「復活からの道」 ルカによる福音書24章28~35節
イエスご自身は「旅人」でした。 神のもとから遣わされるという生い立ち。 人間のからだを引き受けてくださって、この地上の30数年の生涯を歩んでくださった。 喜びも、悲しみも、苦しみも、私たちと同じように味わってくださった。 「人間の死」もご経験してくださったが、人間では果たすことのできない「よみがえり」という道を初めて切り開いてくださった。 ついに、復活の命を携えて神のもとへ戻られるという地上の旅人でした。 私たちは、この旅人イエスの「証し人」として、イエスの旅を引き継いで歩む者とされています。 このことが可能となったのは、復活の主が私たちに現れくださって、神ご自身がそのことを「証し人」を用いて書き記してくださったからです。
イエスが殺されてすべてが終わったと諦めてしまった二人の弟子が、その殺された場所を離れてエマオの村に向って歩いていました。 過去に囚われたまま、落胆と絶望のなかを暗い顔をして話し合いながら歩いていたのです。 この二人の弟子たちのエマオへの旅に、復活されたイエスが近づいて来て、語りかけ、一緒に歩いてくださったのです。 弟子たちは、見知らぬ人に話をかけられ、励ましの聖書の説き明かしを受けたのです。 二人は、イエスに「一緒にお泊まりください」と無理強いをしました。 なおも先を急いでおられたイエスは、あれほど道すがら説き明かしをしたにもかかわらず、イエスであることが分からなかった弟子たちの願いに応え、一緒に泊るために家に入られたのです。 その泊った家で、一緒に食事の席についた時です。 イエスは客人としてではなく、家の主人として「パンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」彼らにお渡しになりました。 その姿に、弟子たちはイエスの姿に気がついたというのです。 ここでイエスが復活の主であることが分かるまでには、イエスの方から近づいて来て、一緒に歩く、話しかける、説き明かしをする、一緒に泊るために家に入る、主人として振る舞う、一緒に食事をする。 これほどまでに、イエスは、私たちを追いかけてくださるのです。 これが二人の弟子たちのエルサレムからエマオまでの旅でした。
ところが、目が開かれた二人の旅は、ここで終わらないのです。 時を移さず、エルサレムに戻ったとあります。 イエスがなおも先へ行こうとされたように、弟子たちもまた、新しい旅を歩み始めたのです。 もう一度、危険のともなうエルサレムへ戻る旅でした。 戻ってみると、仲間が集まっていた。 仲間が、本当にイエスは復活して現れたと証言していた、 自分たちもまた、エマオへの旅のなかで現れたこと、パンを自分たちのために取って、賛美の祈りを唱え、裂いて渡してくださったことを証言したのです。 この証言の集まり、祈り合いの集まりの真っ只中に、後に、父なる神が聖霊を降して私たちの教会を据えられたのです。 自分たちが決めて、一旦、向った「エマオへの旅」でした。 イエスに失望して、イエスのもとを離れた二人の旅でした。 その旅人に、復活の主は追いかけてくださった。 そのお方こそが、よみがえられたイエスであると知る信仰を二人は与えられたのです。 自分の目的地ではなく、新しい目的地を目がけて旅立つ「エマオからの道」、新しい生きる力を与えられたのです。 今も生きておられるイエスに祈られている、守られている、招かれている。 そのことをからだで知らされたのです。 エマオまでの道のりは、たとえ悲しく困難な道であったとしても、二人にとってこの復活の主に出会うまでの大事な旅でした。 新しいもう少し先へ踏み出す力、「エマオからの道」が与えられるのです。
「失われない者」 ヨハネによる福音書6章34~40節
「わたしが命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 このみことばが、どのような相手に、どのような時に、どのような場面で語られたかを見ますと、今の私たちに強く迫ってきます。 語られた相手は、大麦のパン五つと魚二匹によって五千人に食べ物を与えられ、養われたという奇跡を目の当たりにした群衆です。 イエスは病人を癒すだけではない、神のもとから来られた預言者であると思い、「自分たちの王」として担ぎあげて連れ出そうとついて来た、その翌日のことです。 この時の群衆とイエスの対話によって引き出された、みことばであったのです。
