「別の弁護者、真理の霊」 ヨハネによる福音書14章15~21節
弟子たちは、これからイエスがいなくなると告げられたから、また、自分たちがイエスに従っていくことができなくなると言われたから不安を抱いたのです。 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。 どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねたのです。 そのような彼らに、最後の晩餐の席で、イエスは「あなたがたは、わたしを愛するようになる。 わたしの掟を守るようになる。 それは、わたしが父の家に行ってあなたがたのために場所を用意し、準備ができたなら戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」からだ。 そして、「別の弁護者、真理の霊があなたがたに用意され、与えられる」からだと言われたのです。 「別の弁護者」とは、いったい何でしょうか。 この言葉は、「そばにあって呼んでくれる者」という意味です。 これまで、「弁護者、慰め主、助け主」などと訳されてきました。 イエスは最後の食事の席で、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている。 あなたがたの心は悲しみで満たされている。 しかし、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。 わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。 わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 この真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と言われたのでした。 ご自身の十字架の後には、ご自身に代わってこの「別の弁護者」が弟子たちのそば近くにあって導くと、最後の晩餐の時に言われたのでした。
この「別の弁護者、真理の霊」は、父なる神のもとから私たちのところに遣わされます。 神に属するもの、聖なる霊です。 いつまでも、私たちと一緒にいてくださいます。 そして、イエスがこの地上で語られたみことば、イエスがこの地上でなされたみわざ、その真理をことごとく悟らせてくださいます。 この世の人々は、この霊を見ようともしない、知ろうともしないので受け入れられない。 しかし、あなたがたは違う。 「あなたがたはこの霊を知っている」と言います。 なぜなら、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と言います。 父のもとから遣わされるこの「霊」によって、見えなくなったわたしを見ることになる。 知ることになる。 私のことについてすべて悟らせてくださる。 生きて働くわたしを見ることになる。 ですから、心配することはない。 「あなたがたは、わたしを愛するようになる」、「わたしの掟を守るようになる」と言われたのです。 この霊が働く時が始まった、この霊が導く時代に入ったと伝える出来事がペンテコステの出来事でした。 主イエスは、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。 わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と言います。 あの弱々しかった弟子たちが突然、変わることができたのは、最後の晩餐で自分たちの足を洗い、この「そばにあって呼んでくれる者」、「霊」を遣わすと語ってくださったイエスの約束があったからです。 かつてはまるで分からなかったイエスご自身のみことばとみわざを思い起こさせてくださったからです。 復活させられて生きて働いておられるイエスを体験することができたからです。 ですから、イエスは、神のもとから「別の弁護者、真理の霊」を遣わすから、「あなたがたは、見えなくなったわたしを見ることになる。 知ることになる。 わたしを愛するようになる。 わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と言われたのでした。 この小さな姿に、主イエスが現れると言うのです。
「霊的な家に造り上げられる」 ペトロの手紙一2章1~10節
主イエスが十字架に処刑された際には、自分たちの身にふりかかる危険を素早く察知して、主イエスのもとを離れてしまった弟子たち。 自分たちのいる家の部屋に鍵をかけて閉じこもっていた用心深い弟子たち。 そのような弟子たち一同が、突然、イエスの十字架と復活の出来事の証し人として、自らの言葉で語り始めました。 あれほど、イエスに頼り切っていた弟子たちが、自ら語り始めました。 ほかの国々の言葉など知るはずもない弟子たちが、それらの言葉を用いて語り始めたと聖書は記しています。 そうさせたのは、弟子たち自身が聖霊に満たされたからです。 すべての準備がなされ、万全の体制ができあがったから、彼らは自信をもって語り始めたのでもありません。 「神の霊」が弟子たちに語らせたのでした。 閉じこもっていた部屋の鍵を開けて外に向かわせたのも、「神の霊」による働きであったのです。 このペンテコステの出来事は、この地上での主イエス・キリストの働きが、聖霊による弟子たちの働きへと移った瞬間でした。 「主イエス・キリストのこの地上での旅の終り」が、同時に、よみがえられた主イエスの霊とともに歩む「神の民の旅の始まり」となったということでした。
