秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「約束を待ち望む者」   ルカによる福音書 2章22~30節

2014-01-05

生まれたばかりのイエスとの出会いを通して、賛美と祈りを叫んだひとりの年老いた人物がいます。 イエスの両親は、モーセの律法に記された通りにエルサレムの神殿に出向いて行きます。 その時、シメオンというエルサレム神殿の祭司が、霊に導かれて神殿の境内に入ってきます。 律法を通して導かれた両親に連れられて来られた幼子イエスと、霊に導かれたシメオンとの、神によって引き起こされた出会いでした。 シメオンは、聖書には「正しい人」、「信仰があつい人」であった。 自分のためではなく、「イスラエルが慰められるのを待ち望んだ人」であった。 「救い主に出会うまでは死なないと約束を受けていた、聖霊が留まっていた人」であったと言います。 そのエルサレム神殿の祭司であったシメオンが、イエスを連れて来た両親に自分の方から駆け寄って、その幼子を抱き上げたと言うのです。 供え物も満足に用意できなかった貧しい夫婦です。 エルサレム神殿には、数多くの参拝者が訪れたであろうことを思えば、目に留まるはずのない小さな存在であった夫婦です。 祭司シメオンは、その幼子イエスを腕に抱いて「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目で救いを見たからです。」と叫んだのです。 神がシメオンの生涯を通して語らせた、神への賛美と祈りの言葉だったのです。 
 シメオンは、霊によって与えられた神の約束を待ち望んで、祈りと礼拝の場を年老いても離れることはありませんでした。 「救い主に会うまでは」と、祈りの家に礼拝の民として生き抜いて、この自分の場を離れなかったのです。 この救い主に出会うことが、シメオンの生きる目的でありました。 そのために、置かれた場所を離れず、待ち望んで生きてきたのです。 もはやそう遠くはなかろう、自分の生涯のかなたに、その約束を果たしてくださった神が用意してくださっている「神の国」をはっきりと見出し確信したのが、「わたしはこの目であなたの救いを見た」「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。」というシメオンの言葉でした。 この主イエスに出会うことができるかどうかは、私たちの内なる信仰が、今、どのような状態であるのかということです。 私たちは、この主イエスに、どのような顔で出会うのでしょうか。 主は、私たちの信仰を探し、見ておられます。 そのことに気づくためには、神の約束を知り、悟ることです。 そして、待ち望むことです。 そのために、祈りと礼拝の場を離れないことです。 私たちの限られた生涯、「わたしはこの目であなたの救いを見た」という恵みをいっぱいいただきたい。 神は、たったひとりのためにここまで、ご真実なお方であることを心から感謝したい。 

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「一年を振り返って」   マタイによる福音書 8章18~27節  

2013-12-29

イエスは、群衆に取り囲まれた地ではなく、向こう岸で働かれることをお選びになりました。 愛する弟子たちに、そこで務めがあることを教えるためでした。 イエスに従うということを教えるためでした。 イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われた時に、自分に従ってくる2人の人物に言われました。 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と意気揚々と語った律法学者です。 イエスは、この学者に「自分には枕する所がない」と言います。 自分には、何もない。 群衆に持ち上げられて輝かしく見えるだけの自分についてくるなら見当違いであると語られたのです。 もう一人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言った弟子です。 イエスは「先ず、わたしに従いなさい」と言います。 この世の事を第一にして、その残りで私に従ってくるのなら、見当違いであると言われたのです。 どちらも、捨てきれない自分を捨てることをイエスが迫るものでした。 私たちの心の中にある姿です。 そう語って、イエスは「向こう岸に渡ろう」と自ら舟に乗り込んだのです。 そのイエスに従った弟子たちが、激しい嵐に見舞われたのです。 湖のほとりに留まり、遠目にイエスを眺めていた群衆とは違うのです。 どのような所に連れて行かれるのか分からないが、イエスが先頭切って乗り込まれた舟に一緒に乗り込んだ弟子たちでした。 律法学者のように安易な心持ちで従ったのではありません。 この世の事柄に囚われて二の足を踏んだ弟子とは違うのです。 その弟子たちがイエスとともに乗り込んだ舟が、平穏無事ではなかったということです。 自分たちの経験や力ではどうすることもできなくなって、「主よ、助けてください。 おぼれそうです。」と願ったのです。 イエスは、願い祈る弟子たちに「なぜ、怖がるのか。 信仰の薄い者たちよ。」と声をかけられます。 嵐に出会ったのは、イエスを信じて自分を捨てて舟に乗り込んだからです。 根底から自分というものを揺り動かされた弟子たちでした。 その弟子たちに、イエスが語りかけた言葉です。 弟子たちを責めているのでしょうか。 イエスは、この弟子たちの拙い祈りに応えて、風や湖を静めたではありませんか。 イエスに従い、根底から揺り動かされた弟子たちが見たものは、「風と湖をお叱りになったイエスの姿です。 嵐が過ぎ去った後に、向こう岸で悪霊を支配し追い出すイエスの姿だったのです。 すべての権威を授かっておられ、ひとりの人を取り戻すイエスの姿を目の当たりにしたのです。 このイエスの出会うことのできる人は、平穏無事ではないけれど、イエスとともに舟に乗って向こう岸に向った人たちであったのです。 私たちのこの一年もまた、様々な出来事の中に恵みを備えて、一緒に向こう岸に行こうと招く主イエスとともにあったのです。 

