「待ち望む三日目の朝」 ヨハネによる福音書19章31~42節
主イエスが「成し遂げられた」と語ったその最後の時、すべてが終わったと言われた時に、今朝、私たちは立たされています。 その時に、イエスは父なる神のみこころに従って「人間の死」を受け入れられたと同時に、神のもとを離れてしまった私たちの身代わりに父なる神から捨てられるという「本当の死」を受け入れられました。 主イエスが黙って受け入れられたこの「葬りの一日」、死んで葬られた日を覚えます。 その日は、準備の日でした。 翌日は、特別な安息日でした。 十字架に架けられた主イエスの死んだ体は、人々にとって汚れたものでした。 確実に死んでいくように、また息を吹き返してくることのないように足を折って歩けなくする。 とどめを刺すかのように「槍でわき腹を刺し通す」。 イエスが死んで、来たるべき三日目の朝を迎えるまでの、この間の一日を聖書は「あなたがたが信じるためであった。 旧約聖書の言葉が実現するためであった。 自分たちが槍で突き刺した者を見るためであった」と告白しています。 律法では、「過越しの小羊の骨は折ってはならない」と言う。 イスラエルの民の罪のあがないとしてささげられた「いけにえの小羊」の骨を折ってはならないと言う。 イエスの十字架は、過越しの祭りの準備の日に起きた出来事でした。 主イエスは、「過越しの祭りの小羊として、十字架に架けられた」。 神のもとから離れてしまった私たちを取り戻すために、あがないとして神の真の裁きのためにささげられた主イエスであったと聖書は言っているのです。 この主イエスの死んで葬られた日、「葬りの日」が私たちにとって大切なのです。 私たちが受けたバプテスマは、この主イエスの葬りとともに葬られたという事実を体験することでした。 人間の可能性などまったくなくなってしまった日、「終わりの日」、その時こそ父なる神だけが働く。 神のみことばだけが聞こえてくる。 「最後の絶望の日」に、生きた神の働きが分かるようになる。 この終わりの日の体験を通して、新しい神の働きがそこから起こってくる。 パウロが言っています。 「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」。 死という終わりを経験して、新しい始まりに生きていく。 すべてが終わらなければ、神の業は始まらなかったのです。 私たちの迎える三日目の朝こそ、この葬りの日、終りの日を味わいながら、静かに待ち望んだ新しい世界が始まった日なのです。 この葬りの日に用いられた二人の人物がいます。 アリマタヤのヨセフとニコデモです。 どちらも、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」人物です。 心の中で思っていることと、やっていることがかけ離れていた人物です。 その人物を神は召し出して、主イエスの最後の日の葬りのために用いたのです。 人間の可能性がまったくなくなったその最後を、一緒に体験させ新しい神の業の始まりに備えるためにこの二人を用いられた、神の事実を見逃すわけにはいきません。 二人は、この葬りという終わりが新しく始まることであったという十字架の言葉を、イエスの復活の事実によって知らされたことでしょう。
[fblikesend]「十字架のキリストに結ばれて」 コロサイの信徒への手紙2章6~15節
初代の教会の人たちは、週の初めの日を「主の復活した日」として礼拝をささげました。 毎週、この日に集まって礼拝したのは、この主の復活を祝ったからです。 すべての主の日の礼拝が、復活を記念する礼拝であったのです。 イエスの「十字架」は間違いなく、当時の支配者であったローマの国家権力によって、ひとりの人間イエスを死罪にしたという事実であったでしょう。 イエスに従って来た人たちにとっては、こんなはずではなかった。 この事実を受け止めたくない。 この事実をひっくり返すぐらいの大きな力を望んだことでしょう。 しかし、イエスの十字架という死刑は、そのままでは終わらなかったということです。 イエスが息を引き取られる最後まで見届けた、その死刑を執行する側にあったローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言葉を漏らす。 死んだはずのイエスが、よみがえって弟子たちの前に現れる。 聖霊が弟子たちに降って、このイエスの死こそが自分たちの弱さ、醜さを贖うために払われた貴重な代価であったことを後に知らされる。 人間の死をもって大きな力を持っていると見せかけていたこの世の霊をも乗り越える存在を、この地上で弟子たちは初めて知ることになったのです。 ところが月日が流れ、人々はイエスの十字架が分からなくなってきた。 このコロサイの教会にも問題が起こるようになってきた。 神の前に救われるべき道は、この十字架にかけられたイエス・キリストの死とよみがえりという事実以外にはないはずであるのに、コロサイの教会の人たちはイエス・キリスト以外の知恵や知識に頼って神のもとへ行こうとしたのです。 パウロはそのような人たちに勧めます。 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」、「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」と勧めます。
