秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「信じて待つ人」 ヨハネによる福音書 2章1~11節

2015-02-22

 「ぶどう酒がなくなりました」 イエスに向けて語られた、母マリアの必死の祈りの言葉です。 当時のユダヤの婚礼の席に欠かせないぶどう酒が、宴たけなわの中で今にも切れそうになっていることに気づいたマリアの訴えです。 このままでは、せっかくの婚礼の席に傷がつく。 その場が一変するという恐れです。 今からではどうすることもできないことは分かっている。 けれども、何とか用立ててほしいと息子イエスに訴えたマリアの祈りです。 このマリアの訴えに、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と短く答えただけでした。 息子であるにも関わらず、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えるイエスになぜですかと問いたくなる。 しかし、イエスは道徳を語らず、父なる神のみこころの時がまだ来ていないという信仰を語ります。 母マリアの願う「時」、今ほしいと願う「ぶどう酒」ではない。 神のみこころの「時」と、神の願う「ぶどう酒」を待っておられるのです。 そのことを察知したマリアは、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使たちに命じているのです。 この短いマリアの言葉に、イエスに対する信頼の姿を見ることができます。 祈る人とは、このイエスの言いつけを待っている人です。 困り果てている自分自身を差し出して、神のみこころに向って祈り、待っている人です。 そして、これから起こるであろうイエスの言いつけを、受け取ることができるようにと備えている人ではないでしょうか。 私たちの祈りは、願うだけで留まってはいないでしょうか。 マリアは、その祈りの答えを受け取ることができるようにと備えているではありませんか。 
 そして、ついにイエスの口から、「水がめに水をいっぱい入れなさい」という言いつけが出てきたのです。 イエスの言う水がめは、汚れた体を洗い流す、清めのための儀式用の水を蓄えるものです。 用意された六つの水がめにいっぱいとは、相当な量です。 召使たちは、なぜ、このような時に何度も井戸に足を運んで水を汲んで来なければならないのか分からなかった。 その満たされた水を「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と、召使たちは命じられた。 その意味が知らされる「イエスの時」が、ここに来たのです。 分からないままに、井戸から水を汲んで水がめに蓄えた。 分からないままに、蓄えた水がめからその水を宴会のただ中に運んで行った。 それが、今までとは違ったぶどう酒に変わったことを知ることになったのです。 私たちは、いったいどんな意味があるのだろうと思わされることがあります。 どうしてこんなものを運んでいるのだろうとためらうことがあります。 しかし、それが、その場にもっともふさわしいものに変えられる。 そのことを知らされる「時」が与えられるのです。 イエスは、この「しるし」をガリラヤでの宣教の「最初のしるし」と言っています。 婚礼とは、神の国が訪れた喜びの場です。 そこに、イエスがともに出席されて私たちと一緒に祝福されておられる。 これから「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」と語り始めた、その信仰を導く「最初のしるし」だと宣言されたのです。 律法の戒めに囚われた儀式用の「水」が新しい味をもった「取っておきのぶどう酒」に変えられた。 その「しるし」を見て信じたのは、弟子たちであったと聖書は記しています。 自分の願いが満たされることだけを求める人は、水がぶどう酒に変わったことに満足するでしょう。 しかし、それを変えたお方に目を向けることができた人、その「しるし」がどこから来たのか知ることができた人が、神の隠された働きを見出し、信じることができたのではないでしょうか。 その「しるし」は、弟子である私たちが信じて、命を得るためです。 

[fblikesend]

