「生きた教会とは」 使徒言行録9章26~31節
使徒言行録は、イエスのそば近くにあってイエスがどのようなお方であるのかを直接見てきた使徒たちが、イエスが天に戻られた後、どのようにして群れをつくっていったのか。 その使徒たちが宣教し、信者を仲間に加えていったその姿と、加えられていった信者がどのような教会生活、信仰生活を送っていったかを語っています。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を得る。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 このみ言葉から最初の教会の宣教が始まり、初めは12人の使徒たちから、その後、ステファノ、フィリポ、パウロなどを通して多くの信徒たちが加えられていきました。 9章31節に、「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」とあります。 ステファノは石を投げつけられ殺された最初の殉教者でした。 フィリポは素晴らしい働きをしたサマリアから、寂しく何もない、荒れ果てた地に主に従って遣わされて行った者でした。 パウロはキリスト者を迫害する指導者から転換し、キリスト者の群れの働き人となったが、なかなか人びとに受け入れてもらえなかった者でした。 しかし、これらのキリスト者の戦いの中にあっても、新しく立ち上がった生まれたての教会は、「一つの教会」(エクレシア)として、「平和を保っていた」というのです。 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とイエスが約束された平和とは、「この世が与えるような平和ではない。 心を騒がせるな。 おびえるな。」と言われた平和です。 戦いの中、悩みの中、心騒がせる中にこそ与えられる「イエスにある平和」です。 イエスと共にある、このお方によって救い出されたという確信の中に、「一つの教会」となって「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」のです。 たくさんの信者が群れに加えられたサマリアを、フィリポは離れたくなかったでしょう。 しかし、フィリポは何が何だか分からない状態でも、「行け」と言われる主のみ言葉に従うのです。 そこに、フィリポと同じように主が働きかけ、導き出した人物に出会うのです。 この二人の交わりの幸いは、「主を畏れて」従ったことによって与えられたものでした。 主が導いたその場所でバプテスマが起こされ、新しい宣教の道が開かれていったのです。 最初の群れはこのことが分かるまで、「聖霊の慰めを受けていた」と表現されています。 ステファノが自分に石を投げつけている人びとに、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈る姿を失わなかったのも、パウロがまったく正反対の働きに導かれ、受け入れられなくても「ますます力を得てイエスが救い主であることを論証し、ユダヤ人たちをうろたえさせた」のも、聖霊の慰めがあったからでした。 生まれたての教会がユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にまで拡がっても、「一つの教会」としてイエス・キリストの平和の中に保たれていた。 人を恐れることなく、主だけを畏れて、主に従い、主のみ心だけを尋ねていくことができた。 どのような戦い、悩み、恐れ、煩いの中にあっても、彼らはよみがえられたイエス・キリストの霊によって慰められていた。 この土台が固められ、教会は発展し、信者の数が増えていったと語っているのです。 この聖霊が注がれた使徒たちの宣教を通して、その使徒たちの証言である聖書のみ言葉を通して、今もなお、私たちをそばに呼び寄せ語ってくださっています。 どうにもならなかった私たちをつくり変え、生まれ変わらせてくださっています。 その一人一人の群れが、今日の教会となっています。 その土台は、イエス・キリストであり、このお方に対する私たちの信頼です。
[fblikesend]「父なる神にささげる祈り」 ヨハネによる福音書17章6~19節
十字架のために捕らえられるその直前にも、イエスは父なる神に祈っておられます。 ご自身のこと、この世に残される弟子たちのこと、そして、これから遣わされる弟子たちによってご自身を信じる人々のためにも祈っておられます。 その中で6節から19節の、後に残される弟子たちのことを祈っておられる「祈り」に注目したいと思います。 イエスは弟子たちのことを、「世から選び出してわたしにくださった人々」、「父なる神のものであったものからわたしに与えられた人々」と言います。 その弟子たちは、父なる神から受けたみ言葉が伝えられた者、そのみ言葉を守った者、受け入れた者、そのみ言葉に生きた者であると言うのです。 確かに、この弟子たちは目に見える形で父なる神がどのようなお方であるのかを、イエスを通して知りました。 