秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「戻って来て迎える主」 ヨハネによる福音書14章1~3節

2012-11-25

 イエスは木曜日の夜、弟子たちとの最後の晩餐をともにしました。 イエスはその時に、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言います。 弟子たちは、まさかこの中から裏切り者が出るとは思ってもいないので動揺します。 「わたしの行くところに、あなたは今ついて来ることはできない」というイエスの言葉を聞いたペトロは、「あなたのためなら命を捨てます」とまで勇敢に答えます。 しかし、イエスは「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と痛烈に予告します。 「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言うイエスに、トマスは「どうしたら、その道を知ることができるのでしょうか」と、確かな答えをイエスに要求します。 また、「あなたがたはわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる」と言われたイエスに、フィリポは「わたしたちに御父をお示しください。 そうすれば満足できます」と、この目で神を見ないと信じられないとフィリポは言います。 ユダもペトロもトマスもフィリポも皆、同じ姿です。 イエスとともに3年間寝泊りを共にしてきたにもかかわらず、イエスの言葉を信じることができない。 次第に弟子たちは、危険が差し迫っている現実を感じるようになります。 全てをささげてイエスに従って来た、戻って行く所のない弟子たちの不安と戸惑いは、頂点に達します。 この不安に揺れ動く弟子たちがこれから絶望の体験をしていくことになる。 その姿をイエスは思い浮かべながら、愛する弟子たちに語りかけた約束の言葉がこの聖書の箇所です。 イエスは「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。 ただ、信じることを命令しているのです。 これから、わたしの身にどのような事が起ころうとも、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」ことを信じなさい。 父なる神とわたしはひとつになっていることを信じなさい。 弟子たちとの最後の別れに、不安におののく弟子たちを励まし力づけるために、イエスが訴えたみことばであります。 その際に、イエスは、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と約束されたのです。 地上を歩まれたイエスが永遠に父なる神のもとにあるように、弟子たちもまた神と共に住む所を用意する。 用意ができたら、あなたがたを迎えるために、必ず戻って来て、一緒にいるようにしてくださると約束してくださったのです。 そのためにイエスは、父は別の弁護者(聖霊)を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださると、父なる神にお願いをしてくださったのです。 この弁護者(聖霊)の到来こそが、「戻って来て迎える主イエス」であったのです。 わたしたちは、この約束に立って信じる者とさせていただきたい。 

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「主を待つともし火の油」 マタイによる福音書25章1~13節

2012-11-18

 当時のユダヤの結婚式は、夜に、花婿が花嫁の家に迎えに行きます。 花婿が花嫁の家に伺う前に、先立って花婿の友人が「さあ、花婿だ。 迎えに出なさい。」と言うと、花嫁の友人たちがそろって出迎えるというのが常であったようです。 ここに、花婿を迎える十人のおとめの姿が描かれています。 おとめたちは、それぞれに手に「ともし火」を持って花婿を待ちわびています。 ところが、花婿が来るのが遅れたので、皆、眠気がさしてきます。 彼女たちがうっかり眠り込んでしまったその時に、「花婿だ。 迎えに出なさい。」と叫ぶ声がかかります。 おとめたちは急いで起き上がって、それぞれの「ともし火」を整えたとあります。 十人のおとめに違いが出たのは、その時です。 「ともし火」とともに、「壺に入れた油」を用意していたおとめがいたことです。 皆、それぞれに「ともし火」を手にしていた。 皆、眠り込んでいたから、「ともし火」が消えそうになっていたことに気がつかなかった。 皆、目を覚まして初めて、そのことに気がついた。 しかし、「壺に入れた油」を用意していたおとめは、「ともし火」を燃やし続けることができ、花婿とともに家の中で婚宴に与かることができたと、イエスはたとえを語ります。 イエスは、おとめたちを賢い者と愚かな者と区別するためにお話になったのではありません。 イエスは、ご自身を婚礼の際の花婿にたとえてこられました。 婚礼の時に花婿が到着する様を、これから訪れる救いの時であると語ってこられました。 すべてのおとめは、花婿を待ちわびていた。 花婿を迎え入れるために、「ともし火」を与えられていた。 残念ながら、睡魔に襲われ、すべてのおとめが眠り込んでしまった。 「ともし火」が消えそうになっているのに気がつかなかった。 夜も更けて眠りにつくような時、「ともし火」が消えそうな時、「ともし火」が消えそうになっているのに気がつかない時に、イエスは世の光として、人々の前に輝かしなさいと言います。 わたしたちには、「ともし火」という信仰を与えられています。 与えられる油をきらさず、今も新たに燃やし続けなさいとイエスは諭します。 再び来られるイエスを待ちわびる、イエスを知り「ともし火」を託されたわたしたちに、語られた戒めです。 わたしたちは、このたとえから、どうしても最後になって間に合わせることができないものがある、その時に持ち合わせていないと間に合わないものがあることを知らされます。 人から借りてくる、どこからか買って来て間に合わせるものでもない。 用意しておく油は、外からは目に見えない部分です。 主イエスを待ち望むわたしたち自身の信仰の姿が問われています。 イエスは「だから、目を覚ましていなさい。 あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と、わたしたちを励まします。 

