秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「み言葉を聞いて行う者」 マタイによる福音書7章24~29節

2017-02-12

 イエスの「山上の教え」は、広く民衆にイエスの思想や道徳や哲学を述べたものではありません。 これからイエスご自身と同じ道をこの地上で歩むことになる、愛すべき弟子たちに向けて語られたみ言葉です。 その「山上の教え」の締めくくりに語られた譬えが、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人」であるというものでした。 「わたしの言葉を聞いて行いなさい。」 そして、「岩の上に自分の家を建てなさい。」と言うのです。 「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」 だれにでも分かるような、何でもない譬えの中に込められたイエスのみ心に驚かされます。 どちらの家も見た目には、土台の上に建っていることには変わりがないのです。 その違いが見えてくるのは、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ってくる」時だと言うのです。その違いは土台の違いだとイエスは言います。 この地上においては、神を信じようが信じまいが、余り変わらないように見えます。 しかし、ひと度、雨や風がその家を襲ってきた時に、砂の上に建てた家は倒れる。 それも、その倒れ方はひどい。 しかし、岩の上に建てた家は倒れない。 土台が「岩」であったからであると言うのです。 このことは容易に、私たちにもよく理解できます。 人生の土台をどこに置いているのかによって、人生の試練に倒れることもあるし、倒れることを免れることもあるでしょう。 経験や知識によって、また家族や友人の助けによって辛うじて乗り越えられる試練もあるでしょう。 しかし、それらのものではどうしようもないことが起きます。 イエスの言う「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ってくる」時とは、いったい何でしょうか。 私たちがひとりで、父なる神のみ前に立つその時、土台をあなたはどこに置いて生きているのかと問われる時ではないでしょうか。 この時こそ、主イエスの苦しみに与かっている時、それぞれに与えられた自分の家、自分の十字架を、主イエスとともに味わっている時です。 主のみ前に立って、今までの自分がひっくり返され、砕かれ、一緒に働いてくださっているイエスに気づいて、ともに歩み始めている時ではないでしょうか。 自分一人だけで、その試練を味わっているのではないのです。 その時に立たされている私たちに、「倒れることのないように」と「山上の教え」の最後に、イエスはこの譬えをもって憐れんで語ってくださっています。 イエスの言われる「岩」とは、父なる神のみ言葉、十字架に架けられよみがえられるイエスご自身、それに対する私たちの信仰でしょう。 本に書かれた活字となっている言葉ではない。 自分の現実の生活のなかで受け止められているみ言葉、雨や風のなかにおいてでも信頼して従っているみ言葉、私たちの生活の中に生きて働いているみ言葉、これを「岩」としなさい。 あなたがたの生きる「土台」としなさい。 その上に、人の借りものでない「自分の家」を建てなさいと言っておられるのです。 大事なことは、私たちの生涯がこのみ言葉に従って生きているのかどうか。 岩なるみ言葉に信頼する「あなたの信仰」の上に、あなたの生涯を置きなさい。 あなたの生涯を建て続けなさいと言っておられるのです。 み言葉を聞くだけの人、教会があります。 み言葉を聞かないで自らの主張を行うだけの人、教会もあります。 イエスは「聞いて行う者、聞いて従う者」と言います。 聞くことと行うことを切り離すことができないのです。 聞いて従わなければ、聞いていないことと同じです。 み言葉を聞いて従うところに、土台がある。 主イエスの働きがある。 赦しがある。 忍耐がある。 神の愛がある。 希望がある。 み言葉に従うあなたの生涯の上にこそ、「自分の家」を建てなさいと言っておられるのです。 

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「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」 ルカによる福音書11章5~13節

