秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神が備えてくださる」   創世記22章7~18節

2014-07-20

 アブラハムは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という神の招きに旅立ちました。 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」という神の約束に、過去を断ち、新しい未来に向けて、行き先が分からないまま家族を連れて出発をしたのです。 様々な出来事の後、ついに神は、アブラハムを一対一の契約の相手とされたのです。 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。 そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 わたしは、彼らの神となる。」という契約でした。 
 そうした時、神はひとつの試みをアブラハムに与えます。 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命じられたのです。 しかし、年老いたアブラハムと妻サラには、子供がいなかったのです。 子孫を増やすと言う神の約束にもかかわらず、アブラハムはうすら笑いを浮かべて「百才のわたしに子供が生まれるだろうか」と神を疑ったのです。 そのアブラハムに神は「わたしに不可能なことがあろうか」と迫って与えた約束の子です。 アブラハムが晩年になってやっと与えられた待望の子、愛する独り子です。 その独り子を焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神は命じられたのです。 この時アブラハムは、神に「アブラハムよ」と呼ばれて「はい」と答える、神との正しい関係にありました。 神と正しく向き合っている者、神の言われる通りに歩んでいる者にも試練がある。 神の試みは、その人の罪でもなければ、その人に対する懲らしめでもありません。 神のみこころから出てくるものです。 アブラハムは驚くほど、冷静です。 「次の朝早く」、すぐさま、自分で「ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割って」準備をしています。 「神の命じられた所に向って」歩み出しています。 黙々と準備するアブラハムがひと言だけ口にしています。 「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をしてまた戻ってくる。」 あの「わたしに不可能なことがあろうか」と強く迫った神が、あの山に登れと言われている。 「自分が愛する独り子イサクをささげよ」とすべてをご存じなうえで命じておられる。 愛する子イサクも、神が与えて下さった賜物であった。 「わたしがお前を旅立ちへと導き出した主である」と言われる神が、ここでも私を導いておられる。 アブラハムは、この三日間、このようなことを思い浮かべながら黙って従って行ったのです。 アブラハムは、愛する独り子イサクをささげ切ることができたのではない。 イサクをささげることによって、自分自身を神にささげ切ったのではないでしょうか。 ですから、成長したイサクの「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」という問いに、「きっと神が備えてくださる」と答えることができたのでしょう。 「二人は一緒に歩いて行った」と書かれています。 神の命じられている場所に、礼拝をささげるためにささげ切って向った二人の後ろ姿を見ることができます。 主に信頼して希望を抱きながら、アブラハムは絶望の山に登って行きました。 そこに神の備えを見出したのです。 過去を断ち切って、旅立たなければ主が備えた山のうえに登ることができません。 そこに登って行かなければ味わうことのできない神の備えです。 神は、私たち一人一人を契約の相手として、その人にしか歩むことのできない道を備えてくださいます。 ですから、その生涯が尊いのです。 神だけが試練を与え、そこから救い出す備えを与えることができるのです。

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「一緒に住んでくださる神」   ヨハネによる福音書14章23~31節

