「生きた水、渇かない水」 ヨハネによる福音書 4章1~15節
イエスは、サマリアをどうしても通って行く理由がありました。 ユダヤ民族の信仰の父アブラハムに連なる族長「ヤコブの井戸」があるところに留まって、ひとりの人物を待っておられました。 イエスが待っておられたのは、サマリア人でした。 その「ヤコブの井戸」に水を汲みにきた女性でした。 ユダヤ人とサマリア人は、まったく交友をしない時代です。 厳格なユダヤ人なら、女性に声をかけることもなかった時代です。 イエスは、そのことにまったくこだわりません。 「わたしに、水を飲ませてください」 旅の疲れに身をかがめて、井戸の水を求める者の姿をとって、その女性に語りかけたのです。 「どうして、ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、水を飲ませてほしいと頼むのですか」 当時では、当然の疑問でした。 しかし、イエスは彼女のことをすべてご存知でした。 時は、暑いさなかの正午ごろです。 井戸から一日分の水を汲み上げるのは、女性たちの仕事でした。 朝早くその水を汲むのが日課でした。 真昼間に、この井戸のもとに来る者などいない筈です。 そこに、イエスは座って待っていたのです。 「どうしてユダヤ人のあなたが」「どうして男のあなたが」と、彼女は常識に囚われます。イエスは、この井戸とは違う「生きた水」を与えると言います。それでも、「どうして、何も持ち合わせていないあなたが」とこだわります。 自分たちが大切にしてきた「ヤコブの井戸」にこだわります。 イエスはヤコブの井戸を指さして「この井戸の水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。」と言うのです。 この時間に、人目を避けて水を汲みに来なければならない彼女の理由をご存じです。 イエスは、ひとりの罪人に出会うために「サマリアを通らねばならなかった」のです。 イエスの前に、避けて事情を隠そうとする彼女の姿が引き出されていきます。 諦めとこだわりの中に埋もれていた彼女が、イエスの前に立ち続けます。 次第に、彼女の中に「生きた水、渇かない水」をくださいという願いが芽生えます。 そして、ついに、今、あなたと話をしているのが「あなたの言うキリストと言われるメシアである」「わたしである」とイエスは言われたのです。 私たちが、「生きた水、渇かない水」を本当に願うなら、このイエスの前に身を運んで行く。 イエスの前に立ち続ける。 自分のすべてを隠さないで、ありのままに差し出す。 イエスは、忍耐して、待ち続け、語り続けてくださるのです。 どうしても、イエスはサマリアを通らねば、そこに留まらなければならなかったのです。 たったひとりの罪人に出会うためです。 イエスに出会うということは、イエスのもとから離れようとする自分、自分を隠そうとする自分にやっと気づくことではないでしょうか。
[fblikesend]「新たに生まれる」 ヨハネによる福音書 3章1~16節
ニコデモという一人の年配の人物に注目します。 ユダヤの最高議会の議員です。 イエスが認めるほどのユダヤ教の教師です。 ファリサイ派という厳格な教えを説く律法学者です。 言うなれば、ユダヤの指導者です。 その人物が、こっそりと「夜」にイエスのもとにやってくるのです。 イエスの行なった数々の不思議なしるしを目の当たりにして、多くの驚いた者のうちの一人です。 「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」と分かった人物です。 世間体を気にして、何の権威もないイエスに会うことに、肩書きが邪魔をしたのでしょうか。 夜こっそりやってくる者である。 公に「イエスは、神が共におられる」と証言することに躊躇する者である。 イエスは、鋭く見抜きます。 ニコデモは、ユダヤの社会、ユダヤ教の枠組みの中に縛られ、閉じ込められた人物です。 その中から出てこようとしなかった煮え切らない人物です。 安定した自分の生活が失われない範囲で、イエスを認める者であったのです。 私たちの今日の信仰と相通ずるものがあります。 そのニコデモにイエスは、「はっきり言っておく。 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と語ったのです。 イエスは、わざわざ会いに来たニコデモを受け入れて、今からでも新しい始まりが起こることがあることを告げたのです。 