「いつ、ここにおいでになったのですか」 これが最初の群衆の質問でした。 やっとの思いで見つけ出して、イエスを祭り上げようと自分たちの思い通りにしようとしたその時です。 イエスは「はっきり言っておく。 あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言います。 病が癒される、飢えたおなかが満たされる。 もっと必要なものを与えて欲しい、この状態から解放してほしい、「自分たちの王」としてもっと力を見せて欲しい。 「見たら信じましょう」、「納得したら信じましょう」 そのような群衆にイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない食べ物のために働きなさい」と言われたのです。 そう言われた群衆は、そのためには「何をしたらよいでしょうか」と尋ねます。 イエスの答えは、「神がお遣わしになった者を信じることである。 それが神の業である。」でした。 神がお遣わしになった者、神がはっきりと意図をもって送って来られたみ子イエス・キリストを信じることである。 そのイエスが神のみこころ通りに黙って服従しておられること、そして、その従うイエスのうえに父なる神が働いておられることを信じることである。 これが、あなたがたのなすべき仕事であると言われたのです。 群衆はこう言われても、「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。 どのようなことをしてくださいますか。」と尋ねてしまうのです。 群衆は、モーセが荒野で神から食べ物をいただいて人々に食べさせたことを知っています。 イエスにも信じる為のしるしを求めたのです。 イエスはついに、「天からパンを与えたのはモーセではない。 父なる神が与えたのである。 わたしの父が、天からまことのパンをお与えになる。」 このイエスの発言に「そのパンをいつもわたしたちにください」と群衆が叫んだその時に、今朝のみことばが語られたのです。 イエスは、群衆に説明をしたのではありません。 「わたしが命のパンである」 父が、今、こうして私という姿によって命のパンをお与えになっている。 だから、私を受け入れなさいと群衆に迫ったみことばなのです。 イエスが何者であるのか明らかにされました。 そして、イエスの使命が何であるのか示されました。 「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではない。」 「わたしをお遣わしになった方のみこころを行うためである。」 そしてついに、父なる神のみこころまでも明らかにされました。 「わたしをお遣わしになった方のみこころとは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないことである」、「終わりの日に復活させることである」、「わたしを見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」、「わたしは、このみこころに従っている」 そうお答えになったのです。 群衆が生きた時代も、私たちが生きている時代も、これからも、私たちのだれ一人も失われないことが、神のみこころなのです。 私たちは、滅びることのない「生きる者」、神と共にある「失われない者」なのです。
「備えられた朝の食事」 ヨハネによる福音書21章1~14節
イエスが葬られたはずの空っぽの墓に行った婦人たちに、神の使いがこう言われました。 「あの方は、ここにはおられない。 復活なさったのだ。 まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。 あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。 そこでお目にかかれる。」 ガリラヤとは、イエスが歩まれたところ、弟子たちが生活し歩んだところです。 ガリラヤという日常の生活に戻った弟子たちに復活されたイエスは語りかけ、再び自ら入り込んで来てくださる。 その生き生きとした有様が描かれています。 イエスは復活した後、墓の前で嘆き悲しんでいた婦人たちに現れてくださいました。 次いで、そんなことがあるはずがないと疑う弟子たちに現れました。 更に、日常に埋もれ生きて行くことに精いっぱいの者のもとに現れてくださったのです。 それも、一晩中、漁をしたけれども何もとれなかった、何も収穫するものがないという乏しい生活の中にでした。 弟子たちの失敗している、困っているその日常にこそ、イエス・キリストの恵みは満ち溢れます。
イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。 聖書では、右側とは、神の側ということです。 今まで、弟子たちは、舟の左側、人間の側でしか網を打っていなかった。 イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。 そうすればとれるはずだ」と言われた。 これは、生活の糧だけの話ではありません。 「あなたがたは、人間をとる漁師になる」と言われたイエスの約束のみことばのことです。 イエスが言われた通りに網を打ってみると、網を引き揚げることができないくらいに大漁になった。 どんなに不格好でも、どんなに失敗をしても、何の収穫がなくても、日常に埋没することなくイエスを仰いで、イエスに向っているかと励まします。 岸辺では、すでにイエスは「炭火を起こしていた」。 弟子たちが網を打ってとってきた魚とは別の魚が、パンとともに用意されていた。 