2014-07-13

 この世での死を前にしたイエスの、弟子たちへのお別れの言葉が綴られています。 十二弟子のひとりイスカリオテのユダが、イエスを裏切るためにすでに最後の晩餐の席を退席しています。 十二弟子のなかでも最もイエスに近いと言わわれたペトロさえも、これから起こる出来事によって、「イエスを三度知らない」と言うとイエスに予告されています。 イエスご自身からも、「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺される」と打ち明けられています。 弟子たちは自分たちがどうなってしまうのか想像もつかなかったことでしょう。 しかし、もっとも彼らを動揺させたことは、自分たちの生涯をかけて従って来たイエスが、なぜ殺されなければならないのか、その理由が分からない。 自分たちが生きて来た根拠、これから生きる拠り所を失ってしまう。 今、そのような状態にある弟子たちに、イエスは「心騒がせるな。 神を信じなさい。」と言われました。 私は死んでなくなってしまうのではない。 死んで、父のもとへ行って、「あなたがたの住む場所を用意しに行く。 行って、あなたがたのための場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と、イエスはご自分の死と復活を、そのように表現されたのでした。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 あなたたちの住む場所をそこへ行って用意してくる。 用意ができたら戻ってくる。 あなたがたを迎える。 そうすれば、わたしのいるところに、あなたがたもいることになると約束してくださったのです。 イエスの語られたみことばや行いが思い起こされ、すべてが分かるように「弁護者」が、父なる神から与えられると約束されました。 その「弁護者」とは、「わたしの名によって父のもとから遣わされるものである。」 「弁護者」こそ、死んでよみがえられた姿を変えた主イエス・キリストです。 私たちは、これを「聖霊」と呼びます。 この目に見えない「聖霊」が、二千年もの間、私たちを導き、十字架につけられてよみがえられた主イエス・キリストの務めを担っているのです。 イエスが「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」 「わたしを愛する人に、わたし自身を現わす」と語ってくださったイエスの約束を、弟子たちはこの「聖霊」によって思い起こしたのです。 イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われたのです。 イエスを愛する人は、イエスの言葉を守る。 イエスと父なる神がその人とともに住んでくださると言うのです。 見るも無残な、弱々しい、今にも崩れそうな私たちのうえに、一緒に住んでくださると言うのです。 弟子たちは心騒がせていました。 脅えていました。 その弟子たちに、「心騒がせるな。 脅えるな。 神を信じなさい。」 「弁護者が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 そうすれば、父なる神と子なるイエスが一緒に住むことになる。 そこに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」 「このわたしが与える平和は、世が与える消えてなくなるようなものではない」と言われたのです。 私たちは、闘いがあるから心騒がせるのです。 この世の闘いに脅えるのです。 このような闘いにある、心騒がせる者、脅える者に、イエスは「さあ、立て、これから出かけようと」と、先頭切ってくださっているのです。 弟子たちは、このイエスの言葉を「聖霊」によって思い起こし、これから試練に立ち向うこの世にない「平安」と「勇気」が与えられたのです。 「聖霊」が宿るところ、「父なる神と子なるイエス」が一緒に住んでくださるところに、この世にない平和が与えられるのです。

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「神がなさってくださる業」   ヨハネによる福音書9章1~12節

2014-07-06

 通りすがりに、イエスが最初に「生まれつき目の見えない人」を見つけられました。 町の通りで最初に私たちの目に飛び込んでくるものは、一番関心の高いものが先ず目に入るのではないでしょうか。 イエスは、いつも「低くされた者」、「小さな者」、「無視されている者」に目を注いでおられます。 「生まれつき」目の見えない、座って物乞いをしていた人の姿です。 目が見えない理由を見出せないまま、生まれたその時から苦しみの中にある人の姿でした。 弟子たちの関心は、イエスと異なります。 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と、イエスにその理由と説明を迫ります。 私たちの頭をよぎる「宿命」という考えです。 しかし、イエスの答えは、「神の業がこの人に現れるためである」という思いがけない言葉でした。 本人が原因ではない。 その両親が原因でもない。 ましてや罪を犯したことが原因でもない。 「これから」、神がこのひとりの人物を用いて働かれるためであると言われたのです。 私たちの神は生きて働く、いつも新しく創造される神です。 イエスは、苦しみの原因である過去を見ないで、これから神に用いられる将来に向けて語られたのでした。 
 イエスがなさった「癒しの業」が詳しく記されています。 イエスが言われた通りに、泥で塗られた目を、「遣わされた者」という意味の名のシロアムの池に行って洗ってみた。 そうすると、生まれつき見えなかったこの人の目が見えるようになったというのです。 大切なことは、この人が目が見えるようになって「戻って来た」ことにあります。 当然、周りの人々は不思議がって本人に質問をします。 しかし、本人は、だれによって癒されたのか、どうして見えるようになったのか、満足に答えることができません。 しかし、この人のうえに、「神がなさってくださったこと」をからだをもって証しをしたことは間違いないのです。 神の業は、私たちがどのような状態であろうが、必ず私たちを用いてなされるということです。 神が私たちのうえになさってくださるということです。 私たちにとって、良いことも悪いこともすべて、神の業に用いられる、神の恵みに与かることができると言われたのです。
 私たちは残念ながら、今まで見てきた古い目に泥が塗られて覆われなければ、新しい光が見えてこないのです。 その覆われた泥を拭い取っていただかなければ、新しく「この世の光」が見えるようにはならないのです。 私たちのうえに「神がなさってくださる業」を見届けなければなりません。 これから先何が起ころうとも、このなしてくださる神の恵みの出来事に立ち続けなければなりません。 なぜなら、「これからも」神の業が私たちのうえに現れるためです。 恵みをいただいて戻って来て、「神がなしてくださる業」を大胆に証ししていくためです。 

