「真の権威による自由」 ルカによる福音書20章1~8節
わたしたちは、この世の様々な権威に支配されているのが事実であろうと思います。 権威どころではなく、様々なものに無意識のうちに囚われ縛られているのが現実です。 その時の常識であったり、価値観であったり、周囲の目や置かれている立場であるかもかもしれません。 残念ながら、そうしたものがわたしたちを刷り込み、支配しているのが現実です。 そういう意味では、わたしたちが何に拠って立っているのか、何を信じているのか分からなくなる時があります。 イエスが、いつものように民衆にみことば教え、福音を告げ知らせていた日常生活のある日、出来事が起こりました。 「イエス、あなたは何に拠って立っているのか」という問いが突然迫ったのです。 迫って来た人々とは、ユダヤの最高法院を構成する指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちでした。 今ある秩序に築き上げられた権威の上に安住する者たちでした。 ユダヤの権威にひざまづかせ、従わせようとした彼らに、イエスは、「ヨハネのバプテスマは、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」と逆に問い返します。 彼らは、バプテスマのヨハネは神から遣わされた者でもなく、そのバプテスマも天からのもではないとしていましたが、ヨハネを信じて込んでいた民衆を恐れて「分からない」と逃げたのです。 イエスは、その彼らの真の姿を、ぶどう園の農夫たちの姿に譬えて浮き彫りにしました。 イエスは、すべてのものは神から出ている。 収穫が得られるよう、神が預けておられる。 神は、そのことを知らせようとして忍耐をもって待っておられる。 何度も機会を与えてくださる、 そのためにみ子さえも遣わしてくださる。 そのことをぶどう園の主人を神に、農夫たちを彼らになぞって語られたのです。 神からでてくる真の権威は、人間が努力してつくり上げた権威や、形だけの権威や、偶像をことごとく破壊していく力があります。 神からわたしたちに託された真の権威は、この世の権威からまったく自由です。 そのことをイエスはご存じであった。 父なる神が、神の時に、神のふさわしい場で、明らかにしてくださるという確信を与えられていたのです。 ですから、イエスは、ユダヤの権威に動じません。 わたしたちもまた、この世の権威に恐れることもないし、しがみつく必要もありません。 パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされた」と断言しています。 神から出ている真の権威こそが、人間を偶像から解放してくださるのです。
[fblikesend]「福音を聞く者と福音を伝える者」 使徒言行録10章24~35節
カイサリアはユダヤ系民族とギリシャ系民族の争い、ユダヤ対ローマ帝国という争い、その悲惨な傷跡が残る場所でありました。 そこに住んでいたコルネリウスはローマの百人隊長でありましたが、ユダヤの神を畏れ民に施しをし、絶えず神に祈っていた人物でした。 そのコルネリウスが祈りの時に幻を見ます。 神の使いに「ペトロという者を招きなさい」と言われます。 一方、ペトロも同じ頃に、やはり祈りをしている時に妙な幻を見ます。 ペトロが今見た幻はいったい何であろうかと思案に暮れていると、神の霊が「送り出された三人の者が尋ねて来ている。 それらの者と一緒にためらわないで出発しなさい」とペトロに言います。 そこで初めてペトロは、コルネリウスという人物が自分を家に招いて話を聞くようにと神から告げられていることを知ります。 ペトロとコルネリウスは、同じ頃に、同じように祈りをささげている時に幻を見ました。 お互いにどこのだれだか知らずに、神の霊の声を聞いて二人はそれぞれに従いました。 そして二人は、神の霊の働きであったことを確認し合い、認め合います。 コルネリウスは、大勢の人を呼び集めてペトロを待っていました。 ペトロが到着すると、コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して拝んだとあります。 そのコルネリウスをペトロが抱き起こして「お立ちください。 わたしはただの人間です。」と声をかけます。 この二人の姿は、神の霊の働きを神の業として受け止め、不確かなままに神の霊に従った姿です。 ユダヤ人にも、異邦人にも等しく神は働きかけ、神の霊をそれぞれに注ぎかけています。 この神の業を担ったペトロとコルネリウスは、実際に自分の身に起きた神の示されたことを互いに分かち合ったのです。 福音が伝わって行く本当の喜びは、この一つの神の霊に聴き従うことによって、福音を聞く者と福音を伝える者とが一つにされていくということです。 