「私たちの決算の日」 ルカによる福音書 16章9~13節
不正を積み重ねた管理人のたとえが語られています。 この管理人が行ったことは、主人から託された財産を無駄遣いしたことでした。 他の人から告げ口をされて、その主人から「会計の報告を出しなさい」と迫られた。 すると、彼は仕事をやめさせられる前に、いずれ自分を家に迎えてくれるような者たちをつくることを思いついた。 権限のあるうちに、次々にその主人に借金のある人たちの負債額を軽くしてあげて、自分の友達をつくったというのです。 イエスのたとえの驚きは、その不正による損害を直接受けている本人であるその主人が、彼の抜け目のないふるまいを褒めたところです。 だれが見ても、道義的に許されるものではありません。 自分の決算が間違いだらけで、まったく帳尻があっていない生活があぶり出されてしまうその時に、わずかな時間を自分が生きるために懸命に行動したのです。
イエスは、この不正に不正を積み重ねた管理人の姿を通して、「この世の子らは、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。 主人の前に立つ前に、残された時にできることを懸命にしているではないか。 あなたがた永遠の住まいが約束されたひかりの子らは、与えられたこの世を忠実に生きているのであろうかと問われたのです。 私たちの決算は、すべて膨大な赤字です。 今もなお、赤字を増やし続けています。 神の富であったものを、自分のためにとことん食いつぶして、それでもなお自分のために用いようとする。 まさに、この管理人の姿です。 神を傷つけ、損害を与え続けています。 イエスは、その赤字を埋めなさいと求めているでしょうか。 不正の中に埋もれている私たちを非難しているでしょうか。 自分のために用いてしまった私たちをお見捨てになったでしょうか。 イエスは、神の前に立てなくなってしまった私たちすべての者の赤字を携えて、これから十字架のもとに向ったのです。 イエスが語っておられることは、道徳ではありません。 理想の社会をつくろうと言っているのでもありません。 いくら正しい方法で得た富であっても、自分のために用いるなら「不正にまみれた富」に変わりありません。 泥まみれの中に、不正にまみれた中に、悲しみや苦しみの中にこそ神のご真実が顕れる。 泥まみれ、不完全な私たちを用いて、この神のご真実を顕してくださると言っておられるのです。 永遠の住まいを約束された私たち「ひかりの子ら」に、神の救いを語ってくださっているのです。 私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる「友達」とはだれでしょうか。 私たちの膨大な赤字を携えて十字架にかかってくださったイエス・キリスト以外にありません。 私たちの生涯は、この世の限られた時間の中で、委ねられた富を神の前に賢く用いることです。 永遠の住まいに迎え入れてくださる「友」であることを、この世に向って大胆に証しすることです。 本来、神のものであったものを取り戻す務めがあるのです。 この世の子ら以上に真剣に、自分の決算の日に備えなさいとイエスは言われたのです。
「選び取る必要なもの」 ルカによる福音書 10章38~42節
マルタは、イエスの長旅の疲れを少しでも癒し、空腹を満たしていただこうと思ったに違いない。 この家を取り仕切っていたマルタは、もてなしのためにせわしく働きます。 イエスは、このマルタの招きを喜んでこの家にお入りになったのです。 ところが、もうひとりの姉妹マリアの姿を見たとたん、マルタの心の穏やかさが失われていきます。 イエスの足もとにじっと座って、イエスの話に聞き入っていたマリアの姿は、マルタには「何もしない姿」に映ったのです。 ついにマルタは、マリア本人ではなく、イエスに向って心が破れてしまったのです。 しかし、イエスは、「マルタ、マルタ」と二度も繰り返して名前を呼んでその心の破れに応えます。 イエスは、このマルタの招きによってこの家に入られたのです。 マルタのもてなしを喜んで受けたうえで、そのマルタに語りかけておられるのです。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただひとつだけである。」と告げます。 この世が求める「多くのこと」と、「たったひとつの必要なこと」があると言います。 多くのことに囲まれ、思わず口走ったマルタの言葉を聞いて、イエスは憐れまれ、神に受け入れられることは「ただひとつ」、「神の言葉に聴くこと」である。 今、マリアに与えられている「神の言葉に聴くこと」を取り上げてはならないと言われたのです。 このマルタの家には、イエスという福音がマルタの熱心な招きによって訪れたのです。 そのイエスが語られるみことばを、マリアが受け入れているのです。 「マルタよ、決して、心を乱して遮ってはならない。」と、イエスは言われたのです。 これから十字架につこうとしておられるイエスのみことばが語られる恵みの場が、マルタの家に与えられているのに、「神の言葉に聴くこと」を後回しにしてはならない。 世の「多くのこと」をした後に、イエスのみことばに聴くのではない。 最初に時を捧げて、イエスの語るみことばに聴くことが私たちの「信仰の始まり」です。 それが、神の「祝福と恵みの始まり」です。