父なる神のみ言葉が、イエスを通して与えられました。 イエスは弟子たちのことを、「父なる神がわたしをお遣わしになったことを信じるようになった」と言います。 そのイエスが弟子たちのために、「お願いします」と父なる神に祈ってくださっています。 その祈りは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」 それは、「わたしたちのように、彼らも一つとなるため」と言うのです。 「わたしたちのように」、「父なる神と子なる神が一つであるように」です。 この弟子たちがイエスを通して、父なる神と結ばれるようにして一つになるよう祈っておられるのです。 私たちは与えられている賜物も、姿も、生い立ちも違います。 個性も違います。 考え方も、物事の進め方も違います。 それがすべて一つになる、同じような人間になることは不可能です。 しかし、イエスはそれらの違いを超えて、イエス・キリストに結ばれて一つになるという一点において、私たちは一つになることができると言います。 私たちは、ひとりの罪人としてみ前に立っています。 その罪がすでに赦されています。 その恵みに与かるようにと招かれています。 これがイエス・キリストに結ばれて一つになることの、唯一の根拠ではないでしょうか。 イエスは、それは「聖書が実現するためです。 ご自身の喜びが私たちに満たされるためです。」と祈ります。 み言葉が語られ、伝えられ、受け入れられ、信じられるところに、そのみ言葉が成し遂げられる。 イエスが父なる神との交わりの中で味わっている喜びに満たされると言うのです。 そのために、「守ってください」と父なる神に祈ってくださっているのです。 もうひとつイエスは祈っておられます。 「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってください。」 「悪より救い出したまえ」という主の祈りです。 愛する弟子たちを、この世から取り出して守ると言っているのではありません。 この世にあって生きることができるように「悪より救い出したまえ」と祈ってくださっているのです。 この世から選び出して守ってくださいという祈りとともに、もうひとつ、神のご用のためにささげられるようにと祈っておられるのです。 この世から選び出す祈りとともに、再び、この世に送り出す祈りが込められています。 この世を愛し、すべての人を救い出すために遣わされたイエスは、失われた父なる神の民を取り戻すために、私たちを再び送り出すのです。 この世とは、自分の力に依り頼む人びとの世界、神を必要としない世界です。 ですから、イエス・キリストを無用として捨てたのです。 ですから、イエスは父なる神に、このような世にあって、「弟子たちを、私たちを悪い者から守ってください」と執り成すのです。 守るだけではない、ご自身の民を取り戻すために、神に属する者、聖なる者として再び送り出すのです。 私たちが、この務めにささげられる者となるため、イエス・キリストにあって一つとなるためです。
[fblikesend]「天の国はその人たちのもの」 マタイによる福音書5章1~12節
イエスのもとに集まって来た人々は、この世の幸いから見離されたような人々、貧しく、弱く、無力な人々でした。 そのような群衆をよくご覧になって、その代表として、また、その群衆に遣わされていく弟子たちに、直接、語られたイエスのみ言葉。 ガリラヤで始められた宣教活動の初めに、「幸いである」という祝福の言葉をもって福音を語られたイエスのみ言葉。 それが、今日の聖書箇所のみ言葉でした。 イエスは、「幸いである」という人を、「心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、義のために迫害される人々」と、この世の道理では真逆の人びとのことを言います。 また、「柔和な人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々」には、そのことを貫き通すことには困難を極める、克服するには覚悟が要求されることが容易に分かります。 しかし、イエスは、そのような人々を「幸いである」と、新しい世界をお示しになりました。 最初に、「心の貧しい人々は、幸いである。 天の国はその人たちのものである。」と言われています。 イエスは、心を貧しくしなさいとか、豊かにしなさいと戒めておられるのではありません。 あなたがたの心の貧しさのゆえに、「幸いである」。 すでに心の貧しさを知っているので「幸いである」と、弟子たちに向けてその祝福を語っているのです。 「心の貧しい人々」とは、「霊の貧しい人々」、「霊において貧しい人々」とも訳すことができる言葉です。 人間には、神を求める「霊性」があると言われています。 大人も子ども例外なくです。 この神を求める「霊性」の貧しさを知らない人は、神を求めることも、神を感じることさえできません。 神を求めるという霊において、その貧しさが分からないからです。 