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「おびただしい証人の群れ」 ヘブライ人の手紙12章1~3節

2016-11-06

 この手紙は、相次ぐ試練に直面した一世紀ころのキリスト者たち、特にユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者たちに書き送られた励ましと慰めの手紙です。 度重なるローマ皇帝による弾圧、言われなき中傷誹謗によって、気力を失い、疲れ果ててしまい、もとの生活に逆戻りしてしまう危うさをもつ人たちに向けて語っています。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちはこの信仰のゆえに神に認められました。」と、「おびただしい証人の群れ」の名前を数多く挙げて、この世に流されないように、神への信頼と希望を最後まで持ち続けるようにと訴えています。 この「おびただしい証人の群れ」のひとりひとりの「証し」は、実にユニークで一つとして同じものがありません。 神の導きは、それぞれの人生に沿って本当に自由奔放です。 「このおびただしい証人の群れに取り囲まれている。 見守られている。 応援されている。」と、この手紙の送り主は自覚しています。 そして、大事なことは、「かつて信仰によって認められた彼らを導き支えられた神は、今も同じように私たちの人生に関わってくださっている。」という確信に立って生きているということです。 ですから、信仰は失望に終わらない。 信仰は希望であると訴えるのです。 
 この手紙では、私たちが走っている道を「自分に定められている競争」と言います。 人と同じ道を走っているのではない。 人と比べられるような道でもない。 定められた道を、終着点を目指して旅する生涯のことを「競争」と言います。「走る」とは、その生涯に生きるということ、その「走る」ために必要な力を「信仰」と言っているのではないでしょうか。 そのために、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と言います。 走るのに「重荷となっているもの、絡みつく罪」とはいったい何でしょうか。 走ることを止めさせようとする力、 もう「生きる」のはいいではないですかとささやく力です。 この世の抵抗や誘惑といったところでしょう。 重荷にもいろいろあるでしょう。 思い煩いこそ、最大の重荷かもしれません。 「自分に定められている競争」とは、自分の前に置かれている生涯ということでしょう。 自分にしか生きることができない道のことです。 だれかと比較しようのない人生の道です。 自分に与えられた使命に生きる。 神が望んでおられる自分にしか与えられていない道に生きるということです。 その生きる力、走る抜く力を与えるのが「信仰」です。 その走り抜く力を阻もうとするのが「絡みつく罪」です。 「重荷」です。 神の思いに従うことを妨げるもの、そのささやきをかなぐり捨てて、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と言うのです。 忍耐強くとは、ただ何もせず我慢することではありません。 何もかも諦めて受け入れるだけのことでもありません。 神の約束に従って生きる生涯には、神の大きな報いが用意されています。 それまで「待つこと」が忍耐です。歯を食いしばって私たちが我慢することではありません。 神が愛し、守り、支えてくださるから可能となる神の忍耐、神の時を待つことです。 気力を失わないように、疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された主イエスを仰ぎみれば立ち止まらないで走り抜くことができます。 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、走り抜こうではありませんか」と言います。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われた主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われたのです。 このお方とともに最後まで、神の時を「待ちながら」走り抜こうではありませんか。



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