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「私たちに宿るイエス・キリスト」   マタイによる福音書 2章9~15節  

2013-12-22

28名の幼稚園の子どもたちが演じるページェントに心が打たれました。 登場する当時の一人一人にとって、最初のクリスマスはどれほど突然であり、驚きであったことでしょう。 星が東方の占星術の学者たちを導いて来た場所を考えてみてください。 家畜小屋であったと言われています。 世の中の片隅に追いやられた、忘れられた貧しい所です。 そこにたたずむのは、生まれたばかりの幼子と父親と母親が小さく寄り添った弱々しい家族の姿です。 そのような所に、父なる神はご自身の大切なたったひとりのみ子を、「ともにいる」と委ねられた。 その布にくるまれた赤ちゃんの生涯を考えてみてください。 多くの人々に見向きもされない、歓迎されない誕生でした。 ヘロデ王の殺意に迫られる中で生まれ、その殺意から逃れるために逃亡を余儀なくされた誕生でした。 ついには、十字架という刑に、理由のないままに死を余儀なくされた流浪の生涯でした。 聖書は、この生涯を「みるべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなかった」と預言してします。 それは、「わたしたちの病を担うため、わたしたちの痛みを負うためであった」と言います。 この赤ちゃんに託された流浪の生涯によって、私たちが身に帯びている痛みや悲しみや苦しみがともに担われ直され、軽くされ、神の事とされていくのです。 この世の片隅に置かれた私たちを顧み、「ともにいる」と語りかけてくださるのです。 神が約束して、神が準備して、神が贈り物としてくださった現実です。 私たちは、それをただ受け取るだけです。 このクリスマスの出来事は大昔のことでしょうか。 この神の業を本当に私たちは信じているでしょうか。 神が約束されたことは、必ず果たされます。 すべては、神が始めておられることです。 神はこのことを、このみ子イエスを通して、世界の片隅の家畜小屋で、選ばれた小さな家庭に現わされたのです。 
 この幼子イエスの生涯を見届けた人物を忘れてはなりません。 母マリアです。 驚きと戸惑いのなかにも、神の起こされる業に翻弄されながらも、「お言葉通りこの身になりますように」と黙って従った生涯でした。 この服従が、神の救いの業をつくり上げたのでしょう。 しかし、もうひとつ大事な務めを果たします。 本来なら、自分の手元に置いて、母親の愛情をもって我が子を育てたかったでしょう。 しかし、我が子の振る舞いが理解できずに、ひたすら心に留め置くだけでした。 自分のおなかを痛めたその子が、どのような生涯をおくったのか心に刻みつけていきます。 イエスの成長とともに霊なる胎動を感じながら、神の子イエスが彼女自身のからだの中に息づいて形づくられていきます。 神は、この一人の平凡な乙女を、身分の卑しさを選んで、神のひとり子の生きた証し人として用いられたのです。 その賛美と感謝が「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をほめたたえます。 身分の低いこの主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」というマリアの言葉であったのです。 私たちもまた、今年訪れたクリスマスを迎えて、このイエス・キリストを私たちの体の中に宿して参りたいと願います。

