秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「十字架のイエスとともに」 コリントの信徒への手紙一 2章1~5節

2015-03-29

パウロがコリントの教会に初めて行った時のことです。 「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言います。 知恵にあふれた言葉によらないで、一般的には愚かなものを用いた宣教でした。 「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言います。 「十字架につけられたキリスト」という言葉は、過去形ではなく、現在完了形で記されています。 過去のある時点での状態を言っているのではありません。 今もなお、その状態が続いているとパウロは言っているのです。 1章23節の箇所も、ガラテヤの信徒への手紙3章1節の箇所も同じことです。 文語訳聖書では、そのところを正しく「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」と訳しています。 今もなお、「十字架につけられてしまったままでおられるイエス・キリスト」とパウロは言うのです。 わたしの言葉も、わたしの宣教も、このお方の霊と力の証明によるものである。 人の知恵によらず、衰弱しているわたしの言葉は、神の力によるものであると言うのです。 
 パウロは、「わたしもそちらに行ったとき」と言います。 私『も』衰弱していたと言うのです。 この「十字架につけられてしまったままでおられるイエス・キリスト」と同じように、私『も』また衰弱していた。 イエス・キリストは、この私と並んでこのような衰弱の状態を担ってくださったと言うのです。 パウロの体には、「肉体のとげ」が与えられていました。 復活された主イエス・キリストに、このとげを取り去ってほしいと三度願い出たとあります。 しかし、主は「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。 そして、パウロは「わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています。 『逆説』を語っています。 人間が捉えているものとは逆の捉え方です。 主イエス・キリストが「言われました」というのも、現在完了形です。 ここでパウロに語ってくださった言葉を、今もなお語り続けてくださっているということです。 歴史の一時点に十字架にかかってくださったその復活のイエスが、「十字架につけられたまま」、恐れと不安と、弱さと愚かさの状態を今もなお担い続けてくださっている。 パウロは、歴史上のイエスを語っているのではなく、真理としてのイエスを語っているのです。 それは、目に見える歴史的な事実とは異なる「十字架につけられたまま」のイエスなのです。 
十字架上での「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)という、大声で叫ばれたイエスの言葉、イエスの最後の姿はどうしてなのでしょうか。 このイエスの最後の姿を見て、「百人隊長」が「本当に、この人は神の子だった」と言っています。 何がその根拠であったのでしょうか。 やはり、『逆説』です。 愚かなところ、泣いているところ、そこには真理がある。 弱いところ、貧しいところ、そこにも真理がある。 十字架の上にまで、そのようなものになってくださっている。 ご自分の体をもって現わしてくださっている。 私たちは奇跡を望みます。 しかし、神はそうではない。絶叫したイエスこそ、私たちのキリストです。 十字架につけられたままのキリストだからこそ、痛みが分かっていてくださる。 パウロと並んでくださっているイエス・キリスト、目に見えるものではない、逆説的な意味でのイエス・キリストを語っているのです。 私たちはバプテスマによって、このお方と共に葬られ、その死にあずかり、新たに生まれ変わるものとなったのです。 



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