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「十字架の言葉」   コリントの信徒への手紙一1章18~25節

2014-06-29

 イエスが十字架刑によって処刑されたゴルゴダの丘には、三本の十字架が立ちました。 遠くからその三本の十字架を眺めるだけの人々にとっては、その違いが分かりません。 イエスの十字架と、あともう二つの強盗の十字架がどう違うのか分かるはずもありません。 何も分からなければ、イエスという一人の人物が処刑されて十字架上で死んだ。 ただそれだけの事実です。 十字架の事実は、その意味が語られなければ、ひとりの犯罪者の死を知らせるだけの事実に留まります。 神は、そこに十字架の言葉を語る人を備えられたのです。 イエスの十字架を間近に見ていたローマの百人隊長です。 イエスが十字架上で息を引き取られたのを見て、「本当にこの人は神の子であった」と語り出したのです。 それだけではない。 イエスが復活した後に聖霊が弟子たちのうえに降り、次々と同じ十字架の信仰の告白が「生きた証しの体験」として語られ始めたのです。 ですから、パウロは「十字架の言葉は、十字架の意味を知ろうとしない滅んでいく者にとっては、愚かなものである」、しかし、「私のためと十字架の言葉を感謝して読み取っていく者にとっては、神の力である」と言うのです。 
 「この世の知恵ある人、学者、この世の論客はどこにいる。 自分の知恵で神を知ることも、神の救いを得ることもできなかったではないか。」と言います。 「そこで」、神は「宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと決意された」と言うのです。 パウロは、神の業を「宣教という愚かな手段」と表現します。 神は、すべてを一気に解決しようとする方法ではなく、ひとりの人間が罪を悔い改めて、神のみこころに答える新しい人間を再び創造するという方法を取られるのです。 すべての人が、この招きに導かれている。 問題は、長きにわたって呼びかけられ招かれていることに気づき、それに信頼する決断をもつことができるかどうかです。 
 ここに、人間を代表するふたつの姿が記されています。 しるしを求めるユダヤ人と、知恵を探し求めるギリシャ人です。 この世の「しるし」を見て確かめることによって、納得して信じる人の姿です。 もうひとつの姿は、この世の知恵によって満足する答えを探して、信じる人の姿です。 どちらの人々にも、イエスの十字架が語る姿は敗北を証明している姿です。 説明のつかない、理解できない愚かなつまずきの姿です。 しかし、パウロは、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、「十字架につけられたイエス・キリスト」の姿は、神に「召された者には、神の力、神の知恵である」と言います。 この十字架につけられたキリストこそ、私たちを永遠の滅びから救う「神の力、神の知恵」であると言っているのです。 信じられなかった、ためらった、決断がつかなかった、最後まで信じることができなかった私たちでした。 その取るに足りない私たちを、神が呼んで招いてくださったから、この愚かなものとしか見えない「十字架につけられたイエス・キリストの姿が語る言葉」が、神の力、神の知恵であることが分かったのです。 私たちが別々に辿っているように見えるこの道も、神のみもとへ至る、十字架につけられたイエス・キリストの姿が語るただひとつの「救いの道」なのです。 私たちは、この神が決意された「宣教という愚かな手段によって」、一人一人の悔い改めによって新しくされた者です。 「十字架の言葉」が教会の塔を飾るだけのシンボルにならないで、生きて鳴り響かなければなりません。 私たちの生活の中で、息づいていなければなりません。 この感謝と喜びと希望のうちに歩んで参りたいと願います。 