私たちの信仰の出発点を思い起こしてください。 理由は分からなかったけれども、キリストを受け入れて出発しました。 理屈ではない、これからキリストに従って行こうと決断したことでした。 ただ、神の愛によって道が備えられた。 その道を、キリストがそのみこころに従って、一緒に歩いて切り開いてくださった。 その道を歩んでいる私たちを遣わされた聖霊が導いてくださった。 私たちは、ただ感謝して受け取るだけです。 パウロは、選び取った道を「キリストに結ばれて歩みなさい」 「キリストの言葉に耳を傾けて、教えられたとおりに歩みなさい」 「キリストに根を下ろして歩みなさい」と勧めます。 聖書は、「キリストの内には、満ち溢れる神性が余すことなく、見える形をとって宿っている」「あなたがたは、キリストにおいてそれが満たされる」と言います。 私たちの証しの姿を、キリストに結ばれた姿、キリストに根を下ろした姿として公然と示してくださると言っているのです。 イースターは、キリストと共にある私の「死と新しい命」の事実です。 イエス・キリストに満ち溢れている神が、私たちの姿を通して現れてくださるのです。
「収獲される方への信頼」 マタイによる福音書13章24~30節
イエスが語った有名な「毒麦のたとえ」です。 このたとえを、ものごとを速断してはならない。 大きくなって、はっきり区別できるようになってから毒麦を抜くとよい。 気長に人間を育てる大切な姿勢を示している。 このように言う人がいます。 イエスは、このような道徳の教えを聖書のみことばとして語っているのでしょうか。 私たちの畑からは、残念ながら、麦と毒麦が一緒にどちらも育ってくる。 良いものと悪いものが一緒に存在する世界であると、このたとえは告げています。
たとえの中の僕たちは、主人に向って重要な質問をふたつしています。 「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。 どこから毒麦が入ったのでしょう。」 どうして、私たちの畑に毒麦があるのでしょう。 どうして、悪がこの世にはびこるのでしょうかという質問です。 イエスは、弟子たちに対しても、群衆に対しても、これは悪の霊の働きであると言ってくださいました。 しかし、問題は、それが人間を通してなされているということです。 悪の霊が、私たちをあやつって働きかけることです。 悪の霊によって、自分が利用されていることにその本人が気がついていないということです。 神のみこころに反対する悪の霊が、一人の人間の心と振る舞いを利用して、毒麦をもたらしているのだと言うのです。 この世では、神のみことばだけが成長するのではない。 それを妨害するものもまた成長してくるのだと言っているのです。 僕たちは、もうひとつ質問をしています。 「では、毒麦を、行って抜き集めておきましょうか。」 僕たちは、麦と毒麦を区別して、毒麦だけを取り除いておきましょうかと質問したのです。 主人は、この二つの質問に「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と答えます。 私たちの世界は、麦と毒麦が混ざっている。 蒔かれた神のみことばが、そのみことばの力によって育つように、そのみことばを妨げるような毒麦もまた目の前に立ちふさがります。 私たちの世界は、神が造り上げた祝福された世界のはずです。 毒麦も、毒麦を蒔いた者も、刈り入れまでのはかない存在です。 最後には、焼きつくされてしまうものです。 この刈り入れの主だけが、どのように収獲するのか、いつ収獲するのかを定めることができるはずです。 その時まで、神は待っておられるのです。 すべての人が、悔い改め、神のもとへ戻ってくることを時間かけて待っておられるのです。 この最後の刈り入れの時を委ねられた主イエスを信頼すること、これを私たちが求められているのです。 誤りだらけの私たちです。 そこには、神の赦しが必要です。 自分は、毒麦を育てているかもしれない。 しかし、それを神はすでに赦して、待っていてくださっています。 この父なる神がすべてを委ねた主イエスに、疑わないで、幼子のように信頼し切ること、そのことを積み重ねることが、私たちの信仰の歩みではないでしょうか。
