秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「待ってくださる神」 ルカによる福音書15章11~24節

2020-05-10

 「徴税人や罪人」という社会からレッテルを貼られて、疎まれている人々を招いてともに食事をしているイエスを許すことのできないユダヤ社会の指導者たちにイエスは三つの譬えを語っています。 「百匹の羊をもっている人が、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹の羊を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。 もし見つけたら、友達や近所の人々を呼び集めて見失った羊、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでくださいと言うであろう。」と語り、その三番目にこの「放蕩息子」の譬えが語られたのでした。 「見失った一匹の羊」、「無くした一枚の銀貨」と、ひとりで自分の思う通りの人生を送ろうとした弟息子は、見出される、見つけ出される存在としては全く同じです。 しかし、ひとつだけ、この譬えには違いがあります。 弟息子は見つけ出される前に、「我に返った」とあります。 自由気ままに、父にも兄にも囚われない気ままな生活が魅力的であったのかもしれない。 分け与えられた財産をすべて直ちにお金に換えて、そのお金を使い果たしながら気ままな生活を送っていたのです。 ついには、そのお金を使い果たし、食べることにも窮する豚の世話をする者にまで落ちぶれてしまった。 ユダヤ人は豚を汚れたものとしています。 ユダヤでは考えられないところにまで、弟息子は身を落としたということでしょう。 その時です。 弟息子は「我に返った」、自分を見失ったところから自分の姿を見つめるまでに立ち帰った、目が覚めたと言います。 自分はもともと、父の息子であったことを思い返すことができるようになった。 父のところに戻って、自らの言葉で「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇人の一人にしてください。」と言おうと、覚悟して父のもとに帰って行ったと言います。 弟息子は、父の息子であったという、当たり前と思っていた恵みを忘れてしまっていたことを知らされたのです。 もともと神によって、父によって当然のように与えられていた恵みを自分勝手な思いによって捨ててしまったと告白し、「わたしはどのような扱いをされてもいい。 再び父との関係を取り戻したい。」 この一心で戻って行った弟息子の姿は、悔い改めの姿に映るのです。 この弟息子の姿を見つけ、弟息子が何も言わない前に抱きしめている父の姿が語られています。 父は必ず戻ってくると待っていたからこそ、遠く離れていたのに見つけることができたのでしょう。 自分を見失っていた弟息子を悲しんでいたからこそ、その姿を憐れに思ったのでしょう。 弟息子が語ろうと思った三つの言葉を遮るかのように、父は「一番良い服を着せた。 手に指輪をはめた。 足に履物を履かせた。」と言います。 雇人や奴隷としてではなく、父の家の継承者として、死んでいたのに生き返った自分の息子として、再び父が喜んで自分の家に迎え入れたのです。 父は弟息子が悔い改めたから迎えたのではありません。 過去の過ちに関係なく、無条件で迎え入れ祝宴を挙げているではありませんか。 父の家を受け継ぐことのできる者は、言いつけを守ったからでも、正しい行いを守ったからでもありません。 無条件に赦されている恵みに気づいて、その恵みを感謝して受け取ることのできた者です。 弟を失った父の悲しみも、弟を迎える父の喜びをも分からない兄にも父は言うのです。 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなったのに見つかったのだ。 だから祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、父は兄もまた弟と同じように「失われた存在」から取り戻そうとされるのです。



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