「パウロが語る神への感謝と希望」 コリントの信徒への手紙一1章4~9節
手紙の差出人パウロは、イエス・キリストを主であると告白するキリスト者を、信念をもって迫害していた中心人物でした。 手紙の受取人であるコリントの教会は、模範的な教会ではなかったようです。 コリントの町は、ローマ帝国の地方都市ではもっとも繁栄した商業都市でした。 海の交通の要所、陸の交通の要所として栄えた町でした。 人種的にも混ざり合い、道徳的にも風俗的にも、問題の多い地域でした。 そのような地域の中にあるコリントの教会は、周囲の影響も受け様々な問題を抱えていました。 しかし、パウロは自分自身のことを「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と言います。 コリントの教会のことを「コリントにある神の教会」と言います。 過去はどうであれ、現在がどうであれ、「神に召された者」である。 「召されて神に属する者とされた人々」と表現しています。 この手紙は、神に召された者から神に召された者へ語られた神の言葉であると言います。 その手紙の冒頭の言葉が、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」なのです。
パウロは、神の恵みを受けたことについて「神に」感謝しています。 それも「いつも」、どのような時、どのような場合でも感謝しているのです。 パウロの生涯は劇的でした。 イエスに従う者たちへの迫害に息を弾ませていたパウロが、迫害を受けている者たちのうえに生きて働かれている復活の主イエスに出会いました。 その後は、異邦人の地の世界伝道を三回にもわたって手掛けたのです。 説教がすばらしい訳でもない、体が強かったのでもない。 船が難破しても、牢獄に捕らえられても、歩み進めたいと願う道がいくら閉ざされても、「いつも、神の恵みとして感謝した」パウロでした。 パウロはすべてのことに先だって、この神への感謝を先ず語っているのです。
なぜ、それほど問題の多い教会を「コリントにある神の教会」と呼ぶのでしょうか。 イエスは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と弟子たちの代表として答えたペトロのうえに、「わたしの教会を建てる」と言われました。 罪の多い、失敗だらけの弟子たちの代表であるペトロの信仰告白のうえに「わたしの教会を建てる」。 パウロは、このイエスのみことばをもって、「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と手紙で呼びかけているのです。 どのような罪を犯してきたのか、今もなお罪を犯し続けているのかどうかに関係なく、「キリストの名を呼び求める者」、「キリストに召された者」、「キリストによって聖なる者とされた人々」が、キリストの教会を建て上げるのだとパウロは叫んでいるのです。
パウロが感謝している神の恵みは、「キリストに出会い、その交わりの中にただ招き入れられたこと」であると言います。 そして、もうひとつパウロが語る感謝している神の恵みは、「最後までしっかり支えて、非の打ちどころのない者にしてくださる」という約束の希望です。 その希望の根拠は、「神は真実なお方である」ことです。 呼び求めた私たちを招き入れてくださった責任を、最後まで変わらず成し遂げてくださる。 この希望によって、主イエス・キリストの前に立つことを恐れないで、待ち望んで生き抜いていくことができるのです。 私たちは、この感謝と希望のうちに歩んでいる者です。
「深く息をついたみことば」 マルコによる福音書7章31~37節
ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」が、人々に連れて来られました。 自分からイエスに癒しを求めたのではありません。 連れて来られただけの人、イエスの前に立ちながらも応えることすらできなかった人でした。「耳が聞こえず舌の回らない人」以上の、心を閉ざした人でした。 そのような人を、イエスは大勢の群衆から引き離して連れ出しておられる。 その人とだけ向き合う場をつくっておられる。 「聞こえない耳」を指で差し入れるように触れておられる。 「言葉が語れない舌」にも触れておられる。 その人の弱い所に、イエスは向き合って触れてくださるのです。
イエスの救いの業は連れ出して、先ず「耳を開ける」ことから始まりました。 実に、信仰は聞くことから始まると言われる通りです。 イエスは、指に力を入れて、耳をくり抜くようにして、ご自身の声を聞かせようとされたのです。 そして、舌を癒し、耳から聞いたそのみことばに応えて語らせようとされたのです。
