秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「み言葉をもって語られる神」 創世記15章1~21節

2023-05-07

 わずか4章しかないルツ記には、小さな家庭の中に起こされる様々な出来事、子どもの誕生、飢饉、移住、夫の死別、子どもの結婚、子どもの死別、人の出会いなどが記されています。  それがどのようなものであれ、神のみ言葉によって果たされていく現実を受け取っていく。 人間の知恵に溺れることなく神に委ね、目の前に起こる現実の意味を知らされるまで待つ。 これからどうなるのだろうと、未だつかみ取ることのできない現実を背負いながら歩むことの大切さを知らされるのです。 聖書箇所の冒頭に「これらの後で」とあります。 アブラムが戦いに大勝利して、多くの戦利品を手にし人々の賞賛の嵐の中でということです。 そうした中なぜか不安を抱くアブラムに、「主の言葉が幻の中で臨んだ」とあります。 「恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と呼びかけます。 アブラムは恐れる必要はないし、恐れてはならない。 主ご自身がアブラムを守る。 戦いの勝利は、アブラムの勇気や決断の結果でも、知恵や力によるものでもない。 主ご自身こそが、アブラムに対する報いであると語りかけるのです。 私たちは、主なる神を求めるより主なる神によって与えられる報いや恵みの内容にこだわってしまう。 主なる神は、ご自身に目を向けよと言われる。 しかし、アブラムは、「わたしに何をくださると言うのですか。 わたしには子供がありません。 今のままでは、家の使用人である者に家を継がせることになるのです。」と、しるしを神に訴えるのです。 神への不満でもあり、神の約束に対する疑いでもあるアブラムの心の破れです。 主なる神は、「そうではなく、あなたから生まれる者が後を継ぐ。 天を仰ぎなさい。 星を数えてみなさい。 あなたの子孫はこの星のようになる。」と言われるのです。 目に見える現実にしか目を向けていないアブラムの目を、「外に、天に」向けさせ、神が語られた約束を信じる信仰へとアブラムを導き出すのです。 万物の造り主がだれであるのか、子どものいない老夫婦に子どもを与えることもできるお方であることを、アブラムを覆っている「疑い、迷い、諦め」のひとつひとつを取り除いていこうとされるのです。 「わたしはあなたをここまで導き出した主である。」と、この世界を創り出した主であると同時に、あなた個人の生涯にも働く存在であることを宣言されたのです。 そして、奇妙な準備をするようにとアブラムに告げます。 契約の当事者が裂かれた動物の間を通り、その契約に違反した場合には切り裂かれてもよいと承認する当時の契約の手続きです。 ところが、17節に記されているように、「二つに切り裂かれた動物の間を、神ご自身だけが『煙を吐く炉と燃える松明』の姿を取って通り過ぎたのです。 契約の一方の当事者である主ご自身だけが、裂かれた動物の間を通り、自ら約束された契約の責任を一切負うと一方的に宣言されたのです。 主なる神は、その恵みを一方的に自らをかけて約束し、誓われるお方です。 私たちのいかなる契約違反をも問わず、赦して、自ら背負ってくださるのです。 神の祝福を疑い、不満を表明し、抗議するまでする神のみ言葉を離れたアブラム自身の姿を見つめ直す「試みの時」です。 私たちは勝手な自分のものさしに惑わされ、目に見える安心を求め不安を増幅させます。 神の備え、神の恵みの約束の言葉が常に、私たち人間の歩みに先立つのです。 神が先んじて歩まれ、準備して、私たちと共に歩んでくださるのです。 言い換えれば、神のみ言葉によって現実を、神ご自身に対する信頼によって受け取っていく恵みがすでに備えられているのです。 この神のみ言葉に委ね、自分を遥かに超えた神の大きな望みの内に生きていくことです。

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「今も生きているキリストの生涯」 マルコによる福音書8章31~38節 

