秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神の前の豊かさ」   ルカによる福音書12章13~21節

2014-09-07

 群衆の中のひとりが、イエスに近寄って来て「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言います。 先生と呼ばれていた律法の専門家は、社会の秩序を守る重要な役割を担っていました。 相談を持ちかけられたイエスは、彼が願い求めようとしているものを見越して、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と彼に語ってから、今度は群衆に向けて「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われたのでした。 彼は、律法に定められた自分の「遺産」を正しく求めただけかもしれない。 しかし、イエスは「有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないから」、「用心しなさい」と言われたのです。 イエスは、「財産」とは異なる「人の命」という言葉を用いて、神に与えられた「命」を語ろうとします。 その「人のいのち」を、私たちはしばしの間だけ、自分で自由にすることができると錯覚してしまうのです。 しかし、その命の「初め」と「終わり」に、「人の命」はまったく違ったところから訪れる。 その厳粛さに立たされます。 
 イエスはそう語ってから、ひとつのたとえを語られました。 ある金持ちの畑が豊作であった。 作物をしまっておくところがないと悩むくらいに、収穫を得ることができた。 今の倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに蓄えておこう。 そうすれば、何年も生きていくだけの蓄えができる。 食べたり飲んだりして楽しめる。 そう自分で言ってやると金持ちが言ったというお話です。 語られた「作物」、「倉」、「自分」という言葉の前に「私の」がついている。 「私の作物」、「私の倉」、「私の魂」です。 イエスは、自分のためのものだと言っている有り余るほどの物を、「貪欲」と呼んで「注意を払いなさい、用心しなさい」と言われたのです。 「貪欲」は、いつしか自分一人で生きて行くことができると、私たちを神のもとから離れさせる。 「パンに飢える時でもなく。水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きの時」となってしまうのです。 神との交わりを失っていくことが、私たちの永遠の滅びです。 貪欲はこの「命」を滅ぼすから、用心しなさいと言うのです。 これほど地上の生活には周到に準備するのに、なぜ「自分の命」の終りの備えを怠るのか、「愚かな者よ」とイエスは呼びかけているのです。 
 ペトロは、「生まれながら足の不自由な男に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせました。 地上の富は何もないが、私には「人の命」を立ち上がらせるイエス・キリスト。 その「よみがえりの命」が宿っている。 その「命」がみ言葉となったイエス・キリスト。 その名によって立ち上がり、歩きなさいと言いました。 神によって与えられた神の前の豊かさの喜びが、ペトロをそのように駆り立て語らせたのではないでしょうか。 形が変わる、あるいは突然失われてしまうようなものにしがみついていないで、変わることのない富を神の前に積みなさい。 そこに、あなたの心がある。 神の喜びを私の喜びとするあなたの心が、神の前にある。 神から与えられている豊かなみ言葉を蓄えましょう。 神から与えられている豊かな神の恵みに気づいて蓄えましょう。 



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