくなってくる時でもあります。 神の前に立つことができなくなる。 神に祈ることができなくなる。 神との交わりが途絶え始めてくる。 パウロが語ったように、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である。 あなたがたは神の畑、神の建物なのである。」 すべてのものは神のものである。 そのことを私たちは、いつしか忘れてしまうのです。 だれか特別な人だけが、神の務めや特別な立場を与えられているのではありません。 私たち信仰者すべてが、神から託された福音を宣べ伝えるという務めをいただいていると言うのです。 そのことをパウロは、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言っているのです。 私たちは、この賜物を託された神に対して責任を負っているのです。 聖書は、この責任を果たしていない人のことを罪人と呼んでいます。 この責任を果たしていない人の罪を赦し、神との正しい関係に回復するための救いの出来事が「神の秘められた計画」です。 この神の福音、神の国に入る鍵、これを委ねられた者がキリスト者ですとパウロは言っているのです。
 パウロは、この「神の秘められた計画を委ねられた管理者」として、すべてのキリスト者が神に仕える時に、神から求められることは「忠実であるということ」だと言います。 神は、私たち管理人に多くの才能を求めているのではありません。 忠実にキリストに仕える心です。 自分の賜物を差し出す勇気を求めておられます。 コリントの教会の人々は、豊かな知識を誇っていました。 分からないことまで、自分には分かっていると思い込んでいました。 しかし、真の知識こそ、自分が何も分かっていないということを知ることではないでしょうか。 神の業の多くは、私たちには秘められています。 しかし、パウロは、「主が来られる時」、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と断言しています。 神の救いの業のすべてが明るみに出て、私たちに分かるようになる。 その時が来る。 ですから、「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」 「自分で自分を裁くことすらしません」とも言います。 パウロは、「わたしを裁くのは主なのです。」と言います。 パウロは、神の裁きであるキリストの十字架によって、自分自身の何もかもが赦されている。 神の裁きは、自分を再び生かす救いの為であったという確信が、パウロにはあるのです。 ですから、パウロは、すべてが明るみになる神の裁きの時こそ、希望の時として待ち望んでいるのです。 これこそ、神の前に自身を低くして、真の裁きの前に自分のすべてを委ねているという忠実な信仰の姿です。 主が来られるのを待つ。 主に委ね、主が来られて働かれることを待つということです。 人間を神のもとに回復させることができるのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」だけです。 信仰によって神の前に義とされたという神の赦しを確信していたからこそ、パウロはびくともしなかったのです。 神の裁きは、人に罪を知らせ、悔い改めに導き、贖いのキリストの命がささげられたことを知らせます。 そこに、神の赦しが「私のために」あったことを知らせます。 人に新しい命を与え救うために、神だけがなすことのできることです。 

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「神が備えてくださる」   創世記22章7~18節

2014-07-20

 アブラハムは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という神の招きに旅立ちました。 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」という神の約束に、過去を断ち、新しい未来に向けて、行き先が分からないまま家族を連れて出発をしたのです。 様々な出来事の後、ついに神は、アブラハムを一対一の契約の相手とされたのです。 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。 そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 わたしは、彼らの神となる。」という契約でした。 
 そうした時、神はひとつの試みをアブラハムに与えます。 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命じられたのです。 しかし、年老いたアブラハムと妻サラには、子供がいなかったのです。 子孫を増やすと言う神の約束にもかかわらず、アブラハムはうすら笑いを浮かべて「百才のわたしに子供が生まれるだろうか」と神を疑ったのです。 そのアブラハムに神は「わたしに不可能なことがあろうか」と迫って与えた約束の子です。 アブラハムが晩年になってやっと与えられた待望の子、愛する独り子です。 その独り子を焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神は命じられたのです。 この時アブラハムは、神に「アブラハムよ」と呼ばれて「はい」と答える、神との正しい関係にありました。 神と正しく向き合っている者、神の言われる通りに歩んでいる者にも試練がある。 神の試みは、その人の罪でもなければ、その人に対する懲らしめでもありません。 神のみこころから出てくるものです。 アブラハムは驚くほど、冷静です。 「次の朝早く」、すぐさま、自分で「ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割って」準備をしています。 「神の命じられた所に向って」歩み出しています。 黙々と準備するアブラハムがひと言だけ口にしています。 「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をしてまた戻ってくる。」 あの「わたしに不可能なことがあろうか」と強く迫った神が、あの山に登れと言われている。 「自分が愛する独り子イサクをささげよ」とすべてをご存じなうえで命じておられる。 愛する子イサクも、神が与えて下さった賜物であった。 「わたしがお前を旅立ちへと導き出した主である」と言われる神が、ここでも私を導いておられる。 アブラハムは、この三日間、このようなことを思い浮かべながら黙って従って行ったのです。 アブラハムは、愛する独り子イサクをささげ切ることができたのではない。 イサクをささげることによって、自分自身を神にささげ切ったのではないでしょうか。 ですから、成長したイサクの「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」という問いに、「きっと神が備えてくださる」と答えることができたのでしょう。 「二人は一緒に歩いて行った」と書かれています。 神の命じられている場所に、礼拝をささげるためにささげ切って向った二人の後ろ姿を見ることができます。 主に信頼して希望を抱きながら、アブラハムは絶望の山に登って行きました。 そこに神の備えを見出したのです。 過去を断ち切って、旅立たなければ主が備えた山のうえに登ることができません。 そこに登って行かなければ味わうことのできない神の備えです。 神は、私たち一人一人を契約の相手として、その人にしか歩むことのできない道を備えてくださいます。 ですから、その生涯が尊いのです。 神だけが試練を与え、そこから救い出す備えを与えることができるのです。