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「パウロが語る神への感謝と希望」   コリントの信徒への手紙一1章4~9節

2014-06-22

 手紙の差出人パウロは、イエス・キリストを主であると告白するキリスト者を、信念をもって迫害していた中心人物でした。 手紙の受取人であるコリントの教会は、模範的な教会ではなかったようです。 コリントの町は、ローマ帝国の地方都市ではもっとも繁栄した商業都市でした。 海の交通の要所、陸の交通の要所として栄えた町でした。 人種的にも混ざり合い、道徳的にも風俗的にも、問題の多い地域でした。 そのような地域の中にあるコリントの教会は、周囲の影響も受け様々な問題を抱えていました。 しかし、パウロは自分自身のことを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と言います。 コリントの教会のことを「コリントにある神の教会」と言います。 過去はどうであれ、現在がどうであれ、「神に召された者」である。 「召されて神に属する者とされた人々」と表現しています。 この手紙は、神に召された者から神に召された者へ語られた神の言葉であると言います。 その手紙の冒頭の言葉が、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」なのです。
 パウロは、神の恵みを受けたことについて「神に」感謝しています。 それも「いつも」、どのような時、どのような場合でも感謝しているのです。 パウロの生涯は劇的でした。 イエスに従う者たちへの迫害に息を弾ませていたパウロが、迫害を受けている者たちのうえに生きて働かれている復活の主イエスに出会いました。 その後は、異邦人の地の世界伝道を三回にもわたって手掛けたのです。 説教がすばらしい訳でもない、体が強かったのでもない。 船が難破しても、牢獄に捕らえられても、歩み進めたいと願う道がいくら閉ざされても、「いつも、神の恵みとして感謝した」パウロでした。 パウロはすべてのことに先だって、この神への感謝を先ず語っているのです。 
 なぜ、それほど問題の多い教会を「コリントにある神の教会」と呼ぶのでしょうか。 イエスは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と弟子たちの代表として答えたペトロのうえに、「わたしの教会を建てる」と言われました。 罪の多い、失敗だらけの弟子たちの代表であるペトロの信仰告白のうえに「わたしの教会を建てる」。 パウロは、このイエスのみことばをもって、「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と手紙で呼びかけているのです。 どのような罪を犯してきたのか、今もなお罪を犯し続けているのかどうかに関係なく、「キリストの名を呼び求める者」、「キリストに召された者」、「キリストによって聖なる者とされた人々」が、キリストの教会を建て上げるのだとパウロは叫んでいるのです。
 パウロが感謝している神の恵みは、「キリストに出会い、その交わりの中にただ招き入れられたこと」であると言います。 そして、もうひとつパウロが語る感謝している神の恵みは、「最後までしっかり支えて、非の打ちどころのない者にしてくださる」という約束の希望です。 その希望の根拠は、「神は真実なお方である」ことです。 呼び求めた私たちを招き入れてくださった責任を、最後まで変わらず成し遂げてくださる。 この希望によって、主イエス・キリストの前に立つことを恐れないで、待ち望んで生き抜いていくことができるのです。 私たちは、この感謝と希望のうちに歩んでいる者です。

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「深く息をついたみことば」   マルコによる福音書7章31~37節