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「二つの愛の掟」 マタイによる福音書22章34~40節

2012-11-11

 律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねます。 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 専門家が必要なくらい、律法にはたくさんの数がありました。 合計で613もの数になるとさえ言われています。 イエスは、この律法の専門家に対する答えとして、一つではなく二つの戒めを挙げます。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を、自分のように愛しなさい。」であると言います。 一方は、朝と夕2回唱えるぐらいに有名なもので、もうひとつはさほど知られていなかったものと言われています。 しかし、イエスは、律法の中で最も重要なものはこの2つである。 一方が欠けてはならない一体のものであると言います。 聖書全体は、この2つの掟に基づいていると言い切ります。 事実、聖書には「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟を愛すべきです。 これが、神から受けた掟です。」と記されています。 しかし、イエスは、この2つの掟に順序を付けます。 イエスは、第一の掟と第二の掟は、同じように重要であると言いますが、同じであるとは言っていません。 モーセを通して与えられた十の戒めでは、第一の戒めから第四の戒めまでが、神と人との関係を表します。 第五の戒めから第十の戒めまでに、人と人の関係が出てきます。 この順番を間違えてはならないのです。 主の祈りも同じです。 隣人への愛は、この神への愛に根ざしたものでなければなりません。 神への愛は、隣人への愛の源です。 それと同時に、隣人への愛は、この神への愛の証しとなるのではないでしょうか。 神を愛するということは、人間の情愛ではありません。 神への献身です。 最後まで、十字架のあるところにまで父なる神に従い尽くしたイエスの姿に倣うことではないでしょうか。 イエスは、全身全霊で神を愛することが律法の中心である。 隣人に向かう戒めも、「愛するということ」を通して見つめ直すようにと、律法の専門家に求めたのです。 たくさんの律法の中に埋もれてしまっていたこの古い戒めに、イエスは自らの一回限りの生と死をかけて、新しい命と力をもって示された戒めが、この一体となった2つの掟でありました。 

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「婚礼にみるイエスのしるし」 ヨハネによる福音書2章1~11節