「あなたの足を洗わないなら」 ヨハネによる福音書13章1~11節
イエス様は、ご自身の人間としての地上の生涯を閉じられる時のことを「この世から父のもとへ移るご自分の時」と表現されました。 そして、その最後の時に「父なる神がすべてのことをご自分の手にゆだねられたこと」を悟った。 「ご自分が父なる神のもとから来て、神のもとへ帰ろうとしていること」を悟ったと言われました。 一切の救いと裁きの力を父なる神から与えられ、いよいよ父のもとへ戻って行くのだと悟って、これから向わなければならない、いや自ら進んで十字架の道を歩まれたのでした。 そのような時に、イエスの心は弟子たちのうえにあったというのです。 「世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。 心があっただけでなく、弟子たちにひとつの振る舞いの姿を別れのメッセージとして残されたのです。 その姿とは、「食事の席から立ち上がって、上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」姿、そして「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふきはじめられた」姿でした。 この当時の「足を洗う」とは、奴隷の仕事です。 ペトロは、このイエスの姿を人間の道徳としか見つめることができなかった。 私の願う偉大な先生がそのような仕事をするべきではない。 あるいは、自分がイエスの足を洗うべきであると思ったのかもしれない。 しかし、イエスは、この姿がこれから迎えようとする十字架の死という別れに結びついている。 父なる神のもとに帰るという復活の事実と深く結びついている。 もし、私があなたがた弟子たちの「足を洗わないなら、わたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。 上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふきはじめられたイエスの姿が示した愛は、イエスの方からかかわろうとした愛でした。 この弟子たちの中には、この食事の直後にイエスを売り渡して裏切ったイスカリオテのユダもいたのです。 イエスはその足をも洗う、すべてをご存じで赦して最後まで諦めないで、「かがんで、本当に汚れた足を洗ってぬぐわれた」愛であったのです。 イエスは、ペトロに言います。 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」愛であると言います。 私たちの裏切りも、弱さもすべてご存じであった。 もうすでに、すべてをお赦しになっていた。 だから、あなたがたの最も汚れているところを、ひざまずいて、かがみこんで洗わなければならないのだと言っておられるのです。 イエスは、弟子たちの足を洗い終わると、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。 私たちの生涯もまた、最後まで、イエスに招かれているすべての人たちと食事をともにする地上の交わりの中にある者です。 大事なことは、諦めないで最後まで神のもとに召されるまで、自分にしかできないことをもって、イエスに招かれている人たちを愛し抜く。 その別れのメッセージを、自分の姿に刻み込んでいくことではないでしょうか。 私たちにも、そのメッセージを語る「自分の時」が与えられています。 主イエスに、一刻も早く罪にまみれた自分を差し出してぬぐっていただく。 その洗っていただいたイエスの愛が刻まれた姿をもって、互いに足を洗い合う交わりに導かれたいと願います。
[fblikesend]「安息日の主が招く礼拝」 マタイによる福音書12章1~8節
私たちのキリスト教の生い立ちは、イエスの誕生であり、イエスのこの地上での姿であり、十字架にかけられ死んで葬られ、よみがえり天に昇られたという歴史上の事実によります。 私たちのところに聖霊が降ってくるという出来事を経て、復活されたイエスが主であると信じる信仰が確かなものとなったことによります。 この神が一方的に為された事柄をからだで感じ取った私たちが、それに応えて礼拝するという行いが引き起こされたのです。 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」「毎日、ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。 