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「一緒に住んでくださる神」   ヨハネによる福音書14章23~31節

2014-07-13

 この世での死を前にしたイエスの、弟子たちへのお別れの言葉が綴られています。 十二弟子のひとりイスカリオテのユダが、イエスを裏切るためにすでに最後の晩餐の席を退席しています。 十二弟子のなかでも最もイエスに近いと言わわれたペトロさえも、これから起こる出来事によって、「イエスを三度知らない」と言うとイエスに予告されています。 イエスご自身からも、「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺される」と打ち明けられています。 弟子たちは自分たちがどうなってしまうのか想像もつかなかったことでしょう。 しかし、もっとも彼らを動揺させたことは、自分たちの生涯をかけて従って来たイエスが、なぜ殺されなければならないのか、その理由が分からない。 自分たちが生きて来た根拠、これから生きる拠り所を失ってしまう。 今、そのような状態にある弟子たちに、イエスは「心騒がせるな。 神を信じなさい。」と言われました。 私は死んでなくなってしまうのではない。 死んで、父のもとへ行って、「あなたがたの住む場所を用意しに行く。 行って、あなたがたのための場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と、イエスはご自分の死と復活を、そのように表現されたのでした。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 あなたたちの住む場所をそこへ行って用意してくる。 用意ができたら戻ってくる。 あなたがたを迎える。 そうすれば、わたしのいるところに、あなたがたもいることになると約束してくださったのです。 イエスの語られたみことばや行いが思い起こされ、すべてが分かるように「弁護者」が、父なる神から与えられると約束されました。 その「弁護者」とは、「わたしの名によって父のもとから遣わされるものである。」 「弁護者」こそ、死んでよみがえられた姿を変えた主イエス・キリストです。 私たちは、これを「聖霊」と呼びます。 この目に見えない「聖霊」が、二千年もの間、私たちを導き、十字架につけられてよみがえられた主イエス・キリストの務めを担っているのです。 イエスが「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」 「わたしを愛する人に、わたし自身を現わす」と語ってくださったイエスの約束を、弟子たちはこの「聖霊」によって思い起こしたのです。 イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われたのです。 イエスを愛する人は、イエスの言葉を守る。 イエスと父なる神がその人とともに住んでくださると言うのです。 見るも無残な、弱々しい、今にも崩れそうな私たちのうえに、一緒に住んでくださると言うのです。 弟子たちは心騒がせていました。 脅えていました。 その弟子たちに、「心騒がせるな。 脅えるな。 神を信じなさい。」 「弁護者が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 そうすれば、父なる神と子なるイエスが一緒に住むことになる。 そこに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」 「このわたしが与える平和は、世が与える消えてなくなるようなものではない」と言われたのです。 私たちは、闘いがあるから心騒がせるのです。 この世の闘いに脅えるのです。 このような闘いにある、心騒がせる者、脅える者に、イエスは「さあ、立て、これから出かけようと」と、先頭切ってくださっているのです。 弟子たちは、このイエスの言葉を「聖霊」によって思い起こし、これから試練に立ち向うこの世にない「平安」と「勇気」が与えられたのです。 「聖霊」が宿るところ、「父なる神と子なるイエス」が一緒に住んでくださるところに、この世にない平和が与えられるのです。

