「クリスマスまでとクリスマスから」 ルカによる福音書2章22~35節
イエス・キリストの誕生が、「紀元前」と「紀元後」に西暦を分けています。 古い神の契約である旧約聖書の時代と、新しい神の契約である新約聖書の時代に二分しています。 この古い時代と新しい時代を結ぶ結び目に、イエス・キリストの誕生の事実の証人として登場する年老いた預言者シメオンの生涯に目に留めたい。 イエスの両親は「モーセの律法に定められたとおり」、幼子イエスを献げるためにエルサレム神殿に連れて行きます。 「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。」と、「正しい人。 待ち望んでいた人。 聖霊がとどまっていた人。」として紹介されています。 律法を落ち度なく守って生活した人、終わりの日に到来すると言われていたメシアを信仰によって待ち望んでいた人、生きている間に救い主メシアに出会うと聖霊によって約束されていた人ということでしょう。 「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」とは、「生きている間に主が遣わすメシアに会うことになっている」ということでしょう。 思い巡らし悩みながらも、神の呼びかけに従って歩み始めたイエスの両親と、死ぬまでには必ず主が遣わされるメシアに会うと聖霊によって約束された年老いた預言者との出会いです。 シメオンはマリアが抱いている幼子を一目見るや否や、「その子を腕に抱き、神をたたえた。」と言います。 生きている間に救い主に出会うことのできた喜び、 神が聖霊を通して約束してくださったことを、御言葉どおり成し遂げてくださった神への信頼の賛美しているのでしょうか、私のような所にまで届けてくださった神の憐れみによる救いの現実に対する感謝しているのでしょうか。 シメオンは思わず、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言うのです。 長い間の祈りが、今、ここに聞き入れられた。 神が語られていた約束が、今、ここから始まった。 長い間託されていた預言者の務めを果たし終えた平安に満たされ、慰められたのではないでしょうか。 自分の腕の中の幼子に触れて、実感して、約束を確かに果たしてくださったと、安堵と神の安息に満たされて神に賛美して、遠大な神の力と変わることのない神の御心の確かさの恵みを感じ取って「この目であなたの救いを見た。」と証言しているのです。 イスラエルの枠に留まらず「万民のために整えてくださった救い」を「呼びかけるしるし」であると宣言するのです。 シメオンが語ったこのことにイエスの両親は驚きますが、シメオンはお構いなく「この子は、イスラエルの多くの人々を倒したり、立ち上がらせたりするために定められている。 反対を受けるしるしとして定められている。」と、人を倒すものにもなるし、立ち上がらせるものにもなる「躓きのしるし」となる、イエスの十字架の預言として「反対のしるし」ともなると語るのです。 いかなる苦しみ、悲しみも、このイエスと共に生涯を送ること、神にも仕え、人にも仕え、神によって選ばれ用いられた者であるなら神の恵みであると、イエスの両親にも希望をもって見届けるようにと遺言のようにマリアに語るのです。 「クリスマスまで」は、神ご自身が計画され、準備され、成し遂げられた「神の恵み」が先行する。 私たちはただ感謝して受け入れるだけでした。 「クリスマスから」後は、与えられたイエス・キリストにどのように応えて従っていくのか。 「先行する神の恵み」を十分味わった私たちが、今度は「信仰による応答」を果たしていくのです。 クリスマスの今日こそ、その第一歩なのではないでしょうか。 シメオンは若いイエスの両親に、最後の渾身の宣教と祈りを、感謝と喜びに満たされて「クリスマスから」後のシメオンとして賛美の歌を語り伝えたのです。
[fblikesend]「言をもって語りかける神」 ヨハネによる福音書1章9~18節
ヨハネによる福音書は、クリスマスの意味を端的に、「言(イエス・キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 言(イエス・キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と言います。 この信仰告白は、ユダヤ教会から追放される、ローマ帝国の庇護からも除外される厳しい迫害に見舞われていたヨハネの共同体の群れの間で歌われていた賛歌であると言われています。 キリストの福音が告げ知らされた新約聖書の時代に入って間もないキリスト者たちの信仰の告白を、このような表現でもって重なり合わせていたのでしょう。 ヘブライ人の手紙が語るように、「旧約聖書の時代の人々は信仰によって、神の選び、神の呼びかけ、神の招きに応えて、そのみ言葉に従って動き出した。 この地上での不安定な生活を迫られても、また本当にみ言葉どおりになるのかどうかも皆目分からない状態であっても、信仰によって耐えることができた。 