「キリストが形づくられるまで」 ガラテヤの信徒への手紙 4章8~20節

2015-02-15

 パウロの時代には、ユダヤ教の律法主義者たちとの戦いや異邦人との戦いもありましたが、それだけではありませんでした。 キリストにある群れの中においても、律法から抜け切ることのできないユダヤ主義キリスト者たちとの戦いもありました。 パウロが苦労して築き上げてきたガラテヤ地方の教会の中にも、このユダヤ主義者たちが忍び込んで来たのです。 パウロが宣教した後の教会に出向いて行っては、キリストの福音から律法へ、神の恵みから人の行いによる努力へと逆戻りさせようとする。 この手紙は、そのガラテヤの人たちに、産みの親のように、耳を傾けてくれるようにと哀願しているパウロの「涙の祈りの手紙」なのです。 
 パウロは、かつてのガラテヤの人々の姿を、「神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていた」と言います。 イエスは「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。 しかし、今、あなたがたは「神を知っている」はずである。 いや、「神に知られている」はずだと言い替えています。 全知、全能で、どこにでもおられる神を、私たちは知り尽くすことも、究め尽くすこともできません。 しかし、パウロは逆に、その神が私たちを知ってくださっている。 私たちがどこにいようが、どのような状態であろうが、私たちを知り尽くして、そば近くにおられる近い神であると言います。 そうであるのに、あなたがたはなぜ逆戻りして、無力で頼りにならないこの世の霊のもとに奴隷として仕えようとするのかと嘆いているのです。 その理由が、あなたがたをキリストの福音から熱心に「引き離そう」としている者たちがいるからだと言うのです。「割礼を受けなければ救われない」、「特別な日、特別な季節を大事にしなければならない」と行いを求める。 律法という行いを通して、キリストの福音の恵みから彼らを引き離そうとする。 ユダヤ人という身分を通して、キリストの自由な交わりから締め出そうとする。 キリストの弟子にしようとしないで、自分たちの弟子にしようとする。 これは、キリストの支配から自分たちの支配へとひっぱり込もうとする者たちとの戦いです。 この戦いは深刻です。 一見、何も変わらないかのように福音の根幹をひっくり返す。 キリストの十字架の死を骨抜きにしてしまうからです。 パウロは、「兄弟たち、お願いします」と語りかけます。 「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください」 私に見倣えと言っているのではありません。「キリストは、神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。」 パウロも同じでした。 「すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と言って、異邦人のようになりました。 これは妥協ではありません。 福音のためなら相手のようになること、これがキリストの福音の姿ではないでしょうか。 更に「わたしたちの子供たち」とパウロは呼びかけます。 「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」 私たちの信仰は、このキリストの愛によって様々な人に祈られ、支えられています。 自分でつかんだものではありません。 ただ恵みによって、人を通して、霊によって与えられたものです。 人間の知恵によってではなく、聖霊によって与えられた神の祝福以外の何ものでもありません。 信仰の迷いの中で、もう一度立ち帰って、キリストの十字架の死を見上げ、悔い改めの道を歩んで欲しい。そこにキリストが誕生する。 キリストが宿る。 キリスト者が誕生するとパウロは願っています。 

[fblikesend]

「最後まで従う信仰」 列王記下 5章1~14節

2015-02-08

 イスラエルと敵対関係にあるアラムの軍司令官とも言うべき勇士であったナアマンに、神は戦いの勝利と同時に、「重い皮膚病という病い」を与えておられました。 「重い皮膚病」と言えば、当時の状況では治ることのない病いでした。 主なる神の働きは、ナアマンが捕虜として連れ帰った一人の少女から動き始めます。 捕らわれ、召使となっていた名もないイスラエルの少女がナアマンの妻に言います。 「サマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病を癒してもらえるでしょうに。」 この召使の少女は、戦に負けたイスラエルの捕虜です。 自由を奪われた者です。 何の力もない少女です。 しかし、彼女は、預言者エリシャ、神の人の存在を知っていた。 そのエリシャを用いておられる神を知っていたのです。 そのことを証しする自由が、彼女にあったのです。 彼女は、自由を奪われた敵の地においても主なる神の働きを「証しする者」であったのです。  
ナアマンは、この病いという「患い」を晴らしたいと心から願い、アラムの王に相談する。 アラムの王は、イスラエルの王に口添えをすると言う。 ですから、ナアマンは、アラムの王の手紙と、そのお礼のための金銀を携えて、預言者エリシャの家の入口にまで、最善の礼を尽くして出向いたのです。 ナアマンは、必ず、イスラエルの王が支援してくれるはずである。 そして、神の人エリシャ自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、恭しく患部の上で手を動かし、皮膚病を癒してくれるはずである。 そう信じて、イスラエルのエリシャの家に立ったのでした。 ところが、エリシャは自らナアマンに会おうともしないで、使いの者をよこして「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。 そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と語らせただけでした。 不治の病を治すにしては、安易な扱いを受けた。 ばかばかしいと鼻で笑って、そんなことで病いが治るものかと憤り、身を翻して立ち去ったのでした。 そこでも、主なる神は、ナアマンの家来たちを用いて諌めます。 主なる神は諦めないのです。 そのために用いられた召使の少女であり、アラムの王であり、イスラエルの王であり、エリシャであり、家来たちであり、ヨルダン川であったのです。 ナアマンは心から癒されたいと願っていたのに、その癒され方に拘ってしまって背を向けたのです。 それでも、エリシャはナアマンを放置します。 直接、ナアマンの願いを聞くことさえ拒否します。 いくらばかばかしいと思われても、主なる神の約束の言葉として受け取ることだけを、ナアマンに求めたのです。 この神の約束は、主なる神へのナアマンの信頼だけによって成し遂げられるものである。 そのことを告げるためでした。 体に弱さを持っていたパウロも、同じ体験をしています。 自分の身に与えられた「一つのとげ」、これを私の身から取り去らせてくださいと三度祈ったとあります。 すると、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中にこそ、十分に発揮される」と言われたのです。 それは、自分が思い上がることがないためであった。 そのことに気づかされたと告白しています。 私たちは、様々な人を用いて語りかける神の声に、謙虚に耳を傾けなければなりません。 最後に辿りつくまで、神は忍耐して待ってくださっているのです。 その時には分かっていなくても、それでも神の言葉に従う信仰に、主は祝福を準備して待っていてくださるのです。 私たちは、最後まで、約束のみことばに聞き従う者とさせていただきたいと願います。

