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「サウルの戦いとダビデの戦い」 サムエル記上 17章31~47節

2014-11-02

 場面は、ペリシテとイスラエルという国の戦いです. しかし、実は、神に挑み神の名を侮辱する者と、神との戦いでした。 自分の力だけに頼る者と、神への信頼だけに頼る者との戦いでした。 「この戦いは主のもの」でした。 少年ダビデは、人に対してではなく、神を侮辱する悪の霊に対する素朴な憤りと、神に対する信頼だけでペリシテの大男の前に出向いて行ったのです。 ダビデにとっては、兜も、鎧も、剣も、すね当ても、槍も必要ありませんでした。 ダビデが持って行ったものは、自分の杖と、滑らかな石5つと、石投げ紐と、神への信頼だけでした。 杖は、羊飼であるダビデが羊の群れを追うためのものです。 石や石投げ紐も、羊を守るために普段使っているものです。 ダビデは、自分に勝ち目があるかとか、無謀な戦いではないかとか一切考えていません。 これは、神の戦いである。 神が働き、神がなされることである。 「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からもわたしを守ってくださるにちがいありません。」 この信仰だけで出向いて行ったのです。 このダビデの戦いは、あっけない結末でした。 石投げ紐を振り回して投じられた石が、大男の額を打って倒した。 イスラエルに勝利をもたらしたのです。 しかし、ダビデの戦いはそれで終わりません。 ここの戦いは、神の羊の群れであるイスラエルの民を、悪の霊である獅子や熊の手から日常生活の中の戦いによって守ったという出来事でした。 神は、このダビデの素朴な信仰を受け入れてくださって、「主の戦い」としてくださった。 そのために、ダビデは選ばれ、その後のイスラエルの王として戦いを歩んでいくのです。
 ここには、もうひとりの戦いがあります。 イスラエルの王であったサウルの戦いです。 「そのすべての持ち物を滅ぼし尽くせ」という主の命令に、良い物を残し、値打ちのない物だけを滅ぼし尽くした。 良い物を主のみ前にささげるようにという兵士のすすめに、神のみこころを少し曲げてしまった。 サウルのもとから、主の霊が離れていったのはこの時からでした。 「主の霊はサウルを離れ、悪霊が彼をさいなむようになった」とまで書かれています。 ぺリシテと戦うどころではなかったのかもしれません。 神にはみこころがあって、サウルを選ばれたのです。 私たちも同じです。 神の期待があって、私たちを招いてくださったのです。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだのである。」とイエスは言います。 問題は、その次です。 それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言っています。 このイエスの約束の中に、私たちはあります。 ですから、私たちは、恐れることも、傲慢になることもありません。 ただ、主の戦い、神の救いの業のためです。 サウルも少年ダビデの素朴な信仰に再び触れることができました。 結果は、自分が王であるイスラエルの勝利となりました。 しかし、サウルの本当の勝利は、これ以降の歩みであった筈です。 イスラエルの初代の王サウルとしての選びは、神のみ心のためであったはずです。 
 私たちは、主の思いと人間からでる思いが真っ向からぶつかる正念場に、いつも屈してしまいます。 ダビデの、サウルの、また私たちの戦いがあります。 しかし、神は私たちのそのままの信仰を受け入れてくださって、選んで、期待して、約束の中に生かしてくださっています。 私たちの信仰は、ただ神の恵みだけによって与えられているものです。 神が、私たちを離れることは決してありません。 いつも、私たちの方から主を捨てて、離れてしまうのです。 主の姿を見失うことなく、神のみこころだけに留まり続けることを願います。



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