秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「かけがえのない今日」 ルカによる福音書 4章16~21節

2014-11-30

 次第に成長されたイエスは、故郷ガリラヤのナザレからヨルダン川に出て来られました。 バプテスマを受けられるためでした。 すると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」 そのイエスが、「聖霊に満ちて」、ヨルダン川からお帰りになりました。 そして、荒れ野の中を「霊によって」引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられました。 悪の霊の試みを受けられたイエスは、ことごとく退けて「霊の力に満ちて」故郷ガリラヤのナザレに帰られたと記されています。 イエスの歩みの始まりは霊の力に満ちて、その生涯は悪の霊との隣り合わせであったということです。 戻って来られたイエスは、「いつものとおり」安息日に会堂に入られた。 「いつものとおり」聖書を朗読しようとした。 「いつものとおり」会堂の会衆の前でお立ちになった。 イエスは、「いつものとおり」神の前に立ち続けておられた。 「いつものとおり」みことばのうえに立ち続けておられたのです。 私たちの罪は、この神のもとから隠れようとするところから、神のみことばに耳を傾けなくなるところから始まります。 
 当時の会堂では、立ち上がって聖書の朗読をした者がその箇所について座って教えを語ります。 「いつものとおり」イエスが聖書の巻き物を開いて読み終え、巻き物を巻き、係の者に返して席に座られた時です。 「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた」のです。 そのイエスが立ち上がって読まれた箇所がイザヤ書61章でした。 バビロニアに捕らわれていた人々が、長年の願いが叶えられ解放された。 喜び勇んでエルサレムに戻り神殿を再建することを願ったのでした。 しかし、あまりにも破壊され尽くされたエルサレムの廃虚を見つめ、人々は呆然としたのです。 いったいどのようにして、再び新しく興し直していいのか分からないほどの状況であった。 そこに「廃墟を立て直し、廃虚の町々を新しくする」と告げられた。 そのために、神のもとから遣わされるメシアが到来するとイザヤによって預言されたのです。 そこに、イエスは目を留められた。 どこから手をつけてよいのか分からないほどに崩されてしまったエルサレムを再び興し直す。 貧しい人に福音を告げ知らせる。 捕らわれている人に解放を告げる。 目の見えない人に視力の回復を告げる。 圧迫されている人を自由にする。 そのために、「わたしのうえに主の霊が満ちておられる。 主が油を注ぎ続けておられる。」 イエスは、このみことばに目を留められ、会衆の前で立ち上がり、読み上げて座られたその時です。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語り始められたのです。 取るに足りない存在である私たちのうえにみことばが成し遂げられるとは、いったいどういうことでしょうか。 みことばを耳にしただけでなく、それが実現すると語っておられるイエスご自身を受け入れる。 それだけではない。 そのイエスが、受け入れた私たちの中で脈々と息づいて働いておられると、私たちが信じている。 この事実以外にはないのではないでしょうか。 ユダヤのある村の会堂で、二千年前に語られたこのみことばが、十字架の死と復活によってすべての人々のうえに救いの業が成し遂げられました。 そして、今日の私たちが、そのことを信じて受け入れている。 「今、ここに」、みことばが成し遂げられている。 かつてイザヤを通して語られたみことばが、取るに足りない私たちのうえにも成し遂げられていることを、私たちは決して忘れてはならないのです。 アドベントこそ、この「今、ここに」を覚え賛美しつつ、起された出来事に感謝し、これから再び起されようとする希望を新たにする時ではないでしょうか

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「アドベントを前にして」 ヨハネの黙示録 21章1~6節