問題は、その次です。 イエスは、「天を仰いで深く息をついた」とあります。 天を仰ぐとは、父なる神への祈りです。 神との交わりを失い、人との交わりも失い、ただ人任せにあるひとりの人格に向き合うために、イエスは天を仰いで深く息をつく「うめきのような祈り」をされたのでした。 父なる神のもとから降る神の力、神の霊を願い求めたのです。 イエスは、代わって天を仰いでうめかれた。 祈るすべさえ知らない、応えることすらできないこの人に代わって、執り成しの祈りをうめいてささげてくださったのです。 ついに、「エッファタ、(アラム語で)開け」というみことばが神の息によって、神の力によって語られたのです。 すると、たちまち「耳が聞こえず舌の回らなかった人」の耳が開き、舌のもつれが解けたと言うのです。
イエスは、「耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人が話せるようになる」救いの業を、お示しになりました。 この出来事に人々は、神の力が注がれるこのお方がおられるなら、これからも「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と、心が打たれたのです。 だから、「すべて、すばらしい」と驚いたのです。 たったひとりの人に起きたこと、起こり続けることが周りの人々にも及んでいく。 旧約聖書のイザヤが、「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧き出で、荒れ野に川が流れる。」と預言した通りです。 イエスは、この預言を成し遂げるために、私たちのところに遣わされました。 一人の人をイエスの救いの業に満たし、その周りにも新しい命の泉を湧かせる。 そのために、「耳が聞こえず舌の回らない人」が用いられたのです。 この人は、他でもない私たちの姿です。 聞くことも話すこともできるように回復される道は、イエスが天を仰いで、深くうめいて息をつかれて願い求められた「神の霊」による他はありません。 このイエス・キリストの執り成しの祈りにすがる以外に方法はありません。 ですから、私たちはイエス・キリストのみ名によって、神の霊の導きを願い求めながら信仰生活を送っています。 今朝の交読文にありました「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ見ること」、そして、「復活の朝を主の家で迎えること」。 これを生涯の祈りとして、イエス・キリストに結ばれて歩む、この恵みのうちを私たちは、今、歩んでいます。
「神の霊への賛歌」 ローマの信徒への手紙8章1~11節
父なる神のもとからくる神の霊は、「交わりの霊」です。 神との交わり、イエス・キリストとの交わり、この深まりを導く神の霊です。 私たちを、何か特殊な能力を持つ者に変えてしまうものではありません。 パウロは、私たちの現実の生活の中で何よりも私たちを支えているのは、この神の霊であると証言しています。 私たちの矛盾だらけの営みの中にこそ、この「交わりの霊」である神の霊が、「すでに」、「すべての人に」、「それぞれに」宿る「特別な場所」を、神は用意してくださったと賛美しています。
パウロは本当に嘆いています。 「わたしは、自分のしていることがわかりません。 自分が望むことは実行せず、かえって、憎んでいることをするからです。」 「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と言うまでに嘆きます。 自分の中には、この「肉に従って歩む自分」と「霊に従って歩む自分」がいる。 この矛盾のなかに自分の現実はあると正直に言います。 しかし、パウロはそう言いながらも、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である」と言います。 「霊に従って歩む者」は、肉に死んで霊に生きる神の命に与かるようになる。 神との平和、神との絶えることのない交わりに生きるようになると言うのです。 キリスト・イエスによって、「霊に従って歩む自分」が、「肉に従って歩む自分」から解放されたから、「わたしは、主イエス・キリストを通して神に感謝します」と言っているのです。 パウロが嘆いているように、「霊に従って歩む自分」も、人間の本性むき出しの矛盾に満ちた世界の真っ只中を歩む者です。 そのような中において、神はイエス・キリストに結ばれる特別な場所を「交わりの霊」によって備えてくださいました。 それが、「神の霊があなたがたの内に宿っている」、「キリストがあなたがたの内におられる」、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」とパウロが表現しているところです。 キリスト者とは、この神の霊、キリストの霊が宿っている、イエス・キリストに固く結ばれている者のことを言うのではないでしょうか。
