「すべての人が招かれる食卓」 マルコによる福音書8章1~10節
「五千人に食べ物を与える」という奇跡と「四千人に食べ物を与える」という奇跡が、マルコによる福音書には記されています。 二つの出来事は、群衆の数も、差し出された食べ物も「五つのパンと二匹の魚」、「七つのパンと少しの魚」と違います。 かき集められた食べた残りが「12の籠に一杯になった、7つの籠に一杯になった」と違います。 この二つの奇跡の出来事には、イエスの癒しの業が先行していることが分かります。 様々な体の不自由な人たちこそ、体が不自由であるそのことだけで人々との交わりを拒まれた人たちです。 「五千人」の出来事は、ガリラヤ宣教を行なっているときのことです。 イエスと弟子たちを追いかけて一斉に駆けつけてくる大勢の群衆を見て、イエスは「『飼い主のいない羊』のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と言います。 イエスを通してなされる神の最後の呼びかけを、イスラエルの人たちが聞かず、そのイエスを殺そうとまでしていることに対するイエスの深い嘆きです。 神の民であるはずのイスラエルの民が、神の祝福に与っていない有様をイエスは深く憐れまれたのです。 「四千人」の出来事の冒頭に「そのころ」とあります。 ガリラヤとは反対側、ガリラヤ湖の東側、異邦人の地でイエスたちが巡り歩いていたころです。 そのイエスが、四千人の異邦人に向けても、イスラエルの人々と同じ憐れみをもって接するのです。 イエスは、「群衆がかわいそうだ。 もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 中には遠くから来ている者がいる。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。」と、群集が家路につくことを心配されるのです。 ここは、「人里離れたところ」、食べ物を買いに行くことさえできないところです。 三日間、イエスが語る神のみ言葉に満たされた世界から再び現実の世界に帰って行く、イエスのもとから遣わされていく群衆の帰り道をイエスは心配しておられるのです。 「こんな人里離れた所で、これだけの人に食べさせることができるでしょうか。」と呟く弟子たちに、「飼い主のいない羊」のような群衆を養うのが弟子たちの務めである。 ご自身の群衆に対する深い憐れみを共有してほしいと弟子たちに願うのです。 弟子たちが差し出した七つのパンを取り、感謝と賛美の祈りを唱えてこれを裂き、群衆に配るようにと弟子たちにお渡しになった。 イエスの思いが込められたパンを、弟子たちは人々に配った。 人々は満腹した。 残ったパンを集めると、七つの籠になったと言います。 マルコは「7」というイスラエルの完全数を用いて、イスラエルだけではない異邦人の世界にも、すべての世界がイエスから渡された恵みに満たされたと語っているのです。 イエスの前に差し出されたものは、「七つのパンと少しの魚」です。 残されていた最後の食べ物、ささやかなものです。 これから家路につき現実の世界に遣わされていく群衆を心配して、これらのわずかなものを祝福し、霊肉ともに神の恵みに満たされ遣わされていくようにと、イエスは群集を「解散させられる」のです。 弟子たちに渡されたパンと魚こそ、イエスご自身の十字架により「裂かれた肉体」と「流された血」を弟子たち、群衆にお委ねになったのです。 イスラエルの人たち、異邦人たち、社会から取り残された人たち、すべての人たちに神の恵みの世界は訪れた。 イエスはご自身の十字架の上で、ご自身の食卓をご用意されたのです。 私たちもこの群衆のひとりです。 神の前に立つことを、イエス・キリストの肉体と血によって赦された者です。 本来、神の前に立つことのできない者です。 私たちが差し出すわずかなものを、喜んで受け取って、執り成しの祈りをささげて祝福してくださるのです。 すべての人が、イエスの食卓に招かれているという恵みに与っていることを忘れてはならないのです。
[fblikesend]「交わりを回復するために」 マルコによる福音書7章31~37節
イエスたちの群れは、「ティルスの地方、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた。」と言います。 聖書地図に従って、その足取りを眺めてみますと、回り道をし、山脈を越え、ユダヤ人たちが住むガリラヤ地方の反対側、ガリラヤ湖の東側の異邦人の地を訪れたことになります。 どこか目的地があって、そこを目指したのではなく、迂回し、無駄な回り道を異邦人の地において繰り返しているのです。 ユダヤ教指導者たちも、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスも、イエスたちを秩序を乱す者として捕らえ排斥しようとしていたのです。 