2014-11-23

 教会での一年の歩みは、クリスマスを待ち望むアドベントから始まります。 アドベントとは、「近づく、到来する」という意味のラテン語からきています。 私たちはこの時期、イエスのご降誕、最初の到来とともに、再び来られる到来の日を待ち望みます。 ヨハネの黙示録は、冒頭に「イエス・キリストの黙示」と記されています。 神のみ子であるイエス・キリストについて、隠されて覆われていたものが取りのけられて明らかにされた。 「すぐに起こるはずのことを、神がキリストにお与えになり、そして、キリストがこのわたしにお伝えになったものである。」 その「わたし」は、「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」、「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」と自己紹介しています。 政治的な犯罪者として島流しに遭ったヨハネが、「神のみことばを信じて従ったがゆえに」、また「イエス・キリストを主であると信じ告白し、証しをしたがゆえに」追放されて、この島に閉じ込められた。 しかし、そのヨハネが「イエスと結ばれて」、「イエスの苦難にあずかって」、「イエスに導かれて」、「イエスの忍耐にあずかって」、書き留めたものであると言います。 ヨハネの目には、「天には開かれた門が見えた。」 ヨハネの耳には、「見たこと、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」という神の声を聞いたと言うのです。 
 そのヨハネを用いて神が、「最初の天と最初の地は去っていく。 新しい天と新しい地が、神のもとから離れ、天から下ってくる。」という約束を、厳しい状況に置かれた者に向けて語られたのです。 周囲の状況が真っ暗闇で、ローマ帝国による恐ろしい恐怖と不安と痛みに必死に耐え忍んでいた各地のキリスト者を、どれほど慰め励ましたかと思わされます。 そこでは、「神が人と共に住み、人は神の民となる。 神は自ら人と共にいて、その神となる。 人の涙をことごとくぬぐい去ってくださる。 もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。 最初のものは過ぎ去ったからである。」と伝えられたのでした。 その意味は、神が私たちの歴史においでくださったイエス・キリストのことを語っているのです。 イエス・キリストご自身が十字架の苦しみを受け、肉を裂いて、血を流してくださった結果を語っているのです。 この約束の中に、私たちの世界は向っている。 必ず、そのようになるために、この約束が世界を支配し導いておられる。 私たちはいつしか、この目に見えない希望を求めることを失ってしまった。 いや、捨ててしまった。 目に見える希望だけを追いかけるようになった。 待つことができなくなってしまった。 神に期待しなくなり、自分を頼りにするようになった。 黙示録は、この私たちの姿に応えています。 最初の天と最初の地は去っていく。 神がつくられた世界はこのままでは終わらない。 必ず新しくされ、新しい都が神のもとから私たちのところに降ってくると言います。 そこでは、神と人とが一体となり、涙も死も悲しみも労苦もなくなる。 黙示録は、イエスが再び来られることに燃えるような期待を抱いています。 すべてを創造されたお方は、最後にはこの天と地を完成してくださる。 その最後の仕上げに再び来られ、新しい天と地をつくられる。 創造と救いと終わりの業の完成が成し遂げられる。 この希望の中に、この一年もまたアドベントから歩み始めたいと願います。

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「霊をもって、まことをもって」 ヨハネによる福音書 4章20~26節