私たちはこの「交わりの霊」によって、どうすることもできなかった罪と死の支配から解放されました。 神が罪を罪として処断されることから免れた。 「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはなくなった」。 神との絶えることのない交わりに与かるようにと、キリスト・イエスに結びつけてくださったということです。 新しいもうひとつの「キリストに結ばれて歩む道」です。 これこそ、旧約聖書のなかでエレミヤやエゼキエルが預言してきた、神の霊による新しい契約です。 神の子イエス・キリストを受け入れその前にひざまずくすべての人に、恵みによりご自身の霊を与える。 神の霊、キリストの霊に満たされて、自分の内から神を知るようになる、神のみこころを行うようになる。 このように、神は私たちを「私たちの内に宿っている霊」によって、死者の中から復活させようとしておられます。 矛盾だらけのこの世界の現実に、このよみがえりが「すでに」、「すべての人に」、「それぞれに」始まっている。 私たちを創造されたお方が、再び、私たちを創造されようとしておられます。 私たちは、この希望と感謝のうちに、「み国を来たらせたまえ」と祈りながら歩んでいるのです。
「僕イエスの名によって」 使徒言行録4章23~31節
イエスの弟子であったペトロとヨハネは、神殿の祭司や守衛長たちによって取り調べのために捕らえられていました。 そのふたりが釈放されて仲間のいるところに戻って来たのが、この聖書箇所の場面です。 この二人にとって、捕らえられ、牢の中に閉じ込められても戻るところがあった。 いや、出かけて行って、働いて、戻ってくるところがあったのでした。 そこが「仲間のいるところ」でした。 自分たちの身に起きた出来事を包み隠さず、残らず話すことができるところ。 ふたりの話を聞いて、仲間たちが直ちに「心を一つにして、神に向って声をあげ、祈るところ」でした。 十字架の後、復活の主イエスに出会った弟子たちの姿は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。 これが最初の教会の姿です。 教会は、みことばが語られ、出かけて行って神の業を働いて、再び戻って来て、分かち合い、祈り合うところでした。 二か月前にイエスを十字架にかけた大勢の人々が取り巻いている状況は何ら変わっていません。 ペトロ自身も二か月前には、イエスという名の人は知らないと三度言って、大勢の人々を恐れて身を隠した人物です。 そのペトロがまったく別人のように、この二カ月の間に変わってしまった。 神殿に出かけて行って、説教を語り始めた。 「悔い改めなさい。 イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、主が招いてくださる者なら、『だれにでも』『めいめいに』約束されている」と語り始めたのです。 ですから、さっそく神殿を守る者たちによって捕らえられていたのです。 ペトロは、大胆に説教を語っただけではありません。 足の不自由な人を、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語り、癒しの業もしています。 説教のなかでも、取り調べのなかでも、「わたしは、復活の主イエス・キリストの証人です」と証しもしています。 ペトロは、二か月前では考えられない大胆な説教と証しと癒しの業をなすまでになっていたのです。 このペトロたちが釈放されて、仲間たちのところに戻って来た時に、そこに祈りが起こされています。 イエスの身に起きた事も、自分たちの仲間であるペトロとヨハネの身に起きた事もすべて、「実現するようにとみ手とみ心によってあらかじめ定められていたこと」が行われたのだと確信して祈っています。 迫害さえも、脅しさえも、父なる神のご支配の中にあると信じ、告白しています。 自分たちの身に起きているこの迫害や脅しにどうしたらよいですか、自分たちを守ってくださいという祈りではありません。 「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」、「僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように」と祈っています。 神がしてくださることはすべて神に委ね、自分たちがなすべきことを神に徹底的に求め、イエス・キリストの名を挙げて祈っています。 ペトロは後悔や反省をしたのではありません。 復活の主に出会い、聖霊を受けて、その古い自分を離れ、捨てて、まったく新しい自分に生き、歩み始めたのです。 ペトロの決断や勇気や努力がそうさせたのではありません。 聖霊がなせる業です。 ペトロは、「イエス・キリストの名を呼べば、賜物として聖霊を受けます。 皆、救われる。」と言います。 神は、ご自分を崇めなかった者、もうどうすることもできないと絶望した者を用いておられる。 絶望した者が、何も頼るものがなくなった者が、主イエス・キリストの名を呼び求める。 神は、私たちの無力さ、弱さ、貧しさの中にこそ働いてくださるのです。