イエスはそれでも、弟子たちに、「今とってきた魚をもって来なさい」と言われます。 魚は、自分たちが持ち寄って来て、分かち合うものであることをイエスは教えます。 もって来るものが「何もありません」と言う弟子たちに、イエスは網を打つ場所を教え、大量の魚を与え、その魚を持ち寄ってくるまで、岸辺でじっと待って朝の食事の準備をしてご覧になって立っていてくださるのです。 この弟子たちが味わった霊的な体験を、私たちもまた同じように味わうことが赦されています。 イエスは「もって来なさい」、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われました。 舟の右側に網を打つのか。 左側に網を打つのか。 わずかな違いなのかもしれません。 しかし、弟子たちは、呼びかけるイエスのみことばを聞き分けることができました。 聞くだけでなく、言われた通りに網をおろしてみたことでした。 その僅かな違いが、永遠の命と滅びに分かれるのです。 み声を聞いて、みことばに従って、主に向って歩むところに必ずイエスは立っておられる。 今、教えられ、与えられた恵みをもって来なさいと言われる。 用意した朝の食事を一緒にしようと招くイエスに、私たちは必ず出会うことができるのです。
「朽ちない、輝かしい、力強いもの」 コリントの信徒への手紙一15章42~49節
死んだ者が生き返る。 こんなことがあるのだろうかと、この問いの前に立ち止まってしまう。 このような私たちとは、パウロは異なります。 「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」 そこまで行かないまでも、「死者はどんなふうに復活するのか。 どんな体で来るのかと聞く者がいる」のはどうしたことかと、逆にコリントの教会の人たちに問い返しています。 パウロは、種まきとその収穫というユダヤのありふれた日常の身近な風景を用いて、このことを語ります。
パウロは、このありふれた種まきの風景には、始まりと終わりがあることを告げます。 私たちこそ、種粒としてこの地上に蒔かれた存在です。 蒔かれた種は死んで、実を結んでふさわしい体をもって収穫されるという終わりを迎える存在です。 蒔かれた種粒として私たちを創造してくださった神が、その種粒が死んでつくり上げられた体を、最後には神ご自身が収穫される。 その収穫という終わりの時に、神は「自然の命の体」から「霊の命の体」へとつくり変えてくださる。 その終わりの時に、新しく私たちを創造するとパウロは言うのです。 始まりから終わりに至るまで、変わらないご真実をもって貫かれる神の創造の業がそこにはあると言うのです。 パウロは、種粒が蒔かれることも、蒔かれて収穫されることも単なる自然の成り行きとは考えません。 創造者である神が、自由に種を蒔き、収穫なさる創造の業である。 蒔かれた種が死んで体が与えられる、刈り取られるという営みを神の創造の業であると言います。 なのに、神を創造の主と信じるあなたがたが、なぜ「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」と嘆いているのです。 死者の復活は、最後の神の収穫の時の創造の業です。 この収穫の業のために、種粒は蒔かれて準備されている。 それぞれ違った体を与えられた「自然の命」が刈り取られるのを待っている。 生まれながらに、あるいは何かをしたから、収穫の最後の時に「霊の体」が自然と備わるのではない。 神の創造の業によって、恵みによって与えられる特別の賜物です。 私たちは、最初の人アダムによって「生きる者」となりました。 その最初の神は、その終わりの時にも、霊の命にふさわしい体を与えて必ず「生きる者」としてくださることを信じることはたやすいことなのではないでしょうか。
パウロは、「最初に霊の体があったのではありません。 自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。」 二つの体には順序があると言います。 天に属する最後の人イエス・キリストは、天から来て、天に戻るお方です。 そのお方が、地に属する自然の体をもってくださった。 私たちと同じ地に属する体をもってくださったお方がよみがえりにより、天に属する体となって戻る。 地に属する者から天に属する者へとつくり変えられる神の創造の業、その死者の初穂となってくださったのが、イエス・キリストの十字架と復活です。 この「自然の体」と「霊の体」をつなぐものが、「復活」です。 体をともなった「からだのよみがえり」です。 私たちは、この約束の希望と、自分にしか与えられていない体とをもってこの地上の生涯を歩んでいます。 それが、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」というみことばです。 朽ちるべきものが朽ちないものを着て、死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになる。 それが、私たちの最後の収穫の時の「復活」の約束です。 私たちは、朽ちないもの、神の輝きに満たされるもの、弱さが強さに変えられる者です。