考えもつかない様々な力を与えられて数え切れないほどの恵みが与えられ、神によって守られた存在であった。」と言うのです。 いったい彼らの目指した約束の地とは、地上のカナンという名の土地のことでしょうか。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた。」と言いますから、そうは思えないのです。 彼らの待ち望んでいた「約束の地」とは、神が設計し建設された堅固な土台をもつ都、彼らに備えられていた「神の都」のことでしょう。 この長い間の旧約聖書の時代に育まれてきた備えがあって、新約聖書の時代を迎えているのです。 「神はこの終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:3)と言っています。 このヨハネによる福音書は、イエス・キリストを「言」と表現し、「イエス・キリストは、初めから神と共にあった。 万物はイエス・キリストによって成った。 イエス・キリストの内にある命が、人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いているが、暗闇は光を理解しなかった。」と言います。 ここで、イエス・キリストは父なる神と同じ神のご性質をもつ者である。 同時に、私たちの歴史の事実として人間のご性質をも担ってくださったと宣言しているのです。 神が人となって私たちのところに遣わされたことが、クリスマスの本質です。 暗闇の中においても、光として神が共におられるという喜びが語られているのに、暗闇がその光を理解しなかったというヨハネの共同体の群れの悲痛な叫びです。 父なる神によって注がれた「光」を受け入れるのか拒むのかによって、二分されると言う。 このイエス・キリストという「光」を受け入れた者は神の子となる資格が与えられる、このことが神の創造の目的であり、イエス・キリストを遣わした目的であると語るのです。 最後に、ヨハネの共同体の群れは、「わたしたちは皆、イエス・キリストの満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 この恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストが父なる神を示されたのである。」と信仰告白しています。 最初のクリスマスから、12使徒から、ヨハネの共同体の群れから、キリストの福音は告げ知らされてきました。 神に選ばれ、招かれた者の人格を通して福音は宣教されていくのです。 私たちが見る、聞く、触れる、味わうことのできる存在、「言」が肉となって、「光」となってくださったことが神の恵みです。
[fblikesend]「神の言葉に身を委ねる」 ルカによる福音書1章26~38節
「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神に遣わされた。」とありま
す。 この天使が祭司ザカリアのもとに現れてから「六か月目」と言いますが、年老いたザカ
リアと妻エリサベトとの間には子どもがいなかったと言う。 そのザカリアに告げられた神のみ
言葉が、「恐れることはない。 ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。 あなたの妻エリ
サベトは男の子を産む。 その子をヨハネと名付けなさい。 既に母の胎にいるときから聖霊
に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」と告げ
られたのです。 ザカリアは不安に襲われて、「何によって、わたしはそれを知ることができる
のでしょうか。」と、その言葉が目に見える事実となる保証を神に求めたのです。 天使は、「わ
たしは、神の前に立つ者。 あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされ
たのである。 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。
時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げられたのです。 最後の
預言者、イエスの最初の証言者であるバプテスマのヨハネの誕生の次第です。 その「六か月目」
に、エリサベトの親類であったマリアにも同じように告げられるのです。 「おめでとう、恵ま
れた方。」 神の恵みによって選ばれて、神の救いのみ業の大きな務めを果たすことになる恵み
を喜びなさいということです。 当然ながらマリアは、「戸惑い、いったいこの挨拶は何のこと
かと考え込んだ」と言います。 「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただ
いた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大
な人になり、いと高き方の子と言われる。」とザカリアと同じように告げられるのです。 マリ
