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「主の前に忠実であること」   コリントの信徒への手紙一4章1~5節

2014-07-27

 信仰の世界にも時として、目に見えない神の働きが分からずいらいらする時があります。 神の働きが目に見えないからこそ、満足することができなくなることがあります。 自分の願いどおりにならないことに不満を持ち始めます。 それどころか、自分の方が変わらなければならないと神に強く迫られ、その神の働きに耐えられなくなる時があります。 その時が私たちと神との交わりが危うくなってくる時でもあります。 神の前に立つことができなくなる。 神に祈ることができなくなる。 神との交わりが途絶え始めてくる。 パウロが語ったように、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である。 あなたがたは神の畑、神の建物なのである。」 すべてのものは神のものである。 そのことを私たちは、いつしか忘れてしまうのです。 だれか特別な人だけが、神の務めや特別な立場を与えられているのではありません。 私たち信仰者すべてが、神から託された福音を宣べ伝えるという務めをいただいていると言うのです。 そのことをパウロは、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言っているのです。 私たちは、この賜物を託された神に対して責任を負っているのです。 聖書は、この責任を果たしていない人のことを罪人と呼んでいます。 この責任を果たしていない人の罪を赦し、神との正しい関係に回復するための救いの出来事が「神の秘められた計画」です。 この神の福音、神の国に入る鍵、これを委ねられた者がキリスト者ですとパウロは言っているのです。
 パウロは、この「神の秘められた計画を委ねられた管理者」として、すべてのキリスト者が神に仕える時に、神から求められることは「忠実であるということ」だと言います。 神は、私たち管理人に多くの才能を求めているのではありません。 忠実にキリストに仕える心です。 自分の賜物を差し出す勇気を求めておられます。 コリントの教会の人々は、豊かな知識を誇っていました。 分からないことまで、自分には分かっていると思い込んでいました。 しかし、真の知識こそ、自分が何も分かっていないということを知ることではないでしょうか。 神の業の多くは、私たちには秘められています。 しかし、パウロは、「主が来られる時」、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と断言しています。 神の救いの業のすべてが明るみに出て、私たちに分かるようになる。 その時が来る。 ですから、「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」 「自分で自分を裁くことすらしません」とも言います。 パウロは、「わたしを裁くのは主なのです。」と言います。 パウロは、神の裁きであるキリストの十字架によって、自分自身の何もかもが赦されている。 神の裁きは、自分を再び生かす救いの為であったという確信が、パウロにはあるのです。 ですから、パウロは、すべてが明るみになる神の裁きの時こそ、希望の時として待ち望んでいるのです。 これこそ、神の前に自身を低くして、真の裁きの前に自分のすべてを委ねているという忠実な信仰の姿です。 主が来られるのを待つ。 主に委ね、主が来られて働かれることを待つということです。 人間を神のもとに回復させることができるのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」だけです。 信仰によって神の前に義とされたという神の赦しを確信していたからこそ、パウロはびくともしなかったのです。 神の裁きは、人に罪を知らせ、悔い改めに導き、贖いのキリストの命がささげられたことを知らせます。 そこに、神の赦しが「私のために」あったことを知らせます。 人に新しい命を与え救うために、神だけがなすことのできることです。 



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