「わたしの愛する子という声」 マルコによる福音書 1章1~11節
マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り始めます。 この福音が、荒れ野から出発した。 荒れ野にひとりの人物が遣わされた。 その人物が、荒れ野からイエス・キリストの福音を「宣べ伝えた」。 そのことを告げるみことばが、「福音」と呼ばれています。 マルコによる福音書の最初の舞台は、預言されたように、約束通りに荒れ野でした。 花も咲かない、熱した砂地で渇いた荒れ野に、「水が湧きでる。 川が流れる。 野ばらの花が一面に咲く」ようになる。 何も見えない、聞こえないところにこそ、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられなければならなかった。 神によって遣わされたバプテスマのヨハネが、エルサレムの都ではなく、ヨルダン川のほとりの荒れ野で叫んだのでした。
ヨハネが叫んだ相手は、ユダヤの全地方、エルサレムの住民でした。 自分たちこそ、神に選ばれた民である。 神の律法を固く守っている。 そう信じてやまないユダヤの人々に向って、「悔い改めのバプテスマ」を叫んだのです。 神に背を向け、「悔い改め」など必要がないと思っている人々に、神のもとへ帰る「悔い改め」を呼び求めたのです。 到底、そのような呼びかけに、自信満々のユダヤの人々が耳を傾けるはずがありません。 ヨハネは、ユダヤの中心地エルサレムから離れた荒れ野で、ただユダヤの人々が足を運んでくれるのを待っているだけの存在でした。 それでも、ヨハネは、荒れ野で質素な生活をしながら叫び続けることをやめませんでした。 神が、ヨハネを荒れ野に遣わしたのです。 神は、続々とヨハネのもとに人々を送ります。 送られた人々は、「罪を告白し、ヨルダン川でヨハネの授けるバプテスマを受けた」と書かれています。 ヨハネに、これほど多くの人を集める教えや魅力があったとは思えません。 ただ、「わたしより優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。 わたしは水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と宣べ伝えただけでした。 ヨハネを通して神自らが、ご自身のみことばを聞く民を召し集め、起こしたのです。 この荒れ野のヨハネの叫びに、ガリラヤのナザレにおられたイエスが立ち上がった。 ヨハネを通して招かれ、故郷を捨てて、ヨルダン川のほとりのバプテスマを受ける人々の群れに加わったのです。 イエスがメシアとして立つべき日、「その日」の到来をついにバプテスマのヨハネの荒れ野の叫びに読み取られたのでした。 悔い改めて神の民とされる人々が続々とヨハネのもとに引き寄せられ、水のバプテスマが授けられているそこに、特別の使命を自覚されたイエス・キリストが来られて、その群れに加わり一緒に水のバプテスマを受けられたのです。 イエスは、罪人とともにその中に入って、一緒にその罪を担おうとしてくださる。 その罪による弱さや醜さや足りなさ、悲しみや苦しみや絶望を共にかぶろうとされる。 私たちすべての人々との罪の連帯に生きて行こうとされたのです。 イエスは身をもって、これから向って行こうとされる自らの死を通して、ご自身の名が刻まれる聖霊のバプテスマを示してくださったのです。 イエスがバプテスマを受けられて、ヨルダン川の水から上がるとすぐに、天が裂けて霊がご自分に降ってくるのをご覧になりました。 天からは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。 「天が裂ける」とは、天と私たちを隔てていた私たちの罪が、神の側から裂けてなくなったということです。 このイエス・キリストの十字架の死に与かることによって、すべての妨げがなくなった。 そこに聖霊が降る。 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がかかる。 この約束のうちに、私たちはあります。
「サウルの戦いとダビデの戦い」 サムエル記上 17章31~47節
場面は、ペリシテとイスラエルという国の戦いです. しかし、実は、神に挑み神の名を侮辱する者と、神との戦いでした。 自分の力だけに頼る者と、神への信頼だけに頼る者との戦いでした。 「この戦いは主のもの」でした。 少年ダビデは、人に対してではなく、神を侮辱する悪の霊に対する素朴な憤りと、神に対する信頼だけでペリシテの大男の前に出向いて行ったのです。 ダビデにとっては、兜も、鎧も、剣も、すね当ても、槍も必要ありませんでした。 ダビデが持って行ったものは、自分の杖と、滑らかな石5つと、石投げ紐と、神への信頼だけでした。 杖は、羊飼であるダビデが羊の群れを追うためのものです。 石や石投げ紐も、羊を守るために普段使っているものです。 