身の危険を避けるため、異邦人の地を巡り歩く苦痛の旅であったのでしょう。 しかし、異邦人たちは、「イエスの癒しの業を見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」と言います。 イエスがこの地に足を踏み入れたと聞いて、「耳が聞こえず舌の回らない人」を、イエスのもとに連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったのでした。 その時になされたイエスの振る舞いです。 「この人だけを群衆から連れ出した。 指をその人の両耳に差し入れた。 唾をつけてその舌に触れられた。 天を仰いだ。 深く息をついた。 そして、その人に向かって『エッファタ』(アラム語で開け)と言われた。」と言うのです。 ユダヤ人は、イスラエルの神の民ではない異邦人たちを見下し、決して交わろうとしない大きな隔てがあった時代です。 忍びながら旅を続けていた異邦人の地での苦痛の旅の途中です。 イエスは、このような息苦しい旅の途中でも、ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」と出会われるのです。 イエスはご自身と向き合わせるようにと、二人きりとなるようにされるのです。 連れて来られた人は、自ら望んでイエスのもとにきたのではありません。 人任せの心の閉ざされた人であったのでしょう。 二人きりになると、イエスは先ずご自身の呼びかけが聞こえるようにと、直接痛んでいる両耳に触れられるのです。 癒された耳を通して聞き届けられたイエスのみ言葉に、その人が応えて語ることができるようにと、口と舌に直接触れられるのです。 イエスご自身がこの人の痛みや苦しみや悲しみをご自分のものとされたということです。 イザヤが預言した「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」(イザヤ35:35-6)という預言が、今ここで成し遂げられたとマルコは証しするのです。 イエスは触れられただけでなく、「天を仰いだ。 深くため息をついた。 その人に向けて開けと叫ばれた。」と言います。 「天を仰ぐ」とは、命の源である父なる神に向けて祈るイエスの姿です。 私たちと同じように肉体の弱さを背負わされたイエスは、父なる神のもとから注がれる力と命を受けるためには祈るしかないのです。 「深く息をつく」とは、「呻く」という意味合いの言葉です。 心の閉ざされた人に替わって、その人の痛みも悲しみも憂いも知る者として、共に呻いて祈って執り成してくださったのです。 「エッファタ」という言葉は、マルコにはしっかりと耳に残ったイエスの肉声です。 このみ言葉が語られたとき、その人の「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」と言います。 この「耳が聞こえず舌の回らない人」とはだれのことでしょうか。 聞くべきものを聞かず、語るべきものを語らず、自分の身を守ることだけに専念する私たちの姿ではないでしょうか。 イエスは祈る術を知らない私たちに替わって、執り成し呻いて祈ってくださっているのです。 身体の癒しだけでない、私たちと神との交わり、私たちと隣人との交わりが回復されるという神の恵みの働きが起こるとマルコは証しするのです。
[fblikesend]「訪れた刈り入れる人」 マルコによる福音書4章26~29節
この短い「成長する種のたとえ」は、マルコによる福音書だけに記されているものです。 「神の国は、次のようなものである。」と言います。 「土に種を蒔く人がいる。」 しかし、その人は、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか」知らない。 「土はひとりでに実を結ばせる。 まず、茎、次に穂、その穂には豊かな実ができる。」 そして、「収穫の時がくる。」と言うのです。 神の国の到来とは、収穫の時である。 「神の国」とは、神の恵みに覆われる時、それが実現する時であると言います。 この「たとえ」で語る「種を蒔く人」とは、神ご自身のみ言葉を持ち運ぶ人ということでしょう。 この「種を蒔く人」が知らないと言っているのは、どうして種が芽生えて、茎が出て、穂をつけ、その穂に実がなるのかを知らないだけである。 芽生えや成長には与り知ることのできない神の働きであることを弁え知る蒔いている。 神の国の訪れ、収穫の時がいずれ訪れる希望をもって蒔いている。 そのために用いられている人、イエス・キリストが語られた福音を宣べ伝える人ということでしょう。 パウロが、「大切なのは、植える者でも、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(コリントⅠ3:6-7)と語っているとおりです。 イエスはこの「たとえ」で、収穫の時がくること、刈り入れの主として鎌をもって立っておられること、すでに種は蒔かれていること、人知れず種は芽生え、成長し、穂をつけ、実を豊かに結び、刈り入れされるのを待っていることを知らせているのです。 イエスご自身の到来によって、この種蒔きは始まった。 しかし、刈り入れは未だ終わっていない。 この神の恵みの種を恵みとして受け取るところに、神の国の実が豊かに結ぶ。 そのことに希望や祈りをもっているかどうか。 この神の不思議な命の成長の働きに信頼を置いているかどうか。 種の成長が実を結んでいくという事実を体感し、味わって喜んで賛美しているかどうか。 そのことを、イエスはこの「たとえ」をもって、群衆にそして私たちに求めておられるのではないでしょうか。
