秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「いつまでも残るもの」   コリントの信徒への手紙一 13章8~13節

2014-09-28

 13章は、愛の賛歌と呼ばれています。 「愛」を、「愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と表現しています。 もし、このパウロが語る愛の賛歌が、人間の理想とする愛を語っていると言うなら、人間がつくり上げることのできる愛です。 単なる道徳です。 このみことばだけを取り出して、私たちは受け取ることができません。 パウロは、コリントの教会に向けて、教会がつくり上げられるためにはたくさんの霊の賜物が与えられている。 その霊の働きが、キリストの教会をつくり上げるのだと戒めてきました。 そのパウロが、「わたしはあなたがたに、もっと大きな賜物を受けるように最高の道を教えます。」と語ったみことばが、「どんなに、霊の賜物である預言を語ろうとも、神についての知識に通じていたとしても、信仰をもっていようとも、よい行いに身をささげたとしても、愛がなければ無に等しい、何の益もない。」というものでした。 パウロの言う「愛」とは何でしょうか。 
 パウロは、「愛する私」がではなく、「愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言います。 「愛する私」がではなく、「愛」が「忍耐強い。 情け深い。 ねたまない。 自慢せず、高ぶらない。」と言うのです。 「神の愛」が現わされた「イエス・キリストの愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言っているのです。 私たちに等しく降り注がれ続けている「神の愛」が、「すべてを忍び、すべてを耐える」と言っているのです。 私たちが働いているのではない、「神の愛」そのものが働いているのだと言うのです。 愛は、神から出てくるものです。 神からいただくものです。 ですから、パウロは、この「愛」は決して滅びないと言います。
 なぜ、パウロは、霊なる賜物として与えられている様々なものは「廃れる」と言うのでしょうか。 今、賜物を与えられて見えているというものは、「まだその一部分である。」 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」に過ぎない。 しかし、今は、部分的にしか見えていなくても、完全なものが来たときには、「顔と顔とを合わせて見ることになる。 部分的なものは廃れて、はっきり見えるようになる」と言います。 どのようにはっきり見えるようになるのかというと、「はっきり知られているようにはっきりと知ることになる。」と言うのです。 どういうことでしょうか。 私たちが、神にはっきりと知られているように、私たちが今度は、神をはっきり知るようになる」と言うのです。 私たちは、すでにはっきりと知られている、神に愛されている。 その私たちがはっきりと神に愛されていることを知ることが、神を知るということだと言うのです。 神に知られている、愛されていると知ることができたのは、イエス・キリストがこの地上に現れてくださったからです。 十字架によらないで、またイエス・キリストに救われることなく、「神の愛」を知ることも、伝えることもできません。 ですから、パウロは「愛が、すべてを忍び、すべてを耐える」という間に、「すべてを信じ、すべてを望み」という「信仰」と「希望」をはさんだのです。 パウロは「神の愛」を、この信仰と希望とともに語り、これらと無関係に「神の愛」を語らないのです。 この「信仰」と「希望」に深く結びついた「神の愛」を最高の道として、コリントの教会の人たちに説いたのです。 この三つの神との関係が永遠に残る。 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中でも最も大いなるものは、愛である。」と言っているのです。

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「救いの衣、恵みの晴れ着」   マタイによる福音書 22章1~14節