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「神がなさってくださる業」   ヨハネによる福音書9章1~12節

2014-07-06

 通りすがりに、イエスが最初に「生まれつき目の見えない人」を見つけられました。 町の通りで最初に私たちの目に飛び込んでくるものは、一番関心の高いものが先ず目に入るのではないでしょうか。 イエスは、いつも「低くされた者」、「小さな者」、「無視されている者」に目を注いでおられます。 「生まれつき」目の見えない、座って物乞いをしていた人の姿です。 目が見えない理由を見出せないまま、生まれたその時から苦しみの中にある人の姿でした。 弟子たちの関心は、イエスと異なります。 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と、イエスにその理由と説明を迫ります。 私たちの頭をよぎる「宿命」という考えです。 しかし、イエスの答えは、「神の業がこの人に現れるためである」という思いがけない言葉でした。 本人が原因ではない。 その両親が原因でもない。 ましてや罪を犯したことが原因でもない。 「これから」、神がこのひとりの人物を用いて働かれるためであると言われたのです。 私たちの神は生きて働く、いつも新しく創造される神です。 イエスは、苦しみの原因である過去を見ないで、これから神に用いられる将来に向けて語られたのでした。 
 イエスがなさった「癒しの業」が詳しく記されています。 イエスが言われた通りに、泥で塗られた目を、「遣わされた者」という意味の名のシロアムの池に行って洗ってみた。 そうすると、生まれつき見えなかったこの人の目が見えるようになったというのです。 大切なことは、この人が目が見えるようになって「戻って来た」ことにあります。 当然、周りの人々は不思議がって本人に質問をします。 しかし、本人は、だれによって癒されたのか、どうして見えるようになったのか、満足に答えることができません。 しかし、この人のうえに、「神がなさってくださったこと」をからだをもって証しをしたことは間違いないのです。 神の業は、私たちがどのような状態であろうが、必ず私たちを用いてなされるということです。 神が私たちのうえになさってくださるということです。 私たちにとって、良いことも悪いこともすべて、神の業に用いられる、神の恵みに与かることができると言われたのです。
 私たちは残念ながら、今まで見てきた古い目に泥が塗られて覆われなければ、新しい光が見えてこないのです。 その覆われた泥を拭い取っていただかなければ、新しく「この世の光」が見えるようにはならないのです。 私たちのうえに「神がなさってくださる業」を見届けなければなりません。 これから先何が起ころうとも、このなしてくださる神の恵みの出来事に立ち続けなければなりません。 なぜなら、「これからも」神の業が私たちのうえに現れるためです。 恵みをいただいて戻って来て、「神がなしてくださる業」を大胆に証ししていくためです。 

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「十字架の言葉」   コリントの信徒への手紙一1章18~25節