ダビデは、自分に勝ち目があるかとか、無謀な戦いではないかとか一切考えていません。 これは、神の戦いである。 神が働き、神がなされることである。 「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からもわたしを守ってくださるにちがいありません。」 この信仰だけで出向いて行ったのです。 このダビデの戦いは、あっけない結末でした。 石投げ紐を振り回して投じられた石が、大男の額を打って倒した。 イスラエルに勝利をもたらしたのです。 しかし、ダビデの戦いはそれで終わりません。 ここの戦いは、神の羊の群れであるイスラエルの民を、悪の霊である獅子や熊の手から日常生活の中の戦いによって守ったという出来事でした。 神は、このダビデの素朴な信仰を受け入れてくださって、「主の戦い」としてくださった。 そのために、ダビデは選ばれ、その後のイスラエルの王として戦いを歩んでいくのです。
ここには、もうひとりの戦いがあります。 イスラエルの王であったサウルの戦いです。 「そのすべての持ち物を滅ぼし尽くせ」という主の命令に、良い物を残し、値打ちのない物だけを滅ぼし尽くした。 良い物を主のみ前にささげるようにという兵士のすすめに、神のみこころを少し曲げてしまった。 サウルのもとから、主の霊が離れていったのはこの時からでした。 「主の霊はサウルを離れ、悪霊が彼をさいなむようになった」とまで書かれています。 ぺリシテと戦うどころではなかったのかもしれません。 神にはみこころがあって、サウルを選ばれたのです。 私たちも同じです。 神の期待があって、私たちを招いてくださったのです。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだのである。」とイエスは言います。 問題は、その次です。 それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言っています。 このイエスの約束の中に、私たちはあります。 ですから、私たちは、恐れることも、傲慢になることもありません。 ただ、主の戦い、神の救いの業のためです。 サウルも少年ダビデの素朴な信仰に再び触れることができました。 結果は、自分が王であるイスラエルの勝利となりました。 しかし、サウルの本当の勝利は、これ以降の歩みであった筈です。 イスラエルの初代の王サウルとしての選びは、神のみ心のためであったはずです。
私たちは、主の思いと人間からでる思いが真っ向からぶつかる正念場に、いつも屈してしまいます。 ダビデの、サウルの、また私たちの戦いがあります。 しかし、神は私たちのそのままの信仰を受け入れてくださって、選んで、期待して、約束の中に生かしてくださっています。 私たちの信仰は、ただ神の恵みだけによって与えられているものです。 神が、私たちを離れることは決してありません。 いつも、私たちの方から主を捨てて、離れてしまうのです。 主の姿を見失うことなく、神のみこころだけに留まり続けることを願います。
「神の家を建て上げる仕事」 コリントの信徒への手紙一 3章10~17節
パウロは、家の天幕づくりの職人として生計を立てていました。 伝道者としての自分の姿を、「熟練した建築家のように土台を据えました」と表現しています。 家の建築でもっとも大切なことは、土台を据えることである。 基礎を据えることである。 パウロは、コリントの地にイエス・キリストという土台を据えた。 教会は、この土台のうえに建て上げられると言ったのです。 パウロは、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。 ・・・・・わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15:18-19)とだけ言っています。 コリントの地で、キリストが働かれたのだ。 私の働きはキリストのものであって、私は用いられたにすぎない。 ですから、パウロは『神からいただいた恵みによって』、熟練した建築家のようにイエス・キリストという土台を、コリントの教会に据えることができたと確信したのです。
更に、パウロは、その土台のうえに建てる仕事について、いずれ問われると言います。 「だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。」 それが、「終わりの日」には、火によって吟味されると言います。 どのような物を使って、またどのような仕事をして家を建てたとしても、最後の時には火の中を通って吟味される。 パウロは、このことを隠さないで、避けないで、単刀直入に語ります。 「見よ、主は火とともに来られる」と預言されている通りです。 神の裁きは必ずあります。 そのために、イエス・キリストの十字架の死を用意してくださったのです。 パウロが土台を据えたというのは、この最後の裁きから救われるために備えられた、イエス・キリストの十字架のことです。 「一人も滅びないで、永遠の命を得るために」ささげられた神の愛のことです。 パウロは、この火による厳しい最後の吟味のうえに建つことをためらいません。 なぜなら、同時に、一人も命を失わないで生きるようにと願う神の救いのみ心の上にも立っていると確信していたからです。