2014-09-21

 イエスは、「天の国は、ある王がその王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われます。 天の国は、すっかり食事の用意が整った食卓である。 ただ、招いた客が来るのを待っている食卓である。 それも、王がその息子の花嫁を迎えるために用意した食卓である。 「天の国には、準備を整えて招いてくださる王という方がいる。 その方は、自分の息子が花嫁を迎える婚宴を喜んでおられる。 その喜びを分かち合うための食卓である」と、たとえは言います。 招かれた者は、ただその食卓に行くことだけです。 二度も丁寧に招かれたのに、食卓に招かれた人々は「来ようとしなかった。」 その招きを「無視した。」 一人は畑に仕事に行ってしまった。 一人は、商売に出かけてしまった。 他の人々は、招きを伝えに来た王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったと言います。 このたとえが言う王とは、父なる神です。 王子とは、主イエス・キリストです。 招かれた人々はイスラエルの民です。 家来たちとは、神のもとから遣わされた預言者たちです。 旧約聖書の歴史を、このたとえは語っています。 イスラエルの民は、何度も招かれたのに、この世のものに目を奪われ、神の招きが分からない。 神の使いを殺してしまう。 イスラエルの昔の話ではありません。 これこそ今もなお、イエスを通してなされる神の招きを拒む、イエスを十字架に打ち続けている私たちの罪です。 これが、人間の歴史の現実です。 しかし、幸いにこのたとえは、新約聖書の福音を語ります。 父なる神は、それでも招くことをやめません。 「町の大通りに出て行き、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい。」 問題は、この招きに対する私たちの備えです。 断る理由を考えるのでしょうか。 招く者を傷つけ、殺してしまうのでしょうか。  
 イエスは、ここで大事なことを言います。 婚礼の礼服です。 思いがけなく招かれた異邦の地にあった私たちキリスト者に対する警告です。 王は招いた客のために、婚礼の礼服を用意しています。 王は、この用意された恵みの礼服を着ないで食卓についている者に「友よ」と呼びかけます。 「どうして、私が用意した礼服を着ないでここに入って来たのか。」と言われたのです。 問題はここです。 王が「友よ」と呼びかけて「どうして用意された礼服を着ようとしないのか」と尋ねているのに、彼は「黙っていた。」 彼は黙って、王の呼びかけに答えなかった。 私たちは、神の前に出るにふさわしい礼服など、到底準備することなどできません。 どのような服を着て良いのかも分かりません。 神が一緒に喜びを分かち合うために準備してくださった食卓です。 その婚礼にふさわしい、神でしか用意することのできない礼服です。 私たちは、その招きに応えて出かけて行って、用意された晴れ着を身にまとってその席に着くことだけです。 そこには、神との交わりという永遠の喜びが準備されています。 この招きを拒むことは、大きな恵みの損失です。 今までの自分を変えないで、神の用意された衣を着ようともしないなら、婚礼の食卓にふさわしくない。 自分の衣を脱いで、砕かれて、神の祝宴に与かるようにとたとえは語っています。 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」とイエスは言われるのです。 神のみ子であるイエス・キリストが、自分の民を花嫁として迎える準備ができたという新約聖書の福音が語られています。 それと同時に、私たち招かれた者の備えが語られているのです。 「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。 主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」(イザヤ61:10)と言っています。 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ3:27)とまで言われています。

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「私たちの生涯を巡る主の言葉」   イザヤ書55章1~11節

2014-09-14

 紀元前6世紀に、イスラエルはバビロニアという強国に滅ぼされました。 主だった人びとがバビロニアの首都バビロンに連れて行かれたのです。 国は滅ぼされ、信仰の中心であったエルサレム神殿も破壊されました。 その希望を失くし、囚われの身で過ごさなければならなかったイスラエルの民の一人イザヤに、主の言葉が臨んだのです。 その締めくくりの「主の言葉」が、この55章です。 主が力強く招いて呼びかけておられるのは、「渇きを覚えている者」、「銀を持たない者」、「穀物を求めている者」です。 「水や穀物を買うのに、銀をもっていない人々」に呼びかけておられます。 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」 「穀物を求めて、食べよ。」 「来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」と言います。 
私が「主の僕」という代価を払う贖いを用意した。 この贖いによって、あなたがたの罪が赦されて、もとのエルサレムに戻ることができるように準備された。 だから、あなたがたは何も持たないで「貴重な水、大事な穀物、ぶどう酒や乳」を求めて、わたしのもとへ来なさい。 主の言葉は、「求めて、来なさい」と言われる。 私が用意しているものを代価を払うことなく、尋ね求めて「来るがよい」、「食べよ」、「得よ」と言われているとイザヤは言います。 主に招かれる私たちの唯一の資格は、ただこの飢えと渇きという求めだけです。
 主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言っておられます。 先ず、主の言葉を求めて、主のもとに来ることです。 「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。 聞き従って、魂に命を得よ。」と主の言葉が響きます。 
 イザヤが言う主の言葉は、「エルサレムに帰れ」ということでした。 そのふるさとは荒れ果てて、戻っても食べることも飲むこともできないかもしれない。 それでも、イザヤは主の言葉に聞き従えば「良いものを食べることができる。 その豊かさを楽しむことができる。」と言います。 主の思いは、私たちが思い描いているものとは異なる。 主の道は、私たちが歩もうとしている道とは異なる。 そうであるけれども、イザヤは、この遥かに高い主の思いと、私たちの思いをつなぐものがあると言います。 それが「主の言葉」である。 雨や雪が天から一方的に降り注いで、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせる。 それらはむなしく天に戻らない。 それと全く同じように、「主の言葉」が私たちに一方的に降り注ぐ。 私たちに尽きない憐れみを与え、豊かな赦しを与える。 なぜでしょうか。 それは、『私』の口から出る『私』の言葉は、むなしく、『私』のもとに戻らない。 それは、『私』が望むことを『私』が成し遂げるからである。 『私』が与えた使命を必ず、『私』が成し遂げるからだと約束してくださったからです。 主イエスもまた、父なる神と全く同じように言います。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 主の言葉は、最初からあったものです。 それを私たちがイエス・キリストという姿を通して、聞いて、よく見て、手で触れて知らされたものです。 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。」 このみ言葉は、私たちの生涯にわたって途切れることなく、日毎に語られ続けられているものです。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」 なぜなら、主の言葉は神と私たちをつなぐものだからです。 