しかし、神に依り頼む人は、益々、神を求める霊性が増し加えられます。 神のもとを離れてしまった本当の自分の姿に気づかされます。 神のもとを離れてしまう苦しみ、悲しみ、痛みを更に憶えます。 自分の中の奥深くに巣くう「罪」に敏感になります。 この自分の貧しさに気づいて、神のもとへ立ち帰った人々、あなたがたは神との交わりを回復したのである。 自分で自分を救うことなどできないと、その自分の貧しさを神の前に知ったのです。 ですから、「あなたがたは幸いである。 天の国はすでに、この私とともに来ている。 あなたがたのものである。」とイエスは言われたのです。 マルティン・ルターは、十戒の第一の戒め「わたしをおいて、ほかに神があってはならない」という戒めこそ、自分を誇らず、神の恵みによってのみ生きることを語る、「まことの貧しさ」であると言っています。
神の豊かさは、私たちの貧しさのなかに働かれます。 ですから、イエスは貧しい人たちのところへ、悲しみ嘆いている人たちのところへ出かけて行って、共に歩まれたのです。 私たちのもっているちっぽけな、吹けば飛ぶようなはかない誇りにしがみついている時には、決して経験することのできない大きな豊かさを知ることができる。 だから「あなたがたは幸いである」と、祝福してくださるのです。 この世とは、まったく逆の価値観をもって、イエスは「天の国はその人たちのものである」と宣言されました。 私たちは、この語りかけておられるお方のみ言葉を受け入れることもできるし、否定することもできます。 私たちは、信じるようにとこのお方に招かれています。 あなたがたは信じることもできるし、自分たちの貧しさを凌駕する神の豊かさを体験することができる。 だから、「喜びなさい。 大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。」と言われたのです。 「自分を空しくして、受け取りなさい。 喜びなさい。 大いに喜びなさい。大きな恵みがある。」と言われたのです。 私たちは、イエスの口から直接語られたこのみ言葉を、信じる者の群れでありたいと願います。
「みこころの天になるごとく」 ルカによる福音書22章39~46節
十二弟子のうちのひとり、イスカリオテのユダが裏切って、イエスをまさに捕らえるその直前に、イエスが最後に弟子たちに教えられたことが「祈ること」でした。 その祈りが、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りでした。
地上での最後の場面にもかかわらず、ルカは「いつものように」、「いつもの場所」に行かれたと言います。 その場所はオリーブ山でした。 イエスは、そこを祈りの場所としておられました。 当然、その場所をユダは熟知した場所であったでしょう。 まるで、ユダが大祭司の手下を連れてやってくるのを、イエスは待っておられるかのようです。 そのような時に、イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたのです。 そして、弟子たちと離れて祈り始められました。 ご自身の「祈りの姿」を見せるため、ご自身の「祈りの言葉」を聞かせるためでした。 剣を置いて「祈りなさい」と弟子たちに言われただけでなく、父なる神を仰ぐ「祈りの姿」を見せて、赤裸々に語られる「祈りの言葉」を敢えて聞かされたのです。 イエスの「祈りの姿」は、ひざまずいて祈られています。 「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られて」います。 いつものように、いつもの場所で祈る時と場所をもっておられます。 「汗が血の滴るように地面に落ちる」までに祈っておられます。 「祈りの言葉」の内容は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」というものでした。 イエスが「取りのけてください」と切に願うその「杯」こそ、イエスにつきつけられたままの「杯」です。 何度イエスが祈っても、答えの返って来ない「杯」です。 神ご自身が、愛するみ子の願いを聞き入れることのできない、イエスと共に苦しんでおられる父なる神の沈黙です。 ですから、「汗が血の滴るように地面に落ちる」までに祈られたのです。 そしてついに、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りに達したのです。 そこには、父なる神には間違いがないというイエスの「信頼」があります。 「御心のままに」というイエスの「服従」があります。 父なる神は、私たちの「信頼」と「服従」によってご自身の御心を果たされます。 その御心は、必ず私たちのうえに、私たちを通して現わされます。 この「祈りの姿」と「祈りの言葉」を、これからこの世を去って父のもとに帰るにあたって、遺される弟子たちに伝えたのです。 この最後の祈りを終えて、ユダの裏切りに身を委ねられたのです。 これが、祈りの中の祈りと言われる、ゲッセマネの祈りです。 御心が分からない苦しみが、私たちにはあります。 答えが与えられないから、苦しいのです。 確信の祈りに至らされたイエスに、父なる神は「力づけた」とあります。 神はイエスに、その「杯」を取りのけたのでも、過ぎ去らせたのでもありません。 この「杯」を乗り越えることのできるようにと、力を与えてくださったのです。 祈り終えたイエスは立ち上がっておられます。 ですから、イエスは相も変わらず「眠り込んでいる弟子たち」に、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と重ねて言われたのでした。