「イエスの十字架の死による逆転」 マルコによる福音書 15章33~41節
イエスの十字架につけられた最後の12時間が語られています。 本来なら、一日のうちでもっとも明るいはずのお昼の12時に、暗闇が覆ったというのです。 ところが、午後3時になって、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、十字架につけられたイエスの大きな叫び声によって、事態は一変します。
このイエスの叫びは、自分を苦しめてきた人々に対するものではありませんでした。 今まで従い続けてきた父である神に向って叫んだものです。 人々からも、弟子たちからも捨てられたというイエスご自身の苦しみではありませんでした。 神のもとから離れてしまった私たち人間の罪を背負って、父である神から裁かれる苦しみであったのです。 これは、イエスだけが背負うことのできる苦しみです。 しかし、イエスだけの苦しみではありません。 父である神もまた裁く側にあって、自らの子どもであるイエスを裁く苦しみの中にあったのです。 私たちすべてのために、ご自身のみ子を惜しまず引き渡した苦しみの中におられたのです。父である神もまた、裁かれる側にあったイエスの苦しみを、ともに苦しまれたのです。
イエスがこの苦しみを背負い切った時に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 神殿の中の神がおられる所と他の場所を隔てるものが、この叫び声とともに裂けた。 神と人とを遮るものがなくなった。まったく責められることのないイエスが罪人とされて、神に裁かれた時に、すべての罪人が神の前に罪のない者とされたという逆転が起きた。 神に捨てられたイエスの絶望が、私たちの希望となった。 イエスが受けた侮辱と罵りと苦しみが、神の前に生きる私たちの力となったのです。
イエスの十字架の死の逆転の力は、それだけにとどまりません。 このイエスの死にざまを目の前にした百人隊長が、「本当に、この人は神の子であった」と言ったのです。 百人隊長は、イエスの処刑の責任者であったのでしょう。 しかし、弟子たちからも捨てられたイエスの姿を最後まで見とどけた人物です。 「わが神」と呼ぶその神からも捨てられているのに、それでも「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と尋ね求め祈っている。 自分を見捨てた神を「わが神」と死の直前まで「なぜ」と問いながらも最後まで生き通している。 神に捨てられ絶望の中にあっても、その神を呪わず祈り続けている。 はっきりとイエスの言う「わが神」が、そこにおられるのをこの百人隊長は見たのです。 イエスの生涯も、教えも知らない、そのイエスを処刑した者が、十字架のうえにおいて、イエスが「わが神」と呼ぶ神と出会うことができたという逆転です。 それだけではありません。 遠くからイエスの十字架を最後まで見とどけた婦人たちにも及びます。 絶望しながらも、最後までイエスの苦しみの姿を見とどけた婦人が、よみがえりのイエスに最初に出会うのです。 イエスは、すべての弟子たちを失いましたが、この十字架の死を境に、今まで罪人と除外されていた異邦人の中から、また数の中にも入っていなかった女性たちの中から多くの逆転の実を結んでいったのです。 見たくもなかった苦しみの十字架を、忠実に最後まで見とどけた人たちです。 苦しむイエスの姿を、最後まで仰ぐ人たちに逆転の力、よみがえりの力が真っ先に与えられるのです。 私たちは、このイエスの苦しみを身にまとった生きた証人です。 私たちもまた、「なぜですか」と問いながら、十字架の苦しみに目を閉じることなく祈り、自分のこととして最後まで忠実に歩んで参りたいと願います。
「主イエスの祈り」 マルコによる福音書 14章32~42節