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「ヘロデ王と学者たち」   マタイによる福音書 2章1~12節

2013-12-15

 クリスマスは一人の例外もなく、私たちの身に迫る出来事です。 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と言います。 ユダヤに君臨していたヘロデ王は、ユダヤ人ではありませんでした。 ユダヤ人でない者が、ユダヤの国で頭角を顕していったわけですから、才覚も、大胆さも、粘り強さもあったのでしょう。 ローマの威光を盾にして、自分の権力を築き上げてきた人物です。 苦労してやっと築き上げた「ユダヤ人の王」という称号だったのです。 ところが、異邦人たちも、ユダヤ人の王がお生まれになったと言う。 ユダヤ人たちも、ベツレヘムにユダヤ人の王が生まれることになっていると言う。 もしかして、「ユダヤ人の王と呼ばれる称号」が奪われてしまうかもしれない。 そう思ったヘロデがクリスマスにとった行動が、「ユダヤ人の王がお生まれになったと言う占星術の学者たちを、ひそかに呼び寄せる」ことでした。 その生まれた赤ちゃんを抹殺しようと企てたことでした。 いずれ失ってしまう筈の小さなことに囚われ続けるヘロデの姿でした。 
一方、星に示されながら拝むためにユダヤにまで駆けつけた学者たちがいます。 彼らの旅は、先立って導く星を頼りにした夜の旅でした。 足もとを見るのではなく、天を仰いで進んでいたことになります。 彼らは、自分のしなければならないことを故郷に残して、天を仰いで光の輝きが示すお方を求めて旅立ったということです。 これが、最初のクリスマスに、異邦人の学者たちがとった姿でした。 その星の輝きが止まったところが、彼らの終点でした。 どこに行くのか分からないで、自分を空しくして星の輝きに従った者だけが辿りつく所です。 彼らは、ベツレヘムに止まった星を見て喜びに溢れたと書かれています。 私たちの人生の旅と同じです。 今までもっていたものを捨てて始まった旅でした。 夜の手探りの旅でした。 足もとにつまづきながらも天を仰いで行く旅でした。 どこに連れて行かれるのか分からない神の声に導かれる旅でした。 行き着いた所が、思いもかけない馬小屋でした。 彼らは、この世でもっとも小さな弱い存在にひれ伏します。 この世で最も貧しい所で礼拝をささげます。 もっとも大切にしてきた宝の箱を、自ら開けて贈り物をささげます。 それまでの生き方そのものを、イエスの前に捧げたのかもしれない。 これから新しい生き方を始める旅であったのかもしれない。 イエスに出会い、礼拝して、再び、自分たちのもとの所へ帰って行ったのです。 彼らが自分を貧しくして旅立って足を運んで尋ねていって、「出会ったイエス」でした。 知っています、聞いたことがありますというイエスではありません。 様々な躓きや誘いを乗り越えて辿りついた、「神がともにあるというイエス」でした。 私たちは携え持っているもっとも大切なものをささげましょう。 自分に囚われ続ける生き方から、新しい生き方へと踏み出して、もとの所へ戻って背負い直しましょう。 最初のクリスマスが語るベツレヘムの星は、私たちの生活の中にあります。 

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「ヨセフとマリアを覆う闇」   マタイによる福音書 1章18~23節  