「母と子の祈り」 サムエル記上3章1~11節
ある人物の少年時代の姿です。 この人物こそ、イスラエルのダビデ王朝を造り上げるという大きな役割を果たした人物です。 主の言葉を厳しくとも隠さず語り告げ、初代の王サウルに油を注ぎ、二代目の王ダビデに油を注いで、イスラエルにダビデ王朝を備えた預言者サムエルです。 そのサムエル少年が、「祭司エリのもとで主に仕えていた」とあります。 しかし、この時代は「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」のです。 当時の指導者たちは、神の言葉に聞く者がいなかった。 神の言葉を包み隠さず語り告げる預言者もまた、まれでした。 しかし、聖書は「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた」、「サムエルが主に仕えていた」と語っています。 私たちの主は、直接、ご自身の言葉によって私たちにご自身を現わそうとされるお方です。 直に語りかけてくださる交わりを、心から喜んでくださるお方です。 そのために、直接「祈ること」が私たちに赦されています。 ここにあるサムエル少年の姿を見てください。 幼いながらも、「神の箱が安置された主の神殿」で祈りをささげ、礼拝をささげて神のそば近くにいます。 「サムエル」と直にその名を呼ばれる主に、「ここにいます」と祈りで答えています。 しかしサムエル少年には、それが主の声だとは分かりませんでした。 先生である祭司エリの声だと思った。 ですから、エリのもとに急いで走って行って、「お呼びになったので参りました」と言っているのです。 そんなことが三度もありました。 それは、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」からであると、聖書は言います。 そうであるなら、主のことが未だに分からなくても、主の言葉が未だに示されていなくても、主は私たちの名を呼んでくださっている事実を、このことは示しています。 祭司エリは「サムエルを呼んでおられるのは主である」と悟り、「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いております。』と言いなさい。」と、サムエルに教えたのです。
祈りには、二つの祈りがあります。 「僕は、話をします。 主よ、どうぞ聞いてください。」という私たちの「語りかける祈り」と、「主よ、お話しください。 僕は聞いております。」というエリがサムエルに教えた「聞く祈り」です。 私たちの祈りは徹底的に「聞いてください」という祈りです。 しかし、三度も呼びかける主の並々ならぬ思いを悟った祭司エリは、主の言葉を静かに聞き取る祈りをサムエルに教えたのです。 そのサムエルに、そば近くに立たれた主の四度目の呼びかけが届いたのです。 「どうぞお話しください。 僕は聞いております。」 これが少年サムエルの祈りです。 この祈りは、祭司エリに整えられた祈りでした。 それと同時に、サムエルの母ハンナの「待ち続ける祈り」の結晶でもありました。 子どもの与えられないハンナの「私に子どもを与えてください」という祈りが、「自分に子どもが与えられるなら、その子は主に仕えるためにおささげします」という祈りに変えられた母ハンナの「待ち続ける祈り」です。 私たちの身に起きるすべてのことが、主のみ業に結びついています。 語りかけておられる主の声に応える私たちの小さな祈りもまた、主のみ業に結びついています。 たとえ、私たちの求めるものが間違っていたとしても、求める方法ですら間違っていたとしても、私たちの主の名によって主のみ心に適うものに変えてくださるのです。 私たちの小さな祈りが、主の大きなみ業に結びつけられていくのです。 すべてご存じのお方の声に、「主よ、お話しください。 僕は聞いております。」と耳を傾けることです。 祈りは、主と私たちとの交わりです。 主のみ言葉に聞いて、それに応える私たちの働きです。
「三度目に現れた復活の主」 ヨハネによる福音書21章1~14節