2023-04-30

 創世記4章には、最初の家族の誕生と言うべきアダムとエバの間に生まれた兄弟カインとアベルの間におきた出来事が記されています。 兄カインは家の土地を与る土を耕す農民となった。 弟アベルは家の周辺を任され羊を飼う者となった。 それぞれが忠実に働き、神に精いっぱいの献げ物をささげたと言います。 ところが、なぜか「主は弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物に目を留められなかった。 兄カインは激しく怒って顔を伏せた。」と言います。 「主なる神が目を留める」とはその人を祝福されるということです。「顔を伏せる」とは主なる神の前から立ち去る、隠れるということです。 神にもはや見放された。 その腹いせが神に向かわず、弟アベルに向かう。 神は、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。」と、家族と神と共に生きるために顔を上げるよう呼びかける。 主なる神は決してカインを見捨てておられないが、カインの目にはそうは映らない。 カインの心の中に湧いてくる闇の力がその目と心を曇らせて、自分のものさしだけで自分の不幸を嘆き、ついに弟アベルを襲って殺すという取り返しのつかない過ちを起こしてしまうのです。 そのカインに主なる神は、「何ということをしたのか。 お前はさすらう者となる。」と宣告するとともに、そのカインを守る「しるし」を付けられたと言うのです。 神はカインが犯した過ちを赦しておられるのではなく、過ちを犯したカインを赦し「しるし」を与えてご自身のもとへ招いておられるのです。 カインは「さすらう者」として、神に守られながら試みの中に置かれるのです。 そこから新たに造り変えられるために、神より「しるし」が与えられたと言うのです。 今の私たちに与えられている「イエス・キリストの十字架の死と復活」の出来事こそ、創世記の言う「しるし」なのではないかと思わされるのです。 イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねた時です。 ペトロは「あなたは、メシアです」と答えたと言います。 イエスは御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒め、十字架の苦しみと死、復活の出来事が自分の身に必ず起こるべきことになっていると語られたのはどうしてでしょうか。 ペトロの言うメシアとは、再びダビデの時代のように栄える王国を造るお方、「解放者としてのメシア」です。 神から遣わされたメシアをローマによって処刑させてはならないと、イエスをわきへお連れしていさめ始めたと言います。 人間の最善の振る舞いとしてイエスを人間に従わせようとしたペトロを、決して突き放すのではなく、イエスを諫めて自分に従わせようとしたペトロをご自身の後に従うようにと厳しい言葉をもって命じられたのです。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とすべての弟子たちを招かれたのです。 「自分を捨てる」とは、イエスと共にあるという自分を受け入れなさい、イエスに委ねなさいということです。 「自分の十字架を背負う」とは、イエスでしか負うことのできない罪の赦しの十字架以外に、救いの約束の道はない。 それは、神が与えてくださらなければ手に入れることのできない新しい命です。 それを自分のためにではなく、神のために用いられなさい。 そうすれば、新しい命に生きることになると約束されたのです。 「わたしに従いなさい」とは、岐路に立たされた一瞬のことではない。 この世の真っ只中でイエスに従うことを最後まで貫き通しなさいということです。 聖霊が降って以降、「あなたは、メシアです」というペトロの信仰告白が整えられていったように、私たちもまたそれぞれにふさわしく成熟し、整えられていくのです。

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「キリストを新しく着る」 マタイによる福音書12章43~45節 