2013-12-08

 これから主イエスの誕生、そしてその赤ちゃんを育んでいくために必要なふたりの人物を、聖書はこのように紹介します。 「マリアとヨセフは婚約していた」「二人が一緒になる前に、マリアが身ごもっていることが明らかになった」「ヨセフは正しい人であった」と言います。 夫ヨセフの知らない所で、妻マリアが身ごもっていたことがこの二人に分かったのです。 正しい人ヨセフは戸惑います。 当時の常識では、十分に離縁する理由のある出来事です。 しかし、ヨセフはひとかけらも妻に問いただしも、怒りを顕わにすることもありません。 ヨセフは戸惑いの末に、律法に記された正しさを曲げて「ひそかに」離縁することを決心し思いやりとやさしさを顕します。 その時です。 「ダビデの子ヨセフ」と名を呼んで神は語りかけます。 「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」 その妻「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ」という声をヨセフは聞くのです。 ヨセフ、あなたはダビデの子孫にある。 妻となるマリアが身ごもることは、彼女の不始末などではない。 預言されてきた神の意志である。 選ばれたあなたがた二人が築き上げる家庭にその子を宿すことが、神の意志である。 恐れることはない。 あなたは、「マリアを身ごもったまま受け入れなさい」と命じたのです。 父親の特権でもあった名付けることさえもヨセフに赦されない、神の業であると言われたのです。 その神の業こそ、「神の救い」という名の、聖霊によって宿ったイエスである。 その神の救いの業の中味こそ、預言されてきたように「神は我々と共におられる」という名のインマヌエルの主である。こう告げられたことが、私たちのクリスマスの喜び、救いの中味です。  
 これからどうなるのか分からない暗闇の中で、ヨセフはこの神のみことばの約束に信頼し、従ったのです。 無言の信頼でした。 静かな覚悟でした。 もう一人忘れてはならないのは、マリアです。 何も言い訳しない、釈明も弁護も許されないマリアもまた、不安と悲しみの中に神に信頼したのです。 この二人には、暗闇に覆われた中でも神への信頼を失わなかった深い二人の連帯がありました。 本来、二人の間の新しい命は喜び合い、幸せを噛みしめる出来事の筈です。 この二人にとって喜びとなる筈の赤ちゃんが、二人の戸惑いと不安と絶望を引き起こしたのです。 しかし、神はこの暗闇を通して、人間の正しさや思いやりを越えて、神の救いと約束のみことばを告げたのです。 そのために選ばれた二人であったのです。 そのみことばへの信頼と服従を通して、この二人は本当の夫婦の出会いをしたのではないでしょうか。 この世界の片隅の小さな家族が、神の救いの新しい歴史の幕開けの担い手となったのです。 神が用意してくださった恵みを、二人が暗闇の中を無言のうちに受け取った出来事が、クリスマスの出来事です。 同じように、私たちのささやかな家庭にも最もふさわしい恵みを、クリスマスの出来事を神は用意してくださっています。 私たちの信頼と服従によって、これを受け取っていきましょう。  

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「まことの闇とまことの光」   ヨハネによる福音書 1章6~18節  

2013-12-01

 ヨハネの福音書には、マリアとヨセフが登場するクリスマスの風景、羊飼いの姿も、東方の学者たちの姿もありません。 ヨハネは、イエスがすでに成長し、公に活動し始めた時からしか語っていないのです。 ヨハネの福音書は、冒頭で「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 言の内に命があった。 命は人を照らす光であった。」と言います。 ヨハネは先ず、神は語りかける言葉をもつお方である。 この世のすべてのものは、この神の語られる言葉によってつくられた。 人は、この神の言葉に応える人格をもつ者としてつくられたと語ります。 このことは、天地創造の神の初めの業として語られ、言葉が初めからすでにあったものであることが分かります。 それ以来、神は、戒めを通して、また預言者を通してご自身の御心をこの言葉をもって語りかけられました。 それでも、神の「言」を聞こうとしないこの世に、ついに、たったひとりの神の子であるイエスが遣わされました。 この遣わされたイエスこそ、神の語りかける「言」です。
  ヨハネは、「言は肉体となった」、「言は、わたしたちの間に宿られた」、「わたしたちはその栄光を見た」と言います。 この「言」である神が、私たちと同じはかない「からだ」をもってくださって、悲しんで、苦しんで、死んでくださった。 そのからだをもって歩んだ生涯を、私たちが見ることができるようになった。 この「からだ」をもった神が私たちの間に宿られたのが、イエスのご誕生である。 「神が共に住み、神は自ら人とともにいてその神となられた」という神の国の先取りであると言っているのです。 
 ところが、私たちはこの神の「言」を聞こうとしません。 自分たちの力によって、何かしらの光を得ようと繰り返します。 人を赦したい、人を愛したい、平和をつくりたい、すべて分かっている。 でも私たちの現実は、人を殺してはいないけれど、人を傷つけ憎んでいる。 よくないことだと分かっていても、声を挙げる力も勇気もない。 平和を願っているけれど、自分の平和だけを願い、逆に平和を壊している。 この連続です。 自分に執着してささやかに生きていくのが精いっぱいです。 しかし、聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」と、私たちのこの現実を表現します。 そうです。 まことの光は、この真っ暗闇の中に輝いています。 争いや、恐れや、不安のなかでは闇に覆われ、自分にしがみつく、自分のはかない光を頼りにするしか他にない。 しかし、そのすぐ消えてしまうような光すらもつことができないような八方ふさがりの時に、私たちは出会います。 暗闇にすっかり覆われてしまっているそこにこそ、「まことの光」が見えてくる。 自分のはかない光を捨てて、暗闇に輝いている「まことの光」に立ち帰ることができる。 神がからだをもって見える光として降りて来て、その道を開いてくださったのがクリスマスです。 私たちは、「まことの闇」の中に「まことの光」を見ることができるのです。