ひとりの女性の「わたしは主を見ました」という証言から、驚くべき復活の事実が拡がっていきます。 この証言にも、弟子たちは信じようとはしませんでした。 ユダヤ人たちの追手を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて家の中に閉じこもっていたのです。 弟子たちの閉ざされた心を乗り越えて、よみがえられたイエスが入って来られて、真ん中に立って、ご自身の手とわき腹をお見せになったのが弟子たちに現れた最初の光景でした。 「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われ、息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい。」と言われたのでした。 それでも、トマスに代表されるように、「あの方の手に釘の跡を見、この指を入れてみなければ、わたしは決して信じない」と本音で思っていた弟子たちは、相も変わらず家の中に閉じこもっていたのです。 その弟子たちに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたのが、二度目の光景でした。 そして、これらの弟子たちに三度目に現れたのが今日の聖書箇所です。
その三度目の場所は、弟子たちがかつての日常生活に戻っているかのような場所でした。 ペトロの呼びかけに様々な弟子たちが一緒になって、魚を取りに舟に乗り込んでガリラヤ湖に行く。 聖書が語る「舟」とは、弟子たちの群れを象徴します。 手慣れたガリラヤ湖であったにもかかわらず、一晩中、かつてやっていたと同じような漁の仕方で試みたが何も取れなかった。 その弟子たちの姿を、イエスは岸辺に立って、その一部始終をご覧になっておられたのです。 弟子たちは、そのイエスに気づきません。 その弟子たちにイエスの声が届きます。 「子たちよ、何か食べるものはあるか。 舟の右側に網を打ちなさい。」 これが、その時のイエスの言葉でした。 聖書の言う「右側」とは、神の側のことです。 弟子たちの群れが一緒になって、かつてのような漁をしていた。 しかし、それは神の側の働きではない、 舟の左側に網を打っている。 一晩中、全力を傾けても、彼らが望むものは何も得ることができなかった。 しかし、神の側に目を向け、網を下ろしなさいとイエスは言われたのです。 それがイエスの声だとは分からなかったけれども、聞えて来た声の通りに網を打ってみると、網を引き揚げることができないほど多くの魚がもたらされたと言うのです。 その「しるし」を見て、弟子たちは岸辺で叫んで折られたお方がイエスであることを知ったのです。 私たちは、復活の主が現れる時、それがイエスであると直ちには分かりません。 イエスの方から私たちに働きかけられて、そのよみがえりの霊を吹き入れられて初めて、その出会いが始まります。 そして、私たちがその呼びかけに応えて、従って行って初めて、その存在が分かります。 弟子たちは喜んで、岸辺のイエスのもとに戻ってきたのでしょう。 そこには、炭火が起こされていた。 その上には、魚がのせてあった。 そして、よみがえられたイエスが、そこで待っておられた。 そのイエスが、「今とった魚を何匹か持ってきなさい。」 「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と招いてくださったのです。 恵みの大きさが大事なのではありません。 私たちがどれだけ、イエスが与えようとしてくださっているものを受け入れたかどうか。 み心に応えて従ったかどうか。 イエスは、「人間を取る漁師」にするために、決して破れることのない網を用意してくださっているのではないでしょうか。 そのために、「わたしもまたあなたがたを遣わす。 ですから、聖霊を受けなさい」とイエスは言われたのです。
「復活のいのちに生きる」 コリントの信徒への手紙二 4章16節~5章5節
順風満帆であったユダヤ教の指導者であったパウロが、よみがえられたイエスに出会い一変したその生涯には、次から次へと苦難と絶望が訪れました。 牢獄に囚われ、最後には殉教の死を迎えたと言われているパウロでした。 傍から見れば、愚かな、損な人生を自ら選んだ人と見えるでしょう。 そのパウロが、「だから、わたしたちは落胆しません。」 それは、「たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていく」からであると言います。 これはどういうことでしょうか。 「外なる人」とは、死に向って行く私たちの肉体のことを語っているのでしょう。 年齢を重ねるにつれて、この「外なる人」のもろさ、はかなさを私たちは痛感します。 しかし、パウロは、その「外なる人」の中に、「内なる人」がある。 それは、日々新たにされると言うのです。 パウロはこのことを、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」 「この土の器の中に、神のもとからくる並外れて偉大な力を納めている」とも表現しています。 イエスによってもたらされた復活の力が、パウロの「からだ」の中に生きているからです。 