神のみ心に適うものだけが、生き残る。 私たちは、この神の最後の点検をだれ一人例外なく受けるのです。 土台であるイエス・キリストの十字架の愛によって、すべての者が見直されるのです。 私たちは、この土台に立つことを恐れてはなりません。 この土台は、十字架につけられたイエス・キリストの愛です。 この土台の上に建つものは、人間がつくろうとしてもつくり上げることができません。 土台そのものであるイエス・キリストだけがつくり上げるもの、土台からしか生まれてこないものです。 この土台のうえに、自分の好みによって建てるのではなく、『神からいただいた恵みによって、神のみこころ通りに、神の憐れみによって』建て上げられると、パウロは言っているのです。 パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と迫ります。 あなたがたは、神の神殿である。 いつでも神に出会うことのできる場を、既に神から与えられている。 神の霊が、あなたがたの内に住んでいる。 いつでも神を礼拝することができることが、私たちの最大の祝福なのです。 それが、神の神殿、神の霊がうちに住んでいるということです。 神が、私たちの内を出入りして、生きて、働いておられる。 ですから、神が、礼拝を通して私たちを求めて、招いておられるのです。 これに、私たちが応えているかということです。 「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と、パウロは確信しています。
「神の愛に生きる者とその愛を評価する者」 ヨハネによる福音書 12章1~8節
イエスは、社会からはみ出した人々とともに食事をされることを喜びとされました。 しかし、この箇所の食事はイエスが招いた食事ではありませんでした。 「イエスのために」用意された、ひとつの家族の家の夕食でした。 時は、いよいよイエスが十字架に架けられようとしている、過越祭の六日前のことでした。 そこにいたのは、病気であったラザロとその姉妹であるマルタとマリア、招かれたイエスとその弟子たちでした。 ラザロは死んで墓に葬られて、イエスに「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 出て来なさい」と言われて、「手と足を布で巻かれたまま、顔を覆いで包まれたまま」連れ戻された人物です。 あまりの驚きの出来事に、物珍しさから、群衆が、ひと目その復活したラザロを見ようと押しかけて来たほどでした。 このことで祭司長たちは、益々、不思議な業の証人となったラザロとともにイエスを殺そうと企てたと記されています。
これから十字架という自分の「葬りの日」を迎えようとする差し迫った時に、イエスは身の危険を感じながらも時間を費やして、ラザロというひとりの人物の病気と死に関わろうとされました。 「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子であるわたし自身が栄光を受けるためである。 あなたがたが信じるようになるためである。」と語られたのです。 そのことに気づかないマルタでした。 イエスが墓をふさいでいる「その石を取りのけなさい」と言われたマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と、イエスの言葉を拒んだのです。 目に見える状態からは、当たり前の言葉です。 このマルタの常識を越えて、その兄弟ラザロはよみがえらされたのです。 ですから、その感謝の食事のために無我夢中で台所に立っていたのでしょう。 しかし、マリアのふるまいは違っていました。 石膏に入った高価なナルドの香油を持ってきて、その壺を割ってイエスの足に香油を塗った。 その足を自分の髪の毛で拭ったのです。 マリアはどうしても、イエスの足に大事に蓄えてきたナルドの香油をすべて注ぎたかったのです。 そのために、過越の祭りの六日前のこの時に、石膏の壺を割ったのです。 イエスの「葬りの日」が近いことを読みとり、精いっぱいのふるまいをもって、イエスがメシア、救い主であることを告白したのです。 マリアが注いだ精いっぱいのふるまいの「香油」の香りで、その家はいっぱいになったと記されています。 マリアは、ご自身の命をささげようとしておられるイエスの十字架のかんばしい香りを、この時、感じ取っていたのでしょう。 そのイエスの愛に応えようとしたマリアのふるまいが、その家をイエス・キリストの十字架の愛のかんばしい香りで満たしたというのです。 そのマリアのふるまいを、イエスは「わたしの葬りのためであった」と、受け止めてくださったのです。