福音を聞く者には、「従いなさい」という神の声が迫ります。 福音を伝える者にも「戦い」が起こります。 ペトロは律法で禁じられていた異邦人との交わりという壁にぶつかります。 しかし、ペトロは「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」と言われた大勢の異邦人を目の前にします。 ペトロは、どのような人をも分け隔てなさらない神の業を確信します。 語られたたったひとつの福音によって、福音を聞く者も、福音を伝える者もそれぞれが新しく造り変えられます。 そこに人の群れができる、教会が生まれる。 パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音にともにあずかる者となるためです」と言っています。
[fblikesend]「主人が帰ってくるまでの間の僕」、 マタイによる福音書25章14~30節
有名なタラントンの譬えです。 人にはそれぞれに応じたタラントンが与えられている。 ふさわしく用いるべきであると読めます。 その通りです。 しかし、この譬えには背景があります。 イエスがご自身の十字架の死を直前にして、もう一度来られる日のことを語ったイエスの言葉が集められている聖書箇所の中で、この譬えが語られているのです。 イエスが語られる「もう一度来られる日」、「終りの日」は、必ず訪れる。 しかし、その日までには「あいだ」がある。 その「あいだ」の備えを、イエスは愛する弟子たちに告げているのです。 ですから、直前の13節に「目を覚ましていなさい。 あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言います。 このタラントンを僕たちに託して旅へ出て、戻ってくる主人こそイエス・キリストです。 この主人は、「かなり日がたってから」戻ってくると言います。 主人は、それぞれの僕の成果を問題とはせず、その戻ってくるまでの「あいだ」の僕たちの忠実さについて問題にします。 1タラントンは6,000デナリです。 1デナリは働く人の一日の賃金だと言われます。 1タラントンといえども15~16年分の賃金に相当する額です。 主人は、僕たちに多くの信頼とともに多くの財産を託しました。 それだけでなく、その財産を豊かに用いるために、戻ってくるまでの「あいだ」の時をも与えます。 主人は、豊かに用いた僕とともに喜び分かち合うために戻ってくるのです。 預けてくださったのは、主人であるイエスご自身のみことばであり、イエスの愛であり、イエスの平和です。 本来、私たちが持ち合わせていないものです。 放っておいても、自ら叫び出し満ち溢れ出てくるものです。 ですから、主人であるイエスは、託されたものを用いることは難しくないと言います。 主人であるイエスのために用いることが難しい、恐ろしいと思える時でも、何もしなかった自分を守るために言い訳をしてはならないのです。 神のみ子であるイエスに満ち溢れるものを、わたしたち僕たちは何の資格もなく、何の理由もなく預けられているのです。 この与えられたものを喜び用いていく者は、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになる。」と、イエスは付け加えています。 私たちがともすれば忘れがちな「終りの日」、「神の国の始まりの喜びの日」に目と心を向けたい。 イエスが再び戻って来られる時までの「あいだ」、私たちに委ねられているイエスの持ち物を、喜んで用いる務めが与えられているのです。 忠実な良い僕とはこの恵みによって立ち上がり、イエスの信頼に応えていく者です。
[fblikesend]「来て、見なさいという信仰」、 ヨハネによる福音書1章43~51節
アンデレはペトロに向かって「メシアに出会った」と言って、そのペトロをイエスのところへ連れて行きました。 イエスはこの二人が近づいてくるのを見て、「来なさい。 そうすれば分かる。」と言われました。 その翌日には、イエスはフィリポに出会って、直接「わたしに従いなさい」と言われました。 そして、イエスに従ったフィリポがナタナエルに「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」と言い、イエスのところに連れて行きます。 最初のイエスの弟子たちは、歩いている、言葉を語りかけるイエスを見て出会っています。 イエスを見て出会った弟子たちは、イエスがだれであるのかを自分の言葉で語っています。 語るだけでなく、イエスのところに連れて行こうとします。 そこには、「わたしに従いなさい。 来なさい、そうすれば分かる」というイエスの招きがあります。 フィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい」と言います。 フィリポは、ナタナエルを誘う際に「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」とも証言します。 常識的なナタナエルは、異邦人の町であるガリラヤのナザレなどからメシアは出てくるはずはないと、イエスに疑問をもちます。 ナタナエルは疑問をもちながらも、イエスに近づきます。 すると、イエスはナタナエルに「フィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」、あなたは「まことのイスラエル人だ」と言われました。 イエスは、悩み苦しむユダヤ人の中から、本当の救いを求めて立ち上がる者を「まことのイスラエル人」と表現したのです。 一面識もない方であるのに、自分が知られていることを知ったナタナエルは、イエスの言葉に畏れを感じます。 「あなたは、神の子です」と告白するに至ったのです。 しかし、イエスは、あなたは「いちじくの木の下にいるのを見た」と言ったので信じたのかと、ナタナエルの心を見抜きます。 イエスは、疑いつつも近づいて来るナタナエルを受け入れました。 人間では考えられないことに驚いて信じたナタナエルをも受け入れました。 わたしたちは、ナタナエルと同じように、すでに神に選ばれ、知られ、イエスに前もって委ねられている存在です。 イエスは、ナタナエルに「天が開け、神の天使たちがわたしのうえに昇り降りするのを見ることになる」と言います。 イエスが、神の世界とわたしたちの世界をつなぐ、神がおられる唯一の場所である、神と出会うことのできる唯一の場所であるのを見ることになると言ったのです。 弟子たちは始めて、ナザレ人である人間イエスこそ、神に他ならないと確信したのです。
[fblikesend]「ひとりひとりに与えられる霊の賜物」 コリントの信徒への手紙一12章1~11節
コリントの教会の中では、一人一人に与えられている賜物について、どのような賜物が優れているのか、
賜物の内容について争うような事態が起こっていたようです。 パウロはこのような事態に直面して、コリントの教会を愛しているからこそ、霊の賜物の意味について明らかにする必要に迫られます。 パウロは教会の人々に、まだ異教徒であった頃、言葉を語らない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているだろう。
偶像は決して言葉を語ったりしなかったではないか。 あなたがたに語りかける力などなかったではないか。 イエス・キリストの神は、言葉によって世界を創造し、言葉によって世界を裁き救われるお方である。
この神から出てくる神の霊は、この神の言葉に結びついている。 霊の賜物を受けるとは、この神の霊によって神の言葉を語ることができるようになることであると、パウロは言います。 「イエスはわたしたちの救い主である」と語ることができるようになる。 神のみ子であるイエスを信じるようになることであると言います。 しかし、パウロは、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるため」と言います。 わたしたちがともに進むために、わたしたち一人一人に霊の賜物が与えられていると言うのです。 一人だけのものではない。 勘違いをしてはならないのです。 全体とは、神の意志によってこの地上でイエスのもとに集められた群れのことです。 この聖書のところでは、コリントの教会のことです。 教会という群れを建て上げるため、キリストにつながる一人一人が互いに補い合うためのものなのです。 その霊の賜物を、同じ唯一の霊が、望むままに、それを一人一人に分け与えてくださっているのです。 わたしたちは、この霊の賜物を神の恵みとして受け取ります。 そこには、感謝と喜びがあります。 これこそが、教会の群れの生命線です。 この生命線を経たキリスト者の間には、たとえお互いに衝突が起こったとしても、人間の弱さを越えて、衝突を越えてイエスが立っておられることを知ることができます。 わたしたちには、残念ながら、他者の苦しみや喜びを心から共有することのできない限界と現実があります。 しかし、人の喜びを喜び、人の苦しみ
を苦しむことのできるただひとりのお方にわたしたちは結ばれているのです。
「イエスの心を表す愛」 ルカによる福音書7章36~50節