イエスの言うことが全く理解できないニコデモに、「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。 霊から生まれたものは霊である。」とたたみかけたのです。 「水」とは、バプテスマによって自分に死ぬことです。 頼みにしてきた自分自身を葬り去ることです。 どんなに肉なるものを鍛え、磨いても、それは肉なるものである。 もう一度、肉なるものをやり直すのではなく、肉とは異なる「霊」によって新たに生まれることがあなたにはできると告げたのです。 その肉なるものの途中であっても、「水と霊によって、死んで生きることができる」「過去の自分が葬られ、神のもとから吹いて来る霊によって生かされていくようになる」「神の霊から生まれた者になる。 神の霊によって持ち運ばれる者になる。」と言われたのです。 イエスは、この肉なるものに留まり続けようとする者でさえも、最後まで愛し続けてくださっているのです。 ニコデモも私たちも同じです。 それは、だれひとりとして滅びないで、死なないで、生きることを神が望んでおられるからです。 信じる者がすべて、霊による新しい命を得るためだからです。 自分を捨てることは損ではありません。 自分を捨てることができることが、神の恵みです。 捨てたところこそ、私たちが思ってもみない霊なる恵みが新しく与えられるところです。
[fblikesend]「イエスと私たちの交わり」 ヨハネによる福音書 1章35~42節
私たちの馴染みのある最初の弟子たちの姿は、漁師です。 ガリラヤ湖で網を打っているシモンとアンデレが、「人間をとる漁師にしよう」と言われて、すぐに網を捨ててイエスに従った姿です。 しかし、ヨハネによる福音書は違った表現をしています。 バプテスマのヨハネが自分の弟子たちの前で叫んだ「見よ、神の小羊だ」という言葉が、イエスと最初の弟子たちとの出会いの発端になったと言います。 バプテスマのヨハネはイエスの姿を見て、このお方こそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫んだ。 この時、霊が鳩のように天から降って、イエスの上に留まるのを見たと言っています。 ヨハネは、自分に弟子たちを従わせるのではなく、この「神の小羊」に従わせるために叫んだのです。 イエスが私たちにとってどういうお方であるのか、霊によって自分のからだを通して知ることが大切です。 ヨハネは、バプテスマを授ける自身のからだをもって、霊によってイエスを知り、「世の罪を取り除く神の小羊だ」と自分の言葉で、自分の弟子たちの前で証しをしたのです。
しかし、弟子たちがただついていくだけでは、イエスの弟子になることはできません。 イエスが振り返って、御覧になったということです。 そして、歩み寄られて、尋ねられたことです。 「何を求めているのか」というイエスの言葉が迫ったことでした。 そして、弟子たちが、「どこに泊っておられるのですか」とついていく決意を示したことでした。 その弟子たちに対する答えが、「来なさい。 そうすれば分かる。」というイエスの短い言葉でした。 イエスが泊って、留まっておられるところ、イエスが立って生きて働いておられるところに来れば分かる。 自分たちのところに留まるのではなく、イエスご自身のところに来れば分かると言われたのです。 私たちの信仰の土台は、私たちの側にはありません。 このイエスの招きと、イエスに結びつけられた人々によってもたらされます。 ここに、イエスと弟子たちとの交わり、結びつきがあります。 この交わりに忘れてはならない人物がいます。 後に、大伝道者、大説教者になっていったペトロを、イエスのもとに連れて来たアンデレです。 「私たちはメシアに出会った」と言って、証しをしてイエスのもとに連れて行く大事な務めを果たしています。 五千人に食べ物を与えるところでも、大麦のパン五つと魚二匹とを持っていた少年をイエスのもとに連れて行ったのもアンデレです。 イエスのもとに連れてくる、確かな喜びを持っていた人物です。 イエスと弟子たちとの交わりに欠かせない人物です。 イエスは、今のあるがままの私たちを見ておられます。 しかし、同時に、イエスに結びついた後に、どのようになっていくのかも見ておられるのです。 それぞれに、これから新しく生まれ変わるための新しい名前を用意してくださっているのです。 ペトロもアンデレも、イエスとともにいるそのところで、イエスのものになったのです。 そして、イエスのものであり続けながら、それぞれにふさわしい務めを与えられていったのです。 私たちもまた、同じです。 イエスに交わり、結びつけられて、新しい命に生きる者として、与えられた持ち場に再び遣わされて行くのです。
