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「神がなさってくださる業」   ヨハネによる福音書9章1~12節

2014-07-06

 通りすがりに、イエスが最初に「生まれつき目の見えない人」を見つけられました。 町の通りで最初に私たちの目に飛び込んでくるものは、一番関心の高いものが先ず目に入るのではないでしょうか。 イエスは、いつも「低くされた者」、「小さな者」、「無視されている者」に目を注いでおられます。 「生まれつき」目の見えない、座って物乞いをしていた人の姿です。 目が見えない理由を見出せないまま、生まれたその時から苦しみの中にある人の姿でした。 弟子たちの関心は、イエスと異なります。 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と、イエスにその理由と説明を迫ります。 私たちの頭をよぎる「宿命」という考えです。 しかし、イエスの答えは、「神の業がこの人に現れるためである」という思いがけない言葉でした。 本人が原因ではない。 その両親が原因でもない。 ましてや罪を犯したことが原因でもない。 「これから」、神がこのひとりの人物を用いて働かれるためであると言われたのです。 私たちの神は生きて働く、いつも新しく創造される神です。 イエスは、苦しみの原因である過去を見ないで、これから神に用いられる将来に向けて語られたのでした。 
 イエスがなさった「癒しの業」が詳しく記されています。 イエスが言われた通りに、泥で塗られた目を、「遣わされた者」という意味の名のシロアムの池に行って洗ってみた。 そうすると、生まれつき見えなかったこの人の目が見えるようになったというのです。 大切なことは、この人が目が見えるようになって「戻って来た」ことにあります。 当然、周りの人々は不思議がって本人に質問をします。 しかし、本人は、だれによって癒されたのか、どうして見えるようになったのか、満足に答えることができません。 しかし、この人のうえに、「神がなさってくださったこと」をからだをもって証しをしたことは間違いないのです。 神の業は、私たちがどのような状態であろうが、必ず私たちを用いてなされるということです。 神が私たちのうえになさってくださるということです。 私たちにとって、良いことも悪いこともすべて、神の業に用いられる、神の恵みに与かることができると言われたのです。
 私たちは残念ながら、今まで見てきた古い目に泥が塗られて覆われなければ、新しい光が見えてこないのです。 その覆われた泥を拭い取っていただかなければ、新しく「この世の光」が見えるようにはならないのです。 私たちのうえに「神がなさってくださる業」を見届けなければなりません。 これから先何が起ころうとも、このなしてくださる神の恵みの出来事に立ち続けなければなりません。 なぜなら、「これからも」神の業が私たちのうえに現れるためです。 恵みをいただいて戻って来て、「神がなしてくださる業」を大胆に証ししていくためです。 



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