2017-02-05

 主イエスの祈る「祈り」を聴いて、祈る姿を見てひとりの弟子が尋ねました。 「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」 口語訳聖書では、「祈ることを教えてください」となっています。 それに応えたイエスの祈りが、私たちがささげている「主の祈り」です。 イエスは、決まり切ったお題目として「祈り」を教えたのではありません。 祈るべき順番と内容、そしてどのように祈るべきかという「祈ること」を語っておられます。 「主よ」と呼びかけるお方がおられること、そしてそのお方が耳を傾けて、応えてくださることを先ず教え、祈りは単なる願いごとではなく父と子の関係にたとえられるほどの人格の交わりであると言われているのです。 そのうえで、この世のものではない神の名、神の国、神のみ心を第一に求めて祈るようにと教えます。 その後に、今日、私たちが生きるために必要なものを求めなさい。 昨日、私たちが犯してしまった過ちが赦されるよう願いなさい。 明日、私たちに迫ってくる試みから守られるよう祈りなさいと言うのです。 その際に語られたたとえが、今日の聖書箇所です。 
 たとえの中に出てくる人に、ふたりの友だちがいます。 ひとりは、旅をして、夜遅く尋ねて来た友だちです。 その人は、予定になかった友だちのために差し出すパンがありません。 真夜中でもありましたので、迷惑をかけることを承知のうえで「もうひとりの友だち」のところへ助けを求めたのです。 しかし、イエスは、その「もうひとりの友だち」は、「面倒をかけないでください。 もう戸は閉めたし、子どもたちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と断るだろうと言います。 問題はここです。 イエスはそこで、「しかし、言っておく。 その人は友だちだからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」と言っておられるのです。 だから「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とおっしゃって、その約束の確かさを語っておられるのです。 この「しつように頼めば」という言葉は、「恥知らずな祈り」、「厚かましい祈り」と言ってもいいような言葉です。 「しつように」、厚かましく祈り続けるなら、それが非常識でも、迷惑でも「もうひとりの友だち」は「だれであっても、なんであっても与える、門を開く」と言っておられるのです。 この「もうひとりの友だち」こそ、イエス・キリストです。 「求めて、探して、門を開けよう」と待っておられるのは、父なる神の方です。 そのためにイエスは遣わされたのです。 イエスはご自身を「友」と呼んで、傍らで眠りこけている私たちに替わって祈り続けてくださっているのです。 だから、私の名によって祈り続けなさいと言うのです。 私たちは何も差し出すことができないと「貧しさ」を知ったから、恥知らずにその「貧しさ」をさらけ出したから、「与えられる、見つける、開かれる」という約束を得たのです。 門は締まっています。 こちら側からは明けることのできないものです。 「聴かれざる祈り」と感じさせられるものです。 もはや状況が好転するとか、問題が解決するとか望む由もない状況にあれば、私たちは、「主よともにいてください、憐れんでください」という祈りに至るでしょう。 この時に初めて、「天の父は必要なものはすべて知っておられる。 私たちを待っていて、聖霊を与えてくださる。」と私たちは知るのです。 聖霊は見通しのきかない「真夜中」であっても、神が働いておられることを私たちに知らせます。 それによって私たちは、神の恵みの世界に生かされていることを知らされるのです。

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「喜んで神の国をくださる」 ルカによる福音書12章22~34節

2017-01-29

 イエスは、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言います。 「思い悩む」という言葉が4回も、それも強い命令として繰り返し使われています。 別の聖書訳では「思いわずらう」という言葉です。 「恐れるな」と訳されてもおかしくない言葉です。 私たちは、衣食住のことを事あるごとに思い悩みます。 病気であったり、災害であったり、試練であったり様々でしょう。 いったい、イエスは何を「思い悩むな」とおっしゃっているのでしょうか。 ここで言われていることは、「世の人々が切に求めているもの」、「あなたがたにとって必要なもの」、「自分の持ち物」について「思い悩むな」と言っておられます。 世の人々が熱心に求めているもの、家内安全、無病息災、商売繁盛でしょう。 生きていくために必要な糧、それを得るための富でしょう。 どのようにして得ていくのか、これが世の人々の最大の関心事です。 しかし、それらのものが豊かに蓄積されたなら、更に貪欲になります。 今度は、名誉、権力、将来の安心でしょう。 本当に限りがありません。 やがて、それらは自分の力や知恵や努力によって得られたものであるかのように見当違いをするようになります。 そこには、自分がなんとかすれば事態は変えられるという気がつかない奢りがあります。 今日の聖書箇所の直前にイエスは「愚かな金持ち」に語っておられます。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない。 自分のためにいくら富を積んだとしても、神の前に決して豊かにならない。」と言われたのです。 
 自然の恵みの中からイエスは、「烏」がどのように養われているのか、「野原の花」がどのようにして育てられているのか、よく考えなさい、よく見なさいと言われました。 鳥でも、花でもない、その背後にある父なる神の配慮をよく見なさい。 人の目に留まらないような存在のものにまで、神の配慮がある、養いがある、霊なる神との交わりがある、つながりがある。 ましてや、父なる神の恵みによって無条件に神の子とされた私たちが、その信頼によって生きるようにと、イエスは招いておられるのです。 この天地を創造されたお方、命をつくられるお方がおられるということ、そのお方がこの天地を支え、鳥も花も私たちをも今もなお支え続けてくださっていることを、霊の目でよく見なさい。 「だから、言っておく。 思い悩むな。 あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをすべてご存じである。」 父なる神に委ねなさい。 「自分の持ち物、自分の富を売り払い、施しなさい。 尽きることのない富を天に積みなさい。 神の国を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 富は地上にではなく、天に積みなさい。」と言われたのです。 私たちの生活の周りには、こうしてほしい、こうなってもらいたいと思い悩むことが山ほどあります。 「思い悩む」とは、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをすべてご存じである。」というみ言葉に不安をもち、委ね切ることができない私たちの姿です。 自分のためにいくら富を積んだとしても、神の前に豊かにならない。 自分が大切にしているところに自分の心を置いているとイエスは言われたのです。 ですから、「小さな群れよ、恐れるな。 思い悩むな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と約束してくださったのです。 私たちは、この神の国の約束を喜んで受け入れるのです。 神の国にすでに入れられているその喜びに、希望をもつのです。 そうすれば、朽ちることのない、擦り切れることのない、尽きることのない富を、天に積むことになるのです。  