アは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と、夫がなく子を産むという不可解さ
に戸惑うのです。 この問いに天使は、神の権威をもって語ります。 「聖霊があなたに降り、
いと高き方の力があなたを包む。」 人による誕生ではない、聖霊による誕生である。 神の御
心のままに、神の方法で、神の時をもって働かれる神の御業である。 私たちが測り知ることの
できない神の御業である。 「マリアよ、あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男
の子を身ごもっているではないか。 神にできないことは何一つない。」と言われたのでした。
ザカリアもマリアも神の言葉だけで信じることはできなかった。 ところが、天使はザカリアに、
「あなたはこの事の起こる日まで話すことができなくなる。 時が来れば実現するわたしの言葉
を信じなかったからである。」と告げられた。 ザカリアだけが天使の言葉を信じなかった罰で
あるとは到底思えない。 妻エリサベトが男の子を産んだその後、命じられたように名前をつけ
た時、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたと言うのです。 過去だけ
に囚われているところからこれから起ころうとするところへ押し出された時、ザカリアやマリア
のように不安にかられ思い巡らすでしょう。 しかし、神は不思議な業を起こし、それを私たち
が味わうことによって信じる者へと変えようとされる。 神は出来事を起こし、沈黙の時を与え、
「神にできないことは何一つない」ことを味わせてくださるのです。 私たちは、「信じるから
救われるのではなく、救われたから信じる」その過程にあるのかもしれません。 マリアは思い
巡らし、不安の中からひとりで産む覚悟に生きる決断をし、「お言葉どおり、この身に成ります
ように」という祈りになったのです。 ザカリアは自らの子が生まれるまでの間でしたが、マリ
アはイエスの十字架と復活までの一生涯を通して証言をしたのです。
「最初のクリスマスを迎えるヨセフ」 マタイによる福音書1章18~25節
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と言います。 当時のユダヤでは、「婚約」とは法律上の夫婦となることで、その婚約を解消する場合には正式な離婚手続きが必要でした。 「婚約」していたマリアがすでに妊娠していた事実を、ヨセフは唐突に突き付けられたのです。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 ヨセフの「苦しみや困惑」を容易に推し量ることができます。 しかし、不思議にも、ヨセフの「怒りや悲しみ」はあまり伝わってきません。 マリアは「姦淫の罪」により法廷で裁かれ「石打ちの刑」に晒される。 ヨセフは受け入れ難い事実に直面させられ、「苦しみと困惑」に苛まれていたのですが、マリアに対する「疑いや嫉妬」ではなく、愛するマリアに対する思いやりが全面に出ています。 マリアを晒し者にしたくない。 むしろ耐えているのはマリア自身ではないか。 だから、二人の証人の前で離縁状を出し、しかるべき手続きをひそかに行うことが自分にできる最大の思いやりではないかと思い悩んだ。 律法や社会常識に照らした「正しさ」、マリアに対する「人間愛」との二律背反の中で出した「正しい人ヨセフ」の決断が、「ひそかに縁を切ろう」というものであったのでしょう。 ヨセフが困惑と苦しみの中で自分の「正しさ」を絞り出していた時です。 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。 その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである。」と神に呼びかけられます。 「ヨセフよ」ではなく「ダビデの子ヨセフよ」という呼びかけに、イエス・キリストに至るまでの系図の重みを感じたのでしょう。 「恐れるな」という最初の言葉に、「恐れている」自分自身が砕かれ、新しい神の国の世界が開かれる呼びかけに聞えたのでしょう。 頑なな「正しさ」が砕かれ、神の祝福の約束の言葉への神の招きに聞えてきたのでしょう。 今までの困惑と苦しみからヨセフが解放された瞬間です。 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」とは、神ご自身の直接の介入によって起こされた出来事で、マリアやヨセフの側の問題ではない。 「神は救いである」という名前も付けられ、すでに預言者によって語られたことが実現するためであったと知らされたのです。 新しい救いの歴史が始まる、自分たちも含め神のもとを離れてしまったすべての人びとを取り戻すためのしるしが、自分たち二人に託されたのだと聞き届けたのです。 