秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「逃げた私たちを救われた主」 マルコによる福音書14章43~52節 

2022-01-23

 ユダヤ教の指導者たちの陰謀によって、主イエスがローマの十字架刑に処せられるため逮捕され、拘束されていく様子が記されています。 周囲の人々の敵意や無理解の中を、独り沈黙のうちに父なる神の御心だけに従って歩むイエスの姿がここにあります。 「祭司長たち、律法学者たち」こそ、イエスを異端の教師として抹殺したい、亡き者にしたいと願っている人々です。 「彼らに遣わされてきた群衆」は、エルサレム神殿の警備にあたる役人たちでしょう。 中には、ローマの軍隊が入り込んでいたのかもしれません。 そこに、「十二人のうちの一人であったユダ」が、「祭司長たち、律法学者たち」に逮捕する手がかりを与えようと動くのです。 「十二人」とは、イエスご自身が選んですべての秘密を明かして集められた使徒たちのことです。 ユダは、「イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。 そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡すことができるかと狙っていた」と言います。 ユダは、イエスと弟子たちの秘密の祈りの場所に、武装した群衆を案内し、接吻してこの人がイエスであると示して案内したのです。 「接吻」とは、弟子が愛する教師に行う尊敬の挨拶です。 ユダは念には念を入れて、「先生」とわざわざ呼びかけ「接吻」してイエスを示したのです。 今までイエスに従ってきた「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と言います。 陰謀をもってイエスを捕らえようとする。 いざ身の危険を感じたら、イエスを置き去りにして逃げ出してしまう。 それぞれの姿が示す、人の本当の姿を垣間見る思いです。 自分の人生は自分のものと思えば、自分のことは自分でする、自分が選択し自分でその責任を果たしていこうとするでしょう。 危険なこと、損得には敏感で、それを嗅ぎ分ける力が自分にはあると胸を張る。 それがこの世の「賢さ」であり、「正しさ」でしょう。 
 マリアとヨセフの関係を思い起こします。 「マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、マリアは聖霊によって身ごもっていた。 ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 結婚した者が犯す「姦淫の罪」は、石打の刑、死罪であるという社会ですから、「ひそかに縁を切ろう」としたことは「正しい」ことであったのかもしれません。 マリアを助ける決断であるなら、マリアを死罪から救うことになるのかもしれない。 ヨセフ自身の身を守る決断であるなら、マリアから逃げることになるでしょう。 神は思い悩むヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言います。 神の言われた通りにするなら、ヨセフもマリアも陰口をたたかれるでしょう。 その時の社会がどうであれ、神は二人にそのままそれぞれの身にこの出来事を引き受けなさいと言っておられるのです。 縁を切ろうとした寸前の二人が、互いに危険を身に引き受け、背負いながらそれでも生きていこうとしたそのところに、イエスの誕生の出来事が起こされたのです。 祭司長たちやユダの思惑通りに事が運びました。 彼らはこの世の勝利者として、「他人を救ったのに、自分は救えない。 今すぐ十字架から降りるがよい。 それを見たら、信じてやろう。」と罵ったのです。 イエスは、神の前に裁かれなければならなかったすべての人のために、その過ちを背負ったまま十字架から降りることはなかったのです。 それが父なる神の御心であったからです。 そのイエスが「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われるのです。 マリアとヨセフのように、互いに与えられたものをそのまま背負いながら、それでも神の御心に従い共に生きていこうとするところに、主イエスが共にすべてのものを背負い歩んでくださるのです。



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