このマリアのふるまいが、もう一人の人物の姿もまた浮き彫りにします。 イエスの弟子、イスカリオテのユダです。 ユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と酷評します。 ユダは、マリアの愛と献身のふるまいを金額に換算します。 イエスの命さえ、銀貨三十枚と換算し売り渡します。 ユダにあるのは、自分の主張に基づいて、正しいか誤っているか、損をしているか得をしているかだけです。 そこには、「神の愛」がないのです。 自らささげるという「ふるまい」はないのです。 マリアは、このときにしかできない無駄遣いをしたのです。 その時できる精いっぱいのものをささげたのでした。 イエスは、この精いっぱいのマリアの愛を喜んで受け取ってくださったのです。
「エリシャのとりなしの祈り」 列王記下 6章15~23節
アラムという国とイスラエルが争っていた時のことです。 アラム軍は、用意周到な戦いの準備をします。 ところが、アラム軍が行くところすべてに、イスラエル軍が警戒をして待っている。 味方にスパイがいると疑うほどでした。 イスラエルの中に、神のように見抜く力をもっていた神の人エリシャがいたことを知らされたアラムの王は荒れ狂い、たったひとりエリシャのためだけに、軍馬、戦車、それに大軍を差し向けたというのです。
朝早く起きて、その光景に気づいて慌てた召使が「どうすればいいのですか」と主人エリシャに尋ねます。 この時と場に及んで、エリシャは召使に「恐れてはならない」と語り、主に祈ったと記されています。 エリシャは、特別な能力を持っていたのではない。 主に対する変わらない信頼と忠実な祈りがあった。 今、召使が目の当たりにして恐れていることを、すでに主との交わりのなかに読みとっていたのかも知れません。 主イエスもまた、弟子たちによく「恐れてはならない」と言われました。 イエスは、もっと自信を持ちなさいというような道徳で言われたのではありません。 恐れている自分を見つめなさい。 そして、恐れている自分の前にいるイエスご自身を見つめなさいと言われたのでした。 まったくイエスを見ることのできない真の自分の姿を見つめなさい。 その神のもとから離れてしまった自分の罪を担ってくださるイエスご自身を見つめなさいと言われたのです。 召使にとっては、この時こそ自分を見つめて主に祈る機会をいただいた時なのです。 そうした主の招きに応えようとしないで、目に見えるものに恐れ、慌ててしまう。 その召使にエリシャは、「恐れてはならない、見るべきものだけを見なさい。 わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い。」と言って、「彼の目を開いて見えるようにしてください」と主に祈ったのです。
アラムの戦いは、イスラエルとの戦いではありませんでした。 神の人エリシャに働く神との戦いでした。 アラムの王は神の働きが見えていないので、エリシャを捕らえてしまえばすべてが解決すると思った。 だから大軍を差し向けたのです。 しかし、エリシャには共に働いておられる主が見えているので、「この異邦の民を打って目をくらましてください」と祈った。 この祈りは、彼らを打ち殺すためではありません。 彼らが進んで行こうとしている道を、彼らに示すためです。 ですから、エリシャは敵である彼らのためにも祈ったのです。 「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください。」 エリシャは、自分の召使のためにも、またアラム軍のためにもとりなしの祈りをささげたのです。 私たちの肉の目で見える世界と、神が働かれる見えない世界はまったく別の世界のものではありません。 神の働きは、私たちの日常の中に起こっているのです。 私たちが求める祈りによって、その働きが呼び起こされています。 私たちが求め、叫ぶ祈りに応えて祈る主イエスの祈りに支えられて初めて、見えていないものが見えるようになるのです。 「恐れてはならない」と語る者がいる。 天の軍勢が力強く取り囲んでいる現実が見えている者がいる。 恐ろしい、立ちすくむというような所においても、主なる神との交わりに留まり続ける者がいる。 私たちに与えられている務めは、肉の目でしか見えない人のために、「恐れてはならない」と語り、「目を開いて見えるようにしてください」と祈ることではないでしょうか。 このままいけば滅んでしまう人のために、「主に向って」その人のために、「目を開いて見えるようにしてください」と祈ることではないでしょうか。
「人間から出たものと神から出たもの」 使徒言行録 5章33~42節