2014-06-15

 ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」が、人々に連れて来られました。 自分からイエスに癒しを求めたのではありません。 連れて来られただけの人、イエスの前に立ちながらも応えることすらできなかった人でした。「耳が聞こえず舌の回らない人」以上の、心を閉ざした人でした。 そのような人を、イエスは大勢の群衆から引き離して連れ出しておられる。 その人とだけ向き合う場をつくっておられる。 「聞こえない耳」を指で差し入れるように触れておられる。 「言葉が語れない舌」にも触れておられる。 その人の弱い所に、イエスは向き合って触れてくださるのです。 
 イエスの救いの業は連れ出して、先ず「耳を開ける」ことから始まりました。 実に、信仰は聞くことから始まると言われる通りです。 イエスは、指に力を入れて、耳をくり抜くようにして、ご自身の声を聞かせようとされたのです。 そして、舌を癒し、耳から聞いたそのみことばに応えて語らせようとされたのです。 
 問題は、その次です。 イエスは、「天を仰いで深く息をついた」とあります。 天を仰ぐとは、父なる神への祈りです。 神との交わりを失い、人との交わりも失い、ただ人任せにあるひとりの人格に向き合うために、イエスは天を仰いで深く息をつく「うめきのような祈り」をされたのでした。 父なる神のもとから降る神の力、神の霊を願い求めたのです。 イエスは、代わって天を仰いでうめかれた。 祈るすべさえ知らない、応えることすらできないこの人に代わって、執り成しの祈りをうめいてささげてくださったのです。 ついに、「エッファタ、(アラム語で)開け」というみことばが神の息によって、神の力によって語られたのです。 すると、たちまち「耳が聞こえず舌の回らなかった人」の耳が開き、舌のもつれが解けたと言うのです。 
 イエスは、「耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人が話せるようになる」救いの業を、お示しになりました。 この出来事に人々は、神の力が注がれるこのお方がおられるなら、これからも「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と、心が打たれたのです。 だから、「すべて、すばらしい」と驚いたのです。 たったひとりの人に起きたこと、起こり続けることが周りの人々にも及んでいく。 旧約聖書のイザヤが、「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧き出で、荒れ野に川が流れる。」と預言した通りです。 イエスは、この預言を成し遂げるために、私たちのところに遣わされました。 一人の人をイエスの救いの業に満たし、その周りにも新しい命の泉を湧かせる。 そのために、「耳が聞こえず舌の回らない人」が用いられたのです。 この人は、他でもない私たちの姿です。 聞くことも話すこともできるように回復される道は、イエスが天を仰いで、深くうめいて息をつかれて願い求められた「神の霊」による他はありません。 このイエス・キリストの執り成しの祈りにすがる以外に方法はありません。 ですから、私たちはイエス・キリストのみ名によって、神の霊の導きを願い求めながら信仰生活を送っています。 今朝の交読文にありました「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ見ること」、そして、「復活の朝を主の家で迎えること」。 これを生涯の祈りとして、イエス・キリストに結ばれて歩む、この恵みのうちを私たちは、今、歩んでいます。

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「神の霊への賛歌」   ローマの信徒への手紙8章1~11節