[fblikesend]

「礼拝する者を求めておられる神」 ヨハネによる福音書4章20~24節

2015-02-01

 サマリアの女性とイエスとの井戸端での対話の中でのお話です。 彼女は、男性と女性、ユダヤ人とサマリア人、井戸の水を求める者と水を与える者という様々な壁をつくって、イエスに心を開きません。 そんな彼女におかまいなく、イエスは無頓着に語りかけます。 その時の常識と諦めに縛られて、また決して口に出すことのできない素性を隠していた彼女に、イエスは「渇くことのない生きた水」を与えようとして、この井戸端にやって来られたのです。 「わたしに水を飲ませてください」と言う弱々しい者の姿を取って、井戸端で彼女を待っていてくださったのです。 そのような時です。 彼女は、ユダヤ人はエルサレムの神殿で、サマリア人はゲリジム山の神殿で礼拝する。 礼拝する場所が違うと、またしてもその違いを主張したのでした。 この時のイエスの短い言葉が「ゲリジム山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」「父は、礼拝する者を求めておられるからだ」と語られたのでした。 イエスの宣教は、礼拝から始まりました。 礼拝こそ、宣教そのものでした。 礼拝は、神が招いてくださる神の業でした。 イエスは、この礼拝は場所ではない、「礼拝する者を求めておられる神」の招きによって初めて礼拝となる。 礼拝は、父なる神が求めて招いてくださる所でなされると言われたのでした。 私たちは、神の愛に応えて、神が造り上げた世界に生きる者として創造されました。 神を賛美する者として創造されましたと聖書に記されています。 礼拝は、この神の招きによって初めてなされる神と人との交わりです。 
 更に、イエスは、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。」 「神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と言うのです。 イエスの宣教の始まりのころは、主の晩餐という食事の場で、神への賛美や交わりが行われていました。 礼拝は、神に招かれたすべての人がつくり上げる神の民の業なのです。 神からの招きと、神の前に私たちの真の姿を差し出す神への応答、この二つが一つとなるところ、そこが「霊と真理をもって父にささげる礼拝」なのではないでしょうか。 場所ではない、真実をもって神に応える礼拝。 神のみことばに応え、霊の賜物に感謝して、自分のからだを神にささげる礼拝。 これが、私たちに、今、赦されて与えられているとイエスは言われたのでした。 礼拝こそ、ひとつひとつの私たちが辿ってきた道に現れた神の愛、神の恵みを思い起こす場所です。 そして、もう一度、その愛に立ち帰ることを赦されている場所です。 その愛によって、立て直される場所でもあります。 それが、イエスの言う「まことの礼拝する者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時」なのではないでしょうか。 忘れてはならないことは、私たちがささげているこの礼拝には、この教会に関わってくださった方々、すでに神のもとに召されておられる方々、そして、これからこの教会に招かれようとされている方々とともに、その方々を代表して礼拝をささげているのです。 礼拝する者、宣教する者こそが、神の愛と苦しみのほんの一部を知ることができる。 そこには、本当の喜びがある。 すべての者が神から出て、神に保たれ、神に向っていることを知らされる。 私たちはそのために、今日もこの礼拝に招かれているのです。

[fblikesend]