そのことを、「キリストがわたしの内に生きておられるのです。 わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)と言っています。 パウロは実に、「イエスの復活」がもたらした、「自分自身の復活」を実体験していたのです。 ですから、「わたしたちの一時の軽い艱難とは、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらされた」と証言できたのです。 私たちは、自分自身の「からだ」を見つめれば見つめるほど落胆します。 絶望もします。 目に見えるものが、落胆、絶望させるのです。 しかし、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」、それがイエス・キリストの復活であった。 これに与かることが「比べものにならないほど重みのある」恵みであった。 「私たちの復活」の初穂が、「イエスの復活」であった。 ですから、「わたしたちは落胆しません。」とパウロは宣言したのです。
「内なる人」が日々新たにされていくとは、私たちが素晴らしい姿に変身することではありません。 どこまで行っても、「土の器」に変わりはありません。 しかし、この「土の器」こそ、神が息を吹きかけてくださった「からだ」です。それは、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」(4:11)です。 そのために、私たちの「からだ」が用いられるのです。 「比べものにならないほど重みのある」神の創造の業が、この取るに足りない私たちの小さな存在を日々新たにしてくださるのです。 このはかない、もろい「外なる人」を通して、神の業が現れると言うのです。 パウロは苦しみもだえている「外なる人」のうえに、やがて着ることになる「内なる人」を、今、苦しみの中に着ていると言っています。 イエスこそ「外なる人」をかぶせられて、ただ黙って苦しみを引き受けて神のみ心に従ったお方でした。 そのイエスが復活させられて、私たちの復活の初穂として、命を与える復活の霊となってくださった。 人間の「からだ」をもったイエスの中に、この「並外れたよみがえりの力」が隠されていた。 そのことにパウロは気づかされたのでした。 私たちの「からだ」の中にも、この「宝」が納められています。 私たちは、このことを伝えるために、この世に遣わされています。 この「比べようのないほどに重みのある力」、「天にある永遠の住みか」を宿しながら、苦しみもだえながらも希望をもって、「わたしたちは落胆しません」と宣言することのできる恵みが与えられているのです。
「復活のからだ」 コリントの信徒への手紙一 15章42~49節
イエスは十字架に架けられて処刑されました。 イエスを処刑にまで至らせた人たちにとっては、これで「問題の種は摘み取られた。 問題は解決をした。」と思ったことでしょう。 イエスに従い続けて来た弟子たちにとっては、「すべてが終わった」と人生がひっくり返った瞬間であったでしょう。 それが、ヨハネによる福音書によれば、たったひとりの女性の「わたしは主を見ました」というひとつの証言から、新しい歩みが起こされていきます。 すべてが終わったと思われたことが、新しい始まりとなっていったのです。 しかし、聖書が語っている「復活」は、死から生き返るという人間の現象を語っているのではありません。 「イエス・キリストというお方のよみがえり」、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言われる「イエスの復活」を語っています。
パウロは、「私たちの復活」とは、種まきとその収獲というごくありふれた自然の風景の中にある姿と同じであると言います。 創造者である神が初めに、小さな種に命を吹き入れてお造りになられました。 そこには、神の創造の意志が込められています。 その命にふさわしい「からだ」を、神は用意してくださっているはずです。 その一つずつの種を養い、それぞれにふさわしい「からだ」を与えて、収穫を待ち望まれます。 かつて、小さな種粒であったものが、それぞれに形を変えたふさわしい体が与えられて、最後に収穫されていく。 自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する。 それが、最後には神によって収穫される。 これが「私たちの復活」と同じであるとパウロは言うのです。 この神に応えて生きていく者として創造されたはずの私たちが、神を侮り、自分に過信し、神なしで生きていくことができると自分勝手な道を歩んでしまった。 それをもう一度、取り戻すために、神のもとから遣わされたお方が、「最後のアダム」と記されているイエスです。 この十字架に架けられ、よみがえられたイエスが、神のもとを離れてしまった私たちを回復させるために、「命を与える霊になられた」と表現されているのです。 