2014-06-08

父なる神のもとからくる神の霊は、「交わりの霊」です。 神との交わり、イエス・キリストとの交わり、この深まりを導く神の霊です。 私たちを、何か特殊な能力を持つ者に変えてしまうものではありません。 パウロは、私たちの現実の生活の中で何よりも私たちを支えているのは、この神の霊であると証言しています。 私たちの矛盾だらけの営みの中にこそ、この「交わりの霊」である神の霊が、「すでに」、「すべての人に」、「それぞれに」宿る「特別な場所」を、神は用意してくださったと賛美しています。 
 パウロは本当に嘆いています。 「わたしは、自分のしていることがわかりません。 自分が望むことは実行せず、かえって、憎んでいることをするからです。」 「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と言うまでに嘆きます。 自分の中には、この「肉に従って歩む自分」と「霊に従って歩む自分」がいる。 この矛盾のなかに自分の現実はあると正直に言います。 しかし、パウロはそう言いながらも、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である」と言います。 「霊に従って歩む者」は、肉に死んで霊に生きる神の命に与かるようになる。 神との平和、神との絶えることのない交わりに生きるようになると言うのです。 キリスト・イエスによって、「霊に従って歩む自分」が、「肉に従って歩む自分」から解放されたから、「わたしは、主イエス・キリストを通して神に感謝します」と言っているのです。 パウロが嘆いているように、「霊に従って歩む自分」も、人間の本性むき出しの矛盾に満ちた世界の真っ只中を歩む者です。 そのような中において、神はイエス・キリストに結ばれる特別な場所を「交わりの霊」によって備えてくださいました。 それが、「神の霊があなたがたの内に宿っている」、「キリストがあなたがたの内におられる」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」とパウロが表現しているところです。 キリスト者とは、この神の霊、キリストの霊が宿っている、イエス・キリストに固く結ばれている者のことを言うのではないでしょうか。 
 私たちはこの「交わりの霊」によって、どうすることもできなかった罪と死の支配から解放されました。 神が罪を罪として処断されることから免れた。 「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはなくなった」。 神との絶えることのない交わりに与かるようにと、キリスト・イエスに結びつけてくださったということです。 新しいもうひとつの「キリストに結ばれて歩む道」です。 これこそ、旧約聖書のなかでエレミヤやエゼキエルが預言してきた、神の霊による新しい契約です。 神の子イエス・キリストを受け入れその前にひざまずくすべての人に、恵みによりご自身の霊を与える。 神の霊、キリストの霊に満たされて、自分の内から神を知るようになる、神のみこころを行うようになる。 このように、神は私たちを「私たちの内に宿っている霊」によって、死者の中から復活させようとしておられます。 矛盾だらけのこの世界の現実に、このよみがえりが「すでに」、「すべての人に」、「それぞれに」始まっている。 私たちを創造されたお方が、再び、私たちを創造されようとしておられます。 私たちは、この希望と感謝のうちに、「み国を来たらせたまえ」と祈りながら歩んでいるのです。 

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「僕イエスの名によって」   使徒言行録4章23~31節

2014-06-01

 イエスの弟子であったペトロとヨハネは、神殿の祭司や守衛長たちによって取り調べのために捕らえられていました。 そのふたりが釈放されて仲間のいるところに戻って来たのが、この聖書箇所の場面です。 この二人にとって、捕らえられ、牢の中に閉じ込められても戻るところがあった。 いや、出かけて行って、働いて、戻ってくるところがあったのでした。 そこが「仲間のいるところ」でした。 自分たちの身に起きた出来事を包み隠さず、残らず話すことができるところ。 ふたりの話を聞いて、仲間たちが直ちに「心を一つにして、神に向って声をあげ、祈るところ」でした。 十字架の後、復活の主イエスに出会った弟子たちの姿は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。 これが最初の教会の姿です。 教会は、みことばが語られ、出かけて行って神の業を働いて、再び戻って来て、分かち合い、祈り合うところでした。 二か月前にイエスを十字架にかけた大勢の人々が取り巻いている状況は何ら変わっていません。 ペトロ自身も二か月前には、イエスという名の人は知らないと三度言って、大勢の人々を恐れて身を隠した人物です。 そのペトロがまったく別人のように、この二カ月の間に変わってしまった。 神殿に出かけて行って、説教を語り始めた。 「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、主が招いてくださる者なら、『だれにでも』『めいめいに』約束されている」と語り始めたのです。 ですから、さっそく神殿を守る者たちによって捕らえられていたのです。 ペトロは、大胆に説教を語っただけではありません。 足の不自由な人を、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語り、癒しの業もしています。 説教のなかでも、取り調べのなかでも、「わたしは、復活の主イエス・キリストの証人です」と証しもしています。 ペトロは、二か月前では考えられない大胆な説教と証しと癒しの業をなすまでになっていたのです。 このペトロたちが釈放されて、仲間たちのところに戻って来た時に、そこに祈りが起こされています。 イエスの身に起きた事も、自分たちの仲間であるペトロとヨハネの身に起きた事もすべて、「実現するようにとみ手とみ心によってあらかじめ定められていたこと」が行われたのだと確信して祈っています。 迫害さえも、脅しさえも、父なる神のご支配の中にあると信じ、告白しています。 自分たちの身に起きているこの迫害や脅しにどうしたらよいですか、自分たちを守ってくださいという祈りではありません。 「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」、「僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように」と祈っています。 神がしてくださることはすべて神に委ね、自分たちがなすべきことを神に徹底的に求め、イエス・キリストの名を挙げて祈っています。 ペトロは後悔や反省をしたのではありません。 復活の主に出会い、聖霊を受けて、その古い自分を離れ、捨てて、まったく新しい自分に生き、歩み始めたのです。 ペトロの決断や勇気や努力がそうさせたのではありません。 聖霊がなせる業です。 ペトロは、「イエス・キリストの名を呼べば、賜物として聖霊を受けます。 皆、救われる。」と言います。 神は、ご自分を崇めなかった者、もうどうすることもできないと絶望した者を用いておられる。 絶望した者が、何も頼るものがなくなった者が、主イエス・キリストの名を呼び求める。 神は、私たちの無力さ、弱さ、貧しさの中にこそ働いてくださるのです。