「宣教する礼拝」 ローマの信徒への手紙11章33~36節

2015-01-25

 ルカによる福音書によりますと、イエスの宣教は、荒野で悪の霊の誘惑を退けた後にガリラヤで始められました。 「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」、「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」、「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとされた」とあるように、イエスが行われた宣教の働きは、霊に満たされて、安息日の会堂における礼拝の場から始まりました。 イエスが立ち上がって、みことばを語り、教え諭された。 礼拝自体が宣教でありました。 それと同時に、そこから宣教が始められる場でもあったということです。 神から祝福された者が祝福する者に変えられる。 そして、その神の祝福が隅々にまで深く、広く行き渡っていく。 そのために、礼拝の民が祝福する者として用いられていく。 これが、イエスの宣教の始まりでした。 
 神が私たちを招いてくださって、その神の働きに私たちが応えて、神のもとに集められる。 そして、神の祝福に満たされて、再び送り出されていく。 これが礼拝です。 神は、私たちに、神の業である宣教の働きを委ねてくださっているのです。 礼拝自体が、神の宣教そのものなのです。 私たちがささげる礼拝は、神の招きに対する直接の応答です。 このことを体現した人物、パウロの賛美が今日の聖書箇所に示されています。 パウロは、ユダヤの律法の最高の教育を受け、ユダヤ人でありながらギリシャ文化の教育も受け、ローマの市民権をもつユダヤ人でした。 ユダヤの律法を守らないキリスト者を徹底的に弾圧した人物です。 そのパウロが、よみがえりの主に電撃的に出会い、その後今までとは真逆の生涯、異邦人への福音の宣教の働きを担った人物です。 人間的には、健康に恵まれず、その姿はみすぼらしく、生活は「天幕づくり」で身を立てていたとあります。 そのパウロが、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」(コリント2:2)だけを語り続けたのでした。 ユダヤの長い歴史を通して、また誤解と中傷の渦巻く異邦人への困難な宣教を通して、神が痛みと憐れみをもって貫き通してくださったことに対する、パウロの驚きと感謝と賛美が、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」という言葉でした。 パウロが賛美している「神の富」とは、その豊かさです。 異邦人にまで、神の救いの手が差し伸べられる。 また、十字架の赦しによって、ユダヤに再び祝福の手が差し伸べられる。 その神の憐れみの豊かさです。 パウロが賛美している「神の知恵」とは、悪の霊、人の罪の妨害にあったとしても、どのような状況の中にあってもみこころを貫き通す、隠されていた神の憐れみです。 パウロが賛美している「神の知識」とは、私たち自身以上に私たちを知っていてくださるということです。 パウロは、イエスに招かれて、祝福を受けて、イエスの宣教に応えて歩んだ生涯を通して、この神の憐れみの豊かさに打たれたのです。 どのような時にも貫き通す、神の真実の見事さを知ったのです。 隅々まで私たちを知っていてくださるという神の深さに心打たれたのです。 「神を知ることは神を礼拝し、賛美することである」とカルヴァンは言っています。 パウロの賛美と礼拝は、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っている。 栄光が神に永遠にあるように、アーメン」となっています。 礼拝する、宣教する私たち自身が、この「神の富と知恵と知識」を知ることになるのです。 キリストにあって、キリストとともに礼拝と宣教をともにしなければ、私たちはこれが分かりません。 礼拝も宣教も、この神の憐れみに応えて行われる神の業なのです。 これに私たちは招かれています。

[fblikesend]