残念ながら、生まれながらの私たちには、このような霊が備えられていません。 これは神に属するものです。 神から与えられる特別な賜物です。 この「与えられる霊」の命にふさわしい「からだ」が、「霊のからだ」です。 イエスはこのために、私たちと同じ「自然の命のからだ」をお取りになって、この地上の生涯を歩み、もとの神の国に属するものになるのにふさわしい「霊のからだ」となって戻ってくださったのです。 「私たちの初穂」となって収獲されるための「よみがえり」でした。 これが、「イエスの復活」の意味です。 私たちは、このイエスの新しいからだ、「霊のからだ」に与かることができるようになった。 この約束の希望に生きていくことができるようになった。 このことが、「私たちの復活」の意味です。 ですから、私たちの生涯は、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには、卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する。 イエスに似た者となる。」とパウロは言うのです。 最初のイースターは、絶望と敗北の中に訪れました。 悲しみと恐れの中に、信じることができないようなところに訪れました。 そこに、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する」という神の約束と希望が与えられました。 なぜなら、そこには、イエス・キリストという「命を与える霊」がともにあるからです。 私たちには、この神の約束を信じる「信仰」がすでに与えられています。 それが必ず果たされるという「希望」が与えられています。
「最後の晩餐でなされたこと」 ヨハネによる福音書13章1~11節
これからの顛末がどのように向っていくのかすべてご存じであったイエスが、最後の夜を迎えて弟子たちとともに夕食をとられています。 食事をともにしている弟子たちは、本当に様々でした。 祭司長たちと取引をして銀貨30枚でイエスを裏切る手配を終えたユダがいます。 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。 あなたのためなら命を捨てます。」とまで言いながら、イエスを裏切ってしまうペトロがいます。 「あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。 どうして、その道を知ることができるでしょうか」と、イエスのみ心を尋ねず開き直るトマスがいます。 「わたしたちに御父をお示しください。 そうすれば満足できます。」と、イエスに要求するフィリポもいます。 イエスはこのような「世にいる弟子たち」に囲まれて、今、夕食の席についています。 イエスを裏切る、イエスを見離す、イエスを従わせようとする弟子たちに囲まれる孤独なイエスを憶えます。 「世にいる弟子たち」とは、私たちの姿です。 イエスが裁判にかけられている時、だれ一人イエスの証人に立ち上がる弟子はいませんでした。 十字架の処刑場に向かう道をともに歩いたのも、弟子たちではありませんでした。 イエスの両脇でともに処刑されたのも弟子たちではありませんでした。 イエスの遺体を引き降ろし、墓に納めたのもこの弟子たちではありませんでした。 イエスはすべてを分かったうえで、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。 その姿が、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」姿であったと、聖書は言います。 イエスは一人一人、順番に弟子たちの足を洗われたのでしょう。 イエスは裏切ることが分かっているユダの足をも洗っておられます。 イエスが洗うことを拒んだペトロの足をも洗われています。 弟子の足を洗うなど、先生であるイエスが行うようなことではないと決めつけるペトロに、「わたしのしていることは、今あなたには分からない。 後で分かるようになる。 もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と言われて、その意味を語られました。 イエスはたらいにくんできた水でもって、弟子たちの汚れた足を洗ってくださったのです。 そして、腰にまとった手ぬぐいで拭いてくださったのです。 そのために、イエスは一旦、上着を捨てられたのです。 ユダやペトロの汚れた足を直接触れてくださって、水で洗い、霊で拭きとってくださったのです。 「だれでも、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われた通りです。 イエスは水と霊によるバプテスマによって、私たちの「汚れ」を一人ずつひざまずいて水でぬぐい、手ぬぐいで拭いてくださったのです。 十字架によるこの贖いの業を、『上着を脱ぐ』と聖書は表現しています。 そして、新しい上着として『復活の命』を得ることを、上着を着ると表現しているのではないでしょうか。 