ペトロとほかの使徒たちが、多くのしるしと不思議な業を民衆の間で行っていました。 民衆の賞賛を得て、益々イエスを信じる人の数が増えてきていました。 祭司たちは「ねたみに燃えて」、その使徒たちを捕らえて牢に入れていたのです。 イエスを十字架につけた報復があるかもしれない。 民衆を扇動するかもしれないと思ったからです。 自分たちの身を守るためです。 牢にはしっかり鍵をかけて、牢の戸の前には番兵を立たせていたほどの念の入れようでした。
神は、その閉じ込められていた使徒たちの「牢の戸を開けた」。 戸を開けただけでなく、牢の外に「連れ出した」。 連れ出しただけでなく、「行って神殿の境内に立ちなさい。 この命の言葉を残らず、民衆に告げなさい。」と命じられたのです。 使徒たちは、ただ神の声が告げた通りに従っていただけなのです。 激しい「ねたみ」と「怒り」が渦巻く中にあっても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」 「神は、あなたがたイスラエルが木につけて殺したイエスを、救い主として復活させられました。 私たちは、この事実の証人です。」と、相手が大祭司であっても一貫して語ります。 その時の状況を考えれば、聖霊を通して使徒たちを導いて「牢の戸を開けて、牢の外に連れ出して、語らせた」神から出た言葉としか言いようがありません。
今にも使徒たちが断罪されようとしているその時に、どんでん返しが起こったと聖書は言うのです。 ひとりの律法学者が立ち上がります。 「ほうっておくがよい。 あの計画や行動が人から出たものなら、必ず自滅するだろう。 しかし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」 こう語った人物は、ファリサイ派に属する律法学者ガマリエルでした。 あのパウロがこの人物のもとで「律法について厳しい教育を受けた」と言っている、ファリサイ派の権威ある人物でした。 この発言をどのようにお受け取りになるでしょうか。 「神の怒りに任せなさい」と聞こえて来ないでしょうか。 「もし、神から出たものであるなら、彼らを滅ぼすことはできない。 もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」という言葉に、神への恐れを感じないでしょうか。 このガマリエルの発言によって、使徒たちは釈放されたのでした。 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」という言葉こそ、律法学者たちが語っていた教えです。 使徒たちの教えは、それと何ら変わることはありません。 異なるのは、使徒たちはその言葉通りに神に聴き従っていたということです。 一方、律法学者たちは神のみこころを思わず、自分の身を守ることに汲々として、「ねたみによって」、「怒りによって」使徒たちを捕らえて殺そうとした。 その使徒たちを、「牢の戸を開けて、連れ出して、命の言葉を語る」ように導いたのは、神です。 使徒たちだけに、神は働かれたのではない。 捕らえて殺そうとしていたファリサイ派の中心人物でさえも用いて、釈放させたのです。 単なる釈放ではない、次なる所に立たせるための解放であったのです。 「ねたみ」や「怒り」だけに動かされる者から、恐れも打算もなく「神の事実の証人」として大胆にされた使徒たちでした。 律法を究めた人物も越えて、神のみ声だけに耳を傾けて「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶようになった」使徒たちでした。 「毎日、神殿の境内や家々で、絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせた」使徒たちでした。 すべて、聖霊によって与えられた変貌です。 変えられた使徒たちの姿はまた、私たちの姿であるはずです。 「連れ出されて、この命の言葉を残らず、民衆に告げなさい」と託された使徒たちの姿は、私たちの姿であるはずです。 この使徒たちと共に、霊なる力に身を委ねていきたいと願います。
「いつまでも残るもの」 コリントの信徒への手紙一 13章8~13節
13章は、愛の賛歌と呼ばれています。 「愛」を、「愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と表現しています。 もし、このパウロが語る愛の賛歌が、人間の理想とする愛を語っていると言うなら、人間がつくり上げることのできる愛です。 単なる道徳です。 このみことばだけを取り出して、私たちは受け取ることができません。 パウロは、コリントの教会に向けて、教会がつくり上げられるためにはたくさんの霊の賜物が与えられている。 その霊の働きが、キリストの教会をつくり上げるのだと戒めてきました。 そのパウロが、「わたしはあなたがたに、もっと大きな賜物を受けるように最高の道を教えます。」と語ったみことばが、「どんなに、霊の賜物である預言を語ろうとも、神についての知識に通じていたとしても、信仰をもっていようとも、よい行いに身をささげたとしても、愛がなければ無に等しい、何の益もない。」というものでした。 パウロの言う「愛」とは何でしょうか。