「待ち望む三日目の朝」 ヨハネによる福音書19章31~42節
主イエスが「成し遂げられた」と語ったその最後の時、すべてが終わったと言われた時に、今朝、私たちは立たされています。 その時に、イエスは父なる神のみこころに従って「人間の死」を受け入れられたと同時に、神のもとを離れてしまった私たちの身代わりに父なる神から捨てられるという「本当の死」を受け入れられました。 主イエスが黙って受け入れられたこの「葬りの一日」、死んで葬られた日を覚えます。 その日は、準備の日でした。 翌日は、特別な安息日でした。 十字架に架けられた主イエスの死んだ体は、人々にとって汚れたものでした。 確実に死んでいくように、また息を吹き返してくることのないように足を折って歩けなくする。 とどめを刺すかのように「槍でわき腹を刺し通す」。 イエスが死んで、来たるべき三日目の朝を迎えるまでの、この間の一日を聖書は「あなたがたが信じるためであった。 旧約聖書の言葉が実現するためであった。 自分たちが槍で突き刺した者を見るためであった」と告白しています。 律法では、「過越しの小羊の骨は折ってはならない」と言う。 イスラエルの民の罪のあがないとしてささげられた「いけにえの小羊」の骨を折ってはならないと言う。 イエスの十字架は、過越しの祭りの準備の日に起きた出来事でした。 主イエスは、「過越しの祭りの小羊として、十字架に架けられた」。 神のもとから離れてしまった私たちを取り戻すために、あがないとして神の真の裁きのためにささげられた主イエスであったと聖書は言っているのです。 この主イエスの死んで葬られた日、「葬りの日」が私たちにとって大切なのです。 私たちが受けたバプテスマは、この主イエスの葬りとともに葬られたという事実を体験することでした。 人間の可能性などまったくなくなってしまった日、「終わりの日」、その時こそ父なる神だけが働く。 神のみことばだけが聞こえてくる。 「最後の絶望の日」に、生きた神の働きが分かるようになる。 この終わりの日の体験を通して、新しい神の働きがそこから起こってくる。 パウロが言っています。 「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」。 死という終わりを経験して、新しい始まりに生きていく。 すべてが終わらなければ、神の業は始まらなかったのです。 私たちの迎える三日目の朝こそ、この葬りの日、終りの日を味わいながら、静かに待ち望んだ新しい世界が始まった日なのです。 この葬りの日に用いられた二人の人物がいます。 アリマタヤのヨセフとニコデモです。 どちらも、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」人物です。 心の中で思っていることと、やっていることがかけ離れていた人物です。 その人物を神は召し出して、主イエスの最後の日の葬りのために用いたのです。 人間の可能性がまったくなくなったその最後を、一緒に体験させ新しい神の業の始まりに備えるためにこの二人を用いられた、神の事実を見逃すわけにはいきません。 二人は、この葬りという終わりが新しく始まることであったという十字架の言葉を、イエスの復活の事実によって知らされたことでしょう。
[fblikesend]「十字架のキリストに結ばれて」 コロサイの信徒への手紙2章6~15節
初代の教会の人たちは、週の初めの日を「主の復活した日」として礼拝をささげました。 毎週、この日に集まって礼拝したのは、この主の復活を祝ったからです。 すべての主の日の礼拝が、復活を記念する礼拝であったのです。 イエスの「十字架」は間違いなく、当時の支配者であったローマの国家権力によって、ひとりの人間イエスを死罪にしたという事実であったでしょう。 イエスに従って来た人たちにとっては、こんなはずではなかった。 この事実を受け止めたくない。 この事実をひっくり返すぐらいの大きな力を望んだことでしょう。 しかし、イエスの十字架という死刑は、そのままでは終わらなかったということです。 イエスが息を引き取られる最後まで見届けた、その死刑を執行する側にあったローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言葉を漏らす。 死んだはずのイエスが、よみがえって弟子たちの前に現れる。 聖霊が弟子たちに降って、このイエスの死こそが自分たちの弱さ、醜さを贖うために払われた貴重な代価であったことを後に知らされる。 人間の死をもって大きな力を持っていると見せかけていたこの世の霊をも乗り越える存在を、この地上で弟子たちは初めて知ることになったのです。 ところが月日が流れ、人々はイエスの十字架が分からなくなってきた。 このコロサイの教会にも問題が起こるようになってきた。 神の前に救われるべき道は、この十字架にかけられたイエス・キリストの死とよみがえりという事実以外にはないはずであるのに、コロサイの教会の人たちはイエス・キリスト以外の知恵や知識に頼って神のもとへ行こうとしたのです。 パウロはそのような人たちに勧めます。 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」、「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」と勧めます。