「ヨセフは眠りから覚めると」、妻マリアを迎え入れ、その胎の子をイエスと名付け、夢で命じられたことを決して拒まなかった。 しかし、ヨセフは操り人形のように動いたのではなく、自ら決断して立ち上がったのです。 眠りから覚めたのです。 世間的には、イエスはヨセフの子と思われていたと記されているように、後ろ指をさされるような、またイエスの誕生の時だけに用いられた短い生涯であったかもしれません。 ヨセフなくして最初のクリスマスはなかったのです。 困惑し苦しむヨセフの姿こそ、今の私たちの姿なのではないでしょうか。 困惑と苦しみの中で、神の呼びかけ、神の約束に託して生きていく、思い巡らしながら小さな決断をもって神に応えていく。 困惑と苦しみが祝福に変えられる時が必ずくる、神が共にいてくださるというインマヌエルの福音を味わう時がくる。 この「神の招き」を軽んじることなく、神が用意してくださったものを自らの決断をもって選び取って身に引き受けていく。 私たちの信仰の土台であるイエス・キリストを受け容れていくクリスマスの喜びを身に宿しましょう。
[fblikesend]「期待して豊かに蒔く」 コリントの信徒への手紙二9章6~15節
パウロは、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」と言います。 大自然での常識、ごくごく当たり前のことを語っているように聞こえます。 しかし、この「たとえ」が教会相互の助け合いの中で、「支援のための献金」の働きの中で語られていることに気づかされます。 「惜しまず、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに」と言いますから、この「たとえ」は「豊かにささげる人は豊かに祝福される。 わずかしかささげない人は祝福が小さい。」ということでしょうか。 また、献金は神さまから与えられた恵みのお返しだ、多く蒔けば多くの祝福が返ってくると、パウロは熱弁をふるっているのでしょうか。 パウロのエルサレム教会に対して献金を集めるという働きに、「自分の利益のため、自分の名誉のためではないか」という批判を受けながらもパウロは邁進するのです。 ユダヤ人と異邦人の間に、根深い人種的な偏見、文化と生活習慣の違いからくる深い溝、大きな対立を産んでいたのでした。 このパウロの働きの根底には、「教会は一つの体である」という信仰があります。 人からどのように批判されようとも、「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 わたしたちはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントⅠ12:13, 26,27)という確信があるのです。 献金を通して、教会間の一致、つながりを語り、その結果得られる神の栄光、神の輝きをこの地上においても目の当たりにすることができる。 対立によって引き裂かれたキリストの体が、それぞれの教会の働きにおいて再び一つとなる。 その時には、神の栄光の姿が対立と争いに終始したそのところに現れ出る。 そのために、「神は種を蒔く人に祈りによって種を与えてくださる。 それを養い育て、豊かに実らせてくださる。 収穫させ糧として与えてくださる。 満ち足りて、惜しまず施すようになる。 その施しが神に対する感謝と喜びになる。 神への賛美、礼拝となる。 神の栄光が余すところなく、すべての者に表されるようになる。」 「この働きが不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通して、福音の恵みが豊かになる。 神をほめたたえることになる。 神のこの上なくすばらしい恵みを見て、互いに慕い、祈り合うことになる。」と言うのです。 パウロには、「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることができます。」という確信があります。 そのための「種蒔き」であり、「刈り入れ」です。 「豊かに」とは、この神の祝福に満たされてということです。 イザヤ書55章にも、「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、私のもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。 埋めることのできなかった溝があり、対立と不信の中にあったユダヤ人教会と異邦人教会相互の深い交わりが起こされる。 神への感謝と賛美が起こされる。 そこに神の栄光が輝くことになる。 そのことを、「言葉では言い尽くせない贈り物について感謝します。」とパウロは言い、神の応答に期待して豊かに蒔くのです。
[fblikesend]『神の深みさえ究める霊』 コリントの信徒への手紙一2章6~13節