[fblikesend]「交わりを妨げるもの」 創世記11章1~9節
言葉は語る者にも、また聴く者にもその心に働きかけ、不思議な力を与えます。 人と人をつなぐ交わりに、大切な役目をもっています。 その言葉が、神によって混乱をもたらされた出来事に耳を傾けたいと思います。 「バベルの塔」と聞いただけで、イメージが湧いてくるのではないでしょうか。 「シンアルの地」とは、チグリス・ユーフラテス下流域の平野一帯、メソポタミヤ、バビロニアのことです。 当時は、バビロニアに移り住んだ人々も、世界中の人々も同じ言葉を使っていた、同じように話していたと書かれています。 この地に移り住んだ人々は、石の代わりにレンガを火で焼き固めることを見出した。 土や砂のしっくいの代わりに、レンガとレンガをつなぐ瀝青と呼ばれるアスファルトをつけて積み上げることを見出した。 次々と強固な建物、道路、水路を造り上げた。 バビロニアの文明を築いた結果、「天まで届く塔を建てよう」という言葉になっていったのでしょう。 人々は、「天まで届かせよう」、「有名になろう」、「全地に散らされることのないようにしよう」とまで、言うようになった。 神を引き下ろし、自分たちを引き上げようとする。 神と人との交わりであるはずのものが、自分のために「有名になろう」とするシンボルに変わってしまう。 神のもとから離れてしまった自分たちだけで集まって、その団結によって「散らされることがないように」と頑張る。 その象徴に、「天まで届く塔」を仕立てようとしたのです。
私たち人間は初め、神との交わりのなかに留まっていた。 神との交わりの中に、人と人との交わりもあった。 そうであるのに、神のもとから離れてさまよい、さすらう者となっていったと創世記に記されています。 神の言葉だけにより頼んでいた人々が、神との交わりを失ってしまった。 神は、この失われた交わりは回復されねばならないと、建設途上の「塔」のあるところにまで降りて来てくださったのです。 神が破壊したものは、この「町」でも、この「塔」でもありません。 この人間が自分たちだけのために持とうとした「神なき交わり」、これを言葉の混乱をもって破壊されたのです。 この交わりの回復のために、天まで届く塔を造り上げようとした高慢な私たちのために、アブラハムを選んで信仰を与え、我が子イエスをささげ、聖霊を降して、私たちに「信仰と言葉と力」を与えようとされたのです。 神は、聖霊を用いて、この神との交わり、人との交わりを、再び、「言葉」によって回復されたのです。 それがペンテコステの祝福です。 主イエスは、復活の後、弟子たちの前に現れて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 あなたたちはわたしの名によって新しい言葉を語る」と言われました。 神は私たちを憐れんでおられるから、降って来てくださった。 神に咎められるから、私たちには希望がある。 散らされたところで、つらくとも神のもとに留まり信頼し続ける。 そこに、交わりの回復のために新しい言葉が与えられる。 この新しい言葉が聖霊によって、語る者にも、また聴く者にも働く。 そこに神との交わりが回復する。 神にあっての人との交わりが回復される。 主イエスは、この「新しい言葉を語るようになる」とは、私を信じる者に伴う「しるし」だと言われました。 神との交わりが聖霊によって回復されるペンテコステ。 その交わりから、人と人との交わりが回復される。 このバベルの塔に、神の救いのご計画への備えがなされた、神の恵みの出発点であったことを見出していきたいと思います。
「あなたは、わたしに従いなさい」 ヨハネによる福音書21章20~23節
教会の暦では、イエスが復活の後、聖霊が降るペンテコステまでの間を歩んでいます。 十字架の後、よみがえられたイエスが天に昇られるまで、この地上に現れてくださったその40日の間のお姿とみことばを数週間にわたって味わっています。 その弟子たちのうちのひとりペトロに注がれた、よみがえりの主イエスの愛に触れたいと思います。