「シモン」と「罪深い女」というふたりの人物が登場します。 シモンは、律法を守るということに熱心な人でした。 そのシモンはイエスの聖書の教えに敬意を払い、食事の席を用意し、食卓を整え、イエスを招きます。 そこに、「罪深い女」とされるひとりの女性が現れます。 娼婦であったと言われているこの女性はイエスにささげるために、食事の席に入ってきたのです。 「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」のです。 ほこりにまみれた足をきれいにすることは、奴隷の仕事でした。 女性が男性の前で、かぶりものを脱いでまとめている髪をほどくことは、恥ずべきことでした。 香油は、ナルドの香油という高価なものでした。 イエスは、この女性が遠慮しながら精いっぱいささげた心を、受け入れたのです。 シモンは、イエスが触れている女は「罪深い女なのに」と心の中でつぶやきました。 このシモンの愛の貧しさを知って、イエスはひとつの譬えを用いて、借りのある人が赦してもらった赦しの大きさを問題にします。 そして、多く赦してもらった人は、どのような人になるかを、たった今、食事の席で見ることができたひとりの女性の姿で浮き彫りにします。 イエスは、この女性が「多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言います。 シモンは、自分は神殿の祭儀を忠実に守り、定められた行いを忠実に果てしていると自負します。 シモンには、感謝がないのです。 しかし、この女性はシモンと違って、自分が赦されなければならない存在であることを知りました。 イエスによって、傷だらけのままの自分が受け入れられていると感じました。 この女性は、自分の罪が赦されたいから、イエスに振る舞ったのではありません。 言葉にすることができないぐらい、何かに押し出されたのです。 自分が持ち合わせている香油を惜しみなくささげ、自分の涙で、自分の髪の毛で、自分の口で、イエスの後ろから、泣きながらささげものを表現したのです。 イエスは、この精いっぱいの感謝を表したこの女性に、「あなたの罪は赦された。 あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。」と言われたのです。 イエスの心は、惜しみなく赦し愛する心です。 このイエスの心に満たされて初めて、愛し感謝していくことができるのです。 イエスは、この女性に、今、あなたが触れた恵みの中で安心して生きて行きなさいと送り出したのです。
[fblikesend]「真の指導者」 ヘブライ人への手紙13章7~16節
「真の指導者」 ヘブライ人への手紙13章7~16節
この手紙の受取人は、「あざけられて、苦しめられて、見せ物にされ」ても、「苦しい大きな戦い」に「喜んで耐え忍んだ」人たちでした。 しかし、残念ながら今では、この手紙の表現を借りますと、「耳が鈍くなっている。 再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわなければならなくなっている」人たちでした。 しかし、この手紙の送り主は、「最初の確信を捨ててはいけません。 この確信には大きな報いがある。 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となる。」と、再び立ち上がるよう励まします。 「神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい」と言います。 この手紙の想定する「神の言葉を語った指導者たち」とは、迫害によって殉教した、そうでなくてもすでに亡くなられた福音の宣教者、教会の指導者たちのことを言っているのでしょう。 それが「彼らの生涯の最後の終りをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」という言葉なのです。 聖書は、殉教した信仰者を英雄視したり、その死を美化したりすることは決してありません。 聖書に記されている数少ない信仰者の最後の姿を、使徒言行録に表されたステファノの姿に見ます。
イスラエルの人々による理不尽なリンチとでもいうべき仕打ちに際して、自分自身の死を前にして遺したステファノの最後の姿は、祈りの姿でした。 「主よ、わたしの霊をお受けください」と、主に呼びかけて、主を見上げました。 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、同じ罪人として主の前にひざまづいて、とりなしの祈りをささげました。 ステファノは、自分自身と目の前にいる全ての人々を、この二つの祈りによって神に託しました。 この手紙の送り主は、この信仰者の最後の姿にある、祈り続ける信仰を見倣いなさいと言います。 しかし、わたしたち人間の地上での生涯には、最後があります。 しかし、イエス・キリストの生涯には終りがありません。 「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」お方です。 神の言葉を語り、最後まで歩んだ信仰者の姿を通して、この変わらない真の霊的な指導者であるイエス・キリストの姿に見倣いなさいと語りかけているのです。 わたしたちは、この変わらないイエス・キリストだけを唯一の祭壇としたのです。 イエス・キリストが赴き、立ち続け、辱めを受けられたところに、わたしたちも