蒔かれた種は、ひとりでに成長するのです。 その成長のプロセスはゆっくりで、私たちには分からない。 育みの理由も方法も分からない。 しかし、命がなければやがて朽ちていきます。 命があれば、時が経てば必ず実を結ぶのです。 そこには、命の神秘があります。 種が茎に、茎が穂に、穂が実に、順序立てて進行するのです。 イエスは、「神の国はそのようなものである」とたとえるのです。 神が御心の順序に従って、命を創造し、育み、実を結ばせる。 神の国、神の救いのご計画は順序立てて着実に前進しているのです。 「種を蒔く人」は、豊かな実を収穫しようとして種を蒔いているはずです。 収穫の時が必ずくると希望をもって、喜びのうちに待ち続けているはずです。 「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」(ヨハネ4:36)とイエスが語っているとおりです。 私たちの中に種が蒔かれ、それを受け入れるなら、必ず実を結ぶ時がくると希望をもっているでしょうか。 説明のつかない、この世の常識や五感を越える神の現実に触れて、その喜びを味わっておられるでしょうか。 福音のみ言葉が語られ、受け取られ、聞かれるところに神の国は訪れます。 どのようなところにおいてでもです。 すでに種は蒔かれているのです。 目に見える現実の中に隠された神の働きによって結ばれた豊かな実に、私たちは注意深く目を留めているでしょうか。 勝手に神の国が訪れるのではありません。 神の働きによって、種が持ち運ばれ、蒔かれ、それを受け入れて応えるところに訪れるのです。 主は、鎌をもって刈り入れ人として立っておいでになるのです。
「いま、ここに生かされる」 マタイによる福音書2章13~15節
マタイによる福音書2章には、ユダヤ領主ヘロデ王、東方の国からやってきた占星術の学者たち、ヨセフとマリアが登場します。 ヘロデ王が、占星術の学者たちから嫌な知らせを聞くのです。 彼は貪欲な権力者で、自身の地位を守るためであるなら家族である妻や息子さえも殺してしまう残忍な人物です。 「ユダヤに新しい王がお生まれになった。」と聞かされ、その子を探していち早く始末しようと企んでも不思議ではないでしょう。 ヘロデは学者たちに、「行って、生まれると言われているその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。 わたしも拝もう。」と言い、本心を隠し人を操り企てを果たそうとするのです。 神のお告げによって、命じられていた学者たちがヘロデのもとに帰らず、別の道を通って自分たちの国に帰っていったことをヘロデは知って大いに怒ります。 「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」と言うのです。 クリスマスの喜びの出来事の背後に、このような悲劇が起こされていたとマタイは語るのです。 この学者たちをここまで導いてきた「星」は、最後まできちんと「飼い葉桶の中に置かれた乳飲み子」の所にまで導いています。 なのに、なぜ学者たちはヘロデ王のいる宮殿に寄り道をしたのでしょうか。 話さなくてもよいことをヘロデに伝えてしまったのでしょうか。 その落とし穴によって、罪のない幼子たちが巻き添えをくらって殺されてしまった。 マリアとヨセフもまた故郷を離れなくてはならなくなったのです。 私たちの中にも、ヘロデ王の思いがあるでしょう。 学者たちのような配慮に欠けた振る舞いをすることもあるでしょう。 疑うことも、信じることもあり揺れ動くのです。 これらのことのためにも、イエス・キリストはこの「暗闇」を照らす「光」としてもうすでに乳飲み子の時から始まっているとマタイに教えられるのです。 その一方で、ヨセフの沈黙の姿をマタイは語ります。 ヨセフは、婚約中のマリアを、社会からの侮辱に晒さないよう自らの知恵によって救い出そうとします。 共に生きていく家族という存在の中に、まったくコントロールの効かない存在としてイエスを黙って迎え入れます。 学者たちが去って行った後も、黙って神の呼びかけに耳を傾けようとします。 「起きなさい。 故郷を捨てて、エジプトに逃げなさい。 幼子イエスとマリアを引き連れて行きなさい。 