ルカによる福音書によりますと、夜通し漁をして何もとれず疲れ切って「網を洗っていた」ペトロにイエスが声をかけます。 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉でした。 ベテラン漁師の私が夜通し漁をしても何も取れなかった。 この昼間にもう一度網を降ろせとは無知もはなはだしい。 これがペトロの言い分だったでしょう。 しかし、ペトロは「しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、大きな期待を求めず返事したのが正直な思いであったでしょう。 これが、ふたりの最初の出会いの言葉でした。 湖のほとりにイエスが立つだけで、多くの群衆が取り巻いて騒いでいる。 そのような所で、イエスが本当に見つめておられるのは群衆ではなく、ペトロという一人の人物でありました。 夜じゅう苦労したけれども魚が一匹もとれなかった、そのことだけに心が奪われ黙々と「網を洗っていた」ペトロでした。 イエスは、見つめるだけでなく、耳を傾けようとしないペトロに、名指しで語りかけます。 「網を降ろし、漁をしなさい」とぺトロにも分かる生活の言葉で語ります。 希望を失い、ぼんやりと生活の中に埋もれているペトロに、一緒に舟に乗り込んで、同じ生活の言葉をもって語りかけるのです。 聴いたペトロは何を今さらと思いながらも「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 言っただけでなく、網を降ろしてみた。 これがペトロの大転換となったのです。 舟が沈みそうになるまで多くの魚でいっぱいになった。 考えてもいなかった時と場所で「網を降ろし、漁をしなさい」と語ったお方の圧倒的な力にペトロは驚いた。 心の中で馬鹿にした自分の姿を見つめさせられた。 聖書はただ、そのペトロが「すべてを捨ててイエスに従った」とだけ書かれています。 その後のペトロの生涯は失敗と挫折の連続でした。 痛恨の極みは、十字架のもとに連行されたイエスを、ユダヤの人々に問い詰められて三度「イエスの弟子とは違う」と言い放ってしまったことでしょう。 間違いなく、イエスに従うというペトロの決意と勇気は挫折に終わっています。 痛恨の傷を身に帯びて、まともにイエスの顔をみることのできなかったペトロに、よみがえりの主イエスが三度「わたしを愛するか」と呼びかけるのです。 「わたしがあなたを愛していることは、あなたはご存知です」と応える機会をペトロに三度与え、過去の三度の傷を拭っておられる。 「網を洗っている」ペトロを、「網を降ろす」ペトロに、そして、イエスの死とよみがえりを通して、傷を癒し、「人間をとる漁師」、「主の民を養う羊飼い」という新しい務めを与えられたのです。 つまづき、倒れ、裏切ることがあっても、イエスの十字架とよみがえりの力によって回復される、変えられる。 その度に「わたしに従いなさい」と新しい力を与え、励まされる。 それでもペトロは、自分と同じようにイエスに従う道を歩むもうひとりの弟子が気になる。 「主よ、あの人はどうなるのでしょうか」と聞いてしまうのです。 私たちは、それぞれにイエスに従う者です。 ただその従い方が異なります。 生涯の閉じ方も、閉じる時期も違ってくるでしょう。 イエスは「あなたに何の関係があるか。 あなたは、わたしに従いなさい」と天に昇られる前に、愛するペトロに言われたのです。
「復活からの道」 ルカによる福音書24章28~35節
イエスご自身は「旅人」でした。 神のもとから遣わされるという生い立ち。 人間のからだを引き受けてくださって、この地上の30数年の生涯を歩んでくださった。 喜びも、悲しみも、苦しみも、私たちと同じように味わってくださった。 「人間の死」もご経験してくださったが、人間では果たすことのできない「よみがえり」という道を初めて切り開いてくださった。 ついに、復活の命を携えて神のもとへ戻られるという地上の旅人でした。 私たちは、この旅人イエスの「証し人」として、イエスの旅を引き継いで歩む者とされています。 このことが可能となったのは、復活の主が私たちに現れくださって、神ご自身がそのことを「証し人」を用いて書き記してくださったからです。