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「私たちの決算の日」   ルカによる福音書 16章9~13節

2013-11-24

 不正を積み重ねた管理人のたとえが語られています。 この管理人が行ったことは、主人から託された財産を無駄遣いしたことでした。 他の人から告げ口をされて、その主人から「会計の報告を出しなさい」と迫られた。 すると、彼は仕事をやめさせられる前に、いずれ自分を家に迎えてくれるような者たちをつくることを思いついた。 権限のあるうちに、次々にその主人に借金のある人たちの負債額を軽くしてあげて、自分の友達をつくったというのです。 イエスのたとえの驚きは、その不正による損害を直接受けている本人であるその主人が、彼の抜け目のないふるまいを褒めたところです。 だれが見ても、道義的に許されるものではありません。 自分の決算が間違いだらけで、まったく帳尻があっていない生活があぶり出されてしまうその時に、わずかな時間を自分が生きるために懸命に行動したのです。 
 イエスは、この不正に不正を積み重ねた管理人の姿を通して、「この世の子らは、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。 主人の前に立つ前に、残された時にできることを懸命にしているではないか。 あなたがた永遠の住まいが約束されたひかりの子らは、与えられたこの世を忠実に生きているのであろうかと問われたのです。 私たちの決算は、すべて膨大な赤字です。 今もなお、赤字を増やし続けています。 神の富であったものを、自分のためにとことん食いつぶして、それでもなお自分のために用いようとする。 まさに、この管理人の姿です。 神を傷つけ、損害を与え続けています。 イエスは、その赤字を埋めなさいと求めているでしょうか。 不正の中に埋もれている私たちを非難しているでしょうか。 自分のために用いてしまった私たちをお見捨てになったでしょうか。 イエスは、神の前に立てなくなってしまった私たちすべての者の赤字を携えて、これから十字架のもとに向ったのです。 イエスが語っておられることは、道徳ではありません。 理想の社会をつくろうと言っているのでもありません。 いくら正しい方法で得た富であっても、自分のために用いるなら「不正にまみれた富」に変わりありません。 泥まみれの中に、不正にまみれた中に、悲しみや苦しみの中にこそ神のご真実が顕れる。 泥まみれ、不完全な私たちを用いて、この神のご真実を顕してくださると言っておられるのです。 永遠の住まいを約束された私たち「ひかりの子ら」に、神の救いを語ってくださっているのです。 私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる「友達」とはだれでしょうか。 私たちの膨大な赤字を携えて十字架にかかってくださったイエス・キリスト以外にありません。 私たちの生涯は、この世の限られた時間の中で、委ねられた富を神の前に賢く用いることです。 永遠の住まいに迎え入れてくださる「友」であることを、この世に向って大胆に証しすることです。 本来、神のものであったものを取り戻す務めがあるのです。 この世の子ら以上に真剣に、自分の決算の日に備えなさいとイエスは言われたのです。

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「選び取る必要なもの」   ルカによる福音書 10章38~42節  