「信仰に成熟した人たちの間では、神の知恵を語ります。」 「信仰に成熟した人たち」ではない人たちにとっては、「神の知恵」は「隠されていた、神秘としか言いようのないもの」として受け取られる。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」知恵であると言うのです。 「この世の滅びゆく支配者たちは、だれ一人、この知恵を理解しませんでした。」と言いますから、祈るような思いで、いずれ消え去っていく知恵ではなく「神の知恵」を知る者となってほしいとパウロは語るのです。 「この世の知恵」については、ユダヤ人として最高の地位につくことが自他ともに認めるほどの存在であったパウロには、その鋭さ、強さ、逞しさ、深さを知り尽くしてもいたのです。 ましてや「律法」の素養については横にならぶ者はいなかったのです。 コリントの町においても、哲学、法学、文学なども盛んであったと言う。 パウロは、「この世の知恵」を十二分に踏まえたうえで、「人の知恵」を比べ合い、争い、自分の立場や正しさを誇示し、相手を支配し従わせようとする「信仰の幼子たち」がいずれ神の知恵を知る者となるようにと、コリントの教会の人たちに宛てて語るのです。 「神の知恵」と「この世の知恵」とは、いったい何が異なるのでしょうか。 「神の知恵」は神が明らかに示してくださる知恵である。 神が明らかに示してくださらない限り、私たちは受け取ることのできない知恵である。 自ら隠すことも、明らかにされることも神の御心に委ねられる。 「この世の滅びゆく支配者たち」は、その傲慢さと不遜のゆえにこの「神の知恵」を必要とせず、神ご自身が唯一見える姿をもって示された「イエス・キリストという人間の十字架の死とその後の復活」の事実を受け取ることができなかったのです。 「もし、神の知恵であることを理解していたら、イエス・キリストを十字架につけることはしなかった。」とパウロは言うのです。 「神の知恵」は隠されつつ、顕わにされる。 受け取る側の状態による。 「信仰に成熟した者」には、神の深みとして届く。 そうではない者には、謎と愚かさに留まる。 神は私たちの備えが整わない限り、沈黙の中に留まり、私たちの信仰が起こされるまで準備して待つのです。 絶え間ない神の呼びかけに、ある時には喜びとして、ある時には悲しみや苦しみとして受け止めながら、ついに「神の知恵」の一端を味わい知る時が訪れるのではないでしょうか。 「神の知恵」は、「神がわたしたちに栄光を与えるため、神のご計画のために神が定めておられたもの、受け取ることを神が命じておられるもの」とパウロは言います。 「神の知恵」に与るのは、神のご計画のため、神の約束が果たされるため、神のご計画に組み込まれて神の救いに与る希望に生き得る者として私たちが選ばれ整えられたからである。 愚かに見える十字架に架けられたこの世での恥を、神自らが注がれる栄光として私たちが受け取っていくことになると言います。 「神の知恵」をどのようにして受け取っていくのでしょうか。 パウロは、「神が霊によって明らかに示してくださいました。 この霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」と言います。 ペンテコステの出来事を考えてみてください。 何の準備もなく、神のもとから降ってきた聖霊を弟子たちは受け取ったのです。 すると、人の言葉を越えて、神の言葉を語り出した。 十字架に架けられたキリストの姿を、神によって備えられた「神の知恵」として従順に受け取った「栄光の姿」に見て取ることができるようになった。 神の働きである恵みを、神によって起こされた信仰と神の選びによって弟子たちは受け取ったのです。 「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(2:5)と言うのです。
[fblikesend]『働きとしての神』 創世記32章23~30節
母リベカの胎内で双子の赤ちゃんが互いに押し合っていた。 弟ヤコブは、「兄エサウのかかとをつかんで生まれた」と言います。 抜け目のない弟ヤコブは、父親からの祝福に執着します。 無頓着な兄エサウは疲れ切って腹をすかしていた時に、「お兄さんの長子の権利を譲ってください」という弟ヤコブの企みに、わずか一皿の煮物と引き換えに簡単に引き渡してしまうのです。 父イサクの目がかすんでいたことを利用して、エサウが受けるはずの神の祝福までも、周到に準備しヤコブは騙し取るのです。 このヤコブの企みを後で知ったエサウが怒り、ヤコブを憎むようになったのです。 この事を察知した母リベカに、「叔父ラバンのところに逃げ、兄エサウの怒りが収まるまで身を置きなさい。」と言われて、ヤコブは杖一本だけをもって故郷カナンを逃げ出した。 叔父ラバンのもとで20年間働き、小さな族長のような富と地位を得るまでになったヤコブは、叔父ラバンに「生まれ故郷へ帰らせてください」と訴えるのでした。 叔父ラバンには騙され続け、ラバンの息子たちには父ラバンの財産をかすめ取っていると誤解され、ついに意を決して逃げ出したその途中の出来事が今朝の聖書箇所です。 ヤコブには忘れることのできない過去の過ちがあり、兄エサウに出会うことが恐ろしくてなりません。 