秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから

2013-08-29

 聖書  マタイによる福音書5章21~26節 

*イエスは、「殺すな。 人を殺した者は裁きを受ける」と言います。 神によって救われた尊い命である
から、殺されてはならない。 神のかたちに似せてつくられた命であることを忘れてはならないと言いま
す。 イエスは、私たち罪人を兄弟、「わたしの兄弟である、これらの最も小さな人のひとり」と呼びま
す。 殺すどころか、腹をたてる、ばかという、愚か者と言うことは、その兄弟の中にある「神のかたち」
を傷つけ破壊することであると言っているのです。  

*私たちは、すべて神の裁きの前に立つ者である。 この裁きを私たちが受けるために、私が来たとイエスは言います。 イエスは、「神の国は近づいた」、救いが用意されたと言うのです。 だから、「祭壇」という礼拝の場に立って神の裁きと赦しを受ける前に、先ず出かけて行って何よりも早く兄弟と和解しなさい。 礼拝の場に立って神との和解を受ける者は、兄弟とも和解するはずであるとイエスは言うのです。

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから 

2013-08-22

聖書  マタイによる福音書5章17~20節 

*イエスは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来たと言います。 イエスは、律法を
きっぱりと肯定し、その完成者となるイエスご自身に移って行くと言います。 神のみこころが示されて
いる律法が本来の務めを果たすために、私は送られて来たとイエスは言うのです。 

*イエスは、律法は「神を愛することと、隣人を愛すること」、この二つの戒めに基づいていると言います。 一点一画の文字も、一つ一つがつながり、全体となってこの神のみこころに基づいていると言うのです。 

*問題は、だれが「神の義」としているか。 だれが、神が人間にお求めになっているふさわしい生き方であるかを決めているかということです。 ファリサイ派の人々は、自分の解釈で律法を守っていると自分を「神の義」としているのです。 しかし、「憐れんでください」と神のみこころを問う者が、神によって「神の義」を与えられるのです。 神の前に、自分の義が死ぬことが必要なのです。 

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから 

2013-08-15

聖書  マタイによる福音書5章13~16節 

*「あなたがたは地の塩である。」・・・イエスは「地」の塩であると言います。 あなたがたは「わたしがその命をささげたこの地」の塩であると言います。 救われたあなたがたは、すでに地の塩になっていると言います。 だから、その塩味を失ってはならない。 神から頂いた恵みという塩味を伝えなければならないと言います。 

*「あなたがたは世の光である。」・・・私たちは、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われたイエスのみことばに立ちます。 光あれと言われた父なる神のみことばから出発します。 光は初めからなくてならないものであったという事実に立ちます。 光は、神が与えてくださったものです。 この光が届かず見えなくなったのは、この世が神から離れたからです。 それを回復してくださったのが主イエスの光です。 真の「世の光」である主イエスが、信じて救われたあなたがたは世の光、光の子であると祝福してくださっているのです。

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから 

2013-08-08

聖書  マタイによる福音書5章1~12節 その3

*「憐れみ深い人々は幸いである。 その人たちは憐れみを受ける。」 人が人を憐れむことは難しい。 自
分が赦されたという体験がなければ難しいのではないでしょうか。 神の憐れみこそが、私たちを憐れみ深くする。 すでに神に憐れまれた者たちにイエスは語っています。

*「心の清い人々は幸いである。 その人たちは神を見る。」 内面的な心の状態だけを言っているのではありません。 自分の清さに囚われてはなりません。 神との関係において「二心のない」、「心が定まっている」ことを言うのです。 ですから、神に向って心の清い人々は神を見ると言っているのです。 まさに、信仰そのものが聖書の言う「清い心」です。 神の前に心が定まっている者が、神を見るのです。

*「平和を実現する人々は、幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」 十字架と復活によって与えられた神との和解を得た者が、「神の平和」をつくりだすと言います。 私たちは、この神との和解をもたらす聖霊が与えられている神の子です。 神と同じ命、同じ働きを託された者が、神のみことば、神の平和を運ぶのです。

[fblikesend]

私たちの教会で、結婚式が行われました

2013-08-08

 私たちの教会で、先日、結婚式が行われました。

 礼拝として結婚式が執り行われ、新郎新婦、ご両親、ご親族の方々、そして教会のみなさんと一緒に
ささげられた幸いなひと時でした。
 新婦とそのお父様の入場、みなさんで賛美をささげ、マタイによる福音書19章4~6節からみことばが
語られ、お祈りがささげられました。
 そして、神と会衆の前での厳かな誓約、新郎と新婦の指輪の交換、そして神と会衆の前での宣言、新郎
新婦揃っての退場、みなさんのフラワーシャワーでの祝福、この喜びを残すために全員で記念写真を
撮ることができました。
 