2014-11-16

 イエスは、旅に疲れて井戸端に座っていたひとりのユダヤ人の姿をとって、「水を飲ませてください」とサマリアの女性に語りかけます。 彼女は、そっけなく答えます。 「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしにどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」 それもそのはずです。 ユダヤの人々はサマリアの人々を蔑んで、話をすることさえ避けていたのです。 そんな彼女にイエスはこう語ります。 「あなたが神の賜物をもっていたなら、あなたの方から生きた水を求めるだろう」、「あなたが今『水を飲ませてください』と言っているのがだれであるか分かっていたなら、あなたは生きた水を与えられたであろう。」 残念ながら、彼女はイエスの語る意味が分かりません。 
 このようにして始まった井戸端でのイエスとの出会いが、彼女を変えていきます。 彼女は、イエスから語りかけられる。 胸の奥深く隠していたものが次々と吐き出されていく。 素姓を隠して生きてきたすべてのことが、さらけ出されていく。 ついに彼女は、「この井戸に水をくみに来なくてもいいように、あなたの言う渇かない水をわたしにください」と語るまでになったのでした。 彼女は、自分のすべてを見抜くこのお方は預言者ではないかと感じながら、思いつくままにイエスに疑問を投げかけます。 私たちサマリア人は、この山できちんと礼拝をささげてきた。 そうであるのに、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべきところはエルサレムであると言う。 彼女は、礼拝すべき場所を問題にしたのです。 しかし、イエスは、「この山でもエルサレムでもない所で、私を遣わされた父なる神を礼拝する時がやってくる。 霊と真理をもって礼拝する時が来る。 今がその時である。」 イエスは、礼拝をする場所ではなく、だれを、どのように礼拝をささげるのかを問題にしたのです。 だから、「婦人よ、わたしを信じなさい。」と言われたのでした。 
 振り返ってみれば、井戸に向って水を汲みに来た彼女の歩みは、すべてイエスの前に出て行く道のりでした。 イエスが、その前に進み出て来る彼女を待っていた。 そして、『水を飲ませてください』と語りかけられた。 サマリア人として、また女性として距離を置こうとした彼女を、二人だけの立場に引き出して、イエスの問いに応えざるを得ないところに彼女を立たせた。 イエスの前に自分のすべてをさらけ出した彼女の姿こそ、イエスに招かれた父なる神への礼拝の姿ではないでしょうか。 「ここにくみに来なくてもいいように、渇かない水をわたしにください」という彼女の本当の願いに、「あなたが一番ほしいと思っているものをわたしから今、得ることができるだろう。」 だから「婦人よ、わたしを信じなさい」とイエスは言われたのです。 「キリストと呼ばれるメシアが来られて、わたしたちに一切のことを知らせてくださる」と漠然と待ち望んでいる彼女の希望に、それが「あなたと話しているこのわたしである」とイエスは言われたのです。 イエスは、父なる神は「霊と真理をもって礼拝する」民を求めておられる。 それが神のみこころである。 そうであるのに、ないがしろにされているまことの礼拝が再び回復されるために、神は新しく「霊と真理をもって礼拝する」民を起こされる。 それが私たち、イエスに結ばれて新しく創造された民なのです。 イエスのもとからくる霊に与かって礼拝をささげる。 事実として現れたイエスのまことのみことばとお姿によって礼拝をささげる。 まことの礼拝をささげる新しい民を起こすために、父と子と霊の神がこの地上でともに働いておられるという神の真理の事実に支えられて、場所ではなく自分自身をささげて礼拝をささげる。 そのことをイエスは、彼女を通して語られたのです。

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「わたしの愛する子という声」 マルコによる福音書 1章1~11節

2014-11-09

 マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り始めます。 この福音が、荒れ野から出発した。 荒れ野にひとりの人物が遣わされた。 その人物が、荒れ野からイエス・キリストの福音を「宣べ伝えた」。 そのことを告げるみことばが、「福音」と呼ばれています。 マルコによる福音書の最初の舞台は、預言されたように、約束通りに荒れ野でした。 花も咲かない、熱した砂地で渇いた荒れ野に、「水が湧きでる。 川が流れる。 野ばらの花が一面に咲く」ようになる。 何も見えない、聞こえないところにこそ、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられなければならなかった。 神によって遣わされたバプテスマのヨハネが、エルサレムの都ではなく、ヨルダン川のほとりの荒れ野で叫んだのでした。
 ヨハネが叫んだ相手は、ユダヤの全地方、エルサレムの住民でした。 自分たちこそ、神に選ばれた民である。 神の律法を固く守っている。 そう信じてやまないユダヤの人々に向って、「悔い改めのバプテスマ」を叫んだのです。 神に背を向け、「悔い改め」など必要がないと思っている人々に、神のもとへ帰る「悔い改め」を呼び求めたのです。 到底、そのような呼びかけに、自信満々のユダヤの人々が耳を傾けるはずがありません。 ヨハネは、ユダヤの中心地エルサレムから離れた荒れ野で、ただユダヤの人々が足を運んでくれるのを待っているだけの存在でした。 それでも、ヨハネは、荒れ野で質素な生活をしながら叫び続けることをやめませんでした。 神が、ヨハネを荒れ野に遣わしたのです。 神は、続々とヨハネのもとに人々を送ります。 送られた人々は、「罪を告白し、ヨルダン川でヨハネの授けるバプテスマを受けた」と書かれています。 ヨハネに、これほど多くの人を集める教えや魅力があったとは思えません。 ただ、「わたしより優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。 わたしは水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と宣べ伝えただけでした。 ヨハネを通して神自らが、ご自身のみことばを聞く民を召し集め、起こしたのです。 この荒れ野のヨハネの叫びに、ガリラヤのナザレにおられたイエスが立ち上がった。 ヨハネを通して招かれ、故郷を捨てて、ヨルダン川のほとりのバプテスマを受ける人々の群れに加わったのです。 イエスがメシアとして立つべき日、「その日」の到来をついにバプテスマのヨハネの荒れ野の叫びに読み取られたのでした。 悔い改めて神の民とされる人々が続々とヨハネのもとに引き寄せられ、水のバプテスマが授けられているそこに、特別の使命を自覚されたイエス・キリストが来られて、その群れに加わり一緒に水のバプテスマを受けられたのです。 イエスは、罪人とともにその中に入って、一緒にその罪を担おうとしてくださる。 その罪による弱さや醜さや足りなさ、悲しみや苦しみや絶望を共にかぶろうとされる。 私たちすべての人々との罪の連帯に生きて行こうとされたのです。 イエスは身をもって、これから向って行こうとされる自らの死を通して、ご自身の名が刻まれる聖霊のバプテスマを示してくださったのです。 イエスがバプテスマを受けられて、ヨルダン川の水から上がるとすぐに、天が裂けて霊がご自分に降ってくるのをご覧になりました。 天からは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。 「天が裂ける」とは、天と私たちを隔てていた私たちの罪が、神の側から裂けてなくなったということです。 このイエス・キリストの十字架の死に与かることによって、すべての妨げがなくなった。 そこに聖霊が降る。 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がかかる。 この約束のうちに、私たちはあります。 