「十字架のつまずき」 マタイによる福音書27章27~44節

2015-01-18

 夜通し、裁判を受ける。 所々にとがった小さな骨や鉛の玉がついている皮のひもで鞭打たれる。 自分で処刑場までかついで行かなければならない十字架の横木をかつぐことさえできない。 着ているものをはぎ取られて、裸にされる。 身近にあった赤いマントを着せられ、茨で編まれた冠を頭につけられ、右手には弱々しい葦の棒を持たされる。 その滑稽な姿に、ローマの兵士たちはひざまずいて「ユダヤ人の王、万歳」と蔑んで遊ぶ。 唾を吐きかけられ、頭を叩かれ、首には「これはユダヤ人の王である」と罪状書きをつるされ罵られる。 脱がされた服は、くじ引きによって分けられる。 通りがかりの人々もまた、「神の子なら、自分を救ってみろ。 十字架から降りて来い。」と罵る。 祭司長たちも「今すぐ十字架から降りるがよい。 そうすれば、信じてやろう。」と罵る。 一緒に十字架につけられている強盗たちも同じように罵る。 力が尽きて衰弱してしまった哀れな姿。 もて遊ばれている姿。 力のまえに何も抵抗できない無力な敗北者としか映らない姿。 これが、私たちのつまずき、十字架のイエスの姿です。 いったい、だれが救い主と信じることができるでしょうか。 この哀れな、もて遊ばれる、無力な姿と人の目に映る姿に、イエスは留まり続けられました。 イエスは十字架から降りて来ようとはされなかったのでした。 どんなに体の苦しみをうけても、侮辱によって人格が傷つけられても、沈黙のうちにその十字架の上に留まられたのでした。 神を自分でつくり上げようとする人には、どうしても受け容れることのできないイエスの姿です。 しかし、パウロは、目の前で、「十字架につけられたままのイエス・キリスト」の姿が私たちにはっきりと示されたからこそ、私たちは霊を受けて信じることができたのではないですか。 私たちが戒めを守ったからですか。 人から教えを聞いて分かったからですか。 そうではない。 父なる神ご自身が決断されて、独り子を十字架のもとに置かれたからです。 そのみ子が父のみこころに従って、十字架を受け容れ、沈黙を守ったからです。 私たちが一人も滅びないようにと願われたからです。 私たちを見守り、ともにいてくださるお方は、この理解しがたい姿をもつ十字架の上に留まり続けてくださるお方なのです。 このイエスの十字架の沈黙によって、総督ピラトも、ローマ兵士も、通りがかりの人々も、強盗も、その場から逃げてしまった弟子たちも、その罪の恐ろしさを姿によってあぶり出されてはいないでしょうか。 私たちの本当の姿は、十字架のイエスの沈黙という鏡によって映し出されます。 そこに、私の赦しが、私の救いが、私のために注がれ続ける主の愛があると見えるようになります。 そこにしか、私たちの救いの道はないと聖書は語っています。 
イエスの十字架の横木を背負った、たまたまエルサレムに来ていたシモンという人物がいました。 彼は、疲れ果て、傷つき、消耗しきったイエスの生々しい最後の姿を見つめました。 どのようなお方であるのか分からないままに、強いられてイエスがかつぐべき横木を肩代わりして処刑場までイエスとともに歩きました。 突然かつがされただけのほんのわずかな道のりであったかもしれません。 しかし、イエスが背負うべき十字架の横木を彼は肩代わりました。 私たちは、彼と同じようにイエスと一緒に歩いてみなければ、イエスの背負う重荷の重さは分かりません。 イエスに従って生きてみなければ、イエスの本当の愛と苦しみは分かりません。 共に歩む私たちの姿に、イエスの命が現れると言うのです。 「私たちは、いつもイエスのよみがえりの命がこの身に現れるために、イエスの十字架の死を身にまとっています。」と聖書は言います。 イエスともに歩むということは、このイエスの愛と苦しみを知ることです。

[fblikesend]