用意周到に兄エサウへの配慮を施しながら、一切の持ちものを差し出してヤコブは川を挟んでひとり残り祈り続けるのです。 「わたしは、あなたの慈しみとまことを受けるに足りない者です。 かつてわたしは、一本の杖を頼りにこの川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。 どうか、兄エサウの手から救ってください。 あなたはかつて、必ず幸いを与えると言われました。」 権利と祝福を得る為なら手段を選ばないかつてのヤコブの姿とは異なります。 今まで神からの祝福と思わされたものすべてを差し出して、主なる神に委ねようと待っている祈り。 ただ独り窮地に追い込まれて神の呼びかけを求めている祈り。 一方で、兄エサウに対する恐れからくる自分自身との戦いの祈りです。 「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」と言います。 ヤコブにとって予期しない相手の分からない出会い、ヤコブの祈りに答える神の働きです。 「ヤコブの腿の関節がはずれた。 腿を痛め、足を引きずっていた。」と言いますから、自ら打ち砕くことのできないヤコブの自我が神によって打ち砕かれた。 今まで大切なものと思っていたすべてを、神が近寄ってきて、格闘し、砕いてくださった。 この「痛みの伴う神の祝福」は、ヤコブが新しく生まれ変わるためです。 神の祝福の中味が根本的に変えられたように感じます。 神は、「お前の名はヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」と祝福するのです。 「かかとを握る者」という名から、十二部族の総称となる名が与えられたのです。 神から満たされる平安を求めて、神の御心を問い直すまでの激しい神との格闘の祈りです。 ヤコブはこの祈りの中で、約束を変えることのない神に出会い、砕かれ、かつての醜い姿を受け容れられ赦されたという平安と確信を得たのです。 自分の中にあった一切のものを差し出した、自分自身との戦いでもあった。 この後、「ヤコブは兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。 兄エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」と言います。 ゲッセマネでの主イエスの激しい祈りの原型、新しくされた人間の原型をヤコブの姿に、完成された人間の姿をイエスの姿に思わされるのです。 主なる神は「何者か」と思われるお姿を通して、あらゆるところであらゆるものを用いて、目に見えない働きをされているのです。 このお方に委ねてみませんか。
[fblikesend]『主に結ばれた者のしるし』 テサロニケの信徒への手紙一5章12~22節
パウロは第一に、生まれたばかりの教会の群れ(エクレシア)の「交わり」について語ります。 このエクレシアは、ペンテコステの出来事によって誕生した、神の救いの証言者、担い手として選ばれ集められた群れです。 どのような敵意、迫害、攻撃に晒されようと、希望を失うことがないようにと、聖霊の働きにより神ご自身が造り上げた群れです。 自ら目覚め、努力を重ねた人たちが集まって造り上げたものではなく、初めから霊的な力によって霊的な秩序をもったキリストの体として出発した群れです。 そこに、一人一人のキリストに結ばれた者が加えられ、育まれていく。 ですから、「霊の火を消してはいけません。 預言を軽んじてはいけません。 良いものと悪いものを識別しなさい。」と語るのです。 聖霊に満たされること、みことばを豊かに蓄えること、自らの罪深さを神の前に知り、聖なるものと聖ならぬものを識別できるようになることを願い求めなさい。 そのことで、ひとりではないキリストの体を全体として築き上げると言うのです。 第二に、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」と言います。 イエスは「復讐してはならない。」(マタイ5:38-42)と言われました。 寛容をもった無抵抗を語っているのでしょうか。 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」とも言われる。 復讐心や報復の連鎖の恐ろしさを越えて、決して黙って耐えるのではなく「左の頬をも向けなさい。 上着をも取らせなさい。」と激しい神のご愛と赦しのみ心を語るのです。 パウロもまた、「悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)と言います。 愛なる神は、義なる神でもあります。 独り子を引き裂いてまで愛し抜かれる神は、決して罪に妥協することのできないお方です。 このままでは滅んでしまう存在であるこの世の私たちが、一人も滅びないで永遠の命を得るために忍耐をもって働いてくださっているのです。 神によって造り上げられた教会の群れは、裁きに値する罪や咎や過ちがあったとしても、赦しと和解の場であるようにと聖霊によって導かれるのです。 