「立ち帰って、生きよ」 エゼキエル書 18章30~32節
イスラエル民族が偶像礼拝に浸り切り、自分たちの正しさだけを旗印に、同盟国を頼りに争いに陥り、国の滅亡、占領国への移送へと向かった時代に、神のことばを語り続けた預言者がエゼキエルでした。 神殿を失い、祭司としての職を失い、妻をも失い、民族の痛みを背負いながら、また個人の痛みを背負いながら、生涯、囚われの地で神のみことばを語り続けた人物でした。 神は、エゼキエルを通して「わたしは生きている」と語ります。 「すべての命はわたしのものである」。 しかし、その命の正反対のところには「死」があると言います。 罪を犯した者が死ぬ、「死」の責任はその罪にある。 しかし、「わたしは、罪を犯して死んでいく人を喜ばない」 自分の犯したすべての過ちから離れるなら、「必ず、生きる。 死ぬことはない。」と神は言われたのです。 これが、イエス・キリストがお生まれになる遥か何百年も前に、預言者エゼキエルを通して語られた言葉です。
しかし、人々は、散々悪い事をした後で、悔い改めたからといって赦されるのは不当である。 そんな神の正しさは、納得ができないと主張します。 父のもとから自分勝手に飛び出して行った「放蕩息子の弟」を、もろ手を挙げて再び迎え入れた父親を、「正しい兄」はどうしても納得できません。 自分は、我慢をして父のもとを離れず、父に忠実に仕えてきたではありませんか。 弟はしたい放題をして、困ったから帰って来ただけではありませんか。 そんな弟の過去をすべて赦し、受け入れている「父親の道は正しくない」と主張したのです。
しかし、神の言う正しさは道徳の正しさではありません。 神は、「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われているのです。 比較の問題ではない。 だれひとりとして切り捨てられてはならない。 「すべての命はわたしのものである」と神は言われているのです。 神は、自分の正しさによってはだれ一人として救われる事などないとしても、何としても救おうとされているのです。 滅んでしまわなければならない私たちを救うために、悔い改めという道を備えられたのです。 神の目にある正しさとは、この悔い改めにある正しさだけが覚えられているのです。 神はエゼキエルに、「新しい心と新しい霊を授ける」と約束されました。 神は、その「新しい心と新しい霊」を受け取りなさいと言っているのです。 これを与えようとしておられる神の方向に向き直して、受け取るということが「悔い改め」です。 そのために備えられたものが、イエス・キリストの十字架でした。 神は、どのような罪を私たちが犯したのかを問題にはされていないのです。 すべての者が神のもとから離れてしまっているという「死」に至る病を負っている。 その赦しのためのイエス・キリストの十字架の「死」であるのです。
「約束を待ち望む者」 ルカによる福音書 2章22~30節
生まれたばかりのイエスとの出会いを通して、賛美と祈りを叫んだひとりの年老いた人物がいます。 イエスの両親は、モーセの律法に記された通りにエルサレムの神殿に出向いて行きます。 その時、シメオンというエルサレム神殿の祭司が、霊に導かれて神殿の境内に入ってきます。 律法を通して導かれた両親に連れられて来られた幼子イエスと、霊に導かれたシメオンとの、神によって引き起こされた出会いでした。 シメオンは、聖書には「正しい人」、「信仰があつい人」であった。 自分のためではなく、「イスラエルが慰められるのを待ち望んだ人」であった。 「救い主に出会うまでは死なないと約束を受けていた、聖霊が留まっていた人」であったと言います。 そのエルサレム神殿の祭司であったシメオンが、イエスを連れて来た両親に自分の方から駆け寄って、その幼子を抱き上げたと言うのです。 供え物も満足に用意できなかった貧しい夫婦です。 エルサレム神殿には、数多くの参拝者が訪れたであろうことを思えば、目に留まるはずのない小さな存在であった夫婦です。 祭司シメオンは、その幼子イエスを腕に抱いて「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目で救いを見たからです。」と叫んだのです。 神がシメオンの生涯を通して語らせた、神への賛美と祈りの言葉だったのです。