これが、キリスト教の最初のころの礼拝の姿です。 イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」「あなたがたは安らぎを得られる」と、真の安らぎを与えると約束されました。 神がご自分の仕事を離れて休息なさって、祝福し、聖別された筈の安息日が、今や、安息日の細かい規則を守るための重荷となってしまっている。 安息日は人のためにある。 「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」 祭司たちが神殿で仕えている筈の安息日の主は、私であると言われたのです。 父なる神が、その創造の業のなかで、祝福し、聖別した安息日に真の安らぎを与えようとして私を遣わしたのだと言っておられるのです。 そして、イエスは、「わたしがもとめているのは憐れみであって、いけにえではない」 あわれみを犠牲にした形だけのいけにえではないとイエスは主張されたのです。 まさに、最初のころの教会が、イエス・キリストの復活をからだで味わった後に、この疲れと重荷から解放される真の喜びをもって、主のよみがえりの日曜日の礼拝を守ったのです。 私たちの礼拝は、このすさまじい闘いの中から勝ち取られて来た、解放の喜びの礼拝であったのです。 神が、イエスを用いて私たちを招いてくださったものであったのです。 安息日は、イエスが真の安らぎを私たちに与えようとされた日です。 人が安息日のためにあるのではない。 安息日の主であるイエス・キリストの憐れみのみことばを聞いて、その憐れみにすがって礼拝するためであります。 仕事の手を休め、神の喜びにあずかる礼拝の日です。 イザヤ書に「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」とあります。 真の安らぎを与えようとして招いておられる主イエスを礼拝する。 そのとき、主は必ず、その日を「主を喜びとする喜びの日」としてくださいます。 招いておられる安息日の主をこそ、形に囚われないで一緒に仰ぎ、賛美し、喜びましょう。
[fblikesend]「イエスとの出会い」 ルカによる福音書19章1~10節
イエスは、「わたしは、失われたものを探して救うために来たのである」と言います。 イエスは、ずっと探し続けておられます。 捜して、見つけ出して、連れ戻すために来たと言われます。 私たちは失われていた者です。 神のもとから離れてしまった、自分だけを頼りになんとかしようとしてきた者です。 手を差し伸べてくださっておられるイエスに気づかないで、傷つけて、無視して、気ままに歩んできた者です。 イエスは、このような私たちを諦めないで、自分の思い通りに歩んでいる「すべての道」をご覧になって、救うことが私の務めであると言われているのです。 このイエスに、ひとりの人物が出会います。 ザアカイという、「徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介されています。 徴税人とは、同胞のユダヤ人から様々な税金を取り立てる仕事をローマ政府から請け負っていた人々です。 中には、高い税金をふっかけて情け容赦なく取り立て、私腹を肥やしていた者もいたのです。 その頭であったと言いますから、凄腕の取立人であったのでしょう。 お金を取り立てるほど、お金は増えます。 しかし、人の心は離れていきます。 ついに、ザアカイはまったくの孤独の中に置かれたのです。 何かしら満たされないザアカイは、「イエスがどんな人であるのか見ようとした」。 町や村を巡り歩いて病人を癒し、徴税人だけでなく罪人と呼ばれて蔑まれている人々と食事を共にする。 罪人の仲間であると罵られても嫌がらないイエスに、心の渇きを覚えたのです。 ザアカイは、イエスに遭いたいと思ったのではありません。 イエスを観たいと、木の上に登って見降ろそうとしたのです。 しかし、イエスは、その場に来てザアカイを見上げたのです。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日は、あなたの家に泊まりたい。」というイエスの声に接します。 「あなたの家に泊まりたい」とは、どうしてもあなたの家に泊まらなければならないというぐらいに、強く言われたイエスの言葉です。 そのためには、ザアカイは、降りて来て、イエスの前に立たなければならなかった。 イエスの言葉の通りに従わなければならなかったのです。 イエスの一方的な働きかけでしたが、間違いなくザアカイはイエスと出会ったのです。 ありのままのザアカイを見つめられたのです。 今までの徴税人の頭としてではなく、これから変わろうとするザアカイを見てとったのです。 