こうして始まったこの地上でのキリスト者の群れの歩みは、困難を極めていきます。 紀元一世紀末のキリスト者は、その当時の社会一般から秩序を乱す危険な存在として烙印を押されていました。 ペトロがこの手紙のなかで「生まれたばかりの乳飲み子」のようだと言っているのは、まさしく生まれたばかりのキリスト者たちの群れ。 各地で、社会的な排斥と非難の中に閉じ込められ、その厳しい現実に直面させられている生まれたてのキリスト者たち。 その信仰をペトロは危惧をして、励ましの手紙を送っているのです。 部屋に鍵をかけて閉じこもっている、まさに生まれたての私たちに、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とペトロが勧めます。
ペンテコステの出来事は、神の霊の突然の働きでした。 弟子たちの準備とか、弟子たちの心の状態とかにはまったく無関係に、ただ神の霊の働きに導かれて起きた出来事ではなかったでしょうか。 弟子たちは、神の霊に満たされたからこそ、神がともにいてくださる、守ってくださると体験することができました。 この霊の働きを知ることができたからこそ、人に対する恐れを捨て去ることができた、外に向って鍵を開けることができたのではないでしょうか。 ですから、ペトロは、困難を極めている生まれたてのキリスト者の群れに、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさいと勧めるのです。 この「霊の乳」を飲んで成長し救われるようになるために、「主のもとに来なさい」と言います。 人によって捨てられたものが、神によって「選ばれた、尊い、生きた」ものとされたお方のもとに来なさい。 その上に、あなたがた自身の「霊的な家」をつくり上げられるようにしなさいと勧めるのです。 イエス・キリストのもとに行って、イエス・キリストの上にあなたがた自身の「霊的な家を造ってもらいなさい」と言っているのです。 人の目には、まったく意味がないと捨てられたものが神に尊ばれるものになる。 ですから、「決して失望することはない」と言うのです。
私たちは決してひとりではありません。 神とともにあります。 神に選ばれた者とともにあります。 私たちは、人に捨てられましたが、神に選ばれ、尊ばれ、生かされた唯一の生きた石、主イエス・キリストの上につくり上げられた霊の家に結びつけられた者なのです。
「母を動かす神の愛」 ガラテヤの信徒への手紙4章21~26節
パウロは、この箇所でふたりの子どもの母を語っています。 創世記を見ますと、アブラハムに「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と主は約束されました。 しかし、いつまで経ってもアブラハムとその妻サラには、子どもが与えられませんでした。 約束の地カナンに入って早や10年が経っています。 待ちくたびれて、ついにサラは主の約束があったにもかかわらず、ひとつの手立てを夫アブラハムに進言します。 サラの女奴隷であるハガルを用いて、子どもをもうけて欲しいと願ったのでした。 主の約束を信じない、早まったサラの思いでした。 そこまで妻が言うのならと、アブラハムはそれを受け容れてしまうのでした。 サラの思惑通り、ハガルはイシュマエルを産みます。 パウロは、この子を「肉によって生まれた子」と表現しています。 すると今度はそのハガルが、主人であったサラを軽んじるようになったと記されています。 人の浅知恵で早まったサラ、その誘いにのったアブラハム、立場が代わり高慢になったハガル、それぞれに人間の弱さが映し出されています。 事はそれだけでは終わりません。 主は、かねて言われた通り約束を果たそうとします。 「来年の今頃、あなたの妻サラに男の子が生まれる」と主が告げると、アブラハムは「百才の男に子供が生まれるだろうか、九十才のサラに子供が産めるだろうか」と疑います。 これを聞いていたサラも「ひそかに笑った」とあります。 信仰の人アブラハムも、それに従ったサラも主の約束は起こり得ないと疑った、信じていなかったのです。 しかし、主は約束された通り、アブラハムとサラにイサクを与えられたのでした。 その子を、パウロは「自由の女から神の約束によって生まれた子」と表現しています。 サラは、このままいけば、ハガルが産んだ子イシュマエルが我が子イサクの妨げになると予感したのでしょう。 再び、「あの女とあの子を追い出してください」とアブラハムに進言したのです。 人は身勝手なものです。 アブラハムは、どちらの子も自分の子であったから非常に苦しんだとあります。