2013-11-17

 マルタは、イエスの長旅の疲れを少しでも癒し、空腹を満たしていただこうと思ったに違いない。 この家を取り仕切っていたマルタは、もてなしのためにせわしく働きます。 イエスは、このマルタの招きを喜んでこの家にお入りになったのです。 ところが、もうひとりの姉妹マリアの姿を見たとたん、マルタの心の穏やかさが失われていきます。 イエスの足もとにじっと座って、イエスの話に聞き入っていたマリアの姿は、マルタには「何もしない姿」に映ったのです。 ついにマルタは、マリア本人ではなく、イエスに向って心が破れてしまったのです。 しかし、イエスは、「マルタ、マルタ」と二度も繰り返して名前を呼んでその心の破れに応えます。 イエスは、このマルタの招きによってこの家に入られたのです。 マルタのもてなしを喜んで受けたうえで、そのマルタに語りかけておられるのです。
 「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただひとつだけである。」と告げます。 この世が求める「多くのこと」と、「たったひとつの必要なこと」があると言います。 多くのことに囲まれ、思わず口走ったマルタの言葉を聞いて、イエスは憐れまれ、神に受け入れられることは「ただひとつ」、「神の言葉に聴くこと」である。 今、マリアに与えられている「神の言葉に聴くこと」を取り上げてはならないと言われたのです。 このマルタの家には、イエスという福音がマルタの熱心な招きによって訪れたのです。 そのイエスが語られるみことばを、マリアが受け入れているのです。 「マルタよ、決して、心を乱して遮ってはならない。」と、イエスは言われたのです。 これから十字架につこうとしておられるイエスのみことばが語られる恵みの場が、マルタの家に与えられているのに、「神の言葉に聴くこと」を後回しにしてはならない。 世の「多くのこと」をした後に、イエスのみことばに聴くのではない。 最初に時を捧げて、イエスの語るみことばに聴くことが私たちの「信仰の始まり」です。 それが、神の「祝福と恵みの始まり」です。

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「イエスの十字架の死による逆転」   マルコによる福音書 15章33~41節

2013-11-10

 イエスの十字架につけられた最後の12時間が語られています。 本来なら、一日のうちでもっとも明るいはずのお昼の12時に、暗闇が覆ったというのです。 ところが、午後3時になって、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、十字架につけられたイエスの大きな叫び声によって、事態は一変します。 
 このイエスの叫びは、自分を苦しめてきた人々に対するものではありませんでした。 今まで従い続けてきた父である神に向って叫んだものです。 人々からも、弟子たちからも捨てられたというイエスご自身の苦しみではありませんでした。 神のもとから離れてしまった私たち人間の罪を背負って、父である神から裁かれる苦しみであったのです。 これは、イエスだけが背負うことのできる苦しみです。 しかし、イエスだけの苦しみではありません。 父である神もまた裁く側にあって、自らの子どもであるイエスを裁く苦しみの中にあったのです。 私たちすべてのために、ご自身のみ子を惜しまず引き渡した苦しみの中におられたのです。父である神もまた、裁かれる側にあったイエスの苦しみを、ともに苦しまれたのです。 
 イエスがこの苦しみを背負い切った時に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 神殿の中の神がおられる所と他の場所を隔てるものが、この叫び声とともに裂けた。 神と人とを遮るものがなくなった。まったく責められることのないイエスが罪人とされて、神に裁かれた時に、すべての罪人が神の前に罪のない者とされたという逆転が起きた。 神に捨てられたイエスの絶望が、私たちの希望となった。 イエスが受けた侮辱と罵りと苦しみが、神の前に生きる私たちの力となったのです。 
 イエスの十字架の死の逆転の力は、それだけにとどまりません。 このイエスの死にざまを目の前にした百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった」と言ったのです。 百人隊長は、イエスの処刑の責任者であったのでしょう。 しかし、弟子たちからも捨てられたイエスの姿を最後まで見とどけた人物です。 「わが神」と呼ぶその神からも捨てられているのに、それでも「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と尋ね求め祈っている。 自分を見捨てた神を「わが神」と死の直前まで「なぜ」と問いながらも最後まで生き通している。 神に捨てられ絶望の中にあっても、その神を呪わず祈り続けている。 はっきりとイエスの言う「わが神」が、そこにおられるのをこの百人隊長は見たのです。 イエスの生涯も、教えも知らない、そのイエスを処刑した者が、十字架のうえにおいて、イエスが「わが神」と呼ぶ神と出会うことができたという逆転です。 それだけではありません。 遠くからイエスの十字架を最後まで見とどけた婦人たちにも及びます。 絶望しながらも、最後までイエスの苦しみの姿を見とどけた婦人が、よみがえりのイエスに最初に出会うのです。 イエスは、すべての弟子たちを失いましたが、この十字架の死を境に、今まで罪人と除外されていた異邦人の中から、また数の中にも入っていなかった女性たちの中から多くの逆転の実を結んでいったのです。 見たくもなかった苦しみの十字架を、忠実に最後まで見とどけた人たちです。 苦しむイエスの姿を、最後まで仰ぐ人たちに逆転の力、よみがえりの力が真っ先に与えられるのです。 私たちは、このイエスの苦しみを身にまとった生きた証人です。 私たちもまた、「なぜですか」と問いながら、十字架の苦しみに目を閉じることなく祈り、自分のこととして最後まで忠実に歩んで参りたいと願います。 