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「サウルの戦いとダビデの戦い」 サムエル記上 17章31~47節

2014-11-02

 場面は、ペリシテとイスラエルという国の戦いです. しかし、実は、神に挑み神の名を侮辱する者と、神との戦いでした。 自分の力だけに頼る者と、神への信頼だけに頼る者との戦いでした。 「この戦いは主のもの」でした。 少年ダビデは、人に対してではなく、神を侮辱する悪の霊に対する素朴な憤りと、神に対する信頼だけでペリシテの大男の前に出向いて行ったのです。 ダビデにとっては、兜も、鎧も、剣も、すね当ても、槍も必要ありませんでした。 ダビデが持って行ったものは、自分の杖と、滑らかな石5つと、石投げ紐と、神への信頼だけでした。 杖は、羊飼であるダビデが羊の群れを追うためのものです。 石や石投げ紐も、羊を守るために普段使っているものです。 ダビデは、自分に勝ち目があるかとか、無謀な戦いではないかとか一切考えていません。 これは、神の戦いである。 神が働き、神がなされることである。 「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からもわたしを守ってくださるにちがいありません。」 この信仰だけで出向いて行ったのです。 このダビデの戦いは、あっけない結末でした。 石投げ紐を振り回して投じられた石が、大男の額を打って倒した。 イスラエルに勝利をもたらしたのです。 しかし、ダビデの戦いはそれで終わりません。 ここの戦いは、神の羊の群れであるイスラエルの民を、悪の霊である獅子や熊の手から日常生活の中の戦いによって守ったという出来事でした。 神は、このダビデの素朴な信仰を受け入れてくださって、「主の戦い」としてくださった。 そのために、ダビデは選ばれ、その後のイスラエルの王として戦いを歩んでいくのです。
 ここには、もうひとりの戦いがあります。 イスラエルの王であったサウルの戦いです。 「そのすべての持ち物を滅ぼし尽くせ」という主の命令に、良い物を残し、値打ちのない物だけを滅ぼし尽くした。 良い物を主のみ前にささげるようにという兵士のすすめに、神のみこころを少し曲げてしまった。 サウルのもとから、主の霊が離れていったのはこの時からでした。 「主の霊はサウルを離れ、悪霊が彼をさいなむようになった」とまで書かれています。 ぺリシテと戦うどころではなかったのかもしれません。 神にはみこころがあって、サウルを選ばれたのです。 私たちも同じです。 神の期待があって、私たちを招いてくださったのです。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだのである。」とイエスは言います。 問題は、その次です。 それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言っています。 このイエスの約束の中に、私たちはあります。 ですから、私たちは、恐れることも、傲慢になることもありません。 ただ、主の戦い、神の救いの業のためです。 サウルも少年ダビデの素朴な信仰に再び触れることができました。 結果は、自分が王であるイスラエルの勝利となりました。 しかし、サウルの本当の勝利は、これ以降の歩みであった筈です。 イスラエルの初代の王サウルとしての選びは、神のみ心のためであったはずです。 
 私たちは、主の思いと人間からでる思いが真っ向からぶつかる正念場に、いつも屈してしまいます。 ダビデの、サウルの、また私たちの戦いがあります。 しかし、神は私たちのそのままの信仰を受け入れてくださって、選んで、期待して、約束の中に生かしてくださっています。 私たちの信仰は、ただ神の恵みだけによって与えられているものです。 神が、私たちを離れることは決してありません。 いつも、私たちの方から主を捨てて、離れてしまうのです。 主の姿を見失うことなく、神のみこころだけに留まり続けることを願います。