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「神の前の豊かさ」   ルカによる福音書12章13~21節

2014-09-07

 群衆の中のひとりが、イエスに近寄って来て「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言います。 先生と呼ばれていた律法の専門家は、社会の秩序を守る重要な役割を担っていました。 相談を持ちかけられたイエスは、彼が願い求めようとしているものを見越して、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と彼に語ってから、今度は群衆に向けて「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われたのでした。 彼は、律法に定められた自分の「遺産」を正しく求めただけかもしれない。 しかし、イエスは「有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないから」、「用心しなさい」と言われたのです。 イエスは、「財産」とは異なる「人の命」という言葉を用いて、神に与えられた「命」を語ろうとします。 その「人のいのち」を、私たちはしばしの間だけ、自分で自由にすることができると錯覚してしまうのです。 しかし、その命の「初め」と「終わり」に、「人の命」はまったく違ったところから訪れる。 その厳粛さに立たされます。 
 イエスはそう語ってから、ひとつのたとえを語られました。 ある金持ちの畑が豊作であった。 作物をしまっておくところがないと悩むくらいに、収穫を得ることができた。 今の倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに蓄えておこう。 そうすれば、何年も生きていくだけの蓄えができる。 食べたり飲んだりして楽しめる。 そう自分で言ってやると金持ちが言ったというお話です。 語られた「作物」、「倉」、「自分」という言葉の前に「私の」がついている。 「私の作物」、「私の倉」、「私の魂」です。 イエスは、自分のためのものだと言っている有り余るほどの物を、「貪欲」と呼んで「注意を払いなさい、用心しなさい」と言われたのです。 「貪欲」は、いつしか自分一人で生きて行くことができると、私たちを神のもとから離れさせる。 「パンに飢える時でもなく。水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きの時」となってしまうのです。 神との交わりを失っていくことが、私たちの永遠の滅びです。 貪欲はこの「命」を滅ぼすから、用心しなさいと言うのです。 これほど地上の生活には周到に準備するのに、なぜ「自分の命」の終りの備えを怠るのか、「愚かな者よ」とイエスは呼びかけているのです。 
 ペトロは、「生まれながら足の不自由な男に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせました。 地上の富は何もないが、私には「人の命」を立ち上がらせるイエス・キリスト。 その「よみがえりの命」が宿っている。 その「命」がみ言葉となったイエス・キリスト。 その名によって立ち上がり、歩きなさいと言いました。 神によって与えられた神の前の豊かさの喜びが、ペトロをそのように駆り立て語らせたのではないでしょうか。 形が変わる、あるいは突然失われてしまうようなものにしがみついていないで、変わることのない富を神の前に積みなさい。 そこに、あなたの心がある。 神の喜びを私の喜びとするあなたの心が、神の前にある。 神から与えられている豊かなみ言葉を蓄えましょう。 神から与えられている豊かな神の恵みに気づいて蓄えましょう。 