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「憐れみ深い者となりなさい」 ルカによる福音書6章27~36節

2017-01-22

 主イエスは、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と呼びかけます。 聞いているのは、イエスの呼びかけに従って来て、今、そば近くにいて、静かに耳を傾けている弟子たちです。 これからもずっとイエスとともに歩んで行きたいと願っている弟子たちです。 その弟子たちに「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」とイエスは言います。 「敵」とはだれのことでしょうか。 「あなたがたを憎む者」、「あなたがたに悪口を言う者」、「あなたがたを侮辱する者」、「あなたがたの頬を打つ者」、「あなたがたの上着を奪い取る者」です。 しかし、そういう人たちに親切にし、祝福を祈り、もう一方の頬をも向け、拒ばないことができるでしょうか。 人間の世界ではありえない、納得できない、理屈が通らない、理由が分からないことです。 イエスは、これからご自身と一緒に歩むことになる弟子たちに、これらの「敵」にあなたがたは取り囲まれて生きていくことになる。 そうであるけれども、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と言っておられるのです。 この世の人たちは、自分を愛してくれる人を愛する。 自分によくしてくれる人によいことをする。 それでも、「あなたがたは、敵を愛しなさい」と言っているのです。 イエスは「愛する」という教えや行いを、弟子たちに説いているのではありません。 
 イエスは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と言われたのです。 「わたしがあなたがたを愛したように」です。 ここに選ばれて、招かれて、従ってきている弟子たちは、イエスによって愛された、赦された体験があるのです。 そのイエスの赦し、愛を心のうちに宿して、生涯をかけてイエスに従ってきているのです。 イエスは当然のように、「あなたがたは敵を愛するようになる」と言われるのです。  愛するためには、相手を必要とします。 自分一人ではできないものです。 人と人の交わりのなかに、神と人との交わりのなかに初めて生まれ出てくるものです。 イエスが語られた「敵」こそ、この交わりを壊し、引き裂くものです。 私たちがこの「敵」を愛することができないのは、赦すことができないからです。 イエスはこのために地上に来たと言われました。 神との交わりを失ってしまった私たちに、回復の道を整えるためです。 自分こそ交わりを壊すものでありながら、人を赦すことができなくなってしまった私たちの過ちを担うためです。 そのためにイエスは私たちのもとへ遣わされたのです。 イエスは十字架のうえで、その苦しみや痛みを担いながら、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、ご自身を十字架に架けた私たちのために祈られたではありませんか。 父なる神に祈って、赦しを求め、とりなしてくださったではありませんか。 この十字架によって初めて、私たちは赦される、愛されるという恵みを知らされたのです。 自分ができるとかできないとかという問題ではない。 もうすでに、この無条件の恵みの世界に私たちはあるのです。 イエスのように、すべての人の過ちを担い、赦すことなど私たちにはできません。 しかし、自分にしか赦すことのできない人の「過ち」があるはずです。 自分にしか愛することのできない人が、そば近くにいるはずです。 イエスはそのために祝福を与え、恵みを与えて、周囲はどうであれ「しかし、あなたの敵を愛しなさい」と呼びかけてくださっているのです。