2012-11-04

 イエスの時代も、婚礼は町や村のおめでたい祝宴だったようです。 その町や村全体にわたる大きな祝宴でした。 そこに、イエスと弟子たちが招かれています。 ところが、ぶどう酒が足りなくなるという事態が起こります。 その祝宴のために手伝っていたと思われるイエスの母は、「ぶどう酒がなくなった」とイエスに訴えます。 しかし、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えます。 その一方で、イエスは、その家に置いてあった清めに用いる6つの水がめに水を満たしなさい、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさいと命じます。 召使によって運ばれてきたものを世話役が味見したところ、今まで出していたぶどう酒をはるかに超える味のぶどう酒に変わっています。 ユダヤの普通の家庭に、当たり前のように置かれていた石の水がめです。 律法によって求められた清めの儀式用の水がめです。 そこには、このイエスの不思議な出来事を目の当たりに見た召使いや一部始終を見ていた大勢の人たちがいた筈です。 残念ながら、彼らはイエスがどのようなお方であるかを悟りません。 聖書は、弟子たちだけが、その不思議な「しるし」を見て、イエスを信じたとあります。 この婚礼に見るイエスの不思議な業はだれの目にも触れているのに、イエスの隠れた栄光はだれの目にも明らかに示されたものとはなっていません。 ユダヤの群衆は、イエスの不思議な力によって、自分の願いが満たされることだけを求めました。 弟子たちは彼らと違いました。 イエスが水をぶどう酒に変えたことを、目に見えない神の栄光の「しるし」として受け取ることができました。 神が、イエスを通して地上において働いておられることを信じることができたのです。 このカナの婚礼の出来事は、イエスの公の生涯の働きの最初の「しるし」でありました。 石の水がめはユダヤ教の儀式のためのものでした。 その水がめを満たし、水をぶどう酒に変え、満たされることのなかった律法の時代に新しい救いの時代が始まったことを、イエスはイエスの母に宣言されたのです。 しかし、それでもイエスの母は、イエスの力に助けを求め、イエスに全幅の信頼を置きました。 事実、召使たちに「イエスが何か言いつけたら、その通りにしてください」と言っている。 あくまでも、イエスの母は、神がその切なる願いに答えてくださるお方であると確信する人間として、イエスの前に立ち続けます。 イエスは、水がめの縁いっぱいまで、水を満たした。 「さあ、くんで持って行きなさい」というイエスのみことば取りに運ばれて行った時に、水はぶどう酒に変わった。 イエスが働かれた時に、水はぶどう酒に変わった。 イエスは、婚礼の祝福に留まることなく、イエスのご自分の時、終りの日の神の食卓の喜びをも祝福しているのです。 イエスを神の子と信じることができた者が、イエスの名によって命を受けることができるのです。

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「ハンナの祈り」 サムエル記上1章21~28節

2012-10-28

 エルカナという一人の豪族が住んでいました。 彼にはハンナとペニナというふたりの妻がいました。 ペニナには子どもがあったが、ハンナには子どもがいなかった。 エルカナは、毎年、刈り入れの祭りの頃になると、シロという町の神殿に家族を連れて行き、動物の犠牲をささげ、イスラエルの神を礼拝することを常とした忠実な人でした。 子どものいないハンナの苦しみを知って、エルカナはハンナをいたわった。 しかし、そのことがペニナの反感と嫉妬と不満を引き起こします。 ペニナはハンナを思い悩まし、ハンナはペニナのことで苦しんだと聖書にあります。 ハンナの祈りは「どうかわたしに男の子を授けてください」という、神の前に心からの願いをぶちまけた長い祈りでした。 祭司エリが、彼女は酒に酔っているのだと思うぐらい、深い悩みをもった苦しみを訴える祈りでした。 ハンナはある意味で、その時代の社会のひずみを一身に引き受けていたのかもしれません。 子のない妻の苦しみを味わされ、悲しみをつぶさに経験をした女性です。 しかし、ハンナには、神に対して直接祈るという信仰がありました。 恨みや悲しみを越えて、神に祈り続けることができた女性でした。 最初は、男の子さえ授かればすべてが解決するという願いであったかもしれません。 ハンナは、子が授けられるということが、神のみこころの中にあることに気づかされました。 重大な決意をもって神に訴える「祈り」が与えられました。 そのハンナの「祈り」が、「もし男の子を授けてくださいますなら、その子の一生を主におささげします。」というものでした。 この「祈り」が備えられたハンナに、一人の男の子、サムエルが与えられました。 神がハンナに祈りと願いを与えて、そしてサムエルを与えることによって、ハンナに用意された「祈り」に立って歩むことを、神は迫られたのです。 あれだけ望んでいた一人息子でした。 相当な誘惑があったでしょう。 しかし、ハンナは、神から与えられ「祈り」に立って、乳離れと同時にたった一人のサムエルを手元から離して、祭司のもとに残して、ハンナはふるさとに帰って行ったのです。 「わたしは、この子を主にゆだねます。 この子は生涯、主にゆだねられたものです。」という「祈り」に徹したのです。 事実、ハンナは、サムエルのために、小さな上着をつくり、それを毎年、神殿に持参することが常であったと書かれています。 神がハンナに祈りとねがいを与え、幼子サムエルを与えた。 そのサムエルをハンナが神にささげて、神がイスラエルの歴史の重大な危機に備えられたのです。 神は、ご自身のご計画を進められるために、一人の敬虔な母親の「祈り」を必要とされたのです。