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「主イエスからいただいた祈り」   ルカによる福音書11章1~13節

2014-08-31

 私たち「キリスト者の信仰生活とは、中断することなく続ける祈りである」とまで言われます。 弟子たちは、イエスがいつも祈っておられる姿を見ていました。 多くの群衆に向けて「神の国の福音」を力強く語られ、多くの人の「ありとあらゆる病気や患いを癒された」、その力と知恵の源は、この「祈り」によってもたらされていると感じていたのです。 弟子たちは、「ヨハネの弟子たちが持っているような祈りの言葉をもちたい」とイエスに迫ったのです。 しかし、その願いにイエスは「祈ること」を教えました。 型にはまった祈りの言葉を唱えるようにと教えたのではありません。 イエスは、先ず、「父よ」と呼びかけなさいと言われました。 求めるもの、願うものだけに私たちの目が行くことを承知のうえで、願い求める相手に目を注ぐように最初に教えられました。 続いて、「御名が崇められるように、御国が来ますように」と祈ることを告げます。 今は、神の御名が汚されている現実にある。 御国が来ていると言われても、悪の霊がなおも支配しているように見える。 それでも、イエスは、私たち人間が汚した、踏みつぶした御名を神ご自身が回復することを「祈りなさい」と言われる。 御名が崇められ、神ご自身が主であることをすべての人が知るようになることを「祈りなさい」と言われる。 その時まで「待つ」。 その時まで、キリストの愛にすがってともに生かされるように「祈りなさい」と言われる。 先ず、この神への信頼を祈り求めるその後に、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください、わたしたちを赦してください、わたしたちを誘惑に遭わせないでください」と祈るように言われたのでした。 「毎日与えられるように」祈る「祈り」です。 この一日、一日の「今」が、神の前の信仰生活です。 かつての信仰ではなく、「今」の信仰です。 「赦してください」とは、赦すことのできない私たちが赦すことを願う「祈り」です。 「試みに遭わせないでください」とは、自分一人では乗り越えられない私たちが、互いにキリストの愛にすがることを願い求める「祈り」です。 このキリストの愛に欠ける者であることを自ら告白する「祈り」です。
 イエスは、このことを伝えるためにひとつのたとえを用いて「祈る者の姿」を語られました。 「旅行中の友達に、何も差し出すものがないので、パンを貸してください」と、真夜中にお願いに来た人がいる。 「友達だからという理由だけで与えられることはない。」 でも、「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えられる」とイエスは言われたのでした。 その際に語られたみ言葉が「求めなさい。 そうすれば、与えられる。 探しなさい。 そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。 そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」でした。 イエスは、道徳を教えたのではありません。 「祈る者の姿」を話すために語られたみ言葉です。 父よと呼びかけるお方を求めなさい、捜しなさいと言われた。 門をたたけと言われたのは、祈りの行く手に閉ざされた門、聞かれない祈りがある。 それでも、イエスはたたき続けなさいと言われた。 求める者、捜す者、門をたたく者は、あなたがたが思う思いとは異なる、あなたがたの道とは異なる、神の思い、神の道を見出すことができる。 そこまで、求め、探し、門をたたく者には、「聖霊」を必ず与えてくださる。 私たちの見当違いの願いを、神から与えられる最高のものにまで高めてくださる。 私たちの目が、神を見ることができるようになる。 私たちのつたない愛が、キリストの愛にまで引き上げられる。 すべてが分かるようになるその時まで、「キリストの愛」に支えられながら生きていきなさいと「主の祈り」は告げています。 

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「霊に教えられた言葉」   コリントの信徒への手紙一2章10~16節