それだけでなく、罪人の仲間と呼ばわれることも嫌がらず、ザアカイの家に泊まられたのです。 イエスは、ザアカイの今までの神の前の罪も、人々から見放された孤独も、ザアカイの家で共にされたのです。 ザアカイは、そのことをからだで知り、そのからだが自分の家にイエスを受け入れたのです。 「今日、救いがこの家に訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。 わたしは、失われたものを探して救うために来たのである。」 これが、イエスの喜びの声です。 罪人と歩もうとされるイエスに出会ったことが、ザアカイの喜びの訪れでした。 私たちは、このイエスの喜びの声が聞こえているでしょうか。 果たして、イエスを見ようと木の上に登ったでしょうか。 語りかけられたイエスの言葉に従ってイエスの前に立ち、自分の本当の住みかにイエスを受け入れたでしょうか。
[fblikesend]「破綻のうえに築かれる教会」 ヨハネによる福音書11章1~16節
エルサレムから少し離れたところに、イエスが心を赦したひとつの家族がいました。 そこには、姉妹のマルタとマリア、兄弟のラザロという家族を挙げての安らぎの交わりがありました。 「イエスは、マルタとマリアとラザロを愛しておられた」と記されています。 そのラザロが、死に瀕するような病いに倒れていると言います。 その二人の姉妹が、エルサレムから遠いヨルダン川の向こう側に留まっておられるイエスに行動を起こします。 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と人をやって告げます。 この訴えをどのように聴かれるでしょうか。 病いを治してくださいという訴えでしょうか、不安と絶望のなかにあるこの心の状態を聞いてもらいたいという訴えでしょうか、いや、慕い信頼するイエスの胸に飛び込んで一緒にいたいという訴えでしょうか。 イエスは、一度もラザロの病気の状態を見ておらず、分かってもいません。 そうであるのに、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。」と使いの者に答えたのです。 イエスは、この兄弟姉妹との交わりが、このラザロの「病いや死」によって妨げられるものではないと語っただけであります。 イエスは、人の感情だけでは動きません。 いてもたってもいられないなかで、神のみこころを求めて、そこに二日間留まって動こうとはしなかったのです。 神が働かれるのは、私たちが熱心に祈ったから、何かを成し遂げたからではありません。 父なる神が、完全にラザロの家庭を捉えて働いてくださることをイエスは待っておられたのです。
ついに、イエスは二日間待って、弟子たちに言いました。 「もう一度、ユダヤに行こう」 弟子たちは驚きます。 「ついこの間も、ユダヤ人たちがあなたを石で打ち殺そうとしたところではありませんか」 弟子のトマスが「わたしたちもそこへ行って、一緒に死のうではないか」と言うぐらいに身の危険を覚悟しなければならなかったのです。 イエスは、これから十字架の道に向うエルサレムに入る直前の、最後のしるしを病人の「癒し」ではなく、病人の「死からのよみがえり」としなければならなかったのです。 それが、「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたが信じるようになるためである」、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。」と言われたことなのです。 イエスがラザロのもとに到着したのは、墓に葬られて既に四日後のことでした。 イエスは、激しく泣いて、石でふさがれていた墓の前に立って「その石を取りのけなさい」と言われたのです。 イエスは、生きる者の世界と死んだ者の世界を分ける、墓の石を取りのけなさいと言います。 どうしようもない絶望の中にある私たちに、イエスは石を取りのけなさいと呼びかけるお方です。 私たちは、このよみがえられた主イエスを信じて、墓の石を取りのける者です。 私たちの肉体の死は、決して終わりではありません。 この終わりに向って歩んでいるのではありません。 新しい命への途上に生きています。 この人間の絶望、破綻のうえによみがえりが起こされた者の集まりが教会です。 新しく命に生かされた者と、イエスに従って墓の石を取りのけた者と、迎え入れてくださった主イエスと一緒に喜び分かち合うのが教会です。
「暴風のなかの教会」 使徒言行録27章13~26節