しかし、主はそれぞれの弱い人間に応えておられるのです。 アブラハムには、「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。 すべてサラの言うことに聞き従いなさい。 あなたの子孫は、サラの子イサクによって伝えられる。」と約束を告げたのでした。 しかし、その一方で、「あの女奴隷の息子も一つの国民の父となる。 彼もあなたの子であるから。」と告げられたのでした。 アブラハムはやむを得ず、パンと水の入った革袋をハガルに与え、イシュマエルを連れ去らせたのでした。 ついに革袋の水がなくなり息子の死を覚悟したハガルに、主は「ハガルよ、どうしたのか。 恐れることはない。 神はあそこに、今にも死にそうになっている子供の泣き声を聞かれた。 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。 わたしは、必ずあの子を大きな国民にする。」と言われたのです。 捨てられた者、苦悩の中にいる者とともに私はいる。 新しい道を備えると主は語られたのです。 主は、イサクの神でもあるとともに、イシュマエルの神でもありました。 問題があったかもしれないそれぞれの母を動かして、主はその子を憐れんでくださっている。 それぞれに、主の約束を語り、苦悩を憐れみ、新しい道を備えてくださるのです。 「肉によって生まれた者」、「古い律法の契約で縛られてしまっている奴隷の子」でも、イエス・キリストの十字架という愛を私たちに与えて、主は「霊によって生まれた者」、「律法から解放された自由の子」、「新しい約束によって生まれた子」にされる。 ですから、もう二度と、奴隷のくびきに繋がれてはならないとパウロは強く主張しています。
「十字架の旗のもとに」 マルコによる福音書1章16~20節
イスラエルの民がエジプトの奴隷の身から解放されて、荒野をさまよった時の群れは、壮年男子だけで60万人であったと言われています。 その家族を含めると、どれほどの多さであったかと思わされます。 そのおびただしい数のイスラエルの民が、モーセを先頭にして進んで行った。 その中には様々な部族が含まれ、それぞれの部族の旗のもとに宿営し、また部族ごとに、家族ごとに行進して行ったと記されています。 しかし、その群れも最初はアブラハムというひとつの家族から出発したのではないでしょうか。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」と、主のみことばがアブラハムにかけられた時が始まりでした。 それに、アブラハムが主の言葉に従って旅立ったからではないでしょうか。 同じように、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたイエスによって、小さな群れが呼びかけられました。 漁師たちが網を打っている、網を手入れしている、あちらこちらに船が湖に浮かんでいる。 そのようなのどかな光景が拡がるその時に、4人の漁師たちが呼ばれました。 「わたしについて来なさい。 人間をとる漁師にしよう。」 すると、漁師たちは、「すぐに網を捨てた。 すぐにイエスに従った。 父や雇い人をそこに残して、イエスの後について行った。」と言うのです。 マルコによる福音書は、このわずかな5人の群れの誕生の出来事が、これから始まるイエスのガリラヤでの宣教の出発点であったと事実だけが語られているのです。 一人一人の漁師が名指しで招かれた。 「わたしの後について来なさい」という招きに、漁師たちはただ従った。 「人間をとる漁師にする」と語られた漁師たちが、自分の生活をそのまま残してイエスの後について行った。 驚くほどに、漁師たちの家庭や住まいや仕事などの事情については一切触れられることなく、ただイエスに従ったという決断の事実だけが語られているのです。 イエスはこれから始まる宣教の働きを証言する人、その働きを伝える証し人となる人を起こすために、その働きの最初に彼らを呼び集められたのでした。 イエスは、そのうちのひとりシモンに「ペトロ、岩」という新しい名前をつけ、このシモン・ペトロのうえに教会を建てると約束されました。 「終わりの日」まで、地上でのイエスご自身の働きのために「わたしの教会」を建てる。 このシモン・ペトロに代表される決断と信仰のうえに、イエス・キリストの教会が建つと言われたのでした。 最初は、4人の漁師だけであったかもしれない。 しかし、先頭を歩まれたのはイエス・キリストです。 その従い尽くしたその最後の場所が、思いもかけないイエス・キリストの処刑の場、十字架であったのです。 彼らは今までの服従に絶望し、十字架のもとを離れてしまった。 しかし、そこに父なる神はよみがえられたイエス・キリストを与え、復活の新しい命の姿を示し、遠大な救いのご計画であったことを彼らに知らせた。 