「新しいものと古いもの」 マタイによる福音書9章14~17節

2015-01-11

 「わたしについて来なさい。 人間をとる漁師にしよう。」と招かれた弟子たちでした。 「恐れることはない。 今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と、イエスに宣言された弟子たちでした。 彼らは、すべてを捨てて、すべてをそこに残してイエスに従ったのでした。 イエスの教えを聞く、神の国の福音を聞く、人々のありとあらゆる病気や患いがいやされていく。 彼らにとって目にするすべてのものに、驚きと喜びと賛美があったことでしょう。 まさに、イエスとともに歩む生涯であったのです。 その喜びに満ちて、自由に仕えていたイエスの弟子たちの姿に疑問を抱いた人たちがいました。 バプテスマのヨハネの弟子たちでした。 「私たちも、ファリサイ派の人たちもよく断食をしているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」 彼らにとって、神の国に入る人とは、戒めを守る人でした。 四十日四十夜、パンを食べず水も飲まなかったモーセの姿に、神の前の敬虔な姿を見ているのです。 ですから、断食をしない者は、戒めを守らない者として批判するようになっていたのです。 この問いに、イエスははっきりと答えられました。 「断食」も、「あなたがた」も、「ファリサイ派の人たち」も古いものに属するものである。 その古いものに対する新しいものとはいったい何であるかを、ユダヤのごくありふれた日常生活のたとえを用いてイエスは答えられたのでした。
 イエスは、ご自身を婚礼の花婿にたとえて言います。 「花婿が一緒にいる間、婚礼に招かれて食卓についている客は、断食などするだろうか。」 イエスご自身とともにあること、それが喜びである。 その喜びに満たされた交わりこそ、豊かに備えられた食事の席である。 そこに、あなたがたは招かれている。 イエスは古いものが過ぎ去って、新しいものがすでに到来していると言われているのです。 イエスとともにあること、それが新しいものである。 このイエスとともにある今こそ、新しい喜びの婚礼の時である。 そこで用いられるものが、「新しい布」、「新しい革袋」であると言うのです。 新しいぶどう酒のように、イエスとともにある「新しいもの」は、喜びに満ちて古いものを打ち破って顕れ出てくる。 その喜びや感謝や賛美が、まったく違う古いもののなかでじっとしているはずがない。 放っておいても溢れ出てくる。 新しい革袋は伸びたり縮んだりして、発酵した新しいぶどう酒を覆うのです。 イエスは、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」と言われたのです。 新しくなるということは、ともにおられる「キリストを着ること」です。 都合のよい、新しいところの一部だけを張り付けて、古いところを残したままのつぎはぎの服では、キリストを着ることができません。 そのためには、一旦古いものを脱ぎ捨てるために、裸にならなければなりません。 ありのままの姿をキリストの前に差し出して、悔い改めてキリストを迎え入れる必要があります。 それがイエスの言う「新しい服」なのです。
 私たちがバプテスマを受けた時のことを思い起こしてみてください。 イエスに出会い、イエスとともに新しい歩みを始めました。 その途中、様々な障害にぶち当りました。 痛みを覚えました。 中傷されたこともあったでしょう。 しかし、これこそ、古い布切れとの衝突です。 古い革袋の限界なのです。 私たちは、ただこのイエスとともに歩むことだけによって、新しく造り変えられる。 私たちに求められていることは、このお方を見失わないことです。 拒んで一人で生きて行こうと、このお方とお別れをしないことです。 このお方が準備し、一緒に席についておられる食卓に与かり続ける。 新しくあり続けるということです。 ですから、主の晩餐を大切にして下さい。 主の日の礼拝を大切にしてください。

[fblikesend]

「変わらず、いつまでも見守るお方」 詩編121編1~8節

2015-01-04

 冒頭に「都に上る歌」とあります。 エルサレムに向う巡礼者たちへの門出の歌であったのでしょう。 これから始まる都詣での旅への不安や恐れが、出かけて行く本人たちにも、またそれを送り出す人々の方にもあったのでしょう。 新しい年の始めに、旅立つ人々の信仰の歌に耳を傾けたいと思います。 この美しい賛美の歌は、何かしら私たちの心をとらえます。 エルサレムへの巡礼の旅の歌が、私たちの人生の旅の歌に重なってくる。 地上の生涯だけでなく、人の死を越えて神のもとへの旅路の歌として聞こえてくるのでしょう。 私たちが「出で立つのも、また帰るのも」とあります。 それが「今も、そしてとこしえ」までも見守ってくださるという、「天地を造られた主」への「信頼」がここに歌われています。 かつて、主イエスは愛する弟子ペトロに、この「信頼」が失われないように祈ったと語られました。 イエスは、ペトロが失敗しないようにと祈ったのではありません。 「信仰が無くならないようにと祈った」のです。 信仰は、「天地を造られた主」からすべてのものが与えられる最大の恵みです。 この主との交わりが失われないようにと、主イエスは祈られたのでした。 予測もつかない人生の旅路に、詩人は「助けはどこからくるのか」と目を上げて、山々を仰いで確信します。 「わたしの助けは、天地を造られた主のもとから来る」と歌います。 私たちは果たして、この詩人と同じようにこの確信を、この賛美をもっているでしょうか。 
 「出で立つのも帰るのも」とあります。 口語訳聖書では、「あなたの出ると入るとを守られる」となっています。 出発する為には、何かを捨てなければなりません。 それを恐れていては、どこにも旅立つことができません。 「出ると入る」 古い生活から出て、新しい生活に入る。 人生の旅路とはこの連続ではないでしょうか。 アブラハムは、「あなたは生まれた故郷を離れて、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という「主の言葉に従って」、旅立ったとあります。 イスラエルの民も同じでした。 エジプトの奴隷の生活から、「奴隷の身分から救い出す。 あなたがたを贖い、あなたたちの神となる。」という主の言葉によって、新しい生活へと導き出されました。 そこから新しい旅路の信仰生活、荒野の信仰生活が始まったのです。 そこには、一人一人の旅立ちと戦いがあったのです。 両手に守りたいものを握りしめたままでは、主の助けだけを頼りにする信仰生活に入ることはできません。 その時です。 吹けば飛ぶようなものからではなく、「天地を造られた主」の養いが降ってくる。 運ばれてくる。 捨てたと思ったものが、新しい恵みとなってすべてよみがえってくるのです。 「天地を造られた主」は、同時に「わたしをつくり上げた主」でもあります。 詩人は、「主は、わたしを究め、わたしを知っておられる」と歌います。 私たちが主に知られていることが、主に愛されていることです。 ですから、この交わりを失ってはならないのです。 主は、ご自身の愛と真実を伝えるために、私たちを必ず身守り、助けられるのです。 その理由が、「わたしの信頼する主は、まどろむことなく、眠ることもないからだ」、「主が陰となって災いを遠ざけてくださるからだ」と歌うのです。 この方こそ、今もなお変わることなく働き続けてくださっている、十字架にかかってくださってよみがえられた主イエスであり、聖霊です。 「とこしえにまで、見守ってくださる」と言うのです。 私たちの地上の死は、終着点ではありません。 とこしえの世界の入り口です。 主は、この私たちの目には見えない「神の国」というとこしえに至るまで、見守ってくださるという愛の神です。 決して滅びない、いつまでも残る、最も大いなる愛の神です。