2014-08-24

 なぜ、私たちは方向転換して、「イエスは主である」と信仰告白をすることができるようになったのでしょうか。 今もって不思議でなりません。 しかし、そのことを「私は、霊によって知りました」、「私は、神からその霊を受けました」、「私は、それこそが神の恵みであることを知りました」と、堂々と告白しているパウロの言葉に耳を傾けたいと思います。 
 パウロは、信仰には成長があると言います。 本当でしょうか。 何をもって成長した信仰と言うのでしょうか。 信仰生活の長さでしょうか。 お祈りの上手さでしょうか。 パウロの表現によりますと、信仰に成熟した人たちは「隠されていた、神秘としての神の知恵」を語ると言います。 それは、滅んでいくようなこの世の知恵ではない。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備されたものであった」と言います。 神のことは、神にしか分からない。 その神が、み子であるイエスを遣わしてご自身の姿を現わしてくださった。 今もなお、そのイエスの十字架の姿と言葉によって私たちに、その「神の知恵」を伝え続けてくださっている。 それが、パウロの言う「神の霊」です。 私たちは、この神以外に知ることのなかった秘密を知らされた者となったのです。 
 パウロはこのことに加えて、もうひとつ大事なことを言っています。 信仰に成長している人とは、「キリスト・イエスに捕らえられている」人だと言います。 私たちがイエスを追い求めているというより、イエスに追い求められ捕らわれている人だと言います。 私たちが気づいていようがいまいが、イエスが私たちをここに至るまで離さなかったということです。 私たちが知識や経験によって勝ち取った知恵ではありません。 突然、イエスのもとから降って来たような、「隠されていた、それと同時に周到に準備されていた神の知恵」です。 パウロはそのことを、「神からの霊を受けました」と表現しています。 私たちはかつて、そのことに気がつきませんでした。 なぜなら、それが愚かなことに見えたからです。 その世の知識や経験からは、到底、理解することができなかったからです。 この「愚かなこと」、「理解できないこと」を神の霊として受け取ることができるようになったのは、「霊に教えられた言葉」によって、私たちのもとへそれが届けられたからです。 聖書は、神の霊によって記されたものです。 霊に動かされた人たちが「霊に教えられた言葉」を語ったのです。 その言葉を、霊に動かされて人々が持ち運んでいるのです。 私たちは、その恵みに与かっています。 
 私たちが神を知るということは、神の恵みを知ることである。 霊によって神を知るということは、私たちが神を見出したのではない。 私たちこそ、神によって知られているということを知る、神に捕らえられた者だとパウロは言います。 十字架の言葉が愚かなことではなかった。 救われるはずのなかった私の「救い」のためであった。 理解することができないとばかにしていたイエスの十字架が、私の「赦し」のためであった。 ただ神の憐れみによって、この「隠されていた神の知恵」を心から神の恵みであると、この「霊に教えられた言葉」によって悟ることができるようになった。 神が、どんなに私たちを知っていてくださって離さなかったかということに気づかされ、喜びの涙が溢れ出たのではないでしょうか。 私たちの側に、この神の知恵を受け入れる資格や理由を見出すことはできません。 ですから、パウロは「神からの恵みとして与えられた」と言っているのです。

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「イエスの祈り」   ルカによる福音書22章31~34節