あの最初の「人間をとる漁師にする」という招きは、この救いの働きの始まりであったと彼らに知らせたのでした。 私たちがもっているとばかり思っているものは、吹けば飛ぶような信仰です。 本当に軽すぎるくらいの決断です。 拙い信仰の告白です。 しかし、漁師たちの、また私たちのそのような信頼と決断を、主は憐れんでくださっている。 その憐れみをもって、私たちの信頼と決断の弱さ、乏しさ、醜さを補い覆ってくださっている。 ですから、私たちは自分たちの今の信仰や決断を大切にするのです。 互いの信仰に響き合い、声を合わせるのです。 4人の漁師たちにふさわしく、そのありふれた日常生活の中にまで入って来られて「人間をとる漁師になる」と呼びかけられたのです。 それと同じように、私たちにも最もふさわしく、ふさわしい仕方で十字架のもとへと招いてくださるのです。
[fblikesend]祈りなさい、愛し合いなさい、もてなし合いなさい ペトロの手紙一4章1~11節
「キリストも、罪のためにただ一度だけ苦しまれました。 正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。」と、ペトロはこの手紙で言っています。 正しい人が、なぜ正しくない者たちに代わって、苦しまなければならなかったのでしょうか。 ペトロはその問いに、「あなたがたを神のもとへ導くためです」と答えます。 罪をもったままの私たちが、神の前の裁きに置かれることがないようにするためです。 私たちが、罪の前にまったく無力であると分かっておられるからです。 正しくないすべての人たちが、この神の愛の対象であったと知らされたからには、もはやもとの古い生活には戻れないでしょう。 散々いろいろなことをしてきたのだから、「もうそれで十分です」とペトロは言います。 この罪にまみれた古い生活の中でキリストを知ったその後の生涯を、「肉における残りの生涯」と表現します。 その残された生涯を、「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と訴え、どのように生きていくのかを語ろうとします。 ペトロが「武装しなさい」とまで語って備えている戦いは、身近な日常生活の小さな戦いです。 些細なことと思われるそのことが、大きな分岐点となる。 「神の武具を身につけなさい。 信仰を盾として取りなさい。」と語るパウロと同じように、「キリストと同じ心構えで武装しなさい」と言うのです。 「神の御心に従って、罪とのかかわりを絶って」、武装しなさい。 たとえ人々から「不審に思われ、そしられること」があったとしても、恐れてはならない。 むしろ、私たちを不審に思い、そしる者こそ、「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」とまで言います。 ですから、ペトロは、「万物の終りが迫っています。 だから、よく祈りなさい。 心を込めて愛し合いなさい。 不平を言わずもてなし合いなさい。」と言うのです。 救いが成し遂げられようとするその時にも、なぜ、なおも祈ることを言うのでしょうか。 私たちのこの地上の世界は、神が霊を通して働いておられる世界です。 神のみ心に適うご計画が、予てより言われた通りに霊によって着々と進んでいる世界です。 この霊の働きを求めることが、私たちの祈りです。 この祈り無くして進める業は、人間の業にすぎません。 いずれ、どこかで躓きます。 神は、この祈りを私たちに求めておられるのです。 更にペトロは、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」と勧めます。 なぜなら「愛は多くの罪を覆うからです」と言います。 罪が現れ出るところには、ほころびや争いが必ず生まれます。 憎しみや妬みも生まれるでしょう。 互いに傷つけ合うことも起きるでしょう。 しかし、「愛はすべてを覆う」と言うのです。 神の愛は、ほころびを修復する。 汚れや詰まりを取り除く。 バラバラであった交わりを整えていく。 キリストを通して、補い合い、組み合わし、結び合い、神の愛自らがつくり上げていく。 これは、神の約束です。(エフェソ4章16節) そのためには、気まぐれでなく、どのような時にも霊の働きを求めて祈る必要があります。 神の愛に覆っていただくためには、傷ついた私たちの手を、汚れた私たちの足を、バラバラになったからだを、恥ずかしがることなくみ前に差し出す必要があります。 そして、「不平を言わずにもてなし合いなさい」と言います。 そのために、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっている。 その賜物を生かして互いに仕え合いなさい。 それは、神が栄光をお受けになるためです。」と締めくくっています。 神がお与えになった力に応じて、あなたがたは奉仕しなさい。 それは神が栄光をお受けになるためですと、聖書は語っています。
[fblikesend]「将来の栄光と現在の苦しみ」 ローマの信徒への手紙 8章18~30節