2023-04-23

 今朝の「汚れた霊が戻ってくる」という聖書箇所が、どうして宣教題「キリストを新しく着る」に結びつくのかと不思議に思われた方も多いのではないでしょうか。 イエスが語られたこの短いみ言葉は、「しるしを見せてください」と迫った「律法学者とファリサイ派の人々」に向けて語られたみ言葉です。 彼らは、自分たちこそ神の救いにあずかるに最もふさわしい者であると自負していた人々です。 神の子である「しるし」など示せるはずがないと、イエスを訴える口実を得ようと迫った人々です。 イエスは、彼らの求める「しるし」を拒んだのではなく、彼らの心の中にあるものを拒まれたのです。 その思いが、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる。 預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」というみ言葉になったのです。 「預言者ヨナのしるし」とは、神の命令に背いたヨナが悔い改めて、そのことを告白して海に放り出されたけれども、三日三晩巨大な魚の腹の中にいて災難を免れた。 再び神の招きが臨んだヨナが、もう一度神の命じられたところに遣わされて、人々に神の警告を語るのです。 人々は単なる聴衆としてではなく、そのヨナを通して語られた神のみ言葉を受け入れて神のもとに立ち帰ったのでした。 「しるし」という目に見えるものを求めるのではなく、神のみ言葉を受け入れ神ご自身に触れる情熱に至る信仰を、イエスは「律法学者とファリサイ派の人々」に求められたのです。 イエス・キリストご自身である肉となった神のみ言葉の他に、この世で「しるし」を求めてはならないとイエスは訴えておられるのです。 「汚れた霊」は一度は出て行くけれども、また戻ってくると言います。 戻ってみると居心地が良いので、前いた時よりも悪いほかの霊をいっぱい引き連れて住み着くと言うのです。 様々な人生経験を経るたびに自分自身が積み上げてきたものに誇りをもってしまったのかもしれない。 様々な病気や貧しさや苦難によって「汚れた霊」がその弱さにつけ込んできたのかもしれません。 それらの弱さこそ、「神の業が現れ出るためである」とイエスは断言します。 そのために神の武具、「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履物、信仰の盾、救いの兜・・・・」を身につけなさいと聖書は言います。 それらはすべて防御用の武具ばかりです。 それほどまでに「汚れた霊」との戦いは困難なものです。 聖書が身につけなさいと語る唯一の攻撃用の武器とは、「霊の剣、神のみ言葉」だけです。 私たちの悔い改めが一時点だけのものとなってはならない。 新しく従って行こうとするその決断が瞬間のものになってはならないのです。 そのための主イエスの十字架の死と復活が、「最後のしるし」として呼びかけられたのです。 パウロはこのことを自身の体験から、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。 心の底から新たにされなさい。」と言うのです。 問題は、その次が大切である。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」(エフェソ4:24)とパウロは言うのです。 「キリストを着る」とまでパウロは表現しています。 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つです。」と言います。 真理として見える姿となってくださったイエス・キリスト、神のみ言葉そのものとして呼びかけてくださったイエス・キリストを身につけるまでに内に宿す、従ってみるということです。

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「キリストのからだなる教会の成熟」 エフェソの信徒への手紙4章1~16節

2023-04-16

 「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」とパウロは言います。 この三つの言い方は、いったいどういうことでしょうか。 最初の「すべてのものの上にあるお方」とは、すべてのものの父である唯一の神です。 創造主なる神、絶対的存在である。 すべてを越えておられる神、「私たちすべての神」ということになるのでしょう。 私たち人間は偶然としか思えないものに取り囲まれています。 しかし、そこには神の必然がある。 神のみ心が果たされている。 神のご計画に私たちが用いられているとパウロは言うのです。 その次に書かれている「すべてのものを通して働いておられるお方」とは、「降りて来られた神」です。 私たちの側近くまでおられて、生活の隅々にまで人間となってくださった神、キリストであるとパウロは言うのです。 地上に降って来て、天に昇って行かれて、ご自身の賜物を地上の私たちに分け与えられたと言うのです。 そして、最後に書かれている「すべてのものの内におられるお方」とは、私たちの内に宿られる神です。 すべての人びとの心の内にあって働いておられる復活されたキリスト、神の霊です。 パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と告白しています。 私たち一人一人の心の内に働く、私たちの日常生活の中にまで働く「私たち一人一人の神」なのです。 
 「わたしたち一人一人に恵みと賜物が与えられるために」、また、「わたしたち一人一人がすべてのものに満たされるために」、「すべてのものの上にあるお方」が「すべてのものを通して働くお方」として、「すべてのものの内におられるお方」としてキリストをこの世に遣わしてくださったのです。 この地上にある私たちの群れ、教会の頭として、このお方が与えられたのです。 「すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:22-23) 「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)とまで語ります。 ですからパウロは、「体は一つ、霊は一つ、希望は一つ、主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と言うのです。 このキリストに結び合わされることによって整えられていく。 それぞれ職務、賜物を与えられて、奉仕の業に適した者とされ整えられていく。 一つのものとなっていく。 この地上において、キリストの体が建て上げられ、キリストご自身が、キリストの霊があらゆるものの中に満ちていく。 これが「すべてのものの上にあるお方」、父なる神のこの世における最終目的なのではないでしょうか。 働いておられるのは、教会という体の頭としてのキリストご自身です。 このキリストに堅く結ばれることによって、私たちは整えられていく。 「キリストに対する信仰と知識において一つのものとなっていく。 成熟した人間となっていく。 キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する。」と言うのです。 パウロは最後に、「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 キリストの愛によって造り上げられてゆくのです。」と言います。 イエスが愛した愛とは、私たち人間が持ち合わせていない神によって注がれた神の愛です。 ただ憐れみだけによって、キリストに結び合わされて、分に応じて働いて体全体を成長させて、キリストによって注がれる愛によって、教会という体全体は造り上げられてゆくとパウロは宣言します。