また立つのです。
「変わらぬ愛の父」 ルカによる福音書15章11~32節
放蕩息子の譬えは、イエスの譬えの中でももっとも有名であるかもしれません。 イエスは、自分勝手に
身を持ち崩してしまったこの「弟」の姿だけでなく、「兄」の姿を通してもわたしたちの本当の姿を語ります。 やっと我に返って、心も体も打ちのめされて戻ってくる弟息子を迎える父は、憐れんで走り寄って行きます。 父は、この息子をずっと待ち続けていたのです。 人の欲望のままに、人の傲慢によって、父のもとを離れて行った罪のゆえに苦しんだ自らの息子の心の嘆きを察して、憐れんだのです。 ひとりで苦しみ悲しんだであろう息子の嘆きを、息子の犯した罪に刺し通された父の痛みによって、抱きかかえて接吻したのです。 息子が何もしない、何も語らない前に、父は憐れんで抱きしめたのです。 父のこの変わらない愛が、この弟息子の悔い改めを、心の奥底から引き出し告白させます。 弟息子は、ひとつひとつの悪い行いを嘆き悔やんでいるのではありません。 自分自身が、父の愛のもとにあったことを忘れてしまった、父を見失ってしまっていたことに気づかされたのです。 父なる神に対するわたしたちの悔い改めは、過去に犯した出来事に対する後悔や懺悔ではありません。 自分自身の本当の貧しさに気づかされ、父なる神の一方的な無条件の愛に気づかされ、まったく新しくつくり変えられるという実体験です。 「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と語り始める弟息子の言葉を遮り、父は「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と僕に言って、だれが見ても自分の息子であることが分かるように息子の身を飾らせるのです。 兄は、おもしろくありません。 父の言いつけを守らず、自分勝手に父の身上をつぶした弟を、父の息子として受け継ぐ資格がないと主張します。 兄にとっては、父の言いつけを守ることが重荷となり、そこには喜びも感謝もないのです。 弟は、父の赦しのみ腕の中に、身を投げ出して悔い改めました。 兄は、もっとも父に近いところにいながら、父にもっとも遠い存在となっているのです。 しかし、父は、自分勝手な放蕩息子を迎えに駆け寄ったばかりでなく、弟と比較して弟よりも愛されていないと嫉妬に縛られている孝行息子にも、父の愛を通して弟を見ることを知らせ、父の家に招くのです。 神は失われた一人を見出すことを喜ばれます。 そして神の家の中では、そのことをともに喜ぼうと人々を招いておられます。聖書に、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」とあります。 神ご自身が、わたしたちのぼろぼろの姿に、嘆きや悲しみや苦しみのただ中で、いちばん良い服を着せ、手に指輪をはめさせ、足に履物をはかせ、神の子である、神の家族であることが一目でわかるように、装ってくださるのです。
「ふたりの選ばれた者」 使徒言行録 8章26~40節
サマリアにおいて福音の宣教に大きく貢献したフィリポに、神様は次の使命を与えられます。 「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と、神の使いを用いて命じます。 大群衆が待ちうける所ではなく、荒れ果てただれも通りそうにない寂しいところに行けと神は言われます。 すると、エチオピアの女王に仕える宦官にフィリポは出会います。 エチオピアは、当時、南の果てと言われていました。 宦官とは、女王に仕える位の高い職です。 このエチオピアの宦官を見かけたフィリポに向かって、神の霊がその宦官を「追いかけて、一緒に行け」と言うのです。 どうみても、ほとんど共通点のない、寂しいところでのたったふたりのだけの不思議な出会いです。 フィリポは、神の霊に導かれ、サマリアでの働きの後すぐに示される所に出かけていきました。 宦官が乗っている馬車を追いかけさせたのも、神の霊でした。 フィリポは、絶えずこの神の霊に従っていきます。 宦官もまた、南の果てからはるばるエルサレムに独りで礼拝するために、足を運んで来ました。 