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「パウロを通して働く神のわざ」 使徒言行録21章1~14節

2012-10-21

 まだ始まって間もないキリスト教でしたが、すでに各地に多くの家の教会が誕生していました。 十二人の使徒たちによって選ばれた七人のエルサレム教会の執事のうちの一人であったステファノが、エルサレムで殉教の死を遂げた後、多くの弟子たちがユダヤとサマリアの地方に散らされました。 その彼らが、異邦の地で伝道をし、群れをつくり、教会を建て上げていたのです。 パウロたちがそこを訪ね泊っていったのは、まさに共に励まし合うためです。 そのようなうるわしい光景が描かれています。 5節に「彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。 そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。」とあります。 見知らぬ土地で、弟子たちどうしに交わされたものは、「祈り」と家族を挙げての「交わり」でありました。 ともに主の名によって「祈る」ことが、弟子たちどうしのイエスにある「交わり」の中心でありました。 かつてのユダヤ人キリスト者迫害の加害者であったパウロと、被害者であったフィリポが、イエス・キリストに結ばれてひざを交えて語り合う、そのような光景も目に浮かびます。 しかし、パウロのエルサレムへの旅は、苦難のともなうものでした。 エルサレムにおいては、パウロたちが異邦人の地で、律法やエルサレムの地をないがしろにしているという噂が流されていたのです。 パウロたちが立ち寄ったところどころで、エルサレムに行かないようにと弟子たちに進言されます。 その進言を聞いたパウロの一行からも、「エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ」とあります。 3度の忠告にも関わらず、パウロの決意は変わりません。 「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」と言い、重ねて決意を述べます。 パウロの決意は、自分自身のうえに「神のみこころが行われる」、今生きている自分の存在が「神のみこころに与かっている」、そのことの確信があったからです。 ゲッセマネで、「わたしの願いどおりではなく、みこころのままに」と祈られたイエスの「祈り」が、パウロのうちにあったからです。 イエスのみ名によって祈るということは、自分自身のうえに神のみこころが行われる、神のみこころに自分自身を委ねていく、そのことを決意していくことなのではないかと思わされます。 このパウロの決意を聞いた弟子たちは、「主のみこころが行われますようにと言って、口をつぐんだ」と書かれています。

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「イエスとの出会い」 ヨハネによる福音書5章1~18節

2012-10-14

 エルサレムにベトザタの池と呼ばれる池がありました。 そこに「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人」たちが大勢横たわっていた。 エルサレムの都の華やかさの陰に、ユダヤ社会の悲惨な光景があったと言います。 この池は、水が動いた時に病気が癒される「あわれみの池」と呼ばれていた。 大勢の人がこの池の周りに横たわり、水が動くその時をじっと待っていた。 イエスはそのような所で、38年も病気で苦しんでずっと横たわっていた一人の姿を見出した。 諦めとその場所にいることだけがわずかな救いであった人に、イエスは「良くなりたいか」と尋ねるのです。 聞きようによっては、むごい質問です。 イエスは、38年間もこれが当たり前である、手を差し伸べられることのなかったその人の心の奥底に、もう一度語りかけるのです。 今まで語りかけられたことのなかったこの病人は、一気に不平不満をさらけ出します。 自分がこのようになっている責任をすべて周囲に負わせ、癒されない理由を堅く抱きしめて、絶望のなかに安住します。 イエスは、その横たわり続ける病人に「起き上がりなさい。 床を担いで歩きなさい」と言うのです。 今まで縛りつけていたものから立ち上がりなさい、自分で歩きなさいと言われたのです。 この病人は、イエスの言葉に触れて初めて、その言葉に応えて行こうとする自分自身を取り戻します。 ことは、それだけで終わりません。 病を癒されたこの病人が床を担いで歩きだしたことが、「安息日に床を担ぐことは律法で許されていない」と、ユダヤの人々に詰問されます。 「あなたは良くなったのだ。 もう罪を犯してはいけない。」と言われたそのイエスを、この世を恐れて自らの身の安全を優先し、自分を癒したのはイエスだとユダヤの人々に知らせてしまったのです。 あなたは良くなったのだから、何があってももうイエスを拒んではならないと言われたそのイエスを、告発する立場に立ってしまったのです。 ユダの裏切りと同じです。 「あなたは良くなったのだ。 もう罪を犯してはいけない。」と言われたイエスのみことばが、一人の病人の姿とともに心に突き刺さります。 しかし、イエスの救いはベトザタの池の救いとは異なります。 告発されようが、身柄を渡されようが、すべての者を覆い尽くすイエスの救いです。 イエスによって呼びかけられた救いの業が、自分を押し潰してしまうようにも思えるような苛酷な重荷を背負いつつ歩む私たちのうえに、イエスを忘れてしまい拒むことを繰り返す私たちのうえに、現れるのです。

