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「神なき世界に神を見出す」 マルコによる福音書15章33~41節 

2022-01-30

 イエスが逮捕されてから十字架上で息を引き取るまでの間に、兵士たちは、「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼し、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をはきかけ、イエスを侮辱するのです。 祭司長たちや群衆からも、「十字架から降りて自分を救ってみろ。 それを見たら、信じてやろう。」と侮辱を受けるのです。 イエスが十字架上で苦しまれた昼12時から午後3時のイエスが息を引き取るまでの三時間の間に、「全地が暗くなった。 イエスが絶叫し息を引き取られた。 神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 その一部始終をローマの百人隊長とイエスに従ってきた婦人たちが目撃していた。」と言います。 まるで自分たちが信じる神が、イエスの十字架のうえに何も働かなかったかのように記すのです。 私たちが事あるごとに、「神はどこにおられるのか。」という神への疑いのつぶやきが聞こえてきそうです。 「全地が暗くなった」とは、アモス書(8:9)が預言しているように、神が顔を背けるという神の裁きであったと告げているのでしょう。 そのような時、イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを百人隊長や婦人たちは確かに聞いたのでしょう。 間違いなく、イエスは絶望のうちに肉において死に、霊においてすべての人が負うべき永遠の滅びを背負われたのです。 その中でも、イエスは「なぜ、どうして」と父なる神に問いかけ、叫び続けておられるのです。 神から見捨てられ、永遠の滅びに自ら身を置くという苦い杯を飲まれた姿です。 私たちは、理由が説明できないもどかしさ、問題の解決や正しい答えを見つけ出せない苦しみを憶える時があります。 神は存在していなければ困る。 私たちのものさしに当てはまる神を探し求めてしまうのです。 自分にとってだけの解決を求めてしまうのです。 私たちにとって栄光に輝く神、正しい神、いつでも解決してくださる神を捜し出そうとするのです。 光の中、成功の中、幸いの中、正しさの中に神を見ることもあるでしょう。 しかし、神はむしろ闇の中、失敗の中、災いの中、罪にまみれたところにこそおられるのです。 イエスの十字架こそ、祭司長たちが侮辱したように、最も神などおられる筈などないところでしょう。 神は、神ご自身からも人からも見捨てられたイエスのもとにおられるのです。 イエスは、ご自身を神の御心に委ね、神の裁きにより引き離された苦しみを味わったのです。 父なる神もまた、ご自身の御子であるイエスを惜しまず、すべての人びとに替わってご自身の裁きのもとに置かれたのです。 イエスとともに、父なる神もまたイエスの十字架の上で苦しんでおられるのです。 イエスの叫びは、絶望の時に発する人の嘆き、父なる神の答えのない嘆きです。 「どうして、なぜ」と父なる神に問わざるをえない現実を味わっておられるのです。 神なき世界と思われるところに、神は私たちとともにおられるのです。 イエスが神の御心を果たし終えた時、「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」、神と人とをつなぐものは、神殿や祭儀から替わって十字架のイエスによって再び神に結び付けられた瞬間でした。 直に目撃していたイエスの処刑を確認する立場のローマの百人隊長が、その事実を神によって知らされたのでした。 同じように婦人たちもまた、イエスの復活の最初の目撃者として、すべての弟子たちの信仰の復活を起こしていくのです。 絶望のうちに、神に問い続けながら神なしで死んでいったイエスに苦しみを負わせた神が、イエスとともに背負わせた苦しみを味わっておられるのです。 救いの業を成し遂げたイエスを受け入れた神の存在を、百人隊長も婦人たちも事実として見出すことができたのでしょう。 神なき世界と思われる所に神がおられる事実の発見が、信仰を呼び起こし、礼拝と賛美と祈りの教会を形づくるのです。



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