このことを、パウロは「終わりの日」、再び主イエスが来られる救いの日を用いて語ります。 この地上の世界は、その時に備えて待ち望む時である。 たとえ肉体の死を迎えたとしても、それは「眠り」であって目覚める時がくる。 目覚めていても、眠っていても主イエスと共に生きるようになると言うのです。 第三に、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」としてパウロが語った「結びの言葉」として、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。」と記します。 一人一人のキリスト者の姿だけではない、キリストに結ばれた者どうしが織りなす「交わり」を通してキリストの体としての群れ全体の姿を表現するのです。 今まで自分への愛によって縛られていた私たちが、すべて神の赦しと救いに委ねることのできた喜びと感謝に満たされている。 パウロはこの喜びと感謝の間に、「絶えず祈りなさい」と結びつけます。 私たちは、イエスのみ名によって祈り、神との交わり、神によって用意された群れに、聖霊に導かれ加えられていく。 この「祈り」の積み重ねが、喜びと感謝を生み出していく。 神のみ言葉が蓄えられ、神の霊が注がれているところに、私たちの「祈り」が起こされ、喜びと感謝に満たされる。 神のご愛が注がれるところに、私たちの信仰による働きが起こされ、霊性が研ぎ澄まされていく。 私たちの思いがけない労苦が、私たちの忍耐を起こし、希望を生み出すのです。
[fblikesend]「逃れられない神の遍在」 詩篇139編7~12節
いったい「どこに行けば、どこに逃れれば、主なる神から離れることができよう。」と、「神の遍在」を賛美しています。 ただ「どこにでもおられる」というだけではなく、「どこででも、私たちをご覧になっている。」 私たちがどのような存在であるのか、何をしようとしているのか、何をしてきたのかを、「ことごとく、すべてにおいて、究めておられる」というのはむしろ耐え難いことです。 「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」という賛美には、この耐え難い驚きと同時に、それを越える喜びの響きを感じます。 私たちは、できれば隠しておきたい誰にも知られたくないことがあります。 神から逃れることができないという「恐れ」があるのに、「どこにおいても、いつでも捉えてくださっている。 御心のうちに導いてくださっている。」と思うことのできるまでになった「喜び」、御手の中に私自身をついに委ねることができた「喜び」が同時に存在しているのです。 このことは、創世記に克明に記されているアブラハムとサラの老夫婦の姿に見る思いがします。 「あなたの子孫は、星の数ほどになる」とまで言われた主なる神の約束にもかかわらず、二人には子どもが授かりませんでした。 妻サラは、「わたしの女奴隷ハガルによって子どもが与えられるかもしれません。」と夫アブラハムに迫ります。 妻の願いを聞き入れたアブラハムはハガルを側女として、イシュマエルが産まれるのです。 思うように捗らない現状に耐えかねた人間の浅はかな姿です。 その途端、ハガルはサラを軽んじるようになる。 ところが、主なる神は「さきに語られたとおり、サラを顧みられたので彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。 それは、神が約束されていた時期であった。」と記すのです。 神のご計画は、神の時に果たされます。 それまでの神の沈黙の時は、私たちが整えられる大切な時期です。 アブラハムは、サラとともに自分たちの思いだけで動いてしまったことを悔いたでしょう。 しかし、アブラハムは、主の言われたとおり「サラが産んだ子をイサクと名付けた。」 主によって備えられた約束の子であると信仰を改めて表し、主が約束を果たしてくださったことを賛美したと言う。 しかし、そのイシュマエルがイサクをからかうようになり、サラは益々態度を硬化させ、「イシュマエルは、わたしの子イサクと同じ後継ぎになるべきではない」と、ハガルとイシュマエルを家から追い出すようにアブラハムに迫るのでした。 それぞれの立場を考えれば、どうすることもできない八方ふさがりの状況ですが、神はそこで介入されるのです。 なんと、「すべてサラの言うことに聞き従いなさい。 あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」と、サラの一方的な言い分としか思えないようなことにしなさいと言われる。 このことは、人の思いだけでは納得することも説明することもできないことです。 しかし、神は「あの女の息子も一つの国民の父とする。 彼もあなたの子である。」とつけ加えるのです。 この神の呼びかけに、優柔不断の男にしか見えなかったアブラハムが素早く行動に出ます。 「次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。」と言う。 主なる神が追い出されたハガルとイシュマエルを支え、養いの執り成しを施すのです。 神の知恵と力にすべてを委ねて、周りの人々の批判を一切身に引き受け精いっぱいの責任をとって耐えるアブラハムの姿ではないでしょうか。 見える世界ではサラの思い通りのように見えますが、霊の世界においては神の御心であったのです。 神がすべて捉えてくださっていることを信じることができた喜びを、詩編は賛美しているのです。 私たちは、遍在しておられる神の前に立たされていることを先ず受け入れ、それに耐えることが、遍在の神の御心に触れる唯一の道なのではないでしょうか。