2014-08-17

 時は、過越しの祭りという大きな祭りでにぎわい始めています。 場所は、イエスが前もって準備しておいた、愛する弟子たちと食事をともにした地上での「最後の晩餐」でした。 イエスは、シモン・ペトロにその席で呼びかけます。 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言います。 いったい、何のことでしょうか。 イエスはペトロに語りかける前に、同じこの席で「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。 わたしは定められたとおり去って行くが、わたしを裏切る者は不幸だ。」と言われていたのでした。 イエスは、サタンの試みの中にあったユダの心の動きをご存じであったのでしょう。 イエスは最後まで、ご自身を裏切ろうとしているこのユダに対して、神のもとから離れて行くことから立ち帰って、悔い改めることを心から望んでおられたのではないか。 ユダのはかりごとによって捕らえられようとしている、まさにこの地上の最後の時に、その本人に「わたしを裏切る者がいる」と呼びかけられたのではないか。 なぜなら、このユダのためにも、イエスはこれから十字架のうえに自ら進み出て、父なる神の怒りと悲しみの裁き、そしてその赦しと救いに身を委ねようとされたからです。 イエスの言われる「わたしを裏切る者」とは、罪を犯そうとしている者のことではない。 イエスがこれから身に受けようとする十字架の苦しみによって、与えようとされておられる「神の赦し」を拒む者である。 その赦しを拒む者は、私の悲しみであり、父なる神の痛みであると言っておられるのです。 残念ながら、ユダはこのイエスの招きを拒み、神を捨て、変えようとしない自分に頼って生きる道を選択したのです。 イエスの「赦し」の招きに背を向けたのでした。
 しかし、イエスは「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」とペトロに言われたのでした。 イエスと「ご一緒なら死んでもよい」とまで覚悟していた。 仕事も故郷も何もかも捨ててイエスに従って来たペトロでした。 他の弟子たちにはない勇敢さをもって、大祭司の屋敷の中庭にまで入って行って、なおもイエスに期待していた。 しかし、そこで見たイエスの姿は、人々に侮辱される惨めな姿でした。 いよいよペトロの期待が絶望に変わったその時に、「イエスに一緒にいた」と人々に告げられ、三度も「わたしはあの人を知らない」と、すべてを捨てて従ったそのイエスを、ペトロが裏切ったのです。 ペトロの挫折です。 「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったイエスの言葉を思い出して、ペトロは激しく泣いたとあります。
 イエスは、このペトロの犯すであろう挫折の姿を含めて、「わたしは、あなたのために信仰が無くならないように祈った」と言われたのです。 ペトロあなたには信仰があると言っておられる。 この世には、サタンの試みが必ずあり、それに動かされ失望し挫折する時がある。 しかし、この挫折こそが、十字架という「神の赦し」のもとにペトロを立ち帰らせる。 ですから、イエスは「あなたの信仰が無くならないように、わたしは祈った」、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。 イエスの祈りに支えられていた。 そこには「神の赦し」があった。 その喜びと驚きと感謝を、ペトロは十字架の後にイエスのもとへ立ち帰って見出したのです。 私たちの本当の罪は、過ちを犯したことではありません。 いつまでも自分を捨てきれず、悔い改めないで、イエスの「赦し」の招きと憐れみを拒むことです。 このペトロと同じ「赦しの喜び」、「救いの喜び」がある限り、必ず、福音は伝わっていきます。 主イエスは、隣人を力づけるために、私たちを赦し、救ってくださったのです。

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「神と私たちの間の扉」   ヨハネの黙示録3章14~22節

2014-08-10

 ヨハネ黙示録が語る七つの教会は、ローマの属州であったアジア州にありました。 そこでは、ローマの権力者から皇帝礼拝の強要もあったでしょう。 ユダヤの会堂から「イエスは主である」と飛び出してきたキリスト者は、ユダヤ人社会から異端者として排除されていたでしょう。 教会の中にあっても、偽りの教えによって揺れ動いていたこともあるでしょう。 そうした教会に、この世には終わりがある、イエス・キリストが再びこられることが差し迫っていると強くこのヨハネの黙示録は告げ知らせたのです。 再び来られるこのイエス・キリストを信じて、最後まで忠実であるようにと時代を越えて教会を励ましたのです。 そのなかのひとつラオディキアの教会に、主イエスはこのように言われました。 「わたしはあなたの行いを知っている。 あなたは、冷たくもなく熱くもない。 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 ラオディキアは、麻布、毛織物の産出で有名な経済的にとても繁栄した町でした。 そこにあるラオディキアの教会に、「あなたは、『わたしは金持ちだ。 満ち足りている。 何一つ必要な物はない。』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」と言われたのです。 本当に冷え切ってしまって、初めのころの信仰を全く失ったのであれば、まだ悔い改めて再び立ち上がることもあるでしょう。 ですから、「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」とまで、イエスは言われたのです。 ご自身が再び来られる「時が迫っている」ことを忘れてしまっている、熱くも冷たくもなくなまぬるい信仰である。 そうであるのに、自分に欠けているところがない、すべて満ち足りている。 神を求める祈りに欠けてしまったラオディキアの教会に、その本当の姿をイエスは突きつけたのでした。 イエスは、ラオディキアの教会に苦難と試練を経て与えられる信仰、「火で精錬された信仰」が欠けていると言います。 「熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい」ところからでは得ることのできない「火で精錬された信仰」をわたしから買いなさい。 あなたは、わたしにそれを求めることができる。 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。 だから、熱心に努めなさい。 悔い改めなさい。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」と言われたのです。 イエスは、扉の外に立って、私たちの心の扉をたたいてくださっています。 それでも、固く閉ざされた扉があります。 イエスがたたいている扉の音が聞こえているでしょうか。 聞こえているにもかかわらず、扉の外を見るのを恐れて閉じこもっているのでしょうか。 扉を開くなら、ただちにイエスは入って来られます。 イエスは「わたしは中に入ってその者と共に食事をする」と約束してくださいました。 その約束を受ける者は、イエスが扉をたたいて呼びかける声を聞いて、扉を開けた者すべての人です。 そこには何の資格も行いもありません。 ただ神の恵み、神の憐れみがあるだけです。 私たちは、扉をたたいておられるイエスが再び入って来られるという緊張感がなければ、熱くもなく冷たくもないなまぬるい信仰生活に陥ってしまいます。 盗人のように来るかもしれない終わりの日に備えて、希望の時、確信の時としてイエス・キリストを待つために、目を覚ましていることをこの黙示録は求めています。 戸口で立ってたたいておられる主の方に向き直して、悔い改めて、扉の取っ手を自ら引いて主を迎え入れる。 主は、扉をたたいて招いて、共に食事をすると約束してくださっています。  