宦官という職は、女王に仕えるために、男性としての機能を失われていましたので、ユダヤ社会からは断じて認められないものでした。 しかし、この宦官は、預言者イザヤの書が語る「わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、その名は決して消し去られることがない」という神のみ言葉に、一筋の希望を持っていたのです。 フィリポを通して、神は宦官に働きかける。 宦官に向けて、神はフィリポを遣わす。 フィリポも宦官も分からないまま、神によって選ばれた二人として、神が選ばれた場所で出会うのです。 ここには意識しようとしまいが、神の霊に導かれるところに出向いて行った二人の従順がありました。 宦官は、かねてよりイザヤが預言している「羊のようにほふり場に引かれて行った、毛を刈る者の前で黙している小羊のように口を開かない」お方はいったいだれのことなのかと疑問を持っていました。 フィリポは大胆に「おわかりになりますか」と、宦官の馬車の中に入り込んでくるのです。 宦官は、フィリポの大胆さと熱心さにうなずいて「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と言って、謙虚に「馬車に乗ってそばに座るように」と頼みます。 フィリポは、神によって遣わされた者、神の霊に従う神の器でありました。 奇跡というしるしを用いず、神のみ言葉だけによりイエスに導いた人でした。 宦官は、礼拝をすることを求め、み言葉に希望を持ち、み言葉に渇いていた人でした。 霊に身を委ねる人、霊に導かれて賜物として受け入れることのできる人こそ、神に選ばれた者です。 そのふたりの交わりに、神の霊が働かれたのです。
[fblikesend]「イエスの後に従う者」マルコによる福音書 8章31~9章1節
群衆が思い描いていたメシア、ペトロが思い期待していたメシアとしてのイエスの姿は、これから辿って行こうとしておられるイエスの姿とは、余りにも違いがありました。 イエスは、弟子たちに、エルサレムを目指して十字架に向かって行こうとする時に、初めて真の姿を極めて具体的にはっきりとお話しになったのです。 イエスは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに排斥されて、殺され、三日の後に復活することになる」と予告されたのです。 ペトロは、そんなことが起こる筈がないとイエスを諌め始めたのです。 ここに、わたしたちの罪の恐ろしさを見ることができます。 自分が期待するようなイエスになってもらわないと困ると、自分を守るのです。 イエスの前に立ちはだかって、イエスを遮ろうとするのです。 イエスは、愛する弟子であるペトロに「サタン、引き下がれ。 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責します。 引き下がれとは、わたしの前に出ないで、わたしの後について来なさいということです。 イエスは、荒野におけるサタンの誘惑を皮切りに、生涯がこの「神のことを思わず、人間のことを思う」誘惑との戦いでした。 一時、離れていたサタンが、なんと愛する弟子であるペトロの口から現れ出て来たのです。 この弟子たちの姿をご覧になって、イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、そこにいるすべての人々に向けて、「わたしの後に従いたいと思う者は」と語り始めたのです。 特別に信仰の篤い人であるとか、特別に何か使命を与えられている人だけではなく、例外なく、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言います。 イエスは、無駄に殉教の死を遂げなさいと言っているわけではありません。 十字架という横木を担いで、屈辱的な姿をさらしながら神のみこころだけに従っていく。 イエスに従うということは、このへりくだった姿、イエスと同じ姿をもって、イエスの後に従って歩むということです。 自分勝手な思いを捨て、自分が独りよがりに生きることに死ぬということです。 この世に属する自分に別れを告げて、神の霊によって新しい命に生きるということです。 まったく新しく生まれ変わるということです。 わたしたちのはかない短い命も、イエスのために、福音のために用いられるならば、神の恵みによって命の根源である神から永遠の命が与えられるのです。 聖書には、人には永遠を思う心を与えられていると書いています。 はかない一瞬のために、この尊い永遠を思う心を犠牲にしてはならないのです。
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