パウロは、「あなたはどなたですか」と尋ねて、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と語りかけた復活のイエスに出会った人物です。 それ以来、エルサレムからローマへの福音の宣教のためにと、今までとは真逆の人生を歩んでいる人物です。 そのパウロが、今、囚人としてローマへ舟で護送されています。 それだけではない。 その舟が暴風にさらされ今にも難破しかけて、身の危険にさらされている。 ついには、助かる望みさえ、見失われようとしている。 その時の舟の中の様子が、聖書の場面です。 舟の中には、276名の人たちがいたと記されています。 相当、大きな舟です。 エジプトからローマ帝国の中心地イタリアに向って航海している舟です。 エジプトの豊かな穀物が大量に運ばれていたことでしょう。 ユダヤ人、ギリシャ人、イタリア人おそらく貿易に関わるエジプト人もいたことでしょう。 船員、船長、そして船主もいたとされています。 そこに、パウロたち囚人とその同伴者、彼らを護送する百人隊長と兵士たちが入り混じっていたのです。 その中で、パウロはただ護送されていた囚人にすぎない、取るに足らない存在だったのです。 そのパウロに「パウロ、恐れるな。 あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」という主の声が迫ったのです。 海での事故を幾度となく経験してきたパウロ自身も、この激しい嵐の中で何の心配もなく寝ていたとは思えない。 恐れていたからこそ、「恐れるな」という主の呼びかけを必要としたのでしょう。 パウロあなたに託されているものは、皇帝の前に出頭するという務めだけではない。 一緒に乗船しているすべての命が託されていると主が励ましたのです。 主は、救われたパウロに、周りの命がかかっているぞと語りかけたのです。 パウロには、何の権威も、力も、身分もありません。 そのパウロが、今にも消え失せようとする舟の中で、中心となって人々を励まし始めたのです。 昨晩、自分が復活の主に励まされたとまったく同じように、同船している人々に励まし始めたのです。 主の励ましの言葉だけによって、身分を越えて、人種を越えて、辿る人生の違いを越えて、囚人でありながら堂々と語る者にされたのです。 紆余曲折はありましたが、主の顧みにより、全員が島に打ち上げられ命が救われたのです。
私たちの身の周りで、様々な災いと思える出来事が起こります。 その時に語りかけられる「恐れるな」という主のみことばは、限りのある「恐れ」を恐れるのではなく、「真の畏れ」に導くための呼びかけです。 主は、そのことを目覚めさせるために、ひとりでも救われた者の居る所にこそ、出来事を起こし、呼びかけ、働かれるのです。 沈没しそうな時、窮地に追いこまれた時にこそ、救われた小さな哀れな私たちの存在は大きいのです。 たった一人の祈り、信仰が神との交わりをつなぎとめる。 主がそこにおられる。 そこは、その人だけではない。 その周りに居る者もまた、神との交わりの中にあると主は言われるのです。 たった一人の祈りと信仰が、新しい命へと全員を辿りつくべき所に打ち上げ、教会を造り上げていくのです。
「神の裁きと赦し」 ヨハネによる福音書 8章1~11節
明らかに罪を犯して、それを人々に見つけられて、罰を受けても仕方がないと諦めている一人の女性が人々の真ん中に立たされています。 その女性を引っ張って来て、罪に定めて、今にも石を投げつけようとして、イエスの言葉を待っている律法学者とファリサイ派の人たちがいます。 身をかがめて地面に指で何かを書いて黙っておられるイエスの姿があります。 これが、聖書の箇所の場面です。 姦淫は、重い罪で石打ちの刑に価するとされていました。 律法を忠実に守っている律法学者たちは、この女性を罪に定める資格と権威が与えられていると思っている。 女性の罪だけを見つめ、自分の姿が見えない人たちです。 裁き方によっては、イエスまでも裁こうとする人たちでした。 イエスがついに立ち上がって、最初に沈黙を破って人々に語った言葉が、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」でした。 あれほど、たったひとりの罪にだけに向けられていたすべての人たちの目が、自分自身の心に向けられた瞬間でした。 イエスは、姦淫の罪は石打ちの刑に価すると言っている。 「石を投げなさい」と言っている。 しかし、この女性を裁く資格のある者は、「罪を犯したことのない者」であると言われたのです。 そこにいた年長者から、自らに恥じていたたまれなくなり、立ち去って行ったというのです。 残されたのは、背を向けてただ下を向いておられるイエスとこの女性だけです。 この女性は、黙ってそっとそこから逃げ去ることもできたはずです。 