神が告げられるまで、そのエジプトに留まっていなさい。」と命じられるのです。 イエスを迎え入れたばかりに、マリアとヨセフの二人の生活は激変し、根底から覆される。 これがイエス・キリストとの出会いであったと言うのです。 ヨセフはその時々に懸命に考え、悩み、嘆き、苦しみ、それでも神の呼びかけに従った。 このヨセフの沈黙の姿こそ、「神の救いのご計画に用いられた」のではないでしょうか。 私たちの歴史は、神のご計画に従って進みます。 イエスがヘロデの手から守られたのは、イエスの果たすべき「務め」、十字架の救いの出来事を果たし終えるためです。 ヨセフがイエス・キリストに出会ったのは、自分の「いま、ここ」にあるあるがままの姿を見つめさせられるためであったしょう。 私たちは、「いま、ここ」にしか生きることはできないのです。 過ぎ去った過去とは、全く不連続であるように思える。 これからの未来もまた、ぼんやりと見えているつもりだけなのです。 神の業が、はるかに私たちの目や耳や思いを越えているからです。 「いま、ここ」という点の連続ではないかとさえ思わされます。 かえがえのない「いま、ここ」、その意味と目的は、神ご自身が後で説明してくださるのです。 この新しい一年もまたヨセフのごとく、「いま、ここ」を神の呼びかけに、思い煩いの中にも黙ってご一緒に従って歩んで参りましょう。
[fblikesend]「苦難を通って衣を白くされた者」 ヨハネの黙示録7章9~17節
著者ヨハネが見た幻とは、「天で行われている礼拝」の光景でした。 玉座に座っておられる方がいた。 その周りに、24人の長老たちと四つの生き物が取り囲んでいた。 玉座に座っておられる方の右の手には、天地の創造から天地の完成までの神の救いのご計画が書き記された巻物があり、七つの封印で封じられていたと言います。 その巻物を受け取った者がいた。 ヨハネはその者を、「ダビデのひこばえ、屠られた小羊、全地に遣わされる神の七つの霊をもっている者」と表現します。 24人の長老たちと四つの生き物は、その小羊にひれ伏して礼拝をした。 そこに新しい祈りと賛美が沸き起こった。 その際、大地の四隅に四人の天使が立って、見張っていた。 「神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、四人の天使たちに守られ、裁きの日は留められた。」と言うのです。 救いの完成が果たされる時、すべての地から呼び集められ救われる人々、つまり「新しいイスラエル」の大群衆を指し示すのです。 当時の「刻印」とはその所有者を示すもので、「神の刻印」を押される人々とは、玉座に座っておられる神ご自身が「わたしのものである。」とはっきりと宣言された人たち、神に導かれ、その御心に委ねて、それぞれの生涯を歩むことを赦された人たちのことです。 曲がりなりにも、イエスの歩まれた神が備えられた道に従って行こうとした人たちです。 この地上にいる限り、この「神の刻印」を目で見ることはできません。 だれも大差ないように見えるのですが、終わりの日には、はっきりとその刻印が現れ出てくるのです。 「天で行われている礼拝」に、「だれにも数え切れないほどの大群衆」が登場します。 「なつめやしの枝を持ち、白い衣を身に着けていた」と言います。 「なつめやし」とは聖書においては勝利のシンボルで、「白い衣」とは洗い清められた衣のことです。 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と書かれているように、信仰のゆえに苦難を通ってきた人たちなのです。 神がその人にしか赦しておられない苦難、神ご自身が出口を用意し前もって備えてくださった苦難なのです。 ですから、この地上での信仰ゆえの苦難は避けるべきものでも、遠ざけるべきものでもありません。 むしろ、その人にしか味わうことのできない体験として、イエス・キリストと深く繋がれていく大事なプロセスなのです。 贖いのしるしとして屠られたイエス・キリストによって赦された者として勝利のシンボルをもって玉座の周りに集められるのです。 彼らは、歩んだ生涯で何か功績があったわけではない。 様々な信仰ゆえの苦難を通って、悔いて、砕かれ、ただイエス・キリストの十字架に与るだけ、神の憐れみにすがってきただけの人たちでしょう。 それが救いの完成の日には、神の国に招かれている。 迎え入れられている。 「神の刻印」を押されている。 小羊なるイエス・キリストの血によって洗い清められ、贖われて白い衣を着ることが赦されている。 その神の憐れみを受け取った大群衆が、玉座に座る神とイエス・キリストの前にひれ伏して、賛美し、祈り、礼拝をささげている光景を、希望のしるしとしてヨハネは受け取ったのです。 大群衆は神に仕え、神は彼らとともにいる。 飢えることも渇くこともなく、涙は拭われると言うのです。 クリスマスに教えられたことは、イエス・キリストの出現を「待つ」ことです。 そこに天の呼びかけが突然「くる」のです。 私たちの「待つ」ことと天からの呼びかけが「くる」ことが結びつけられるところに、「天における礼拝」と「地上における礼拝」が結びつけられるのです。 遣わされてきたイエス・キリストとの出会いを喜び、しっかりと心の内に宿して参りましょう。 私たちは、「神の刻印」が押されていることを決して忘れてはなりません。