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「復活の主、キリストの愛」 ローマの信徒への手紙 8章31~39節

2023-04-09

 マルコによる福音書は、復活したイエスの姿自体を一切描いていません。 それどころか、イエスが復活したという事実そのものがだれにも告げられないままに、唐突に終わっているのです。 週の初めの日朝早く、3人の婦人たちが死者の装いを整えるために、悲しみを憶えながらイエスの遺体を求めて墓に出かけてきたと言います。 ところが、婦人たちは思い描いていた光景とはまるで違う驚きの出来事を目の当たりにします。 自分たちの力では動かしがたいと心配していた墓の石がわきへ転がしてあった。 墓の中にいた人物が、「驚くことはない。 あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。 さあ行って、弟子たちとペトロにこのことを告げなさい。 あの方は予て『復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く』と言われていたとおり、そこでお目にかかれる。 あなたがたは、イエスの遺体をお納めしていた墓の中をよく御覧なさい。」と言うのです。 余りの突然の出来事により、婦人たちは「震え上がり、正気を失った。 余りの恐ろしさに、墓を出て逃げ去った。」と言います。 それほど、イエスの復活は弟子たちにとって衝撃的な出来事であったのです。 この事実を突きつけられた婦人たちは、イエスのもとを離れてしまっていた弟子たちと全く同じように、逃げ去るように復活の主イエスのもとを離れ去ったのでした。 この十字架に架けられ死んだイエスが「復活」という新しい道を歩み始めた出来事こそ、「私たちと全く同じ死ぬべきからだを背負わされて、この世の誘惑も受けるしこの世を恐れることも悲しむことも知らされて、神との交わりを制限されたイエスご自身の、人間としてこの世を歩み通した愛の業である。」と語るパウロは、自らの体験の中でこの「復活」の新しい生き方を味わったのでした。 そのパウロが、「だれが、わたしたちに敵対できますか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょう。 だれが、わたしたちを罪に定めることができましょう。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と訴えます。 「神が選んだのであるなら、神が味方であるなら、人を正しく裁くことができるのは神なのであるから」とその理由を述べています。 その理由の中に、「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。」という言葉を付け加えるのです。 私たちすべての過ちを背負って、神の裁きを替わって受けて贖ってくださった。 復活という生き方、新しい道を切り開いて、自らその道を歩んでくださった。 そこに留まることなく、「復活されたイエスが父なる神のもとで、すべての権威と力を与えられて、私たちすべてのために聖霊を注ぎ出し、励まし、慰め、執り成し続けてくださっている」とパウロは言うのです。 逃げ去った弟子たちも、一言も復活の事実を告げ知らせなかった婦人たちも、確信をもってイエスに敵対していた昔のパウロ自身のためにも、「復活」はすべての人のために一貫して働いてくださるイエス・キリストのご愛と痛みの業であると言うのです。 イエスは神の子であるから、このような道を歩むことができたのではありません。 過ちだらけのこの世においても、イエスは祈りを通して神との交わりが途絶えなかった、み言葉に聴き神のみ心に忠実であったから、神のご愛が注がれてイエスの身に現れ出たのです。 このキリストに現れ出た神の愛は、キリストに結ばれて生きる者には必ず現れ出るのです。

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「先を見ておられる十字架の主」 マルコによる福音書14章66~72節