2014-06-29

 イエスが十字架刑によって処刑されたゴルゴダの丘には、三本の十字架が立ちました。 遠くからその三本の十字架を眺めるだけの人々にとっては、その違いが分かりません。 イエスの十字架と、あともう二つの強盗の十字架がどう違うのか分かるはずもありません。 何も分からなければ、イエスという一人の人物が処刑されて十字架上で死んだ。 ただそれだけの事実です。 十字架の事実は、その意味が語られなければ、ひとりの犯罪者の死を知らせるだけの事実に留まります。 神は、そこに十字架の言葉を語る人を備えられたのです。 イエスの十字架を間近に見ていたローマの百人隊長です。 イエスが十字架上で息を引き取られたのを見て、「本当にこの人は神の子であった」と語り出したのです。 それだけではない。 イエスが復活した後に聖霊が弟子たちのうえに降り、次々と同じ十字架の信仰の告白が「生きた証しの体験」として語られ始めたのです。 ですから、パウロは「十字架の言葉は、十字架の意味を知ろうとしない滅んでいく者にとっては、愚かなものである」、しかし、「私のためと十字架の言葉を感謝して読み取っていく者にとっては、神の力である」と言うのです。 
 「この世の知恵ある人、学者、この世の論客はどこにいる。 自分の知恵で神を知ることも、神の救いを得ることもできなかったではないか。」と言います。 「そこで」、神は「宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと決意された」と言うのです。 パウロは、神の業を「宣教という愚かな手段」と表現します。 神は、すべてを一気に解決しようとする方法ではなく、ひとりの人間が罪を悔い改めて、神のみこころに答える新しい人間を再び創造するという方法を取られるのです。 すべての人が、この招きに導かれている。 問題は、長きにわたって呼びかけられ招かれていることに気づき、それに信頼する決断をもつことができるかどうかです。 
 ここに、人間を代表するふたつの姿が記されています。 しるしを求めるユダヤ人と、知恵を探し求めるギリシャ人です。 この世の「しるし」を見て確かめることによって、納得して信じる人の姿です。 もうひとつの姿は、この世の知恵によって満足する答えを探して、信じる人の姿です。 どちらの人々にも、イエスの十字架が語る姿は敗北を証明している姿です。 説明のつかない、理解できない愚かなつまずきの姿です。 しかし、パウロは、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、「十字架につけられたイエス・キリスト」の姿は、神に「召された者には、神の力、神の知恵である」と言います。 この十字架につけられたキリストこそ、私たちを永遠の滅びから救う「神の力、神の知恵」であると言っているのです。 信じられなかった、ためらった、決断がつかなかった、最後まで信じることができなかった私たちでした。 その取るに足りない私たちを、神が呼んで招いてくださったから、この愚かなものとしか見えない「十字架につけられたイエス・キリストの姿が語る言葉」が、神の力、神の知恵であることが分かったのです。 私たちが別々に辿っているように見えるこの道も、神のみもとへ至る、十字架につけられたイエス・キリストの姿が語るただひとつの「救いの道」なのです。 私たちは、この神が決意された「宣教という愚かな手段によって」、一人一人の悔い改めによって新しくされた者です。 「十字架の言葉」が教会の塔を飾るだけのシンボルにならないで、生きて鳴り響かなければなりません。 私たちの生活の中で、息づいていなければなりません。 この感謝と喜びと希望のうちに歩んで参りたいと願います。 

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「パウロが語る神への感謝と希望」   コリントの信徒への手紙一1章4~9節

2014-06-22

 手紙の差出人パウロは、イエス・キリストを主であると告白するキリスト者を、信念をもって迫害していた中心人物でした。 手紙の受取人であるコリントの教会は、模範的な教会ではなかったようです。 コリントの町は、ローマ帝国の地方都市ではもっとも繁栄した商業都市でした。 海の交通の要所、陸の交通の要所として栄えた町でした。 人種的にも混ざり合い、道徳的にも風俗的にも、問題の多い地域でした。 そのような地域の中にあるコリントの教会は、周囲の影響も受け様々な問題を抱えていました。 しかし、パウロは自分自身のことを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と言います。 コリントの教会のことを「コリントにある神の教会」と言います。 過去はどうであれ、現在がどうであれ、「神に召された者」である。 「召されて神に属する者とされた人々」と表現しています。 この手紙は、神に召された者から神に召された者へ語られた神の言葉であると言います。 その手紙の冒頭の言葉が、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」なのです。
 パウロは、神の恵みを受けたことについて「神に」感謝しています。 それも「いつも」、どのような時、どのような場合でも感謝しているのです。 パウロの生涯は劇的でした。 イエスに従う者たちへの迫害に息を弾ませていたパウロが、迫害を受けている者たちのうえに生きて働かれている復活の主イエスに出会いました。 その後は、異邦人の地の世界伝道を三回にもわたって手掛けたのです。 説教がすばらしい訳でもない、体が強かったのでもない。 船が難破しても、牢獄に捕らえられても、歩み進めたいと願う道がいくら閉ざされても、「いつも、神の恵みとして感謝した」パウロでした。 パウロはすべてのことに先だって、この神への感謝を先ず語っているのです。 
 なぜ、それほど問題の多い教会を「コリントにある神の教会」と呼ぶのでしょうか。 イエスは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と弟子たちの代表として答えたペトロのうえに、「わたしの教会を建てる」と言われました。 罪の多い、失敗だらけの弟子たちの代表であるペトロの信仰告白のうえに「わたしの教会を建てる」。 パウロは、このイエスのみことばをもって、「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と手紙で呼びかけているのです。 どのような罪を犯してきたのか、今もなお罪を犯し続けているのかどうかに関係なく、「キリストの名を呼び求める者」、「キリストに召された者」、「キリストによって聖なる者とされた人々」が、キリストの教会を建て上げるのだとパウロは叫んでいるのです。
 パウロが感謝している神の恵みは、「キリストに出会い、その交わりの中にただ招き入れられたこと」であると言います。 そして、もうひとつパウロが語る感謝している神の恵みは、「最後までしっかり支えて、非の打ちどころのない者にしてくださる」という約束の希望です。 その希望の根拠は、「神は真実なお方である」ことです。 呼び求めた私たちを招き入れてくださった責任を、最後まで変わらず成し遂げてくださる。 この希望によって、主イエス・キリストの前に立つことを恐れないで、待ち望んで生き抜いていくことができるのです。 私たちは、この感謝と希望のうちに歩んでいる者です。