シメオンは、霊によって与えられた神の約束を待ち望んで、祈りと礼拝の場を年老いても離れることはありませんでした。 「救い主に会うまでは」と、祈りの家に礼拝の民として生き抜いて、この自分の場を離れなかったのです。 この救い主に出会うことが、シメオンの生きる目的でありました。 そのために、置かれた場所を離れず、待ち望んで生きてきたのです。 もはやそう遠くはなかろう、自分の生涯のかなたに、その約束を果たしてくださった神が用意してくださっている「神の国」をはっきりと見出し確信したのが、「わたしはこの目であなたの救いを見た」「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。」というシメオンの言葉でした。 この主イエスに出会うことができるかどうかは、私たちの内なる信仰が、今、どのような状態であるのかということです。 私たちは、この主イエスに、どのような顔で出会うのでしょうか。 主は、私たちの信仰を探し、見ておられます。 そのことに気づくためには、神の約束を知り、悟ることです。 そして、待ち望むことです。 そのために、祈りと礼拝の場を離れないことです。 私たちの限られた生涯、「わたしはこの目であなたの救いを見た」という恵みをいっぱいいただきたい。 神は、たったひとりのためにここまで、ご真実なお方であることを心から感謝したい。
「一年を振り返って」 マタイによる福音書 8章18~27節
イエスは、群衆に取り囲まれた地ではなく、向こう岸で働かれることをお選びになりました。 愛する弟子たちに、そこで務めがあることを教えるためでした。 イエスに従うということを教えるためでした。 イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われた時に、自分に従ってくる2人の人物に言われました。 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と意気揚々と語った律法学者です。 イエスは、この学者に「自分には枕する所がない」と言います。 自分には、何もない。 群衆に持ち上げられて輝かしく見えるだけの自分についてくるなら見当違いであると語られたのです。 もう一人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言った弟子です。 イエスは「先ず、わたしに従いなさい」と言います。 この世の事を第一にして、その残りで私に従ってくるのなら、見当違いであると言われたのです。 どちらも、捨てきれない自分を捨てることをイエスが迫るものでした。 私たちの心の中にある姿です。 そう語って、イエスは「向こう岸に渡ろう」と自ら舟に乗り込んだのです。 そのイエスに従った弟子たちが、激しい嵐に見舞われたのです。 湖のほとりに留まり、遠目にイエスを眺めていた群衆とは違うのです。 どのような所に連れて行かれるのか分からないが、イエスが先頭切って乗り込まれた舟に一緒に乗り込んだ弟子たちでした。 律法学者のように安易な心持ちで従ったのではありません。 この世の事柄に囚われて二の足を踏んだ弟子とは違うのです。 その弟子たちがイエスとともに乗り込んだ舟が、平穏無事ではなかったということです。 自分たちの経験や力ではどうすることもできなくなって、「主よ、助けてください。 おぼれそうです。」と願ったのです。 イエスは、願い祈る弟子たちに「なぜ、怖がるのか。 信仰の薄い者たちよ。」と声をかけられます。 嵐に出会ったのは、イエスを信じて自分を捨てて舟に乗り込んだからです。 根底から自分というものを揺り動かされた弟子たちでした。 その弟子たちに、イエスが語りかけた言葉です。 弟子たちを責めているのでしょうか。 イエスは、この弟子たちの拙い祈りに応えて、風や湖を静めたではありませんか。 イエスに従い、根底から揺り動かされた弟子たちが見たものは、「風と湖をお叱りになったイエスの姿です。 嵐が過ぎ去った後に、向こう岸で悪霊を支配し追い出すイエスの姿だったのです。 すべての権威を授かっておられ、ひとりの人を取り戻すイエスの姿を目の当たりにしたのです。 このイエスの出会うことのできる人は、平穏無事ではないけれど、イエスとともに舟に乗って向こう岸に向った人たちであったのです。 私たちのこの一年もまた、様々な出来事の中に恵みを備えて、一緒に向こう岸に行こうと招く主イエスとともにあったのです。