2023-04-02

 イエスが逮捕され、裁判手続きに入る場面を見ますと、イエスは十字架に処刑されるに際して、ローマ総督ピラトの法廷とユダヤの最高法院の裁判手続きを受けています。 最終的には、ローマの法律によって死刑判決を受け、ローマへの反乱を企てた者として処刑されます。 その前に、ユダヤの律法によって死に値する異端者として裁かれるのです。 ユダヤの最高法院の裁判の前に、大祭司による予審手続きがあったようです。 権力者が皆、大祭司の館に集まり、イエスに対する不利な証言を持ち寄って裁こうとします。 一致した証言がなかなか得られず、立証には不十分であったのでしょう。 ユダヤを代表する大祭司とイエスふたりが、祭司長、律法学者、長老たちが取り囲む中で対峙します。 大祭司は、「何も答えないのか。 この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と、弁解の機会を与えようとします。 これにイエスは沈黙を続けます。 イエスは、イザヤ書が「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。」という預言により、父なる神のみ心、定めとすでにご自身の死を受け入れているのです。 これにしびれを切らした大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」と問い質します。 「ほむべき方の子」とは神の子、「メシア」とは神から油注がれた者、イスラエルを解放する者ということです。 「神の子」と答えれば、神と同等の者とする神を冒涜する者となる。 「メシア」と答えれば、ローマへ反乱を企てる者となるのです。 この大祭司の問いに、沈黙を破って答えたイエスの唯一の言葉が、「そうです。 わたしはある。 わたしはあるという者だ。」と答えたのでした。 イスラエルの民に、神の啓示としてずっと神ご自身が答え続けてこられた言葉です。 「わたしのいるところに父なる神は現れる。 そこに神は共におられることになる。」とイエスは答えられて、更に「全能の神の右に座ることになる。」と答えたものですから、これが決定的な神を汚す言葉となり、取り囲む権力者たち全員がその証人となったのでした。 ついに、アブラハムの信仰により選ばれたイスラエルの民、モーセを通して律法を神より直接授かったイスラエルの民が、その神の子であるイエスの命を狙い、策略し、裁判にかけ、死に至らせた十字架の出来事が果たされたのでした。 人が神を裁く、神が人によって死刑判決を受ける。 この取り返しのつかない過ちを起こしてしまった出来事に、今日の私たちにもこの場面に身を置くようにとマルコの福音書は強く求めているのではないでしょうか。 この隠されていた奥義のイエスの告白は、大祭司の館の中で告げられたのです。 ペトロは、その館の中庭に、「イエスの後を追って、恐れながら従っていた。」のです。 そこにいた人々に気づかれて、「あなたも、あのイエスと一緒にいた。 あの人たちの仲間です。」とペトロは問われて、イエスが予告した通り不意をつかれ「そんな人は知らない」と三度まで否定しまったのでした。 逃げ去ってしまった弟子たちには起こり得なかった出来事です。 大祭司の中庭にまで入って来なければ、吐き出すことのなかった否定の言葉です。 イエスはすべてを承知のうえで、すぐ近くの中庭にいるペトロにも、また逃げ去ってしまった弟子たちにも向けて、大祭司に堂々と「わたしのいる所に父なる神は現れる。 そこに神は共におられる。」と口を開いたのではないでしょうか。 ペトロは、「イエスが言われた言葉を思い出し泣き続けた。」と言います。 生涯背負ったであろうペトロの砕かれた悔い改めの姿がここにあります。 ぼろぼろになったペトロに、その姿を先んじて知っておられたイエスが、館の中と外の違いはあれ同じ場所で、「わたしの羊を飼いなさい」と少し先をご覧になって用いようとされて、沈黙を破って語られたのではないでしょうか。

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「つまずきの主とともに新しく歩む道」 マルコによる福音書14章27~31節

