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「わたしの愛する子という声」 マルコによる福音書 1章1~11節

2014-11-09

 マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り始めます。 この福音が、荒れ野から出発した。 荒れ野にひとりの人物が遣わされた。 その人物が、荒れ野からイエス・キリストの福音を「宣べ伝えた」。 そのことを告げるみことばが、「福音」と呼ばれています。 マルコによる福音書の最初の舞台は、預言されたように、約束通りに荒れ野でした。 花も咲かない、熱した砂地で渇いた荒れ野に、「水が湧きでる。 川が流れる。 野ばらの花が一面に咲く」ようになる。 何も見えない、聞こえないところにこそ、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられなければならなかった。 神によって遣わされたバプテスマのヨハネが、エルサレムの都ではなく、ヨルダン川のほとりの荒れ野で叫んだのでした。
 ヨハネが叫んだ相手は、ユダヤの全地方、エルサレムの住民でした。 自分たちこそ、神に選ばれた民である。 神の律法を固く守っている。 そう信じてやまないユダヤの人々に向って、「悔い改めのバプテスマ」を叫んだのです。 神に背を向け、「悔い改め」など必要がないと思っている人々に、神のもとへ帰る「悔い改め」を呼び求めたのです。 到底、そのような呼びかけに、自信満々のユダヤの人々が耳を傾けるはずがありません。 ヨハネは、ユダヤの中心地エルサレムから離れた荒れ野で、ただユダヤの人々が足を運んでくれるのを待っているだけの存在でした。 それでも、ヨハネは、荒れ野で質素な生活をしながら叫び続けることをやめませんでした。 神が、ヨハネを荒れ野に遣わしたのです。 神は、続々とヨハネのもとに人々を送ります。 送られた人々は、「罪を告白し、ヨルダン川でヨハネの授けるバプテスマを受けた」と書かれています。 ヨハネに、これほど多くの人を集める教えや魅力があったとは思えません。 ただ、「わたしより優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。 わたしは水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と宣べ伝えただけでした。 ヨハネを通して神自らが、ご自身のみことばを聞く民を召し集め、起こしたのです。 この荒れ野のヨハネの叫びに、ガリラヤのナザレにおられたイエスが立ち上がった。 ヨハネを通して招かれ、故郷を捨てて、ヨルダン川のほとりのバプテスマを受ける人々の群れに加わったのです。 イエスがメシアとして立つべき日、「その日」の到来をついにバプテスマのヨハネの荒れ野の叫びに読み取られたのでした。 悔い改めて神の民とされる人々が続々とヨハネのもとに引き寄せられ、水のバプテスマが授けられているそこに、特別の使命を自覚されたイエス・キリストが来られて、その群れに加わり一緒に水のバプテスマを受けられたのです。 イエスは、罪人とともにその中に入って、一緒にその罪を担おうとしてくださる。 その罪による弱さや醜さや足りなさ、悲しみや苦しみや絶望を共にかぶろうとされる。 私たちすべての人々との罪の連帯に生きて行こうとされたのです。 イエスは身をもって、これから向って行こうとされる自らの死を通して、ご自身の名が刻まれる聖霊のバプテスマを示してくださったのです。 イエスがバプテスマを受けられて、ヨルダン川の水から上がるとすぐに、天が裂けて霊がご自分に降ってくるのをご覧になりました。 天からは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。 「天が裂ける」とは、天と私たちを隔てていた私たちの罪が、神の側から裂けてなくなったということです。 このイエス・キリストの十字架の死に与かることによって、すべての妨げがなくなった。 そこに聖霊が降る。 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がかかる。 この約束のうちに、私たちはあります。 



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