イエスが殺されてすべてが終わったと諦めてしまった二人の弟子が、その殺された場所を離れてエマオの村に向って歩いていました。 過去に囚われたまま、落胆と絶望のなかを暗い顔をして話し合いながら歩いていたのです。 この二人の弟子たちのエマオへの旅に、復活されたイエスが近づいて来て、語りかけ、一緒に歩いてくださったのです。 弟子たちは、見知らぬ人に話をかけられ、励ましの聖書の説き明かしを受けたのです。 二人は、イエスに「一緒にお泊まりください」と無理強いをしました。 なおも先を急いでおられたイエスは、あれほど道すがら説き明かしをしたにもかかわらず、イエスであることが分からなかった弟子たちの願いに応え、一緒に泊るために家に入られたのです。 その泊った家で、一緒に食事の席についた時です。 イエスは客人としてではなく、家の主人として「パンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」彼らにお渡しになりました。 その姿に、弟子たちはイエスの姿に気がついたというのです。 ここでイエスが復活の主であることが分かるまでには、イエスの方から近づいて来て、一緒に歩く、話しかける、説き明かしをする、一緒に泊るために家に入る、主人として振る舞う、一緒に食事をする。 これほどまでに、イエスは、私たちを追いかけてくださるのです。 これが二人の弟子たちのエルサレムからエマオまでの旅でした。
ところが、目が開かれた二人の旅は、ここで終わらないのです。 時を移さず、エルサレムに戻ったとあります。 イエスがなおも先へ行こうとされたように、弟子たちもまた、新しい旅を歩み始めたのです。 もう一度、危険のともなうエルサレムへ戻る旅でした。 戻ってみると、仲間が集まっていた。 仲間が、本当にイエスは復活して現れたと証言していた、 自分たちもまた、エマオへの旅のなかで現れたこと、パンを自分たちのために取って、賛美の祈りを唱え、裂いて渡してくださったことを証言したのです。 この証言の集まり、祈り合いの集まりの真っ只中に、後に、父なる神が聖霊を降して私たちの教会を据えられたのです。 自分たちが決めて、一旦、向った「エマオへの旅」でした。 イエスに失望して、イエスのもとを離れた二人の旅でした。 その旅人に、復活の主は追いかけてくださった。 そのお方こそが、よみがえられたイエスであると知る信仰を二人は与えられたのです。 自分の目的地ではなく、新しい目的地を目がけて旅立つ「エマオからの道」、新しい生きる力を与えられたのです。 今も生きておられるイエスに祈られている、守られている、招かれている。 そのことをからだで知らされたのです。 エマオまでの道のりは、たとえ悲しく困難な道であったとしても、二人にとってこの復活の主に出会うまでの大事な旅でした。 新しいもう少し先へ踏み出す力、「エマオからの道」が与えられるのです。
「失われない者」 ヨハネによる福音書6章34~40節
「わたしが命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 このみことばが、どのような相手に、どのような時に、どのような場面で語られたかを見ますと、今の私たちに強く迫ってきます。 語られた相手は、大麦のパン五つと魚二匹によって五千人に食べ物を与えられ、養われたという奇跡を目の当たりにした群衆です。 イエスは病人を癒すだけではない、神のもとから来られた預言者であると思い、「自分たちの王」として担ぎあげて連れ出そうとついて来た、その翌日のことです。 この時の群衆とイエスの対話によって引き出された、みことばであったのです。
「いつ、ここにおいでになったのですか」 これが最初の群衆の質問でした。 やっとの思いで見つけ出して、イエスを祭り上げようと自分たちの思い通りにしようとしたその時です。 イエスは「はっきり言っておく。 あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言います。 病が癒される、飢えたおなかが満たされる。 もっと必要なものを与えて欲しい、この状態から解放してほしい、「自分たちの王」としてもっと力を見せて欲しい。 「見たら信じましょう」、「納得したら信じましょう」 そのような群衆にイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない食べ物のために働きなさい」と言われたのです。 そう言われた群衆は、そのためには「何をしたらよいでしょうか」と尋ねます。 イエスの答えは、「神がお遣わしになった者を信じることである。 それが神の業である。」でした。 神がお遣わしになった者、神がはっきりと意図をもって送って来られたみ子イエス・キリストを信じることである。 そのイエスが神のみこころ通りに黙って服従しておられること、そして、その従うイエスのうえに父なる神が働いておられることを信じることである。 これが、あなたがたのなすべき仕事であると言われたのです。 群衆はこう言われても、「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。 