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「成し遂げられた十字架の主」   ヨハネによる福音書19章23~30節

2014-08-03

 ヨハネが語る地上の最後のイエスの姿は、すべてのことが今や成し遂げられたことを知り、「渇く」、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたお姿でした。 十字架のうえで語られたこの「成し遂げられた」という言葉には、「終わりが来た」、「目的を達した、成就した」という二つの意味合いが込められています。 この者は「ユダヤ人の王」と自称したと全世界の人たちに向けてさらし者にした罪状書きを添えて、イエスをののしったユダヤの人々。 おのれの立場を守るためだけに人々を恐れ、罪なきイエスを十字架に渡した総督ピラト。十字架という死刑を執行するのに慣れて、イエスの服をくじ引きまでして分け合っているローマの兵士たち。 そして、イエスに従って来たはずであるのに、イエスを見捨ててしまった弟子たち。 イエスの十字架のもとには、これらの罪がとぐろを巻いています。 そうであるにも関わらず、これらのご自分の敵となったすべての者が再び神との関係を回復される道を、イエスはこの十字架という場所でお拓きになったのです。 それだけではありません。 最後の最後までこの世に留まって、母に向ってまた弟子たちに向って配慮をしようと、神の世界と人間の世界を結び合わせようとするイエスの姿をヨハネは描いています。 
 人間の側から見ると、イエスの十字架の死は人間の「終わり」です。 そこに、イエスは立ってくださった。 しかし、イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得る。 裁かれることなく、死から命へと移っている。」とはっきり約束してくださっているのです。 死は、人間の終りであっても、終わりではない。 人間の終りから始まる命の始まり、神の世界の始まりである。 終わりから始まるという神の恵みが、そこにはあると言われるのです。 この「終わり」から新しい歩みを始めた二人の人物がいます。 ひとりは、アリマタヤのヨセフと言います。 聖書は、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と、彼を紹介しています。 もうひとりは、かつてある夜人目を忍んでイエスのもとにやって来たニコデモでした。 彼もまた、イエスを「神がともにおられるお方である」と告白しながらも、夜そっとイエスに会いにくる人物でした。 イエスを公然とメシアである、救い主であると言い表すと、ユダヤ社会から追放される。 そのことに脅えた二人でした。 この二人が、イエスの十字架の死を境に新しい歩みを始めるのです。 総督ピラトの前に進み出て、イエスの遺体を葬るために、十字架から取り降ろしたいと願い出るのです。 ユダヤ人の人々の前に現れて、香料を添えて亜麻布で包みイエスを丁重に葬るのです。 かつては、イエスの弟子であることをひた隠し、真の願いを押し殺して歩む二重生活に埋もれていた人物でした。 この世の祝福を片方でしっかりと握りしめて、一方で神の祝福を隠れて願った者でした。 これが、私たちの姿です。 二人は、その二重生活の中から飛び出してきたのです。 その出発の場所が、イエスの人間の終りの死、これから始まる神の世界の始まりの命であったのです。 彼らはこの時、人間の終りを知らされ、神の始まりを体で知ったのではないでしょうか。 イエスご自身が、「人間の世界が終わった、神のご計画が成し遂げられた、神の世界の始まりが始まった」と宣言された言葉が、「渇く、成し遂げられた」という十字架の言葉ではないでしょうか。  私たちは、この十字架の終りの宣言と始まりの宣言を隠したり、自分の都合のよいように飾ってはなりません。 人間の望みが断ち切られているところに立っておられる十字架の主から、目をそらしてはなりません。 そこに留まり続けるようにと、死から命へ移っているという約束に私たちは招かれています。 