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「地の塩、世の光である」 マタイによる福音書5章13~16節

2017-01-15

 イエスは、ご自身の後をついてくるおびただしい数の群衆をご覧になって、山に登られました。 そこで腰を下ろして、そば近くに寄って来た弟子たちに向けて語られました。 「心の貧しい人は幸いである。 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は幸いである。 その人たちは慰められる。 ・・・義のために迫害される人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。」と、決してこの世において「幸い」を受けているとは思えないような人々こそ「幸い」を受けている。 神の国はその人たちのものであると、先ず神の祝福を語ったのです。 このようにイエスに呼びかけられたのは、イエスについて来た弟子たちです。 イエスによって選ばれ、召されて、従って来た弟子たちです。 そしてこれから、イエスに務めを与えられて、遣わされようとしている弟子たちです。 そうした弟子たちに最初に語られた「幸い」の直後に、イエスは「あなたがたは地の塩である。 世の光である。」と語られたのです。 当時の「塩」は高価なものであったようです。 食物に味をつける、腐敗を防ぐ、汚れを清める良いものと古くから考えられていたのです。 イエスは、神の国の祝福がすでにこの世に到来したにもかかわらず、心を頑なにしてこの「幸い、恵み」を受け取ることを拒むイスラエルの民を「塩気を失った塩」と言っておられます。 イエスは、「地」の「塩」で「ある」と言っています。 死んであの世で「塩」になると言っているのではありません。 この地上の困難な中で、頑張って塩気をもつ「塩」になりなさいと言っているのでもありません。 あなたがたは、この神から与えられる「幸い」の中に「ある」者である。 あなたがたがもともと塩味をもっているのではない。 神からの賜物によって初めて塩気を味つけられるものである。 その時が満ちて、今ここに到来したである。 あなたがたイエスに従って来た弟子たちはすでに、この「地の塩である」とイエスは宣言されたのです。 イエスの十字架の哀れな姿を前にして弟子たちはだれ一人例外なく、イエスのもとを離れて行きました。しかし、イエスが死んで葬られた後、イエスの霊が弟子たちのうえに降ってからは、彼らはその賜物を宿して、その恵みをいっぱい受けてイエスと同じ道を歩み出すことができるようになったのです。 イエスこそ、「塩」でありました。 そのイエスを内に宿すことによって、弟子たちは塩気を保つことができたのです。 「わたしは世の光である」と言われたイエスを、内に宿すことによって、その光が輝き出る。 この暗闇にあるからこそ、光は輝きます。 暗闇は光を嫌います。 光が見えないように、私たちの目をくらますのです。 この光はもともと、私たちに「初めに光あれ」と与えられて、「神が光を見て、良しとされた」ものです。 私たちが神を忘れ、神を見失ったことによって失われたものです。 暗闇を漂っている私たちが赦されて、もう一度、希望の光を見出し、取り戻すことができる時が来たと宣言されたのです。 「光のあるところでは、隠れることができない。 ともし火が照らすところでは、すべてを照らし出す。」と言います。 神の国の福音は隠しておくことはできない。 福音自らの命によって、語り始めるのです。 
 父なる神に「幸い、祝福」を受けた者は、もうすでに新しい存在です。 私たちは、私たちを生かしてくださっているお方から離れるなら、祝福として与えられている塩気も、見える光も失ってしまうのです。 イエスが、失われたものが回復されたと言っておられるのに、その恵みを受け取ろうとしないのが私たちです。 イエスは祝福を授けた後に、「あなたがたは地の塩、世の光である。」と宣言されたのです。 このイエスのとりなしによって、そのイエスに従うことによって、そのような存在にさせていただいているのです。 