使徒ペトロは、その手紙のなかで「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません。」 しかし、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されて、火に精錬されながら、やがて、喜びに満ちあふれる」と言います。 更に、苦しみにはふたつある。 苦しみを受けるようなことがあってはならない苦しみと、キリスト者として受ける苦しみがある。 キリスト者としての苦しみを受けるなら、「決して恥じてはなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」と言います。 ですから、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」と言います。
同じように、使徒パウロもまた今日の聖書箇所で言います。 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」と言います。 パウロは、この「現在の苦しみ」の真っ只中に立っています。 「キリスト者としての苦しみ」の上に立っています。 これは、私たちキリスト者だけではない、すべての被造物が同じ苦しみに立っている。 しかし、「いつか」、「この滅びから解放される自由になる希望が与えられている。」 人の罪によって覆われてしまったこの世界が、またもとの神のもとにあった姿を取り戻すようになる。 これは、神の意志である、神の憐れみを受けるためであると言います。 被造物も、また私たちキリスト者もまた、神のもとから離れてしまっているのは同じことです。 しかし、私たちはイエス・キリストを知っています。 キリストの十字架と復活によって、「神の子とされること、体が贖われること」を、ただ一度の救いの出来事によって知らされました。 私たちは、現在の苦しみのなかにあっても希望を持つことが赦されました。 キリストの霊の働きによって、準備されている「将来の栄光」に与かることを知らされました。 ですから、パウロは被造物を代表して、「私たちは、切に待ち望んでいます。 私たちは、希望を持っています。 私たちは、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、知っています。 目に見えないものを忍耐して待ち望むのです。」と言うのです。 パウロは、「待ち望んでいる、希望をもっている」ということを、「うめいている」と表現します。 私たちは、キリストと共に苦しみの中にあって、パウロのようにうめくまでに希望をもっているでしょうか。 「いつかは」と、目に見えないものを忍耐して信じて待ち望んでいるでしょうか。 パウロは、霊の初穂としての復活の主イエス・キリストに出会って、私たちのうめきには終わりがある。 私たちに与えられているこの「現在の苦しみ」と「将来の栄光」を結びつけるもの、これこそキリストの十字架の上でのうめきであると知らされたのです。 このキリストの「霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださっている。」 これが、私たちのうめきを父なる神のもとに届けてくださっている。 父なる神のみ心に最後まで忠実に従われたこのキリストの霊が、父なる神のみ心に従って今もなお私たちのために執り成してくださっている。 そのキリストの霊の働きを父なる神は、すべてご存じである。 だから、私たちは、「父なる神の救いのご計画が成し遂げられるまで、このキリストの霊が万事が益となるように共に働いてくださるということを知っている」とパウロは確信するのです。 この希望を持ち続けることのできるのは、このキリストの霊のうめきによる執り成しがあるからです。 キリストの十字架上にかかり続けてくださっている、このうめきのとりなしの祈りがあるからです。 これによって、「現在の苦しみ」がやがて与えられる解放を求める祈り、うめきとなっていくのです。
「準備されている救い」 ペトロの手紙一 1章3~9節
ローマ帝国の支配のもと、キリスト者は迫害を避けるために各地に散らされていました。 慣れない異邦の地で、息を潜ませ、肩身の狭い思いでいた寄留者でした。 「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」、信仰のゆえに様々な試練の中を通されているキリスト者たちに、ペトロは牧会者として励ましの手紙を送ります。 キリスト者になったからこそ試練に出会っている彼らの目を、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」への賛美に向き直すようにと語りかけます。 私たちは、「神の豊かな憐れみにより、新たに生まれさせてくださった。」 「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望が与えられた。」とペトロは訴えます。 私たちは復活の日に、「あの方は、死が支配しているような墓にはおられない。 