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「主の前に忠実であること」   コリントの信徒への手紙一4章1~5節

2014-07-27

 信仰の世界にも時として、目に見えない神の働きが分からずいらいらする時があります。 神の働きが目に見えないからこそ、満足することができなくなることがあります。 自分の願いどおりにならないことに不満を持ち始めます。 それどころか、自分の方が変わらなければならないと神に強く迫られ、その神の働きに耐えられなくなる時があります。 その時が私たちと神との交わりが危うくなってくる時でもあります。 神の前に立つことができなくなる。 神に祈ることができなくなる。 神との交わりが途絶え始めてくる。 パウロが語ったように、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である。 あなたがたは神の畑、神の建物なのである。」 すべてのものは神のものである。 そのことを私たちは、いつしか忘れてしまうのです。 だれか特別な人だけが、神の務めや特別な立場を与えられているのではありません。 私たち信仰者すべてが、神から託された福音を宣べ伝えるという務めをいただいていると言うのです。 そのことをパウロは、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言っているのです。 私たちは、この賜物を託された神に対して責任を負っているのです。 聖書は、この責任を果たしていない人のことを罪人と呼んでいます。 この責任を果たしていない人の罪を赦し、神との正しい関係に回復するための救いの出来事が「神の秘められた計画」です。 この神の福音、神の国に入る鍵、これを委ねられた者がキリスト者ですとパウロは言っているのです。
 パウロは、この「神の秘められた計画を委ねられた管理者」として、すべてのキリスト者が神に仕える時に、神から求められることは「忠実であるということ」だと言います。 神は、私たち管理人に多くの才能を求めているのではありません。 忠実にキリストに仕える心です。 自分の賜物を差し出す勇気を求めておられます。 コリントの教会の人々は、豊かな知識を誇っていました。 分からないことまで、自分には分かっていると思い込んでいました。 しかし、真の知識こそ、自分が何も分かっていないということを知ることではないでしょうか。 神の業の多くは、私たちには秘められています。 しかし、パウロは、「主が来られる時」、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と断言しています。 神の救いの業のすべてが明るみに出て、私たちに分かるようになる。 その時が来る。 ですから、「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」 「自分で自分を裁くことすらしません」とも言います。 パウロは、「わたしを裁くのは主なのです。」と言います。 パウロは、神の裁きであるキリストの十字架によって、自分自身の何もかもが赦されている。 神の裁きは、自分を再び生かす救いの為であったという確信が、パウロにはあるのです。 ですから、パウロは、すべてが明るみになる神の裁きの時こそ、希望の時として待ち望んでいるのです。 これこそ、神の前に自身を低くして、真の裁きの前に自分のすべてを委ねているという忠実な信仰の姿です。 主が来られるのを待つ。 主に委ね、主が来られて働かれることを待つということです。 人間を神のもとに回復させることができるのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」だけです。 信仰によって神の前に義とされたという神の赦しを確信していたからこそ、パウロはびくともしなかったのです。 神の裁きは、人に罪を知らせ、悔い改めに導き、贖いのキリストの命がささげられたことを知らせます。 そこに、神の赦しが「私のために」あったことを知らせます。 人に新しい命を与え救うために、神だけがなすことのできることです。 

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