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「力をふるって声をあげよ」 イザヤ書40章1~11節

2017-01-08

 主によって、選びの民として約束の地を与えられたイスラエルの民は豊かになり、生活は安定し次第に傲慢になっていきます。 「あなたは自分の力と手の働きで、私はこの冨を築いたなどと考えてはならない。 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。 冨を築く力をあなたに与えられたのは主である。 主が先祖に誓われた契約を果たしたのである。 今日のようにしてくださったのは主である。」と警告されていたのにです。 いつしか自分たちの力に過信し、神の存在を忘れ、神に従わないようになっていったのでした。 その結果訪れた出来事が、歴史上有名なバビロン補囚でした。 イスラエルはバビロニア帝国に滅ぼされました。 その首都エルサレムが火に焼かれ、エルサレム神殿も破壊され廃墟と化しました。 しかし神は、ご自身の民を捨てることはありません。 エレミヤやエゼキエルという預言者を立て、新しい契約を結ぶ時が来ると、赦しと解放を憐れみをもって語りかけてくださったのです。 約半世紀ほどの月日が流れたころに、このイザヤ書40章の預言は語られたと言われています。 
 私たちは順調な時、自分の力や自分の働きに過信します。 何でもできると錯覚します。 神を忘れていても何ら支障がなかったからです。 神を信じても、信じなくても変わりがないと私たちが勘違いしたからです。 神はこのような危機の時に、神がおられること、神が生きて働いておられることを私たちに気づかせてくださるのです。 自分自身も捕囚の身にあったイザヤを通して、「苦役の時は今や満ち、エルサレムの咎は償われた。 罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた。」という神の声がイスラエルの民に響いたのです。 もうバビロニアに服従する時は終り、そのもとから解放される時が来た。 もう十分すぎるほどの苦役を経験した。 主はご自身の力を現わすために、必ずみ言葉を成し遂げられる。 エルサレムに帰還する道が備えられるという希望のみ言葉が、イザヤを通して宣言されたのでした。 肉なるものは皆、草に等しい。 永らえても、すべては野の花のようにはかないものだ。 今、あなたがたの目に見えるところは、草は枯れ、花はしぼんでいるように見える。 しかし、その枯れた草、しぼむ花に主の風が吹きつける。 永遠に枯れない、しぼまない主のみ言葉が語りかけられる。 今までの苦難は、このお方がおられることをあなたがたが知るためだった。 このお方の力があなたがたのうえに現れるためだった。 このお方に守られ、導かれ、生かされていることをあなたがたが思い起こすためだった。 主なる神は、ここまで神に背き、神を忘れてしまっていたあなたがたを捨てることなく、憐れんでくださっている。 囚われと苦難の時代は終わる。 今まで通り、「わたしはあなたがたの神である。 あなたがたはわたしの民である。」という声を、苦難の嘆きと諦めのただ中で人々は聴き取ったのです。 主イエスによって「時が満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたようにです。 バビロンにイスラエルの人々を捕らえたバビロニアも、またそのバビロニアを倒して、イスラエルの人々を解放したペルシャもすべて、失われた者を再び呼び集める主なる神の業に用いられたのです。 「あなたがたはもはや赦された。 解放された。」という喜びの知らせが、イスラエルの人々の絶望の日常のなかにこだましたのです。 私たちはもうすでに祝福されているのです。 ただ受け取るだけなのです。 この知らせを、「よき知らせ、神の福音」と受け取る者が、神の国に入ることができたのです。 主が、「私を見よ。 力をもって現れる私を見よ。 羊飼いのように、み腕に小羊を抱きかかえるように、その乳を飲ませる母羊を導くように、そしてその群れを養うこの私を見よ。」と、困難な中にも希望をもって歩み出すようにと私たちを招いてくださっています。

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「再び根を下ろし、実を結ぶ木」 イザヤ書37章26~31節