私たちの世界は、「分かっている」ということが土台となっています。 分からなければ、とことん原因を追及する。 目に見える解決がどうしても欲しいのです。 今覆われている「暗闇」が過ぎ去って欲しい。 私たちは、分からないままの「暗闇」からどうしても脱出したいのです。 しかし、私たちキリスト者は、この「暗闇」の中にあっても絶望しません。 諦めません。 この中に留まることも厭いません。 なぜなら、その「暗闇」を照らす光があるからです。 私たちを救う者こそ、この「暗闇」の中に立って輝いていると信じているからです。 暗闇の中に留まり続けることは苦しい現実です。 その「暗闇」を見続けることも苦痛です。 理由が分からないからです。 しかし、イエスは、終りの日まで決して終わらない。 惑わされてはならない。 目を覚まして祈っていなさいと言います。 私たちは、その言葉を信じます。
イエスは、地上の生涯の最後のご自分の祈りの姿を、弟子たちに見せます。 一人の人間として、深い苦悩の表情と姿を隠しません。 ひどく恐れもだえる。 「死ぬばかりに悲しい」とまで言葉を吐きます。 地面にひれ伏して「できることなら、この苦しみの時を自分から過ぎ去るように」、「この杯をわたしから取りのけてください」とまで、父なる神に懇願します。 しかし、この苦悩のうちに祈る姿を見せるためにつれてきた弟子たちは、最後まで見続けることなく眠ってしまったのです。
イエスの言う「この苦しみの時」、「この杯」とは、ご自身の前につきつけられている神の審判です。 神から離れ、神を神ともしないで歩み続ける人間に対する神の怒りです。 その神の前に立たされて泣かざるを得ない人間を代表して、イエスは「この時」が過ぎ去るように、「この杯」が取り去られるようにと祈ったのです。 イエスが味わった苦しみは、この私たちが味わうべき神の怒りの前の人間の苦しみです。 一片の曇りもないイエスが、まったく答えのないままに神に捨てられるという本当の苦しみと恐ろしさです。 しかし、イエスは、「御心に適うことが行われますように」と祈りを結びます。 父なる神の御心であるなら「もうこれでいい。 時が来た。 立て行こう。」と、最後の三度の祈りによって立ち上がったのです。
イエスは言われました。 「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」。 眠ってしまった弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われました。 恥ずかしげもなくもだえ苦しむイエスの姿に、目を閉じてはならないということです。 目を閉じていれば祈ることができないのです。 私たちの信仰は、解決を与えられることではありません。 「暗闇」の中でも、見えない、聞こえない、分からない中においても生き抜く力を与えるものであります。 そのために必要な祈りの姿を、イエスは最後のゲッセマネの祈りをもって私たちに示してくださったのです。
「燃えるような祈りの家」 マルコによる福音書 11章15~19節
ここで神殿の境内と呼ばれているところは、神殿の中でも「異邦人の庭」と呼ばれているところです。 ユダヤ人にとっては、礼拝の控えの場ぐらいにしか考えていなかったところです。 そこでは、犠牲の動物が用意され売られていた。 流通していたローマ貨幣が、神殿の中だけで通用する貨幣に両替を強いられていたのです。 これらの店なしには、神殿の礼拝は成り立たなくなってしまっていたのです。 神殿は加えて、ユダヤに課されていた税金を納めさせていた。 イエスが、この神殿においてとった行いは、単に商売をしている人を追い出した。 商売をしている人の台や椅子をひっくり返しただけではありません。 そこに君臨し、搾取していた神殿の勢力そのものを的にした「激しいイエスの批判」であったのです。 イエスは、感情で動いたのでしょうか。 とてもそうは思いません。 イエスはエルサレムについてすぐに「神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った」と書かれています。 何度も赴いた神殿でこのような激しい行いをとったのは一度限りです。 この神殿が、父なる神のみこころに適うものではなくなっていると感じとっておられたのです。
この神殿での振る舞いの話が、「いちじくの木の話」の間に挟み込まれています。 遠くから見れば、葉がいっぱい茂るいちじくの木のように、立派な神殿、供え物、人々が生き交う盛んな礼拝であった。 近寄って見ると、実のならないいちじくの木のように形だけの礼拝であった。 イエスは、そう嘆いておられたのです。 イエスは神殿を、誰かれの区別もなく、差別もないイザヤが預言した通りの「すべての国の民の祈りの家」と呼ばれるべきものであると考えていた。 「強盗の巣」と語っていたエレミヤは、もはや神殿は神殿ではないと分かっていた。 イエスの神殿での燃えるような振る舞いは、これからは自分自身を生きた供え物としてささげて歩む、新しい真の礼拝の生活に入るという叫びであったのです。 すべての人に開かれた「祈りの家」としての真の礼拝を取り戻すためであったのです。 私たちの教会、幼稚園がすべての人に開かれた「祈りの家」になっているでしょうか。 イエスご自身が、命の危険を差し出して取り戻してくださった真の礼拝の場所です。 私たちは、立派な建物をつくるために、人が賑やかに生き交う場所をつくるために働いているのではありません。 十字架の上にからだをささげて「祈りの家」を守ってくださった復活の主が中心におられ、真の礼拝と祈りが捧げられている場所となることを願っているのです。
