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「憤りを覚え、涙を流される人」  ヨハネによる福音書11章28~37節

2016-06-26

「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」 遠く離れたイエスのもとに悲しい知らせが届きました。 この重病の知らせにも、イエスはその場を二日間動くことはありませんでした。 あなたがこれほどまでに愛した者が、なぜ、死に至るようなことになるのでしょうかという疑問を込めた、情に訴えたこの知らせに、イエスは「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われ、神の時を待っておられたのです。 病いも様々な苦しみも死で終わらない。 神の栄光が現わされるその始まりである。 神がみ業を起こしてくださるその始まりであると言っておられるのです。 その二日後、「わたしたちの友ラザロが眠っているユダヤに、もう一度行こう。 わたしは彼を起こしに行く。 ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。」とまで言っておられます。 その理由は、弟子たち、ラザロの姉妹マルタとマリア、その場に居合わせたユダヤ人たちすべてが信じるようになるためであると言われたのです。 いったい、何を信じるようになるためであったのでしょうか。
ユダヤに戻って来られたイエスにマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 死後四日経ってから来られたイエスに対する残念な思いと、もう手遅れになったという絶望の思いが込められています。 しかし、イエスは、「あなたの兄弟は復活する。」と言われました。 終りの日に人は復活して神の裁きを受ける。 正しい者はよみがえる。 そのようなファリサイ派の教えは存じていますと答えたマルタに、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われたのです。 イエスは、ラザロが復活する出来事を信じなさいと言っているのではない。 死人をも生かす神がここに働いておられる。 その神に遣わされたイエスが、死んだラザロを復活させる。 そのことを「信じるか」とマルタに問うたのです。 問われたマルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています。」と答えています。 そう告白したマルタがラザロの墓の前に立たされて、「石を取りのけなさい」と言われたイエスに「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と答えているのです。 これが私たちの本当の姿です。 イエスはマルタに、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言い、人々が墓の石を取りのけると天を仰いで言われました。 「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。 あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言い終えて、確信してイエスは「ラザロ、出て来なさい」と言われたのです。 
 ここまで確信したイエスが、マリアやユダヤ人たちが泣いているのをご覧になって、憤りを覚え、興奮されています。 涙を流されています。 愛する者を失った人間の悲しみを背負ったイエスのお姿がここにあります。 これほどまでに、人間を絶望させ、悲しみに陥れる肉体の「死」を操る悪の霊に憤り、興奮されたのではないでしょうか。 ラザロの死を悲しむ姉妹や人々のために涙を流されたのではないでしょうか。 これがイエスのみ業の原動力でした。 父なる神へ天を仰いで祈るイエスの祈りの原動力でした。 涙をもって自ら進んで担ってくださったイエス・キリストの十字架こそ、一人の罪人が失われてしまうことに悲しんで、この世を支配する諸々の力と戦われた戦いのしるしです。 その十字架の主がここに復活して生きて働いておられる。 そのことを「信じるか」とイエスは私たちに迫っておられるのではないでしょうか。



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