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「神の家を建て上げる仕事」 コリントの信徒への手紙一 3章10~17節

2014-10-26

 パウロは、家の天幕づくりの職人として生計を立てていました。 伝道者としての自分の姿を、「熟練した建築家のように土台を据えました」と表現しています。 家の建築でもっとも大切なことは、土台を据えることである。 基礎を据えることである。 パウロは、コリントの地にイエス・キリストという土台を据えた。 教会は、この土台のうえに建て上げられると言ったのです。 パウロは、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。 ・・・・・わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15:18-19)とだけ言っています。 コリントの地で、キリストが働かれたのだ。 私の働きはキリストのものであって、私は用いられたにすぎない。 ですから、パウロは『神からいただいた恵みによって』、熟練した建築家のようにイエス・キリストという土台を、コリントの教会に据えることができたと確信したのです。 
 更に、パウロは、その土台のうえに建てる仕事について、いずれ問われると言います。 「だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。」 それが、「終わりの日」には、火によって吟味されると言います。 どのような物を使って、またどのような仕事をして家を建てたとしても、最後の時には火の中を通って吟味される。 パウロは、このことを隠さないで、避けないで、単刀直入に語ります。 「見よ、主は火とともに来られる」と預言されている通りです。 神の裁きは必ずあります。 そのために、イエス・キリストの十字架の死を用意してくださったのです。 パウロが土台を据えたというのは、この最後の裁きから救われるために備えられた、イエス・キリストの十字架のことです。 「一人も滅びないで、永遠の命を得るために」ささげられた神の愛のことです。 パウロは、この火による厳しい最後の吟味のうえに建つことをためらいません。 なぜなら、同時に、一人も命を失わないで生きるようにと願う神の救いのみ心の上にも立っていると確信していたからです。 
 神のみ心に適うものだけが、生き残る。 私たちは、この神の最後の点検をだれ一人例外なく受けるのです。 土台であるイエス・キリストの十字架の愛によって、すべての者が見直されるのです。 私たちは、この土台に立つことを恐れてはなりません。 この土台は、十字架につけられたイエス・キリストの愛です。 この土台の上に建つものは、人間がつくろうとしてもつくり上げることができません。 土台そのものであるイエス・キリストだけがつくり上げるもの、土台からしか生まれてこないものです。 この土台のうえに、自分の好みによって建てるのではなく、『神からいただいた恵みによって、神のみこころ通りに、神の憐れみによって』建て上げられると、パウロは言っているのです。 パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と迫ります。 あなたがたは、神の神殿である。 いつでも神に出会うことのできる場を、既に神から与えられている。 神の霊が、あなたがたの内に住んでいる。 いつでも神を礼拝することができることが、私たちの最大の祝福なのです。 それが、神の神殿、神の霊がうちに住んでいるということです。 神が、私たちの内を出入りして、生きて、働いておられる。 ですから、神が、礼拝を通して私たちを求めて、招いておられるのです。 これに、私たちが応えているかということです。 「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と、パウロは確信しています。

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「神の愛に生きる者とその愛を評価する者」 ヨハネによる福音書 12章1~8節