かねて言われたとおり復活された。」と驚きを告げられました。 「あの方はあなたがたに先立ってガリラヤに行かれる。 そこでお目にかかれる。」と希望を与えられました。 「ガリラヤに行きなさい」、弟子たちに復活の出来事を告げるために「行きなさい」と新しい務めを与えられました。 イエスを裏切り、逃げて、目を閉じて、耳をふさいで、閉じこもって絶望の中にいたあのペトロが、この手紙において「新しく生まれさせてくださった」、「生き生きとした望みへと再び生まれさせてくださった」と、復活の恵みの事実を語っているのです。 恥ずかしい試練を経たペトロが、いつまでも醜い自分の罪の中に置かれ続けていたペトロが、復活されたイエスの姿に触れて、「わたしを愛するか」と尋ねられ、「わたしの羊を飼いなさい」と新しい務めに生きるようにと解放されたのでした。 そのペトロが、同じ苦しみの中にあるキリスト者たちを励ます務めを果たそうとしているのです。 「朽ちず、汚れず、しぼまない天に蓄えられている、やがて、終わりの日に現れるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている」と、ペトロは散らされた寄留者たちに呼びかけます。
ペトロは、「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいる。 言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている。」と言います。 しかし一方で、「しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれない。」とも言います。 神のみこころに沿った試練は、必要な経験である。 無駄になることはない。 あなたがたの信仰が吟味される。 火で精錬されながら、終わりの日にはキリストの誉れが現れると言います。 聖書は、苦しみや試練は避けるべきもの、敬遠すべきものとは語りません。 しばらくの間、喜びとともに試練はある。 その時です。 「しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。」 「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」、そして、「なお、その上に、信仰を盾として取りなさい」と言います。 信仰は、神への信頼、神に頼るということです。 この信頼が揺らいだ時に、神のもとを離れます。 罪は、神に望みを抱くことができなくなった時から起きます。 ですから、「信仰を盾として、なお、その上に取りなさい」と言うのです。 ペトロは、「準備されている救いを受けるために、神の霊の力により、この盾とした信仰によって守られている」と言います。 救いは、すでに準備されている、神のみもとに確保されている、守られている。 それをしっかりと受け取るまで、あなたがたもまた守られている。 「あなたがたが喜びに満ちあふれているのは、信仰の実りとして魂の救いを受けているからだ」とペトロは言っています。 ですから、主イエス・キリストの父である神を賛美するように、その希望に生きるようにと願っているのです。
「復活を信じる」 マタイによる福音書 28章1~10節
愛するイエスを失って、途方に暮れていた彼女たちでした。 墓を塞いでいる石をどうやって取りのけるのかさえ、考えることもできなかった彼女たちでした。 しかし、彼女たちは何もできないから、何もしなかったのではありません。 イエスの遺体に油を塗るために、石が塞いでいる墓のところまで出かけて行ったのです。 そこで彼女たちが見たものは、墓に置かれていた石が脇へ転がされた。 墓を見張っていたはずの番兵たちが、恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになっていた光景でした。 そこで彼女たちが聞いた声は、考えもしなかった出来事を告げる言葉でした。 「恐れることはない」、「今、伝えることを聞きなさい」、「しっかり、見なさい」、「そして、告げなさい」と言われたのでした。 見せられたものは、空っぽの墓でした。 告げられた言葉の中味は、「あの方は、ここにはおられない。 かねて言われた通り復活された」のだということでした。
彼女たちは何もしていません。 また、何をする力もありません。 彼女たちは、ただ出かけて行った。 しかし、神は、墓の石を取りのけてくださった。 思いがけない驚きと喜びを与えてくださった。 そして、自分を見捨てて逃げて行った弟子たちに、この復活の出来事が起きたことを知らせようとされたのでした。 「ここにはおられない」という「ここ」とは、どこでしょうか。 イエスの遺体が置かれた場所です。 死がすべてを覆ってしまっているお墓です。 何もかも終わってしまったかのように見せかける人の死、絶望が覆ってしまっているところです。 そんなところに、「あの方はおられない」と言われるのです。 十字架につけられたイエスは、このようなところにはおられない。 死者の中から復活されたのだと伝えられたのでした。 それだけではない、「あの方はあなたがたに先立ってガリラヤに行かれる。 そこでお目にかかれる。」とまで告げられたのです。 生き返ったという事実が伝えられただけではない、死んで再び生きておられるイエスに会うことができると告げられたのでした。 彼女たちは、死から解放されて立ち上がって、再び生きる世界にある者へと変えられていった。 復活の出来事を弟子たちに伝えるために、急いで墓の方から向きを変えて、弟子たちの方へと走り出したのです。