パウロは、「愛する私」がではなく、「愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言います。 「愛する私」がではなく、「愛」が「忍耐強い。 情け深い。 ねたまない。 自慢せず、高ぶらない。」と言うのです。 「神の愛」が現わされた「イエス・キリストの愛」が「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」と言っているのです。 私たちに等しく降り注がれ続けている「神の愛」が、「すべてを忍び、すべてを耐える」と言っているのです。 私たちが働いているのではない、「神の愛」そのものが働いているのだと言うのです。 愛は、神から出てくるものです。 神からいただくものです。 ですから、パウロは、この「愛」は決して滅びないと言います。
なぜ、パウロは、霊なる賜物として与えられている様々なものは「廃れる」と言うのでしょうか。 今、賜物を与えられて見えているというものは、「まだその一部分である。」 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」に過ぎない。 しかし、今は、部分的にしか見えていなくても、完全なものが来たときには、「顔と顔とを合わせて見ることになる。 部分的なものは廃れて、はっきり見えるようになる」と言います。 どのようにはっきり見えるようになるのかというと、「はっきり知られているようにはっきりと知ることになる。」と言うのです。 どういうことでしょうか。 私たちが、神にはっきりと知られているように、私たちが今度は、神をはっきり知るようになる」と言うのです。 私たちは、すでにはっきりと知られている、神に愛されている。 その私たちがはっきりと神に愛されていることを知ることが、神を知るということだと言うのです。 神に知られている、愛されていると知ることができたのは、イエス・キリストがこの地上に現れてくださったからです。 十字架によらないで、またイエス・キリストに救われることなく、「神の愛」を知ることも、伝えることもできません。 ですから、パウロは「愛が、すべてを忍び、すべてを耐える」という間に、「すべてを信じ、すべてを望み」という「信仰」と「希望」をはさんだのです。 パウロは「神の愛」を、この信仰と希望とともに語り、これらと無関係に「神の愛」を語らないのです。 この「信仰」と「希望」に深く結びついた「神の愛」を最高の道として、コリントの教会の人たちに説いたのです。 この三つの神との関係が永遠に残る。 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中でも最も大いなるものは、愛である。」と言っているのです。
「救いの衣、恵みの晴れ着」 マタイによる福音書 22章1~14節
イエスは、「天の国は、ある王がその王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われます。 天の国は、すっかり食事の用意が整った食卓である。 ただ、招いた客が来るのを待っている食卓である。 それも、王がその息子の花嫁を迎えるために用意した食卓である。 「天の国には、準備を整えて招いてくださる王という方がいる。 その方は、自分の息子が花嫁を迎える婚宴を喜んでおられる。 その喜びを分かち合うための食卓である」と、たとえは言います。 招かれた者は、ただその食卓に行くことだけです。 二度も丁寧に招かれたのに、食卓に招かれた人々は「来ようとしなかった。」 その招きを「無視した。」 一人は畑に仕事に行ってしまった。 一人は、商売に出かけてしまった。 他の人々は、招きを伝えに来た王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったと言います。 このたとえが言う王とは、父なる神です。 王子とは、主イエス・キリストです。 招かれた人々はイスラエルの民です。 家来たちとは、神のもとから遣わされた預言者たちです。 旧約聖書の歴史を、このたとえは語っています。 イスラエルの民は、何度も招かれたのに、この世のものに目を奪われ、神の招きが分からない。 神の使いを殺してしまう。 イスラエルの昔の話ではありません。 これこそ今もなお、イエスを通してなされる神の招きを拒む、イエスを十字架に打ち続けている私たちの罪です。 これが、人間の歴史の現実です。 しかし、幸いにこのたとえは、新約聖書の福音を語ります。 父なる神は、それでも招くことをやめません。 「町の大通りに出て行き、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい。」 問題は、この招きに対する私たちの備えです。 断る理由を考えるのでしょうか。 招く者を傷つけ、殺してしまうのでしょうか。