[fblikesend]

「私たちのエルサレム」 使徒言行録 20章17~24節

2014-12-28

 パウロがミレトスというところに辿りついた時、わざわざ「人をやって」、エフェソの教会の人たちを「呼び寄せて」います。 招いたパウロも、また招かれたエフェソの教会の人たちもよほど会いたかったのでしょう。 エフェソが近いと言っても、ミレトスから約60キロも離れていたのです。 パウロは再会しただけに留まらず、この時が最後になると語り始めたのです。 パウロがエフェソの教会の人たちとの最後の別れに語ったことは、「私は、ただ主だけにお仕えしてきた。」 「私は、主の姿とみことばだけを伝え、教えてきた。」 「力強く証ししてきた。」ということでした。 エフェソの人たちは、一緒に辿って来た生きたパウロの姿を思い浮かべながら聴いていたことでしょう。 パウロは先ず、それらをどのように伝え、教えてきたのかを語ります。 「自分を全く取るに足りない者と思い」ながら、主に仕えたと言います。 自分を低くし、小さくして主に仕えたと言います。 そして、「涙を流しながら、この身にふりかかってきた試練に遭いながら」も、主に仕えてきたと言うのです。 パウロにとって、一人の人を救うための謙遜であり、涙であり、試練でありました。 それを、「公衆の面前」でも、「方々の家々」でも、「ユダヤ人にもギリシャ人」にも伝え、教え、証ししてきた。 「一人の人」を救うために、主に仕えてきたと言います。 この姿こそ、十字架のうえで痛みと侮辱と罵りを背負って、私たちの卑しさや醜さから解放してくださったイエスの姿です。 この主イエスの姿とみことばに揺り動かされたからこそ、パウロ自身が語ることができた。 エフェソの人たちが心を揺り動かされて聴くことができた。 ですから、エフェソの人たちは激しく泣いた。 人のために自分をさらけ出して差し出すパウロとともに、ひざまずいて祈った。 主イエスのみことばを指し示すパウロを抱いて、接吻したのです。 パウロは、「神に対する悔い改め」と、「わたしたちの主イエスに対する信仰」を伝え、教え、証ししたと言います。 これらは、私たちの力では得ることができないものです。 神からの恵み以外には受け取ることのできない、与えられるものです。 神は、あなたがた一人一人に霊を与え、「悔い改め」を与え、「信仰」を与える。 神を知る知恵を与える。 そのことを支えるのは、「神のみことば」であると、パウロはエフェソの人たちとの最後の別れに語ったのです。 その言葉が「今、神とその恵みの言葉にあなたがたをゆだねます」というみことばでした。 
 パウロはそれだけではありません。 「今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます」と言うのです。 律法を持たない、律法を守らない異邦人が救われるというパウロの教えなど到底受け入れることのできないエルサレムでは、激しくパウロに敵意を抱いています。 わざわざそのような渦中に入り込まなくてもいいのではないか。 そのような声が、自分自身からも周囲の人々からも聞こえていたことでしょう。 しかし、パウロは、「自分の決められた道を走り通します」、「主イエスからいただいた務めを果たします」と答えています。 その務めとは、「神の恵みの福音を力強く証しすること」であると言ったのでした。 パウロはいただいた恵みにとどまらず、霊に促されて、恵みに促されて、自らの務めを果たすために主イエスと全く同じようにエルサレムに入って行ったのです。 私たちにとってのエルサレムとは、どこでしょうか。 エルサレムを前にしてためらっているのでしょうか。 どのように主に仕え、従って行くのでしょうか。 何を伝え、何に信頼して歩んで行くのでしょうか。 そのことを問いながら、新しい年を迎えたいと思います。  