復活は、新しい出発です。 今まで死に向って今日という日を生きていた者が、復活された主に出会うために今日という日を走り出す者へと変えられていく出来事です。 私たちにとって、ガリラヤとはどこでしょうか。 弟子たちにとっては、なつかしい故郷であったかもしれません。 しかし、イエスは、弟子たちに「ガリラヤへ帰りなさい」ではなく、「ガリラヤへ行きなさい」と言われる。 死んで生き返って、新しい命と務めを用意された私たちには、復活の主に出会うために行くだけです。 「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。 そこでわたしに会うことになる。」 これが復活の出来事です。 彼女たちはこのことを告げるために走り出した、その途中に復活の主イエスに出会ったのでした。
私たちは、この復活の事実を自分の力で説明することも、証明することもできません。 しかし、私たちが送る信仰生活によって、証しすることはできます。 私たちは、なぜこんなことが起こっているのかと首をかしげることばかりの世界にいます。 いつも、この犠牲となっているのは、抵抗のできない人々、弱い、力のない小さな人々です。 その象徴こそ、十字架につけられたイエスの姿です。 しかし、父なる神は、そのまま放ってはおかれなかったではありませんか。 虐待され、殺され、捨てられて行く姿を、「飼い主のいない羊」のように憐れまれる神の愛によって、そのまま捨て置かれなかった。 最後には、復活の出来事によって逆転を起こされたではありませんか。
「十字架のイエスとともに」 コリントの信徒への手紙一 2章1~5節
パウロがコリントの教会に初めて行った時のことです。 「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」と言います。 知恵にあふれた言葉によらないで、一般的には愚かなものを用いた宣教でした。 「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言います。 「十字架につけられたキリスト」という言葉は、過去形ではなく、現在完了形で記されています。 過去のある時点での状態を言っているのではありません。 今もなお、その状態が続いているとパウロは言っているのです。 1章23節の箇所も、ガラテヤの信徒への手紙3章1節の箇所も同じことです。 文語訳聖書では、そのところを正しく「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」と訳しています。 今もなお、「十字架につけられてしまったままでおられるイエス・キリスト」とパウロは言うのです。 わたしの言葉も、わたしの宣教も、このお方の霊と力の証明によるものである。 人の知恵によらず、衰弱しているわたしの言葉は、神の力によるものであると言うのです。
パウロは、「わたしもそちらに行ったとき」と言います。 私『も』衰弱していたと言うのです。 この「十字架につけられてしまったままでおられるイエス・キリスト」と同じように、私『も』また衰弱していた。 イエス・キリストは、この私と並んでこのような衰弱の状態を担ってくださったと言うのです。 パウロの体には、「肉体のとげ」が与えられていました。 復活された主イエス・キリストに、このとげを取り去ってほしいと三度願い出たとあります。 しかし、主は「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。 そして、パウロは「わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています。 『逆説』を語っています。 人間が捉えているものとは逆の捉え方です。 主イエス・キリストが「言われました」というのも、現在完了形です。 ここでパウロに語ってくださった言葉を、今もなお語り続けてくださっているということです。 歴史の一時点に十字架にかかってくださったその復活のイエスが、「十字架につけられたまま」、恐れと不安と、弱さと愚かさの状態を今もなお担い続けてくださっている。 パウロは、歴史上のイエスを語っているのではなく、真理としてのイエスを語っているのです。 それは、目に見える歴史的な事実とは異なる「十字架につけられたまま」のイエスなのです。