2014-10-19

 イエスは、社会からはみ出した人々とともに食事をされることを喜びとされました。 しかし、この箇所の食事はイエスが招いた食事ではありませんでした。 「イエスのために」用意された、ひとつの家族の家の夕食でした。 時は、いよいよイエスが十字架に架けられようとしている、過越祭の六日前のことでした。 そこにいたのは、病気であったラザロとその姉妹であるマルタとマリア、招かれたイエスとその弟子たちでした。 ラザロは死んで墓に葬られて、イエスに「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 出て来なさい」と言われて、「手と足を布で巻かれたまま、顔を覆いで包まれたまま」連れ戻された人物です。 あまりの驚きの出来事に、物珍しさから、群衆が、ひと目その復活したラザロを見ようと押しかけて来たほどでした。 このことで祭司長たちは、益々、不思議な業の証人となったラザロとともにイエスを殺そうと企てたと記されています。 
 これから十字架という自分の「葬りの日」を迎えようとする差し迫った時に、イエスは身の危険を感じながらも時間を費やして、ラザロというひとりの人物の病気と死に関わろうとされました。 「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子であるわたし自身が栄光を受けるためである。 あなたがたが信じるようになるためである。」と語られたのです。 そのことに気づかないマルタでした。 イエスが墓をふさいでいる「その石を取りのけなさい」と言われたマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と、イエスの言葉を拒んだのです。 目に見える状態からは、当たり前の言葉です。 このマルタの常識を越えて、その兄弟ラザロはよみがえらされたのです。 ですから、その感謝の食事のために無我夢中で台所に立っていたのでしょう。 しかし、マリアのふるまいは違っていました。 石膏に入った高価なナルドの香油を持ってきて、その壺を割ってイエスの足に香油を塗った。 その足を自分の髪の毛で拭ったのです。 マリアはどうしても、イエスの足に大事に蓄えてきたナルドの香油をすべて注ぎたかったのです。 そのために、過越の祭りの六日前のこの時に、石膏の壺を割ったのです。 イエスの「葬りの日」が近いことを読みとり、精いっぱいのふるまいをもって、イエスがメシア、救い主であることを告白したのです。 マリアが注いだ精いっぱいのふるまいの「香油」の香りで、その家はいっぱいになったと記されています。 マリアは、ご自身の命をささげようとしておられるイエスの十字架のかんばしい香りを、この時、感じ取っていたのでしょう。 そのイエスの愛に応えようとしたマリアのふるまいが、その家をイエス・キリストの十字架の愛のかんばしい香りで満たしたというのです。 そのマリアのふるまいを、イエスは「わたしの葬りのためであった」と、受け止めてくださったのです。 
 このマリアのふるまいが、もう一人の人物の姿もまた浮き彫りにします。 イエスの弟子、イスカリオテのユダです。 ユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と酷評します。 ユダは、マリアの愛と献身のふるまいを金額に換算します。 イエスの命さえ、銀貨三十枚と換算し売り渡します。 ユダにあるのは、自分の主張に基づいて、正しいか誤っているか、損をしているか得をしているかだけです。 そこには、「神の愛」がないのです。 自らささげるという「ふるまい」はないのです。 マリアは、このときにしかできない無駄遣いをしたのです。 その時できる精いっぱいのものをささげたのでした。 イエスは、この精いっぱいのマリアの愛を喜んで受け取ってくださったのです。

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「エリシャのとりなしの祈り」   列王記下 6章15~23節