2023-03-26

 最後のエルサレムでの「過越の祭りの食事」と「苦悩するイエスのゲッセマネの祈り」に挟まれた箇所です。 イエスは自ら「過越の祭りの食事」の準備をし、場所までも手配し、食卓の主として振る舞われたのです。 過越祭に屠られる小羊として、パンとぶどう酒をこの後すぐ十字架に架けられ裂かれるご自身の体と流された血に譬えられたのです。 人間が神の子を裁いて、十字架に処刑するという愚かな人間の取り返しのつかない過ちが行われる。 イエスに敵対する者も、イエスを深く敬愛し従ってきた者も、程度の差こそあれ等しくイエスを人間の死に至らせることになる人間の浅はかな姿が浮き彫りになるのでした。 過越の食事が、イエスによる「最後の晩餐」となったその席でのことです。 衝撃的な言葉が、イエスの口から語られるのです。 「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 それだけではない。 「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」とまで言われるのです。 イエスはすべてをご存じのうえで、十二弟子のユダの裏切りもペトロの三度の否定も、他の弟子たちが逃げ去っていくことも予告されるのです。 ゼカリア書(13:7)に「イスラエルの牧者が撃たれ、羊は散らされることになる。 しかし、イスラエルは主の名を呼び求めるようになる。」と書いてあるように、この羊飼いの死こそご自身の死であり、父なる神のご計画に定められたものであるとイエスは言われたのでした。 この「つまずく」という言葉は、イエスの十字架による「死」の意味を理解することも、受け入れることもできない弟子たちの有様、失望と恐れからイエスと共に歩もうとする心を失い、見捨てて離れてしまうという弟子たちの有様を示します。 その言葉の直後にイエスは、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われたのです。 これからつまずき倒れ、離れたままになるであろう弟子たちをイエスは放置されず、十字架により裂かれたからだと流された血によって、再びガリラヤに集めると宣言されたのです。 イエスにつまずき、散り散りバラバラになって逃げ出した弟子たちは、復活されたイエスによって再び集められ、立ち上がらされ新しい群れとなると、もうこの時にイエスは約束されているのです。 このイエスの言葉に、ペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と猛然と反論します。 この反論にイエスは、「あなたは今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と応じます。 「鶏が二度鳴く前に」とは、ほんのわずかな間にということでしょう。 「三度」とは、繰り返し徹底的にということでしょう。 ここまで言い張ったペトロは、その口が渇かぬ間に、「そんな人は知らない」とイエスが言われたとおり三度も否定したのです。 人間の土台が音を立てて崩れていく様を示しています。 イエスはそうなることを十分知ったうえで、「先にガリラヤへ行く」と言われたのです。 この言葉には、「赦し」の意味合いも、生まれ変わらせる神の復活の力も、新しい羊の群れが起こされるという宣言も含まれています。 ペトロに限らずすべての弟子たちに対して語られた言葉です。 ユダでさえも、最後の晩餐の機会を与えてくださっているではありませんか。 ペトロを筆頭に弟子たちは、神の隠された救いのご計画を理解することができなかった。 自分たちが従ってきたイエスが神から捨てられたと思わされたことが、「つまずき」でした。 私たちは、自分だけを頼りにする土台が崩されなければ、「イエスに対するつまずき」を経なければ分からないのです。 自らの貧しさ、はかなさ、弱さの自覚を経て初めて、神の救いの業を味わうことができるのです。 この弟子たちが築き直されて、再びガリラヤに集められて、イエスの十字架の福音を語り始めたのです。

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「過ぎ行くものの中で見出すイエスのみ言葉」 マルコによる福音書13章28~37節

2023-03-19

 イエスは、「いちじくの木から教えを学びなさい。」と言われます。 冬からいきなり訪れる夏の収穫の時期が近づくと裸の枝に葉を茂らせるようになる「いちじくの木」、その枝ぶりを見て夏の近づいたことが分かる。 同じように、終わりの日と思えるような恐ろしい出来事を見たら、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われるのです。 「人の子」とは、黙示思想の言葉の表現で、終わりの日に現れるメシア、神が最終的に遣わす審判者のことです。 再び現れるイエスご自身を指すのです。 ヨハネの黙示録には、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。 だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするだろう。」(3:20)と記されています。 「終わりの日」とも思えるような恐ろしい出来事を見たら、再び来られる「イエスの時」が近づいたことを悟りなさい。 「終わりの日」には、新しい世界が始まる誕生の時である。 待ち望んで信じる人は、今は信仰の目で主イエスを見ているが、「その日、その時」には必ず顔と顔を突き合わせて見ることになると言われるのです。 イエスは、この「終わりの日」を、いちじくの木の葉が生い茂り新しい命がみなぎる「収穫の日」、私たちの救いが完成される時、神の裁きが救いの日に変えられる「喜びの日」に譬えておられるのです。 イエスご自身がこれから引き受ける受難の後、別れの最後の教えとして、「その日、その時」の「喜びの日」に備えるようにと、これから苦難に直面するだろう愛する弟子たちを励ましておられるのです。 「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」 言い換えれば、これらのことがみな起こるなら、この時代は、この天地はいずれ過ぎ去っていく。 「しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去らない、滅びない。」と言われるのです。 「イエスが示されたすべての言葉」、「イエスの十字架と復活の福音」は、過ぎ去ることなく生き続ける、成し遂げられると励ましてくださっているのです。 「その日、その時はだれも知らない。 天使たちも、子も知らない。 父だけがご存じである。」と言い、だから、「気をつけていなさい。 眼を覚ましていなさい。」と三度も繰り返し、イエスの最後の教え「終わりの日の預言」を締めくくられたのです。 しかし、ゲッセマネで苦悩の真っ只中でイエスが祈られていた時、弟子たちはわずかひと時も目を覚ましていることができなかった。 しかし、このような時にさえ、レプトン銅貨二枚をささげた貧しいやもめの姿をイエスは目にします。 また、「なぜ、こんな無駄遣いするのか」と咎められても、純粋で高価なナルドの香油をイエスの頭に惜しげもなく注いだ女性に出会います。 イエスは最後まで耐え忍んで、父なる神の民を愛することに一切をささげておられました。 受難を前にしたこの時に見出した二人の女性の姿に、過ぎ去るものの中に神の御言葉、神の約束の確かさを見出し、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と語られたのです。 これらすべての苦難は体験することになる。 ご自身の十字架と復活と聖霊の働きによって、神の国の姿をこの世においても見ることになる。 それによって成し遂げられる神の救いの業によって、信じる者には「終わりの日」の命がすでに与えられることになる。 その救いの出来事の完成の時「終わりの日」の始まりに、あなたたちは生かされているとイエスは断言します。 すでに新しい命に生きる者も、地上の命に生きる限り朽ちるべき体による苦しみがあるだろう。 しかし、あなたがたは「終わりの日」を待ち望みながら生きていきなさいと言われるのです。 死に定められた体が、朽ちることのない霊の体に変えられることをうめきながら、希望をもって待ち続けることができるようになると励ましておられるのです。 