ですから、イエスは「これが、あなたとわたしの関わりとなるしるしである」、「後で、霊なる力によって悟るようになる復活の出来事である」と語っておられるのです。 イエスのもとに集められたのは、罪人の集まりでした。 それぞれ異なる「汚れた足」をもつ一人一人でした。 イエスはだれ一人例外なくすべての「世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた」のです。 私たちの歩みは、このイエスの愛を受け取ることから始まります。 そして「互いに足を洗い合いなさい。 互いに愛し合いなさい。」と言われるイエスに従うなら、「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは言われるのです。 この希望と約束を憶えつつ、イースターの時を待ち望みたいと思います。
[fblikesend]「一粒の種になられて」 ヨハネによる福音書12章20~26節
「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」と書かれています。 イエスが十字架にかけられる、その直前です。 イエスが「ろばの子」に乗ってエルサレムに入って来た、その直後です。 ユダヤ人ではない異邦人たちもまた、この祭りに礼拝するために来て、しきりにイエスに会いたがっています。 その願いを直接イエスに訴えるのではなく、ギリシアにゆかりの深いガリラヤの町ベトサイダ出身の弟子フィリポとアンデレにその願いを託します。 「お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです。」 これが異邦人たちの切なる願いでした。 その時に語られたイエスの言葉が、「人の子が栄光を受ける時が来た。」 そして、有名な「一粒の麦」のたとえであったのです。 聖書はなぜ、ギリシア人をここで登場させたのでしょうか。 これから起ころうとしている「イエスの十字架の苦しみと死」が、異邦人の救いにも関わりがある。 それが、「お目にかかりたい」と願うギリシア人にも、またすべての人の救いに拡がっていこうとしている。 フィリポもアンデレも、後の異邦人伝道に重要な役割を担った人物です。 「イエスの十字架の苦しみと死」が、エルサレムから異邦人の世界へ、全世界へと拡がっていこうとしている。 その理由は、一人の人間の「イエスの死」ではなく、よみがえられた「イエスの死」であるからです。 それが、終わりではなく、復活の命となって生きて働いているからです。 この「イエスの死」に結ばれて生きる者は、自分に死んで、イエスを復活させた命に生きることができるようになるからです。 このことが、死んでよみがえられたイエスを信じる者すべてに起こるからです。これが、福音の奥義です。
イエスは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せる」と言われました。 イエスが十字架に架け上げられる、それと同時に天に上げられる。 その時、イエスはすべての人を自分のもとに引き寄せる。 イエスが十字架に架けられ、死んで、葬られ、よみがえられて、天に上げられるとき、神のもとにすべての人が集められる。 そのことを、イエスは「一粒の麦」のたとえを用いて語られたのです。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 イエスは、一粒の麦が地に落ちて芽を出すという事実を、その一粒の麦が死ぬと表現しています。 一粒の麦が地に落ちて芽吹くと、多くのものが実るようになる。 ご自身の命を差し出して、死んで、ご自身の地上の命が失われるなら、そこから多くの人たちが新しい命に生きるようになると言われたのです。 もともと私たち人間は神に応えて生きる、神の息吹を吹き入れられて造られた者のはずです。 その私たちが神を見失い、地上のことだけに目や心を奪われてしまっている。 神を憶えて、応えて生きる霊性を捨ててしまっている。 この私たちを再び回復させるために、新しい芽を出し多くの実を結ばせるために一粒の麦となられて、地に落ちてご自身の地上の命を捨てなければならなかったのです。 神のもとを離れてしまった私たちの背きのために、また多くの霊なる命の実を回復させるためにご自身の死がどうしても必要であったのです。 自分を捨てることのできない私たちに替わって、イエスはどうしてもその背きを担って血を流さなければならなかったのです。 そして、私たちは、この「イエスの死」に与からなければならなかったのです。 その「イエスの死」によって、私たちは「イエスの復活」にも与かる約束をいただいたのです。 ですから、私たちはイエスに仕え、従っていく者として、愛する者のために「一粒の麦の種」になりましょう。 それは、その人のためでも、自分のためでもありません。 十字架の主イエス・キリストに仕え、従うためです。
« Older Entries Newer Entries »