[fblikesend]「黙示録が語るクリスマス」 ヨハネの黙示録5章1~14節
黙示録の著者は、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。 わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」と言います。 パトモス島とは政治犯が流されていた流刑の地で、ヨハネはパトモス島に幽閉されていたのです。 ローマ帝国の激しい迫害のもと、ヨハネ自身が流刑の身の痛みを抱えながら、同じ痛みの中にあった諸教会にある信徒たちに書き送られた文書です。 その冒頭に、「イエス・キリストの黙示」、「この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」と言います。 ヨハネが語っていることは、隠された真実がイエス・キリストによって明らかにされたものである。 ヨハネが、幻をもって見させていただいたものを、同じように迫害を受け、呻き、涙を流しているところに届くようにと語るのです。 私たちと同じからだを背負い、私たち以上に深く苦しんで、永遠の滅びに至るその極限から復活という新しい命を神の恵みによって授けられたイエス・キリストが私たちと共におられる。 「今おられ、かつておられ、やがて来られるお方」から「恵みと平和があなたがたにあるように」と流刑の地より祈るのです。 ヨハネが見た幻とは、「天で行われている礼拝」でした。 私たちの目や耳や心で見るものではなく、この地上の現実の中に働いている霊なる働きを恵みによって見るということでしょう。 そこには、玉座に座っておられる方がいる。 その玉座の周りに、二十四人の長老、四つの生き物がいた。 この地上の歴史を支配しておられる方の周りを、様々な代表者たちや一切の生き物が取り囲んでいた。 その玉座に座っておられる方の右の手には巻物があった。 天地の創造から天地の完成に至るまでの神の奥義である巻物です。 それは、七つの封印で封じられていたと言います。 「この封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか。」と大声で告げられたのに、この巻物を開くことのできる者がだれもいない。 神のご計画が手の届くところに置かれているのに、だれも手をつけなかったのでヨハネは激しく泣いたと言います。 そこに、「泣くな。 見よ。 ダビデのひこばえが、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」という声がかけられた。 「四つの生き物と二十四人の長老は、この小羊の前にひれ伏した。」と言うのです。 旧約聖書が語る「ダビデの子孫から生まれ出る若枝、切り株から萌え出る若い芽」であるメシア、新約聖書が語る「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストが現れ、七つの封印を解いて、神の奥義を説き明かす者として、天における礼拝にて大いなる賛美と礼拝に包まれ、新しい賛美が起こされたと言うのです。 この黙示録が預言している当時の戦争、内乱、難民、食糧飢饉、疫病などは、今日の私たちの現実に近いものを感じます。 新しい賛美とは、神の新しい恵みの業に対する私たちの応答です。 天の礼拝での大合唱では、「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」と歌われています。 「おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。 この香は聖なる者たちの祈りである。」と言います。 私たちのささげた「祈り」が、神の前でひとりの香りとして臭いを放っていると言うのです。 私たちのささげる賛美も祈りも、天において賛美されている歌、祈られている祈りに合わせられて、私たちひとりひとりが通らされているこの地上の生涯の中で、神の前にささげられているのです。
[fblikesend]「帰って行った人たち」 ルカによる福音書2章8~20節