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「交わりを妨げるもの」   創世記11章1~9節

2014-05-25

 言葉は語る者にも、また聴く者にもその心に働きかけ、不思議な力を与えます。 人と人をつなぐ交わりに、大切な役目をもっています。 その言葉が、神によって混乱をもたらされた出来事に耳を傾けたいと思います。 「バベルの塔」と聞いただけで、イメージが湧いてくるのではないでしょうか。 「シンアルの地」とは、チグリス・ユーフラテス下流域の平野一帯、メソポタミヤ、バビロニアのことです。 当時は、バビロニアに移り住んだ人々も、世界中の人々も同じ言葉を使っていた、同じように話していたと書かれています。 この地に移り住んだ人々は、石の代わりにレンガを火で焼き固めることを見出した。 土や砂のしっくいの代わりに、レンガとレンガをつなぐ瀝青と呼ばれるアスファルトをつけて積み上げることを見出した。 次々と強固な建物、道路、水路を造り上げた。 バビロニアの文明を築いた結果、「天まで届く塔を建てよう」という言葉になっていったのでしょう。 人々は、「天まで届かせよう」、「有名になろう」、「全地に散らされることのないようにしよう」とまで、言うようになった。 神を引き下ろし、自分たちを引き上げようとする。 神と人との交わりであるはずのものが、自分のために「有名になろう」とするシンボルに変わってしまう。 神のもとから離れてしまった自分たちだけで集まって、その団結によって「散らされることがないように」と頑張る。 その象徴に、「天まで届く塔」を仕立てようとしたのです。 
 私たち人間は初め、神との交わりのなかに留まっていた。 神との交わりの中に、人と人との交わりもあった。 そうであるのに、神のもとから離れてさまよい、さすらう者となっていったと創世記に記されています。 神の言葉だけにより頼んでいた人々が、神との交わりを失ってしまった。 神は、この失われた交わりは回復されねばならないと、建設途上の「塔」のあるところにまで降りて来てくださったのです。 神が破壊したものは、この「町」でも、この「塔」でもありません。 この人間が自分たちだけのために持とうとした「神なき交わり」、これを言葉の混乱をもって破壊されたのです。 この交わりの回復のために、天まで届く塔を造り上げようとした高慢な私たちのために、アブラハムを選んで信仰を与え、我が子イエスをささげ、聖霊を降して、私たちに「信仰と言葉と力」を与えようとされたのです。 神は、聖霊を用いて、この神との交わり、人との交わりを、再び、「言葉」によって回復されたのです。 それがペンテコステの祝福です。 主イエスは、復活の後、弟子たちの前に現れて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 あなたたちはわたしの名によって新しい言葉を語る」と言われました。 神は私たちを憐れんでおられるから、降って来てくださった。 神に咎められるから、私たちには希望がある。 散らされたところで、つらくとも神のもとに留まり信頼し続ける。 そこに、交わりの回復のために新しい言葉が与えられる。 この新しい言葉が聖霊によって、語る者にも、また聴く者にも働く。 そこに神との交わりが回復する。 神にあっての人との交わりが回復される。 主イエスは、この「新しい言葉を語るようになる」とは、私を信じる者に伴う「しるし」だと言われました。 神との交わりが聖霊によって回復されるペンテコステ。 その交わりから、人と人との交わりが回復される。 このバベルの塔に、神の救いのご計画への備えがなされた、神の恵みの出発点であったことを見出していきたいと思います。