[fblikesend]「私たちに宿るイエス・キリスト」 マタイによる福音書 2章9~15節
28名の幼稚園の子どもたちが演じるページェントに心が打たれました。 登場する当時の一人一人にとって、最初のクリスマスはどれほど突然であり、驚きであったことでしょう。 星が東方の占星術の学者たちを導いて来た場所を考えてみてください。 家畜小屋であったと言われています。 世の中の片隅に追いやられた、忘れられた貧しい所です。 そこにたたずむのは、生まれたばかりの幼子と父親と母親が小さく寄り添った弱々しい家族の姿です。 そのような所に、父なる神はご自身の大切なたったひとりのみ子を、「ともにいる」と委ねられた。 その布にくるまれた赤ちゃんの生涯を考えてみてください。 多くの人々に見向きもされない、歓迎されない誕生でした。 ヘロデ王の殺意に迫られる中で生まれ、その殺意から逃れるために逃亡を余儀なくされた誕生でした。 ついには、十字架という刑に、理由のないままに死を余儀なくされた流浪の生涯でした。 聖書は、この生涯を「みるべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなかった」と預言してします。 それは、「わたしたちの病を担うため、わたしたちの痛みを負うためであった」と言います。 この赤ちゃんに託された流浪の生涯によって、私たちが身に帯びている痛みや悲しみや苦しみがともに担われ直され、軽くされ、神の事とされていくのです。 この世の片隅に置かれた私たちを顧み、「ともにいる」と語りかけてくださるのです。 神が約束して、神が準備して、神が贈り物としてくださった現実です。 私たちは、それをただ受け取るだけです。 このクリスマスの出来事は大昔のことでしょうか。 この神の業を本当に私たちは信じているでしょうか。 神が約束されたことは、必ず果たされます。 すべては、神が始めておられることです。 神はこのことを、このみ子イエスを通して、世界の片隅の家畜小屋で、選ばれた小さな家庭に現わされたのです。
この幼子イエスの生涯を見届けた人物を忘れてはなりません。 母マリアです。 驚きと戸惑いのなかにも、神の起こされる業に翻弄されながらも、「お言葉通りこの身になりますように」と黙って従った生涯でした。 この服従が、神の救いの業をつくり上げたのでしょう。 しかし、もうひとつ大事な務めを果たします。 本来なら、自分の手元に置いて、母親の愛情をもって我が子を育てたかったでしょう。 しかし、我が子の振る舞いが理解できずに、ひたすら心に留め置くだけでした。 自分のおなかを痛めたその子が、どのような生涯をおくったのか心に刻みつけていきます。 イエスの成長とともに霊なる胎動を感じながら、神の子イエスが彼女自身のからだの中に息づいて形づくられていきます。 神は、この一人の平凡な乙女を、身分の卑しさを選んで、神のひとり子の生きた証し人として用いられたのです。 その賛美と感謝が「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をほめたたえます。 身分の低いこの主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」というマリアの言葉であったのです。 私たちもまた、今年訪れたクリスマスを迎えて、このイエス・キリストを私たちの体の中に宿して参りたいと願います。
「ヘロデ王と学者たち」 マタイによる福音書 2章1~12節
クリスマスは一人の例外もなく、私たちの身に迫る出来事です。 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と言います。 ユダヤに君臨していたヘロデ王は、ユダヤ人ではありませんでした。 ユダヤ人でない者が、ユダヤの国で頭角を顕していったわけですから、才覚も、大胆さも、粘り強さもあったのでしょう。 ローマの威光を盾にして、自分の権力を築き上げてきた人物です。 苦労してやっと築き上げた「ユダヤ人の王」という称号だったのです。 ところが、異邦人たちも、ユダヤ人の王がお生まれになったと言う。 ユダヤ人たちも、ベツレヘムにユダヤ人の王が生まれることになっていると言う。 もしかして、「ユダヤ人の王と呼ばれる称号」が奪われてしまうかもしれない。 そう思ったヘロデがクリスマスにとった行動が、「ユダヤ人の王がお生まれになったと言う占星術の学者たちを、ひそかに呼び寄せる」ことでした。 その生まれた赤ちゃんを抹殺しようと企てたことでした。 いずれ失ってしまう筈の小さなことに囚われ続けるヘロデの姿でした。