私たちの信仰の出発点を思い起こしてください。 理由は分からなかったけれども、キリストを受け入れて出発しました。 理屈ではない、これからキリストに従って行こうと決断したことでした。 ただ、神の愛によって道が備えられた。 その道を、キリストがそのみこころに従って、一緒に歩いて切り開いてくださった。 その道を歩んでいる私たちを遣わされた聖霊が導いてくださった。 私たちは、ただ感謝して受け取るだけです。 パウロは、選び取った道を「キリストに結ばれて歩みなさい」 「キリストの言葉に耳を傾けて、教えられたとおりに歩みなさい」 「キリストに根を下ろして歩みなさい」と勧めます。 聖書は、「キリストの内には、満ち溢れる神性が余すことなく、見える形をとって宿っている」「あなたがたは、キリストにおいてそれが満たされる」と言います。 私たちの証しの姿を、キリストに結ばれた姿、キリストに根を下ろした姿として公然と示してくださると言っているのです。 イースターは、キリストと共にある私の「死と新しい命」の事実です。 イエス・キリストに満ち溢れている神が、私たちの姿を通して現れてくださるのです。
「収獲される方への信頼」 マタイによる福音書13章24~30節
イエスが語った有名な「毒麦のたとえ」です。 このたとえを、ものごとを速断してはならない。 大きくなって、はっきり区別できるようになってから毒麦を抜くとよい。 気長に人間を育てる大切な姿勢を示している。 このように言う人がいます。 イエスは、このような道徳の教えを聖書のみことばとして語っているのでしょうか。 私たちの畑からは、残念ながら、麦と毒麦が一緒にどちらも育ってくる。 良いものと悪いものが一緒に存在する世界であると、このたとえは告げています。
たとえの中の僕たちは、主人に向って重要な質問をふたつしています。 「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。 どこから毒麦が入ったのでしょう。」 どうして、私たちの畑に毒麦があるのでしょう。 どうして、悪がこの世にはびこるのでしょうかという質問です。 イエスは、弟子たちに対しても、群衆に対しても、これは悪の霊の働きであると言ってくださいました。 しかし、問題は、それが人間を通してなされているということです。 悪の霊が、私たちをあやつって働きかけることです。 悪の霊によって、自分が利用されていることにその本人が気がついていないということです。 神のみこころに反対する悪の霊が、一人の人間の心と振る舞いを利用して、毒麦をもたらしているのだと言うのです。 この世では、神のみことばだけが成長するのではない。 それを妨害するものもまた成長してくるのだと言っているのです。 僕たちは、もうひとつ質問をしています。 「では、毒麦を、行って抜き集めておきましょうか。」 僕たちは、麦と毒麦を区別して、毒麦だけを取り除いておきましょうかと質問したのです。 主人は、この二つの質問に「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と答えます。 私たちの世界は、麦と毒麦が混ざっている。 蒔かれた神のみことばが、そのみことばの力によって育つように、そのみことばを妨げるような毒麦もまた目の前に立ちふさがります。 私たちの世界は、神が造り上げた祝福された世界のはずです。 毒麦も、毒麦を蒔いた者も、刈り入れまでのはかない存在です。 最後には、焼きつくされてしまうものです。 この刈り入れの主だけが、どのように収獲するのか、いつ収獲するのかを定めることができるはずです。 その時まで、神は待っておられるのです。 すべての人が、悔い改め、神のもとへ戻ってくることを時間かけて待っておられるのです。 この最後の刈り入れの時を委ねられた主イエスを信頼すること、これを私たちが求められているのです。 誤りだらけの私たちです。 そこには、神の赦しが必要です。 自分は、毒麦を育てているかもしれない。 しかし、それを神はすでに赦して、待っていてくださっています。 この父なる神がすべてを委ねた主イエスに、疑わないで、幼子のように信頼し切ること、そのことを積み重ねることが、私たちの信仰の歩みではないでしょうか。
「あなたの足を洗わないなら」 ヨハネによる福音書13章1~11節