「語り伝えられるもの」 マルコによる福音書 14章3~9節
当時のユダヤでは、男性の食事の席に女性が入ってくることなど考えられない時代でした。 それだけに留まらず、その女性は食事の真っ最中に、持ってきた油の入った石膏の壺を割って、入っていた油をイエスの頭に注ぎかけたと言うのです。 何から何まで異例づくめの出来事です。 注いだ油は、非常に高価な香油であったと詳しく書かれています。 彼女が、なぜそんな行動をとったのかその理由が語られていません。 周囲の者で問いただす者もいません。 関心があったのは、ただ注がれた油のことだけでした。 失われたものだけに目を奪われ、彼女の背後にあるものに目を向けようとしないのです。 ただ失われたことだけを厳しくとがめる私たちの姿です。
時は、いよいよ祭司長や律法学者たちがイエスを捕らえて殺そうとしていた時です。 この直後には、イスカリオテのユダがイエスを引き渡すために祭司長のところに出かけて行くという差し迫った時です。 弟子たちも、人々も、イエスの危機的な状況には無頓着です。 ただ、ひとりの女性だけが当時の常識を打ち破って、男性だけの食事の席に入って行く。 彼女は、高価なナルドの油を匂いが逃げないように大事に石膏の壺に入れていたのです。 大事な時だけに使う一回限りとでも言える「この時」に、彼女は石膏の壺を割ってイエスの頭に注いだのです。 この時イエスは、「私ははっきりと目撃をした。 私のために精いっぱいのことをしてくれた。 私にふさわしいことをしてくれた」と、彼女を祝福されたのです。 差し迫った時に、このたったひとりの女性のとった振る舞いが、これから十字架の上で命をささげようとするイエスの行いにふさわしいと、イエスご自身が目撃し、証言してくださったのです。 私たちがささげ尽くす精いっぱいのものを、「するままにさせておきなさい。 わたしに良いことをしてくれた。 できる限りのことをした。」と、イエスは言ってくださるのです。 「石膏の壺を割って香油を注いだ」行いを、みこころに適うものにイエスがしてくださるのです。 そして、彼女の全てをささげ尽くした姿は、「はっきり言っておく。 世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、記念として語り伝えられる」とイエスが言われたのです。 福音が語り伝えられるところでは、必ず福音をしっかりと受け止めた人間の姿が、周囲の非難の中にこそ記念として指し示されると言われたのです。 福音は、私たちの生きた姿を通して語り伝えられるのです。
「受け入れる信仰」 マルコによる福音書 10章13~16節
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」と書かれています。 子供たちは、その子の将来を願う人々によって連れて来られた存在です。 イエスに触れていただくために運ばれて来た存在です。 ところが、イエスの弟子たちは、その子供たちを連れて来た人々を叱ります。 イエスの手を煩わせることになると確信した弟子たちは、自分たちの宣教の妨げとなると親たちを叱ったのです。 しかし、イエスの反応は、弟子たちにとって予想外のものでした。 「叱る」どころか「憤った」と書かれています。 「子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨げてはならない。」という厳しいお言葉でした。 「神の国はこのような者たちのものである」とイエスは言われたのです。 イエスは、その「子供たち」を無条件に受け入れます。 言葉だけでなく、その子供たちを抱き上げて、手を置いて祝福されたのです。