2014-10-12

 アラムという国とイスラエルが争っていた時のことです。 アラム軍は、用意周到な戦いの準備をします。 ところが、アラム軍が行くところすべてに、イスラエル軍が警戒をして待っている。 味方にスパイがいると疑うほどでした。 イスラエルの中に、神のように見抜く力をもっていた神の人エリシャがいたことを知らされたアラムの王は荒れ狂い、たったひとりエリシャのためだけに、軍馬、戦車、それに大軍を差し向けたというのです。 
 朝早く起きて、その光景に気づいて慌てた召使が「どうすればいいのですか」と主人エリシャに尋ねます。 この時と場に及んで、エリシャは召使に「恐れてはならない」と語り、主に祈ったと記されています。 エリシャは、特別な能力を持っていたのではない。 主に対する変わらない信頼と忠実な祈りがあった。 今、召使が目の当たりにして恐れていることを、すでに主との交わりのなかに読みとっていたのかも知れません。 主イエスもまた、弟子たちによく「恐れてはならない」と言われました。 イエスは、もっと自信を持ちなさいというような道徳で言われたのではありません。 恐れている自分を見つめなさい。 そして、恐れている自分の前にいるイエスご自身を見つめなさいと言われたのでした。 まったくイエスを見ることのできない真の自分の姿を見つめなさい。 その神のもとから離れてしまった自分の罪を担ってくださるイエスご自身を見つめなさいと言われたのです。 召使にとっては、この時こそ自分を見つめて主に祈る機会をいただいた時なのです。 そうした主の招きに応えようとしないで、目に見えるものに恐れ、慌ててしまう。 その召使にエリシャは、「恐れてはならない、見るべきものだけを見なさい。 わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い。」と言って、「彼の目を開いて見えるようにしてください」と主に祈ったのです。 
 アラムの戦いは、イスラエルとの戦いではありませんでした。 神の人エリシャに働く神との戦いでした。 アラムの王は神の働きが見えていないので、エリシャを捕らえてしまえばすべてが解決すると思った。 だから大軍を差し向けたのです。 しかし、エリシャには共に働いておられる主が見えているので、「この異邦の民を打って目をくらましてください」と祈った。 この祈りは、彼らを打ち殺すためではありません。 彼らが進んで行こうとしている道を、彼らに示すためです。 ですから、エリシャは敵である彼らのためにも祈ったのです。 「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください。」 エリシャは、自分の召使のためにも、またアラム軍のためにもとりなしの祈りをささげたのです。 私たちの肉の目で見える世界と、神が働かれる見えない世界はまったく別の世界のものではありません。 神の働きは、私たちの日常の中に起こっているのです。 私たちが求める祈りによって、その働きが呼び起こされています。 私たちが求め、叫ぶ祈りに応えて祈る主イエスの祈りに支えられて初めて、見えていないものが見えるようになるのです。 「恐れてはならない」と語る者がいる。 天の軍勢が力強く取り囲んでいる現実が見えている者がいる。 恐ろしい、立ちすくむというような所においても、主なる神との交わりに留まり続ける者がいる。 私たちに与えられている務めは、肉の目でしか見えない人のために、「恐れてはならない」と語り、「目を開いて見えるようにしてください」と祈ることではないでしょうか。 このままいけば滅んでしまう人のために、「主に向って」その人のために、「目を開いて見えるようにしてください」と祈ることではないでしょうか。 

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「人間から出たものと神から出たもの」 使徒言行録 5章33~42節

2014-10-05

 ペトロとほかの使徒たちが、多くのしるしと不思議な業を民衆の間で行っていました。 民衆の賞賛を得て、益々イエスを信じる人の数が増えてきていました。 祭司たちは「ねたみに燃えて」、その使徒たちを捕らえて牢に入れていたのです。 イエスを十字架につけた報復があるかもしれない。 民衆を扇動するかもしれないと思ったからです。 自分たちの身を守るためです。 牢にはしっかり鍵をかけて、牢の戸の前には番兵を立たせていたほどの念の入れようでした。 
 神は、その閉じ込められていた使徒たちの「牢の戸を開けた」。 戸を開けただけでなく、牢の外に「連れ出した」。 連れ出しただけでなく、「行って神殿の境内に立ちなさい。 この命の言葉を残らず、民衆に告げなさい。」と命じられたのです。 使徒たちは、ただ神の声が告げた通りに従っていただけなのです。 激しい「ねたみ」と「怒り」が渦巻く中にあっても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」 「神は、あなたがたイスラエルが木につけて殺したイエスを、救い主として復活させられました。 私たちは、この事実の証人です。」と、相手が大祭司であっても一貫して語ります。 その時の状況を考えれば、聖霊を通して使徒たちを導いて「牢の戸を開けて、牢の外に連れ出して、語らせた」神から出た言葉としか言いようがありません。 
 今にも使徒たちが断罪されようとしているその時に、どんでん返しが起こったと聖書は言うのです。 ひとりの律法学者が立ち上がります。 「ほうっておくがよい。 あの計画や行動が人から出たものなら、必ず自滅するだろう。 しかし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」 こう語った人物は、ファリサイ派に属する律法学者ガマリエルでした。 あのパウロがこの人物のもとで「律法について厳しい教育を受けた」と言っている、ファリサイ派の権威ある人物でした。 この発言をどのようにお受け取りになるでしょうか。 「神の怒りに任せなさい」と聞こえて来ないでしょうか。 「もし、神から出たものであるなら、彼らを滅ぼすことはできない。 もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」という言葉に、神への恐れを感じないでしょうか。 このガマリエルの発言によって、使徒たちは釈放されたのでした。 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」という言葉こそ、律法学者たちが語っていた教えです。 使徒たちの教えは、それと何ら変わることはありません。 異なるのは、使徒たちはその言葉通りに神に聴き従っていたということです。 一方、律法学者たちは神のみこころを思わず、自分の身を守ることに汲々として、「ねたみによって」、「怒りによって」使徒たちを捕らえて殺そうとした。 その使徒たちを、「牢の戸を開けて、連れ出して、命の言葉を語る」ように導いたのは、神です。 使徒たちだけに、神は働かれたのではない。 捕らえて殺そうとしていたファリサイ派の中心人物でさえも用いて、釈放させたのです。 単なる釈放ではない、次なる所に立たせるための解放であったのです。 「ねたみ」や「怒り」だけに動かされる者から、恐れも打算もなく「神の事実の証人」として大胆にされた使徒たちでした。 律法を究めた人物も越えて、神のみ声だけに耳を傾けて「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶようになった」使徒たちでした。 「毎日、神殿の境内や家々で、絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせた」使徒たちでした。 すべて、聖霊によって与えられた変貌です。 変えられた使徒たちの姿はまた、私たちの姿であるはずです。 「連れ出されて、この命の言葉を残らず、民衆に告げなさい」と託された使徒たちの姿は、私たちの姿であるはずです。 この使徒たちと共に、霊なる力に身を委ねていきたいと願います。