「羊飼いたち」とは、どのような存在の人たちなのでしょうか。 町の囲いの外で、野宿しながら「夜通し羊の群れの番をしていた」小さな群れの人たちです。 町の囲いの中で営まれていた生活とはかけ離れた存在であったのでしょう。 町の人々の数の中に入っていない存在であったのかもしれません。 そのような存在である「羊飼いの群れ」に神の呼びかけが迫り、余りの突然のことに彼らは非常に恐れたと言います。 「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 この神の言葉は、彼らにとって理解不能、恐れと戸惑いと不安と思い煩いを生み出すお告げであったに違いない。 しかし、彼らに対する神のみ言葉は簡単明瞭です。 「あなたがたは恐れてはならない。 この出来事はあなたがたのためのものである。 惹いては、あなたがただけでなく民全体に与えられる大きな喜びとなる。 だから、この呼びかけに聴きなさい。 喜びのしるしを見つけなさい。 受け取りなさい。 いつ起こるのか分からないようなことではない。 今日のことである。 ダビデという町のことである。 あなたがたが今まで先祖たちによって語られ、漠然と耳にしてきた救い主が生まれたのだ。 この方こそメシアである。 布にくるまれて飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がそれである。 これがあなたがたへのしるしである。」 ルカはこのような出来事が起こされたのは、「ローマ皇帝からローマ帝国全土の領民に、住民登録するようにと勅令が出ている」、その真っ只中で起こったと言うのです。 当時は、「救い主」という言葉は、ローマ皇帝につけられた称号でした。 自分たちの安全や平和は、ローマ皇帝によって与えられるものと意識づけられていたのです。 そのような中で、抑圧されている人々にとっての「本当の救い主、今まで待ち望まれていたメシアが生まれた」と羊飼いたちは告げられたのでした。 力の支配ではなく、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」という、私たちの目には弱々しい姿をとって訪れた。 これがあなたがたにとっての本当の希望、喜び、励ましと慰めを与えるしるしになると、神は羊飼いたちに宣言されたのです。 そこに、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という神への賛美がこの地上で起こされた。 争いと憎しみに溢れたこの地上においても、天においてなされていた神への賛美の礼拝がこの地上で神のみ心に適う人たちに与えられたと宣言されたのです。 この神の救いの業が、2000年の時を越えて、私たちの「今日」、私たちの町に、私たちの日常生活にも起こると神は約束してくださったのです。 彼らはそんなことがあるわけがないと疑ったことでしょう。 しかし、彼らはそのような時がくることを希望を失わず待ち続けていたのでしょう。 「さあ、しるしがそこにあると神が言われたベツレヘムへ行ってみようではないか。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と立ち上がったのです。 神が準備してくださっているのですから、彼らは捜し当てるのです。 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて告げられた通りであったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 この幼子について話されたことを人々に知らせた。」と言います。 帰って行ったところはもとの所で、何も変わらないところであったでしょう。 しかし、変えられて新しくされた羊飼いたちは、神に新しく賛美をもって遣わされて行ったのではないでしょうか。
[fblikesend]「マリアとヨセフに訪れた神の恵み」 ルカによる福音書1章26~38節 マタイによる福音書1章18~25節
世界で最初のクリスマスは、ナザレという片田舎のごくありふれたマリアとヨセフに突然訪れています。 マリアは、ヨセフのいいなずけであったと言います。 そのマリアに主の天使が、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。 マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げられた。 ヨセフにも、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。 その子をイエスと名付けなさい。」と告げられたのです。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 当時のユダヤ社会では、離縁を申し渡されても仕方のない出来事であったのです。 ヨセフは、マリアの尊厳を守り自ら身を引く道を選び取ろうとします。 ヨセフは自分自身の心の中に一切を留め、沈黙を守ろうとします。 私たちも、「いったい何が神の恵みだと言うのですか。」と神に問いただしたくなる出来事を目の前にする時があります。 その時にこそ、自分自身の神に対する「信仰」が吟味させられるのです。 今まで確かなものと思い込んでいた神ご自身に対する信仰がもろくも崩れ去る時に直面するのです。 