[fblikesend]「赦しを告げられて生きる」 サムエル記下12章1~14節
イスラエルの王として立てられたダビデ王が過ちを犯し、その過ちを指摘され悔い改める出来事が記されています。 アンモン人との戦いの最中、エルサレムの王宮の中で起きた出来事でした。 兵士ウリヤの妻バト・シェバを見染めると、夫ウリヤが戦場に赴いていることをいいことにしてバト・シェバを王宮に呼び入れ、こともあろうに子どもを宿してしまった。 問題はそこに止まらず、困惑したダビデがウリヤを戦場から呼び戻し、自宅に戻させ妻と一夜をともにさせようとした。 自分の犯してしまった過ちを隠ぺいするための小賢しい動きです。 王に対しても、軍律に対しても忠実なウリヤは自分一人だけ戦いの最中に家に戻るわけにはいかないと申し出を断る。 目論見が失敗したダビデは権力を濫用し、ウリヤを激戦の戦場に向かわせ、戦いの中で死なせるようにとダビデは命じたと言う。 思惑通りに事が運んだ後、夫が戦死しやもめとなったバト・シェバをダビデは何事もなかったかのように宮殿に迎え入れ、自分の妻とし宿した子を設けるのでした。 人として、一国の王として、過ちに過ちを重ねる姿、陰険な権力の行使者として悍ましい事実を聖書はわざわざ記すのです。 「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」 「なぜ主のみ言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」と主なる神から問われても仕方のない事実でした。 主なる神は見逃さず、「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」と言います。 「ナタン」は、主のみ言葉を伝えるダビデ王に仕える預言者です。 そのナタンを主はダビデのもとに遣わし、一つの物語を語らせるのです。 「豊かな男と貧しい男がいた。 豊かな男はたくさんの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかには何一つ持っていなかった。 ある日、豊かな男に一人の客が訪れた。 彼はその旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」という内容でした。 ダビデは、この物語が自分に向けられていることに気づかず、「そんなことをした男は死罪だ。 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。」と即座に語った直後、「そんなことをした男とは、あなただ。」とナタンはダビデに単刀直入に告げるのでした。 主なる神は、ダビデの家臣であるナタンを用いてわざわざ物語を語らせ、ダビデの心の奥底にあるものを呼び起こし、悔い改めに導いておられるのです。 私たちの悔い改めは、この神の憐れみに対する応答、神のもとに立ち帰る恵みを受け取るということです。 主が招いて呼びかけてくださらなければ、私たちの悔い改めは起こり得ないのです。 私たちはどうしても過ちを犯してしまう存在です。 その過ちの事実を過ちを犯した相手に対して告げる前に、先ず神に対する過ちとして赦していただかなければならないのです。 ナタンは、主なる神がダビデに注がれた恵みの数々を思い起こさせ、そのうえで当然の報いを宣告するのです。 「わたしは主に罪を犯しました」とだけ記されていますが、この時のダビデの苦闘の心境は詩編51編に延々と歌われています。 「バト・シェバが生むことになるあなたの子は死ぬことになる」と宣言されて、この罪の結果を背負いながら、その涙を越えるほどの罪の赦しの喜びをもって祈りのうちに変えられるのです。 罪赦された喜びが、自らの過ちを悔いて、嘆いて、現実から立ち上がらせる。 犯した過ちが帳消しになったのではない。 罪の結果は残っている。 その過ちが拭われてその結果に縛られることが取り除かれる。 罪の結果を背負って、神に赦されながら生かされる者とダビデは変えられたのです。 この死んだ子どもに替わって新しく授けられたソロモンの系図から、主なる神はイエス・キリストを起こすのです。 私たち人間が犯す過ちを背負うために、イエス・キリストはこの世に遣わされたのです。
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