[fblikesend]

「切り倒された木の根株から出た新しい芽」 イザヤ書 11章1~10節

2014-12-21

 2000年前の救い主の誕生を、それから更に約700年も遡って預言しその望みを抱き続けた旧約聖書の時代があります。 預言者イザヤは、ユダヤの国の平和を本当に求めた人物でした。 しかし、ある時はアッシリアの軍事力に頼り、またある時にはエジプトの支援に頼ろうと失敗したユダヤの王たちに、イザヤは失望します。 エッサイという小さな家系から出たダビデによって造り上げられたユダヤの王国は、切り倒されてわずかに残った切り株となってしまった。 しかし、そこには「残された切り株」がある。 そこに「新しい一つの芽」が萌え出で、「ひとつの若枝」が育つ。 その上に、「主の霊がとどまる。」と約束されたのでした。 
 主は、エッサイの血筋を引いたダビデが打ち立てた約束のユダヤの王国を、その民の不信仰のゆえに滅ぼされました。 ユダヤという大木を、主は惜しげもなく切り倒されたのです。 主は、ご自身がお選びになった人々がそのみこころに背く歩みを、見過ごされるお方ではありません。 それは、選んだ人々を裁くためではありません。 ご自身が選ばれた人々を、最後までその責任とご愛とご真実を貫くために切り倒されたのです。 不信仰は、主の前に切り倒されねばならなかったのです。 しかし、切り倒されなければならなかった私たちの不信仰のその上に、「新しい芽」を育むと言われたのです。 ひと度は、切り倒されて傷を受けて、望みが断たれたように見えるその切り倒された切り株に、「ひとつの新しい芽」が芽吹くと言うのです。 古い生き方を刈り取られてしまった私たちの切り株、傷跡、その痛みの上に「新しい芽」を植えて、新しい若枝を育ててくださると言うのです。 この望みを、イザヤはクリスマスから遡って約700年前に見出したのです。 それが今から2000年前に成し遂げられたクリスマスの出来事です。 私たちの本当の不信仰は、この主の約束、恵みを受け取ろうとしない、拒むことではないでしょうか。 この「新しい芽」、イエス・キリストの上には、「主の霊がとどまる」と言います。 「主の霊がとどまる」とは、「神、我らと共にある」ということです。 この主の霊には、三つの賜物があると言います。 「主を知るという知恵」、「主に従うという勇気」、主を知る知恵と主に従う勇気からくる「主を畏れ敬う姿」です。 「新しい芽」には、この「主を畏れ敬う霊が満たされる」と言います。 まさに、この姿こそ、イエス・キリストの生涯そのものではないでしょうか。 力に拠らず、自らを低くして、その誕生から十字架に至るまで主の霊に満たされて従順に歩んだイエスの生涯です。 この主を知る知識に満たされたお方が私たちに与えられた、それがクリスマスの喜びです。 
 イザヤの預言は、それだけではありませんでした。 その「新しい芽」であるイエス・キリストのとどまるところには、真の平和があると言います。 すべての命ある者の間に、神が良しとされる正しい関係があると言うのです。 真の平和は、争いがないということではありません。 力によってつくり上げられるものでもありません。 主を知る知識によって「主を畏れ敬う霊」によってつくり上げられる神との正しい関係でつくり上げられる。 イザヤは「その日が来れば」、大地は主を知る知識で満たされると言います。 これが救い主イエス・キリストが造り上げる平和です。 この平和は絵空事でしょうか。 理想論でしょうか。 小さな家庭、小さな交わりの中にも、主にあって「主を畏れ敬う霊に満たされる」、「主を知る知識で満たされる」、そのようなことが実現することは不可能なことでしょうか。 このクリスマスに、「切り倒された痛みの根株」に、このお方を迎え入れて、その上に主の霊が満ち溢れるようにと祈って参りたいと願います。

[fblikesend]

« Older Entries Newer Entries »
バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元