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「宣べ伝えられねばならない福音」 マルコによる福音書13章1~13節

2023-03-12

 ひとりの弟子の発言が、思いがけない主イエスの教えを引き出しました。 イエスが「エルサレム神殿の境内を出て行かれるとき」、その神殿を眺めていたひとりの弟子が、「なんとすばらしい石、建物でしょう。」と叫んだのです。 ヘロデ王が46年もかけて修築した大理石に輝く華麗な神殿で、ガリラヤ出身の弟子たちが圧倒されるのはごく自然なことでしょう。 その弟子の言葉にイエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。 この神殿は跡形もなく崩壊する。」と衝撃的な言葉を発するのです。 この時もうすでにイエスは、神殿が両替人や鳩を売る人たちの商売の場と成り下がって、すでに崩壊していると見て取られたのです。 このことに留まらずイエスは次々と、「祭司長、律法学者、長老たち」と、この世の権威について、皇帝への税金について、復活やメシアについて様々な論争を繰り返し鋭い批判を繰り返されたのです。 ただならぬイエスの形相に、言葉にならない緊張をもったペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が、イエスが「エルサレム神殿の方を向いて座っておられるとき、ひそかに尋ねた」と言います。 「エルサレム神殿が崩壊してしまう」というこの世の終わりとでも思える恐ろしい出来事は、「いったいいつ起こるのですか。 どのような徴があるのですか。」 この問いにイエスは答えることなく、5節「人に惑わされないように気をつけなさい」、9節「自分のことに気をつけていなさい。」、37節「目を覚ましていなさい。」と語られたのでした。 イエスは、弟子たちが「終末の徴」と思っているものをひとつひとつ示します。 「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わすだろう。」 自称メシア、偽メシアといった人たちのことで、ローマ支配から独立しなければならないと武力に訴えるのです。 戦争の騒ぎや戦争のうわさ、民は民に、国は国に敵対して立ち上がること、「そういうことは起こるに決まっている」と言うのです。 「方々に地震が起こり、飢饉が起こる。」 これらの社会的な災害に加えて更に、弟子たちがこれから受けなければならない個人的な苦難をも語るのです。 「地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。」 ユダヤ教の迫害に対する苦難です。 「イエスご自身のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」 ローマの権力に対する苦難です。 「わたしの名のために、すべての人に拒まれる。」と言うのです。 更に、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。」 イエスはこう列挙したうえで、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。 最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 これらは産みの苦しみの始まりである。」と言われるのです。 それらのことは終わりの日そのものではない。 終わりの始まりである、新しい命の誕生であると言われるのです。 そのために、主ご自身がこの世に遣わされてきた。 受難を引き受けようとエルサレムにまで足を運んできた。 それらの出来事がどのようなものであれ、「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」 ご自身の中に秘められた奥義、これから担われる十字架の受難と復活の事実、神の揺るぎない約束が世界を覆わなければならない。 だから、忌まわしい現実に立ち向かうことができる。 この世の一切の出来事は、神の支配のもとにあるからこそ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という約束を信じることができる。 造られた者は造り主の前に立ち、主ご自身に結ばれた生き方に整えられ、主イエスとともに天の王座に着く時がくる。 だから、「気をつけなさい。 眼を覚ましていなさい。」と言われるのです。 終末に結び付けて、今与えられているその時、その場所を軽んじ、見えるものだけを見つめ、神を見つめようとしないことを戒めておられるのではないでしょうか。 このみ言葉こそ、今、語られねばならないみ言葉です。