なぜ、彼女はその場に留まり続けたのでしょうか。 人々に背を向けていると、投げつけられる石に当たるかもしれないと彼女は思った。 石打ちの刑に価する者と同じ所に、自分自身を置いた人が、今、突然、目の前に現れた。 黙ってはおられるが、実は、このような自分を裁いている人たちを、このお方が裁いておられるのではないか。 このことを知ったこの女性だけが、イエスがおられる所とはどういう所なのかを初めて分かったのではないでしょうか。 人が人を裁くことのできない所に、自分の身を置いている。 このお方こそ本当に裁くことのできるお方であると感じて、彼女は身を震わせたのではないでしょうか。 そう思った彼女に、イエスは初めて語りかけます。 「婦人よ、だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 彼女は、恐る恐る「主よ、だれも」と答え、このお方の審判に身を委ねたのです。 その時に、彼女は「わたしはあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。」という赦しの言葉に出会うことができたのです。 罪に定めることのできるお方こそ、本当に赦すことができるのではないでしょうか。 彼女は、イエスの裁きの前に、逃げないで立ち続けた。 この裁きの前に立たなければ、本当の自分の罪が分からないのです。 罪が分からなければ、赦しの言葉に出会うことができないのです。 神の赦しは、神の裁きのもとにあります。 このことを、イエス・キリストの十字架によって、私たちは知ったのです。 この女性の姿は、私たちの姿です。 イエスは、この赦しの恵みの世界に生きて行きなさいと送り出してくださったのです。
[fblikesend]「罪人を招くために」 マタイによる福音書 9章9~13節
アダムとエバのお話をご存じでしょうか。 最初の人間であるアダムが、食べてはならないと神に言い渡されていた木の実を、蛇に騙されて食べてしまった。 そこから人間に罪が入り込んでしまった。 遠い大昔の神話であるとお思いでしょうか。 聖書は、イエス・キリストを証言しています。 その時々の信仰者によって、霊に導かれて信仰を書き現わしてものです。 このお話には、神を避けて、神のもとから離れるという人間の姿が語られています。 確かに、神に命じられた約束を守らなかったことが、罪の一断面を表していることは分かります。 しかし、人間が犯した罪は何であったのでしょうか。 善と悪の木を食べることに欲望をもったこと、自分が神と同じように全知全能になることができるのではないかと思ったことではないでしょうか。 神は、この私たちを「どこにいるのか」と探してくださっています。 恐ろしくなって身を木の間に隠して、「蛇が騙したので」と言い訳をしている私たちを憐れんでくださっています。 神は、すべての木から取って食べよと祝福してくださった。 探して、赦そうとされた。 その神のご真実の姿が、私たちに与えられた主イエス・キリストです。
イエスの時代の食事は、主なる神から与えられた食べ物を、神に感謝しながら賛美と共に家族を挙げて食べる、神に対する礼拝でした。 そのような礼拝に、律法を守ることのできない者と一緒にするイエスが、厳格なユダヤ人には赦せなかったのです。「なぜ」と憤りをもって迫る彼らに、イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われたのです。 このイエスに、徴税人マタイはなぜ立ち上がって従うことができたのでしょうか。 イエスご自身が、人々から罪人に数え上げられるところに身を置いたから。 罪人となじられている人々とともに食事、礼拝をささげられたから。 この罪人たちを代表して、自ら罪に定められようとされたからではないでしょうか。 ですから、イエスの食事に、大勢の徴税人や罪人が集まって来たのです。 イエスは、この罪人と定められるところ、神の裁きがあるところ、神との交わりが回復されるところ、そこに従って来なさいと言われたのです。 神の裁きと救い、赦しが実現するところこそ、主イエス・キリストの十字架のもとです。 そこに立ちなさいと言われたのです。 「わたしが来たのは、罪人を招くためで」あったのです。 罪人に定められた彼らこそ、真の食事、真の礼拝に招かれたのです。 自分の貧しさを悲しむ者、自分の醜さを嘆く者、自分の弱さにうちひしがれる者のもとに、イエスは近寄って来て、「わたしが来たのは、罪人を招くためある」と語ってくださるのです。 この真の交わり、真の食事の席が私たちには用意されているのです。
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