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「互いに愛し合う共同体」 ヨハネによる福音書13章31~38節

2012-10-07

 ヨハネによる福音書13章には、いよいよこの世から父のもとへ帰るご自分の時が来たことを悟られたイエスが、弟子たちを愛し抜かれた姿が描かれています。 この世の別れの姿として、弟子たちの足を洗う姿を最後の夕食の時に、イエスは遺しておられます。 弟子たちは、このイエスの振る舞いを理解することができません。 イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言います。 この最後の夕食の席に共についていたユダが、夜の闇の中に出て行きます。 いよいよイエスの十字架への道が進み始めた瞬間です。 そのユダが出て行くと、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」と叫ばれました。 ヨハネによる福音書によると、栄光とは神ご自身が私たちの前に自らを顕してくださるということです。 神はかつてモーセの燃える柴のなかで、おぼろげに顕れてくださいました。 しかし今や、ユダの裏切りを合図に十字架に向かって歩んで行かれようとするイエスのお姿によって、父なる神がはっきりと見えるようになってくださったと宣言されたのです。 父なる神が、すべての救いの業をご自分の手に委ねられたと悟られたイエスは「いましばらく、あなたがたと共にいる。 あなたがたはわたしを捜すだろう。 しかし、わたしが行く所にあなたたちは来る事ができない。」と言って、別れの言葉として遺した一つの戒めが今日の聖書箇所です。 「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。」というみことばです。 この「互いに愛し合いなさい。」という言葉はきれいごとでしょうか。 この言葉は、イエスがこれから十字架の死に踏み出して行く第一歩に、どうしても愛し抜かれた弟子たちに、別れの言葉として語り遺さなければならなかった言葉です。 道徳や倫理で語っている言葉ではありません。 弟子たちとの決別の時に、わざわざイエスが語られたたったひとつの戒めです。 イエスが赴く所は、一回限りの十字架と復活の場所です。 この戒めは、これから起こる、これから示されていく十字架の愛によって、初めて与えられる、後から分かる新しい戒めであったのです。 イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」と言っています。 素性も性格もすべて異なる弟子たちを一つに結び付けることのできた唯一のものは、イエスご自身が弟子たち一人一人を愛し抜かれたという事実に他なりません。 その究極のお姿が、十字架の愛です。 そのことを一回限りのイエスの十字架と復活によって、弟子たちは後で知ることになるのです。 