十字架上での「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)という、大声で叫ばれたイエスの言葉、イエスの最後の姿はどうしてなのでしょうか。 このイエスの最後の姿を見て、「百人隊長」が「本当に、この人は神の子だった」と言っています。 何がその根拠であったのでしょうか。 やはり、『逆説』です。 愚かなところ、泣いているところ、そこには真理がある。 弱いところ、貧しいところ、そこにも真理がある。 十字架の上にまで、そのようなものになってくださっている。 ご自分の体をもって現わしてくださっている。 私たちは奇跡を望みます。 しかし、神はそうではない。絶叫したイエスこそ、私たちのキリストです。 十字架につけられたままのキリストだからこそ、痛みが分かっていてくださる。 パウロと並んでくださっているイエス・キリスト、目に見えるものではない、逆説的な意味でのイエス・キリストを語っているのです。 私たちはバプテスマによって、このお方と共に葬られ、その死にあずかり、新たに生まれ変わるものとなったのです。
「わたしの霊を御手にゆだねます」 ルカによる福音書 23章44~49節
イエスの地上の生涯の最後、息を引き取る直前に語られたイエスの言葉です。 朝九時から六時間もの間、十字架につけられたまま語られた最後のイエスの言葉に耳を傾けたいと思います。 「全地は暗くなり、太陽は光を失っていた。」 この世を、暗闇が覆ってしまっていた。 世の光として私たちのところに遣わされたイエスを殺してしまって、私たちはその光を失ったのでした。 「自分が何をしているのか知らない」私たちを再び神のもとへと、とりなしてくださっている、そのイエスを殺してしまった。 神もまた、みこころのゆえに沈黙しておられる。 まさに、神からも人からも捨てられたイエスの姿。 これこそ、罪に打たれて死んでいくはずの私たち自身の姿です。 そのイエスの最後の言葉が、今日のみことばです。 マタイも、マルコも、「イエスは大声で叫び、息を引き取られた」と記しています。 しかし、ルカは、このイエスの最後の大声の叫びが何であったのかを聴き取っています。 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。 こう言って息を引き取られた。」と、ルカは証ししています。 このみことばは、詩編31編6節です。 この詩は、「夕べの祈り」です。 人々が、一日の業を終えて床につく時の祈りです。 一日を守られた感謝が込められるでしょう。 いろいろな出来事のなかに悔い改めも込められるでしょう。 これから迎える夜の眠り、朝の目覚めに備える祈りが込められるでしょう。 イエスにとっては、もはや、明日の朝はないのです。 イエスはかつて、ある金持ちに「眠りに備え、今のうちに神の前に豊かになるように」と諭されました。 イエスは、明日の朝のない地上の最後の時に、ご自分を遣わしたお方、ご自分を知り尽くしておられるお方を仰いでおられる。 そのお方のみこころにゆだねておられる。 父なる神のもとを離れてしまった私たちを取り戻すために遣わされた、その地上の戦いの最後の日に、父を仰いでご自身のすべてを委ねられたのでした。 地上の最後の祈りの叫びを、この「夕べの祈り」として唱えられたという事実をルカは証ししています。
ローマの百人隊長が、この姿を見ていたのです。 見物に集まっていた群衆が、これらの姿を見て、胸をうちながら帰って行ったのです。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちが、遠くに立って、これらの姿を見ていたのです。 「百人隊長」は、この十字架刑を執行し、監督する立場の責任者でした。 だれよりも間近に、イエスの十字架上の一部始終の姿を見つめた人物でした。 その人が、「本当に、この人は正しい人だった」、マルコ、マタイの表現を借りれば「この人は、神の子だった」と言って、神を賛美したのです。 彼が聞いた叫びは、地上の最後に祈るイエスの祈りでした。 父が守ってくださること以外には、何も求めていない子どものような祈りであったでしょう。 暗闇が覆い、父なる神の裁きを招いている絶望の中で祈る、父に対する信頼の祈りであったでしょう。 最初の殉教者と言われるステファノもまた、人々が石を投げつけるその間中、「主イエスよ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、イエスと同じように呼びかけています。 今日、この祈りを聞くことができるのは、これら一握りの証人たちによって伝えられた証言があったからです。 イエス・キリストが十字架のうえで叫ばれたように、なおも「ゆうべの祈り」として眠りに備えて祈る。 この父なる神への信頼が、父なる神に連なる平安を産み出す。 み子になされたように、復活させられるという本当の望みを産み出す。 この祈りによって私たちに新しい道が開かれ、よみがえりの命がここから始まったのではないでしょうか。
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