主なる神の呼びかけは突然で、私たちの準備などお構いなしです。 私たちに神は直接呼びかけ、その呼びかけに自ら立ち上がって応えてほしいからです。 「神ご自身がご用意してくださった出来事を受け入れ、従いなさい。」と決断を迫るのです。 神の恵みこそ、受け取って、従ってみて、このからだをもって味わい触れてみなければ分からないものです。 神のみ心と共に歩んでみて、神に与えられた命に刻み込まれて味わってみて初めて、「神のみ言葉の通りであった。 神の一方的な最善の時に適った恵みであった。」と気づかされるのです。 「神にできないことは何一つない。」と告げられ、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」と応えた乙女マリアの応答は、果たして何もしない消極的な受け身のものであったのでしょうか。 もはや諦めであったのでしょうか。 これから始まるまったく理解できない長い人生の道のりに不安と思い煩いを憶えながら、それでも神がご用意してくださったものを選び取って、神の計り知れないみ心をこの身に刻んでいこうとする凄まじい決断の姿ではないでしょうか。 幼子イエス・キリストとの出会いは、この世のものではない神の恵みを受け取っていこうとする決断の時です。 マリアと同様に、これから迎えるであろうあらゆる苦難と忍耐を覚悟し、その生涯を沈黙と思い煩いを覚悟して歩んでいこうとしたヨセフも同じです。 ヨセフは間違いなく、神のみ言葉に傾聴し受け取ったのです。 神の前で静かなる決断をしたのです。 私たちは神の前に立とうとせず、人の前に立とうとします。 何も語ってくださらない神の前に耐えかねて、人からの救いを求めようとするのです。 私たちは、この神の前での沈黙、苦闘と思い煩いがなければ神の恵みに満たされないのです。 孤独な沈黙の中に置かれたヨセフとマリアに、神の恵みが訪れたのでした。 その恵みの意味について、後から神ご自身が示して、説明し、悟らせてくださったのです。 私たちもまた、「今日、この時」に、遣わされてきたイエス・キリストに出会い、心の内に受け入れ、これから共におられるという約束に生かされて、神の前に立ってご一緒に参りたいと願います。
[fblikesend]「四つの福音書が語るクリスマス」 ヨハネによる福音書20章30~31節
マタイでは、イエス・キリストの誕生の喜びのメッセージの前に、なぜか羅列された無味乾燥に思える系図がその冒頭に記されています。 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。 この短いみ言葉は単なる血筋や家柄を示したものではなく、旧約聖書の時代に連綿と伝えられてきた主なる神の約束、契約の成就者こそイエス・キリストであるという宣言です。 その名を見るだけで、波乱万丈に満ちた生々しい人たちのこの地上での格闘の営みが積み上げられた、まさに光と陰の織りなす人間の歴史です。 その人間の歴史の中に、私たちと同じからだを背負って降ってきてくださったお方がイエス・キリストである。 人となられた神の御子である。 「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)お方であるという宣言です。 マルコでは、イエス・キリストの誕生物語は全く記されていません。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。 この短いみ言葉こそ、預言されてきた救い主がついに訪れたという喜びの知らせなのです。 むしろ、イエス・キリストの生涯の中心は、人として私たちの初穂として受けられた受難と十字架の出来事です。 「福音の初め」とある「初め」という言葉は、最初というよりは根源、原点という意味です。 神のもとから切り離されて、私たち人間を救い出すために人となってくださったイエス・キリストこそが福音の源である、喜びの訪れであると宣言しているのです。 ルカでは、人間の歴史的出来事としてクリスマスは記されています。 世界の片隅で起こっただれも知らないような小さな出来事、地上での最初の場所が「飼い葉桶」であった。 家畜でさえもその飼い主を知り、飼い葉桶をも知っているにもかかわらず、ご自身の民はその主人を知らず、この世の権力者である皇帝アウグストゥスが課税するために行った住民登録の真っ只中に起こされた出来事であったと言うのです。 選ばれたイスラエルの民が、奇跡そのものである幼子の前でひざまずくことができなくなってしまっている。 目に見えるこの世の力に覆われてしまっている。 クリスマスはそのようなところに起こされた出来事であった。 「飼い葉桶のイエス・キリスト」を知り、そこにひざまずき主なる神の救いの業を見ることのできる人は幸いであると語っています。 ヨハネでは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)という一節をもって、クリスマスを私たちへの神の愛の語りかけとして語っています。 