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「いつまでも残るもの」   コリントの信徒への手紙一 13章8~13節

2014-09-28

 13章は、愛の賛歌と呼ばれています。 「愛」を、「愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と表現しています。 もし、このパウロが語る愛の賛歌が、人間の理想とする愛を語っていると言うなら、人間がつくり上げることのできる愛です。 単なる道徳です。 このみことばだけを取り出して、私たちは受け取ることができません。 パウロは、コリントの教会に向けて、教会がつくり上げられるためにはたくさんの霊の賜物が与えられている。 その霊の働きが、キリストの教会をつくり上げるのだと戒めてきました。 そのパウロが、「わたしはあなたがたに、もっと大きな賜物を受けるように最高の道を教えます。」と語ったみことばが、「どんなに、霊の賜物である預言を語ろうとも、神についての知識に通じていたとしても、信仰をもっていようとも、よい行いに身をささげたとしても、愛がなければ無に等しい、何の益もない。」というものでした。 パウロの言う「愛」とは何でしょうか。 
 パウロは、「愛する私」がではなく、「愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言います。 「愛する私」がではなく、「愛」が「忍耐強い。 情け深い。 ねたまない。 自慢せず、高ぶらない。」と言うのです。 「神の愛」が現わされた「イエス・キリストの愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言っているのです。 私たちに等しく降り注がれ続けている「神の愛」が、「すべてを忍び、すべてを耐える」と言っているのです。 私たちが働いているのではない、「神の愛」そのものが働いているのだと言うのです。 愛は、神から出てくるものです。 神からいただくものです。 ですから、パウロは、この「愛」は決して滅びないと言います。
 なぜ、パウロは、霊なる賜物として与えられている様々なものは「廃れる」と言うのでしょうか。 今、賜物を与えられて見えているというものは、「まだその一部分である。」 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」に過ぎない。 しかし、今は、部分的にしか見えていなくても、完全なものが来たときには、「顔と顔とを合わせて見ることになる。 部分的なものは廃れて、はっきり見えるようになる」と言います。 どのようにはっきり見えるようになるのかというと、「はっきり知られているようにはっきりと知ることになる。」と言うのです。 どういうことでしょうか。 私たちが、神にはっきりと知られているように、私たちが今度は、神をはっきり知るようになる」と言うのです。 私たちは、すでにはっきりと知られている、神に愛されている。 その私たちがはっきりと神に愛されていることを知ることが、神を知るということだと言うのです。 神に知られている、愛されていると知ることができたのは、イエス・キリストがこの地上に現れてくださったからです。 十字架によらないで、またイエス・キリストに救われることなく、「神の愛」を知ることも、伝えることもできません。 ですから、パウロは「愛が、すべてを忍び、すべてを耐える」という間に、「すべてを信じ、すべてを望み」という「信仰」と「希望」をはさんだのです。 パウロは「神の愛」を、この信仰と希望とともに語り、これらと無関係に「神の愛」を語らないのです。 この「信仰」と「希望」に深く結びついた「神の愛」を最高の道として、コリントの教会の人たちに説いたのです。 この三つの神との関係が永遠に残る。 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中でも最も大いなるものは、愛である。」と言っているのです。

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