 この結婚式が記憶に残るものとなり、何にもまして皆さんの笑顔、喜びへとつながったことがとても
感謝でした。 

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから 

2013-08-01

聖書  マタイによる福音書5章1~12節 その2

*イエスは、貧しいから、悲しいから、苦しんでいるから幸いであるとは言っていません。 その只中にあ
 る人々を神が祝福し、神が招いて、神の国を約束してくださっているから、それに気づいているあなたがた は幸いであるとイエスは言います。 
*「慰められる悲しみの人々」とは、ただの悲しみに暮れている人では なさそうです。 この山上の教え  は、救いを受けて幸いであると言われている人々に語られた祝福です。 信仰生活を続けている人々の悲し みに語られた福音です。 自分の弱さ、自分の罪に悩み苦しむ悲しみです。 神を求めない、自分の罪に気 づかない、神との正しい関係にない人々は本当の悲しみがありません。
*この悲しみの中でこそ知ることのできる喜びが「慰め」です。 私たちは「慰められる」のです。 神によ って「慰められる」のです。 深い悲しみを乗り越えた本当の喜びです。 神との関係が断たれたと悲しん だから、正しい神との関係を回復されたから慰められたのです。 悲しみは信仰者にとって大切です。 
*私たちは、イエスの柔和さに支えられています。 聖書の言う「柔和な人」とは、イエスのように神のみ旨 に従って生きる人のことです。 イエスの柔和さには力があります。 私たちに共に繋がって、共に歩ん  で、共に重荷を担ってくださるのです。 この柔和さに気づくと、自分の主張や怒りもおさまります。 イ エスの柔和さには、神の意志が働いている、隣人の意志にも働いておられることが分かるからです。 

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから

2013-07-25

聖書  マタイによる福音書5章1~12節 

*イエスの山上の教えは、弟子たちに語られたものです。 そのイエスの教えを、弟子たちを取り囲む群衆
がイエスの言葉として聞いたのです。 「心の貧しい人は幸いである。」とイエスは祝福します。 心を
貧しくしなさいと戒めているのではありません。 すでに救われているあなたがたは、心の貧しい者たち
である。 直訳すると「霊において貧しい人々」、霊なる神に対して貧しい人であると言います。

*私たちは、神にだけに寄り頼む者、何も持たないで神の前に立つ貧しい者です。 自分で自分を救うことのできないと知っている貧しい者です。 すでに救われた幸いにあるから、神の前に自分の姿を見ることができる。 自分の罪を知ることができる。 その罪が十字架の死によって赦されていることに必ず気づくことができる。 イエスは、神の前に貧しくなっている者は幸いであると言います。

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから 

2013-07-18

聖書  マタイによる福音書4章12~25節

*イエスがガリラヤに退かれたのは、バプテスマのヨハネが捕らえられ、身の危険を感じたからではありま
 せん。 軽蔑されていた「異邦人のガリラヤ」から、イエスの宣教が始まっていくことを示すためです。 

*イエスは、バプテスマのヨハネと同じく「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え始められました。 方向転換を迫っているのは、神の国が近づいたからです。 イエスが神の国を背負って近づいて来てくださったからです。 私たちが、神の国を目指して努力しているからではありません。 これが、神の恵みです。

*イエスは、今そこでご覧になっていたその人を招きます。 次々と弟子として迎えます。 学びなさい、聞きなさい、読みなさいではなく、「わたしについて来なさい」でした。 「わたしに従って来なさい」でした。 打ちのめされても倒れない、苦しめられても行き詰らない、災いの中を通らされても恐れない者となるために、「わたしとともにいなさい」とイエスは言われたのです。 そして、多くの群衆がイエスに「従った」のです。 

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから

2013-07-11

 聖書  マタイによる福音書4章1~11節

*イエスは、神の霊に導かれて、誘惑する者に出会うためにイエスは荒れ野に行かれたのです。 イエスは、
その誕生の時も、バプテスマを受ける時も、この試みを受ける時にも神の霊に導かれています。 

*第一の誘惑は、日常的な身近にある誘惑です。 その解決のために「神の力」を自分のために用いてみろと迫ります。 神の立場に置こうとさせる誘惑です。 第二の誘惑は、目に見える栄光への誘い、神の力を誇示させようとする誘いです。 自分の身を守る誘いであるかもしれません。 第三の誘惑は、この世の霊に対する妥協への誘いです。 この世の安易な安泰や安心を求める誘いです。 これらすべての誘惑に、イエスは申命記のみことばをもって答えます。 マタイは、イスラエルの40年の荒野をさまよった物語に重ね、イエスが神のみことばに聴き従うことによって、十戒の第一の戒めを守った事を示すのです。

[fblikesend]

先週の聖書研究・祈祷会の恵みから 

2013-07-04

聖書  マタイによる福音書3章13~17節

*バプテスマのヨハネは、「あなたからバプテスマを受けるべきなのに」と、イエスに逆であると疑問を
投げかけます。 しかし、イエスは「今は、止めないでほしい。 正しいことをすべて行うのは、我々に
ふさわしいことです。」と言います。 「正しいこと」とは、神のみこころにかなうことです。 罪のな
いご自身が、私たちと同じ罪人のところに立つということが神のみこころであるとイエスは言います。
 私たちが神を分かるのではなく、神が私たちを捉えてくださり信じる者とさせていただくのです。 ヨハネは、イエスのとった振る舞いと意志に納得して、逆と思われることを信じたのです。 

*イエスが公の生涯を歩むについて、バプテスマを受けることと、荒野で悪の霊から誘惑を受けることが、霊的な体験として必要だったのです。 このために、私たち罪人のなかに立ってくださった神、そば近くにおられる神を、イエスの姿を通して私たちは知るのです。 

[fblikesend]

« Older Entries Newer Entries »
バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元