イエスは、ここで大事なことを言います。 婚礼の礼服です。 思いがけなく招かれた異邦の地にあった私たちキリスト者に対する警告です。 王は招いた客のために、婚礼の礼服を用意しています。 王は、この用意された恵みの礼服を着ないで食卓についている者に「友よ」と呼びかけます。 「どうして、私が用意した礼服を着ないでここに入って来たのか。」と言われたのです。 問題はここです。 王が「友よ」と呼びかけて「どうして用意された礼服を着ようとしないのか」と尋ねているのに、彼は「黙っていた。」 彼は黙って、王の呼びかけに答えなかった。 私たちは、神の前に出るにふさわしい礼服など、到底準備することなどできません。 どのような服を着て良いのかも分かりません。 神が一緒に喜びを分かち合うために準備してくださった食卓です。 その婚礼にふさわしい、神でしか用意することのできない礼服です。 私たちは、その招きに応えて出かけて行って、用意された晴れ着を身にまとってその席に着くことだけです。 そこには、神との交わりという永遠の喜びが準備されています。 この招きを拒むことは、大きな恵みの損失です。 今までの自分を変えないで、神の用意された衣を着ようともしないなら、婚礼の食卓にふさわしくない。 自分の衣を脱いで、砕かれて、神の祝宴に与かるようにとたとえは語っています。 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」とイエスは言われるのです。 神のみ子であるイエス・キリストが、自分の民を花嫁として迎える準備ができたという新約聖書の福音が語られています。 それと同時に、私たち招かれた者の備えが語られているのです。 「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。 主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」(イザヤ61:10)と言っています。 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ3:27)とまで言われています。
「私たちの生涯を巡る主の言葉」 イザヤ書55章1~11節
紀元前6世紀に、イスラエルはバビロニアという強国に滅ぼされました。 主だった人びとがバビロニアの首都バビロンに連れて行かれたのです。 国は滅ぼされ、信仰の中心であったエルサレム神殿も破壊されました。 その希望を失くし、囚われの身で過ごさなければならなかったイスラエルの民の一人イザヤに、主の言葉が臨んだのです。 その締めくくりの「主の言葉」が、この55章です。 主が力強く招いて呼びかけておられるのは、「渇きを覚えている者」、「銀を持たない者」、「穀物を求めている者」です。 「水や穀物を買うのに、銀をもっていない人々」に呼びかけておられます。 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」 「穀物を求めて、食べよ。」 「来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」と言います。
私が「主の僕」という代価を払う贖いを用意した。 この贖いによって、あなたがたの罪が赦されて、もとのエルサレムに戻ることができるように準備された。 だから、あなたがたは何も持たないで「貴重な水、大事な穀物、ぶどう酒や乳」を求めて、わたしのもとへ来なさい。 主の言葉は、「求めて、来なさい」と言われる。 私が用意しているものを代価を払うことなく、尋ね求めて「来るがよい」、「食べよ」、「得よ」と言われているとイザヤは言います。 主に招かれる私たちの唯一の資格は、ただこの飢えと渇きという求めだけです。
主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言っておられます。 先ず、主の言葉を求めて、主のもとに来ることです。 「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。 聞き従って、魂に命を得よ。」と主の言葉が響きます。
イザヤが言う主の言葉は、「エルサレムに帰れ」ということでした。 そのふるさとは荒れ果てて、戻っても食べることも飲むこともできないかもしれない。 それでも、イザヤは主の言葉に聞き従えば「良いものを食べることができる。 その豊かさを楽しむことができる。」と言います。 主の思いは、私たちが思い描いているものとは異なる。 主の道は、私たちが歩もうとしている道とは異なる。 そうであるけれども、イザヤは、この遥かに高い主の思いと、私たちの思いをつなぐものがあると言います。 それが「主の言葉」である。 雨や雪が天から一方的に降り注いで、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせる。 それらはむなしく天に戻らない。 