一方、星に示されながら拝むためにユダヤにまで駆けつけた学者たちがいます。 彼らの旅は、先立って導く星を頼りにした夜の旅でした。 足もとを見るのではなく、天を仰いで進んでいたことになります。 彼らは、自分のしなければならないことを故郷に残して、天を仰いで光の輝きが示すお方を求めて旅立ったということです。 これが、最初のクリスマスに、異邦人の学者たちがとった姿でした。 その星の輝きが止まったところが、彼らの終点でした。 どこに行くのか分からないで、自分を空しくして星の輝きに従った者だけが辿りつく所です。 彼らは、ベツレヘムに止まった星を見て喜びに溢れたと書かれています。 私たちの人生の旅と同じです。 今までもっていたものを捨てて始まった旅でした。 夜の手探りの旅でした。 足もとにつまづきながらも天を仰いで行く旅でした。 どこに連れて行かれるのか分からない神の声に導かれる旅でした。 行き着いた所が、思いもかけない馬小屋でした。 彼らは、この世でもっとも小さな弱い存在にひれ伏します。 この世で最も貧しい所で礼拝をささげます。 もっとも大切にしてきた宝の箱を、自ら開けて贈り物をささげます。 それまでの生き方そのものを、イエスの前に捧げたのかもしれない。 これから新しい生き方を始める旅であったのかもしれない。 イエスに出会い、礼拝して、再び、自分たちのもとの所へ帰って行ったのです。 彼らが自分を貧しくして旅立って足を運んで尋ねていって、「出会ったイエス」でした。 知っています、聞いたことがありますというイエスではありません。 様々な躓きや誘いを乗り越えて辿りついた、「神がともにあるというイエス」でした。 私たちは携え持っているもっとも大切なものをささげましょう。 自分に囚われ続ける生き方から、新しい生き方へと踏み出して、もとの所へ戻って背負い直しましょう。 最初のクリスマスが語るベツレヘムの星は、私たちの生活の中にあります。
「ヨセフとマリアを覆う闇」 マタイによる福音書 1章18~23節
これから主イエスの誕生、そしてその赤ちゃんを育んでいくために必要なふたりの人物を、聖書はこのように紹介します。 「マリアとヨセフは婚約していた」「二人が一緒になる前に、マリアが身ごもっていることが明らかになった」「ヨセフは正しい人であった」と言います。 夫ヨセフの知らない所で、妻マリアが身ごもっていたことがこの二人に分かったのです。 正しい人ヨセフは戸惑います。 当時の常識では、十分に離縁する理由のある出来事です。 しかし、ヨセフはひとかけらも妻に問いただしも、怒りを顕わにすることもありません。 ヨセフは戸惑いの末に、律法に記された正しさを曲げて「ひそかに」離縁することを決心し思いやりとやさしさを顕します。 その時です。 「ダビデの子ヨセフ」と名を呼んで神は語りかけます。 「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」 その妻「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ」という声をヨセフは聞くのです。 ヨセフ、あなたはダビデの子孫にある。 妻となるマリアが身ごもることは、彼女の不始末などではない。 預言されてきた神の意志である。 選ばれたあなたがた二人が築き上げる家庭にその子を宿すことが、神の意志である。 恐れることはない。 あなたは、「マリアを身ごもったまま受け入れなさい」と命じたのです。 父親の特権でもあった名付けることさえもヨセフに赦されない、神の業であると言われたのです。 その神の業こそ、「神の救い」という名の、聖霊によって宿ったイエスである。 その神の救いの業の中味こそ、預言されてきたように「神は我々と共におられる」という名のインマヌエルの主である。こう告げられたことが、私たちのクリスマスの喜び、救いの中味です。