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「強く、雄々しくあれ」 ヨシュア記1章1~9節

2023-03-05

 40年にも渡ってイスラエルの民を荒野で導いてきたモーセというリーダーが死んで、新しくヨシュアというリーダーへ交代した経緯が記されています。 この出来事を支えたのは、神ご自身の直接の召し、神ご自身の直接の約束のみ言葉でした。 「いつも共にいる」という神の愛の業、引き継ぐ者の祈り、受け継ぐ者の信仰があったと指し示しています。 
 主なる神は、新しいリーダーであるヨシュアに、「わたしの僕モーセは死んだ。」 だから、「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と第一の命令を下されるのです。 約束の地カナンは、モーセやヨシュアの能力や才覚や指導力で勝ち取っていくものではない。 イスラエルの民の一致団結によって勝ち取っていくものでもない。 主なる神が「モーセに告げたとおり」、「モーセと共にいたように」、ヨシュアを用いてご自身のご計画、約束を果たしてくださる。 主ご自身が準備し、導いてくださると新しいリーダーとなるヨシュアに宣言するのです。 この宣言によって、ヨシュアに大きな変化がもたらされます。 今までは、モーセが告げる言葉に聴き従っていればよかった。 しかし、これからは受けるだけから、受け取ったものをイスラエルの民と分かち合う使命が与えられたのです。 「あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」と、使命を直接賜ったのです。 第一の命令は、約束の地にイスラエルの民を率いて入りなさいというものでした。 この新しい展開が、モーセの「死」とともに始まった。 この命令のために、主なる神は、「あなたたちの足の裏が踏む所をすべて、あなたたちに与える。」と、もうすでに叶えられたかのようにヨシュアに約束されたのです。 主が準備し、導いてくださっている大きなご計画の中、この世の生と死を越えて、私たち一人一人が用いられて約束の賜物を受け取っていくということです。 第二の命令は、「強く、雄々しくあれ。」と三度まで繰り返されています。 イスラエルの共同体を指揮する人の新たな任命を願うモーセの切実な祈りに応えて主なる神は、「ヨシュアを選んで共同体全体の前に立たせて、見ている前で職に任じなさい。」と段取りまで指示されるのです。 この「強く、雄々しくあれ。 恐れてはならない。 うろたえてはならない。」という命令は、神ご自身の直接の約束に基づいたものである。 そのお方が共にいると宣言し、その使命を直接授けられたものである。 そのお方と共に歩み続けたモーセの祈りにも支えられたものである。 だから、主なる神に信頼し、委ねて、いくら恐ろしくとも、脅えているにしても、疑うことがあったとしても心配することはない。 これが、主なる神にあって、「強く、雄々しく」させていただきなさいという神の憐れみなのでしょう。 第三の命令です。 律法に留まらず、ヨシュア以降の主なる神の呼びかけすべてにおいて、「わたしのみ言葉を、あなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」と言います。 これから約束の地に入るに至っても、そこに住んで暮らすに至っても、私たちの口において、耳において、目において、心において、主なる神のみ言葉を離れ置いてはならない。 思い巡らしなさい。 そのような姿にさせていただきなさい。 「そうすれば、あなたはその行く先々で、神の祝福に与ることができる。」 これが、第三の命令のために語られた神の約束です。 神の与える祝福とは、私たちが喜ぶような一時的なものではなく、神が大切にし喜ばれる、神ご自身のご性質にかかわるものなのです。 本来、私たちが与ることのできなくなったもの、失っていたものを、神の憐れみにより、恵みにより味わせていただくものなのです。

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