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「祝福の源」  創世記12章1~9節

2016-06-19

 旧約聖書によりますと、人は神に背き、神のもとを離れてしまいました。 神が創造したその人間が、その造り主を忘れて自分に頼り、神なき世界に生きようとしたと言います。 その愚かな人間の姿を、主はご覧になってもなお、私たちを見捨てることはありませんでした。 ひとりの人間を選び出し、その民を通してもとの関係を回復させよう、人間を救おうと主はご計画されたのでした。 創世記は、その始まりがアブラハムという一人の人物に対するみ言葉から始まったと告げています。 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしの示す地に行きなさい。」 この言葉から、人間の救いの道が始まったのです。 新約聖書では、このアブラハムの姿を、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」と述べています。 確かに、アブラハムは主のみ言葉を信じて旅立った「出発の人」でした。 約束の地がいったいどこにあるのか、そこまでどれぐらいかかるのかも分からないままに、主が「わたしの示す地に行きなさい」と言われた場所を目指して出発した人でした。 「信仰という一本の杖」だけで旅立った人でした。 そのアブラハムに、「わたしはあなたを祝福する。 あなたを祝福の源とする。 すべてはあなたによって祝福に入る。」という主の約束が臨んだのです。 
 しかし、アブラハムの生涯は、それほど単純なものではありませんでした。 カナンの地のシケムの聖所にまでやってきたその所で、主は再びアブラハムに現れて言われたのです。 「あなたの子孫に、この土地を与える。」 やっと到着したその約束の地には、カナン人がすでに住んでいる。 偶像の地から抜け出してやっと辿りついたところが、カナン地方の偶像礼拝の祭りの場所である。 これが、本当に約束の地ですかと主に問いたくなるアブラハムの心境でしょう。 ですから、アブラハムはその後、住むのによりよい場所を求めてその場を離れてしまう。 自ら望んだ所で大失敗を犯してしまう。 これがアブラハムの本当の旅の姿でした。 やっと辿りついたところが、アブラハムには受け取りがたいものでした。 現実の厳しさに主の言葉から離れて、自分を納得させ歩み出してしまう。 しかし、このアブラハムを主なる神は見離すことはありませんでした。 なぜなら、アブラハムは、行く所々で、主のために祭壇を築いている。 そして、主のみ名を呼んで礼拝をしている。 どこにおいても主を礼拝する場所を確保して、礼拝をささげているアブラハムに約束されたのです。 「あなたを祝福する。 あなたを祝福の源となる。 あなたによってすべてのものは祝福に入る。」という主のみ言葉は揺るがなかったのです。 たとえ失敗を何度繰り返したとしても、アブラハムを祝福する。 そのアブラハムが祝福の源となる。 そこから流れ出る祝福によって、隅々にまで深く、広く浸み渡っていくことになる。 その務めがあなたにはあると約束されたのです。 アブラハムは信仰によって、主に促されて旅立ちました。 祭壇を築く、主のみ名を呼ぶことによってその信仰を保ちました。 私たちは、主の約束の地を離れてはならないのです。 主のみ言葉を聴き、そのみ言葉を信じることができるよう、その約束が為し遂げられるようにと祈らなければならないのです。 祝福された者が祝福する者となる、祝福の源となる。 その源から流れ出る祝福によってすべては満たされるようになる。 アブラハムは「一本の信仰の杖」と、「主の確かな祝福の約束」を携えて旅を続けました。 アブラハムは家族を連れて、一族を連れて、与えられた賜物を携えて、そして途中で加えられた人々と共に、約束の地を目指して旅を続けました。 祝福の源となるために、主の祝福が、そして信仰の杖が必ず与えられるのです。



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