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「あなたは、わたしに従いなさい」   ヨハネによる福音書21章20~23節

2014-05-18

 教会の暦では、イエスが復活の後、聖霊が降るペンテコステまでの間を歩んでいます。 十字架の後、よみがえられたイエスが天に昇られるまで、この地上に現れてくださったその40日の間のお姿とみことばを数週間にわたって味わっています。 その弟子たちのうちのひとりペトロに注がれた、よみがえりの主イエスの愛に触れたいと思います。 
 ルカによる福音書によりますと、夜通し漁をして何もとれず疲れ切って「網を洗っていた」ペトロにイエスが声をかけます。 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉でした。 ベテラン漁師の私が夜通し漁をしても何も取れなかった。 この昼間にもう一度網を降ろせとは無知もはなはだしい。 これがペトロの言い分だったでしょう。 しかし、ペトロは「しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、大きな期待を求めず返事したのが正直な思いであったでしょう。 これが、ふたりの最初の出会いの言葉でした。 湖のほとりにイエスが立つだけで、多くの群衆が取り巻いて騒いでいる。 そのような所で、イエスが本当に見つめておられるのは群衆ではなく、ペトロという一人の人物でありました。 夜じゅう苦労したけれども魚が一匹もとれなかった、そのことだけに心が奪われ黙々と「網を洗っていた」ペトロでした。 イエスは、見つめるだけでなく、耳を傾けようとしないペトロに、名指しで語りかけます。 「網を降ろし、漁をしなさい」とぺトロにも分かる生活の言葉で語ります。 希望を失い、ぼんやりと生活の中に埋もれているペトロに、一緒に舟に乗り込んで、同じ生活の言葉をもって語りかけるのです。 聴いたペトロは何を今さらと思いながらも「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 言っただけでなく、網を降ろしてみた。 これがペトロの大転換となったのです。 舟が沈みそうになるまで多くの魚でいっぱいになった。 考えてもいなかった時と場所で「網を降ろし、漁をしなさい」と語ったお方の圧倒的な力にペトロは驚いた。 心の中で馬鹿にした自分の姿を見つめさせられた。 聖書はただ、そのペトロが「すべてを捨ててイエスに従った」とだけ書かれています。 その後のペトロの生涯は失敗と挫折の連続でした。 痛恨の極みは、十字架のもとに連行されたイエスを、ユダヤの人々に問い詰められて三度「イエスの弟子とは違う」と言い放ってしまったことでしょう。 間違いなく、イエスに従うというペトロの決意と勇気は挫折に終わっています。 痛恨の傷を身に帯びて、まともにイエスの顔をみることのできなかったペトロに、よみがえりの主イエスが三度「わたしを愛するか」と呼びかけるのです。 「わたしがあなたを愛していることは、あなたはご存知です」と応える機会をペトロに三度与え、過去の三度の傷を拭っておられる。 「網を洗っている」ペトロを、「網を降ろす」ペトロに、そして、イエスの死とよみがえりを通して、傷を癒し、「人間をとる漁師」、「主の民を養う羊飼い」という新しい務めを与えられたのです。 つまづき、倒れ、裏切ることがあっても、イエスの十字架とよみがえりの力によって回復される、変えられる。 その度に「わたしに従いなさい」と新しい力を与え、励まされる。 それでもペトロは、自分と同じようにイエスに従う道を歩むもうひとりの弟子が気になる。 「主よ、あの人はどうなるのでしょうか」と聞いてしまうのです。 私たちは、それぞれにイエスに従う者です。 ただその従い方が異なります。 生涯の閉じ方も、閉じる時期も違ってくるでしょう。 イエスは「あなたに何の関係があるか。 あなたは、わたしに従いなさい」と天に昇られる前に、愛するペトロに言われたのです。 

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