どのようなことをしてくださいますか。」と尋ねてしまうのです。 群衆は、モーセが荒野で神から食べ物をいただいて人々に食べさせたことを知っています。 イエスにも信じる為のしるしを求めたのです。 イエスはついに、「天からパンを与えたのはモーセではない。 父なる神が与えたのである。 わたしの父が、天からまことのパンをお与えになる。」 このイエスの発言に「そのパンをいつもわたしたちにください」と群衆が叫んだその時に、今朝のみことばが語られたのです。 イエスは、群衆に説明をしたのではありません。 「わたしが命のパンである」 父が、今、こうして私という姿によって命のパンをお与えになっている。 だから、私を受け入れなさいと群衆に迫ったみことばなのです。 イエスが何者であるのか明らかにされました。 そして、イエスの使命が何であるのか示されました。 「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではない。」 「わたしをお遣わしになった方のみこころを行うためである。」 そしてついに、父なる神のみこころまでも明らかにされました。 「わたしをお遣わしになった方のみこころとは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないことである」、「終わりの日に復活させることである」、「わたしを見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」、「わたしは、このみこころに従っている」 そうお答えになったのです。 群衆が生きた時代も、私たちが生きている時代も、これからも、私たちのだれ一人も失われないことが、神のみこころなのです。 私たちは、滅びることのない「生きる者」、神と共にある「失われない者」なのです。
「備えられた朝の食事」 ヨハネによる福音書21章1~14節
イエスが葬られたはずの空っぽの墓に行った婦人たちに、神の使いがこう言われました。 「あの方は、ここにはおられない。 復活なさったのだ。 まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。 あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。 そこでお目にかかれる。」 ガリラヤとは、イエスが歩まれたところ、弟子たちが生活し歩んだところです。 ガリラヤという日常の生活に戻った弟子たちに復活されたイエスは語りかけ、再び自ら入り込んで来てくださる。 その生き生きとした有様が描かれています。 イエスは復活した後、墓の前で嘆き悲しんでいた婦人たちに現れてくださいました。 次いで、そんなことがあるはずがないと疑う弟子たちに現れました。 更に、日常に埋もれ生きて行くことに精いっぱいの者のもとに現れてくださったのです。 それも、一晩中、漁をしたけれども何もとれなかった、何も収穫するものがないという乏しい生活の中にでした。 弟子たちの失敗している、困っているその日常にこそ、イエス・キリストの恵みは満ち溢れます。
イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。 聖書では、右側とは、神の側ということです。 今まで、弟子たちは、舟の左側、人間の側でしか網を打っていなかった。 イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。 そうすればとれるはずだ」と言われた。 これは、生活の糧だけの話ではありません。 「あなたがたは、人間をとる漁師になる」と言われたイエスの約束のみことばのことです。 イエスが言われた通りに網を打ってみると、網を引き揚げることができないくらいに大漁になった。 どんなに不格好でも、どんなに失敗をしても、何の収穫がなくても、日常に埋没することなくイエスを仰いで、イエスに向っているかと励まします。 岸辺では、すでにイエスは「炭火を起こしていた」。 弟子たちが網を打ってとってきた魚とは別の魚が、パンとともに用意されていた。 イエスはそれでも、弟子たちに、「今とってきた魚をもって来なさい」と言われます。 魚は、自分たちが持ち寄って来て、分かち合うものであることをイエスは教えます。 もって来るものが「何もありません」と言う弟子たちに、イエスは網を打つ場所を教え、大量の魚を与え、その魚を持ち寄ってくるまで、岸辺でじっと待って朝の食事の準備をしてご覧になって立っていてくださるのです。 この弟子たちが味わった霊的な体験を、私たちもまた同じように味わうことが赦されています。 