それと全く同じように、「主の言葉」が私たちに一方的に降り注ぐ。 私たちに尽きない憐れみを与え、豊かな赦しを与える。 なぜでしょうか。 それは、『私』の口から出る『私』の言葉は、むなしく、『私』のもとに戻らない。 それは、『私』が望むことを『私』が成し遂げるからである。 『私』が与えた使命を必ず、『私』が成し遂げるからだと約束してくださったからです。 主イエスもまた、父なる神と全く同じように言います。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 主の言葉は、最初からあったものです。 それを私たちがイエス・キリストという姿を通して、聞いて、よく見て、手で触れて知らされたものです。 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。」 このみ言葉は、私たちの生涯にわたって途切れることなく、日毎に語られ続けられているものです。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」 なぜなら、主の言葉は神と私たちをつなぐものだからです。
「神の前の豊かさ」 ルカによる福音書12章13~21節
群衆の中のひとりが、イエスに近寄って来て「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言います。 先生と呼ばれていた律法の専門家は、社会の秩序を守る重要な役割を担っていました。 相談を持ちかけられたイエスは、彼が願い求めようとしているものを見越して、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と彼に語ってから、今度は群衆に向けて「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われたのでした。 彼は、律法に定められた自分の「遺産」を正しく求めただけかもしれない。 しかし、イエスは「有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできないから」、「用心しなさい」と言われたのです。 イエスは、「財産」とは異なる「人の命」という言葉を用いて、神に与えられた「命」を語ろうとします。 その「人のいのち」を、私たちはしばしの間だけ、自分で自由にすることができると錯覚してしまうのです。 しかし、その命の「初め」と「終わり」に、「人の命」はまったく違ったところから訪れる。 その厳粛さに立たされます。
イエスはそう語ってから、ひとつのたとえを語られました。 ある金持ちの畑が豊作であった。 作物をしまっておくところがないと悩むくらいに、収穫を得ることができた。 今の倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに蓄えておこう。 そうすれば、何年も生きていくだけの蓄えができる。 食べたり飲んだりして楽しめる。 そう自分で言ってやると金持ちが言ったというお話です。 語られた「作物」、「倉」、「自分」という言葉の前に「私の」がついている。 「私の作物」、「私の倉」、「私の魂」です。 イエスは、自分のためのものだと言っている有り余るほどの物を、「貪欲」と呼んで「注意を払いなさい、用心しなさい」と言われたのです。 「貪欲」は、いつしか自分一人で生きて行くことができると、私たちを神のもとから離れさせる。 「パンに飢える時でもなく。水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きの時」となってしまうのです。 神との交わりを失っていくことが、私たちの永遠の滅びです。 貪欲はこの「命」を滅ぼすから、用心しなさいと言うのです。 これほど地上の生活には周到に準備するのに、なぜ「自分の命」の終りの備えを怠るのか、「愚かな者よ」とイエスは呼びかけているのです。
ペトロは、「生まれながら足の不自由な男に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせました。 地上の富は何もないが、私には「人の命」を立ち上がらせるイエス・キリスト。 その「よみがえりの命」が宿っている。 その「命」がみ言葉となったイエス・キリスト。 その名によって立ち上がり、歩きなさいと言いました。 神によって与えられた神の前の豊かさの喜びが、ペトロをそのように駆り立て語らせたのではないでしょうか。 形が変わる、あるいは突然失われてしまうようなものにしがみついていないで、変わることのない富を神の前に積みなさい。 そこに、あなたの心がある。 神の喜びを私の喜びとするあなたの心が、神の前にある。 神から与えられている豊かなみ言葉を蓄えましょう。 神から与えられている豊かな神の恵みに気づいて蓄えましょう。
« Older Entries Newer Entries »