子供たちは、自分で律法を理解することもできないし、神の祝福など受ける対象ではない。 自分の力では立つことのできない無力な存在であると、弟子たちは考えていた。 その時に、弟子たちの耳に、イエスの意外な「憤り」の声が鳴り響いたのです。 この言葉によって、弟子たちは気づかされていきます。 自分たちは、いつかはイエスの左右の座に座りたいと願いをもって、イエスに近づいて来た者でした。 イエスに一番近い座を互いに競い合う者でした。 何ら、あの「子供たち」に願いをもってイエスに近づいて来た人々と変わりない存在でした。 それだけではない。 そのような自分たちの足を、イエスは最後の晩餐の席から立ち上がって、丁寧に洗ってくださった。 その自分たちの姿こそ、この抱きあげられて、手を置いて祝福された「子供たち」の姿そのものではないかと思い起こされたのです。 弟子たちは、このイエスの祝福を全身に浴びていたはずです。 その同じ祝福を、「子供たち」にも与えようとイエスが願ったその招きを、弟子たちは遮ったのです。 ここに、イエスの深い悲しみと「憤り」があったのです。 その原因が自分たちにあったと記録にとどめた弟子たちの信仰告白こそ、今朝の聖書箇所です。 弟子たちは、人々の姿、親の姿を見て、自分たちの姿であると悔い改めることができた。 無力な子供たちの姿を見て、自分たちの姿であると喜び感謝することができた。 子供たちや弟子たちであったから、神の国に入ることができたのではありません。 イエスが招いてくださったからです。 子供たちや弟子たちが信じ受け入れたからです。 「子供のように」とは、救い主と信じ受け入れることです。 新しく生まれ直すということです。 私たちは、この招きのなかにあるのです。
「イエスとの交わり」 ヨハネの手紙一 1章1~4節
この手紙の送り主が冒頭に、私たちが命をかけて伝えているものは「初めからあったもの」である。 「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」であると言います。 そのようなものを、私たちは証しして伝えているのだと主張します。
この手紙の送り主は、あのイエスにそば近く寄り添った使徒ヨハネと言われています。 私は、からだをもったイエスにお仕えした。 そのイエスが語られた言葉を聞いた。 痛みも、悲しみも、私たちと同じように味われたお方に触れた。 そのお方が十字架に死なれ、三日後によみがえり、私たちの前に現れてくださったのを私は見つめたのだと言います。 そのヨハネがこのお方は「初めからおられた」お方です。 そのお方が私たちのところに現れてくださって、私たちが「触れることのできる」お方となられたとここに告白しているのです。
復活されたイエスは、疑う弟子たちに言われました。 「わたしの手と足を見なさい。 まさしくわたしだ。 触ってよく見なさい。」 そのイエスの声を使徒ヨハネは聞いた。 姿を見た。 復活した傷跡のあるイエスをよく見つめ、手で触れたと証言しているのです。 イエスは、使徒ヨハネを通して語ります。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じるものは死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と私たちに語りかけています。
使徒ヨハネは、改めてあなたがたにこのことを伝えるのは、「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためである。」 「父なる神と子なるイエス・キリストとの交わりを、あなたがたがもつようになるため」であると言うのです。 「交わり」とは、分かち合ってもつという言葉です。 復活されたイエス・キリストの命を、私たちが分かち合ってもつということです。 この命に与かる。 このキリストのからだに、私たちがなるということです。 すでにあるこの父と子の「神の交わり」に、私たちが加えられるということです。 私たちが交わるために集まるのではありません。 よみがえりの主が、この「神の交わり」に加えようと赦して招いてくださるから集められるのです。 傷跡の残る私たちの群れにこそ、このよみがえりの命に触れる「交わり」を私たちに用意してくださっているのです。
「主イエスの望む信仰告白」 マルコによる福音書8章27~33節
イエスは、ガリラヤの宣教を終え、エルサレムを中心とするユダヤに向けて進み行かれます。 その「旅の途中で」、愛する弟子たちにイエスの方から尋ねます。 「人々が、わたしのことを何者だと言っているか」 人々は、バプテスマのヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと言います。 弟子たちにとっては、先生と仰ぐイエスのことを、様々な言われた方をしていたのでしょう。 それを見越してか、イエスは「それでは、あなたがたはわたしは何者だと言うのか」と問います。 何とも言えないイエスの言葉の響きです。 弟子たちを招き導いておられる、憐れみに満ちた言葉に聞こえてこないでしょうか。 