2017-01-01

 大国アッシリアは地中海への足がかりを得ようと、小さな国ユダの町や村を次々と制圧し、その首都エルサレムを包囲したのです。 アッシリア王は、「わたしの力を見なさい。 わたしの力のもとにひざまずくなら、あなたたちの身は守られる。 今の生活は保障される。」と無条件降伏をユダの国に迫ります。 脅迫され、行き場がなくなったユダの王ヒゼキヤは、心が揺れ動き、莫大な国の財産を差し出して命乞いをした。 それも金で覆われた神殿の扉や柱を一部切り取ってまで、賠償金として差し出したと言います。 私たちにとってのアッシリアとは何でしょうか。 「なぜ何の得にもならない、頼りにならない言葉に頼っているのか。」と、私たちに迫るものはいったい何でしょうか。 そうではない、ひょっとしたら私たちこそがそのように思い込んでしまっているのかもしれない。 ヒゼキヤの揺れ動く振る舞いは、私たちのうつろう姿を映し出しています。 「わたしたちの神に寄り頼む」と言いながら、その礼拝する場所の一部をはぎ取って迫りくる者にその場しのぎの犠牲を差し出してはいないでしょうか。 更に執拗に「お前が寄り頼んでいる神にだまされてはならない。 エルサレムは、アッシリアの王の手に渡される。 あらゆる国々の神々は火に投げ込まれて、それらの国を救い出すことはできなかったではないか。」と迫る手紙をヒゼキヤが手にした時です。 ヒゼキヤはその手紙を手に持って、自ら神殿に向ったのです。 神殿を傷つけてしまって顔を出すことも躊躇するようなところに、自ら決断し赴いたのです。 その脅迫の手紙を主の前に広げて、自ら祈り出したのです。 「イスラエルの神よ。 あなただけが地上のすべての国の神です。 あなたこそ天と地をお造りになったお方です。 主よ、この手紙に書かれている言葉に耳を傾けてください。 どうか今、わたしたちをアッシリアの手から救い、地上のすべての国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。」と祈ったのでした。 その時に告げられた主の御言葉が今日の聖書箇所です。 
 主はアッシリアの王に言います。 「お前は聞いたことがないのか。 すべては、はるか昔にわたしが計画を立てていたことである。 そのいにしえの日にここに描いていたことを、今、わたしは自ら実現させる。 今は、ユダの砦の町々を瓦礫の山にすることになった。 力を失ったユダの住民はうちのめされて恥に覆われ、野の草、青草のようになってしまった。 しかし、お前の奢りがわたしの耳にまで上ってきたために、わたしは行動を起こす。 お前が座っているのも、出て行くのも、入って来るのも、わたしに向って怒りに震えていることもわたしはすべて知っている者である。」と告げ、エルサレムはアッシリアによって滅ぼされることはないと約束してくださったのです。 一方、絶望の淵にいたユダの王ヒゼキヤにも主は言います。 「あなたにその救いの業の約束のしるしを与える。 このアッシリアによる傷跡のなかにも、わたしの民を養う。 最初は苦難が継続する。 しかし、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を造り、その実りを食べるようになる。 そのために苦難を味わい、そこに留まり続けた残された者に、「再び根を下ろし、上には実を結ぶ木」を備えると告げられたのです。 主に真剣に祈る者には必ず主は応えてくださいます。 もう祈っても応えられないと諦めていることがあるでしょう。 もう変わりようがないと祈ることを止めていることがあるでしょう。 ヒゼキヤのように、神を罵る者の実情をみ前に広げて、そこに神の力が働くよう祈り求めてみませんか。 私たちが苦しんでいるのは、神に力がないのではありません。 私たちが力あるお方を本当に信じて、期待して、祈り求めて「待つ」ことができないからです。 主はいっぱいの実がなるようにと私たちに期待しておられるのです。

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「キリストを宿していく」 ルカによる福音書1章26~38節