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「主イエスの祈り」   マルコによる福音書 14章32~42節  

2013-11-03

 私たちの世界は、「分かっている」ということが土台となっています。 分からなければ、とことん原因を追及する。 目に見える解決がどうしても欲しいのです。 今覆われている「暗闇」が過ぎ去って欲しい。 私たちは、分からないままの「暗闇」からどうしても脱出したいのです。 しかし、私たちキリスト者は、この「暗闇」の中にあっても絶望しません。 諦めません。 この中に留まることも厭いません。 なぜなら、その「暗闇」を照らす光があるからです。 私たちを救う者こそ、この「暗闇」の中に立って輝いていると信じているからです。 暗闇の中に留まり続けることは苦しい現実です。 その「暗闇」を見続けることも苦痛です。 理由が分からないからです。 しかし、イエスは、終りの日まで決して終わらない。 惑わされてはならない。 目を覚まして祈っていなさいと言います。 私たちは、その言葉を信じます。 
イエスは、地上の生涯の最後のご自分の祈りの姿を、弟子たちに見せます。 一人の人間として、深い苦悩の表情と姿を隠しません。 ひどく恐れもだえる。 「死ぬばかりに悲しい」とまで言葉を吐きます。 地面にひれ伏して「できることなら、この苦しみの時を自分から過ぎ去るように」、「この杯をわたしから取りのけてください」とまで、父なる神に懇願します。 しかし、この苦悩のうちに祈る姿を見せるためにつれてきた弟子たちは、最後まで見続けることなく眠ってしまったのです。 
イエスの言う「この苦しみの時」、「この杯」とは、ご自身の前につきつけられている神の審判です。 神から離れ、神を神ともしないで歩み続ける人間に対する神の怒りです。 その神の前に立たされて泣かざるを得ない人間を代表して、イエスは「この時」が過ぎ去るように、「この杯」が取り去られるようにと祈ったのです。 イエスが味わった苦しみは、この私たちが味わうべき神の怒りの前の人間の苦しみです。 一片の曇りもないイエスが、まったく答えのないままに神に捨てられるという本当の苦しみと恐ろしさです。 しかし、イエスは、「御心に適うことが行われますように」と祈りを結びます。 父なる神の御心であるなら「もうこれでいい。 時が来た。 立て行こう。」と、最後の三度の祈りによって立ち上がったのです。 
 イエスは言われました。 「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」。 眠ってしまった弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。 恥ずかしげもなくもだえ苦しむイエスの姿に、目を閉じてはならないということです。 目を閉じていれば祈ることができないのです。 私たちの信仰は、解決を与えられることではありません。 「暗闇」の中でも、見えない、聞こえない、分からない中においても生き抜く力を与えるものであります。 そのために必要な祈りの姿を、イエスは最後のゲッセマネの祈りをもって私たちに示してくださったのです。

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