イエス様は、ご自身の人間としての地上の生涯を閉じられる時のことを「この世から父のもとへ移るご自分の時」と表現されました。 そして、その最後の時に「父なる神がすべてのことをご自分の手にゆだねられたこと」を悟った。 「ご自分が父なる神のもとから来て、神のもとへ帰ろうとしていること」を悟ったと言われました。 一切の救いと裁きの力を父なる神から与えられ、いよいよ父のもとへ戻って行くのだと悟って、これから向わなければならない、いや自ら進んで十字架の道を歩まれたのでした。 そのような時に、イエスの心は弟子たちのうえにあったというのです。 「世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。 心があっただけでなく、弟子たちにひとつの振る舞いの姿を別れのメッセージとして残されたのです。 その姿とは、「食事の席から立ち上がって、上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」姿、そして「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふきはじめられた」姿でした。 この当時の「足を洗う」とは、奴隷の仕事です。 ペトロは、このイエスの姿を人間の道徳としか見つめることができなかった。 私の願う偉大な先生がそのような仕事をするべきではない。 あるいは、自分がイエスの足を洗うべきであると思ったのかもしれない。 しかし、イエスは、この姿がこれから迎えようとする十字架の死という別れに結びついている。 父なる神のもとに帰るという復活の事実と深く結びついている。 もし、私があなたがた弟子たちの「足を洗わないなら、わたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。 上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふきはじめられたイエスの姿が示した愛は、イエスの方からかかわろうとした愛でした。 この弟子たちの中には、この食事の直後にイエスを売り渡して裏切ったイスカリオテのユダもいたのです。 イエスはその足をも洗う、すべてをご存じで赦して最後まで諦めないで、「かがんで、本当に汚れた足を洗ってぬぐわれた」愛であったのです。 イエスは、ペトロに言います。 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」愛であると言います。 私たちの裏切りも、弱さもすべてご存じであった。 もうすでに、すべてをお赦しになっていた。 だから、あなたがたの最も汚れているところを、ひざまずいて、かがみこんで洗わなければならないのだと言っておられるのです。 イエスは、弟子たちの足を洗い終わると、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。 私たちの生涯もまた、最後まで、イエスに招かれているすべての人たちと食事をともにする地上の交わりの中にある者です。 大事なことは、諦めないで最後まで神のもとに召されるまで、自分にしかできないことをもって、イエスに招かれている人たちを愛し抜く。 その別れのメッセージを、自分の姿に刻み込んでいくことではないでしょうか。 私たちにも、そのメッセージを語る「自分の時」が与えられています。 主イエスに、一刻も早く罪にまみれた自分を差し出してぬぐっていただく。 その洗っていただいたイエスの愛が刻まれた姿をもって、互いに足を洗い合う交わりに導かれたいと願います。
[fblikesend]「安息日の主が招く礼拝」 マタイによる福音書12章1~8節
私たちのキリスト教の生い立ちは、イエスの誕生であり、イエスのこの地上での姿であり、十字架にかけられ死んで葬られ、よみがえり天に昇られたという歴史上の事実によります。 私たちのところに聖霊が降ってくるという出来事を経て、復活されたイエスが主であると信じる信仰が確かなものとなったことによります。 この神が一方的に為された事柄をからだで感じ取った私たちが、それに応えて礼拝するという行いが引き起こされたのです。 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」「毎日、ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。 これが、キリスト教の最初のころの礼拝の姿です。 イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」「あなたがたは安らぎを得られる」と、真の安らぎを与えると約束されました。 神がご自分の仕事を離れて休息なさって、祝福し、聖別された筈の安息日が、今や、安息日の細かい規則を守るための重荷となってしまっている。 安息日は人のためにある。 「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」 祭司たちが神殿で仕えている筈の安息日の主は、私であると言われたのです。 