2016-12-25

 「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである」マリアに、天の使いが唐突に「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」と告げたのでした。 「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とあります。 他の聖書訳では、「ひどく胸騒ぎがして、思いめぐらしていた。」と書かれています。 マリアにとってまったく意味の分からない不可解なことです。 突然の思いがけない知らせです。 そうしたマリアの戸惑いに関係なく、天の使いは「マリア、恐れることはない。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げるのです。 ユダヤの社会では婚約したふたりは、法的には夫婦と同じです。 しかし、一緒に住むまでは結婚生活ではありません。 婚約中の身に、いきなり「自分の子を産む」と告げられても、いったいだれの子がこれから生まれるのか、マリアにとって身に覚えのないことです。 それどころか、当時のユダヤ社会で父親に与えられている子どもの名付けの権利すら奪われて、「イエス」という名前まで定められている。 「どうして、そんなことがありえましょうか。 わたしにはまだ、夫がありませんのに」と、マリアは自分のことで精いっぱいです。 この子がどのような者になるのか、その子の名前には「神は救いである」という特別な意味が込められているなど、まったく視野に入っていません。 マリアは、これからささやかな幸いの中に生きていこうとしていた矢先でした。 もし、そのようなことがこの身に起きたなら、婚約は解消されるかもしれない。 世間の中傷や誤解に向き合わなければならないかもしれない。 それよりも前に、どう考えても私の身に起きるはずがない、納得がいかない。 そう思ったからこそ、「どうして、そんなことがありえましょうか」、「どうして、そのようなことが、私にとって恵みなのでしょうか。」と神に反論したのです。 マリアの信仰が、自分の常識と葛藤しています。 このマリアの反論に神は応えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 神にできないことは何一つない。 それがあなたにとって恵みである。」と告げたのです。 
 私たちは、自分が納得したから信じているのでしょうか。 分からないから、神を信じていないのでしょうか。 マリアはその時、私たちと同じように神のみ心が分からなかったはずです。 そこに、神が「いつも共にいてくださる。 あなたに聖霊が降る。 神の力があなたを包む。」と語りかけてくださったその言葉を、自分に向けられた言葉として受け止めることができたのではないでしょうか。 その言葉は、今までマリアが大切にしてきたものを壊してしまうものであったかもしれない。 常識を破る、自分の理性を越えるものであったかもしれない。 しかし、マリアは、このみ言葉の前に自分を投げ出して、なぜ自分にとって恵みであるのか分からないまま、この神の意志に身を委ねる決断をしたのです。 その言葉が、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」という表明でした。 イエスは完成された人として、この世に遣わされたのではありません。 私たちと同じように、抵抗することのできない、ただ受けることによってしか成長することのできない弱い赤ちゃんとしてお生まれになったのです。 マリアはこの息子を宿して、養い育てていく、最初の証人として歩み始めたのです。 これは、マリアだけのお話でしょうか。 イエスの誕生を受け入れて、うちに宿して、育んでいく。 生涯の歩みを通して、このイエスの証人として歩んでいく。 この恵みがすべての人に与えられているのです。 パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。 イエス・キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と語っています。

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「キリストが与えてくださる平和」 ヨハネによる福音書14章25~31節

2016-12-18

 主イエスはご自身がこれから捕らえられ、十字架に架け上げられ、殺される直前に、愛する弟子たちと最後の晩餐をともにされていました。 その最後に語られた言葉が、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」という言葉でした。 私はこれから、あなたたちの目には見えなくなるが、「わたしが去って行く前に、あなたがたに平和を残していく。 わたしはこの平和を世に与えるように与えるのではない。」と、最後の食事の席で言われてから、「さあ、立て。 ここから出かけよう。」と言われたのです。 世が与えるような平和とはいったい何でしょうか。 病気や災難に出くわさないよう、平穏無事に暮らすことかもしれません。 それだけではない、家庭の問題、経済の問題、社会的な問題もあるでしょう。 これらのものからいくら知恵を絞って逃れられたとしても、また先を見越してその影響を最小限に食い止められたとしてもなくならないでしょう。 ましてや、ひとりの人間が「死」を迎えるにあたってなすべきすべはないでしょう。 私たちは、ほんのわずかなことで崩れ、壊れてしまう者です。 主イエスはこれらのことを十分承知のうえで、「わたしの平和を残しておく。 わたしはこれを、世が与えるようには与えない。」と約束してくださいました。 世の支配者が来て私を捕らえて、十字架につけ処刑して私を殺すだろう。 あなたがたの見える目でみれば、力をもつ世の支配者のもとに屈した哀れな姿に見えるだろう。 しかし、世の支配者は私をどうすることも、私の命を奪うこともできない。 私は父なる神のもとへと去って行く。 しかし、再び、あなたがたのもとへ遣わされて戻って来る。 すべては、父なる神のご計画の中にある。 そのことが分かる時が必ずやってくる。 だから、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。 すべては、父がお命じになったとおりに行っていることを世は知るべきである。 父がお命じになったように、このわたしが従って行っていることを世は知るべきである。」と言われたのです。  弟子たちがイエスの言われたこのことの意味を知ったのは、十字架の後です。 死んで葬られ、イエスの姿が見えなくなってしまった後です。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われたとおりでした。 墓の前に泣き崩れ、墓に向っていたマグダラのマリアの目が、「婦人よ、なぜ泣いているのか」という声に今までとは反対向きに振り向いた時でした。 マリアは、それが新しく霊の世界に生きておられるイエスであることが初めて分かったのです。 「わたしは主を見ました」というマリアの言葉が、最初の復活の証言であったことを聖書は語っています。 「キリストが与える平和」とは、神と人との間に回復された交わりでした。 「死」によって終りを告げない「平和」でした。 聖霊によって霊の目で見えることができる平和でした。 「キリストの与える平和」とは、この聖霊によって、賜物として与えられる「平和」であると聖書は言います。 ですから、「この世の支配者やこの世が決して与えることができない真の平和を与える。 心を騒がしてはならない。 おびえてはならない。」と言われたのです。 この「心を騒がしてはならない。 おびえてはならない。」と言ってくださるお方が共におられる「平和」です。 このお方が「さあ、立て。 ここから出かけよう。」と、私たちを世に遣わしてくださっています。 主と共に旅立って、今、生かされているところで、イエスのお求めになっている務めにイエスと共に生きる。 そこには神が働いてくださるという確信に立っている。 この確信こそ、「キリストが与えてくださっている平和」なのではないでしょうか。