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「深く息をついたみことば」   マルコによる福音書7章31~37節

2014-06-15

 ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」が、人々に連れて来られました。 自分からイエスに癒しを求めたのではありません。 連れて来られただけの人、イエスの前に立ちながらも応えることすらできなかった人でした。「耳が聞こえず舌の回らない人」以上の、心を閉ざした人でした。 そのような人を、イエスは大勢の群衆から引き離して連れ出しておられる。 その人とだけ向き合う場をつくっておられる。 「聞こえない耳」を指で差し入れるように触れておられる。 「言葉が語れない舌」にも触れておられる。 その人の弱い所に、イエスは向き合って触れてくださるのです。 
 イエスの救いの業は連れ出して、先ず「耳を開ける」ことから始まりました。 実に、信仰は聞くことから始まると言われる通りです。 イエスは、指に力を入れて、耳をくり抜くようにして、ご自身の声を聞かせようとされたのです。 そして、舌を癒し、耳から聞いたそのみことばに応えて語らせようとされたのです。 
 問題は、その次です。 イエスは、「天を仰いで深く息をついた」とあります。 天を仰ぐとは、父なる神への祈りです。 神との交わりを失い、人との交わりも失い、ただ人任せにあるひとりの人格に向き合うために、イエスは天を仰いで深く息をつく「うめきのような祈り」をされたのでした。 父なる神のもとから降る神の力、神の霊を願い求めたのです。 イエスは、代わって天を仰いでうめかれた。 祈るすべさえ知らない、応えることすらできないこの人に代わって、執り成しの祈りをうめいてささげてくださったのです。 ついに、「エッファタ、(アラム語で)開け」というみことばが神の息によって、神の力によって語られたのです。 すると、たちまち「耳が聞こえず舌の回らなかった人」の耳が開き、舌のもつれが解けたと言うのです。 
 イエスは、「耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人が話せるようになる」救いの業を、お示しになりました。 この出来事に人々は、神の力が注がれるこのお方がおられるなら、これからも「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と、心が打たれたのです。 だから、「すべて、すばらしい」と驚いたのです。 たったひとりの人に起きたこと、起こり続けることが周りの人々にも及んでいく。 旧約聖書のイザヤが、「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧き出で、荒れ野に川が流れる。」と預言した通りです。 イエスは、この預言を成し遂げるために、私たちのところに遣わされました。 一人の人をイエスの救いの業に満たし、その周りにも新しい命の泉を湧かせる。 そのために、「耳が聞こえず舌の回らない人」が用いられたのです。 この人は、他でもない私たちの姿です。 聞くことも話すこともできるように回復される道は、イエスが天を仰いで、深くうめいて息をつかれて願い求められた「神の霊」による他はありません。 このイエス・キリストの執り成しの祈りにすがる以外に方法はありません。 ですから、私たちはイエス・キリストのみ名によって、神の霊の導きを願い求めながら信仰生活を送っています。 今朝の交読文にありました「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ見ること」、そして、「復活の朝を主の家で迎えること」。 これを生涯の祈りとして、イエス・キリストに結ばれて歩む、この恵みのうちを私たちは、今、歩んでいます。

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