これから後に、イエスご自身についての重要な秘密が、はっきりと言葉で弟子たちに教え始められたのです。 「あなたがたにとって」と問われた弟子たちを代表して、ペトロが答えます。 「あなたは、メシアです。」 しかし、ペトロが告白したメシアは、信仰のない異邦人を裁いてイスラエルを救い出してくださるお方。 あのダビデ王国のような輝かしい時代を回復してくださるお方でした。 イエスが「私は多くの苦しみを受ける。 この世の権力者に排斥される。 ついには、彼らによって殺されるという死を迎えることになる。 しかし、三日後には、からだをともなってよみがえることになる。 そのような道を歩んで行く」とはっきりとお話になった時、ペトロはどうしても十字架につけられるようなメシアを受け入れることができなかったのです。 全く低くされたイエスを否定し、高く評価される輝くイエスを信じていたのです。 それが「あなたは、メシアです。」という告白でした。 イエスは、あなたがたが真のイエスの姿を知るまでは、「御自分のことをだれにも話さないように」と戒められたのです。 そのペトロが聖霊によって、時が満ちてついには復活の主イエスに出会い、体験し「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエスの道を辿ったのです。 ペトロに代表される弟子たちのこの不完全な信仰告白も、イエスのよみがえりの命に結びついた信仰告白へと変えられていったのです。 つたない私たちの信仰告白もまた、主がとりなしのうちに永遠の命に結びついた信仰告白へと時が適って導いてくださるのです。 よみがえりの命、イエス・キリストのからだに、私たちの群れを結びつけてくださるのです。 イエスは、あなたがた教会にとって、わたしは何者であるかと今朝もまた尋ねてくださっています。
[fblikesend]「み前に差し出す者への祝福」 マルコによる福音書6章30~44節
食事をする暇もなかったイエスの一行を、群衆はなおも追いかけ先回りをした。 イエスは、その群衆の有様を見てため息をつくどころか、「飼い主のいない羊のような有様」であると深く憐れまれたのです。 多くの群衆がイエスに飢え渇いているその有様が、イエスの憐れみを呼び起こします。 自分で草の生い茂る所や、自分が食べる物さえ見出すことができない、まったく外からの危険に無防備に放置されている「飼い主のいない羊」です。 イエスは、しばしの休息、食事を取るために退いたはずの舟から、再び上がって教え始められたのです。 ここに、まったく放置されている群衆の姿が強調されています。 その群衆の姿に目を留められた、イエスの深い憐れみの姿が強調されています。
ところが、もうひとつの姿が浮き彫りになっているのです。 目先のことに心が奪われてしまった弟子たちの姿です。 時がだいぶ経ってきたので、食事の心配をし始める。 周りを見渡しても、これだけの群衆の食事を賄えるものは見当たらない。 自分たちの力、持ち物を考えて、弟子たちはイエスに進言します。 「人々を解散させてください。 そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 これが、弟子たちがイエスに申し上げた言葉です。 この言葉の中には、救いを求めイエスを追いかける群衆の姿が目に入っていません。 この群衆の必要に心から応えたいと、自ら進んで身を投じられたイエスの姿は目に入っていません。 だから弟子たちは、解散させることを進言したのです。 しかし、イエスは、「あなたがたが彼らに食べものを与えなさい」と答えます。 イエスは、弟子たちに、自分たちが持っているものを確かめさせました。 パンはいくつあるのか、「見て来なさい」と言います。 今あるものを確かめさせたイエスは、その僅かなものを天を仰いで、賛美の祈りを唱え祝福されたのです。 そして、イエス自ら分け与えるのではなく、弟子たちを用いて配らせたのです。 この弟子たちの奉仕の業によって、群衆のすべてが食べて満腹した。 だれひとり洩れることがなかったと言うのです。 イエスは、わずかなものを祝福し、満たして、生かして、群衆の必要に応えられた。 このイエスの力と業を忘れてはなりません。 イエスは「行って見て来なさい」と言われました。 弟子たちは、僅かなパンと魚を確かめさせられました。 イエスは、それを祝福し賛美したのです。 この僅かなパンと魚が、イエスの奇跡の土台です。 私たちが持っているものが足りないのではありません。 私たちが、イエスに差し出すことが足りないのです。 イエスの深い憐れみがあって、祈りと賛美と祝福があって、私たちが仕える所に奇跡は起こります。
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