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「成し遂げられた十字架の主」   ヨハネによる福音書19章23~30節

2014-08-03

 ヨハネが語る地上の最後のイエスの姿は、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、「渇く」、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたお姿でした。 十字架のうえで語られたこの「成し遂げられた」という言葉には、「終わりが来た」、「目的を達した、成就した」という二つの意味合いが込められています。 この者は「ユダヤ人の王」と自称したと全世界の人たちに向けてさらし者にした罪状書きを添えて、イエスをののしったユダヤの人々。 おのれの立場を守るためだけに人々を恐れ、罪なきイエスを十字架に渡した総督ピラト。十字架という死刑を執行するのに慣れて、イエスの服をくじ引きまでして分け合っているローマの兵士たち。 そして、イエスに従って来たはずであるのに、イエスを見捨ててしまった弟子たち。 イエスの十字架のもとには、これらの罪がとぐろを巻いています。 そうであるにも関わらず、これらのご自分の敵となったすべての者が再び神との関係を回復される道を、イエスはこの十字架という場所でお拓きになったのです。 それだけではありません。 最後の最後までこの世に留まって、母に向ってまた弟子たちに向って配慮をしようと、神の世界と人間の世界を結び合わせようとするイエスの姿をヨハネは描いています。 
 人間の側から見ると、イエスの十字架の死は人間の「終わり」です。 そこに、イエスは立ってくださった。 しかし、イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る。 裁かれることなく、死から命へと移っている。」とはっきり約束してくださっているのです。 死は、人間の終りであっても、終わりではない。 人間の終りから始まる命の始まり、神の世界の始まりである。 終わりから始まるという神の恵みが、そこにはあると言われるのです。 この「終わり」から新しい歩みを始めた二人の人物がいます。 ひとりは、アリマタヤのヨセフと言います。 聖書は、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と、彼を紹介しています。 もうひとりは、かつてある夜人目を忍んでイエスのもとにやって来たニコデモでした。 彼もまた、イエスを「神がともにおられるお方である」と告白しながらも、夜そっとイエスに会いにくる人物でした。 イエスを公然とメシアである、救い主であると言い表すと、ユダヤ社会から追放される。 そのことに脅えた二人でした。 この二人が、イエスの十字架の死を境に新しい歩みを始めるのです。 総督ピラトの前に進み出て、イエスの遺体を葬るために、十字架から取り降ろしたいと願い出るのです。 ユダヤ人の人々の前に現れて、香料を添えて亜麻布で包みイエスを丁重に葬るのです。 かつては、イエスの弟子であることをひた隠し、真の願いを押し殺して歩む二重生活に埋もれていた人物でした。 この世の祝福を片方でしっかりと握りしめて、一方で神の祝福を隠れて願った者でした。 これが、私たちの姿です。 二人は、その二重生活の中から飛び出してきたのです。 その出発の場所が、イエスの人間の終りの死、これから始まる神の世界の始まりの命であったのです。 彼らはこの時、人間の終りを知らされ、神の始まりを体で知ったのではないでしょうか。 イエスご自身が、「人間の世界が終わった、神のご計画が成し遂げられた、神の世界の始まりが始まった」と宣言された言葉が、「渇く、成し遂げられた」という十字架の言葉ではないでしょうか。  私たちは、この十字架の終りの宣言と始まりの宣言を隠したり、自分の都合のよいように飾ってはなりません。 人間の望みが断ち切られているところに立っておられる十字架の主から、目をそらしてはなりません。 そこに留まり続けるようにと、死から命へ移っているという約束に私たちは招かれています。 



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