これからどうなるのか分からない暗闇の中で、ヨセフはこの神のみことばの約束に信頼し、従ったのです。 無言の信頼でした。 静かな覚悟でした。 もう一人忘れてはならないのは、マリアです。 何も言い訳しない、釈明も弁護も許されないマリアもまた、不安と悲しみの中に神に信頼したのです。 この二人には、暗闇に覆われた中でも神への信頼を失わなかった深い二人の連帯がありました。 本来、二人の間の新しい命は喜び合い、幸せを噛みしめる出来事の筈です。 この二人にとって喜びとなる筈の赤ちゃんが、二人の戸惑いと不安と絶望を引き起こしたのです。 しかし、神はこの暗闇を通して、人間の正しさや思いやりを越えて、神の救いと約束のみことばを告げたのです。 そのために選ばれた二人であったのです。 そのみことばへの信頼と服従を通して、この二人は本当の夫婦の出会いをしたのではないでしょうか。 この世界の片隅の小さな家族が、神の救いの新しい歴史の幕開けの担い手となったのです。 神が用意してくださった恵みを、二人が暗闇の中を無言のうちに受け取った出来事が、クリスマスの出来事です。 同じように、私たちのささやかな家庭にも最もふさわしい恵みを、クリスマスの出来事を神は用意してくださっています。 私たちの信頼と服従によって、これを受け取っていきましょう。
「まことの闇とまことの光」 ヨハネによる福音書 1章6~18節
ヨハネの福音書には、マリアとヨセフが登場するクリスマスの風景、羊飼いの姿も、東方の学者たちの姿もありません。 ヨハネは、イエスがすでに成長し、公に活動し始めた時からしか語っていないのです。 ヨハネの福音書は、冒頭で「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 言の内に命があった。 命は人を照らす光であった。」と言います。 ヨハネは先ず、神は語りかける言葉をもつお方である。 この世のすべてのものは、この神の語られる言葉によってつくられた。 人は、この神の言葉に応える人格をもつ者としてつくられたと語ります。 このことは、天地創造の神の初めの業として語られ、言葉が初めからすでにあったものであることが分かります。 それ以来、神は、戒めを通して、また預言者を通してご自身の御心をこの言葉をもって語りかけられました。 それでも、神の「言」を聞こうとしないこの世に、ついに、たったひとりの神の子であるイエスが遣わされました。 この遣わされたイエスこそ、神の語りかける「言」です。
ヨハネは、「言は肉体となった」、「言は、わたしたちの間に宿られた」、「わたしたちはその栄光を見た」と言います。 この「言」である神が、私たちと同じはかない「からだ」をもってくださって、悲しんで、苦しんで、死んでくださった。 そのからだをもって歩んだ生涯を、私たちが見ることができるようになった。 この「からだ」をもった神が私たちの間に宿られたのが、イエスのご誕生である。 「神が共に住み、神は自ら人とともにいてその神となられた」という神の国の先取りであると言っているのです。
ところが、私たちはこの神の「言」を聞こうとしません。 自分たちの力によって、何かしらの光を得ようと繰り返します。 人を赦したい、人を愛したい、平和をつくりたい、すべて分かっている。 でも私たちの現実は、人を殺してはいないけれど、人を傷つけ憎んでいる。 よくないことだと分かっていても、声を挙げる力も勇気もない。 平和を願っているけれど、自分の平和だけを願い、逆に平和を壊している。 この連続です。 自分に執着してささやかに生きていくのが精いっぱいです。 しかし、聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」と、私たちのこの現実を表現します。 そうです。 まことの光は、この真っ暗闇の中に輝いています。 争いや、恐れや、不安のなかでは闇に覆われ、自分にしがみつく、自分のはかない光を頼りにするしか他にない。 しかし、そのすぐ消えてしまうような光すらもつことができないような八方ふさがりの時に、私たちは出会います。 暗闇にすっかり覆われてしまっているそこにこそ、「まことの光」が見えてくる。 自分のはかない光を捨てて、暗闇に輝いている「まことの光」に立ち帰ることができる。 神がからだをもって見える光として降りて来て、その道を開いてくださったのがクリスマスです。 私たちは、「まことの闇」の中に「まことの光」を見ることができるのです。
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