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「光のあるうちに、光を信じなさい」 ヨハネによる福音書12章27~36節

2016-12-11

 主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と、ご自身の心情を包み隠さず語っておられます。 深い怖れと苦悩を憶えられたと書かれています。 多くの殉教者が確信と平安のうちに「死」を迎えた姿とは対照的とも言えます。 イエスはいったい何を怖れ、何に苦悩されたのでしょうか。 このお姿は、他の福音書にあるゲッセマネでのたったひとりの祈りと同じ姿です。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 父よ、あなたは何でもおできになります。 この杯をわたしから取りのけてください。」と、ひどく怖れ、苦しみもだえ、地面にひれ伏して祈られました。 「わたしと父とは一つである」と語り続けられたイエスが、父なる神の裁きの下に「死」を迎えることの苦悩がそこにあるのです。 「死」が父なる神との永遠の断絶であると知り尽くしておられるがゆえに、怖れ悩まれたのです。 父なる神に従わなかったことのないお方であるがゆえに、私たち人間に代わって引き受けるその「死」を前にして「死ぬばかりに悲しい、心騒ぐ」と吐露されたのです。 私たちが忘れてはならないことは、そのような時にこそ、イエスが時間を割いて一人で祈っておられるという事実です。 「父よ」と呼びかけて、父なる神との交わりを失わないよう祈っておられるということです。 当時のユダヤ教では、「父よ」と直接呼びかけることなど考えもつかないことでした。 主イエスはその深い怖れや苦悩を担ったまま、ご自分に与えられた務めを果たすことによってご自分の願いを克服しようと激しく祈ります。 「しかし、わたしはまさにこの時のために来た。 父よ、御名の栄光を現わしてください。 わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 これが、その時の主の祈りです。 私たちに与えられている「主の祈り」は、父から見捨てられるという深い怖れと苦悩を抱えたまま、父のみ心である与えられた務めを果たすことで、父の栄光が現れることだけを願う「祈り」です。 私たちはこの祈りを主とともに、主の祈りに添えて、神のみ心に従おうとしてささげているのです。 
 主イエスは、「今こそ、この世は既に裁かれる。 この世の支配者たちは追放される。 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる。」と言っています。 主イエスの贖いの死によって、「既に」私たち人間の罪が赦されたのです。 しかし、私たちの見える目にはそうは見えません。 「本当ですか」と疑いたくなります。 しかし、一回限りの救いの業は成し遂げられたのです。 そして十字架に架け上げられて、よみがえりの主として永遠の世界に上げられたのです。 今もなお聖霊の主として働いてくださっているこの主イエスが「再び」来られるその時までを、私たちは今歩んでいます。 ですから、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。 暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。 暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と、私たちに決断を促しているのです。 私たちに与えられている時間は貴重です。 私たち人間は生まれながらのままでは、真の光を持ち合わせていません。 暗闇を歩む者です。 光を受けなければ見ることができません。 その為には、光の前に恥ずかしくても立たなければなりません。 自分を光の中に投げ込まなければ、光を信じなければ光の子となることができません。 私たちは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と言われたこのお方を、うちに宿らせなければ光の子となることはできないのです。 

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