イエス・キリストは言葉となって私たちの心の内にまで宿ってくださったのです。 「言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4) この語りかけの「言葉」には「命」があったと言います。 「父の独り子としての栄光」は、「暗闇の中で輝いている。」(ヨハネ1:5)と言います。 ヨハネの集約の言葉が、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)と語っています。 ヨハネは、クリスマスの出来事を言葉と命と光によって語ります。 私たちはこの「すでに到来している神の恵み」を信じて受け取っていく。 それぞれに与えられた「信仰」と「生涯」と「命」によって、主なる神の愛とイエス・キリストの愛に触れて、来るべき神の国の完成とそこでの神の憩いのうちに宿ることを願いつつ、私たちの小さな生涯の愛の実をこの地上で結んでいただけるよう、ご一緒に最後まで歩ませていただきたいと願います。
[fblikesend]「完成される愛」 コリントの信徒への手紙一13章12~13節
イエスの誕生物語を眺めますと、世界の片隅の小さな町でひっそりと隠されて、ごく限られた人たちのもとに突然訪れています。 「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ、主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 最初のクリスマスは、民全体に与えられる大きな喜び、小さな存在である私たちのもとにやってくるもの、私たちの救いの業として訪れるもの、み言葉通り「今日、ここに」現実に見える形となって訪れるものであったと言うのです。 この神の不意の呼びかけが、社会的にも疎外されていた羊飼いたちを突き動かしたのです。 同じように、遠い国の占星術の学者たちをも立ち上げさせています。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、星という希望のしるしが力となってエルサレムにまではるばる旅立たせたのです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と言いますから、最初のクリスマスは、幼子イエス・キリストを礼拝するため、神の独り子を与えこの世を愛し滅びることのない新しい命を与えるためでした。 パウロがここで語る神によって賜った「信仰と希望と愛」こそ、イエス・キリストのうえに溢れ出て示されたクリスマスの出来事そのもの、人間としての体を背負わされ神の御子である特権を投げ捨てて、神のもとから切り離され、私たちに「信仰と希望と愛」を注ぎ愛し抜き、一人残らず救い出すために自らこの暗闇の世界に降ってきてくださったイエス・キリストに表された神の救いの働きそのものです。 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようになる。」と「鏡のたとえ」が示されています。 今は部分的に一時的に見ているが、神の国が完成されるその時には神がこの私を知っておられるように、私も神をはっきり知ることになる。 完全なものとして、消えてなくならないものとして見ることになる。 この地上の歩みの中では、キリストの体なる群れをつくり上げるために、部分的に一時的に与えられる賜物がある。 しかし朽ちず、汚れず、しぼまないいつまでも残る賜物がある。 それが、信仰と希望と愛である。 「信仰」とは、土地から養分を吸い上げる「根」、イエス・キリストに結びつき命を得るためのものかもしれない。 「希望」とは、イエス・キリストによって注がれた命によって伸びていく「枝」、来るべき時に神の輝きに与る望みであるかもしれない。 「愛」とは、それぞれの枝に結ばれたそれぞれの実、信仰や希望を通して与えられる賜物、最後まで残るものであるのかもしれない。 当時のコリントの教会は傍からみれば、活気ある教会、多彩で多様な賜物があるように見えたのです。 「信仰なしに、希望なしに、神の愛とキリストの愛をもつことができない。 イエス・キリストなしに、十字架なしに神の愛とキリストの愛を語ることができない。 信仰が、神の前で私たちを正しい者にする。 希望が、私たちを神の愛とキリストの愛の実を結ばせるのです。 信仰と希望は、神の愛とキリストの愛に変えられていつまでも残る。」と言われています。 終わりには、一切のものが神の愛とキリストの愛になる、完成して残るとパウロは言うのです。 この世における神の愛とキリストの愛の完成のしるしは十字架の出来事です。 この道を通ってしか神のもとにたどり着くことはできないのです。
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