イエスは「もって来なさい」、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われました。 舟の右側に網を打つのか。 左側に網を打つのか。 わずかな違いなのかもしれません。 しかし、弟子たちは、呼びかけるイエスのみことばを聞き分けることができました。 聞くだけでなく、言われた通りに網をおろしてみたことでした。 その僅かな違いが、永遠の命と滅びに分かれるのです。 み声を聞いて、みことばに従って、主に向って歩むところに必ずイエスは立っておられる。 今、教えられ、与えられた恵みをもって来なさいと言われる。 用意した朝の食事を一緒にしようと招くイエスに、私たちは必ず出会うことができるのです。
「朽ちない、輝かしい、力強いもの」 コリントの信徒への手紙一15章42~49節
死んだ者が生き返る。 こんなことがあるのだろうかと、この問いの前に立ち止まってしまう。 このような私たちとは、パウロは異なります。 「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」 そこまで行かないまでも、「死者はどんなふうに復活するのか。 どんな体で来るのかと聞く者がいる」のはどうしたことかと、逆にコリントの教会の人たちに問い返しています。 パウロは、種まきとその収穫というユダヤのありふれた日常の身近な風景を用いて、このことを語ります。
パウロは、このありふれた種まきの風景には、始まりと終わりがあることを告げます。 私たちこそ、種粒としてこの地上に蒔かれた存在です。 蒔かれた種は死んで、実を結んでふさわしい体をもって収穫されるという終わりを迎える存在です。 蒔かれた種粒として私たちを創造してくださった神が、その種粒が死んでつくり上げられた体を、最後には神ご自身が収穫される。 その収穫という終わりの時に、神は「自然の命の体」から「霊の命の体」へとつくり変えてくださる。 その終わりの時に、新しく私たちを創造するとパウロは言うのです。 始まりから終わりに至るまで、変わらないご真実をもって貫かれる神の創造の業がそこにはあると言うのです。 パウロは、種粒が蒔かれることも、蒔かれて収穫されることも単なる自然の成り行きとは考えません。 創造者である神が、自由に種を蒔き、収穫なさる創造の業である。 蒔かれた種が死んで体が与えられる、刈り取られるという営みを神の創造の業であると言います。 なのに、神を創造の主と信じるあなたがたが、なぜ「死者の復活などないと言っているのはどういうわけですか」と嘆いているのです。 死者の復活は、最後の神の収穫の時の創造の業です。 この収穫の業のために、種粒は蒔かれて準備されている。 それぞれ違った体を与えられた「自然の命」が刈り取られるのを待っている。 生まれながらに、あるいは何かをしたから、収穫の最後の時に「霊の体」が自然と備わるのではない。 神の創造の業によって、恵みによって与えられる特別の賜物です。 私たちは、最初の人アダムによって「生きる者」となりました。 その最初の神は、その終わりの時にも、霊の命にふさわしい体を与えて必ず「生きる者」としてくださることを信じることはたやすいことなのではないでしょうか。
パウロは、「最初に霊の体があったのではありません。 自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。」 二つの体には順序があると言います。 天に属する最後の人イエス・キリストは、天から来て、天に戻るお方です。 そのお方が、地に属する自然の体をもってくださった。 私たちと同じ地に属する体をもってくださったお方がよみがえりにより、天に属する体となって戻る。 地に属する者から天に属する者へとつくり変えられる神の創造の業、その死者の初穂となってくださったのが、イエス・キリストの十字架と復活です。 この「自然の体」と「霊の体」をつなぐものが、「復活」です。 体をともなった「からだのよみがえり」です。 私たちは、この約束の希望と、自分にしか与えられていない体とをもってこの地上の生涯を歩んでいます。 それが、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」というみことばです。 朽ちるべきものが朽ちないものを着て、死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになる。 それが、私たちの最後の収穫の時の「復活」の約束です。 私たちは、朽ちないもの、神の輝きに満たされるもの、弱さが強さに変えられる者です。
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