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「真の権威による自由」 ルカによる福音書20章1~8節

2012-09-30

 わたしたちは、この世の様々な権威に支配されているのが事実であろうと思います。 権威どころではなく、様々なものに無意識のうちに囚われ縛られているのが現実です。 その時の常識であったり、価値観であったり、周囲の目や置かれている立場であるかもかもしれません。 残念ながら、そうしたものがわたしたちを刷り込み、支配しているのが現実です。 そういう意味では、わたしたちが何に拠って立っているのか、何を信じているのか分からなくなる時があります。 イエスが、いつものように民衆にみことば教え、福音を告げ知らせていた日常生活のある日、出来事が起こりました。 「イエス、あなたは何に拠って立っているのか」という問いが突然迫ったのです。 迫って来た人々とは、ユダヤの最高法院を構成する指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちでした。 今ある秩序に築き上げられた権威の上に安住する者たちでした。 ユダヤの権威にひざまづかせ、従わせようとした彼らに、イエスは、「ヨハネのバプテスマは、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」と逆に問い返します。 彼らは、バプテスマのヨハネは神から遣わされた者でもなく、そのバプテスマも天からのもではないとしていましたが、ヨハネを信じて込んでいた民衆を恐れて「分からない」と逃げたのです。 イエスは、その彼らの真の姿を、ぶどう園の農夫たちの姿に譬えて浮き彫りにしました。 イエスは、すべてのものは神から出ている。 収穫が得られるよう、神が預けておられる。 神は、そのことを知らせようとして忍耐をもって待っておられる。 何度も機会を与えてくださる、 そのためにみ子さえも遣わしてくださる。 そのことをぶどう園の主人を神に、農夫たちを彼らになぞって語られたのです。 神からでてくる真の権威は、人間が努力してつくり上げた権威や、形だけの権威や、偶像をことごとく破壊していく力があります。 神からわたしたちに託された真の権威は、この世の権威からまったく自由です。 そのことをイエスはご存じであった。 父なる神が、神の時に、神のふさわしい場で、明らかにしてくださるという確信を与えられていたのです。 ですから、イエスは、ユダヤの権威に動じません。 わたしたちもまた、この世の権威に恐れることもないし、しがみつく必要もありません。 パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされた」と断言しています。 神から出ている真の権威こそが、人間を偶像から解放してくださるのです。

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「福音を聞く者と福音を伝える者」 使徒言行録10章24~35節

2012-09-23

 カイサリアはユダヤ系民族とギリシャ系民族の争い、ユダヤ対ローマ帝国という争い、その悲惨な傷跡が残る場所でありました。 そこに住んでいたコルネリウスはローマの百人隊長でありましたが、ユダヤの神を畏れ民に施しをし、絶えず神に祈っていた人物でした。 そのコルネリウスが祈りの時に幻を見ます。 神の使いに「ペトロという者を招きなさい」と言われます。 一方、ペトロも同じ頃に、やはり祈りをしている時に妙な幻を見ます。 ペトロが今見た幻はいったい何であろうかと思案に暮れていると、神の霊が「送り出された三人の者が尋ねて来ている。 それらの者と一緒にためらわないで出発しなさい」とペトロに言います。 そこで初めてペトロは、コルネリウスという人物が自分を家に招いて話を聞くようにと神から告げられていることを知ります。 ペトロとコルネリウスは、同じ頃に、同じように祈りをささげている時に幻を見ました。 お互いにどこのだれだか知らずに、神の霊の声を聞いて二人はそれぞれに従いました。 そして二人は、神の霊の働きであったことを確認し合い、認め合います。 コルネリウスは、大勢の人を呼び集めてペトロを待っていました。 ペトロが到着すると、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して拝んだとあります。 そのコルネリウスをペトロが抱き起こして「お立ちください。 わたしはただの人間です。」と声をかけます。 この二人の姿は、神の霊の働きを神の業として受け止め、不確かなままに神の霊に従った姿です。 ユダヤ人にも、異邦人にも等しく神は働きかけ、神の霊をそれぞれに注ぎかけています。 この神の業を担ったペトロとコルネリウスは、実際に自分の身に起きた神の示されたことを互いに分かち合ったのです。 福音が伝わって行く本当の喜びは、この一つの神の霊に聴き従うことによって、福音を聞く者と福音を伝える者とが一つにされていくということです。 福音を聞く者には、「従いなさい」という神の声が迫ります。 福音を伝える者にも「戦い」が起こります。 ペトロは律法で禁じられていた異邦人との交わりという壁にぶつかります。 しかし、ペトロは「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と言われた大勢の異邦人を目の前にします。 ペトロは、どのような人をも分け隔てなさらない神の業を確信します。 語られたたったひとつの福音によって、福音を聞く者も、福音を伝える者もそれぞれが新しく造り変えられます。 そこに人の群れができる、教会が生まれる。 パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音にともにあずかる者となるためです」と言っています。

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