父なる神が、その創造の業のなかで、祝福し、聖別した安息日に真の安らぎを与えようとして私を遣わしたのだと言っておられるのです。 そして、イエスは、「わたしがもとめているのは憐れみであって、いけにえではない」 あわれみを犠牲にした形だけのいけにえではないとイエスは主張されたのです。 まさに、最初のころの教会が、イエス・キリストの復活をからだで味わった後に、この疲れと重荷から解放される真の喜びをもって、主のよみがえりの日曜日の礼拝を守ったのです。 私たちの礼拝は、このすさまじい闘いの中から勝ち取られて来た、解放の喜びの礼拝であったのです。 神が、イエスを用いて私たちを招いてくださったものであったのです。 安息日は、イエスが真の安らぎを私たちに与えようとされた日です。 人が安息日のためにあるのではない。 安息日の主であるイエス・キリストの憐れみのみことばを聞いて、その憐れみにすがって礼拝するためであります。 仕事の手を休め、神の喜びにあずかる礼拝の日です。 イザヤ書に「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」とあります。 真の安らぎを与えようとして招いておられる主イエスを礼拝する。 そのとき、主は必ず、その日を「主を喜びとする喜びの日」としてくださいます。 招いておられる安息日の主をこそ、形に囚われないで一緒に仰ぎ、賛美し、喜びましょう。
[fblikesend]「イエスとの出会い」 ルカによる福音書19章1~10節
イエスは、「わたしは、失われたものを探して救うために来たのである」と言います。 イエスは、ずっと探し続けておられます。 捜して、見つけ出して、連れ戻すために来たと言われます。 私たちは失われていた者です。 神のもとから離れてしまった、自分だけを頼りになんとかしようとしてきた者です。 手を差し伸べてくださっておられるイエスに気づかないで、傷つけて、無視して、気ままに歩んできた者です。 イエスは、このような私たちを諦めないで、自分の思い通りに歩んでいる「すべての道」をご覧になって、救うことが私の務めであると言われているのです。 このイエスに、ひとりの人物が出会います。 ザアカイという、「徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介されています。 徴税人とは、同胞のユダヤ人から様々な税金を取り立てる仕事をローマ政府から請け負っていた人々です。 中には、高い税金をふっかけて情け容赦なく取り立て、私腹を肥やしていた者もいたのです。 その頭であったと言いますから、凄腕の取立人であったのでしょう。 お金を取り立てるほど、お金は増えます。 しかし、人の心は離れていきます。 ついに、ザアカイはまったくの孤独の中に置かれたのです。 何かしら満たされないザアカイは、「イエスがどんな人であるのか見ようとした」。 町や村を巡り歩いて病人を癒し、徴税人だけでなく罪人と呼ばれて蔑まれている人々と食事を共にする。 罪人の仲間であると罵られても嫌がらないイエスに、心の渇きを覚えたのです。 ザアカイは、イエスに遭いたいと思ったのではありません。 イエスを観たいと、木の上に登って見降ろそうとしたのです。 しかし、イエスは、その場に来てザアカイを見上げたのです。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日は、あなたの家に泊まりたい。」というイエスの声に接します。 「あなたの家に泊まりたい」とは、どうしてもあなたの家に泊まらなければならないというぐらいに、強く言われたイエスの言葉です。 そのためには、ザアカイは、降りて来て、イエスの前に立たなければならなかった。 イエスの言葉の通りに従わなければならなかったのです。 イエスの一方的な働きかけでしたが、間違いなくザアカイはイエスと出会ったのです。 ありのままのザアカイを見つめられたのです。 今までの徴税人の頭としてではなく、これから変わろうとするザアカイを見てとったのです。 それだけでなく、罪人の仲間と呼ばわれることも嫌がらず、ザアカイの家に泊まられたのです。 イエスは、ザアカイの今までの神の前の罪も、人々から見放された孤独も、ザアカイの家で共にされたのです。 ザアカイは、そのことをからだで知り、そのからだが自分の家にイエスを受け入れたのです。 「今日、救いがこの家に訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。 わたしは、失われたものを探して救うために来たのである。」 これが、イエスの喜びの声です。 罪人と歩もうとされるイエスに出会ったことが、ザアカイの喜びの訪れでした。 私たちは、このイエスの喜びの声が聞こえているでしょうか。 果たして、イエスを見ようと木の上に登ったでしょうか。 語りかけられたイエスの言葉に従ってイエスの前に立ち、自分の本当の住みかにイエスを受け入れたでしょうか。
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