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「命ある限り 主の家に宿る」  詩編27編1~4節

2016-06-12

 ダビデは、羊飼いから身を起していった人物です。 次第に頭角を現わしていき、初代のイスラエルの王サウルのもとで、軍事的にも、政治的にもその有能さが認められていきます。 ダビデが、敵国ペリシテの一番手の武将ゴリアテを倒した話はあまりにも有名です。 戦士としての有能さは、後に、サウル王から妬まれるほどになったことでもよく分かります。 その一方で、この詩編の歌を歌っているように詩人の素養もありました。 病いに悩むサウル王の慰め手として、琴を弾いたとも記されています。 聖書には、「竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」(サムエル上16:18)と紹介されています。 そのダビデが思いもかけない苦しみに出会っていきます。 あれだけ認められたサウル王に、その嫉妬のゆえに命を狙われます。 敵国であるペリシテの地にまで逃げなければならなかったこともありました。 その追っ手を避けるためにほら穴に隠れたり、枕するところがないほどの流浪の旅を余儀なくされたこともありました。 この詩編27編の歌は、息子アブサロムに王の地位を追われた時に歌われたダビデの詩であるとも言われています。 イスラエルを統一した偉大な王と言うよりは、様々な苦悩を経験しつつも、神の守りによって導かれた波乱の生涯を送った人物です。 
 そのダビデが、主への信頼の証しとして、「主はわたしの光、わたしの救い、わたしの命の砦」と歌います。 この三つの言葉は、ダビデにとって切っても切れない一つの言葉のように思わされます。 この一体となった三重の神の守りが、ダビデの生涯を支えてきたのでしょう。 これによって乗り越えられた。 これからも、「わたしに向って戦いを挑んでくる者」があったとしても、この神の守りによって恐れることがない。 わたしにはその確信がある。 信頼を置いているとダビデは歌っています。 そのダビデが、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。」と歌います。 「ひとつのこと」とは、第一、唯一、最高、最大のことということでしょう。 ダビデのひとつの願いが、「命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えること」だと言うのです。 口語訳聖書では、「わたしは生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で、思いにふけること」だとあります。 様々なことを経験し、身に迫る危険を乗り越えて、また大失敗をして、悔い改めて、再び思い直したダビデでした。 そのダビデの一番の、唯一の、最高の、最大の願いは、命のある限り主の家に宿ることでした。 困難や問題が解決されることであったり、苦しみや悲しみが取り去られることをダビデが願っているのではありません。 目の前の敵がいなくなることや、これから向かってくる敵が来ないようにと望んでいるのでもありません。 ダビデは、自分の願いを越えて、主なる神との交わりだけを求めて、「主の家に宿る、住む、とどまる」ことだけを願っているのです。 主なる神が共にいて、「わたしの光、わたしの救い、わたしの命の砦」となってくださる主の家にとどまり続けるならば、恐れることなどあるでしょうか。 その主のお姿を仰ぎ見るならば、どんなに喜ばしいことでしょうかと賛美しています。 そして、「その宮で朝を迎えること」をダビデは願うのです。 涙があっても、痛みがあっても、つらくても、「主の家に宿って、主との交わりの中にある」幸いを賛美し、その涙をもって、痛みをもって、つらさをもって新しい朝を迎えることを、ダビデの一番の、唯一の、最高の、最大の願いとしているのです。 これこそ、ダビデの言うよみがえりの朝でしょう。 主ご自身との交わりを求める、これが力の源です。主のみ顔を仰いで賛美し、礼拝する、これが喜びの源です。 



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